インナーダイバーズ

アキ[Aki]


 もう、こんな時間か。ベッドの中で彼が言う。彼は月の顔をしている。時間は五時とか六時とかそんな感じで、日曜日だからマンションの外は静かだ。
 都心のド真ん中に聳える高層マンションの最上階に、彼は住んでいる。三十階には彼の部屋しかなく、つまり彼の上には誰も住まないし、彼の隣にも誰も住まない。二十畳ほどあるリビングの中央に、彼は大きなベッドを置いていて、そこからは東に朝日を、西に夕日を眺めることができた。今は夕日がオレンジ色だ。空を行くジャンボジェットの翼も、金色に輝いている。
 リビングの隣の寝室には、古代魚が棲んでいる。彼の心の中にはいろんなものが棲んでいる。私の心の中にもいろんなものが棲んでいるのかもしれない、もちろん。でも私は自分のことをあまり深くは考えない。そういう習慣がない。私は彼を見る。彼の表情や、言葉や、仕草に現れるさまざまな色彩、それを読む。そうすると、世界が少し揺らぐのだ。軽い地震が起こったかのように、私の人生が少し揺れる。何度も何度もそうした小さな揺れが起こって、私はそれに慣れた。いつか決定的な揺れが来るかもしれない。何もかもが壊れてしまうかもしれない。そんな予感もある。少し怖い。しかし、それを見てみたい。…とも思う。

「なあなあ、アキ。オイラ、腹減った」毛布にくるまったまま、猫のような目をして彼が言う。
「そう? なんか、食べにいく?」笑って私が訊く。
「パン。食べる」こんなときの、彼の喋り方は独特だ。アニメ漫画の動物キャラクターみたいだ、と私は思う。私はベッドを出て、パンの塊とミルクを持ってまたベッドにもどる。彼は枕カバーを外し、私の膝に広げ、「ピクニックみたいだ」と笑う。私の膝に頭を乗せ、「アーン」と口を開ける彼のために、私はパンを千切る。彼の口にパンを投入すると、彼はモグモグと美味しそうにそれを食べる。
「ミルク、飲む?」
「いらん。今はいらんねん」時に応じて好んで使う関西弁で彼は答え、つぎのパンの一かけらを要求する。「鯉やねん。ここは池で、オイラ鯉。鯉はパンが大好きや。モグモグ」
 私は笑ってしまう。こういうときの彼を、私は可愛いと思う。私の胸をサンドバッグに見立てて、(パンチ! パンチ! しゅ! しゅ!)なんてやってるアホっぽい彼は、私を安心させるのだ。
 パンを千切って私は食べ、ときどき彼の口にパンを入れてやりながら、初めて彼に出会った朝を思い出す、ひどくぼおっとした気分で。


 その朝は編集会議があった。朝といっても、午前十一時だけど。
 私達雑誌編集者の時間は、世間の常識とは別に四つに分類される。[朝]と[午後イチ]、そして[夜早め]と[夜遅め]。[朝]というのは午前十時からお昼くらいまでの、我々がめったに活動しない時間帯を指す。[午後イチ]というのは午後一時から三時くらいまでで、取材のない日、我々は少しゲンナリとしている。[夜早め]は夕方六時から夜中十二時くらいまでをいい、これが我々の主たる活動時間帯だ。[夜遅め]はそれ以降の、夜半から朝日が昇るまで。締切前は原稿用紙に向かい、それ以外はバーカウンターに向かっている。
 ん? 待てよ…。いいな、そういう文字盤の時計。【読者プレゼント】の企画にならないかな? 数字がなくて、四分割だけしてある文字盤。〔四種類のアバウトな時間割。遅刻に無縁の、なりゆきウォッチ!〕…ダメかな?
 たいていは活動を停止し、分厚い遮光カーテンに守られ、安眠しているはずの朝十時、私は小走りに出勤していた。今月号の企画案は、既にメールで送信し終えていた。が、まだ会議開始まであともう少しあるこの時間に、斬新な企画の一つや二つが思い浮かばないかと、習性化した足掻きを私は足掻いていた。
 どうしようかな? と思ったけど、(今日は少し時間あるし、腹拵えしていくか?)オメガの腕時計にチラリと目を遣って、私はコーヒーショップに入る。カフェラテとシナモンパイ。日差しが気持ちよかったので、外で食べる。頭はずっと、今月号の企画を探している。
 名前を出せば誰でも知ってる、月間情報誌の編集者になって七年目。編集なんて三年もやってりゃ、もうベテランだ。五年もやったら、脳硬化症に陥ってプランなんて書けないし、十年経ったら若手に圧し掛かる漬物石。私の上にも編集長という名の漬物石が乗っていて、私は糠にドップリと浸かっている。新鮮なだけで食ってもらえるなんて思うなよー。記事ネタもなー。女もなー。味で勝負なんだよー。漬物石の口癖。
「オメーにだけは、味見されたくねーよ!」思わず声に出た。小さな声だったけど、白昼の独り言だなんて、言ったのが私じゃなかったら、私は軽蔑してしまいます(ほほ)。誤魔化すようにカフェラテのカップに口を寄せる私を見て、その日その時、正面から笑い掛ける笑顔があった。
 太陽が向こう側から照っていた。逆光で笑うその顔の周囲には、五月の青葉がそよいでいて、その瞬間に私は思った。ああ、今この一瞬をフィルムに収められたら。(私の瞬きがシャッターだったら…)なーんて、企画に飢えた糠塗れの職業意識が、少女漫画的退行を引き起こし、私はそう思った。バカみたいだ。
 太陽の光が回り込み、正しく浮かび上がったその笑顔の持ち主を見て、私は更に思った。ホント、バカみたい。少女漫画には登場しない顔だ。凡庸。悪役にもなれない。その思いは、私の表情にも出たはずだ。でも、ミスター笑顔は更に笑顔を深くして、私にその笑いを近づけると、言った。「オレは…」   
 その目が私の目を覗きこむ。まるで窓越しに部屋の中を覗くように。軽く眉を上げ、遠慮しながらも、好奇心を抑えられない子供のような目つき。私は、着替えを覗かれた更衣室の高校生みたいに狼狽えた。
「味見してみたい」キッパリ言った。断言した。妙に真面目な声音で怖かった。女の子を口説く、道化師の声ではなかった。少し大袈裟に言うなら、地の底から響くような音だった。血の匂いが混じったように、やや暗く湿っていた。「味見して…」まで彼は笑っていて、「みたい」と発音して口を閉じた時、彼はもう笑ってはいなかった。少し怒ったような、挑むような、別の表情に変わっていた。寂しそうにも見えた。
 でも、それも一瞬だった。私は彼の表情を細かく観察しながらも、同時にその無遠慮で反社会的で、失礼千万な奇襲に対する、防衛的措置を瞬時発動したから。私の視神経が彼の表情を観察する一方で、私の反射神経はカフェラテを彼にぶちまけていた。彼の白いシャツが汚れた。熱いカフェラテを浴びて、彼は一瞬キョトンと目を丸くした。
 私は言い放った。「どう? 美味しかった?」
 彼はすぐに笑いを取りもどした。嬉しくてしかたない、といった笑い方だった。顔を私に近づけた。小首を傾げて、今度は少し寂しそうな、懐かしそうな、違った種類の笑顔に切り替えて、そして言った。「よく…」真面目な表情にスイッチ。「わからない」と語り終えたときの彼の表情はまたもや真剣だった。
 私はついに本気で恐怖を覚えた。もしやネジの緩めなお方では?
 彼は私の向かいの席に座ると、穏やかな微笑に知性を滲ませ、私のネジに対する不信を、一応は解いてくれた。
 「よくわからない。まだわからない…」頬杖を付いて彼は言った。「でも知りたい。君の中のこと」
…中のこと? 「ナンパですか? それとも、完全にネジ抜けてます? 私、これから出勤なんです、ごめんなさい、時間ないの。コレ、お洗濯代です…」言いながら私は財布を開いて、お札を引き出す。「突然ひどいこと言われてびっくりしてしまって…。それと私、今考えごとしてて。アドレナリンだか、ドーパミンだか、わかんないけど、そうゆう物質出まくってて…。熱くなかったですか? ホント、ごめんなさい」 
 私の出したお札は見ずに、彼は真剣なトーンで応えた。「時間がないのはわかるよ。見てたから…」そう言って通りの向こうを指し示す。「向こうから走ってきて、君は少し考えて、時計を見て、そしてキリリと決心してこのショップに入り、慌ただしくパンを齧り始めた。考えごとしてたのもわかる。初夏の気持ちいい風が揺らす青葉にも気づかず、呆然とコーヒー飲んでた…」彼は彼の背景を飾る青葉に手を差し伸べ、挑戦的に笑いながら話し続ける。「ナンパじゃないけどナンパでもいいよ。クレイジーだとは思うけど、君が心配するような危険人物でもないよ。病院から逃げてきたわけでもない。ちゃんと社会生活だって送ってる。その証拠に僕だって、今、出勤途中なんだ、エヘン。この時間に出社するような人間だから、まあマトモな人種じゃないかもしれないけど、お互いにね」
 嫌い、じゃなかった。こういう展開はドラマティックに過ぎるし、つまりウソ臭い。でも、目の前の男は、恋愛ドラマの悪役としてはミスキャストに思えた、主人公としてももちろん。何かの勧誘だとしても、嫌なら断ればいいだけのことだし。
 私は興味を持った。このまま、異例に早い会議に遅刻もせずに出席し、取り立てて斬新でもなない糠臭い企画を読み上げ、漬物石からの毒にも薬にもならないプレッシャーを受けるそんな私の近未来…。想像するだけでウンザリだ。今、こういう男の突然の出現は、私にクリエイティブなパワーを与えてくれる好材料に思えた。
 でも、何かが引っかかった。彼の表情や、声音の中にある異質な何かが、場面にそぐわない、妙な深刻さを帯びていることに私は気づいていたのだ。
「ねえ。じゃ今日は出社なんて止めにして、海とか、行く?」試しに私は誘ってみる。「私、近くに車あるし。でもね、知らない人とのいきなりのデートは、こんな私でも、実は少しは怖いのよ」と冗談めかして続ける。「ハンカチで手錠、掛けてもいい? 歯で噛み切ったりしないで、大人しく助手席に収まっててくれる? 警戒警報解けたらほどくから」
 彼は首を傾げて笑う。
「ねえ、だけど一つだけ確認、いい? あなた病気とかじゃないわよね。違うの、心の病気とか、そういう意味じゃないわよ。あなた確かに変わった接近の仕方してきたけど、マトモな目の色してるもん。そうじゃなくて、何かのガンとか、心臓のナントカとか、余命幾許もない何か重篤な病気持ってたり…っていうんじゃないでしょうね」
 彼の表情や声音の中に漂う妙な深刻さ。それが気になって私は彼に興味を持った。その深刻さはまるで、不治の病を抱えながら生きている人の寂しさと優しさに似ていた。私には、不治の病を抱えた友達なんていなかったけど、そういう人を何かの映画で観たのだ。その映画の中にそういう役で登場する人物の目に彼の目が似ていると感じたから、だから私は彼にそう訊ねたのだ。
 彼は不意を突かれたように驚いて見せた。
「いや、そういう病気は無いよ。健康診断も受けてる。でも面白いね。なんでそう思ったの?」
「あなたがなんだかそういう雰囲気だったのよ」
「ふうん、そうなんだ。初めて言われたな、そういうの…」言いながら彼は空を見上げ、「あ、ドライブね…」と残念そうに舌を出す。「それはダメだ、また今度。今日は会社行かなきゃ…」そう言うと彼はテーブルの上のカップを取り、少し残ったカフェラテをゴクリと飲み干した。「美味しかった。ごちそうさま。明日の二時、この席で。明日がNGなら、明後日の二時。僕も来れないかもしれないけど。とにかくお互い毎日二時に、お互いのコト気に留めてたら、そしたらきっとまた会えるでしょう。お互いの都合が一致した日の午後二時に、ここら辺りで会いましょう! …なんちって」最後の方を歌うように囁くように言ってのけ(けっ)、彼は歩き出した。
 けっ→へえ→ほお→ふうん。と私は思った。会社に向かって一歩歩くごとに、その感嘆は深く、濃くなっていった。糠味噌とは別の味がそこにはあった。最初その味は、彼の味だと私は思った。でも今はわかる。あの時私が感嘆した味は私の味だった。私の味が、コーヒーのように深く濃く(ははは)香ったのを、私は味わっていたのだ、あの日。
 彼は無味無臭だ。匂いも味もない。月や太陽に匂いや味を、私たちが感じないように。


薫[Kaoru]


 五月の風が好きだ。特に午後の風。開いた窓から部屋に吹き込む風が好き。文庫本のページを優しく捲ってくれるような、そんな風がいい。親切で、だけど押しつけがましいところがない。
 五月の風は引越しの匂いがする。箪笥の裏の古い埃と、四トントラックの排ガスと、サラリと薫る汗の匂い。
 父の仕事の都合で子供のころ何度も転校をした。掃除の時間、まだ新しいクラスメートに馴染むことのできない私は、バケツの水面に浮かぶ私の顔を見ている。「薫ちゃん。はい、コレ…」と誰かが背中から声を掛けてくれて、バケツの中で私は微笑む。誰かが手渡してくれた雑巾を、洗って絞って手渡すと、その誰かもニッコリと笑ってくれて。そのうち私のためのお楽しみ会とか開かれて、私も覚えたての手品なんか披露しちゃって、大して面白くもないんだろうけどみんな喜んでくれて。私は少しずつみんなの仲間になって、その集団に溶け込んで、みんなも私もニコニコして。やがてまた引越しのときがきて、私のための送別会とか開かれて。泣いてくれる友達や、ラブレターをくれちゃう男の子なんかもいた。担任の先生が目を赤くしながら大声で宣言する。「よおし! 今日は国語の授業、お休みです! みんな外に出て、ドッジボールをしよう。薫ちゃんの、お別れドッジボール大会だ!」
 飛んでくるボールを避けながら私は風を感じている。五月の風。
「みんな、薫を狙え! 薫にぶつけてやれ!」男の子が叫ぶ。
 私は最後の一人になるまで内野で風と踊っている。風のように転校してきて、風のように転校してゆく生徒。今日は内野で最後の一人になって、みんなが私を見ていてくれるけど、来月にはここの誰もが私を必要としなくなる。ほんのちょっとだけみんなに優しくされて、で、すぐに誰からも忘れ去られるのが私。
 今でも私は誰とでもすぐ友達になる。時間をかけてわかり合ってるうちに別れの時間がきてしまうかも知れない。だからすぐ仲良くなる。私は積極的な方じゃないから私から友達を作ろうとしたりはしないんだけど、いつも相手が私に声を掛けてくれて、私は背中から掛かるその声に微笑で応えて。そして、掃除や合唱コンクールが滞りなく恙なく進行してゆくように、友達関係が進んでゆく。


 ある日曜日。デパート五階の紳士服売り場。私はネクタイを手に取った。彼はいつも太めのタイをしている。斜めのストライプが多いようだ。紺かエンジ。黒いニットのタイも一度見たことがある。
「プレゼントをお探しですか?」背後から店員さんの声。
「はい。彼が六月生まれで…」私は微笑む。
「誕生プレゼントですね。今でしたら若い方にはまた比較的細身のモノが好まれていますよ。素材もこんな感じの皮素材なんていかがですか?」黒いレザーのタイを見せてくれた店員さんは、気持ちのよい笑顔で私を見つめてくれた。
「ええ。でも彼そんなに若く、ないんです。仕事用のネクタイを贈りたいので、レザーはちょっと、どうかな?」と私が答える。
「あらあら。でも最近は三十代以上の方でもこの辺のモノでしたら抵抗なくお召し頂けると思いますよ。お仕事の種類にもよりますけど…」
「仕事はデパート勤務です…」
「あ、でしたら…」
「でも、今度の誕生日で彼、五十七歳…五十八…かな?」
 店員さんの顔に三日月みたいな笑顔が宙ぶらりん。
 私は親切な店員さんが気の毒になる。「ごめんなさい。せっかく薦めてくれたのに…」
「いいえ、いいえ…」店員さんは穴にもどるザリガニのように後退して。「あの、失礼致しました…。どうぞごゆっくりお選びくださいませ…」
 私はネクタイ選びを中止して時計を見る。また彼は遅刻だ。もう一時間も遅刻している。彼の携帯に電話してみようか? でももし都合の悪いときだったら…。仕事のフリをして切れば迷惑じゃないかな?
 不倫…というわけでもないんだけど、妻子ある上司には気を遣う。デートの時には香水もつけないし、単身赴任中の彼の部屋では枕にハンカチを敷いて眠るし、バスの排水溝から髪の毛だって持ち帰る。
 あなた、それを不倫と言わずになんて言うのよ? 前に一度、似たような関係のことを友達にそう指摘されてからというもの、親しい同性の友人にも男友達のことは話さない。
 不倫ってわけではないと思う。彼は単身赴任中に独りでご飯を食べるのは寂しいんだって言うし、私には同年代の恋人もいるし。映画やご飯のお金を彼がもってくれて申し訳ないから、私はささやかな誕生プレゼントを買ったりして、少しでも彼を喜ばせたいと思う。
 彼への連絡を決意して、バッグから携帯電話を取り出し液晶の表示を見た瞬間、しまったと思う。アンテナ、立ってない。私の勤めるデパートなら、キッチリ三本立つはずの五階紳士服売り場が圏外だなんて。五階紳士服売り場で午後六時、携帯にて連絡を取り合いましょう、が約束だった。彼はもう来ていたかもしれない。私の携帯が圏外で、彼は私を捜しているかもしれない。
 私はアナウンスを利用することにした。

「本日は、当、デパートに、ご来店、頂きまして、誠に、有難う、ございます。東京都、よりお越しの、ヒロスエハルキ様。お連れ様が、五階本館、紳士服売り場横、御案内カウンター前、にて…」一語一語噛み締めるような声が店内に響き、しまったと私はまた思った。叱られるかもしれない。
 私の名は告げていないし、〔東京都のヒロスエハルキ様〕だけで彼が特定される訳でもない。けど平日の夕方、勤務時間が終わったばかり。うちの社員がこのデパートで買い物してない、という保証もない。システム開発室室長の名前がアナウンスされ、指定の場所をふと通りかかったらそこに室員の私が立っていて…。しまった、不用意だった。スズキイチロウ様や、サトウタロウ様とは違うのだ。ヒロスエハルキなんてそうそうありふれた名前じゃない。と、思った。
 と、思ったのだけど、その日その時間そのデパートに、ヒロスエハルキは存在したのだ。当時システム開発室室長で私の友人、今は関西支社勤務にもどって家族と暮らしているヒロスエハルキさんじゃなくて、今や私の心の半分になってしまった〔広末晴樹〕…。
「やあやあ、どうも。ヒロスエハルキですが。今アナウンスされて…」案内カウンターに名乗り出たのは、レザーのネクタイ対象ターゲットたる若さの男で、私の待ち人とは全くの別人で。
 だから。
「ヒロスエ様。あちらでお連れ様がお待ちでいらっしゃいます」案内係の女性がそう言って私を指し示し、広末が私に歩みより、おどけて笑って「お捜しですか?」って私に話し掛けたそのときも、私は咄嗟に状況を理解できなかった。


 いつも背後から声を掛けられるタイプだった。正面から声を掛けられると緊張する。
 私に向かって言ってるの? それ。 私を見て私のために、私について言ってくれてるの? それ。
 私ってなんだろう?
 私はいつも、私を必要としてくれる人に必要とされて存在してきた。私を必要とするうちだけ、相手は私に優しくしてくれて、私が必要でなくなれば相手は私を見なくなるし、そうしたら私は相手から離れるのだ。私の意志で離れるのではなくて、たぶん時がきたから離れるのだ。風が吹いたから、蒲公英の綿毛が飛び立つように。私は相手から離れてまた独りになって。でもそのうちまた別の誰かの優しい声が背後から聞こえて、私は笑顔で振り向く。また私は必要とされた。また次の時がくるまで、私は相手の私でいられるのだ。私は相手の意思に私を委ね、ただしばらくそこにいる。風に吹かれてそよぐように。
「オマエには自分の意志がないのかよ!」
昔、そう言って私を殴った男友達がいた。私が室長と映画を見に行ったことについて、その友達は激しく苛立ったのだ。
「みんなと仲良くしたいんです」と私は答えたと思う。
「俺はオマエのなんなんだ?」とその友達は言い、「とてもいい友達です」と私は答えただろう。
「あのな、俺はな、オマエが好きなんだけど?」と友達は言い、「私もあなたが好きです」とたぶん私は答えた。
「男と女なんだからさ、好きってことはある意味排他的な感情なわけじゃん?」
「すみません。私、頭悪くてよくわからない」
「てかさ、なんでオマエ敬語なの? いつも…。よそよそしいんだよ、オマエ」
「すみません」私は謝る。
 私はいつも謝ってばかりいる。
「だから、俺とこうしてデートするんだったら、オヤジとはデートすんなよ、ってコト」
 デートってなんだろう? 思春期以降の男女が一緒に遊びに行くこと?
 私は室長と映画を観に行きました。その映画は私が前から観たいなと思っていた映画だったから。室長は週末、家族と離れ離れで寂しくて、映画も独りで観るとあとの食事が余計に寂しく感じられてしまうから、一緒に映画を観てご飯でも? と私を誘ってくれたのです。私は私が必要とされていることを感じました。嬉しかったです。
 ゴールデンウィーク、室長は関西の自宅から車でわざわざ会いに来てくれました。車のトランクには釣りの道具が入っていて、家族には釣りの旅に出ると説明したのだと、笑って私に話してくれました。私は、日ごろ会社で偉そうにしているヒロスエさんがヒロスエくんになったみたいで、可愛いなと思いました。私たちは湖までドライブして、本当にルアーフィッシングを楽しみました。とても楽しかったです。
「オマエ、誰でもみんなのことが好きなんだろ? それか、誰のことも好きじゃないんだろ?」
 男友達が最後に言い捨てた言葉の意味が今はよくわかる。私は同じ言葉を広末に投げた。先週のことだ。


「あなたは、誰のことも愛せる人か、誰のことも愛せない人、なんじゃない?」バージニアスリムに火を点けて私は広末に言った。
 ブラジル料理の店だった。彼はドスエキスラガーというビールを飲んでいて、私はテカテというビールを飲んでいた。二人ともビールを瓶のままラッパ飲みにしていた。そういう飲み方は普段の私らしくなかったけど、私は彼の遣り方に従ったのだ。
 彼は少しボンヤリとした表情で私を見てから、ドスエキスラガーの底を私のテカテの飲み口にコツンとぶつけて言った。「カンパーイ!」
 ドスエキスラガーの攻撃を受けて刺激されたテカテの炭酸は、飲み口から泡になって溢れ出てきて、私は慌ててそこに唇を持ってゆく。
「セクシーかも」彼が言う。
「私はいつも、こんな飲み方はしません…」私が言う。「変なの。こうやってぶつけると溢れるんだ」
「台湾のクラブで女の子がね、コロナのビールでやってくれたの…」と彼は言う。「でも瓶に残ったビールは炭酸抜けちゃってね、不味いの」と彼が笑う。
「ひどい」テカテは本当に少しだけ不味くなっていた。
「すみませーん。ビールを!」彼は店の奥に呼び掛ける。「今度は…、ソル、これにしなよ。もう変な乾杯しないからさ…」彼は新しいビールを私のために注文してくれながら、「あと、これを…」とメニューを指差す。「なんでしたっけ? フェジョアーダだっけ? と、…に掛ける、あれも。なんか粉みたいなのと、漬物みたいな…。そうそう、あれも二人分。はい、ください」
 彼の注文に、愛想良く応えるウェイター。
「よく来るんですか? このお店には」私が訊く。
「来る。すごくよく来る…」椰子の新芽サラダを頬張りながら彼は答える。「週に八日、来る。ラテン系が好きなの、食べ物は」そう言いながら彼は、何か違うことを考えている。
 
私は相手の視線に敏感で、私を非難したり軽蔑したりする視線には特に敏感だ。彼の視線は非難でも軽蔑でも、嫌悪でもなかった。どちらかと言えばその視線は好意に思えた。
 私を彼は、すごく誉めてくれたし。
「美人ですね、すごく…」と彼は言ってくれたのだ。人違いの待ち合わせで私たちは出会って、彼は真正面から私を見つめてくれた。「広末晴樹です。僕を捜していたんですか?」
「ごめんなさい。あの、ですね…」
「同姓同名?」
「はい」
「偶然ですね」
「はい。偶然です」
 彼の周りの空気が、そのあと少し、なぜだか揺らいだような気がした。なんだか周波数だとかチューニングだとか、そういうのが変わったような…。デパートの雑踏が急に遠退いて、不思議なことだけど私は、小学校の校舎の屋上にいるような、そんな奇妙な気分を感じた。奇妙だけど、不快じゃない。なんだか懐かしい感じ。それは敵じゃなかった。味方かどうかはわからない。でも、私のよく知っているもの。私の中の風が凪いで、私の心は停止した。そして溢れてくる懐かしいもの。いつもずっと側にあったのに、気づいていなかったような何か。それは軟らかに変化するものだけど密度があって、風のように過ぎ去るのではなく、姿を変えながらも全体としてそこに留まる…。
 その不思議な静けさの中に彼がポツンとこぼした一滴の水のような言葉。「美人ですね、すごく」
 不思議な声音だった。今まで言われたことのない言葉な気がした。
 私は私を必要としてもらえるように、身形や外見にはずっと気を遣って生きてきた。食事の時間がなくても化粧は欠かさないし、言葉遣いや箸の持ち方にも気をつけている。両親ともに外見は良い方だから、私だって基本的な顔の作りは悪くない筈。全てを信じているわけじゃないけど、私に優しくしてくれる異性はだいたい私を美人だと評価してくれたし、お世辞混じりに「美人と並んで歩けるだけで男は結構ハッピーなもんだよ」なんて言ってもらったことだってある。
 でも、広末のトーンは明らかに何かが違った。おどけた調子から一転真剣な表情に変わり、呆然と呟くように言ったのだ、あの言葉。私の目を奥の奥まで突き進み、さらにその遥か数十キロメートル先まで到達しているような、そんな視線で彼は私を見ていた。というか、私を見ていなかったのかもしれない。私の肌を見ておらず、私の皮膚を見る目つきでもなく、私の表情も意に介さず、私の骨格も価値判断の対象にしておらず…。彼は何を見て言ったのか? あの、美人ですね、という言葉。でも私はゾクッとするほど感じたのだ、彼の視線を。彼は私に属する何かを間違いなく見つめてくれていた。それはひどく真剣で、切迫していて容赦なく。例えれば、神を見た信者のような、そんな眼差しだった。

「あなたは最初に会ったとき、私のこと、美人だって言ってくれたの、覚えてる?」フェジョアーダに茶色い粉を振り掛けている彼に私はそう訊ねてみる。私がこんな訊き方するなんてとても不思議だ。いつも相手に吹かれて揺れてるだけの、受身な人間関係が私のスタイルだった筈。
「言ったっけ? そんなこと」彼はムシャムシャとフェジョアーダを食べ、ポンデケージョを私の皿に取り分けてくれ、「すみませーん。ソル、まだですかあ?」と厨房に向かって呼び掛ける。
「言いましたよ。美人ですね、って。やっぱアレは口説いていたってことですかね?」私は拗くまた彼に訊く。私らしくない。
「薫ちゃんは美人だよ…」口の周りに付いたフェジョアーダを紙ナプキンで拭いながら彼は、無邪気な目をして言う。「ものすごく美人だ。目が知的で、でも笑うと女神さまみたいに優しい。鼻が誇り高く気品さえたたえているけれど、威張った感じがしない。口も知的だ。口が知的なんて女性はめったにいない。病ダレの付いた痴的なら口の形容に使えそうだけど、口が知性を醸し出すってんだからタダゴトではない。額は哲学的だし。オッパイはBってとこかもしれないけれど、それもまた知的だ…」
「失礼ですねー。私、胸、あるって言われてるんだけどな。カップCでも少しキツいし…」
「すごいね、そりゃ…」言いながら彼は私の皿のポンデケージョをフォークの先で突つく。「もう男が放っとかないね。待ち合わせすっぽかした男と、そのあと戦争なんて起こってない?」
「起こってない。お蔭でなんだか、離れるきっかけにもなったし。不倫だったの。相手のヒロスエくん。広末晴樹と同姓同名なヒロスエくん」
「カッコよかったの? そのヒロスエくんは」
「ううん。チビ、ハゲ、デブ、オヤジで水虫持ちだった」
 ウェイターが新しいビールを持ってやってきて私たちは少し黙る。「大変お待たせ致しました、すみません」ソルは黄金色の綺麗なビールだった。
「そか。光栄です。同姓同名で…」ビールの瓶を高く掲げて彼は言う。「ヒロスエくんに乾杯!」
また瓶のお尻をぶつけられないように私は新しいビールを隠す真似をした。
「好き、だったんじゃん? そのヒロスエくんって」
「私のこと?」
「いやいや、それはどおでもいいんですよ、オイラには、うん…」と彼は笑う。「そじゃなくてさ、薫ちゃんがさ、そのヒロスエくんをさ」
 こんなこと言われるのも初めてだった。男友達はたいていみんな、私の他の男友達を悪く言うし、流れで私のことも悪く言う。汚い言葉で蔑まれたこともある。それも仕方ないことだと思う。だから蔑みやすいように私は、チビ・ハゲ・デブ・オヤジと、マイナス要素を並べてあげたのだ。でも、そういうマイナス要素と関係なく、私はヒロスエくんが好きだった。と、思う。優しかったし。私を見てくれたし。大事にしてもらったし。大事にしてあげたかった。
「うん。好きだったかも。ヒロスエくん」私は、緊張を解いて素直にそう言った。
「綺麗だね…」彼が言った。「今の表情よかったよ」と指でファインダーを作りふざけてみせるが、彼の目は真剣で、私はまた少し平衡感覚を失う。私が私じゃないみたい。目の前で魔術のショーでも始まったかのよう。彼の目がなんだか怖い。そして切なく危険で、私の中の何かが増してくる…。
 私はバージニアスリムを銜える。
「あのね。言葉で言うのは難しいんだけどね…」
 私はビールで酔ってしまったのか? 彼の声を、どこか違うところから聞こえてくるような、そんなふうに感じる。
「あのね。このビール…」彼が私のグラスにビールを注ぎながら言う。「ソルってね、確か太陽って意味だよね。でね、薫ちゃんはね、僕の太陽だよ…」
 私は笑ってしまった。広末も静かに笑いながら、しかしまだ真面目に話は続くようだった。
「太陽なんだ。陳腐な表現だけど、太陽なんだ。ポエムな人になりきって聞いてね…」そう言って彼は頭を掻く。「僕は君に恋してる。ハッキリしてる。断言できる。朝の小道、前の夜の雨が残した水溜りで、小さな雀が水浴びしてるのを目撃して、はっと気がつくような、そういう輝かしい恋に落ちてる…」彼の目は真剣だ。「冬、スキー場のホテルからライトアップされたゲレンデを見下ろして、ああ綺麗だな…って感じるあのオレンジ色の光みたいに痛切に、キミに憧れてる…」彼の目はじっと私を見つめる。「これ百パーセント、ホントだよ。僕は僕の感情を説明したんだ。僕の大好きな薫ちゃんは、僕の知ってる太陽にとてもよく似た角度をもっていて、そこには風が吹いているんだ、いつも。スペインの風車みたいなのが沢山並んでる丘を想像して…」風車の丘…。「そこがキミの太陽なんだ。そのキミの風ぶり…、そんな言葉あんのかな? に、僕は惚れてます。だけどね…」
 心地よい口説き文句に吹かれていたつもりの私は、彼の声音がまた別のテーマに言及しつつあるのを知って、少し身構える。
「だけど、キミの心はそこにない」
「え? そこ?」
「うん。そう。そこ。太陽の丘には風が吹いているだけで、キミがいない」
「私は…、どこにいるの?」
 ずっと訊きたいと思ってたの、子供のころからずっと。私はどこにいるの? 私は風の中にいたんじゃないの? 私にも風とは異質の、ちゃんとした実体があるの? あるんでしょ? 早く教えて。私に実体があるって言って。私は風じゃない。私は、ホントは…。
「キミはずっと泣きたかったんだ。っていうか、ずっと泣いてた。薫ちゃんの心はずっと涙を流さずに泣いてたんだ。最初デパートで会ったとき、泣いてるキミの心が見えた。なんて言ったらバカみたいかな?」
 店内に他にどんな客がいるのか、店内テレビのサッカーでどのチームがどのチームに勝っているのか、窓の外は雨か雷か…。どうでもいい。全てが遠退いてゆく。
 灰皿の中で燻っているバージニアスリムの煙。
「バカみたいじゃないよ。言って。続けてください。私の心はどこにあるの?」
「キミの心はね、池みたいなもんだよ。時々水瓶で、誰かがそこに水を足してやらなきゃならない。水瓶を持ってる人間はそう多くはいない。でもキミの乾きに引き寄せられるように、心に水瓶を抱えた人間はキミの側に集まる。みな心の優しい人たちだよ」
 そうなんだ。私を必要とし、しばらくの間私といてくれる人は、みな優しい。
「そして、やや弱くもある」
 そう。優しくて弱い人。そんな人たちが私を必要としてくれた。
「水瓶の持ち主はキミのために一生懸命水を運んでくれるんだけど、キミの池は結構広いうえに穴があいてるんだ。だから、いつも何度も水汲み人は水を運ぶけど、キミの池は干上がってしまう。キミの心はいつも乾いてるんだ。だからいつも水を欲しがってる。もうこれ以上水を運ぶことはできないと、水汲み人は疲れ切ってしまう。キミは水瓶の主に別れを告げてまた独り、風の丘にもどる。心は涸れ果てた池に置き去りさ。仕方ないんだ。キミの心の在り処はその池だからね。また誰か、別の水汲み人が水を運んでくれるまで、涙も流せずじっと悲しんでいるんだ」
 グラスの中のビールを一息に飲み干して私は言った。「どうしてわかるの? 私はどうしたらいいの? 私の心の乾きは、どうしたら癒えるの?」
 彼は瞑想から覚めたような目をして答えた。「ま。できることは取り敢えず、ビールでもたくさん飲んどくことだよ…」そう言うと厨房に向かってまた呼び掛ける。「すみませーん! ドスエキス、もう二つ?!」
「ね。真剣に答えて。あなた私のこと、好き? 愛してる?」私は千切れた凧の紐を掴む。 「いや、愛してるなんて無理だと思うけど…。人によって愛の意味なんて違うしね…。会ったばかりだしね。ごめん。私、いつも展開急で。なんか焦っちゃって。子供のころ転校がね、多くてね…」
「僕はね、僕の感情は、君の丘に激しく恋して、そして憧れてます。キッパリ! キッパリ!」と彼。「…で。僕の理性は君の池を愛してるよ、すごく。君の池は普通よりも遥かに深くて広いけど、僕の水瓶も、秘密だけど特殊な水瓶でね。どこからも水汲まなくても、勝手にあとからあとから、湧いて出てくるんだよ、水。ホントだよ。もう溢れて溢れて。だから誰かに吸収してもらわないと心が水浸しになっちゃう。ダラダラ溢れる水を引きずって生きてる」
「…あなたの心は、どこにあるの?」
私の質問に彼の表情が微妙に反応した。
 店の外は雨。ガラスが曇って冷たそう。
「僕の心…。さて、どこにあるのかな?」
「それだけ私のことはわかるのに、自分の心のことはわからない、なんて変じゃん?」
「うん。そうかな…」少し考えて彼は言う。「心の中心点をね、探してるんだと思う」
「中心点?」
「そう。二つの直線が交わったり、三つの直線が交わったり、よくわかんないけど、そんなふうにいろんな角度から、いろんな光を当てて、でもって導き出される中心点」
「南極点とか、北極点みたいなもん?」私が訊く。
「うーん。どうかな?」
「ペンギン、いる?」
「はは、いるかもね。オーロラも見えるかな? はは…」
 アルコールのせいか私は急速に眠くなって…。
 夢うつつの私が喋ってる。私じゃない誰かの声みたい。「行ってみる? 中心点?」
「どこにあるかわからない。探してる最中だよ」彼の声が子守唄のようだ。
「そうじゃなくて。北極点。ツアーがあった気がするの」
「いいね。砕氷船の旅だね」二人のどちらが喋っている言葉だか、私にはもう判然としない。
 私は眠った。
 お店で酔い潰れるなんて信じられない。でもいやな睡眠じゃなかった。夢にはペンギンが出てきて、ペンギンは卵を足に挟んで温めていて。卵が割れて中から出てきたのは、私だった。


 なんだかなあ、なんだかなあ、と私は思った。
 私が、恋を、してるの? …かなあ? 私は恋を[され]ているのか? 私は広末に好かれている。多分正解。間違いない。私は広末に愛されている。検算せよ。検算できない。愛とは信仰に似ているかも。
 私は広末が好き? もちろん、好き。彼が私を好きだから。かな? 私は広末を愛してる? どうかな? 愛って何かな?
 私は広末が怖い。彼を私が好きになって、もっと好きになって、愛しちゃって、寝ても覚めても夢中になって。で、そのあとに彼がいなくなっちゃったら、私はどうすればいいの?
 窓のない部屋、ベッドの中で私は考える。
 頼ってます。依存してます。いろんなものに。私は煙草、止められません。お酒の量も多いです。ボーイフレンドもいないとつらいです。私は弱く、無力です。せめて可愛くありたいです。誰からも優しくされたいです。ずっとそう思ってました。人に優しくするのは、私も人に優しくされたいから。彼は、時々私に優しいけど、時々私に冷たい。私は不安です。彼に優しくしたいな、と私が思えるように彼は振舞う。私が優しくすると、彼は寂しそうに笑って少し距離をとる。私と彼は似ている。

「僕は、キミの鏡だから…」と彼は言った。シャワールームで、鏡を覗き込む私の背後から彼はそう言って、鏡には私とその後ろに彼が映っていて。
「僕は、いろんなものの、鏡になってしまうらしい」と彼。
「私も。私もずっといろんなものの鏡だった。私たち、似てるのかな?」
「キミの側にいるとき、僕はキミに似てる」
「私の側にいない時は?」
「側にいる誰かに、僕は似てる」
 鏡が湯気で曇って彼の顔が見えなくなる。彼も私も混沌と混じり合い、何も見えなくなる。そういうのもいい。
 彼といると私は、湯船に浸かっているみたいにあったかで、自分や世界の重力を感じない。「ねえ。海に潜ってみない? 南の海とか…」イルカとか、クジラとかマンタとか、そういうものの仲間になってしまいたい。
「いいね」
 深く潜るのだ。青から闇に。誰も私を傷つけないし、私は海以外の何ものにも抱かれないでいい。海だけが私に優しく、私は海に守られていて。深い暗闇でなら、私は彼を恐れないかもしれない。私はきっと、私自身のことも恐れないだろう。
「ホント、どっか旅行、行く? いつ仕事休めるの? 最低一週間休んでくれよな。決まったら教えて。行く先考えてチケット取っとく。じゃ、先出るよ。排水溝の掃除は必要ないんじゃない?」
 重力が蘇る。私は、一緒に暮らしている男のもとに帰る。


有田 正巳[Masami Arita]


「んで、なんだよ?」とオレは言った。喋ると鉄の味がして流血を知った。「オマエにオレと薫の、何がわかる?」
 もともと曲がったオレの鷲鼻、コイツの一発でさらにひん曲がったかも。鼻血がドクドクと面白いほど溢れて。涙も出てんのかな? 視界が歪んでユラユラだ。飲み過ぎてたから痛みもわかんね、こりゃ好都合。こうなりゃ、とことんヤっちゃうか。でも、ちくしょ、右手重くて。どうしたんだ? オレの右手。拳を握れ。肩に力入れて、腕を引っ張り上げて。目の前のコノヤロに、もう一発返してやんなきゃ。右目の隅が捉える、瓶。ソイツに手を伸ばす。透明の瓶。蠍の絵が描かれたウォッカの瓶。しっかり掴め、握れ、オレの指。ヤっちまえ、それでコノヤロの頭、割っちまえ! こんなヤロー知らねーし、こんなバーにも二度と来ねーし。オレ酔ってるし、理性寝てるし、神経めちゃブチキレてるし。あれ、キレてるか? キレてたよな、さっきまで、確か。
 カウンターの中から馴染みの若い店長が出てきた。慌てている。タオルを差し出している。泣きそうな眉だ。なんだか急に申し訳ない気がしてくる。何をそんなに熱くなってたんだっけ?
 どうでもいいっちゃ、どうでもいいんだ。
 腕はダメだけど、足は動かせた。目の前のヤローに一歩近づく。胸ぐら掴みたいとこだけど、ダメだな、動かねーんだよ、手が。
 ヤローの顔を真近にオレは言う。「どうでもいいっちゃ、どーでもいいんだけどよ…」
「わかるよ」とヤローが返す。なんとも平らな声で、ますます力が抜ける。ヤローの左頬骨と、左目の脇が微かに切れてる。力まかせにオレ、二発殴ったからな。オレが二発殴って、コイツが一発殴り返した。ダブルスコアでオレの勝ちだ。もっと殴り合いたい気持ちだって満々、でも、腕が動かない。
 ヤローの表情、観察してオレ気づいた。コイツってば、仏様みてーな面してんじゃん。仏頂面ってこーゆーのかな?
 殴られたってのに、オレ呑気だし、恐怖も感じない。飲み過ぎてるからかな、やっぱ。まあいいや。
 オレは店長兼バーテンの差し出したタオルと、カウンターの上でへしゃげたお絞りとで、垂れてくる鼻血を拭った。店員はティッシュを差し出す。ティッシュを丸めてオレ、鼻に詰める。
 オレはまたスツールに腰を下ろす。鼻声で告げる。「ビール。黒いヤツ。ギネス。ロンドンパブ」
「正巳さん。今日はもう帰ったほうが…」と店長くん。
「ビール。喉が乾いた、消毒にもなる。なんだか涙出そう。酔ってるからかな…」言ってるそばから、やべ、ホントに涙こぼれる。「それから小僧、正巳って呼ぶなよ、いつも言ってんだろ。早く、ギネス!」
 いつもは正巳さんじゃなくて、正巳ちゃんと呼ぶ。女みてーな名前だから止めろって言ったら、この小僧、苗字じゃまったくオレを呼ばなくなりやがって。この雇われ店長、名をバーテン太郎という。オレが昔、そう名づけた。この小僧が好きだから、オレここに長く通ってたんかな?
「悪かったな、ケンカして。もうしないから。あ、ギネス、ロンドンパブだぞ!」
 太郎の背中がオレを現実に引きもどす。現実の湿り気を見送ってから、自分の左目隅に残した乾いた男にオレは向き直る。「オマエも飲むかよ。もちろん奢らねーけど」
 オレ、笑ってる。この男に興味を持ってる。どちらかといえば好意に近い興味だろう。
 ま、なんでもいいけどよ。乾いてしかたねーんだよ、喉がさ。
 男は修道院系のベルギービールを注文し、椅子一つ空けてオレの隣に座る。
 鼻に突っ込んだティッシュを飛ばして、オレは男の横顔に向かって訊ねる。「オマエ、名前なんてーの?」
 男はカウンターの表面にライトが作り出した丸い光を眺めつつ、簡潔に答えた。「広末晴樹」


 瓶に描かれた月の絵を眺めながら、アポロビールを飲んでいた。緑の瓶はラガー、青の瓶はエール。オレはエールが好きだ。水の味がする。そう言うとバーテンは嫌な顔をするが、オレはエール系ビールの味を、小川の水のようだといつも思う。小川っつーよりドブ川かな。ガキのころオレ、郊外に住んでて、あのころ川にはヤゴなんていた。穴掘るとおけらなんかも獲れたな。ビニールいっぱいにヤゴ、捕まえてから思った。コイツら、どーすんだ? 食えるわけでもねーだろに。なんでこんなのこんなに捕まえて面白がってたんだっけ? ってゆーか、このヤゴたちも何を考えて生きてんだろうねえ。その後、ヤゴが成長してトンボになると知って少し納得した。そうか、トンボになりたかったのか。トンボは飛べるしな。今は思う。トンボになってどーすんだ? トンボの次には何になんだ? まあ、いいか。
「だからー、男は殴って女は追い出す、と。それっきゃないっしょ、アポロビールに誓って!」
自分で言ってて女々しいなあと思う。オレってば結構ウェットでさ。実際ホント女っぽいヤツだと思うよ、まったく。
「正巳ちゃん、女々しいねー、相変わらず」とバーテン太郎が言う。
 だから、今オレ自分でもそう思ってたのに、言うんだもんなあ、コイツ。
 
バーテン太郎はまあたぶん、ホモとかゲイとか、オレよくわかんないけど、まあそっち方面のヤツなんだろうな。最初オレがこの店来たときからコイツ、オレに変に優しかったもん。その日オレ、デパートのチラシなんてハンパな仕事引き受けちったんだけど、デパートの担当者が口先だけめっちゃやったら丁寧なくせに目ぇ笑ってないインチキヤローで、テメー側の要求はガンガン事務所の留守電に入れまくるくせに、こっちのメールにゃロクに返信もしてこねーで、ああ、ったくもー思い出すだけでコメカミピクピクくる、ってまあそのテのヤツだったわけ。オレはあのテの商人根性フルスロットルなクソバカが、ゴキブリ並みにキライなわけ。因みにオレの三大キライなモノは一・ゴキブリ、二・ジェットコースター、三・お化け屋敷、なんだよ。そう言ったら、バーテンが言った。「お客さん、アレですね、見た目ちょっと怖いけど、面白いですね…」それがバーテン太郎だったわけだ。「へえ、チラシだなんて。全然立派なパンフレットじゃないですか」オレがカウンターに投げつけたラフラフなデザインを見て、バーテン太郎はそうホザいた。バーテン太郎ってば、目ぇホントにキラキラさせまくりだったから、オレはコイツはヤなヤツじゃねーな、と即断した。
「オマエな、今日はな、口先だけのテキトーな褒め褒めコトバなんて聞かされたら、オレ、オマエの顔に向かってゲロって吐いちゃうとこだったんだけどよ。よかったよ、オマエはオレが昔読んだ、童話に出てきた正直者の太郎だよ。今日からオマエのコトは太郎って呼ぶよ。バーテン太郎だ」
 あのときオレ、なんの酒飲んでたんかな? ビールを飲むような爽やかな気分でも、凪いだ気分でもなくてイラだってたから、まあ、バーボンとかさ、あ、違うや、思い出した、アレだ、ウォッカだ、スコーピオンってヤツだ、氷づけの瓶の中に蠍がつけてあるヤツ。グラスに南極のミニチュア氷山みたいなのが入っててさ、そこにバーテン太郎がトクトクと透明な液体を注いでたっけ。ウォッカをパカパカやってて、オレ非常にスピーディーに酔いまくってたんだな、あの日。
「ゴキブリはともかく、ジェットコースターとお化け屋敷が怖いだなんて、手の甲にスパイダー彫ったヤクザなデザイナーらしくなくって、可愛いですねmasamiちゃん」とバーテン太郎はそのあとまたホザきやがった。
「おいおい、太郎くん。キミは今、三つ間違ったコトをモノ申したよ。オレはジェットコースターをキライだって言ったんであって、コワイなんて言ってないのだよ。それから、さっきオマエ、オレのコト面白いって言ってたのはまあ許すけど、今度は可愛いになってるから気持ち悪いんだよ、バカ! …それから、テメーなんでオレの名前知ってんだよ…って思ったら、あーコレ見たのか…」カウンターに投げたラフシートにはオレのサインが入っていて、太郎はそれを見たわけだ。「masamiって、オマエには呼ばれたくない、気持ち悪い、今度呼んだら刺す」
「刺す…って、なんか極端なこと言いますね、masamiちゃん」
「どんな些細なコトでもな、極端極めなきゃ、真実の光は見えて来ねーんだよ」
「きゃー、カッコいい、masamiちゃん。意味わかんないけど」
「キモいんだよ、オマエ。それからね、オレ、正巳って名前女みたいでヤだから、そう呼ばんといて。有田さんと今度から苗字で呼んでくださいなっと、わかったか、バーテン太郎!」オレはカウンターのラフデザインを丸めて投げた。昼間のヘラヘラ商人も一緒に丸めちまったみたいで少し気持ちが楽になった。二度とあのデパートの仕事なんてやらねー、今月は支払い少しキツかったから、まあイヤイヤ自分のプライド丸めるもやむなし…だけど、もうやんない、本音と建前が北極と南極ほどに違う大人なビジネスってウザい、金儲け命な大人だけはオレに近寄らないでほしい、ホント、オレ、殴っちゃうし、とか思ってたけど、まあいろいろあって、結局今でもオレはあのデパートの仕事、してんだよなあ。北極と南極ってのはまあ、ほら、似たような風景だし、対立する二つってのは、意外に一つだったりするのかもしれない。なんのこっちゃ?
「じゃあ、有田さん、どおして有田さんはジェットコースターやお化け屋敷が苦手なんでありますか?」と礼儀を正して太郎。
「有田さん答えて曰く、つまりよ、ジェットコースターってば、アレじゃん。縛られてるじゃん。身動きできないじゃん。自分の意志と無関係に、ゴオオオって突っ込んだり、落っこちたりするじゃん。あれがヤなわけよ。スピードはいいんだよ。テメーでハンドル握ってテメーでアクセル踏めるなら、な。同じ意味でオレ飛行機もヤだな、ジャンボジェットとかさ、特に。それならまだ、種子島とか行くときの、ちっこいプロペラ機の方がいいな…」
「YS―11」太郎がグラスにウォッカを足して言う。
「YS―11ってゆーの? あのくらいちっこいとさ、イザとゆーとき、自分で操縦室行って操縦桿握れそうな気がするじゃん。だからまだいー感じ。お化け屋敷なんて最低だね、お化けを生け捕りにするとかさ、そーゆー目的とかもないのにさ、たーだ怖がらせてもらうためだけに、決められたルートを歩かされるなんて、超無意味じゃん」
「無意味でしょ、なんだって」と太郎。
「あれ? カッコいいね、オマエ。無意味でしょ、全てが…なんちって」
「いえいえ。でもまあ、わかりましたよ。有田さんは自分で仕切りたいんですよ、なんでもね。自我が強いんです。エゴイスティックなんです。我儘で傲慢で、自由でいたくて押しつけられるのは大嫌いで、なんちゃってを嫌って真実を愛するんです」
「オマエ、それ、ホメてるね、オレを、心から」
「でもその一方で神経質で強がりで…」
「さらにホメてるだろ、それ」
「自分に自信のないお子ちゃまだから、スパイダーの刺青彫ってみたりして…」
「オマエ、オレに惚れは始めてない? ひょっとして」
「見た目の無骨さと反対に、結構女性的な心、持ってたりするんですよね、ね、正巳ちゃん」
「テメー、刺すって言っただろ、小僧、気にしてんだよ、その名前はよ…」オレは半ば本気でフォークを掴む。その手を見て、バーテン太郎は目敏く質問する。「正巳ちゃん、本物ですか? そのタトゥー」
「違うよ」オレは手の甲のシールをペロリと剥がした。
「さすが正巳ちゃん。意味のないハッタリを貼ったりはしませんね」シールの下から現れた火傷のアトを見逃さずに太郎が言った。
「さすが太郎くん。その駄洒落にはオジさんも凍えるよ」
「隠してたんすか? シールでその火傷を?」
「スルドイね、オマエって男は」
「その中坊みたいな根性焼き、見たところまだ新しい…ですねえ」
「昨日だよ。大人になってからこんなことするなんてねえ」
「…女絡み、ですか?」
「そうだったかしらねえ」
「クールじゃない人なんすねえ、つくづく」
「情熱の赤がメラメラ燃えてるよ」
「ハードボイルドでは、まったくないんですねえ」
「お喋りだしねえ」
「なんつーか、女々しい男っすねえ、やっぱり」
「でもよ、オレには惚れるなよ、キモいからな」
 太郎とはその夜初めて会ったのに、不思議に意気投合した。あの夜以来オレ、百回位この店に通ってると思うけど、オレも太郎もパンツを脱ぐような間柄になる気配もなく、まあ変といえば変な関係だが、なんでもいいかな、って感じだ。


 話はアポロビールにもどる。
「だからー、男は殴って女は追い出す、と。それっきゃないっしょ。アポロビールに誓って!」
 バーテン太郎の店に通うようになってから百晩目くらいの夜、つまり今日、たぶん二時間半くらい前、オレはまたバカなこと言ってたわけだ。
「正巳ちゃん、女々しいねー、相変わらず」
「止めろって。その正巳ちゃんはよ」
 ヤゴは何故にトンボになるのか? トンボを目指したのか? それともいつの間にやら、なっちゃったのか? それよりカエルだな。カエルなんて、オイラおたまじゃくしさ、へへーん、なあんて調子で小川をちょろちょろ泳いでたら、ある日突然足が生えちゃって、はえ? なんてスッ恍けてたら、手も生えちゃって、ああ、こりゃいよいよコトだな、なんだか良くないことがオイラの体に…? なーんてビビッてたら、頼りの尻尾もどんどん短くなるし、目ん玉飛び出てくるし、どうなってんだよ、責任者出てこいよ! って怒鳴ったら、ゲコ! なんて言っちゃて、ありゃ、オイラ今なんてはしたない声を…? オイラは誰?  なんて調子でカエルになっちまった…みたいなそんなんで。悲劇なんかな? 喜劇なんかな?
「なあ、太郎くん。オマエどう思うよ。カエルとオタマジャクシは同一のモノかね? ああいうの確か変体っていうんだよな。変態っていってもオマエのことじゃあないぞ」オイルサーディンとタコライスを運んで来た太郎にオレは意地悪を言った。
 時間は深夜の二時で、客はオレ一人で、流れているのはなんとアルゼンチン・タンゴ。
「カエルと薫さんと、どー関係するんですか?」
 オレは薫と別れるのだ。
「オレはね、キミは誰かな? って薫に聞いたら、薫はいつの間にかカエルになってたみたいなもんで、オレの知ってる薫じゃなかったから、オレもーおったまげちゃっておたまじゃくしなハートなわけよ。まあ、哲学的に言うとそーゆーことだよね」オレは溜息をついてやった。
「どこらへんが、哲学的なんすかねえ」と太郎は笑いながら首を振り、アポロをもう一本出してきた。
「オマエも食えば? ほれ、オイルサーディン」
「オイルサーディンの話に飛びますか?」
「いやいや、話はサーモンに飛ぶのだよ」


 二週間前、事務所を兼ねたオレの自宅で、薫とオレはサーモンを食っていた。
旨かった。
「旨いな、コレ。しかし、薫、オマエはまた塩辛いとか言うんだろ、コレも」
 おかしい。塩分に敏感な薫が黙っている。
不穏な空気を察してオレは話題を変える。「桜も散ったな。でもオレ、ピンクの花より青葉の緑が好きだよ」
 リビングの向こうには小さな庭。そこに桜の木が一本。庭の向こうにはポルシェ牧場。薫がそう名づけた。ポルシェばかりが大量に並んでる駐車場だからだ。この部屋を借りたのも、薫が庭を気に入ったからだ。二度とやらねえ、と思ったデパートの仕事をズルズル続けてきたのも、まあ薫がそのデパートのシステム室とやらに籍たからだ。宣伝上必要な数字をもらいに、システム室にオレ顔出したら、そこに薫がいて、メシ誘ったらOKで、なんだかそれからズルズルとつき合い始めた。
 薫は自分の意志を持たないような女で、自分の意志しか持たないようなオレとしては楽だったし、薫も楽だったんだと思う。
 ワインのボトルが昼間から一本空いてしまった。サーモンは大量にあり、オレも薫も酒はもともと大量に飲む。あのころ、庭で朝まで飲んだりしてたな、七輪でメザシ焼いたりな、ウインナーでも味噌でもなんでも焼いたな。朝になるとビール瓶やら、ワインの瓶やら、そこらにゴロゴロしてて。
 
なんとなく一緒に住み始めて一ヶ月。まあどんな関係でも最初の一ヶ月はハッピーなわけだよ、どんな暴力男とどんな淫乱女でも、だ。クレイジーな二人ならクレイジーな分だけそりゃもうぶっ飛んでるし、マトモな二人だって、瞳と瞳を見交わしてからのざっと三十日くらいは、そりゃ相手の瞳ン中に童話なんて読んじまうって、んなこともママあるだろう。
 オレが女々しいヤツだって太郎が気づいたのは、まあアイツが普通の男というよりも、普通の女に近い変わった男だったからで。世の中のたいていの男はオレを女々しいとは思わんだろうし、まあ思ったらあまりそういう男に好意は持たねーだろう、普通。でも、女はどういうわけか、オレの女々しさを知ってから本気でオレに惚れるような、この世のシステムっつーか成り立ちみたいのがあるみたいで。つーか、そのテの女ばかりがオレに惚れるんだな、コレが。でもって、オレが惚れる女はまあだいたい決まって、最初は男っぽくさばさばクールに見えるくせに、ちょっとつき合ってるとかなり女っぽくてウェットなトコが見えてくる…ってタイプなんだよ。女の中にある[男]にオレの中の[男]が惚れて、女の中にある[女]がオレの中の[女]に惚れる、みたいな。あー、まどろっこしい、まあ、いいや。でも、アレだな、男も女も本質的には同性愛的ってのキモいな。っつーか、なんだろ、究極的には人間って、相手の中にある自分に似たものに惚れるんかな? いやいや、フツー逆じゃん、一般に人間は自分にないものを相手に求めて惹かれ合う、みたいなさ。でも、上手く言えないんだけど、そこにも[表]と[裏]とがあってさ、[表]の[裏]は互いの[表]、みたいなさ。南極と北極って、結局似たような風景だったり、とかさ。あー、ウゼー。なんかわけわかんないけど、オレの言いたいのはつまり、人間って究極的には、南極だろ、または、北極だろ、みたいな。南極熊は北極熊の瞳を覗き込んでるんだろ、みたいな。で、一見それは、自分と懸け離れた存在に惹かれ互いに受容しあうのだあ、みたいな宣伝文句的ウソ八百で塗り固められてるけど、要は右手が左手に恋を感じるようなもんで、右脳が左脳にドキドキときめいちゃうようなもんで、南極も北極もとことん寒いし、そんなんなんだかみんな、鏡を愛するナルシスト的な何かなんじゃないかなって。そんな風に考えるオレはアルコールでだいぶん脳ミソが病んでいるんだろーか? ま、いいけどよ。

「このサーモンがお土産なの」そのときも薫がそう言ってオレはアルコール的昏迷から覚めた。
「オレが、クレイジーだからかな?」
「私がクレイジーだから」
「イエス! ウイ アー クレイジー! だからスリルだったな、この一ヶ月。カブトムシみたいに愛し合ったしな。別れるってオマエが言うなら、隣の駐車場のポルシェ、全部バットで殴って潰しちゃおっかなっと。ポルシェに罪はないけどね。この一週間オマエどこ行ってたんだ? …に対する答えがこのサーモンである…と?」
「フィンランドに行ってました」薫が敬語で答える。なんだかなー。


「薫さん、どうしてまたフィンランドに?」バーテン太郎が訊く。
 オレはアポロビールを傾ける。
 ドアが軋んで客が入ってくる。バーテン太郎がお絞りを取りに動く。
 オレは既に深い酔いの中にいる。オレの中でキナ臭い匂い。女々しいオレの中で動くオス。凶暴性を感じて、しかし、その凶暴性は少しずつオレそのものに同化してゆく。
 もどってきた太郎がオレを辛うじてオレに引きもどす。「フィンランドってサーモン獲れるんですか?」
「フィンランドでの食い物は、一・サーモン、二・トナカイ、三・雷鳥である、と薫が言っていた」
「雷鳥ってどんなんですかねえ? 旨いんですかねえ?」
「オレは雷鳥、食べたことねーから知んねーよ」薫と雷鳥食ったのは別の男だよ。
「ダチョウとかホロホロ鳥とか、あんな感じですかねえ?」
「知らねーって。オマエな、変な愛想話題ふるんじゃねーよ、タコ! ってか、愛想話題なんてコトバ、もしかしてオレが今、編み出しちゃった?」
「はいはい、正巳さんはお愛想嫌いですもんねえ…」太郎は慈悲深く笑って言う。「じゃ直球投げますけど、その男って知ってるヤツっすか?」
「知らないヤツっす」
「モテそうでしたもんねえ、薫さん」
「え、そ?」へえ、そうなの?「…ってゆーか、オレにとって薫って、実は知らないヤツだったんかな?」
「酔ってますね」
「薫はあーゆーヤツだから、まあユルユルだよね。ユルめの女だから、世間のヤローもまあ、ほら、気軽に声かけて、んでまあ薫はそれにユルユルとなびいちゃったりする、と」
「気持ちのユルい女が、正巳ちゃん、好みだった?」
「いや、ユルいのは結果でね。薫は一言で言えばさ、弱くて優しい女なんだよ、この世のモノとは思えないくらいにね。その弱さにへたり込んでくる弱々しいバカ男は、そりゃ山ほどいたんだろーが、でもね、弱さと強さを兼ね備えてるヤローは滅多にいない、少なくとも弱さと強さの両方に目覚めてる人間なんて、そうはいねえ、とまあ思ってたんだよ、オレはね」
「うーん、テツガクしてるねえ、正巳ちゃん…。正巳ちゃんがそうですよね、僕の知ってる人の中では。弱さと強さに自覚的な人」
「薫は弱い男に惹かれる。でも弱い男は薫を支えきれない。薫が男から離れるのは、薫を支えきれない男の苦しみを、薫が解放してやりたいと感じたときだ」
「正巳ちゃんは、薫さんを支えきれなくなった…」
「な、わけ、ねーんだけどなあ…」オレは冷凍室を指差してウォッカに酒を変える。いつかの蠍入りの瓶だ。「薫は言った。今回のコレは、オレの問題ではないのだ、ってな。あの薫がねー。だからまー、ちょっとなんだかわかんねーけど、そんなにいかがわしい種類のモンでも、浮ついた種類のモンでも、ねーんじゃねーかな?」
「何しに行ったんすかね? フィンランドなんかに?」太郎がグラスに氷を配置し、そこに透明なアルコールを注ぐと、キシキシと氷が鳴った。
「北極圏にね、行ったらしい」
「え? 北極ですか?」
「船でな、行けんだってよ、砕氷船。こんな感じで…」オレはグラスを指して言う。「氷なんか浮かんでるんかな? バリバリと氷をさ、砕いていくらしいよ」
「すみません、また直球投げますよ…」と振り被って太郎。「なんでまた浮気旅行に北極圏、なんすかねえ? ハワイやバリじゃなくて。 寒くてパンツ脱ぐ気にも、なんないんじゃないすかねえ?」
「浮気じゃないのかもね、薫にしてみたら。実際薫は、オレと別れたいと言ったわけじゃない」
「じゃあ、まだ…」
「んなわけないじゃん。オレ、無理だよ。今だってオレん中のオスが暴れて暴れて。愛がどうとかね、オレそういうのわかんないけど、オス的にいって駄目なんだな、惚れた女が他のオスとヤっちゃうとさ。そんだけで女とはもうお終いだって感じる。手ぇ出したオスは殴りたいけど、奥歯の一つでも折ったら、まあそれでいいかな」
「そうですね…」と苦笑して太郎。「正巳ちゃんは女性的な考え方と、男性的な感じ方と、オス的な衝動で生きてますもんね」
「すごい。オレ酔っててイマイチわかんないけど、今、オマエすごコト言ったな。オマエ神じゃん、もしかして」
 アイスピックを高く掲げておどける太郎を見たら、なんだか不思議な気がした。鏡を覗き込んで、そこにいつもと全然違う顔が映ったのに、しばらく見てると、ああコレ、オレだっけか、と思ってしまうおかしな夢のような…。
 太郎はピックで氷を砕く。「氷砕いて何しに行ったんすかねえ? 北極圏にまで」
「神、見に行ったんじゃねーか?」
「え?」
「薫は、オーロラを見に行ったと言っていた。オーロラは見えたらしい。ペンギンはいなかったそうだ」
「ああ、オーロラツアーってあるんですよ…」訳知り顔に太郎が言う。「オーロラってのはこの世で見るべき三大スペクタクルの一つらしいですよ。一・オーロラ、二・日食、三・ロケット打ち上げ…って、種子島のロケットセンターで働いてる友人が、そう言ってました」
「はは。ようこそ種子島へ」
「YS―11」
「懐かしい名前だな」
「行ってみますか? 種子島。ロケット打ち上げでも見に」
「オマエと?」
「そうっす」
「死んでもヤだよ」
「YS―11っすよ。いざとなったら自分で操縦桿引くって言ってたじゃないですか?」
「あ。薫のヤツ、まさかオレがジャンボジェットを憎んでるから、他の男と…」
「かーもしれませんね」
「ふん。操縦桿、引けねえモンだなあ…。オレたちの人生もジャンボジェットなんだかねえ? 椅子に括りつけられて、目的地に着くまで自由意志で行き先、変更することもできない」
「運命っす」
「オレはキライだねえ、その運命ってコトバ。抗いたくなるよなあ」
「薫さんは、別れたくないんじゃないですか?」
「来るもの拒まず、去るもの追わず。もっともアイツのことだから、三人で仲良くベッドに入れりゃ、ソレが一番なんじゃねーか?」
「3P?」
「いやいや、心理的比喩だよ。溶けてく女なんだよ。混じり合うんだ。形がないんだよ。風に吹かれて、風になびいて、って見える女だけど、もっとなんつーか境目がない存在だな。時々アイツ、自分自身とオレとが、区別つかないくらいに混沌としてたからな。庭で酒飲んでるときとか、さ」
「どんなふうに?」
「秘密だよ」
「想像つきますけどね」
 オレの中のオスは、ウォッカの爆撃で、そろそろ眠っただろうか?
「薫はこう言った。不思議な人に出会った。何かが根本的に変わる、かもしれない。その人といると、私は壊れてしまうかもしれない、けどそれは、雨粒が大河に吸収されるような、そんな優しさに満ちている気がする…」
「なんか深いですね。深いトコで何かが起きてる気がしますね。正巳ちゃんも巻き込んで」
「いやいや、バーテン太郎先生。オマエも十分に巻き込まれてる、かもしれないな」
「なんだか今夜は変な酔い方してますね。正巳ちゃんが神に見えますよ、僕からしたら」
「単なる酔っ払いだよ。しかしムカつくよなー。薫のヤツ、何発ヤったのかなあー! ったく!」
「まあまあ、そんなに自分を虐めないで」
「自分自身に対するサディスティクな衝動は、自分自身にとってマゾヒスティックな感情を自覚させる。C・G・ユング」
「ユングがそんなコト言ったんすか?」
「ウソだよ。今勝手に思いついただけだよ。ユングって何した人だっけ」
「ユングって、アニマとかアニムスとか、元型について語った人でしょ」
「やっぱタダモンじゃねーな、オマエ。東大出身か、もしかして? アニマってなんだっけ? アクマと関係ある?」

「有田さんは彼女のアニムスで、彼女は有田さんのアニマだったんじゃないかな?」
 驚いた。横から突然声が掛かった。暗闇からいきなり声が響いてきたような錯覚を覚えた。
 誰もいないと思っていた店内に、男が一人いた。スツールを三つばかり空けた向こうに、そのヤローは座っていた。その登場はあまりにも突然だったが、オレにとっては至極当然のように思えた。声の感じでわかった。コノヤロこそ、薫に手ぇ出したヤローだ。
 アルコールで眠っていたオスが急速に目覚める。ざわめく。理性がブッ飛んでゆく。自分が一つの怒りそのモノに同化する。怒りのためだけにスポットが残されて、舞台の他の部分は闇に沈んでゆく。


「トナカイは旨かったか? サンタクロースくん!」大丈夫、オレの声はまだ酔い潰れちゃいない。ロレツのまわらない鼻声でタンカきったんじゃあ、情けない。よしよし、大丈夫、あとは自分の中のオスに任せよう、さあ、出番だぜ、リベンジだ。
 ヤローは座ったまま黙ってオレを見ている。薄い刃物のような目。そこにしかし怒りは読み取れない。恐怖も驚愕も、虚勢も哀れみも読み取れない。クール…っつーか、なんてーの、透明な目つきだ。オレなんざ眼中ねえってか? ホント見てねーだろ、オレの顔。オレの顔通り越して、オメーが見てんのは遥か彼方、北極熊かなんかだろ?
「あ、すみません…」太郎がヤローに向かって言う。「少し飲み過ぎなんです。うちの常連さんなんです。お客様はこちら初めて、ですよね?」
 消火体勢に入りやがった。無駄なんだよ、アホ、オレ火つきまくりだよ、火事ぼうぼうなんだよ。「太郎、ナポリタン。オマエあっちでナポリタン作ってなさい」
「正巳ちゃん…」
「レッドカード!」
 太郎は判定に不服を感じながらも、ヤレヤレという表情で退場した。
「さてさて、んでは、聞かせていただきましょかね?」オレは男に向かって卑しく笑う。「薫と何回ヤったんだ? すまんね、下世話で。オレ女々しいからさ。縛ったりした? アイツ、ちゃんと喜んでた?」
 オレはヤローの隣のスツールに移動した。親しげに声掛けるオレ。次の一言を待って、言い終わらないうちに顔の真ん中殴ってやるつもり。
「カオリさんとは、人違いで、出会った」ポツンとヤツが言う。
「はああ? カオリって誰だよ?」オレの声が裏返る。「オマエ行ってたんだろ、北国によ、サーモン食いによ、薫と…。それともオマエ、アイツの名前も満足に覚えてねーのか? 岡野薫だよ、身長158センチ体重46キロ、生理は軽いけど重い便秘に苦しんでる、オ・カ・ノ・カ・オ・ルだ。言ってみな、カーオールー、スピーク アフター ミー。あーあ、そーかそーか、腐れヤローが! テメーが覚えてんのは薫の…」
「カオリになったんだ、薫さんは…」静かにヤツが言う。「自分でそう決めたらしい」
「は? あああ? んだ? コイツわっかんねーな、オマエ、わかんねーよ、ぜーんぜん!」ガキのようにオレは喚く。「…ま、いいか。で、拗いよーだが何回ヤったの?」
 男は黙っている。表情が読み取れない。オレは急に面倒になってきた。どーせ薫とは別れんだ、これ以上マゾヒスティックになるこたねーもんな。「よう、オレがここにいるの、どーして知ったのかは知んねーけどよ、まあ、アレだよ、殴られに来たんだろ、オマエ。それともなんか言い訳しに来たんか? 言い訳は殴ったあとに聞いてやるよ、気が向いたらな。表、出ろや」ヤツのシャツを掴む。ヤツは立ち上がろうとしない。
 まっすぐオレの目を見て、ヤツは独り言のように言った。「風に吹かれてる彼女が好きなんでしょ、有田さんは。カオリさんは…」
「うるせえ!」ジャンボジェットがビルに突っ込んだ。気づいたらもう殴ってた。ヤローは床に転がった。力を込めて殴った。指の骨が軋んだ。ヤツのガイコツもさぞかし軋んだことだろう。
 立ち上がったバカは、思ったより小柄な男だった。オレよりずっと痩せて見えた。ヤツの目は、感情を湛えずに光っていた。
 なんとなく実体なさげな男だ。オレ、酒でアタマおかしくなって、薫のことで嫉妬とかそーゆー卑屈な気分になっちゃって、勝手に変な幻覚とか作り出しちゃったんかな? …なーんてホント一瞬思ったくらい。こんなウスバカゲロウみたいなウスラバカを、力まかせに殴りつけちゃって、なんだかな、おかしいな、オレさっきまでバリバリ怒ってたのにな、このバカがなんかさー、お坊さんみてーに張り合いねーから、オレの怒りまで鎮火しちまってんじゃねーかよ、あらら、ちくしょ!
「オマエな、オレを殴りな。殴っていーよ」とオレは言う。
 男は黙ったままだ。
「オレすげー怒りてーのに、なんかショボンとしちゃってよ、百倍殴り返してーから、ね、一発殴れよ…」言いながらオレはもう一発、ヤローの顔面にブチ込んだ。
 男は今度は倒れなかった。でも小さな可愛い呻き声を聞かせてくれた。
「なんか言いたいこと、あんのか? 聞いてやってもいいぜ。だけどその前にオレを殴れってばさ。そしたらゴタク聞いてやるよ、クソ坊主…」
 別の角度からジャンボジェットの突入。言い終わらないうちにヤローの拳が鼻にきた。
ビルはあっさり崩れ落ちる。


 話はやっと現在の時制にもどる。
 オレはギネスビールで最後の残り火まですっかり鎮火して、で、訊いた。「オマエ、名前、なんてーの?」
「広末晴樹」と男は簡潔に答えた。男はトラピスト修道院系のベルギービールを飲んでいる。
 オレの右手では、GUINNESと書かれたグラスの白い文字が、ギネスビールのクリーム色の泡に、逆さ文字で黒く映っている。光が影を作り、影がそこに文字を描くのだ。広末が光なのか、オレが光なのか、オレはそんなふうに思う。
「オマエ、何やってる人?」オレが訊く。
「インナーダイバー」広末がこれも簡潔に答える。
「インナー? ダイバー?」なんだよ、それ? 聞いたことない仕事だな。
「心理分析とか、そういうヤツですか?」バーテン太郎が訊く。
 おお太郎くん、オマエがいてくれて助かったぜ。オレをこの、広末ってヤローと二人にしないでくれよな。なんかオレ、ペースこけちまって、なんかこう…、引っ張り込まれるんだよ、この男の、変な宇宙にさ。
「これ、名刺です」広末が差し出した二枚の名刺。そこにはこうあった。

【インナーダイバーズ 
メンバー



モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】

そして広末はペンを出し、そこに書いた。

【インナーダイバーズ 
メンバー

有田 正巳

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】

「バーテン太郎さんは、お名前は? …バーテン太郎さん、でいいですか?」広末が太郎にそう訊ねる。太郎は曖昧に頷く。

【インナーダイバーズ 
メンバー

バーテン太郎

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】

と、いうふうにして、オレたちの名刺ができた。
 なんだ、こりゃ?
「なんかの会員証か?」オレが訊く。
「インナーダイバーズのメンバーであることを意味します」広末が笑って答える。
「このモルジブ・アリ環礁ってのは、何かの冗談なのか?」
 広末は答えず、名刺入れから抜き出したもう一枚の名刺とビール代をカウンターに置き、静かに席を立つ。
「カオリちゃんによろしくね」笑ってそう言うと、広末は影のようにひっそりと店を出た。
 カウンターの名刺には、既に知った名前が書き込まれていた。

【インナーダイバーズ 
メンバー

岡野 カオリ

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】

「だからよ、カ・オ・ルだってーの、カオリじゃなくて」とオレが笑うと、「名前はどーでもいいんでしょう、たぶん。僕なんて、バーテン太郎って書かれちゃって。しょーもない…」と太郎。
「んだと? バーテン太郎はステキなお名前じゃねーかよ!」
「そですか?」と太郎は取り合わず、手元の名刺を手に取り眺める。「…でもコレ、ちょっち笑えませんよねー…。なんか、なんだか…」
「ま、いーじゃねーか、オレってばなんとなくいい気分。ビールをおくれ。レッドフック」とオレが言うと、「はいはい、エールなビールで乾杯しましょ。薫さんと正巳ちゃんの、仲直りを祝して…」言いながら太郎は、ビールを取りに奥に入った。
仲直り? なんだかなー。
 なんだっけ?
 なんでもいーけどよ、コノヤロ! オレは酔いに沈んでゆく。
 ぼかぁねえ、キミ、アルコホリックダイバーさあ! なんちてなー。


カオリ[Kaori]


 成田エクスプレスのシートに私はいる。
 広末は本当に来る?
 私はこの電車のシートの色、苦手かも。赤と黒。なんとなく攻撃的な感じ。少し落ちつかない。こんなにきっぱりとお互いが主張しあう色、ぶつけ合わなくてもいいのに。と、私は感じる。混ぜてしまいたくなる。でも、赤と黒を混ぜたら何色かな? そうだ、赤黒いって言い方あるな。でも、いずれにせよ黒は強すぎるよ。きっと赤は、ほとんど黒に吸収されちゃうんじゃないかな? …でもその方が幸せなんじゃないの? 私は赤い色に訊ねてみる。こんなにきっぱりと対立して、せめぎ合っちゃうと、すごく緊張しちゃうでしょ。いっそ真っ黒に溶け合いたいって、そう思うでしょ。
 新東京国際空港の出発ロビーで、広末と合流することになっている。午後の飛行機で、ヘルシンキまで飛ぶ。
 
彼との旅行を決意してから、私はまずデパートに有給休暇を申請し、次にフィンランドのガイドブックを買い、そして部屋を隅々まで綺麗に片づけた。同居人の正巳くんに何か書き置きを残そうかな、と思った。でも何をどう説明していいか全然わからないし、彼もこの二、三日部屋に帰ってきてないし、まあいいか、と思ってそのまま出掛けることにした。実家に置いていたパスポートを取りに、実家の自分の部屋にもどったとき、ふと何の気なしに子供のころのアルバムを捲った。そして一枚の写真を剥がした。子供のころ、夏祭りか何かの日に撮ったもの、かな? 浴衣姿の私が、友人二人と一緒に写っている。写真の中の私は笑っているけど、私はこの笑顔に記憶がない。こんなふうに笑えるほど嬉しかったり楽しかったりしたことは、生まれて今日まで一度もなかったんじゃないかな? ホントは。笑顔は作られた笑顔で、ホントの笑顔じゃなく。私の笑顔を見る誰かの嬉しさが、私に笑顔を作らせていて、それは私の嬉しさじゃない。
 
成田エクスプレスのシートで、パスポートホルダーに挟んでいたその写真を取り出し、私はもう一度じっくりと眺めてみる。岡野薫さん、あなたは、私じゃ、ありませんね。写真の中の[薫ちゃん]は笑っている。そうだよ、[薫]はあなたじゃないですよ。そう言ってるみたいだ。そう、そうなんだね、あなたは私じゃない。それじゃ、私って、誰?
「私って、誰?」と思わず声に出た。
 すると。
「えーとぉ、テツガク的なモンダイを真摯に自問していらっしゃる方に、こぉんな質問はなんなんでしょうけどね…」と背後から声が掛かった。「お隣のこの席は、ひょっとして僕の席でありましょうか?」チケットをヒラヒラさせながら広末登場。
 私は一瞬ポカンとしてしまう。
「ジャジャジャ、ジャーン!」と言いながら広末はシートに腰をおろし、手にした缶ビールを私に差し出し、「飲む?」と訊ねる。
 私は首を振る。
「じゃ、遠慮なく。プシュ!」そう言って広末はプルリングを引き、ゴクゴクと音をさせながら缶ビールを飲み始める。
「偶然?」と私は訊く。
「あん?」広末は間延びした声で眠そうに応える。
「この席、私の席だって知ってたの? 知ってて隣のシート、リザーブしたの?」
「な、わけないじゃん。発車間際に後ろぉのドアから飛び乗ってさ、テクテク歩いて自分のシートまでやってきたら、いきなりテツガク語ってる背中がそこにあったのさ…」と彼。「背中見えてさ、お、偶然じゃん、薫ちゃん! …って声掛けかけようとしたらいきなり、私って誰? …だもんね。思わず人違いかと思っちゃったよ。にゃにゃ、これは大変、記憶喪失? だったら僕が教えて差し上げましょう。あーにゃーたーはー、岡野薫とゆーニホンジンでーす。三十歳にはまだなっていましぇーん。でも二十代は残すところ、片手の指の内でーす。Cカップのブラをきつそうにつけてまぁーす…」
 広末は時におどける。かと思うと急にシリアスになるのだけど。で、こちらが緊張すると、それをはぐらかすようにまた軽妙な言葉のマジックを始める。
「ん? 何? なんかいつもの薫ちゃんと少し違うよ。どしたの?」
「私ね、気づいたの」
「にゅにゅ?」
「私ね、岡野薫じゃないの。ってゆーか、岡野薫ってね、…いなかったの」
「にょにょ?」
「わかる? 変なこと言ってるけど…、あなたにはわかる?」
「うにう…。つーまり。初めまして。こんにちは。ペコリ。オイラ広末晴樹と申しますだ。えーと、趣味はお酒とお喋りです。仲良くしてね。エヘ。ところで、あなたはいったいダレデスカー? …ってコトだよね」
「そうです。私は、いったい、誰でしょう?」
「どちら様でございますかー?」
 私は誰だろう? 私は私。名前は…、まだ、ない。
「カオリです…。岡野カオリ。今、名づけました。ええと、これからよろしくお願いしますだ」私がそう言うと、広末は眩しいものでも見るように一瞬目を細め、それから少し真面目な口調で優しく言った。「生まれたてのヒヨコのように輝いてるね」
「ピヨ」と私は言う。
「ピヨピヨ」と彼が言う。
 彼のビールを奪って一口飲む。「美味しいピヨ」私は唇をヒヨコ口にして笑う。
「返せピヨ」彼もヒヨコ口をして楽しそうだ。
「私、禁煙する」私が言う。
「ピヨ?」
「ピヨ!」
旅が始まった。


 フィンエアの飛行機は、青と白が印象的な綺麗な機体だった。青と白は仲良しに見えた。青い空と白い雲は決定的にナチュラルなのだろう。そこに緊張はなく、調和があった。
 飛行機の中で私たちは、メタリックブルーの缶ビールを飲んだ。彼はそのビールをたいそう気に入って、感激しながらそれをフィンビールと命名した。「今日からキミはフィンビールだ。僕らは友達だ。いいね…」彼はその美しく美味なビールにそう言い聞かせた。「こちらはカオリちゃんだよ、フィンビールくん。お互い初対面だろう。挨拶しなさい」そう言いながら乾杯をする彼は上機嫌に見えた。
「ねえ。あなた、仕事はどうしたの? よく休暇とれたね。会社、大丈夫なの?」と私は彼に訊いた。
「うん。そだね。ま、大丈夫だね」
「仕事は何してるの?」
「うーん。そおね。イエスと言ったりノーと言ったり。たまに会議したりね、パーティ出たりとかね、会社行ったり行かなかったり、ね」
「へええ。そんな仕事ぶりでよく首になりませんこと」私カオリは、薫より少し意地悪だったりして? 薫はいつもたいてい受身だったし、相手の話に合わせてばかりだった。広末といると、なぜか私は能動的になるようだ。そういった意味で、カオリの発見、ないしは救出、または誕生は、広末の功績といっていいかも。
「親がね、経営してる会社なんだ」と彼。
「そこの社員?」
「ってか、経営してる側」
「取締役とか、そういうの?」
「お飾りとか、放蕩息子、とも言うね」
「どーりで、浮世離れな毎日を過ごせるわけだ」と私。
「どーりでこんな美人と休暇を過ごせるわけだ」と彼。
「なんて会社?」
「誰でも知ってる会社だよ」
「へえ…」
 と、その時。
 機体が激しく揺れた。乗客の声がジェットコースターを思わせた。機体が十メートルほど落下したように感じた。シートベルトのサインが点灯。気流の悪いところを通過するだけだから心配はない、との旨を伝えるアナウンス。直後に機体はまた激しく揺れ、客室の電気が消えた。
 ガ、ガガ、ガガ…。そんな感じでまた激しく揺れる。
 怖い。私は隣のシートに手を伸ばし、彼の手を握る。緊張で汗ばんでいる私の手を、広末の乾いた手が包む。
「ねえ…」私の声、擦れてる。「落ちるの?」
「どう、思う?」彼が私の目を覗き込んで、訊く。「カオリちゃんは、どう思う?」
 おかしな目だ。怯えていない。真剣だ。でも何かが違う。非常事態の人間の目じゃない。現実的な切迫感に欠けている。例えていうなら…、教会の結婚式。真っ白なチャペル。青い海を背に異国の牧師さんが立ち、私の目を覗き込む。汝は…、誓いますか? アーメン。「アーメン」と私の口を突いて出た。
「ラーメン? 腹減ったのか? 機内食、食べたばっかなのに?」彼がふざける。
 機体がまた激しく揺れる。私は笑えない。乗客の叫ぶ声。緊急脱出用のパンフレットを掴む私。「だめだ…」こんな高度でこんなスピード、下は海、助かりっこない。
「カオリちゃん」彼がまた私の目を覗き込む。
「はい…」
「これは例えば、そう、夢だ」
何? 最期の慰めみたいなこと言ってるの?
「そう…?」私は少し優しい気持ちになって微笑する。「夢なの?」
 日本に残してきたボーイフレンド、仕事、実家の家族、猫、それから[薫]、私の今までの人生…。そんなあれこれが一瞬頭を過る。こんな終わり方もいい、かもしれない。
「こんな終わり方もいい、かもしんない」また口を突いて出た言葉。
 「何が? 終わるの?」彼がニッコリ笑って。
 とても、とても優しい笑顔で、私もとっても優しい気持ちになる。「果て、だったのかな? ここが。私の人生の…」夜空を飛ぶ飛行機が私の人生の果てなのか? 悪くないかも。隣には広末。謎だらけの霞のような彼が私の果てなのか? さらに悪くないかも。
「うーん、どおだね?」とリラックスした口調で彼は訊ねる。「我が人生なるモノを振り返って、カオリくんとしては、ん?」
 どうしてこの人はこの状況で、こんなに慌てずにいられるのか? 私はそう思い、彼はこの状況を既に諦めてしまっているのでは?  そうか、そうに違いない、ということはやっぱりこの状況は絶望的なのだ、とそう考えた。だったら私も、乗客たちの金切り声を振り切り、彼との穏やかなトークの中に全力で走り込もう。残された時間は有意義に使いたい。ホントにほんの僅かな時間、なのだろうけれど。
「私の人生…」彼の言葉に導かれるままに私は回想しよう、私の人生。走馬灯のように蘇っておいで、私の人生…。って、あれれ? 私は思う。「なんで…かな? 何も浮かんでこないよ…」ボーイフレンドのこととか、仕事のこととか、日常的なコトが頭をかすめるだけで、人生の名場面がフラッシュバックで蘇る、みたいなことはなかった。
「総括できない? 自分の人生」と学校の先生みたいな口調で彼。
「…できません。わかりません」よ生徒のように私。
「んじゃ、立ってなさい」
 私たちは声を出して笑った。
 スッとまた落下感覚。叫ぶ乗客の声。
 窓の外。月だ。傾いた翼の下から丸い月が顔を出した。
「ねえ。果ての向こうには、何が…?」私は眠りに落ちるような気分で小さく呟く。
「果ての向こうには…」と言いながら彼は、暗がりの中ビールを手に取った。「神様がね、いるんだよ…」窓から差し込む月明かりがメタリックブルーの缶を微かにに照らす。光るメタリックブルー。静寂。
 ビールをごくりと一口飲んで彼は言った。「ここは果てでも終わりでもない。まだまだ旅は途中だよ…」
 月明かりが照らし出した彼の横顔は気のせいか寂しそうに見えた。「だから君の人生も続きますよ。君がその旅を終えるまで」
どこからか波の音が聴こえたような気がした。
 
不意に客室ライトが蘇り、揺れもすっかり収まった。機内アナウンスがトラブルのお詫びと今後の飛行の安全を伝え、客室に安堵の空気が広がる。ウソみたいだ。さっきまであんなに緊迫していたのに。どの乗客も今はもう笑顔を取りもどしている。
 客室乗務員がこれも笑顔でやってくる。
「すみません。もう一杯…」缶ビールを片手に彼が彼女に呼び掛ける。ニッコリ笑って缶を受け取る女性に彼はつけ足す。「それからラーメンを一杯」
 客室乗務員は声を出して笑う。
 彼は胸に十字を切り、小さな声で言った。「アーメン」
 ふふん。と鼻を鳴らすようにして笑うと、客室乗務員は新しいフィンビールを取りに去っていった。
「正巳くんだったら…」部屋に残してきたボーイフレンドの正巳くん。「どうしてたかなあ?」
「うん?」広末が横目で私を見る。
「私の友達がね…」彼の横目に向かって私は説明する。「飛行機、嫌いみたいなの、すごく」
「ふうん」
「椅子に縛りつけられたまま、自分じゃどうにもできない状況で、無理矢理運命突きつけられるのなんて、そんなの真っ平だって言うの」
「うん」
「彼だったらパニック起こしてたんじゃないかな、可愛そうに」
「そう?」
「正巳くんと一緒だったら私もパニクってたな、きっと」
「かもね」
「どうしてあなたは、あんなに平然としてたの?」
「してたかな?」
「してたよ」
「かな?」
「どして?」
「わかんない」
「あれえ?」と私。「なんで無口になるのよ? いつもみたいに上手な言葉で説明してよ」墜落を免れた開放感からか、それとも日常との物理的距離が開いた単にそのためか、私はなんだか自由な爽快感を感じつつ、甘えて彼の腕を取った。
「妬けるね…」視線を外して彼が呟く。「キミや、そのボーイフレンドには」
 妬ける? 私は珍しく強気に出て彼の目を覗き込む。「ホントに? 妬いてるの? ホント?」
 照れるかな? と思って観察した彼の顔には、なぜか種類の違う寂しさが過って。が、それも一瞬で。
「やあやあ、しばらく、マイ ディア ビア…」スチュワーデスさんから手渡された、愛すべきフィンビールに彼はそう語り掛け、ちゃっかりその場を誤魔化した。


 車の外に見える景色は真っ白だった。私はフィンランド人の無口なドライバーの横に座り、サイドミラーに映る光景を眺めている。サイドミラーの中には私たちが進んでいる一本の道。対向車は殆どない。道の右側は真っ白で、左側も真っ白…。
 広末はバックシートに一人で座り、私とドライバーの間に半身を乗り出すような格好で黙って前方を見つめている。フロントガラスの前方に広がる景色も、サイドミラーが切り取る後方の景色と同じくひたすら真っ白。その、前も後ろも、右も左もわからないような広大な空白地帯を、一本の道だけが真っ直ぐに貫き、私たちをともかく北へ北へと運んでいるのだ。私は、私の人生そのものについて思う。かつて海の旅人が北極星を指針に旅を続けたように、私は広末を確かめながら知らないどこかへ向かおうとしている。いったい、どこへ…?
「中心点へ…」私の心に応えるように広末がぽつりと呟く。
 ドライバーは日本語が解らないせいか、あるいはただ単に寡黙な性格なのか、前方を見つめたままひたすら黙ってアクセルを踏み続けている。
 私は眠くなる。雪が音を消して世界はひっそりと静かだ。このままずっとこのドライブが続けばいい。これが永遠に続けばいい。
 …。
 耳が何かの音を拾う。地の果てで鳴る、乾いた鈴の音のような…。
 …
 冬の世界は真っ白で
 四輪駆動の車の外に
 歩く人影も見えませんでした
 僕はずっと高いところにあることを
 知っていました
 けれども
 車の中の僕は
 唄い続けていました
 モウスグハルガクルノダカラ
 そうするともう僕は
 僕のところへ
 ゆかなければ
 ユクのです
 ・・・
 広末が何かを、まるで詩のように唱えていた。学生が教室で、国語の教科書を朗読しているような…。素直で優しく、少し幼さの残る調子で。
 …
 呼ばれる声は
 真っ白にかたまって
 そのまま雪に
 なって
 しまいます
 どうしたら…
 …
 私は夢の中で広末の声を聞いている。広末の声のような。私の声のような。
 …
 笑っている女の子がいます
 とても懐かしそうに
 笑っているのです
 …
 どこかで聞いたことがある。この詩を、私はどこかで。誰かが誰かのために、この詩を…。
 …
 笑っているのはリスの瞳で
 やっぱりあの少女も
 僕
 なのでしょうか?
 …
 目を開けようと思う。体が重い。でも金縛りにあったみたいに動けない。
 …
 僕の分身は
 一人ずつ消えてゆくようで
 最後に残って寂しいのは
 大きな古ぼけた時計塔を背に
 待つ少女です
 …
 私は目を開ける。
 …
 門まで走って!
 あの門くぐって少女の側に
「コレハゲンジツナンダネ」
 少女はNOと思って肯いて…
 …
「ねえ!」と私は振り向き広末の肩を掴む。
彼は眠っていたような目で、ぼんやりと私を見る。
 私は夢を見てたのかな? 私がそう思ったとき、彼が言った。「これは現実…」小さな乾いた声だった。「…なんだね?」
 私はNOと思って肯いた。


夜。
窓の外は相変わらずの雪景色だけど、その窓ガラスにテーブルの赤いキャンドルが映し出されていて綺麗。窓は二重の防寒ガラス。どういう光の屈折なのか、キャンドルはバルタン星人みたいに分身していて、雪の斜面を延々と辿っている。
 私と広末は北極圏の小さなリゾート地にいる。優しげな木製の壁と床とに守られたレストランバーで、トナカイの肉を食べ、ビールを飲んでいる。
「フィンランドって好きだな…」と私。「素朴で、なんだか優しい感じがする」
「どういうトコが?」ベリージャムをトナカイの肉に塗りながら広末が訊く。
「木肌の温もりって感じ。白っぽくて木目の細かい、こういう木材がなんだかいい」座っている椅子の肘掛を撫でながら私は穏やかに答える。
「寒いからね。木肌とか人肌とか、恋しくなる場所なんだよ、きっと。モグモグ」トナカイを頬張りながら彼は笑う。
「ここに来てからあなたとしか話してないもん、私。フィンランド語も英語も、ラップランドのコトバも、はは、喋れないし…」キャンドルの炎を見つめながら私は言う。「だから、かな?  雪とか、暖炉の火とか、木製の椅子とかそういうものに…、妙に親しみを感じてる」
「オイラよりも? このトナカイのほうが親しげ? 昼間ゲレンデで食べたサーモンバーガーのほうが親しげ?」
「あなたも、トナカイも、暖炉の火も、みんな同じくらい親しげ」
「ふうん。オイラも。このフィンビールとカオリちゃん、ほぼ同じくらい親しげ。もう一杯、飲んでもええやろかあ?」言うなり彼は席を立ち、愛すべきビールのおかわりを買いにカウンターへと向かった。
 温かい彼の背中。静かで、愛の溢れる夜。
 
 昼間このリゾート地に着くと、私たちはスノーモービルにタンデムし、北極圏のスキーゲレンデなるものに出掛けた。日本人は一人も見当たらなかった。レンタルスキーを借りるとき、彼は日本語に身振り手振りを交えて交渉していた。大会社の若き経営幹部なら当然英語くらい喋れるだろうと思っていたら意外だった。リフトはかつて私たちが経験したことのないTバーリフトだった。T字型のバーに腰掛けようとしたら二人とも転んでリフトを止めてしまった。広末は悪びれずにケラケラと笑った。金髪の青年がやってきて私に何か言った。私とリフトを何度も交互に指差し、ゼスチュアで何かを伝えようとしている。広末はまた声高く笑う。リフト係の青年は少し顔を赤くして広末に向き直った。今度は広末の顔を指差し、Tバーを指差し、何度も何事かを繰り返した。広末はニコニコ笑いながら青年の言葉を同時通訳。「イイカ。オマエニモ、ヨクヨク、イッテオク。スワルナ。ケッシテ、スワルナ…」
「ホントにあの人、そう言ってるの?」と私。
「言ってるよ、顔みりゃ分かるじゃん…」私にそう言ってから、彼は青年に向き直り声を張り上げる。「オーケー、サンキュー、わかったよミスターブロンド。オイラからもよくよく言っておく。人の顔、指差すな。決して指差すなあー」広末は青年に親指を立ててから、人差し指を突きつけつつ、私のためにTバーを捕まえ、器用に二人の腰に回す。青年は広末の親指と人差し指の意味を百パーセント理解してニヤリと笑うと、彼もまた親指を立てた。心の通じ合いに言語そのものは必ずしも必要ではないのかもしれない。広末のコトバのその殆どに、実際的な意味がないことに私は気がつく。彼は日本語を喋っているんじゃない。呪文を唱えているんだ。心地よい風のような、音楽のような。私はそんなふうに思った。Tバーリフトに寄り掛かり山頂に運ばれてゆく間、私達はずっと無言だった。太陽の光が眩しくて、でも柔らかかった。山頂で生クリームをたっぷりとつけたサーモンバーガーを食べた。彼はもちろんフィンビールを飲んだ。ゲレンデは広くて、人は少なくて、雪質はとことんいい。夕方まで、雪や日差しと一体化して遊んだ。

「昼間スキーしてて思ったんだけどね…」私は食後のコーヒーを飲みながら言う。
「うん?」
「雪ってね、なんか、非現実的だなあって」
「真っ白だから、ねえ」
「うん。日差しもなんだか非現実的だった。ほんわかして」
「なんたって北極圏、だからねえ」
「世界の端っこだよ、ねえ」
「オイラはね、昼間思ったよ…」と彼は目を閉じる。「北極圏のサーモンは格別である、と。しみじみ」
「私、塩辛いサーモンってずっと苦手だったんだけど…、生クリームとサーモンって合うんだね、発見だった」
「塩、苦手?」
「塩分過敏症」
「勇気は地の塩だよ」
「どういう意味?」
「わかんない。口を突いて出ただけだよ…」ドングリのような目をして彼は笑う。「でも、塩は偉い、って気がするな。海だって塩水だし。ほら、お清めとかも塩じゃん。料亭の玄関にあるでしょ、盛り塩。ギムレットだって塩がグラスの縁についてるし。ナメクジだって恐れおののいている。塩ってのはもしや、何かとても偉いモノの結晶なのではなかろうか? ずずず」とコーヒーを啜りながら広末はまた呪文を唱えている。
「一番偉いのは、もぐらだよ」私の口からも呪文。
「なんでもぐらは偉いの?」
「お父さんがね、私の小さいころ言ったんだ。もぐらが一番偉いって…」と私は説明する。「訊いたのね、私。お父さんとお母さんと、あと総理大臣とか、で、誰が一番偉いの? って。そうしたら…」
「もぐら、だって?」
「そう、もぐらが一番だって」
「どうしてかな?」
「さあ…」なんでだろう? 私は喋りながら考える。「海に潜るじゃない、例えば…。ずっとずっと深くよ…」
「うん」
「そうしたら、海底に着くじゃない?」
「着くね」
「そっからまた潜るとしたら、今度は地底じゃない?」
「マグマとか、コアとか?」
「わかんないけど。とにかく海より深くに地球の地面があって、で、そんな地面に果敢な挑戦をすることを生業としているもぐらさんは、だからやっぱり偉いんじゃないかなあ?」
「なるほど…。もぐらか」
「もぐら一番!」
「おけらは?」
「シャベルのレベルが違うわよ」
「…でもだよ、もぐらはきっと食べられないよ、それでもいい?」
「でも一番!」
「わかったよ、今夜のトナカイは美味しいけど、二番で我慢するよ。トナカイ二番」
「もぐらの優勝です!」
 だんだん私は広末風の呪文を体得しつつある。
 
私たちの席にバイオリンを持って初老の紳士がやってきた。広末が頷くと、リクエストのないまま紳士はバイオリンを弾いた。ロミオとジュリエット。たっぷりと引き伸ばされる感傷的な音色が心地よかった。涙さえ出てきた。
「音楽はいいね」と素直に広末。
「うん。だね。…でも、ポールモーリア方面は、ちょっと怖い」と私。
「怖い? どしてさ?」
「中学のとき、掃除の時間とかにね、かかってたの。[恋はみずいろ]とか[オリーブの首飾り]とか。あ、[コンドルは飛んでゆく]もかかってたっけ…。うあ、思い出しちゃった。[コンドル?]もツラいよ。あの、たらたら・たらたら・たったた…って繰り返すアレ、もう駄目。永遠に続く砂漠を、重い荷物背負って、独りっきりでで歩いてる、そんな光景が浮かんじゃうの」
「コンドルは飛んでゆく」
「そう…。途中でね、あの、たたーた・たーらたーら・たららー…ってちょっと調子変わるトコあるでしょ。あそこで荷物を降ろしてね、腰に手をあてて少し休むの、空を見上げるの。私はここにいるよ、ねえ、神様、もう許して。…ってそんな気分。広い空に自由を求めるの。でもダメなの。すぐに、たたた・たららん・たーらー、って諦めの調子になって。で、また始まるの。砂丘の上り下りが。たらたら・たらたら・たったた…って。もう救いなんてないって感じ」
「あー。なんとなくわかるな、それ」
「なんでわかるの?」
「さあね…。でも人はなぜだか同じような感性を共有してるよね。[蛍の光]を聞いて闘争心を掻き立てられる人は少ないし、[コンドルは飛んでゆく]を聞いて性的興奮を感じる人も少ないと思う。[コンドル?]に関するカオリちゃんの心象風景は想像できなくもないよ」と彼が同意してくれたので、私はさらに根拠のない音楽批判を続ける。「[恋はみずいろ]とか[オリーブの首飾り]とか聞くと、なんであんなに白々しい気分になるのかな。なんていうかとても悲しいのに、無理して明るく振舞ってるような…、そんなウソっぽさを感じるのよね、あのテの曲に。今はこんなふうに説明できるけど。中学のころはね、なんていうか、自分がそのときその教室にいるんじゃなくて、それこそ南極とか北極とか、どっか全然違う遠い場所にいるような…、そんなふうに感じて不安だった。自分が遠い処に本当はいて、今教室にいる私は私じゃないみたいな、そんな頼りない気分になっちゃって…。だから今でも[恋はみずいろ]とか[オリーブの首飾り]とか、怖い」
「エラそーなホテルのエレベーターにも乗れないし、マジックショーも楽しめない」
「そうね。でもいいの。今夜のロミオとジュリエットはとても素敵だったしね」
 私の言葉に微笑みながら広末はキャンドルの火をしばらく見つめ、それから言った。「さて。それでは本日の、めえーんえべん! ノーザンライツショー! に繰り出しますか?」
「夜中はうんと寒いよね。部屋にもどって着ぶくれしなきゃ」
 私たちは暖かなレストランバーを出て、厳寒の屋外へ出陣する。オーロラを見るために出掛けよう。


 宿泊しているロッジから雪の中を犬橇でしばらく進む。街灯りも月明かりもない雪原は黒い。夜の海を小さな舟で進んでいくようにも思える。八頭の犬の荒々しいけど静かな白い息。橇に私たちは座り、御者は橇の後方に片足だけ乗せて立ち、もう片足を蹴って犬の行進を助ける。私たちは無言。空にはたくさんの星。天気の良い夜だ。
 ヘッドライトの光が切り取る狭い範囲の前方に、やがてポツンと小さな小屋が現れる。多角形のドームのような小屋。オーロラ小屋だ。
 私たちを小屋に降ろすと御者と犬は帰っていった。懐中電灯の光を頼りに重々しい木製の扉を開ける私たち。中には誰もいない。床板はなく剥き出しの地面。丸い部屋の中央に、レンガで囲った焚き火スペースと、空に抜ける煙突。そこを囲む地面に小さな丸いキャンドルグラスが八つ、等間隔で配置されている。暗闇の中、知らずに私はキャンドルグラスを踏みつけて、いきなりそのうちの三つを割ってしまった。
マッチを擦り、キャンドルにの一つ一つに灯かりを灯してゆく。赤いグラス、青いグラス、オレンジ色のグラス…、炎でグラスの色が浮かび上がる。それでも室内は暗く、すぐ隣にいる広末の顔さえはっきりとは見えない。
 小屋の端に積み上げられた薪を見つけると、広末はリュックを解いて中からナイフを取り出す。ロッジの売店で買ったフィンランド製ナイフ。木製の柄に、太くて短い無骨な刃が突き出したナイフ。広末は薪を一本左手に取り、それを地面に立て、右手のナイフでそれを中程くらいまで、何度も切り込んでゆく。薪はウィンナーソーセージのタコのように仕上がる。レンガの囲いの中に幾つかのタコを並べ、新聞紙に着火した火を慎重にタコの足に移す。私は小さな不安定な火を扇ぎ中ぐらいの火に育て、中ぐらいの火はやがて自らの意志でより大きな安定した焚き火となってゆく。私たちは無言で作業を続けた。
 やがて焚き火の周辺は随分と明るくなり、私はやっとホッとする。「コーヒー飲む? それともフィンビール?」この寒さにさすがにビールは飲まないよね。小屋の中に発見した温度計はマイナス十度を示していた。
「ビール、よく冷えてるだろうね…」と広末は笑う。「持ってきたの?」
「凍ってるよ、きっと。もし持ってきてたら、ね」ポットの熱いコーヒーをカップに注ぎながら私も笑う。
 
珍しく広末も無口。暗がりの中、焚き火を囲むように座る私たち。私は入り口の近く青いキャンドルグラスの前に座り、広末は薪の近くオレンジ色のグラスの前に座る。
「こっち来て座ってよ。そんなに離れてたら、顔よく見えないし、寂しいよ」私が言う。
「ここ、結構いいよ。カオリちゃんを眺めるのに特等席だよ」広末が言う。
 私は笑う。なんだかなあ。
「角度がいいんだよ。焚き火がね、カオリちゃんの存在を斜めから照らしてる」
 そういえば昔、カメラマンの友達が言ってたっけ。写真の出来は一言で言って[光の角度]だって。どこかのバーで飲んでて、その友達は水割りのグラスをあちこちに掲げつつ私に言った。ねえ、ここにこうしてある水割りと、こっちにこうしてある水割りと、どっちが美味しそうに見える?
「焚き火のライティングが良いと、そうご指摘されてるわけですね」私が広末にそう言うと、彼の影が頷く。「8時だョ! って感じじゃん。全員集合…って叫んでもこんな雪の中、誰も集合しないだろうけど」
「なぜ、ドリフ?」わけがわからず私が訊くと、彼は答える。「ドリフは実は関係ない。…時計の文字盤を想像して。長い針がカオリちゃんだとしようよ。短い針がオイラね…」と薪を使って彼は、地面に簡単な絵を描く。「焚火を中心にして、カオリちゃんが十二の位置に座ってるとすると、オイラ、ほら、八の位置に座ってる。八時的ポジションだな、ってそう思ったわけさ」
 
彼のおかしな説明を聞くうちに、ふと古い記憶が蘇る。小学校のころ、クラスの友達と私は教室にいて。時計の教材で遊んでいて。何時が好き? という話になった。三時が好きだ、と誰かが言った。おやつの時間だから好きなんだって。
「薫ちゃんは何時が好き?」と、その子は私に訊ねた。
「八時が好き」と私。
「なんで?」 
「なんでかな? わからない」私がそう言うと、そんなの変だよ、と言われた。理由はなかった。ただ八時というその針の配置が好きだった。四時もなんとなく好き。九時や三時は嫌い。カクカクとんがってる感じだから。六時や十二時も、針がまっすぐで、なんとなく緊張しちゃって苦手。私の説明に友達は笑った。バカじゃん、そんなの、バカオル、バカオル! …。

「うんうん。いいよね。私たちのこの角度」私は広末に賛成した。私から見ると、彼と私は四時的ポジション。焚き火は斜め左方向から広末を照らしている。
「こっから見ると、三日月みたいで綺麗だよ、カオリちゃん」と広末が言う。
「暗くてあんまり見えないくせに。よくもまあそんなセリフ、思いつくよねえ、相変わらず」
「姿を照らすには、焚き火の明るさが足りないけれど、存在を照らすのに、角度は十分だよ」
「どういう意味?」
「満月もいいけど、三日月もいい」
「うん。私、満月よりもどっちかっていうと三日月のほうが好き。三日月のほうが月らしいって気がする」
「満月を、こう、グルリと丸!」と地面に彼は丸を描く。「…って描いても、それじゃ太陽だか、ボールだか、百円玉だか、わかんないもんね。その点三日月を描けば…」と丸の横に三日月型を描き足す。「少なくともライバルは、蜜柑か餃子に絞られる」
 ははは、と笑う私の口も三日月だ。
「さて。じゃ、そろそろ…」私は言いながら立ち上がり伸びをする。「第一次オーロラチェック、開始しまーす!」
ドアを開けて外に出て、祈って夜空を見上げるのだ。
 見えるといいな、オーロラ。


「そうかあ…」と広末の声。「三時は、おやつの時間だから好き、かあ」
「そうなの…」私の声と少し違って聞こえる私の声。「針の配置で好き嫌いを言った私は、みんなに笑われたんだよ」
 ミストサウナの中。私たちは並んでベンチに腰掛けている。
 
結局昨夜、ついにオーロラは現れなかった。私たちは時間をおいて、何度も小屋の外に出てみたけれど、いくつかの流れ星を見ただけで、オーロラを見ることはできなかった。第十八次とか、だいたいそのくらいのオーロラチェックを終えた夜中のほぼ三時、待つことを諦め、小屋に用意されていたクロスカントリースキーを履いて、私たちは悲しくロッジにもどった。凍えた体を熱いシャワーで温めるのもそこそこに、二人でベッドにもぐり込み、昼過ぎまでぐっすりと眠った。
 起きると体が痛かった。スキーのせいかもしれない。ロッジのベランダから見える風景は、雪を被った針葉樹と、雪また雪のみ。ベランダの手擦りの上、こんもり積もった雪に深々と埋まっているのは、広末が大事に冷やしているフィンビール。ぶるる、と私は震えた。
 フィンランド名物のサウナに入ろう。私がそう提案してやってきたサウナハウス。水蒸気の立ち込めたミストルームは男女混浴だった。フィンランド人は大らかなのか、キッチンペーパーのような、備えつけの紙一枚だけを手に、女性も気にせず堂々と中に入ってゆく。
 タオル持ち込んだら怒られちゃうのかな? 私は少し不安に思ったけど、まあいいかとバスタオルを体に巻いて、用心深くそっとミストルームの扉を開ける。
「ねえ、もう入ってる?」ミストの中で私が呼び掛けると、広末の声が変なアクセントで答えた。「入ってまあす」
 
もうもうとした蒸気の中、行き交う人の顔もよく見えない。
 木製のベンチに腰掛けて、私は広末の声と会話する。昨夜、[八時のポジション]で思い出した、好きな時刻と嫌いな時刻の話をする私。
「三時はおやつの時間だから好き。九時は面白いテレビドラマが始まる時間だから好き。…ってのは、まあわかりやすいよね」と広末。
「うん」と私は答える。体に巻いたバスタオルのことで、体の大きな外国人に、ワケわかんない言葉で注意されたらどうしよう? なんてビクビクしながら。
「ドリフが始まるから八時が好きだ、ってんなら、友達もわかってくれたんだろうな」と彼は言って、ふふんと笑う。
「うん。針のイメージがなんとなく優しそうだから、って答えたから笑われた…」私はなんだか恥ずかしくなって身を縮める。
 私の隣で、広末が姿勢を変える気配。
「人は、解釈を加えないで、[ありのまま]を見ることは、滅多にない…」と彼の声。
 静かなミストルームに、彼の声はポツリと落ちた雨粒のように軽く響いた。
「どういう意味?」
「本質は、人により、さまざまな意味で語られる…」とまた彼の声。「そういうことさ」
「そう?」さっぱりわからない。ま、いいか。
と、肩を竦めた私の背中に、隣から突然手が伸びて、私のバスタオルを剥ぎ取った。私は驚いた。あまりにいきなりで驚いた。驚いたから自分でも驚くような声を上げてしまった。
 声が大きかったので、ミストルームの中にいる全員が私のほうを見た…ような気がした。私は体を抱え込むようにして、他人様の視線から自分の裸体を守った。
「きゃー、何すんのよエッチ!」と広末の声がふざける。「みんなジロジロ見てんじゃないのさ、この私のセクシーでやーらかいCカップ半のオッパイやら、旅先でプールに入るかもしんないと思って、前もって丁寧に処理してきたモヒカン族みたいなアンダーヘアやら。今やこのルーム内の全外人男性さんの猛々しいモノが大蛇みたいにムクムクと鎌首もたげて、しゃああ! きゃああ! ごめんなさい、お父さん、お母さん、私は異国の地で日本人娘としてアルマジロな露出行為におよんだ恥ずかしい娘でございます。…って今思った? で、アルマジロみたいに丸まって、裸、隠してんの?」
 長いセリフだったね、広末くん。オカマさんのような口調で一気に語り、偉かったね、広末くん。でもね、それ、相手が私のような優しい女の子だったから特別に許されるんだよ。ヨソでそんなことしちゃあダメなんだよ、タイホされるんだよ。と、心の中で私は言い、口では黙って、アルマジロな体を硬くしていた。
「と、まあ、そんなふうにカオリちゃんは思っただろーけれど…」と広末。
 思ってませんよ、そこまでは。
「でもね、周りを見てみなよ…、どう?」と広末。「カオリちゃんの目に外人さんの猛々しいモノなんて一つも見えないでしょ、ミストで。どこに人が座っているのかだって判らない」
 確かに…。ミストルームに今、人が何人いるのかも、どこに座っているのかも、全然判らない。アルマジロは少し緊張を緩める。
「でしょ…」と広末。「ってことはカオリちゃんの裸だって、カオリちゃんが意識するほどには、周りに見えてないってことだよ。セーフ!」
 わかってないよなー、見えなきゃいいってもんじゃない。混浴状態ってのが、もうそれだけでやや抵抗感…なわけで。などと思いつつ、でもミストにノボせそうで、アルマジロはさらにじわじわと体を緩めながら、それでも言ってみる。「羞恥心ってのがあるもん。人の視線がどっか他のトコさまよってても、視線があるってだけで、とにかく恥ずかしいんだよ、きっと」  
汗がポタポタと落ちる。なんだか眠いみたい。
「大和撫子だねい」と広末の声が笑う。
「男女七歳にして…っていうでしょ…」と私はぼそぼそと応える。サウナって熱いなあ。これはきっと痩せるなあ。
 隣で広末の立ち上がる気配。
「本質は、また別に…」と力強く広末。「あるかもねー」言いながら私の手を掴む。
「どこ、行くの?」と私も立ち上がる。
「違う角度から光を…」と、手を引かれてふらふら歩く私に広末は言う。「キラーン! 当ててみるなりぃー」
 ミストルームの奥まで歩いて。
 広末が扉を開ける。

 眩しい!
 扉の向こうは外だった。ミストルームの奥には、外へと続く扉があったんだ。
 外の空気。
 雪。
 うわー、雪! 積もった雪に、私たちは飛び込んだ。雪を見た瞬間、飛び込みたい衝動に駆られた。
 すごく冷たい! 気持ちいい! じゅうじゅう音をたてるような勢いで熱が逃げてゆく。
 青い空に、ポッカリと白い月。
 積もった雪の中を転げ回って体を冷やす。子供のようにはしゃぎ回って、お互い、顔を見合わせる。
「雪ウサギみたいだ。そーやってピョコンと雪の中にいると」彼がそう言って笑った。肩の雪が、太陽の光を受けてキラキラと光って。
「生まれたてみたいだピヨ」私が言う。
「ビールが飲みたいピヨ」彼が言う。
 得意のヒヨコ口で周りを見回す私たち。何人かの男女が雪の中、気持ちよさそうに体を冷やしている。
 私たちは生まれたてで、輝いていて、力強く、笑顔だった。私はなんだか嬉しくて、広末に飛びついた。私たちは笑顔で抱き合った。素っ裸だ。雪にまみれた二人の体は、それでもまだ温かかった。


「オーロラってどうしてできるんだか、知ってる人?」と広末。
「はあーい」と私は手をあげる。
「じゃ。カオリくん」
「はい。北極熊が眠くなったんでカーテンを引いたのです」
「うーん。そう、かもしれない。他には?」
「はあーい」
「はい。じゃ。カオリくん」
「オーロラ。それは神秘の現象です…」私は目をグルグルさせながら答える。「なんで起こるのか、それは、だあれにもわかりません」
 広末が、やははと笑う。
 なんだかなあ。と思って私は呟く。「私この旅に出てからすっかり子供返りしてる」
「心の空が夜になり、太陽が沈んで、月が出たのだよ」と広末が言う。
「先生。どういう意味ですかあ?」
「だあれにもわかりません」
 私たちの会話。殆ど意味のない会話。じゃれ合っているだけのトーク。
(にゃにゃあ、うにゃ?)黒猫が言いました。
(うにゃ。にゃおん)白猫が応えます。
 調子は合ってる。テニスのラリーは続く。丹頂鶴の舞。影絵のキツネ。
 二人だけの旅。二人だけの会話。私はどんどん広末化している。
 今、二人だけのオーロラ小屋。日中は雪の中を裸で転げ回った私たち。今は二人とも、普通の下着の上に防寒下着を着て、トレーナーを着て、さらにセーターを着て、でもってその上にスキーウェアも着てる。不思議。すごく寒い国だから、すごく熱いサウナの国でもあるんだな。
 日本にいるとき広末は、私に時々優しくて時々冷たかった、そんな気がする。でも旅に出てから広末は、ずっと私に温かい。一緒に寝て、一緒に起きて、一緒にご飯して、一緒に遊んで。ずっと一緒にいて、ずっと会話してる。このままずっと、旅が続けばいいのに。
「オーロラはね、宇宙の現象なんだ…」焚き火に薪を、また一つ投げ込んで広末が言う。焚き火で広末の顔はオレンジ色に染まって。「オーロラって、北極地方か南極地方でしか見えないじゃん、普通は…」
「普通は?」と私。
「うん。太陽の活動が活発なときなんかはオーロラが出易くなってね、北海道辺りでも観測されたりするんだってさ」
「へえ、北海道で…。沖縄では見えないの?」
「沖縄では見えない」
「寒くないとダメなの?」
「っていうか、緯度の問題だよ」
「ふうん」なんだか難しいな。
「地球はね、大きな磁石なんだ」と広末。
「S極とかN極とかの?」と私。
「そう。サウスとノース。南の端っこと、それから北の端っこ」
「SMは?」広末風会話術に習ってボレーを決めてみたりして。
「サディズムとマゾヒズム…」と呟いて彼は笑う。「面白いね。S極とM極ってのも」
「引かれ合ったりして」と私。さらににボレーだ。
「カオリちゃんはM極だな、多分に」と少し浮いた彼のリターンを「あなたはS極?」スマッシュ! 
「オイラは違うなあ。S極でもM極でもないよ、残念ながら…」と彼はボールに追い着き「日本においてきちゃったキミのボーイフレンドはS極なんだろ? 想像するに」と見事スマッシュはリターンされた。
うーん、確かに正巳くんはS極だったかもなあ。だから惹かれ合う、そういう部分はあったかもなあ。私は黙ってしまい、広末にポイントが入った。フィフティーン・ラブ。
「人間にS極とM極があるように、はは、地球にもS極とM極がある」広末のセカンドサービスでラリー再開。
「惹かれ合うの?」
「その通り。磁石のS極とN極は引き合うね」
「北極と南極は惹かれ合うの?」
「まあ、そう言えるかもね」
「ちょっとアヤシイ感じ。だって北極も南極も地球なんだから。そんなの自分の一部が自分の一部に惹かれるみたいで、ヘンじゃん」
「地球の立場で考えれば、まあそういうことだよね」
 ふうん、と私は思った。
「あ、カオリちゃん。今、想像しちゃったでしょ…」と悪戯っ子のような表情で広末。「自分で自分を縛って、ロウソクなんかで責めちゃって…」
 してません。
「S極とM極なんて話から、はは…」と彼は笑う。「変な風に展開しちゃったね」
 まったくだよ。正巳くんのこと急に言われて私、思い出しちゃったよ。この旅から私は、岡野カオリになったのに。…岡野薫のこと、少し思い出してしまった。
「それで、先生…」私は自分の心をはぐらかすように元気よく発言します。「オーロラは一体どうしてできるのですか?」
「はい。お答えしましょう…」オーロラ小屋の地面に丸く地球を描いて広末が説明する。「これ地球。ここ北極。で、こっち南極。いいかな?」
「いいでーす」
「地球は巨大な磁石だよ。S極とN極の間には磁力線という力が作用している。こんなふうにね…」広末は地球の絵の両極を結ぶように蝶ちょの羽のような線を描く。「一方で、太陽からは太陽風というのが吹き出しています。太陽風は地球に向かって飛んできます。ビウウウ!」と大きな矢印を描き足す広末。
「風が地球にぶつかるの?」と私。
「太陽風は地球の両極間に働いてるこの磁力線にのって、ビョオと方向を変え…」広末はさらに風の動きを描き足す。「このように、南極や北極に引き寄せられます」
「ふんふん」
「南極や北極の上空…、宇宙空間から降り注ぐ太陽風が、地球大気の窒素やら何やらにバシバシぶつかって発光する現象、それが即ちオーロラであります」
「ふんふん」
「以上で講義を終わります」
 私、拍手、拍手。「太陽からのメッセージだね…」面白いな。「それが地球に届いたとき、現れるんだね、オーロラ」
「メール着信みたいな表現だな…」と広末は笑う。「それでいいのかもね、ポエムな表現としては」
「ポエムな?」
「そう。また別の表現ではこうも言える…」と広末。「太陽は[現実]。地球は[現実に対する私的認識]。オーロラは、ありのままの現実を垣間見させてくれる[奇跡の光]。…なんちって」
「そうなの?」意味不明です。
「ウソだよ。さっきの説明にしたって、まだ今のところ仮説の域を出てないみたいだしね。カオリちゃんの言う通り、オーロラは神秘の現象で、その原因はだあれにもわかりません!」と広末は目を丸くして見せる。「…ってのが一番正しいんじゃないかな?」
 なんだかキツネに抓まれたみたいだけど。「見えるといいね。オーロラ」私は単純にそう言った。
「そうだね、見えるといいね」
夜が更けてゆく。


「たくさんあるね、星…」と私は呟く。
 オーロラ小屋の外。オーロラは見えない。星空が綺麗。空気が冷たくてキンキン音が聞こえてきそう。
「お…」広末が言うと同時に、スッと星が一つ流れる。
「ねえ…」と私は言う。「星って不思議だね」
「どうして?」
「だって、あんなにたくさん。なんの役にも立たないのに…」
「星は役に立たない?」
「うーん…」と私は考える。「太陽は昼間、世界を明るくするのに役立ってるよ、確かに…」太陽も星の仲間だよね。「月も、真っ暗な夜道を照らしたりとか、少しは役に立ってるかもね…」月も星、でいいんだよね。「でも、その他にあんなにたくさんの星…、あってもなくても、私たちの生活になんの関係もないじゃん?」そうでしょ?
「うーん、そかな?」
「アポロの宇宙飛行士って月に降り立ったじゃない?」
「らしいね」
「ってことは、月も、星も、みんなちゃんとした地面じゃない?」
「地面っていうか…、カオリちゃんが言ってるのはつまり、物質…ってことかな?」
「そうそう。キラキラ光ってる、あのちっちゃいのは、ここからうーんと離れたとこにある、うーんと大きな塊なんでしょ」
「たぶんね」
「そんなの、なんで存在してんのか、不思議」
「そう?」
「…だって、例えばこの腕時計は、時間を示すために存在してるでしょ。このウェアは寒さを防ぐために存在してる…」
「それは人間が作ったものだからだよ…」と頭を掻きながら広末。「うーん、例えばさ、じゃ、木は? なんで存在してる?」
「小鳥が翼を休めたり…、あとは木陰で私たちがお昼寝したり、するためよ」
「はは。じゃ、風は?」
「ないと、夏、暑いじゃん」
「人間本位な考え方だな。…じゃあさ、カオリちゃんは、なんで存在してんの?」
「あ。ひどーい! 私さっき薪削るの手伝ったし、夕方優しくマッサージしてあげたのに…」私はワザとフクれてみせる。「って意味じゃないんだよね、わかるけどさ。うーん…」なんでかな? 私はなんのために存在してるのか? そうだ、今はそう、広末といるため…。「あなたと一緒にいるため、かな? うん、そのために私は存在してるのだ…」
 私がそう言うと、広末はまるで氷のように冷たい目で私をじっと見た。ような気がした。
 私はなんだか少し狼狽える。「や…。っていうか、アレですよ、ただのセリフですよ、今のは…」なんか良くないトコに入っちゃった? 「重荷だった? ごめんね…。あのね、そうね、私、うん、なんのために存在してるのかな?」考えたってわからないけどさ…。「うん。そういうふうにはあまり考えてこなかったな。えっと、そうそう、私なんかが存在してても許されるようにさ、一生懸命ニコニコしたり、人に優しくしたり、お化粧したり、マッサージしてあげたり…」
「カオリちゃんの存在には価値があるよ、もちろん、十分に」
「…ありがと」
「人やモノは、ありのまま存在してる、それだけで価値があるんだ」
「どうして? 誰にとって価値があるの?」
 広末は少し考えてから言う。「もぐらにとってだよ、例えば」
「もぐら? …どんな価値があるの?」
「それはもぐらに聞いてみなきゃわからない」
「私、もぐらの役に…、立ってるかなあ?」
「例えばね、カオリちゃんは今、生きよう、と思って生きてるの?」
「…?」なんの話? 「生きよう、なんて頑張って考えてないよ。普通に生きちゃってるんだよ。みんなそうでしょ。生きてる意味がないから死のうって考えて、自分の命をストップさせることはできるかもしれないけど…。生きよう、って思って生き続けてるわけでもないよ」
「惰性で転がるボール、みたいなもんだ。でも最初の一突きはもぐらが突いたんだ。生きろ、存在しろ、うりゃ! ってもぐらが力を込めたんだ。そのせいでカオリりゃんの心臓が最初のビートを打って、あとはカオリちゃんの意識と一見関係なく、勝手に心臓がビートし続けて、肺がスーハーし続けてる」
「うんうん。そうそう。私、不思議だった。心臓が勝手に、ザッザッていって動き続けてるのが…」
「ん? ザッザッって面白い表現だね。ドキドキじゃなくて?」
「うん…。小っちゃなころね、夜寝るときね、枕から音がしてね、ザッザッって。ええと、こんな感じ…」
 私は辺りの雪を踏みしめて歩いてみせた。       
 ザッザッ。
「ザッザッ」広末も言いながら歩く。
「そうそう。…それはつまり心臓の音だったんだけど、子供だったからなんか不安で。いつも寝るとき静かになると必ず聞こえてくるこの音はなんだろう? …って」
「うんうん。わかるよ、その感じ」
「うん。でね、私、荒野のガンマンがいるんだって、そう思ったの」
「荒野の? ガンマン? はは…」広末は面白くてたまらないという表情で笑いながら、「ま、一杯どうぞ」と私にコーヒーポットを突き出す。
「あ、いや。これはこれは、どーも」とカップで受ける私。
「で? 荒野のガンマンがどうしたって?」
「あ。だからね、ほら、そのころテレビで映画とか観るじゃない? そこでガンマン二人の決闘シーンとか、あって。背中合わせに立って一歩ずつ反対に歩いて、で、十歩目でバッと向き直って、早撃ちで…」
「バキュウーン!」片目を瞑った広末の指が私の心臓を指す。
「そうそう、アレ。アレを思い描いてたの、あのころ、私。…このザッザッっていう変な音は、荒野のガンマンの足音ってことにしよう、って。どこかにガンマンがいて荒野を歩いている、その足音なんだ、って」
「かわいいね…」と私の頭を撫でながら広末。「カオリちゃん、怖いから勝手にこじつけたんだ」
「ふんふん、そうなの。でも、いつまで経ってもバキューン! ってこない。どこまで歩いていっちゃうのよー? って感じ」
「かわいいねえ」
「でもね、バキューン! って音がしたら、そしたらガンマンのどっちかはやられて死んじゃうじゃない? それが私、怖かったの。いつか、バキューン! ってなったら、私も死んじゃうような気がしたの…」
「そりゃ怖いね」
「でね、私、思ったの。ガンマンは…」
「うん」
「ガンマンは旅に出たんだって」
 広末は私を見る。温かい目。冷たい目の彼と温かい目の彼はホント別人みたい。でも私はどっちの広末も好きだよ。
「かわいいねえ。旅に出たんやなあ、ガンマンのお兄ちゃんは…」と広末はおどけて、時々なぜだか大阪弁。
「そう。ずーっと旅してるの。ザッザッって。そう思うことにしてたの、私。笑っちゃうでしょ」
「あのね、カオリちゃん…」と広末は急に声をひそめて辺りをうかがうと、私にそっと耳打ち。「本当のコト、教えてあげようか?」
「え? 何? くすぐったいよ…」
「そのザッザッって音…」
「何?」
「…もぐらだよ」
「…ガンマンじゃなくて?」
「そう。本当はもぐら。もぐらが穴、掘ってるんだ、どっかで」
 私は広末のカップにコーヒーを注ぐ。分厚い手袋してると、お酌もなかなか大変だな。「いいでしょう。広末教授がもぐら説を採りたいなら、今日からあの音はもぐらの音ってことにしましょう。ガンマンの音じゃなくて」
「ありがと…」とカップを軽く持ち上げて彼は笑う。「でもさ、カオリちゃんの想像力ってのは、なかなか侮れないね」
「そっかなあ。子供のころってさ、誰でもみんな、いろんなこと想像するじゃない?」
「例えば? 他にはどんな?」
「うーん…」と私は考える。「そうだ。思い出した。自分は宇宙人の子供かも、って想像したことあるよ、私ったら。ははは」
「ほほ…」と広末は膝をのり出す。「そりゃまたどういうお話で?」
「えー。なんか、恥ずかしいな…」ホント、あまりにバカバカしくって。「面白い? こんな話」
「面白いよ…」と彼は答える。「普通に東京にいて、普通にバーで酒飲んでて、普通に美人の口から聞ける話じゃない。子供のころの夢想をしみじみと語り合うには、あまりに皆さん忙し過ぎる。勇まし過ぎる。仕事の話や子供の話、ローンの話や離婚の話、食べてる料理の評価や、隣の美人への口説き文句、そんなのばっかり。でしょ?」と言って手を広げる。「実際の役に立たない話の中なんかには、これっぽっちも価値なんて認めない。役に立たないものの中にこそ、本質の片鱗が見え隠れするのに…」言いながら彼は辺りを見回し、夜空を見上げる。「この極北の凍てつく大地と星ぼしこそが我々を夢想家にし、また我々をもぐら化させるのだ。なんてロマンなことよ。我々は今まさにこの幾千万の星ぼしと、愛や真実について語り合っているのだよ。ふふふのふ」
 彼の喋り方ってまるで小説の文章みたい。そう思って私は笑う。「あなたはいつでもどこでも言葉の魔術師、だよねえ。その調子で今まで何人の女の子を口説いて、で、もぐら化させてきたの?」
「星の数ほど。なんちって。…ごめん。ちょっとタイムね。おしっこしてくるや…」彼はそう言うと、ほんの十歩ほど雪原を歩き、そこで苦労して何やらを引っ張り出したようで。「ねえ、オイラの前、そっからライトで照らしてくれる? サンキュー、サンキュー。いやあ、着ぶくれしてるときのおしっこは、そりゃもう重労働だよねえ…」
 と、言われましても。私は答えられません。
「うええ、空気が冷てー。 …塩かけられたナメクジだよ。ちぢんじゃってさ…」
 ナメクジ、と私は思う。
「よいしょ。…しーこっこっこー。おー。雪がじゅわーって言ってる」
 やれやれ、そーくるか。って、あれ? 私どうすんのよ? トイレないじゃん、ここ…。
「いやあ。すまんこって、すまんこって。うー、しばれる、しばれるー」言いながら広末はもどってきて、「ギュッ! と、あっためてくんろ」と私の背後から私を抱える。
「ひゃー。ひゃっこい、ひゃっこい」と私。
 なんだかなー。

「で、宇宙人の子供についての話、続きを聞かせてくれるんやろなー」私の背中にセミのようにはりついたまま広末は言う。
「動くと命はないぞ! って言われてるみたい」
「オーロラに告ぐ!」と広末。「観念してその姿を見せなさい。即刻見せなさい。さもないと、この女の命はぁ…ないぞ!」彼の声がひっくりかえる。
「きゃー、助けてー、オーロラしゃーん。このままじゃあ凍え死んじゃうよぉー」と私も言ってみる。
 静寂。
 寒さ。
 拍手を得られない芸人の悲しさ。
「ふうむ。持久戦の様相を呈してきたな…」と彼。「しかたないからオーロラ待つ間、余罪でもじっくり聞かせてもらおか」
「話しますよ、ダンナ。話しますからお願い、カツ丼とって」
「奇遇だな。自分も今、あったかいカツ丼の出前が欲しいな、そう思てたとこや」
「話したら命は助けてくれますか? カツ丼も食べさせてくれますか?」
「トナカイ丼で、手を打とか?」
「はいな、ダンナ。したら、ちゃきちゃき話しちゃいますよー」自分で言ってて思うよ。なんてセンスのないベタな会話。さすが北極圏。二人しかいない場所で、二人しかいない観客のために、同じ二人が演じているような茶番だけど、ホントこんなことしてないと、オーロラを待つなんて無理…。
 

寒さと眠さを振り払うように、私は話し続けます、思い出話、宇宙人の巻。「幼稚園に行く前くらいのころ、だったかなあ? 家でね、お昼寝するの。お母さんが私に言うの、眠りなさいって…」と独り言のように私。「お昼寝って苦手だったの。急に眠りなさいって言われても眠れないよ、って思って。いつも寝たふりするんだけど、それもつらくて…」闇に吸い込まれてゆくような私の声を私は聞いている。「スースーなんて寝息をたててるフリとかして、三十分くらい頑張ってみて。で、それから[ハッ!]と目覚めたフリなんかもしちゃって、で、何時間寝た? なんてママに惚けてみたりしてね…」広末が笑う気配を感じながら私はどんどん話し続ける。「ある日ね、やっぱり最初は寝たフリしてたの。もう三十分くらい経ったかな? まだかな? なんて思いながら。そんなふうにしてるうちにウトウトして、ホントに眠っちゃうこともよくあったんだけどね。そのときは、なんていうか…。半分眠って半分起きてるみたいな、そんな感じ…」世界の奇妙な静けさを感じながら私は白い息とともに言葉を放つ。「そのとき変な体験したんだ。どう言えばいいのかな? うーん…」と考えようとしながらも、もうなんだか私は何も考えていないみたい。言葉が勝手に言葉を語っているみたい。「私、お昼寝するじゃない? で、起きるじゃない?」眠っていたのかいなかったのか、微妙な気分で幼い私は目を開ける。「するとね、そこにはママがいないの…。というか、そこは私の家じゃないの…」わかるかな? 「でね、私も私じゃないの…」わかるかな? 「強いて言えば宇宙人みたいなもん、なのかな? ってそれはあとで考えたことで…」そのときの記憶について私は後に何度も意味付けする努力を重ねてきた。「なんていうか実際は、こう、火星人とか、そういう姿や形のあるものじゃないの。もっと全然[別なもの]なの。機械とか数式とか、言葉とかクラゲとか…。幼いなりに、いろいろと自分の知ってるものに例えてみようとした記憶があるんだけど…。そういう私の知ってる何ものでもないのよ、その[目覚めた私というもの]が…」彼の反応を待って私は少し言葉を区切り、無言の反応を確かめてまた話し続ける。「わかる? 私が[ハッ!]と目覚めるでしょ。でね、[ハッ!] としたその一瞬に、[全てを思い出す]の。ああ私ったらバカみたい、人間になってる夢を見てた…ってそんなふうに。変だよね」
「邯鄲の枕、胡蝶の夢、みたいな話だね…」と広末。「続けて」
「で、比喩的にだけど、まあ目を開くじゃない? するとそこは[私のよく知ってるところ]で。そこにはママに相当する[別なもの]がいるの…。いる、っていうか、ある、っていうか…」
「存在する」と広末が言う。
「そうね、存在する…。私にはそれがちゃんと[私のママ的なもの]だってことがわかるの。あ、ホントのママだ、って…。でね、同時にわかってるの。私ったらホントにバカみたいだけど、夢の中で人間のママを私の本当のママ[だってことにしてたんだ]ってこと…」私は溜息をつく。「すごく変な言い方でごめんなさい。初めて人に話したの」
「わかるよ…」私の背中で広末が言う。「とてもよくわかる」
「私、あなたといると、なぜだか難しいことが話せるみたい。自分で実際に考えてもいないようなことまで…。これはきっとあなたのパワーだよ」
「複合的なシステムが生まれるんだ」
「どういう意味?」
「二人羽織だよ」
 催眠術にかかって自白を誘導されているような…。
「結局それは、[夢の中で見た夢]みたいなもんだったんだろうけれど…。私ね、その日ホントにお昼寝から覚めて現実のママの姿を見たときね、最初ちょっとゾッとしたの。なんかすごくグロテスクというか、奇妙な姿を見た、って気がしたの、普通にいつものママなんだけど。なぜだかしばらく、しっくりこないというかウソっぽいというか…。[別のママ]がホントなのか、そのとき実際に目にしてる人間のママがホントなのか、少し混乱したんだと思う。もちろんおやつを食べるころには、もう違和感なんてすっかり消えてなくなっていたんだけどね…。でも今でもはっきりと覚えてる、あの[ハッ!]と目覚めた瞬間の奇妙な感じ…。[全てを知っているのに知らんふりしてたんだ]って、そんな感じ。私自身も私のママも、それから私たちの世界も、ホントは全然[別のもの]なんだって、そんな感じ…」
 静寂。

「寒い?」と、しばらくの静寂を破って広末。
「あったかいよ、平気。交代しよ」そう言って私は広末の背後にまわり広末の背中を抱く。
「もぐらがザクザクいってる、背中で」と広末が笑う。
「もぐらさん、ちゃんと頑張ってるね…」と私も笑って。「私ね、こうして人とくっついてるとすごく安心…」言いながら私は広末の背中に頬を寄せる。「私、なんとなくいつも不安だったの…」
「うん?」
「私ね、幼稚園のころ思ったの。私はどうして私なのかな? って。どうして私はユカちゃんじゃないのかな? って。ユカちゃんもユカちゃんのこと[私]って呼ぶのに。私が思う[この私]と、ユカちゃんが言う[ユカちゃんの私]とは、どうして違うのかな? って」
「なるほど」
「うん、あとね、例えばこのウェアは青でしょ? ね?」私は私のスキーウェアを指差して言う。「でも、私の思ってる[青]と、あなたの思ってる[青]とは別かもしれない…。私にとっての[黄色]が、あなたにとっての[青]なのかもしれない。あなたは、私があなただったら黄色いねって感じるウェアを見て、青いねって言ってるのかもしれない…。空の色と同じ青だねって私が言って、あなたがそうだねって答えたとしても、あなたに見える空は実は私の言う黄色、なのかもしれない…。別人なんだから。悲しいけどそう考えると、私はひとりぼっちみたいな気がして、なんだか宇宙の中にぽっかり頼りなく浮かんでるような、そんな心細い気持ちになっちゃうの」
「なるほどなるほど」
「逆に言うと、何十億もの別人の[私]が、青いものを無条件に青いと感じることって、なんだか不思議。みんな別々の[私]なのにね」
「いろんな状況をともに生き、色んな状況を伝達しあったその結果、何十億だか何百億だかの人間が、ついに共通のモノサシを持った、ってそういうことなのかな?」
「でもね、有史以来ずっと離れ小島にひっそりと住んでる一族がいたするでしょ。それでもその人たちは、青い空を見て青いなって、やっぱり感じるんでしょ、きっと」
「うん。そうかな」
「もっと深いところで、ただ単に私たちはみんな、繋がっているのかもしれない」
 一体感。
 広末の背中をさらに強く抱きながら私は続ける。「それから実はもっと怖いこと、感じたことがあるの…。私は今、この腕の中に確かにあなたがいるって実感してる。それはもう疑いようもなくはっきりきっぱりわかってるんだよ、もちろん。でもね…。時々何かの拍子に不安になるの。つまりね、私が私の周りに[確かにいるんだ]って実感してる、あなただとか、パパだとか、ママだとか、そういうみんなが、[実際にはいなかったら]どうしよう? って…。もしかして私が、勝手にいると想像してるだけ…だったらどうしよう? って…」
「ふええ…」と広末は笑う。「カオリちゃんたら美人のテツガク者。翼の生えた猫。世にも珍しき存在」
「哲学かあ、…なんて勉強したことないなあ。ただ私は時々頼りない気分になっちゃって、で、誰かとギュッと抱き合っていたい、ってそんな気持ちになるの。私じゃないあなたがそこにいて、そうして[私]も確かにここにいるって、そういうのを確かめたい気持ちになるんだと思う。こういうこと考えるのって、やっぱり変かな?」
「変じゃあないよ…」と、広末は言いながら私の腕から離れると、夜空を仰いでウンッ! と伸びをする。「そういうことはとても大事なことのような気がする…、けど、どうもなんだかね、そういうこと話すのは、なんとなく恥ずかしい気がしてさ、知らんふりしてるんだろうね、みんな。[知っているのに知らんふり]…。それがこのゲームのルールなんだ」
「ゲームって、なんの?」
「人生ごっこ」
 ふうん、と私は思う。ごっこ、かあ。
「ごっこはイヤだな、なんとなく。リアルに生きたい」と私がそう呟くと、「そ? ふーん…」と広末は少し意地悪そうに笑って、「じゃ、そろそろカオリちゃんは小屋に入って、で、小屋の隅にプラスティックのバケツがあるから、そこにおしっこして、そのあとちゃんと服着込んだらバケツ外に持って出て、でもって雪の中にそれ、ジョアッて捨てなさい」なんて言う。
 おしっこ、ですか。「うー、リアル。小屋の中でバケツに、…しろ、と。こんな美人の私に?」
「ワイルドライフだよ。それともまだタンクに余裕あり?」
「そろそろ、だよー」
「同じ生活して、同じもん食って、飲んでるんだ。そっち方面もシンクロしてるっしょ…」と広末は笑う。「オーロラが出たら大声で呼ぶからさ。ほら、行っておいで」
 確かにその通り。
「じゃ、ちょっくら…」と小声で呟きながら、私は背中を丸めて小屋に入る。「行ってくるよー」
 
小屋の中。キャンドルと焚き火の不思議な空間。暖かい。しばらくもう、ここから出たくない。
 小屋の隅をライトで探索すると、それとおぼしきブルーのバケツ。
 北極圏でオーロラの出現を待つなんて、それはとてもロマンティックなイメージです。でも実際の私は焚き火の近くで、着ぶくれした衣類をさながら十二一重のように脱ぎ散らかし、目指す標的はプラスティックのバケツ…。
 音、たっちゃうかなあ。広末に聞かれたら恥ずかしいなあ。
 リアルはイメージの中でまた別のイメージを生み出すものなんだなあ。


「出たよ!」と夜半に響く広末の声。
 あまりの寒さにずっと焚き火にはりついていた私は、その声に慌てて小屋を飛び出す。
「あ…」と私は息を呑む。夜空に淡いグリーンの糸、のようなもの。見ているうちにそれはリボンのような太さに変わり、やわらかな動きでゆっくりと夜空を移動してゆく。メロディがあるような動き。耳には何も聞こえないけど、目で見るメロディ、みたいな感じ。「すごいね。急に出たの?」
「うん…。急に、出た」広末も夜空を見上げ目を細めている。
「太陽からのメール、受信したんだね」
「うん」
 オーロラはユラユラと揺れながら、少し濃くなったり、また少し淡くなったりして、じわじわと私たちの真上までやってくる。綺麗。淡く揺らぐグリーン。
「ちょっと似てるかも、蛍の光に」と私。
「蛍?」と広末が訊く。
「うん。頑張れ頑張れって応援したくなるような光。じっと見てないと、消えちゃいそうな光」
「頑張れ、頑張れ!」と広末が声援する。
「見たことある? 蛍の光。 綺麗だよ。子供のころ夜の川原に行くとね、真っ暗な中にクリスマスツリーの豆電球みたいなのがいっぱい浮かんでるの。小さなグリーンの光。少し弱々しい光。フワフワフワって浮いてるの。一斉に点いたり消えたりしてるの」
「フワフワフワ?、ユラユラユラ?」と唄うように広末。
「アレは、どうしてなのかなあ? たくさんの蛍が同時に光って同時に消えて…ってやってるんだよ。勝手なペースで光ったり消えたりしないで、みんな一緒に点いたり消えたり」
「蛍の光は素直で仲良し」
「うん。でもオーロラの光は、なんかもっと、ちょっとこう、怖いみたい…。神様が操ってるみたい。こういう空って、なんだかちょっと普通じゃない。なんだか今にもすごいことが起こりそうな感じ…」
 空が私たちに何かを伝えようとしている…。
「蛍のお尻が光るのってさ、確か求愛行動、じゃなかったっけ?」広末はそう言って、私にキスをした。
 私たちの真上でオーロラは、少しグルグルと渦を巻くようにして留まる。見てはいけない光を見ているような…。
 やがて時間をかけてオーロラは伸び、空の端から端まで届くほどの見事なカーテンになった。
「今、南極地方にもオーロラが出てるはずだ」と広末。
「磁石だから?」
「そう。北で光れば南でも光る」
「北極熊と南極熊は同じ光を見てるのね」
「南極熊がいれば、ね」
 私はふと正巳くんのことを思い出した。正巳くんにも見せてあげたいな、このオーロラ。正巳くんは私のことを愛しているんだ、と急にそう思う。広末はたぶん私を愛してはいない。広末と私の間には愛し合うという隙間もない、と思う。私は広末の中に入りこみ、私はもう広末の一部になってしまったような気さえする。広末が私を愛するには、あまりに私は彼に近いところにいた。
 オーロラ、それは神秘の現象です。広末晴樹、あなたも神秘の現象です。私カオリ、私もまた神秘の現象…、のような気がします。
「ずいぶん、遠くまで来ちゃったんだな…」と私は呟く。なんだか正巳くん、懐かしいな。もう正巳くんのところには、うん、もどれないよ、東京に帰っても…。正巳くんと岡野薫がいた場所、それは[ここ]とは[違う世界]なのだ。ここは北の果て。地球の果て。そしてそういう物理的なこととは別に、世界の果てなんだ。ここはあそこから、とてもとても遠いところで、きっと別のところとの接点なんだよ。さよなら、正巳くん。私も正巳くんのこと、愛してたよ…。
「ねー、あのさあ、カオリちゃわん。東京で待ってるボーイフレンドにはさ、サーモンを土産に買って帰ったら? どう?」とあまりに唐突でそっけない広末の言葉。引きもどされる幻想。蘇る万有引力。
「なんで、そんなこと、言うの?」
「北極圏のサーモンは格別である。旨いよ」
「なんで、そんなこと、言うの?」
「飛行機でたったの十一時間。塩漬けにしてりゃ腐らないよ」
 私は黙って空を見上げる。地球と宇宙の狭間で揺らいでいたオーロラは、少しずつ淡くなり、静かに消えてゆく…。
 何かが、消えてゆく。
 直感的に、わかる。
 涙が出る。

「さて、小屋に入ってあったまろーか。それとも今夜はもう、ロッジにもどる?」と広末。
「ううん…」と力強く首を横に振り、子供みたいに私は言う。「またオーロラ出るかもしんないし、朝までずっと寝ずの番をはろうよ」
 私たちは小屋に入る。暖かさにほっとする。気が緩む。途端に眠くなる。
「少し仮眠しよう。腕時計のアラーム、セットするからさ」広末はそう言いながらスントのアラームをセットして、小屋の隅に並べていたシュラフを二つ中央に持ってくる。私たちは二つのシュラフをジッパーで繋げてダブルにする。広末は着ていたスキーウェアを脱いで丸めて枕にして、私は広末の腕を枕にして、シュラフの中に並んだ。
「手、握ってていい?」と私は訊く。
「うん」シュラフの中で広末が私の手を握る。
「昔、子供のころ、妹とこうやって手を繋いで寝てたよ…」私は思い出してそう呟く。「こんなふうに手を握ってて、時々こうやって、キュッキュッって合図するの…」と彼の手を握る。キュッキュッ。「もう寝た? まだ起きてる? って。先にどっちかが寝て、どっちかだけが起きてると、なんだか取り残されたみたいで寂しくて。お互いにキュッキュッと手を握り合って、まだ相手が寝てないことを確認して安心するわけ。そのうちキュッキュッってやっても、妹からの返信がなくなって。ああ、妹は先に眠ってしまったな…と、私は寂しく思うの」
 広末が私の手をキュッキュッと握り返す。
「そう…。こうやって眠りに落ちていくとき、こうして誰かと一緒だと安心する」
「そう?」
「そう…。いつか年とって私が死んじゃうときは、こんなふうに誰かと話しながら…、話してるうちにだんだん意識が遠くなって…、少しずつちょっとずつ死んでいきたい…」私は半分眠りながら喋っている。遠のく意識。遠くの意識。
 広末がキュッキュッとやっても、私はもうキュッキュッと返せない…。沈んでゆく…。
 キュッキュッ。
 沈黙。

10
 人の気配で目を覚ます。
 オーロラ小屋の中。
 焚き火の炎が小さくなっている。薄暗い。シュラフの中にもう広末はいない。
 水泳をしたあとの昼寝から目覚めるような体の重さを感じつつ、私はシュラフからもそもそと這い出す。
 中央の焚き火を囲んで並ぶ、色とりどりのキャンドルグラス。
 色とりどりのキャンドルグラスの前に、国際色豊かなお客様が三人座っている。
 へえ、いつの間にやってきたのだろう? 私が眠っているうちに犬橇でやってきたに違いない。
 オレンジ色のグラスの前に座った広末は、英語でなにやら話している。
 なんだ。喋れるんじゃない、英語。スキーゲレンデでは英語なんてちっとも話さなかったのに。
 広末が話している相手は、若くて痩せた長身らしきイギリス人。着ているダウンジャケットの腕にユニオンジャックのワッペンがあるので、イギリス人だと私は勝手にそう思う。広末は彼をアリーと呼んでいる。アリーは赤いキャンドルグラスの前に座って、コーヒーをすすっている。
「ノーザンライツ…フォーユー…ジャパン…ナイス…プレゼント…イェイ」
 聞き取れる単語はやっぱり英語だ。私は英語、苦手です。中学のとき、アイマイミー・ユーユアユーですでに転びました、イェイ!
 だからアリーの言ってる言葉なんて私にわかるわけないんだけど、身振り手振りが大きく、話す言葉もリズミカルなアリー氏の英語は、なんとなく聞きやすいみたい。
(オーロラは、日本からはるばるやってきた君たちへの、天からの素敵なプレゼントなんだぜ! ったくよー)ってなこと言ってるんだと、なんとなくわかる。
 アリー氏はお喋り。
 シュラフから這い出てきた私を見て、アリーは大げさにはしゃいだ。ブラボーとか、ソーキュートとか、イッツアミラコー! とかそんな感じ。静かな夜が、アリー氏のキャラクターに傷ついていないか私は少し心配になる。
 私は、日本で男の子に声を掛けられたときのような従順な笑いを浮かべて、アリーから少しだけ離れたブルーのキャンドルグラスの前に座る。広末の隣に座りたかったけど、広末のすぐ左隣にはアリーが座っていたし、広末の右隣にはちょっと賢そうな妙齢の外人女性が座っていた。外人女性と広末の間には、私ひとり滑り込むくらいのスペースがあったけど、なんだかそれは具合が悪いような気がして遠慮した。
 外人女性が煙草に火をつける。隣に座らずによかった。私はこの旅から禁煙中だし。そういえばよく続いてるな、私の禁煙。自分で言うのもなんだけど、私はとことん意志が弱い。頑張って禁煙しよう、なんて決意したらもうその決意が苦しいし、煙草にでもお酒にでもボーイフレンドにでも、優しく手招きされたらすぐに私の意志は揺らぐ。そんなタイプの人間だった。なのに不思議と今回は煙草の誘惑を感じない。広末の吸引力がその他の引力を抑えこんでいるんだ、きっと。てなわけで、せっかく続いている禁煙をダメにされてたまるかと、私は私らしくもなくやや反抗的にそう思った。幸い私の青いキャンドルグラスは、外人女性のパープルなキャンドルグラスと、焚き火を挟んでちょうど反対側に位置している。彼女のくゆらす紫煙がオーロラのように天井に揺らいでいるのは見えるけれど、私のもとに煙が流れてくる危険性はこの小屋の中において最小の、いわばベストポジションを私はキープしたことになる。とりあえず、よしよし。
 と思ったのも束の間、煙草の香りはやっぱり私のもとにしっかりと運ばれてきて、その香りで私には彼女の煙草がジタンであることがわかった。ジタンを喫うってことは、チラリとさっき見たときのなんとなくプライドの高そうな、というか頭のよさそうな、というか私をちょっとだけバカにしちゃいそうなあの感じと合わせて想像するに…、もしやフランス人?
「ジュスイ……」
 ほおらね。外人女性は英語じゃない言葉を喋ってる。英語聞かされるだけでも自分のバカさ加減を再認識してしまうようなダメダメな薫ちゃんに、あんまりだよフランス語なんて。よかったよかった、彼女と私の間に焚き火の炎が燃えていて…。
 なんて安心したのに。広末ったら話してるじゃん。あれはたぶんフランス語。話せるんじゃん。二人は仲良しじゃん。なんかちょっと寂しい。ふん、って感じ。
 でもまた幸いなことに、広末がカトリーヌと呼んだその女性はどうやらお喋りな質ではないらしく、広末が愛想よく話題をふっても一言二言クールに応えて、あとは黙って煙草の煙を吸い込んでいる。よかった。なぜだか、なんだか、断然よかった。
 カトリーヌは、オーロラについて研究している学者さん。…って、あれれ? 不思議、なんで私ったら、そんなことわかったんだろう。広末の表情や相槌の雰囲気を感じて、なんとなくそんなふうに想像したんだな、きっと。なにやら専門的な話を真剣に質問しているような広末の雰囲気。自身をもって短くクールに答える、理知的で行動的な一人旅の女性。彼女はリュックからオーロラの写真やデータ資料のようなものを取り出して、黙って広末に見せている。オーロラが掲載されている科学雑誌を指差しながら会話している。うーん、エラい人なんだね、きっと。
 広末が私以外の誰かと話している様子を見ることは、私、ほとんどなかったから、なんだか不思議。私とカトリーヌの間に焚き火が燃えててホント感謝。だってチラリと見た彼女は美人だったもんね。嫉妬。
「ニイハオ…」と暗がり左手から声が掛かる。私を見て穏やかに笑っている優しそうな東洋人。
「ニ、にいはお」と私も彼に応える。
 その若くて小柄な中国人は、うんうん、と私に頷きながら、リュックの中からいきなり、小さな玉をいくつか取り出した。ピンポン玉くらいの大きさの五つ。それを空中に放って上手にお手玉してみせる。
「うわー。上手! 上手!」私は嬉しくなって拍手する。私たち日本人が旅先で、外人さんに折り紙の鶴を折ってあげるようなものなのか? 言葉の通じない私へのサービスなんだと思う。謝謝。
 と、空中を舞っていた玉の一つに、どこからか飛んできた小石が命中した。カツン。玉は弾き飛ばされて転がった。石を投げたのはアリーだ。アリーは、なんていうか、少し崩れた感じの青年で、悪く言えばチンピラ、よく言ってもアウトサイダー、そんな感じ。ニヤニヤ笑ってヒップボトルのウィスキーかなんか飲んでいる。ケンカになるのかな? 私はドキドキする。
 焚き火を挟み向かい合って座っているアリー氏と中国人氏。アリーの投げた石は焚き火越しに空中の玉を弾き落としたわけで、そんなアリーを私は、少しカッコいいなと思ってしまう。
 一方の中国人氏は特に怒る様子もなくニコニコしている。よかった。私って、対決って本当に苦手。よかった、よかった。
 と思ったのもまたまた束の間。中国人氏はお手玉していた玉を、焚き火を飛び越えるようにアリーに向かって投げた。ポーン。アリーが右手でキャッチ。また一つ玉がポーン。アリーは左手でキャッチ。またまたも一つポーン。アリーはキャッチできない。結構重そうな玉だ。お手玉の要領で、アリーは右手の一つを空中に浮かせて、飛んできた玉をかろうじてキャッチ。そこにまたポーン。もうダメだ。アリーは玉を胸で受け、空中に浮かせていた別の玉は、運悪くアリーのキャンドルグラスの上に落ち、それを割ってしまった。
「ヘイヘイ、ミスターチャイニーズ…!」アリーは笑いながら何か喚き、中国人氏も愉快そうに笑いながら肩をすくめている。どうやらお二りは仲がいいような…。
 と思ったのもまたまたまた、束の間。アリーったら、玉をビュウと投げて、中国人さんのグリーンのキャンドルグラスを割ってしまった。ガチャ。私はまたドキドキする。すると広末の笑い声。私はほっとする。
 ほっとしたのに…。アリーのやつ、本当にしょうがない人だ。手持ちの残り玉を、右に左にアリーは投げた。右に飛んだ玉はカトリーヌさんのパープルのグラスを割り、左に飛んだ玉は私のブルーのグラスを割った。アリーはさらに三つ目の玉で、広末のオレンジ色のグラスを狙ったけれど、至近距離なのにこれはなぜか外れた。
 灯っていた五つのキャンドルのうち四つが消えて、小屋の中はいっそう暗くなった。焚き火の炎も気がつくとずっと小さな炎になっていて、広末の前でオレンジ色のグラスだけが、広末の顔をぼんやりと照らし出している。カトリーヌさんも中国人さんもアリーも、半分くらい影に沈んでしまった。
「ショータイム!」
 なーにがショータイムだ、なんのショーだよ、おバカなアリー。こんなに暗くしちゃって、お互いの顔もますます見えづらくなっちゃった…。
 暗がりの中でカトリーヌが何か言い、おそらくはアリーが何か応えた。
 私は広末に語り掛ける。「この人たちはもうオーロラ見たのかな?」
 「うん…」オレンジ色の光に照らされて広末が答える。「さっき我々が見たオーロラを、もっと空の開けた別の場所で見てたらしい。オーロラハンティングバスとか、そういう見学用のバスがロッジから出てたんだってさ」
「へえ、そうなの…」と私は応えながら思う。広末ったら、[我々]だってさ。私と二人なら[オイラたち]って言うだろうのに。知らない人の前では違う言葉で喋るんだ。でもね、広末くん、カトリーヌにとっては[我々]も[オイラたち]も一緒だよ。カッコつけなくてもいいんだよ。ここには実際五人がいるけれど、私たち二人しかいないのとおんなじなんだよーだ。
 アリーが私に大声で何か言ったような。
 え? なあに? 私に向かって言ったの? アリー、ごめん、英語わかんないの。「アリー、今、何か言った?」暗がりの中私がそう発言すると、広末が代わって答える。「ねえねえ、そこのキュートなお嬢さん。あなたたち二人はデキてるの?」
「え? あー、ええと、どう答えたらいいの?」と私は少し慌てて広末に訊ねる。
「ホワッツ?」とアリーの声。
 いや、アリー、違うよ、今のはあなたに言ったんじゃなくて…。
 カトリーヌが何か言う。中国人氏が口笛を吹く。アリーが喚く。広末が笑う。
 私は混乱する。
 アリーがまた何か喚く。
 なあに? 私に向かって何か言ってるの? 堂々巡りだ。暗がりで相手の表情がわからず、相手が怒っているのかふざけているのかもよくわからない。
 広末が立ち上がる。小屋の隅に漂う闇に向かって彼は歩き、闇に消え、やがて薪を一抱えとナイフを手に焚き火の輪にもどってくる。と、何を思ったのか彼は、掌を自分のオレンジ色のグラスに伏せキャンドルの火を消してしまった。小屋の中はさらにまた暗くなる。
 誰かが口笛を吹く。知ってるメロディー。キャンプファイヤーでよく歌った。燃ーえろよ、燃えろーよ…って歌ったあのメロディーだ。別の誰かの口笛が、そこにコミカルな調子で加わった。そしてたぶんこの口笛はアリーだろうと容易に想像できる、音程を外した少しお下品な口笛もコーラスに加わる。なんとなく嬉しくなって私も口笛を吹く。夜中に口笛を吹くと蛇が出るとかなんとか、おばあちゃんが昔言ってたけど、この寒さに冬眠してない蛇なんて絶対にいない。
 広末は焚き火の輪の中央に座り、ナイフで薪を削ると、一本一本丁寧に火にくべてゆく。
 口笛の合唱は続く。なんだかホントにキャンプファイヤーの夜みたいだ。楽しいな。
 右手方向からボトルが差し出される。きっとさっきアリーが飲んでたヤツだ。
「サンキュー」私はボトルを受け取り一口飲んでみる。ウォッカだ。寒い夜にアルコール度数の高いお酒は有難い。体があったまるよ。
 私はボトルを、左手方向に座る中国人氏に回す。
「シェーシェー」彼の右手は私の左手からボトルを受け取る。
 ボトルはやがてカトリーヌに回ったようだ。「メルシー…」とカトリーヌの声。
 なんて素敵な夜だろう。私は嬉しい。口笛の合唱は続き、ウォッカのボトルは左手から右手に繋がれ、深く夜が更けてゆく。
 ウォッカは焚き火の周りを何周もくるくると回った。太陽の周りを回る地球のように、地球の周りを回る月のように。そうしてるうちに、なんだか私の目も…。
 焚き火の火がずいぶん明るさを取りもどしてきたころ、私はだいぶん酔ってしまった…。
 
 ふと気がつくと口笛の合唱は終わっていて、ウォッカのボトルも飲み干されてしまったのか、もう回ってこない。私たちの中央には焚き火があり、そこに広末がいて、辺りは静かだ。 
 もしや、みんな眠ってしまったの? 私、今眠っていたのかな?
 すると、広末の静かな声。そして、それに応える中国語。
「何? 何を話してるの?」と小声で私は闇に訊ねる。
「うん? カオリちゃん、起きてたの?」と、ほっとさせてくれる広末の声。「こちらのロンさんは中国人で、今、漢字について、ちょっと話していたんだよ」
 へえ、漢字について。 
 ロンさんがまた何か言う。広末が応える。そして私のために通訳。「漢字ってのは不思議だね。よく知ってる筈の文字でも、じっと見てると、なんだか違う字のように見えてくるよね。って、そんな話だよ」
「ふうん」と私は曖昧に応える。ふうん。なんだかやっぱり眠いや。シュラフにもぐりたいな…。

 …ふとまた気がつくと、焚き火の炎はさらに一段と暗くなっている。
 私は眠っていたのかな?
 暗がりの中、広末が焚き火の番をしている。アリーやみんなは起きているのかな、眠っているのかな、わからない。
 誰かの小さな声。応える広末の囁くような声。また誰かの、遠くから聞こえてくるような声。応える広末の声。
 何を話してるの? 「ねえ…」と私は広末に呼び掛ける。
「やあ」と広末が応える。
 また誰かが小声で何か言い、広末が小声でそれに応え、私のために広末が語る。「電話の鳴る、偶然の一致…」
 なあに? それ、なんの話? と私は思うが、酔っているせいか眠たいせいか、聞き返すのも面倒。「うん…」とだけ私は言葉を発する。
 また誰かが何か言う。少し眠そうな擦れた声。応える広末。そして私のために広末。「部屋の電球や時計の電池が、ほぼ一斉にに尽きるあのタイミング…」広末は私にそう言ったあと、また別の国の言葉でそれを語っている。
 今、小屋の中では何人が目を覚ましているのか? 半分眠りながら、ぼんやりと私は思う。
 誰かが眠そうに何か言い、広末がそれを何か別の言語で言い換えて、別の誰かがやはり眠そうにそれに応え、それを広末が訳し、それにまた誰かが反応し、広末が語り、誰かが応える。広末はきっと最初、ロンさんとはロンさんとの会話をし、カトリーヌとはカトリーヌとの会話をしていたのだろう。やがてそれにアリーが茶々を入れ、それを翻訳して聞かせた広末に、カトリーヌが意見を述べる…、みたいな形で話は集合化していったのだろう。車座に座った私たちはみんな、一様に眠くて、話も断片的にポツンポツンと続いているようだ…。
「つまり、こういうこと…。いいことも悪いことも続けておきる…」と広末。
「うん…」と私。
 広末を含めた何人かがまたポツンポツンと発言し、広末が集約したようにそれを私に語る。「宇宙が無限なら、有りうべきことは全て有りえるし、起こるべきことは全て無限回繰り返して起こりうる。ここでも。あそこでも。どこでも…」
 なんだか難しいこと話しているんだね。さすがに世界の端っこまで一人で旅してくる人たちだよね。私はそんなふうに思いながら、同時になぜだか、今広末が語っている断片的な言葉の意味も、話の流れも、心のどこかでちゃんとわかっているような気がしている。言葉を意味として聞くのではなく、口笛の音を聞くように、その言葉を言葉そのもととしてぼんやり聞いていると、今この小屋の中にある空気というかテーマというか、みんなが心の中でなんとなく語り合っているような何かを、夢の中のビジュアルのように曖昧ながらも、それなりに共有できているような気がするのだ。
 そんな私の気持ちに応えるように広末が言う。「ありのまま。イコール中心点だよ…」
 中心点。
 中心点を探す旅…。そうだった。この旅のテーマはそれだった…。

11
「朝だよ、カオリちゃん…」と広末の声。
 うんっ! と私は伸びをする。シュラフの中。昨日はあれからシュラフに入って眠ってしまったんだっけ…? 焚き火はもう消えていて、小屋の扉が開いている。
「よく寝てたね。ロッジからスノーモービルもってきた。さあ、部屋に帰ってサウナに入って、で、ビールを飲もうよ」外からの明るい日差しを浴びて笑う広末は、私のよく知っているいつもの広末で。
「そうしよ…。ああ、歯を磨きたい。顔を洗いたい。シャワーを浴びたい。服を着替えたい。ご飯を食べたい」
「うん。昼ご飯は雷鳥を食べよう」
 うんうん、いいね、楽しみ、美味しそう。
 広末がスノーモービルのエンジンを始動させているうちに、私はお世話になったオーロラ小屋を、心を籠めて綺麗に片づける。薪を一まとめにして小屋の隅に置く。使用済みのキャンドルグラスも、夜中に今度やって来た新しいお客さんが誤って踏みつけてしまわないように、きちんとまとめて棚に置く。オレンジ色のグラス。青いグラス。赤いグラス。紫のグラス。緑色のグラス。五つのグラスを棚に置いて…。
 え? 
 なんだか背筋がゾクリとした…。おかしいな、昨日の夜、アリーが割っちゃったと思ったけど…。広末がロッジから、新しいのを調達してくれたのかな?
 
広末の後ろに私は座る。スノーモービルは積もった雪を撒き散らしながらスタートする。
「すごかったね、昨日のオーロラ!」広末が大声で叫ぶように言う。スノーモービルのエンジン音がうるさくて叫ばないと聞こえない。
「うん、すごかった。夢を見てるような気分だった…」
「え? 何?」と広末。
「ス・テ・キ! だった!」と私は叫ぶ。
 青い空。真っ白な大地。気持ちがいい。オーロラを見ることができて大満足。お昼ご飯に雷鳥食べて、そしたらそのあと、今日の予定は砕氷船。氷をバリバリ砕いてゆくのです、とロッジのガイドが教えてくれた。フィンランドツアーも今日が最終日。氷の海の探検が終わったら、港に迎えに来てくれるワゴンカーで、広末と私はロバニエミ空港まで送ってもらう。飛行機を乗り継いで、明日には日本だ。なんだか信じられない。
「ねえ! 朝、帰ったの? 昨日の人たち…」と私は広末の背中に叫ぶように訊く。
「え? 何?」と、また広末。
「いつ帰ったの? アリーたちは!」また叫ぶ私。
「アリー?」と広末。「アリーって誰?」
 え? 
 なんだかまた背筋がゾクリとしたような…。

12
「自分で車の運転をしない旅のいいところ。出掛ける前でもビールを遠慮なくいただけちゃうところ…」広末はそう言いながら、ロッジのレストランでビールを飲んでいる。
「ロッジで飲むビールのいいところ。トイレの心配をしないで遠慮なくいただけちゃうところ」と私がそう言って、私たちは昼間からビールで乾杯。
 レストランの窓から見える空の青と、降り積もった雪の白との対比がとても鮮やか。ずらりと並んで駐車しているスノーモービルのメタリックブルーが、キラキラと陽光に輝いている。今日でフィンランドを去るなんてちょっと悲しい。
「でも、あんまり飲みすぎると、このあと港までの移動はバスだから…」と広末が私に注意する。
「バスの中にも探せば青バケツくらい、きっとあるよ」と私。
「キミは、たくましく、なった」と言って笑う広末。
 テーブルに雷鳥料理が運ばれてきた。
「ねえ、昨日の夜のことだけど…」と雷鳥にナイフをたてながら私。「本当に来なかった? アリーやカトリーヌ…」
「アリーもジョニーもスティーブも、タヌキもキツネも来なかったよ。夢見たんだよ、きっと…」と広末。「どう? 雷鳥、旨い?」
 私は雷鳥の肉を口に運んで。「うん! 美味しい。でも思ったよりなんだか、普通の鶏肉に近い…」
「鶏肉、嫌い?」と広末。
「好きですよ。鶏肉もワニ肉も…」
「ワニ肉?」
「ワニってね、鶏肉に似てるんだよ、味が」と私。しったかたったった?♪
「へえ、そう?」
「うん。前にね、オーストラリアでワニ食べたとき、あ、これは鶏肉だなって、そう思った」
「ふうん。そうなんだ」
「あ、それから私ね、初めてふぐ鍋食べさせてもらったときにね、この鶏鍋のあとにふぐ鍋が出るのかなあ? ってそう思ったよ…」と私は思い出して言う。「後から出るふぐのためにも、この鶏肉は食べ過ぎないぞ…って思ってたら、実はそれがふぐの肉だった…」
はははと笑いながら、広末も雷鳥を頬張る。「ホントだね…。雷鳥って名前からイメージするほど、野性味のある味でもないね」
「うん、でもとっても美味しい。このお昼ご飯がフィンランドで食べる最後のご飯! 今夜のご飯は、空港内か機内食だよね」と私。
 夢、みたいな数日間だったな。スキー。犬橇。ミストサウナ。そして昨夜はオーロラ…。
 
「ねえ、昨日のことだけど…」と食後のコーヒーを飲みながら私は言う。「一緒にオーロラ見たでしょ…」
「うん。見た」と広末。
「ん。…で、そのあと、外人さんたちが小屋にやって…」私は上目遣いで彼を見る。「来なかった? 拗いようだけど」
「うん。来なかった」
 夢? 
 やっぱり夢か。私はオーロラを見たあと、シュラフにもぐって寝てしまい、そのまま朝まで眠っていた…? アリーは夢? カトリーヌもロンさんも…。「みんなでキャンプファイヤーみたいに、口笛吹いたりしたんだよ。焚き火の周りでウォッカ回し飲みして…」
「楽しそうだね」
「本当に誰もいなかった? 昨日の夜、あの小屋の中に…」
「カオリちゃん以外には誰もいなかったよ」と静かに広末。
 沈黙。
「リアルな…」と私。
「うん」
「とてもリアルな夢だった」
「そういうこともあるさ」
「そう?」
「オーロラが見せてくれた夢なんだよ、きっと」
 そうかな? ま、いいか、と私は思う。
 そのとき、ロッジのスタッフがやってきて、早口の英語で何か言った。
「ケミの港まで行くバスが着きました。二十分後に出発です。砕氷船ツアーご参加のお客様は、お荷物のご用意をお願いいたしまーす、だって」と広末が通訳。
「やっぱ英語、わかるんじゃん」と私。
「簡単な英語ならまあわかるよ」
「フランス語は?」と私は訊く。
「ノン」と笑って彼は指を振る。
 やっぱり昨日は途中から夢を見てたんだな…。
「さ、急ごう。部屋でスーツケースをまとめて、それからロビーに集合だ…」広末はそう言うと勢いよく立ち上がる。
 うん、そうだ。砕氷船ツアーの始まり始まり、だ。「砕氷船ってどんなんだろう? 楽しみ楽しみ…」と私も立ち上がる。

13
 リゾート地のロッジから、砕氷船の発着するケミという港町まで行くバスに、日本人は私たち二名だけしかいなかった。広末はポケットから乗船チケットを取り出し、一枚を私に与える。氷を砕いて進む、雄々しい船の写真が印刷されているチケット。大きな船だ。
「船の中にはレストランも、バーカウンターもあるんだってさ」と広末。
「またフィンビール? 氷の海で?」と私は笑う。
「まあね…」広末はそう言って窓の外を眺める。バスの窓の外。もちろん、延々と続く白い大地だ。どこまでも続く白い大地。
「どこまでも、いつまでも、この旅が続くといいのにね…」と私。
「うん」
「この雪景色や、オーロラや犬橇や…。絶対に忘れない思い出になるよ…」
「思い出…」
「そう。大事な思い出」
 紫外線カットの窓ガラスを通しても、突き刺さるように眩しい太陽。
「思い出、って何かな?」とポツリと広末。窓の外を見たまま少し寂しそうに言ったので、私は気になる。「何かな、って…。思い出は思い出。メモリー。記憶。心の日記帳…」と私。
「つまり、脳内の海馬に蓄積される経験済の情報」と彼。
「うーん。そう言うとなんだかちょっと、ね。思い出はね、うーん、もっと優しいものなの。もっとあったかい手触りのあるもの。でしょ?」
「優しくて、温かな記憶…」
「うん。学校の授業や、自動車教習所で習ったことなんかとは別のどこか、もっとハートに近いところに位置していて、魔法のドアを開けたら、いつでもそこに帰っていけそうな…。そういうのが私の言う思い出…」
「帰っていけそうな…」
「うん。違う?」と私。
 広末は窓の外を見つめ、しばらく考えている。照り返す日差しに目を細めている。そして私の方を振りむくと、静かに言った。「今ここにあるのは現在だけだ。いつでもどこでも、そこにあるのは現在だけだ、と思う」
 私はその言い方に少し驚く。「忘れちゃう? 十年経ったら、あなたは忘れちゃう? オーロラの夜や、私のこと…」 
 「十年経ったら…?」広末は私の目をじっと覗き込みながら言う。「うーん。なんでかな? 十年経ったら、ってことが、なぜか仮定できない。上手く想像できない…」
「ふうん、そうなの? あなたも、あんまり先のコトとか、考えないタイプ?」と笑って私。「私も親とか友達とかに、もっと将来のコト考えなきゃダメでしょ、ってよく言われて育ったタイプ…」
「考えないなあ、そういえば、先のこととか、昔のこととか…」
「あなたは恵まれて育ったんだよ、きっと。今もホント自由に生きてるし、ね」
「そう?」
「うん。だから、そのときそのときを生きてるし、生きることができるんじゃない?」
「そう、かな?」と広末は微かに笑いながら、私の目を見てそう呟く。その目は私が最初に彼と出会ったときの、あの目によく似ていた。私の目を見ながら、同時にもっとずっとずっと遠いところを見ているような目。少し寂しそうで、どこかひたむきな印象の目。
「ねえ…」と私は訊ねる。「どうして?」
「うん?」
「どうしてそんなに寂しそうな目、するの?」
「寂しそう?」
「うん」
 バスがカーブを曲がり、その揺れで私の肩が彼の肩にぶつかる。
「音もなく日々が訪れ、そして…」と彼は私の肩に手を置き、言う。「去ってゆくからさ」
「意味不明」
「はは。旅人の瞳には寂しさが似合うのさ」
「ねえ…」と私。「この旅終わったら、あなたはどうするの?」
「考えてない」と広末。
 そうだね。私も…。「私も。考えてない…」
 バスは港に到着した。

14
 黒い船体。大きな船。遊覧船に相応しい華やかさは微塵もなく、どこか無骨で、実用的に見える船。
「こんな大きな船だとは思わなかったよ」と私。
「かつては現役の調査船だったらしい。今は、観光客を乗せて遊覧することで、なんとか余生を送ってる、ってとこだな」と広末。
 この大きな船に今回遊覧を希望する観光客は僅か二十名ほど。港に繰り出されたブリッジの前に、みんな並ぶ。乗船チケットを乗船名簿と照らし合わせながら、係の人が一人一人をチェックしてゆく。私と彼もその最後尾に並ぶ。
「ごめん…」と頭を掻きつつ彼。「おしっこしたい。並んでて。トイレ、行ってくる…」言いながら、港の事務所に向かって走り去る。
 私は先にチェックを済ませ、一人で乗船する。
「ウェルカム…」白い口髭をたくわえた船員が、私たち乗客を船内に案内してくれる。三階建て構造の船。入り組んだ迷路のような廊下。細いラダーを地下に降りると、そこはボイラー室。駆動系のメカが忙しげに動いている。船員さんが英語で案内をしてくれるものの、通訳もいないし、私には何を説明してくれているのかちっともわからない。マイクも使わず、無愛想な案内で、接客慣れしているとは言い難い。本当は観光客の相手なんかしたくなくて、北極圏の海をまだまだ現役バリバリで、氷をバリバリ砕いて進んでゆきたいのに…。そんな印象を、船員からも、この船自体からも受ける。独房のように並んだ狭くて殺風景な幾つもの船員室が、質実剛健なこの船の思いを静かに私たちに語っていた。
 ラダーを上って一階にもどる。一階には食堂とバーラウンジ、そしてデッキがある。二階に上るラダーの途中で広末も合流し、私たち一行は二階の操舵室に案内される。旧式のレーダー。黒くて丸い大きな画面に緑色の座標が浮かび上がり、音もなく船の現在位置を知らせる。案内の人はそのレーダーが自慢らしく、少しだけ熱のこもった口調で説明をしてくれる。
「英語の説明、なんて言ってるかわかる?」広末を振り向き私が聞く。
 広末は手を広げ、お手上げのゼスチュアをして笑う。
 案内係はそこで船内の説明を終え、口調を変えると、今回のツアースケジュールについて語る。
「当遊覧船は二時に港を出発。約一時間後、海上にて停止。お客様には氷上をご自由に歩いていただけます。その他の案内は随時船内アナウンスにてお知らせいたします。見学はデッキと食堂、バーラウンジにてご自由に。約二時間の氷上クルージングをお楽しみください…みたいなことを、彼は言っている…」と広末。「このくらいの英語まではわかる」
「氷の海を進むのね」
「そのようだね」
「で、氷の海に下りて、好きなように散歩できるのね」
「らしいね」
「ペンギンいるかしら?」
「どうかな?」
「氷山とか、浮かんでるのかな?」
「そうかもね」
「私たち、いよいよ北極点を目指すのね」
「いやいや、極点にはまだまだ遠いっしょ。ここから船で行けるのは、この辺り近海だけだと思うよ」
「ここは北極じゃないの?」
「ここはフィンランド。北極圏。サンタクロースの実家」
「サンタさんて本当にいるの?」
「キミはいったい、何歳でちゅかあ?」などと私たちが無邪気にいちゃついていると、重々しくドラが鳴る。出港の合図。さっきの案内係だと思っていた船員は、実はなんと船長さんだったらしく、彼が舵をとり、そして同時に艦内アナウンスで出港を告げている。乗組員も観光客もものすごく少ない老いた巨船が、氷の海に向かって密やかに出航…。

15
 ミシミシキシ。氷を砕いて船は進む。空は曇って鈍い灰色。
 私たちはデッキの先頭に立っている。船の先端が氷に食い込み、割り、砕き、進んでゆくその様を、興味深く見つめている。小さな亀裂がやがていくつもの稲妻状の裂け目になり、ジワジワと前方に伸び広がってゆく。凍った世界を音のない稲妻を発しながら進んでゆくみたい。
 外洋に出てしばらくのうちは、船は普通に海上を航行していた。その間私たちはバーラウンジでお決まりのフィンビールを楽しんでいた。やがて艦内アナウンスが響き、船が氷原に辿り着いたことを伝えたので、私たちはビールをテーブルに残し、そそくさとデッキに出て、凍てつく海面を観望したのだ。
 私たちは毛糸の目出し帽を頭からすっぽりと被り、まるで銀行強盗の犯人か宇宙飛行士みたい。
 ここが海とは、とても思えない。前を見ても左右を見渡しても、そこに見えるのは広大なスケートリンク。どこかにツイーッと滑ってるペンギンがいないかと、私は双眼鏡で辺りを観察してみるが、生き物らしきものはまったく見あたらない。
「すごいね、ひたすら氷で。辺り一面、白とグレー」と広末。
「月面みたい」と私。喋ると息が白く凍る。
「月面?」
「写真集で見たの。月面写真集。アポロのやつ」
「うん」
「色がなかった。カラーフィルムなのにモノクロ写真みたいなの。着陸船の断熱材だかなんだかが金色に輝いてて、あとは星条旗が赤と青と白で、宇宙飛行士の服が白。他はみんな黒とグレー。空も大地も、山も岩も、クレーターも…」
「人工的な宣伝物もないし、天然の木々や動物たちも存在しない。だから色がない」
「うん。命の色がない」
 私たちが喋っている間も、船は氷を砕いてズンズン進んでゆく。
 どこへ? と、私は思う。
 心の中心点へ。と、やはり私は思う。
 荒涼とした景色がそうさせるのか、私は急にとても心細くなる。昔見た映画のテーマソングか何か、私は頭にふと浮かんだ懐かしいそのメロディをハミングしながら、氷原をじっと見つめ続けた。
 孤独。
 私は強く孤独を感じた。
 
 やがてまたアナウンスが流れ、船は氷上に停止。氷原にタラップが下ろされ、観光客が下ろされる。
 私と広末は、船の前方に伸びる稲妻を追いかけて、ともかく歩いてみることにする。分厚い氷の下にその裂け目から、黒い海らしきものが見えたり見えなかったり。前方遥か遠くを見遣っても、もう本当にまったく、なんにもない。凍った海が延々と続き、灰色の空が延々と続いている。その境目もはっきりとしない。歩いても歩いても同じことだ。
 振り返ると、凍った大地に巨大な黒い船が、ポツンと置き忘れられたかのような、そんな光景。とてもシュールだ。
 
 どのくらい経ったころか、雪が散らつき始めた。風も少し出てきたようだ。舞う粉雪に、黒い船体が確認しづらくなる。こんなところで船を見失っては一大事。吹雪いてくる前に急いで船にもどらなきゃ。私たちは互いに手と手ををしっかりと握り合い、クルリと踵を返して、船に向かって無言でまた歩き始める。
 
 寒い。  
 思ったよりも船は遠い。
 寒さで意識が眠りがちになる。周囲の特殊な風景が方向感覚を奪う。私は、分厚い手袋を通して感覚できる広末の手を、力を込めて握る。
 
 キュッキュッ。彼が手を握ってくる。
 キュッキュッ。私も握り返す。
 大丈夫、まだ起きてるよー。でも、なんだか眠いね。そういえば昨日は私たちあんまり寝てないもんね…。
 なんだか悪い夢のように、船が一向に近づいてこない。
 
 ギュギュ、ギュギュ。スノーブーツが凍った大地を踏みしめている。私の感覚は足の裏と、繋いだ右手にかろうじて残っている。
 
 気がつくともう吹雪いている。船がもう見えない。

 なんだか疲れた。旅の疲れがドッと襲ってきたかのようだ。意識が遠のく。
 
 キュッキュッ。私は右手を握り、返事を待つ。

 ドラの音。船が私たちを探しているのだ。大丈夫だ。ちゃんと助かる。

 キュッキュッ。私はもう一度右手を握る。広末の返事を確認する前に、膝から力が抜け、私は氷の大地に崩れ落ちる。

 氷原を走るスノーモービルの音を聞いたような気がする…。

16
 ここは、どこ?
 私は思う。
 なんだか、おかしな夢を見ていたような…。  
ひたすら真っ白な空間を、私は一人で泳いでいる。そんな夢。
 私は、誰?
 私は思う。
 真っ白な空間を泳いでいるのが、私なのはわかっているのだけど、なにせその空間には私以外に誰もいないし、手にとって触ってみることのできる何ものも存在していない。だから私が[私]なのはわかっていても、私が[誰]なのかはわからない。私、という存在を映してみる鏡がないから、私は私を知ることができない。
 別にそのままでも不快なことは何もなかったのだけれど、ふとした気まぐれで私は思った。私の場所を知ろう、と。
 私はまず、私の足場が欲しい、と思った。すると大地ができた。真っ白な空間の中の真っ白な大地。私は泳ぐことをやめた。
 大地に立った私は次に空をつくった。白い空。上下の感覚ができた。私の場所ができた。私はここにいる。
 私は誰だ?
 私はまた思う。
 私がここにいる、ということが確定するともっと強く、私は知りたいと思う。
 [私]は[誰]だ?
 ワタシハダレダ?
 わたしは…。

「私は…」私は気がついた。
 私は船の中にいた。白い髭の男が心配そうに私を見おろしている。
 船長さんが差し出してくれた水を私は飲む。
 船室の中は温かで、体はどこも痛くない。
 船長さんは続いて温かいミルクを差し出してくれる。私はミルクを飲む。「サンキュー。アイム ファイン」自然と口を突いて出た。英語の授業に感謝。
 すると船長はニッコリと笑って、早口の英語で私に何か告げる。
 すみません、私は英語がわかりません、と私は両手を広げてみせる。
 船長は頷く。
 操舵室のソファに私は寝かされていたらしい。窓から見えるのは、後方に飛ぶように流れてゆく氷原。船は港に向かって既に折り返しているのだろう。
 腕時計を私に示しながら、船長がまた何か言う。四時ごろには港に着くよ、と言っているのがわかる。私は頷く。
 広末は? 広末はどこかな?
 私は思う。彼のことだ、ラウンジでビールでも飲んでるに違いない…。
「フェア? マイ フレンド…」私がそう言いかけると、船長はキョトンとした顔。
「マイ フレンド。ジャパニーズ。ヒロスエ」
 まさか彼だけあの氷原に置いてきちゃった、なあんてことはないでしょう?
 私は右手を出し、手を繋いで歩く仕草をしてみせる。
 船長は困ったように私を見つめ、宙を見つめ、それから何かを思い出したようにニッコリ笑うと、「ジャスト ミニッツ…」そう言い残して、操舵室を出て行った。
 
船は独りで勝手に進んでいる。
 空は晴れ始めている。
 操舵室に太陽の光が差し込んでいる。
 私は大きな伸びをした。
 よく寝たなあ。
 意識を失くしていたのは実際にはきっと僅かな時間だったのだろうけれど、ずいぶんと長い眠りから、今、目覚めたような…、そんな気分。なんだか頭の中のモヤが晴れたように、不思議なほど私はすっきりとしている。
 この旅も終わりに近づいているんだ。思えばずいぶんと浮世離れな旅だった。日本に帰ったら、ああ、デパートの仕事たまってるだろうな。思わず苦笑する。そうだ、正巳くんにお土産買って帰らなきゃ。怒ってるかな、怒ってるだろうな、正巳くん。でも帰ったら全部ちゃんと話そう。デパートの人違いで広末に出会ったときのことから、この旅のことまで、全て。
 そして。と、私は思う。そして、それから先のことは、またそれから考えよう。
「ナウ…」船長がもどってきた。「ナウ。ユー。オールライト?」船長は若い金髪女性を連れていて、彼女をエリーだと私に紹介する。
 私はエリーとぎこちなく握手する。
 エリーは私に、片言の日本語混じりで話し掛ける。「アナタ。カオル・オカノ。ジャパニーズ。ゲンキ? OK? アナタ。ダウン。キャプテン。ユー。ピックアップ。アンド。ナウ。ユー。オールライト。グッド。ワタシ。ニホンゴ。スコシ。OK。ユー。アナタ。テルミー。ナウ…」
「アイム OK…」私は応える。なるべく簡単な日本語を選んで、そして身振り手振りで、エリーに訊ねる。「トモダチ。ワタシノトモダチ。ジャパニーズ。オトコノトモダチ。イッショニイタトモダチ。トギャザ ウイズ ミー。ワカル? ヒズネーム。ヒロスエ。ハルキ・ヒロスエ。イマドコ? フネノナカ。ドコ? ヒー イズ オールライト?」私にしては相当な英語力を発揮したと思う。火事場のなんとか…、ってやつだろう。
 けれどもエリーは、しばらく黙って私の顔を見つめたあと、少し困ったような表情を浮かべて、早口の英語で船長と何かを相談。船長も、私とエリーを交互に見比べ、困った顔をする。そして船長は険しい表情で再び操舵室を出てゆく。残ったエリーが私にそっと訊ねる。「アナタノ。トモダチ?」
「イエス。ワタシノトモダチ」
「コノフネニ? アナタト、イッショニ?」
 なんだろう? エリーの目を見ているうちに、私は妙な不安に襲われる。とても強い不安。
 
 何かが、起こっている。
 
 私の足元で、白い大地が揺れる。
 ガタガタと体が、独りでに震え始める。
「ねえ、どこなの?」と私は叫んでいる。「私と一緒に歩いていた、広末晴樹! 彼はどこにいるの?」
 私の様子を見てエリーは青ざめる。「イージー。リッスン…」
 何か言おうとするエリーの肩を激しく掴み、私は繰り返す。「どこなの? 彼はどこなの? 彼はどこにいるの? 彼はいったい…」
 そのときまた船長がもどってきて、私とエリーの間に割って入る。エリーは目に涙を浮かべ、何か恐ろしいものを見るような目で私を見ている。
 不安だ。何かが起きている。
 不安だ。
 不安だ。
 不安だ。
 船長は手にした乗船名簿を開き、黙って私にページを指し示す。今日の日付と、十八人の乗客の名前、国籍。
その中に…、広末晴樹の名前がない…。
 私は名簿をひったくり、パラパラと他のページも開き、そしてもう一度私の名前とその他十七名の乗客氏名を確認する。
 広末晴樹の名前はない。
 船長は半ば私を恐れるように、半ば私を慰めるように見つめている。エリーは大きくその目を見開き、その目から頬には涙が伝わっている。彼女は今何か恐ろしい姿を見ているのだろう。
 !
 私は声にならない叫びを叫ぶと、二人の制止を振り解き、操舵室を駆け出した。
 心臓の音が聞こえる。二階に下りる。バーラウンジに走り込む。何人かの客が驚いたように私を見る。広末はいない。
 私はバーラウンジを走り抜け、食堂のドアに体当たりするような勢いで突進する。食堂の中には誰もいない。
「あー…」私は叫ぶ。心臓の音が聞こえる。広末がいない。
 彼を捜すのに彼の名前を呼びたいのだけど、なんと言って呼んだらいいのかわからない。
 私は今まで広末のこと、なんて呼んでいたんだっけ?
 唇がブルブルと震えている。
 私はデッキに走り出る。目出し帽を被った一人一人の胸元を掴むようにして、私は私の友人を捜索する。広末は…。
 船尾に走り、私は沖を見つめる。広末は…。
 心臓の音。頭の中で鐘の音のように響いている。
 誰かが私の腕を掴んだ。広末…?
 私は振り向く。
 船長とエリーが青ざめてそこに立っている。私は擦れた声でエリーに訊ねる。「私は…」確認しなきゃ。はっきりさせなきゃ。「私は、独りで…、この船に? ミー アローン ディス シップ?」
 独りで、ラウンジでビールを飲んでいる日本人女性。
 独りで、氷原を見つめている小柄な目出し帽の女性。
 独りで氷原を歩き、吹雪の中救助された無謀な女性。
 浮かんでくるイメージを振り払うように、私は再び訊ねる。「ミー。アローン?」
 「…イエス…」エリーと船長は、小刻みに震えるように頷きつつ言う。「ユー。アローン」
 私は空を仰ぎ、何か言おうとして口を開ける。が、何かが口を突いて出る前に、船長が何かを私の首筋に突き立てる。足元の白い大地に、稲妻のようなヒビ割れができ、次の瞬間、私の意識は急降下してゆく。
 どこへ?
 私が訊く。
 心の中心点へ。
 誰かが答える。

17
 現実ってなんだろう?
 私は思う。
 私は、手の中の航空チケットを、改めて確かめる。ヘルシンキから成田への国際チケット。私の名が記されたチケット。
 私は今、フィンランドにいて、これから日本に帰る。
 
砕氷船の中で鎮静剤を射たれた私は、ケミの港でロバニエミ空港行きのバンに、初老のドクターとともに乗せられた。私は混乱していた。ロバニエミ空港から国内線でヘルシンキまで飛び、そのあと国際線に乗り継いで日本に帰国する、そういう航空チケットを私は持っていた。ドクターは私の住所や勤め先を確認したあと、何か手紙のようなものを書き、それを封筒に入れて封をすると私に差し出した。日本に再入国したらそれを係員に見せるように言われた。国内線の機内では、スチュワーデスが黙ってずっと私の隣に座り、ヘルシンキに到着するとゲートでは、航空会社の係員が曖昧な笑いを浮かべて私を待ち構えていた。
 私は混乱したままだった。
 私は航空会社の係員に、私の搭乗する成田行きの便に、広末晴樹の名前でシートが確保されているかどうか、それを確認した。広末の名前は予約されていなかった。
 
ヘルシンキ空港のロビーで私は、自分の航空チケットを見つめている。私の隣には航空会社の係員がずっと付き添ってくれていて、時々携帯電話で、いろんなところに連絡を入れている。カオル・オカノ。その名前が会話の中で何度も繰り返される。
 私はふと思い出して係員に告げる。「お土産を買いたい…」
 「オミヤゲ…。OK。イッショニイキマショウ」
 空港内のショップで私は、サーモンを大量に買い込む。(ねえ、カオリちゃん。東京で待ってるボーイフレンドにはさ、サーモンを土産に買って帰ったら?)
 私は買い物を終え、係員に付き添われて搭乗ゲートに向かう。金髪の大柄なスチュワーデスが私の手をしっかりと握り、機内に連れてゆく。振り返ると、付き添ってくれていた係員が、奇妙な泣き笑いのような表情で、私に手を振っている。私もふいに泣きたいような気分を感じる。泣いてしまえれば楽になりそうだ。でも私は泣けない。私の表情は氷のように凍ったままだ。
 私の心を、どこか遥か遠くに残したまま、フィンエアは予定通りの時刻にヘルシンキ国際空港を飛び発った。
 機内の窓から見える景色。夜明け、だろうか? 空が赤と青に、綺麗にセパレートされているのを私は見た。


アキ再び[Aki again]


 午後二時のコーヒーショップ。私は誰かを待っている。待っている誰かを私はよく知らない。数日前、このコーヒーショップで出会った男。その男がやってくるのを待っている。やってくる保証はない。私は昨日も待ったし、一昨日も待った。
 オメガの腕時計が二時半を示す。私は携帯電話を取り出し、会社のデスク宛にプッシュする。「もしもし。あ、バイトくん。私、高鳥です。ん、どーも、お疲れ。私ね、今日は会社もどらないから…」電話をとった学生アルバイトに、簡潔にそう伝える。「うん、そう。ホワイトボードに書いておいて。そう、町内、帰社セズ。よろしくね…」携帯電話を通して編集部内のざわめきが伝わってくる。「編集長、来てる? まだ? じゃあ、なんかあったらケータイに。はい、よろしく」そう言って私は電話を終える。
 今日はこのままどこかに出掛けてしまおう。私はコーヒーショップを出て、路肩に駐車した私のプジョーに歩み寄る。プジョーの目って高鳥さんの目に似てる。そんなこと言ったヤツがいたっけな。なんて思い出す。
 エンジンキーを回し、さてどこに向かって走ろうか? と私は考える。何も思いつかない。このところずっとこうだ。
 ふやけた頭で発進してすぐ、目の前の信号が黄色に変わる。私はアクセルする。歩道から人影。プジョーの前に歩み出る。私は急ブレーキ。
 危ないじゃないの!
 フロントグラスの向こう、無精髭を生やした男が、昔飼っていた三毛猫のような目で私を見ている。その男の顔に見覚えがあった。
 ふうん、そういうことか。と私は思う。
 私はウィンドウを下ろして彼に言う。「私は嫌いよ、約束を守らない男って」
 三毛猫の目が私を認識する。男は人なつこい笑顔を浮かべて、躊躇なくプジョーの助手席に滑り込むと、呑気に挨拶。「やあ、やあ。しばらく、しばらく…」
「早くドア閉めてよ。信号変わっちゃうじゃない」と私。
「あいあい…」と男はドアを閉めて、素早くシートベルトをする。
 プジョーを再び発進させながら、私は訊く。「で? お客さん、どちらまで?」
「輝かしい明日まで」
 嫌なヤツだなー、と私は思う。同時に好奇心。なぜだか最近お疲れ気味の私、高鳥アキ。私の眠り込もうとする怠惰な意識にケリを入れてくれるのは、もはや好奇心のみ。「じゃ、海まで行くわよ…」私は自分の好奇心にすがることにする。「今夜はこっち、もどらなくて平気? 奥さんとか飼い猫とか、大丈夫?」
「うん、大丈夫。何もかも投げ捨てる所存です」
「いい覚悟ね…」私はワザと冷たく彼に言う。「どうしたの? その無精髭。ちょっと薄汚れたその感じ、私が昔飼ってた猫のヒロにそっくりよ」
「ナニ猫だったの? ヒロは?」
「三毛猫」
「オス?」
「オス」
「珍しいんだよ。オスの三毛猫は」
「あなたほどじゃないわよ…」ってか、あなた何者よ? 「私のことはアキって呼んで。あなたのことはなんて呼べばいいの?」
「じゃ、ヒロでお願いします」
「やーな感じ」と私は唇を歪める。「ホント、ヒロを拾ったときとそっくりよ。無邪気な目をしてるから拾ってあげたのに、ちっともなつかないで、スカしてるし」
「にゃーお」と彼は舌を出す。
「拾ってから、あー拾うんじゃなかった、って少し後悔させられるとこも、ホント、そっくり」
「にゃーお」
 そのとき、カップホルダーに投げ込んでいた私の携帯電話が震える。
「その携帯、電源切っといて。ヒロ」
「うにゃ?」
「いいから。切って」
「にゃにゃ」
 電源OFF。よし。
 五月の青空の下をブルーのプジョーが疾走。
 頭の中で作ったコピーの出来の悪さに失笑。
 疾走に×をつけて、脳内添削する私、失踪。
 あー、本当にこのまま失踪してしまいたい!


 海から少し入ったところにあるインド料理の店。オープンエアのテーブル席で、私はパコラをつまみラッシーを飲んでいる。ヒロにはタンドーリチキンを与えた。 
 喉を鳴らしてゴールデンイーグルを飲みながらヒロは言う。「で、アキしゃん。なあにをそんなにイラついてるの?」
「わからない…」と私。本当にわからないのだ。このところなぜだかずっと心の底がササくれている。親元を離れて東京に出てきてから今年で十年。希望する出版社に入社し、希望する編集の仕事につき、世界中を取材で駆け回り、美味しい酒を飲み美味しい料理を食べて生きてきた。ボーイフレンドも、あ行からわ行まで一通り揃っている。健康があり自由がありプジョーもある。他に欲しいものなんて特にない。歳をとった、ということか?
「袖振り合うも他生の縁、とゆーしさ…」とヒロ。「あれ? タショーって何かな?」
「他生っていうのは、前世とか来世とか、この世じゃないところのことよ…」ヒロが切り崩したタンドーリチキンの一かけらにフォークを伸ばしつつ、私はウロ覚えのまま断言する。「猫の学校じゃ習わなかったの?」
「にゃらわなかった…」とヒロ。「うん、でもまあその他生の縁だからさ、悩みゴトがあったらなんでも相談にのりますよ…」などと言いながら上目遣いに私を見る。「で、サモサ頼んでいい? あとゴールデンイーグルも、おかわりしていい?」
 海からの風が鉢植えのアレカヤシに吹きつけて、しゃらしゃらと葉を鳴らす。
「悩みゴト、かあ。特にないなあ…」悩むってガラじゃないのよね、私。「愚痴ならいろいろあるけどね」
「どんな?」
「愚痴その一。ヒロはビール飲んでるのに、私は車だから飲めない」
「にゃーるほど…」とヒロは目を丸くする。「それは確かに愚痴りたくなるよにゃ」
「でしょ」
「ごもっとも、ごもっとも…」言いながら近くを通った店員をヒロは呼び止め、「あ、すみません。サモサと…、ゴールデンイーグルをもう一つ…」と注文。「アキは? ラッシー飲む?」
 そんなにラッシーばっか飲んでたらお腹こわすでしょうが。「ラッシーはまだあるからいい。で、聞きなさいよ、愚痴その二…」
「はい。愚痴その二」ヒロは背筋を伸ばしてみせる。
「最近、世の中、なんかおかしい」
「…にゃんかおかしい?」漫画のように複雑にうねった眉を作ってヒロ。「非常にアバウトだ。猫にもわかるように、もっと噛みくだいて言ってもらわんと…」
「うん…」と私は少し考える。「例えば、テレビのニュース。最近おかしい。嫌な感じ」
「どんな感じ?」
「弱い者イジメのショータイム」
「もちっと、噛み砕いて」
「つまりね、客観的じゃないわけよ、報道が!」苛立ちを感じながら私は論じ始める。「AがBしてCでした。識者はDと評論しております、はい、終わり、テレビを見てるあなたはどのようにお考えになりますか? ってのが客観的報道でしょ。違う?」
「最近のニュースは客観的じゃない、と」
「そうよ…」自分の声が高くなるのを抑えられない。「最近の七時のニュースなんてまるでワイドショーでしょが、主観まみれで、エンタテインメント腐れで。ウチの社のエロ週刊誌よりも偏ってるわよ。明らかにどう考えてもポジな側を圧倒的に持ち上げて、どう考えても弱いネガな側をなんの配慮もなく、アホでバカでカスで人類の敵だって叩いたりして。なあにがジャーナリズムよ!」お子様プール並みに浅いのよ、考えが。「Aという犯人がBという被害者を犯しました、という事実を伝えるために、なあんであんなサスペンスホラーみたいなテロップと効果音、使わなきゃなんないの? 再現VTRのあの女優の表情は誰の主観よ? 残虐な…、人間の仕業とは思えない…、ヒトとしてあるまじき…って、あーゆー形容詞、勝手につけんなっての! それは視聴者が感じることでしょ。視聴者の持つべき感情まで最初っから決めつけんなよ! ナメてんのか、っての!」
 ウェイターが持ってきたゴールデンイーグルを一口飲んで、ヒロが眉を寄せてみせる。「ナメちゃ、ダメだよねえ」
「あるいは、ヨソの国の元首をブタだの悪魔だのって、報道番組でそんな表現してどーすんの? 悪いヤツには、言ってもいいよ、ブタだのゴミだの、悪魔だの、…って標語垂れ流してるようなもんでしょ。あーゆーもっともらしいクソ番組を、もっともらしい教育オタなババアが子供に見せて、子供は差別意識と迫害意識に満ち満ちた、立派に歪んだクソジジイに育つってわけよ…」一義的な見方しかできない単細胞なバカばかり巷に溢れるのよ。「受け手の感情をあそこまでコントロールしてたら、あれは報道じゃなくて創作ドラマだっつーの! 女子中学生の気まぐれな仲間外れと変わらない感情論よ、あんなの。集団的イジメよ…」その頭の悪さと主体性のなさほど醜いものはないと私は思っている。「それ見てる視聴者が、これまたウスラバカだから困る。すーぐそういうマスコミの意見に同調して、裏も罠もなんも考えないで、ウルトラマンは正義だから正しいです、バルタンは悪です、なぜなら悪党だからです、…みたいな。アホか、無能のバカ視聴者ども!」
「すみません、すみません。オイラもうテレビにゃんか見ないよ」サモサをかじりながらヒロがそう茶々を入れてくれても、私の怒りは箱根の下りでブレーキ壊した暴走車。もうドライバーの手には負えない。
「そのうち、こーゆーのはどんどんひどくなると思う。政治家の計算高いクソジジイは、国民のお涙頂戴できそうな事件を見つけりゃ大喜び、これをエサにと、国民洗脳に利用する。さも国家的大事件みたいに大袈裟に騒ぐ報道をよくよく検証してみたら、単なるプロパガンダ。なのにバカ国民は、外タレにヒーヒー惚れ叫ぶのと同じノリで、クソジジイの計略にまんまとかかって、日本国民として許せないだのなんだのって騒ぎ始める。個人的感情を、国民的威信云々に一足飛びに飛躍されて気づきもしない。この国はそーやってどんどんおかしくなっている。この国だけじゃあないけど。アメリカは相変わらず、めちゃくちゃ勝手なことやってるし。あんなのまるでガキ大将じゃないの。小学生でもわかるわよ」
「猫にもちっとだけわかるにゃ…」とヒロ。「サモサ旨いよ。もしゃもしゃしてる」
 ヒロ、うざい、邪魔、どいてな、轢き殺すよ。偏ってんじゃねーよって語る語りが、どんどん偏っていくこと、自分で知っててどうにもならない。「さらに許せないのは、あの知的産業立国とかそういう考えよ。見てごらんなさいよ、最近の映画のつまらないこと! 金かけて宣伝しまくって。バカに金出させりゃいいってもんじゃないでしょう? 金儲けすんなら文化に関係ないとこでやんなさいよ。そのうち政治的プロパガンダに利用されて、映画もドラマも単なる宣伝物に成り下がるのよ。クリエイターの自己表現とか、ジャーナリストの反抗的洞察力とかの正反対にある、金とか権力とか、統制とかコントロールとか、そーゆーものに汚されて堕落しまくったウンコみたいな映画が、莫大な宣伝費かけてミーハーなアホどもたらし込んで、政治家やら商売人やら腐ったブタどもの都合のいい道具に成り下がってゆくのよ…」ヒロが悪いわけでもないのに私はヒロを睨みつける。「最近の世界は狂ってるわよ。ジジイどもはノンモラル、ガキどもは思考停止。政治や経済で起こってるそういうクソみたいな現象は、会社や学校や家族や、そういう単位の中でも似たようにやっぱり起こってるの。もう、ホント限界! わかる? 私はそういった全てに苛立っているわけ。社会や会社や、人間や時代や、自分や他人や、現象や観念や、全てに!」一気にそうまくしたてて、私はラッシーをズズズとすする。
 ヒロはカミナリを避けるアマガエルのような仕草で頭を両手で覆いながら言う。「あのさ…」
「何よ」
「マンゴーシャーベット、頼んでもいい?」
「駄目」
「どして? マンゴープリンならええの?」
「駄目…」とまた私。「だって、人の講演に対しては拍手なりブーイングなり、なんらかの反応ってものがあってしかるべきでしょ」 
 ヒロは足を組みかえ、少し真面目な表情にスイッチする。「アキは、深いとこで、知らないうちに、人類に絶望してたの?」
 絶望? そうかな? あまりはっきりとそう感じていたわけじゃない。ただなんとなく、このところ自分でも上手く表現できない苛立ちがあって。ヒロを相手に喋っているうちに、それがもっともらしいアジテーションになっただけで。喋ってみて初めて、ああ自分はそんなふうに感じていたのかな、って思ったくらい。「そうかもね」と、私はそれでも言ってみる。
「今度生まれてくるとしたら、猫に生まれ変わりたいの?」とヒロ。
「うーん、猫もイヤ…」と私。「だって、猫には猫なりに、猫の世界の腐れ事があるんでしょ?」
「そやで。猫には猫の、やはり似たようなモンダイがある。つまり…」そう言いながらヒロは再び足を組みかえる。「つまり、この世の全ては相似的だと、まあ、そーゆーわけですよ」
 相似的?
 意味わかりません。ま、いいけど。
「さて、じゃ、ご飯終了!」私は言って立ち上がる。
「マンゴーシャーベットは?」
「また今度」
 ヒロは渋々立ち上がる。


 私はヒロと、たっぷりしたサイズのバスタブに浸かっている。バスタブの脇にはテレビモニタがあって、エロな映像が流れている。
 海沿いの小綺麗なホテル。カップル用のホテルだけど内装は気取っていて、まるでバリ島のヴィラ。風呂の湯は少しだけ塩辛い味がする。そんなとこまでリゾート的だ。
 私はヒロの肩を後ろから抱きかかえるようにして訊く。「で、あなたはいったい、何者なの?」
 あん。モニタの中の巨乳が喘ぐ。私は足を伸ばしてテレビモニタの電源スイッチを切る。
「あ。見てたのに」とヒロ。
「あなたは何者なの?」と、もう一度私。
「あっしは…」ヒロが答える。「カカワリの猫、でござんす」
「何よ、それ」
「コガラシモンジロー」
 私はしばし考える。「関わりのねーことでござんす…と、そーゆーことね」
「で、ござんす」
 面白いじゃないの。私はヒロの両肩に体重をかけて、ズブズブと彼を湯船に沈める。ブク、ブク、ブク・・・、ザバア!
「ザバア!」ヒロは言いながら風呂から浮かび上がり、「反撃!」と言って振り向くと、重ねた両手を水鉄砲にして私を狙う。
 無邪気じゃないの。
「無邪気な振りしてる、だけでござんす」私の表情を読んでヒロが言う。
 私は思わず笑ってしまう。「ねえ。ホントにあなた、何してる人なの?」
 胸から肩、そして肩からアゴまで、なぜかじわじわと再び湯船に潜水しながら彼は答える。「インナーダイバー」
「インナー? ダイバー?」
 ブクブク。彼はさらに潜りながら答える。「○×○、○○○・・・」
 いいなー、お台場。マジでバカみたいだけど、そんな風に聞こえた。


<クジラの唄が聞こえてくるよ>
 私が先週出した企画だ。ザトウクジラは唄を唄うのだそうだ。癒し系の企画は出尽くしていたけど、クジラウォッチングとポエムを絡ませる企画というのには、まだ手がついていなかった。
 プラン会議の前日、私は渋谷の某る鯨料理の店でこの企画を思いついた。私はもともと鹿肉とかマトンとか、癖のある肉を好む質だったのだけど、久々に食べる鯨料理をその日、改めてしみじみ旨いと感じた。クジラを食肉とすることについてはさまざまな議論があるのだろうけれど、取り合えず、美味しいものは美味しい。そんなわけで、本場の鯨料理を食してみたいという本音を、ちょっと変わった癒し系アクティビティを取材するという建前にくるんで会議に提出してみた。そしたらシメシメ、まんまとそれが編集長にウケたのだ。編集の仕事ってオイシイ。

「おーい、高鳥…」と編集長。「先週のあの企画だけどさ、カメラマン、誰にすんの?」
「カメラは今回、要りません」席を立って編集長の席まで進みながら私は答える。
「要らない? 写真、どうすんだよ?」
「私が撮ります」
「なんだって?」
「飽くまで資料写真ですから、私が撮ります」
「写真、掲載しないのかよ?」
「このプランのミソは絵にあるんです。クジラウォッチングの写真を掲載して、クジラウォッチングビジネスをPRして差し上げるのではなく、クジラウォッチングで得られる癒しの効果を、ポエムなイラストで表現し、もって読者を導くつもりです」
「カメラマン、要らねーのかって訊いてんだよ」
「今回のメインは写真じゃないんです。絵なんです。カメラの代わりにイラストレーターを同行させてください」
「ふーん、絵描き同行か…」と私の顔も見ずに編集長。「絵描きは誰にすんだ? アテあんのか?」
「ええ。候補は決まってます。これからアポとります。無名ですけど、海モノのいい絵をポエムに描きます」私がそう言うと編集長は、台割り作りで屈みこんでいたパソコンから初めて顔をあげて、ニヤリと笑った。「なるほどな。無名でポエムな絵描き…ね」
「はい」
「若くて、いい男なんだろ、察するに」と二ヤリ。
 うぜーよ、スケベ親父め、オメーと同じレベルで部下を見るなってーの。
「五十嵐まどか。年齢はわかりません。絵本の挿絵を見て、いいなと思いました。絵本、見てみますか?」
「いんや、結構。カラーで四ページとっとくから…」編集長は急速に興味を失ったらしい。「おい小僧! 電話鳴ってるよ、取れよ、このヤロー!」と新人くんに向かって一声吠えると、パソコン画面にもどった。
 
よしよし、これでOK…。来週は本場の鯨料理だ(ほほ)。私は満足して自分の席にもどると、恭しく机上の絵本を手に取り開く。青い表紙の小さな絵本。海洋社刊【海のまんま】。
ではでは、このテンションに乗じてちゃっちゃかアポをとっちゃいましょう。私は早速、奥付の電話番号に電話して、絵本の担当者に繋いでもらう。
「五十嵐まどか、ですか?」と、電話の向こうで担当者は迷惑そうに言う。「あー、連絡先、わかるかなあ? ずいぶん昔に仕事したきりだから…。今でも描いてんのかな?」とボヤきながらもしばらくして、「あー、あった。ありました。この番号で繋がるかどうかわからないけど、ウチでわかるのはこれだけです。いいですか? 申し上げます…」海洋社の担当者はそんなふうに、五十嵐まどかの電話番号を教えてくれた。
 日中に電話してもまあつかまんないだろうな…。そう思いながらダイヤルすると、「はい」と、なんとツーコールで相手が出た。私は雑誌の名前を名乗り、五十嵐まどかさんに取り次いでほしい旨を伝える。
「オレが、そのまどかっすけど…」電話の相手が応える。
 あれ? と私は思う。「あの…。【海のまんま】って絵本の挿絵を描いた、五十嵐まどかさん、ですか?」
「そうっすけど、何か?」男の面倒くさそうな太い声。
 印象外れ。編集の仕事をしているとよくあることだ。印象外れは、期待外れとは違う。我々編集者は外見や態度で人を評価したりはしない。それを誇りに思っている。作品のクォリティだけが評価の基準だ。先入観の訂正。気を取り直して私は続ける。「うちの雑誌で今度、クジラウォッチングの記事を掲載するんです。そのイラストを描いてほしくて…」五十嵐の反応を窺いながら私は言葉を区切る。「急なスケジュールなんですが、もし今週末辺り、時間のご都合がつけば、那智勝浦の取材に是非ご同行いただいて、で、五十嵐さんの目で実際に見た…」
「那智勝浦?」と五十嵐。
「あ、そうです…」よし、掛かったか。私は魚の反応を確かめながらリールを巻く。「一泊か、いえ、できたら二泊のスケジュールで…」逃がしてなるものか。「私、五十嵐さんの絵を見て、正直感動したんです。五十嵐さんが描かれた、あの…」
「いいっすね…」と、言葉を被せて五十嵐。「今オレ、なんかわけわかんない気分だから、クジラなんてすげーホント見たい気分だし、うん、アゴアシで南紀行けるなんてオイシイ話だし。何時にどこ行けばいいの?」
 話の早い人物だ。「有難うございます。では一度早急にお会いして、企画の趣旨を…」
「行くの、今週末でしょ…」と五十嵐はまた言葉を被せる。「オレそれまでにやっつけなきゃなんない仕事やっつけちゃうから。趣旨だのなんだの詳細は現地で。現地のホテル教えてくれたら、前日の晩までにはそこ行くから…」
 ホント、話のはやい人物だ。
「絵は、オレの絵でいいの? ホントにあの【海のまんま】の、まんまな感じでいいの?」
「ええ、そりゃもう。あの絵本を見て私は…」
「そ? じゃ、その線で。日程とホテル決まったら教えて。でも、そっかあ、あの絵本がねえ…。アレ、オレ高校生んとき、バイト感覚で描いたモンだけど…」
 え? 高校時代にバイト感覚で?
「おたくみたいなおっきな出版社が、わざわざ今さらあの絵をねえ…。意外なこともあるもんだ。ほんじゃ、また…」   
 え? もしかして長靴かバケツが釣れちゃった? 「あ、もしもし五十嵐さん…」と私が声を掛けたとき、電話は既に素早く、サンマをくわえて逃げ去った野良猫よろしく、カンペキに切られていた。
 ヒロ、あんたの紹介だったんだからね! 責任とりなさいよ!


「そんなこと言ったって…」と不服そうにヒロ。「アキだって、いい絵だって言ってたじゃん」ヒロの部屋、白いソファに腰掛けて、イカの薫製をモグモグしながらヒロが言う。
「あの絵本、もともとヒロの本でしょーが」と私。
 五十嵐まどかに電話をした日の夜、私はヒロのマンションに帰った。帰った、という表現が適切かどうかは難しいところだ。私は自分のマンションに週三日ほど暮らし、ヒロのマンションに週四日ほど遊びに来ている。ここのところずっとそんな感じだ。男の部屋に入り浸るなんて、私の趣味ではまったくないけれど、だってあまりに居心地がいいのですもの(ほほ)。ヒロの部屋に比べると、私の部屋なんて犬小屋飛び越えてハムスター小屋だ(ふん)。都心の十階建てマンションの十階、東南西に窓があり、南にはささやかながらルーフバルコニーだってあるマイルームがハムスター小屋に思える…。ヒロはとんでもなくリッチなドラ猫だったのだ(けっ)。
 
 初めてヒロの棲み処を訪れたとき、私は本当に驚いた。バブル時代のリゾートマンションを思わせるエントランスにはこれでもかと観葉植物が生い茂り、ご丁寧に人工の滝まで流れていた。エレベーターに乗るとヒロは三十階の表示ボタンを押した。三十階に着くとそこには3001号室のみしかなく、そこがヒロの棲み処だった。カードキーで豪華な扉を開けてヒロが「どうぞ中へ…」と言ったときも、続いて「スリッパはこれを…」と言ったときも、リビングで「にゃーにか飲みますか?」と訊ねたときも、私は終始無言だった。
(騙された)と私は感じていた。「少し薄汚れてはいるものの気立てのいい猫くんだと思ったのに…」と私は言った。「あんたはペルシャだったのね」大きな窓を覆うカーテンはペルシャンブルー。
 ヒロはぺロリと舌を出した。
 私は言った。「私、金とか権力とかって大嫌い…」
 ヒロは黙って冷蔵庫を開ける。
「金とか権力とかって、腐った臭いがプンプンしてるもの。あれはウソの臭いよ…」
 ヒロは黙ってビールを取り出す。
「私ってそういう臭いには敏感なの…」
 ヒロはビールを持って無言でテーブルに歩む。
「なのに、なんでかしらね…」と、力が抜けたように私。「あなたには、そういう臭いを感じなかったな」
「こちらにどうぞ…」と、静かにヒロは言った。「ビールでも飲んで、月でもかじりますにゃ」
 静けさが私を癒していた。
 「そりゃあ確かにあなたは、頭の先から尻尾の先までウソの詰まった、タイヤキみたいな猫よ…」
 ヒロは頬杖をつくと丸い目で私を見る。
「でも、そのウソと、あの腐った臭いのウソとは全然別のモノ…」
 ヒロは頬杖をついたまま愉快そうに笑った。
「あなたは存在そのものが絵空事な感じ…」言いながら私はテーブルに歩み寄ると、「この部屋もそういった意味では、まあ、あなたらしいわよ」と、ヒロの肩にそっと手を置いた。
「どちらにしますか?」とヒロが振り向く。「青い瓶がエール。緑の瓶がラガー」白いテーブルの上に二本のビール。
「アポロビールね…」と私。「これ、今でも売ってたんだ…」入社したばかりのころコレをよく飲んでいたっけ。「私はラガー」そう言って私は緑の瓶を手に取った。
 「では乾杯…」ヒロは青い瓶を手にして言った。「ウソつきに」と、ヒロが指差したのは窓の外。ぽっかりと浮かぶ満月で。ヤだヤだ、と私は思った。気障な三毛猫。なーにがウソ月だか。思いながらも見上げる月は赤くて大きくて、なんだか本当に造り物のような月。
「乾杯ね」そう言って私は瓶を重ねた。

「初めてこの部屋に来たときは、ウソみたいな赤い月が出ていて…」と私。
「ロマンチックだったにゃあ」とヒロが惚ける。
「なのに、今はあんた、そーやってイカの薫製なんかモグモグしちゃって…」
「モグモグ」
「やっぱ、三毛は三毛ね」と私。
「オスの三毛猫は珍しい」とヒロ。
 青い絵本【海のまんま】を手に、私もヒロの座っているソファに移動する。イカを少し奪って私も食べる。「ねえ…」と私。「この絵、正直どう思う? 高校生がバイト感覚で描いた絵に…」
「見えないこともない」とヒロ。
「そう?」
「正直な絵だ」
「うん」
「どう思うのさ? 編集者としてアキは」
「いい絵だと思うよ、すごく。私、これ見て泣いたじゃん」


 先週のこと。私たちは都内の区民プールで泳いでいた。メジャーなスポーツクラブのプールに比べると規模は小さいし豪華でもないが、施設自体が新しく、空いていて、私は気に入っている。プールにはその時間、私とヒロ、それに監視員が一人いるだけだった。事実上の貸切。
 私は泳ぎが得意だ。子供のころ喘息を患っていて、毎週末父に連れられてプールに通った。女としては広過ぎる肩幅も水泳のせい。
 ヒロは泳ぎが苦手なのか、往復するともうプールからあがって、プールサイドのジャグジーに浸かってのんびりとしている。私はゆったりとしたフォームで五往復してから、ヒロの寛ぐジャグジーに向かった。
 ヒロは手足を伸ばして気持ちよさそうにリラックスしている。
「なんだ、なんだ…」と私。「男の子なのに、すぐにジャグジーに浸かっちゃって、情けないわね」
「潜るのは得意なんだけどにゃ」
「スキューバ、やるのね」私もヒロと並んでジャグジーに浸かる。温かい。
「いくら頑張って泳いでも、この島からは抜け出せないぜ」涼しい顔をしてヒロが言う。
「この島って何よ」
「ザ・ワールド」そう言ってヒロは笑う。
 私たちはジャグジーに浸かりながら、透明な天井越しに青空を眺める。
 プールに音楽が流れ始める。
「あ。この歌…」と私。
「最近よく聞くね」とヒロ。
「今ヒットしてる映画の主題歌…。ウチの社から出てる小説がこの映画の原作なのよ」
「へえ。面白い小説なの?」
「私、読んでない。私もともとあんまり本、読まないのよね」
「出版社の社員なのに?」
「まあ、そんなもんよ。私、情報誌の編集だしね。文学と情報ってのはベツモノでしょ」
「表現と伝達はベツモノだってこと? マンゴープリンがベツバラなのとおんなじで…」
 音楽が止んでアナウンスが入る。「只今から、十五分間の、休憩時間です。プールで泳いでいる方は、速やかにプールからあがって…」
「もうとっくに休憩してますよー」とヒロ。
「今のアナウンス…。今のは伝達ね。表現ではない」と私。
「なるほどね…」ヒロは頷く。「ところでさ、編集さんに訊きたいんだけど、雑誌ってのは誰のために刊行されてるの?」
「もちろん読者のためよ」
「お金を払って読者が雑誌を買ってくれたら、そしたら会社が儲かって、するとアキに給料が払われるわけだから、つまり会社のためでもあり、社員のためでもあるよね」
「まあ、そうね。交換。相互利益」
「記事を書いたライターや、写真を提供したカメラマンなんかもギャラがもらえるんだから…」
「そうね。そういうスタッフのためでもあるわね」
「商業出版というビジネスについては、そういうことだよね」
「そうね」
「じゃあさ、いわゆるゲージュツ家とかそういう人にとってのさ、ほら[創作]とかっていうのは、これはどうなの? 画家とか陶芸家とか、そういう人たちは誰のために表現するの?」
「いい質問ね、ヒロ…」私は腕を伸ばして仰け反りながら、青空を見て少し考える。編集者としてココは立派に答えなければ格好がつかない。
 いわゆる表現者は誰のために、そしてなんのために表現するのか? 何かを伝えたくて表現するのか? 往年の画家や詩人は、不摂生を重ね身を細らせてまで、どうして創作活動に打ち込んだのか? 芸術家はある意味、修業僧に似てはいないか? 片や享楽的に何かを求め、片や禁欲的に何かを求める。彼らは何を求めるのか? 
「神は…」ぼんやりと私は呟く。「どうして宇宙を創ったの?」何かが繋がりそうで断片的な問いを呟く。「太陽や風は、誰のために存在するの?」
 ヒロは不思議な笑みを浮かべて聞いている。
 ジャグジーにノボせそうになりながら私はそれでも頑なに考え続ける。人はなぜ生きるのか? 遺伝子を未来に受け継いで、そのリレーの果てに、誰かがその伝達文を読んでくれることを期待するのか? それとも?
「哲学的思考に耽る水着姿の女性。セクシーですにゃ、むふふのふ」とヒロ。
 お願い、もう少し黙ってて、混ぜっかえさないで。今、結構深く掘り進んだところなんだから。答えが出るまでおとなしく待ってなさいよ。
「その女性の肩幅がガッシリと男性的にたくましいとなると、こりゃもう…」なんて拗くうるさいヒロに、私は片手でお湯を掛けて黙らせる。
 もう少し考えてみよう。商業的に価値のある、商品としての作品とは別に、なんの役にもたたない作品、というものがあるだろう。実際的な意味では世のため人のためにならない類のもの。…人の心のためのもの。「芸術はね…」と試しに私は言ってみる。「心のために、あるのよ」心のため、というのはどういうことか?
「誰の?」とヒロは言い、得意の水鉄砲で私の胸を撃つ。胸に掛かったお湯を無視して私は考える。誰の心のために創造するのか?  誰かの心を癒したり励ましたりという意図が生じると、その表現は少しいやらしくなるのではないか? 「芸術や創作は表現者のためのもの、ではないかしら?」私はぼんやりとそう言ってみる。
「マスターベーション?」とヒロが訊く。
 マスターベーション。自己満足。ならば、マスターベーションを公開する必要はない。自分だけの慰めに表現するのなら…。
「…わからない…」私は少し面倒になる。「そうなんじゃないの? あなたもするんでしょ、マスターベーション、猫なりに。だったら、それでいいんじゃない? 創作活動は独りでこっそりやるものであって、公開すべきもんじゃないし、ましてやそれでお金をもらうべきでもない。それに対してお金を払う、ってのも…、また相当に異常よね」
「いいのかにゃあ。出版社の社員がそんな結論…」
 そのとき、休憩時間終了のアナウンスが流れ、私は立ち上がる。「行くよ、ヒロ。百メートル、競争しよう」とヒロの手を引っ張る。
「やだよ。やだよ。オイラまだあったまってるんやー」

 その夜。
「アキが無理やり泳がしたから、体中が痛い…」ヒロはベッドに体を投げ出し、苦しんだフリをしている。
 私はテレビを見て知らん顔をしている。
「猫は水が苦手なんやあー」とヒロは足をジタバタさせる。
 私はヒロが少し可哀想になる。結局無理矢理五百メートルも泳がせたのだ。子供のころ、父に叱られながら泣きべそをかいて泳いでいた自分を思い出す。「ごめんね、ヒロ。マッサージしてあげるよ…」そう言うと私はヒロの寝そべるベッドに行って、その背中にまたがりマッサージを始める。
「耳にもいっぱい水が入った…」ヒロはマッサージを受けながら、さらに膨れてみせる。「中耳炎になっちゃいそう。猫の耳は急所やで。マッサージ終わったら、耳掻きもやってもらわんと、割りに合わへん…」
 本当に甘え方が上手い。私は甘えられない質だから感心してしまう。「あなたの猫プレイにも、私はすっかり慣れたけれど…。知らない人がこんな私たちの様子を覗いたら、さぞかし気持ち悪いことでしょうね」そりゃ、そうだ。
「オイラたちのこういういちゃつきあいも、言ってしまえば自己満足。他人様に見せるもんじゃない。昼間の結論を応用すれば、そうだよね?」とヒロ。
「そうね…」創作の話、答えをはぐらかしたままだ。「ところで、ヒロ…」
「なあにゃ?」
「ヒロは小説とか書かないの?」
「書かないよ」
 あっさり言うわね。「書いたら?」あなたどうせ暇だし。「文芸雑誌に紹介してあげるわよ」
「そう?」
「書くとしたら…」私はヒロの耳を掃除しながら訊ねる。「ヒロなら、どんな小説を書く?」少し興味がある。
「うーん。ちょっと待ってね、考えてみるから…」などと言いながらヒロはキッチンを指差す。「考えてる間に、冷蔵庫からビール出してきて」
 私はヒロのお尻をパン! と叩くとベッドをあとにする。「ねえ…。いろんなビール、入ってるよ。どれ、飲むの?」冷蔵庫の中には世界各地のビールがどっさりと入っている。
「ベルギービール。シメイの青。アキも飲みなよ」
 ヒロのためにシメイブルーの、自分のためにヒューガルデンホワイトの栓を抜き、私はまたベッドにもどる。
 カーテンと同じペルシャンブルーのベッドカバーの上で、ヒロはホントに猫のように嬉しそうにビールを待っている。喉を鳴らす音が聞こえてきそうだ。
「はい、お待たせ。チュッ…」シメイの青を、ヒロの頬っぺにキスさせる。「ホントにあんたってば、ビール好きね。南国リゾートにいるみたいによく飲むのね…」
「ちうー」ヒロもシメイにキスを返す。
 ベッドの上で私たちは乾杯して、少なくはないアルコール度数のビールをラッパ飲み。父が見たらなんと言うだろうか?
「ベルギービールって、コレはもうビールじゃないわね…」香りの強いしっかりとした味わいを喉に流し込みながら私は言う。「ラッパ飲みするお酒じゃないわよ、まったく。コレ、冷やさないほうがおいしいかもよ」
「飲んでるうちにあったまるさ」
 そうね。時間をかけて飲みましょう。
「…で?」ヒロの目を覗き込んで私は訊ねる。「ヒロならどんな小説、書くの?」
「うーん。そうだなあ…」シメイを飲みながらヒロは目を閉じのんびりと語る。「日が昇って、風が吹いて、木の葉が揺れて、ビールを飲んで、綺麗な女の子といろんな話をするうちに、夜がきて、で、お風呂に入って、眠る。そしてまた新しい朝が来る。…そんな話かな」
「それで? それで何が起こるの?」 
「そんだけ。何も起こらない」
 呆れた。この人は現実世界でも空想世界でも、とにかくビールを飲んでいるだけなのね。
「それじゃ、物語にならないでしょ…」私はヒロの手からシメイブルーを奪い取って言う。「物語の基本は起承転結。変化がなきゃドラマにならないじゃない」
 ヒロはシメイを取り返そうとジタバタするが、私は自分の背中にシメイを隠す。
「アキならどんな物語を書くのさ?」ヒロはシメイを諦めて、また長々とベッドに横になる。
 私は取り上げたビールをテーブルに運びながら答える。「私は文芸の専門じゃないからよくわからないけど…」でも、あんたよりはマシな話を作れるわよ。「物語か…」と私は考える。「まあ書くとしたら、そうね、まずは平凡な日常の描写からスタートするわね。学生なら登校するし、会社員なら出勤する。そのうち、何かが起こるのよ」
「何か?」と、眠そうにヒロ。
「そう…」私はベッドにもどりヒロをうつぶせに寝かせ、背中にまたがりマッサージを再開する。「日常に何か変化が起こるわけ。事件が起こるのよ。ハプニングね」
「ふうん。そうなの」
「で、その何ゴトか故に発生するモンダイに向かって、解決的な努力をするの」
「誰が?」
「主人公がよ。主人公が自ら動いてモンダイを解決してゆくの」
「にゃあるほど」ヒロは欠伸混じりだ。
「そうして、心温まる結末に繋がるの。泣いたり笑ったりできる、人の心を動かす結末よ…」言ってから私はヒロの脇腹をツネる。「ちょっとヒロ、あんた、聞いてるの?」
「うう!」体をビクンと反応させてヒロは言う。「はいはい、聞いてましたよ。聞いていましたとも」
「要約してごらん」
「ええと、敏腕編集者、高鳥アキの小説講座…」とヒロは眠そうな声で言う。「一、読者の目線に立って物語をスタートさせる。二、読者とのシンクロがとれたところでハプニングを発生させる。すると読者は不安になる。三、そこで、主人公はモンダイ解決に向かって前向きに努力する。共感した読者は手に汗にぎり主人公を応援する。四、主人公はモンダイ解決の過程で成長し、物語は主人公の手によって感動的な結末を迎える。読者には泣きや笑いなど、その感情面に訴える読後感を残せるとさらによい…」なんて百点満点中百二十点の回答をしてみせるヒロ。「そんな感じで、OK?」
「うん…」猫にあんまり賢げな物言いされると、なんだかムカつくわね。
「そこに悪役や仲間、出会いや別れなんかも絡めちゃうわけだね」
「そうね…」そう淡々と言われるとなんだか馬鹿にされているみたいね。「つまらないわね、そんな話」
「いやいや…」と片目だけ丸く見開いてヒロは言う。「アキらしい話だよ。少年漫画みたいだ。行動的で目的的だ」
「私らしくなんかないわよ…」と低い声で私は言う。「私は、正しい努力、みたいなウソっぽくて教条主義的なものは大嫌いだもの、ホントは。そうじゃなくて、物語っていったらこんなモノって先入観が先にあるのよね…」オリジナリティがないってコト。「私には物語なんて書けないな。私、正直じゃないから…」体裁を気取ってしまう。私は私じゃない私を気取って、それを私らしさにしているだけだ。「それに、職業柄ダメね。マーケティング的なコトまで考えて、わざとらしくエサ散りばめた、嘘八百の商品を書きそうだもの」
「あのさ…」と、内緒話のようにヒロ。「神様だったら、どんな物語を書くのかな?」
「さあ…」と私は手を広げてみせる。「むしろ興味があるのは、[神様について]の物語ね。神様の日常を、誰か描いたりしてくれないかな?」ビールばかり飲んでいたりしてね。
「人間には直視できないものが二つある。一つは太陽で…」と、急に真面目な声でヒロ。「もう一つは自分自身、だったっけ?」
 だったけ? って言われてもねえ。
 しばらくマッサージしていると、ヒロの体は急にぐにゃりと柔らかくなり、スースーと小さな寝息が聞こえてきた。ごめんね、無理に泳がせたり…。私っていつもそうなのよね。反抗的で、攻撃的で、支配的で。本心はそうじゃないんだけど、そういう表現しかできないの。
 表現、かあ。昼間ジャグジーで考えていたことがまた頭を過る。
 規則正しく繰り返されるヒロの寝息を聞きながら、私はまた思考の闇に潜る。[表現]。伝達のためのコミュニケーション、ではなく、自分のためのマスターベーション。だったら、なんで[表]に[現]すのだろう? アウトプットするのはどうして? 表現を純粋に、表現のためだけに行うとそれは、[素直]なものになるのではないか? 観客がいないからこそ、素直に表現できるのだ。だとしたら…。一つの答えが浮かぶ。それは[自分の内面の客体化]ではないか? つまり鏡の創造ではないか? 作品が仕上がったとき、本当にその作品を必死に見つめるのは、自分自身の二つの目ではないか? 作家はそこに何を見ようとしているのか? 自分でも知らない自分の内面ではないか? 「私は私の心の中を見るのが怖いの…」声が口を突いて出た。私は自分に自信がないのか、自分を嫌いなのか…。自分を愛せないから誰も愛せない、のかもしれない…。なんだか急に泣きたい気分になる。
「素直に本当の自分を表現してみれば、今まで気がつかなかった自分を、そこに発見するかもよ」
 起きていたのか。ヒロが猫ではなく、人間の目で私を見ていた。月が隠れて、太陽が昇った。広末晴樹の印象は、太陽だ。
 広末はベッドをおりて、隣の部屋に姿を消した。まもなくもどってきた広末は、手に一冊の青い絵本を持っていた。「素直な表現」広末はそう言って、私にその絵本を手渡した。ベッドの上で私は、青い絵本を開いた。その率直な表現に私は泣いた。


 繊細な大胆さ。女性的な男性性。静謐なる躍動感。矛盾が、そのまま素直に葛藤していた。そして海というテーマがその葛藤を引き受け、ある意味で癒し、慰めていた。そこには命というものの本質が描かれつつ、同時にその有限な命が天に向かって拳を突き上げているような、どうしようもなく痛切な抗いがあった。海がその痛みを引き受けているのだ。そして、その向こうに言葉で表せない何か、があった。なんの技巧もなく素直にそのままに描かれた絵は、おそらくは画家の狙いなどとは無関係に、ある種の在り方を描き出していた。価値を超えた何かがそこには確かに息づいていた。


 那智勝浦に到着したのは夜だった。明朝のホエールウォッチングを取り仕切る主催者と、事前の簡単な打ち合わせをしたかったのだが、きちんとアポをとっていたのにも関わらず、訪ねてみると主催者は留守だった。留守番の奥さんは、飲みに行ったから帰りは遅かろうと、あっさりそう言った。明朝一番、朝日の昇るところから五十嵐画伯に立ち会っていただくためにも、今夜中に段取りをフィックスしておきたい。携帯も何も持たずに飲み屋街に消えた主催者に出会うべく、私は街の居酒屋を捜索することにした。街といっても小さな街で、飲むところといったらそう何軒もあるわけではないらしい。
 ホテルにチェックインし、五十嵐まどかが着いたら携帯電話を鳴らしてくれるようメッセージを残したのち、私は一人タクシーで街に出た。一軒一軒飲み屋に出向いて主催者を捜した。
 主催者が見つかったのは八時を過ぎていた。彼が飲んでいたその店で明日の段取りを決め、彼の会計を引き受け、店から彼を送り出したところで、私の携帯電話が鳴った。
「もしもし。あ、五十嵐っす…」と電話の声は告げた。「今ホテル入ったとこ。え? どこですって? 街の居酒屋? あんた一人で飲んでんの? え? ああ、飯、まだ。昼に弁当食っただけ。ええ。はい、じゃ行きます。その店の名前、タクシーに伝えたらいいんすね。あーい。じゃ、すぐ行きます」
 居酒屋に現れた五十嵐まどかは長身の若い男だった。浅黒く日に焼けていて、やはりあの絵本を描いた人物には見えなかった。見たところ私よりいくらか若い。簡単な挨拶をし名刺を渡し、早速夕食にする。
「いやあ、腹減った。わ、すげー。普通の居酒屋に、普通に鯨料理があるだねえ…」と五十嵐は喜んだ。さらし鯨とハリハリ鍋があったのでそれを注文する。
「飲み物はどうします?」と私が訊くと、五十嵐は冷酒にすると言う。「酔鯨でしょ。やっぱ、字面からして」
「じゃ、私も。片口で貰いましょう」
 宴会ムードだ。
「明日早いけど大丈夫?」
「楽勝」
「でも、舟小さくて、揺れるみたいだから」
「オレ、揺れるの、好きだから。大酒飲んで揺れるのも、すげー好きだから」
 台詞は変だが、なんとなく頼れる印象。ひとまず安心する。
「あなた、いくつなの?」
「三十ジャスト」
「編集さんは?」
「アキさんって呼んでね。私、少し歳上」
「三十一?」
「お上手お上手。今年、厄年よ」二合の片口できた酔鯨を、五十嵐のグラスに注ぎながら私は笑う。
「厄年って、四十二歳?」
「それは男でしょ」
 私たちは冷酒で乾杯し、さらし鯨をつまみ、厚焼き玉子と真鯛のカルパッチョとシーザーサラダを追加する。
「そうか。じゃ、ま、いいや。女の人に歳、聞いちゃ失礼だからな…」とカルパッチョに箸を伸ばしながら五十嵐。「お。コレ、うめ」
「明日のことだけど…」やってきたシーザーサラダを取り分けながら私は言う。
「はいはい」
「朝、四時にホテルのロビーに集合だから」
「げ! ひでえ…」冷酒にむせるように五十嵐。「オレ、その時間にいつもは寝るよ」
「でしょうね。私もいつもはそんなもんよ」
「じゃ、今日は朝まで起きて飲むか?」と五十嵐が酔鯨を突き出す。
「だからあ、明日の午前中は舟だって言ったでしょう…」と私は笑う。「舟で吐くわよ。さっき主催者のおじさんに聞いたら、舟、半端じゃなく揺れるみたいよ」
「どのくらい乗ってんの?」
「三時間だって」
「なんだ、たいしたことねえや」
「クジラのいそうなポイントに着くまで、カツオのトローリングを楽しめるんだって」
「カツオ!」真鯛を頬張りながら五十嵐はまた喜ぶ。「いいね。真鯛も旨いけど、刺身でオレ、一番好きなのがカツオ」
「舟で捌いて、醤油垂らして、その場で食べるみたい」
「すっげー、楽しみ!」
「小舟で外洋まで出るのよ」
「沈没したら泳いで帰って来れるかな?」
「まあ無理ね。クジラが助けてくれない限り助かりっこないわよ」言いながら私は、鍋に鯨と水菜を投入する。
「なんか、鯨、食っちゃっていいのか、食うべきなのか」
「その辺りから、もうあなたの創作は始まってるの?」
「捜索? ああ。ここにある。鯨、ほれ、もう煮えた」
 真剣なのか冗談なのか、単なるバカなのか。五十嵐は無邪気に鍋を突付いている。
「あなたの、絵本だけど…」
「ん?」
「…いえ、いいわ」鯨を頬張り嬉しそうな五十嵐を見て、私は思い留まる。「取材が済んだら話しましょう。変な先入観なしで、明日はとにかく、五十嵐さんの目でしっかり、まんまを取材してもらえたらそれでいいです…」
「なんだよ、急に改まって…」と五十嵐は鍋から顔を上げる。「ところで、アキさん。厄年でなんかいいコトあった?」
「いいコトってなによ…」五十嵐の話しぶりはどこか憎めないところがあるな、などと思いながら私は答える。「うーん。どうかな。今のところ別に、いいコトも悪いコトもないかな。少々ユニークなコトはあったけどね…」
「ユニーク?」
「ユニークな猫を拾ったし、ユニークな画家と出会ったし」
「ふうん…」ユニークな画家という指摘には無頓着に五十嵐。「あのね、でも、厄年って気にしなくていいらしいぜ」
 そう? 有難う。
「厄年の[厄]って、昔は役目の[役]って書いたんだって。いいとか悪いとかじゃなくて、変化とか脱皮とかの歳、なんじゃないかな?」
 やっぱり人は見かけによらないわね。このガキ大将くん、意外に博学で、それにどうやら厄年の私を慰めようと、彼なりに気を遣っているんじゃないかしら?
 「オレの友達で、厄年に結婚したり就職したりして、実際上手くいってるヤツって多いし…」
「へえ、そうなんだ。良くも悪くも、つまりは節目の年ってことね…」鯨肉表面のトロみと芯の歯応えを楽しみながら私は言う。
「アキさん、厄年って信じる?」
「信じない。迷信だと思う」
「厄祓、しなかった?」
「した。一応…」冷酒の酔いを少々感じながら打ち解けて私は頷く。「考えてみれば、実家の父も厄年で大病したし、ウチの部署の前編集長も厄年に左遷されちゃったし…。意外と馬鹿にできないかもね」
「つまりだよ…」と箸を振りながら、少し眉をヒソめて五十嵐。「厄年ってのは、生理的にも社会的にも時限爆弾なんだ…」
 変わったテーマで話す男だな。
「オレ、わかんないなあ。なんでさ、生まれて一定の年月ののちに、共通で皆さん、そーゆーポイントを迎えてしまうわけ?」
 「なぜ皆が同じ歳に峠を越えるのか、ってこと?」
「うん」
「体内時計が時を刻むのよ」
「左遷は肉体的モンダイじゃないぜ」
「個人の社会的な時計も、個人の体内時計にリンクするのよ」
「さっぱり、わかんねーよ」
 私もわかりません。
「でもまあ気をつけて。美人だからいろいろ大変だろーけど」
「あんた、たいした営業手腕ね。絵描きやめて画商になったら?」
「そう? あ、ほら、煮えてるよ」と、五十嵐は鯨をつまんで差し出す。
「あんた、自分の歯応えを、トロみで隠して生きてくタイプね」
 
 五十嵐と私は初対面のわりに打ち解けて、気がつけば二人ともすっかり酔ってしまっていた。翌朝は早起きして小舟で外洋に出なければならないのに。でもまあ勢いってやつは抑えようと思って抑えたところでよい結果には結びつかない。私たちは勢いのままに盛り上がり、満足してホテルにもどった。
 エレベーターホールで私は言う。「じゃあ、こんな時間になってしまって、本当にすみませんが…」酔いが冷めつつある。「明日は四時、ロビー集合でお願いします」
「明日ってーか、つまり二時間後じゃん」
 確かに、寝てしまったら起きるのは難しいかも。
「すみません…」心から私は頭を下げる。「なるべく寝ないで、シャワーでもして、少し寛いだら集合、みたいな感じで…」
「いやいや、寝ますよ、オレ…」とんでもない、というふうに五十嵐。「すげー眠いもん。でもオレ寝起き、めっちゃいいから。電話のベル鳴らしてくれたらもうピッと起きるから、ホントにホント」
 五十嵐はニッコリ笑ってそう言った。

が、もちろんそれはウソだった。二時間後、私は彼の部屋にコールして、やっぱりな、と肩を落として受話器を置いた。しかたがない。同行作家にあれだけ飲ませた私が悪いのだ。自己嫌悪の歯応えを味わいつつ、五十嵐画伯の携帯番号を力なく私はダイヤルする。
 叩き起こして舟に乗せても、もはや機能しないだろうな、彼は。
 呼び出し音を数えながら、私は薄暗い気持ちで部屋のカーテンを開け…。すると…。
 「ラッキー」と私は呟く。
 コールは留守番電話に繋がった。「おはようございます、五十嵐さん…」と私は余裕のある口調で伝言メッセージを吹き込む。「そして、おやすみなさい、五十嵐さん。本当に残念ですが、天気予報を裏切って、外はひどい雨です…。今日の取材は中止します。明日の予備日に勝負をかけましょう。本日は心ゆくまでお休みください。よい夢を。高鳥でした」


「雨の日の博物館って、なんだかいいよな」と五十嵐。
 私たちはその日、乗船取材を中止して昼近くまで眠った。昼食のフリをした朝食を済ませ、フロントでSクラスのレンタカーを借りた。近くにクジラ専門の博物館があるというので、そこを覗いてみることにしたのだ。
 博物館の天井にはクジラの全身骨格が吊るされていた。
「恐竜の骨みたいね」と私が言う。
「ピノキオの気持ちがわかるな」と五十嵐。
 館内は空いていて、静かだ。図書館のような優しさと、裁判所のような冷たさが同居した静けさ。
 五十嵐は黙って展示物を眺め、歩いた。私は資料写真を撮りながら五十嵐のあとを歩く。デジカメのモニターが五十嵐の横顔を映し出す。
 不思議だ。あんなに粗暴で不躾な印象だった彼が、今はこの静かな空間にしっくりと溶け込んでいる。
 クジラの種類が描かれた説明パネルの前に立つ五十嵐。説明文を読んでいる彼の横顔は、幼い子供のようにも見える。
「クジラには、ヒゲクジラの仲間とハクジラの仲間がいます、だってさ」
「ハクジラ?」
「歯だよ…」五十嵐は自分の歯を剥き出して説明する。「この歯」
 ふうん、そうなの。
「歯を持っているクジラの代表は、ええと、マッコウクジラだな…」と、五十嵐はパネルの絵を指差す。「この頭のでかいヤツ」
「ちょっと不恰好だけど、愛嬌のあるクジラね」
「たいていの絵本に出てくるクジラはコイツだな」
 そういえば、あの絵本【海のまんま】に描かれていたのもこのタイプのクジラだった。

(どうしたの? なんで泣いてるの?)
 広末の部屋で最初に絵本を見せられて、私は迂闊にも泣いてしまった。何かが私の深いところを刺激した。広末は私が泣き止むまでじっと待っていた。やがて私は自分を取りもどし、言葉を探しながら、言った。(この絵本には[静]と[動]が描かれているのね)
([静]と[動]?)と広末。
(そうよ。そう感じたの)
(何が[動]で、何が[静]なのかな?)と広末。
([動]は、そうね…)と感じたままに私。(自然のリアルな厳しさを生きる、命の葛藤…)


「へえ…」と五十嵐。「マッコウクジラは大王イカを食べるんだってさ、すげーな。大王イカってったら、ドでかいんだぜ。怪獣大決戦みたいだなあ…」と、説明パネルを読んで喜ぶ。

([静]は?)と広末。
([静]は…)と私。(命をまるごと大きく包んで癒す、海…)


「わかったぜ、アキさん…」と、パネルの図解を指差しながら五十嵐。「マッコウクジラの頭がでかいわけ。マッコウクジラは潜水の名人なんだって。大王イカとのデスマッチも深海で行われるんだってさ…」図鑑のページで新発見を見つけた小学生のように五十嵐。「深く深く潜るためだよ、頭が重く作られたのは、きっと…」
 頭が重く[作られた]。自然発生ではなく、創造者の意図。そう、その視点。あの絵本にもそれを感じた。
 ダレカガ アタマヲ オモク ツクッタノダ。
 ダレカガ。ナニカガ。

(視点は二つあるの。そう感じる)と、広末に向かって私。
(二つの視点…)と広末。(その、一つは?)
(一つは、命の側からのもの)
(命の視線)
(命からすれば、生きるということは切なくも激しい、[抗い]のようなもの…)
([抗い]のような)
(抗うが故に喜びも生じる…。美しさも生まれる。醜さも生まれる。唄も生まれる…)

「大変だ、アキさん…」と五十嵐。「この絵本向きのクジラ、唄を唄わないらしいぜ」
「そうね…」と私。「唄うのは確かザトウクジラっていうクジラよ。明日見学するのはそのザトウクジラの予定です」
「ザトウクジラはヒゲクジラの仲間です、ってここに書いてある…」五十嵐がパネルの文字を追いながら説明する。「シロナガスクジラとか、こういう流線型のスマートなクジラの仲間なんだって…」スマートなクジラのビジュアルを指でなぞりながら五十嵐は続ける。「このタイプには歯がない。海水ごとガバッと飲み込んで、プランクトンなんかを漉しとって、それを飯にしてんだって…」五十嵐は私に向き直る。「平和的クジラなんだな。ザトウクジラって」
 五十嵐の熱心さに少々戸惑いながら私は質問する。「ザトウクジラは潜らないの?」
「潜水は得意じゃないみたいだ。代わりに…」五十嵐は伸び上がるように体を反らす。「飛ぶんだ」
「飛ぶ?」
「ジャンプするんだって。空に向かって」
 海から空への[ジャンプ]。
 命から見た海はきっと…、命を育み癒す母性的な環境であると同時に、生きる上での耐えがたい葛藤を生み出す不気味なモンスターそのもの。命は海から生まれ、海に守られ、海と戦い、海に憧れ、そして海に呑み込まれてゆく…。

(もう一つの視点は?)と広末。
(もう一つは…)と私。(海の側からの視点。…これがこの絵のすごいところよ)
(海の視線)
(海から見た命の[抗い]。それはとても淡々と描かれている。愛に対しても、憎しみに対しても、優しさに対しても、弱さに対しても…、こと命が演じうる、あらゆる表現に対して、ある種中立的に、その全てを包み込んでいる海…。その[気持ち]、のようなもの。それをこの絵に感じる…)
(どんな[気持ち]?)
(わからない…。私には海の[気持ち]が説明できない。海の視線に窺えるのは、愛? それとも悲しみ? そのどちらにも似ていて、わからない。海はなぜ命を生み、育て、そして滅ぼすのだろう…?)

 命の喜び、命の悲しみに対して、海はなんと超然としていることだろう。海が命に対して無関心だとは、まったく思えない。包容力。凡庸な言い方だが、その一語に尽きる。海の[気持ち]。それはつまり、癒しなのか。癒しとは? まんまの肯定。全肯定。喜びも、悲しみも、怒りも、そのまま受け入れること。無力さは癒しにより勇気づけられ、悲しみは癒しにより慰められ、苦しみもまた癒しにより消え失せるのだ。喜びや楽しみが束の間であることもまた、癒しの効用なのかもしれない。言ってしまえば、命が生まれ生き、そして死ぬこと、そのものが癒しなのかもしれない…。
 何からの癒しなの? その答えは海が知っている。
 寄せては返す波のように、たえず変化し、そして延々と繰り返されてゆくリズム。局地的に見れば激しくも移ろいやすい、が大局的にみれば相も変わらない、この世という存在。その意味はなんだろう…? そして、その外には何があるのか…? 繰り返される命のダンスの外には何が…?

「おーい、アキさん!」と五十嵐の声。「どうしたの? まだ眠いの?」
 私の追想が消える。
「こっち、こっち! こっちにスゲーもの見つけたから。アキさんも眠気なんてもう、ブッ飛ぶから。早くコレ、見て!」
 五十嵐に手招きされながら、私は一歩ずつ現実世界に歩み寄る。
「ほら、コレ…」五十嵐が指差したのはユニコーンの角のようなもの。「な。でかいな」五十嵐はヘラヘラ笑っている。
「コレ、何?」
「ペニス。クジラの」
 博物館の天井に向かって突き上げるように展示されたそれは、雄雄しくも悲しい、そしてやや滑稽な、[抗い]のようなものを漂わせていた。
 確かにね…。生きることは激しくも切ない[抗い]だわね、まったく。
 私の中に侵入する広末の影に気づくこともなく、五十嵐はリアルで無防備に輝いて見えた。
「どう? コーフンした?」と五十嵐。
 そうね、ホントにモノゴトって、いろんな見かたがあるものね。「明日、生々しいモノ、拝見できるといいわね」

★10
 夜。五十嵐と私はホテルの和食レストランで刺身を食べている。酒は日本酒、熱燗だ。
「本場の鯨料理が食えるっていうからさ、オレ、マイぐい呑み…、コレ、持参しちゃった…」五十嵐はポケットから鶯色の焼き物を取り出して私に見せる。「コレ、オレが作ったの」
「へえ。陶芸もやるの?」
「いやいや、遊び遊び。前に女の子と高原の貸し別荘に出かけたときに、あんまりやることなくって退屈だったから、行ってみたわけ、近くの陶芸体験教室ってやつにさ。そこで、ろくろ回して作ったの、コレ。結構いいカンジでしょ」
 やや大きめで肉厚なぐい呑みは、素朴な力強さを湛えている。
「そうね。私、陶芸ってまったくわからないけど、見た目、いいカンジね」手にとって彼の自慢の作品を眺める。「一緒にいた彼女は、どんな作品を作ったの?」
「小鉢を作ってたっけなあ」
 私は彼の逸品に熱燗を注ぐ。「その彼女とは上手くいってるの?」
「うえ。ツーンときた…」刺身に山葵をきかせ過ぎて、五十嵐は顔をしかめながら答える。「彼女ね、しばらく一緒に住んでたんだけど、最近なんだかおかしなことになっちゃってさ。そうこうしてるうちに、オレの実家でちょっとした問題が発生しちゃって、で、今オレ実家に帰ってるんだよね。あいつはまだ、あの部屋に一人で住んでる。時々電話して、度々一緒に酒を飲んでる。でもちょっと変なんだよね、あいつ。もともと変なんだけど、最近かなり…」
「よくわからないけど…」微笑ましさを感じながら私は言う。「少しくらい変な方が、人間いいわよ。楽しいでしょ」
「変な方が楽しい…。そうかもな。あ、思い出した…」と、五十嵐は唐突に話題を変える。「変なことっていやあ、ホテルで今朝方、オレやや変だった、アキさんから電話もらったとき…」
 っていうか、あなたいつも少し変でしょ。
「オレ、ちゃんとベルの音聞いてたんだぜ、あんとき。ちゃあんと、目ぇ、覚ましてたんだ…」
 どうかしら?
「で、起きなきゃ起きなきゃって思うんだけど、まったく体が動かない…。不思議だよな」
「ああ、金縛りってやつね…」と、軽く私は応える。「たいしたことないわよ。私なんてよくあるわよ。仕事柄不規則な生活してるから、睡眠のリズムが崩壊して…」
「そうそう。金縛りっていうんだよな、アレ。それは知ってる。オレも仕事で徹夜が続いたりするとたまにある。でもアレ、不思議だと思わない? アレってなぜだか、そのときは意外に怖くないよな。どう?」
「そうね…」私は私の体験を振り返る。「私が初めて体験したときも、起きてからアレはなんだったのかな? って感じでね、その程度…」
「あ、また思い出した。体が動く金縛りって体験もあるよ、オレ。起きてるつもりで、部屋のライト点けようとするんだけどさ、こんなふうに…」五十嵐は箸を握って説明する。「枕もとにリモコンのスイッチがあるんだよ。それを掴んで何度もスイッチをオンするの。…そりゃもうはっきりとした手触りで、スイッチ押してるんだよ、しっかり。リモコンの形もボタンの形も慣れ親しんだいつもの手触り。暗い中でもそれがいつものリモコンだってのが、はっきりわかるわけさ…」真剣な表情で五十嵐は続ける。「そのときはとにかく眠くてさ。また寝ちゃいそうになるから、やべえ、締め切り近いし起きなきゃ、とか必死に念じてね」
 よくわかる。作家たるもの、締め切りにはそのくらいの真剣さがほしい。
「でも、点かねえんだよライト、いくらやっても。電池切れてんのかな、とかオレ思って。で、ライトは諦めて、今度はテレビのリモコンを掴むわけよ。テレビ点けようと思って。それもいつも枕もとにあるの。そいつは細長い台形みたいな独特の形のリモコンなんだけど、その形もはっきりとわかるの。で、プラスティッキーなそのボディの軽さも、指で探る電源スイッチのラバーな感触も、そりゃもう完璧にリアルなわけ。その時点ではオレ、百パーセント完璧にテレビのリモコン掴んでるつもりなの。なのにテレビも点かなくてさ。押してるんだぜ、ボタン。オレ、リモコン裏の電池ブタまで手探りで開けてさ、中に入ってる単三電池の冷たい感触も確かめてさ。で、オリャ! ってボタン押してるのに、次の瞬間には相変わらず暗くて静かなオレの部屋、オレのベッドでオレが寝てる状況を自身が確認するわけ…」五十嵐はそう一気に語ると熱燗を飲み干す。
「ええ、そういう体験、私にもあるわよ。自分じゃリアルにライトのスイッチ押してるつもり、つもりどころか、間違いない確かさでまさしくその瞬間そのスイッチの感触を味わってるんだけど、実際には自分の手が動いてなくて、で、ビックリするのよね…」
「アレは、なんなんだろね? 夢なのかな? 寝ぼけてんのかな? にしては、やけに感覚がはっきりしてんじゃん?」
「夢と現実の中間、な感じね。半分眠っていて、半分覚醒している感じ。昼と夜の境目。薄暮の時間帯。トワイライトゾーン。ほら、幽体離脱がどうとかいうじゃない? アレもきっと金縛りの一種なんでしょうね」
「そうなのかな…」と五十嵐。「オレ幽体離脱の経験ないけど…」そう言って刺身をつまむがその手を空中に止めて、また何かを思い出したようだ。「あ、アレはどうかな、幽霊が見えるとかそういうの。見えるってヤツ周りにいない?」
「いないわねえ」私は壁にかかった時計を眺めながら答える。
「オレが高校のとき所属してた美術部のサークルにはね、二人いたんだよ、見えるってヤツがさ。一人は男で一人は女。オレ、全然信じてなかったんだけどさ、あるときまでは…」
「怪談って嫌いよ」と私は言うが、五十嵐はニヤリと笑って自分のぐい呑みに日本酒を注ぎ足し、さらに話を続ける。
「いつだか三人で下校するときにさ、見えるっていうその二人がさ、揃って雨の中、ギクリ! って感じで立ち止まりやがんだよ。でオレ、イヤーな気持ちになってさ。見えんのかよ? って聞いたらさ。これまた二人揃って廃屋の軒、黙って指差しやがんの。めちゃめちゃこえーだろ?」
「こえー。こえー」本当はあんまり怖くない。五十嵐はそういう語りには向かないようだ。
「オレには無論なあんにも見えないんだよ。で、思ったのさ。さてはコイツらツルんでて、オレを騙すつもりだな、ってね。で、問い詰めたんだけどさ、なんつーかどうにもその二人の方が深刻にビビっちまっててよ…。特に女の方はね、日ごろからあんまりイタズラかますような、そういうキャラじゃなかったから…」と、心底怖そうに五十嵐。「オレ、そのことはそれっきり忘れることにしてたんだ…」
「なのに今、思い出しちゃったわけね」
「うん、アキさんのせいで」
 あんたのせいでしょ。
「アレはオカルトかな? 金縛りと違って寝起きじゃないし、半覚半睡ってわけじゃあない。普通に下校してるときだったしなあ。二人揃ってそんなモンを…」
「でもまあそれも金縛りの類だと思うわ…」と私。「脳内記憶の再生…」言いながら私は推理する。「そのとき美術部って忙しかった?」
「ああ、そういや文化祭の準備で大変だったな。三人とも受験の時期だったしさ、サークル活動と受験勉強とで、かなり疲れてた」
「でしょ…」と私は目を瞑る。瞑探偵アキさん。「例えばその日、二人は睡眠不足だった、とする。美術室で集中して絵を描き終えたあと、ぼおっとした気分をひきずって、小雨の落ちる道を下校していたとする…」話している私もぼおっとしている。酩探偵アキさん。「好んで絵を描くような質の二人だから、もともとビジュアルに対するセンサーは鋭いわけ。つまり、ちょっとした影でも光でも、見ようによってはそう見えなくもない、という類のビジュアルに対して日ごろから敏感だった、かもしれない…」そう言って私は五十嵐を見る。「でしょ?」
「なるほど」
「そしてその日、その廃屋がキーになったわけは…」おかしな酔い方でおかしな冴え方をしている自分に酔いながら私はさらに推理する。「例えば二人は同年齢だから、それまでにたまたま同じオカルト映画か、テレビ番組かを見ていたかもしれない。見たことを日ごろは忘れているけれど、脳のどこかにはしっかりとそのシーンが残っていた、かもしれない。その廃屋に似たような背景のシーン…」
「なるほど。ふたりは共通の記憶を、同じキーによって呼び覚まされた、と」
「そう。無意識的にね。集団催眠って言葉もよく聞くじゃない? よくわからないけど、あれも例えば、そんな風に説明できるんじゃないかしら…」
「すげえ、アキさん…」と感心したように五十嵐は呟く。が、その目はどう見ても酔っ払いの目だけど。「ってか、なんかイメージ違うね。いつもそんな深いコト考えてんの?」
「うーん…」私もなんだか私自身に少し戸惑う。「今、猫を一匹飼っててね。その猫がね、潜ってくるのよ」
「布団の中に?」
「私の中に」
「よくわかんねえなあ…」と五十嵐は目をこする。「ま、いいけど」
「私ね、オカルトなんて信じてないし、怖くもないの…」
「へえ」
 そろそろ部屋にもどらなきゃ。「私がむしろ怖いと思うのはね、私たちの脳が、些細な記憶まで、ありありとした鮮明さで、しっかりとどこかにしまいこんでいるってそのこと…」部屋にもどらなきゃって気持ちと裏腹に、次の話題が自分の口を突いて出る。私の意志が私の行動を制御できていない。「おかしな話するけど、聞いてくれる?」
「うん」と曖昧に頷きつつ五十嵐は河童巻きに手を伸ばす。
「河童巻かじりながらでもいいけど、真面目に聞いてくれる?」
うん、うん。と、五十嵐は河童巻をくわえたまま今度はしっかりと頷く。
「私、十八歳のころ、階段から落ちてひどく頭を打ってね…。で、救急車で病院に運ばれたの…」なんでそんなこと話しているんだろう?「そのとき私、変な体験したのよ」
「変な体験大集合の夜だな、今夜は」
「海苔、そこ、ついてるよ」私は五十嵐の前歯を指差す。
「おっと…」とは指先で海苔を落として子供のように笑ってみせる。「で?」
「私はね、五歳の私になったの」 
「ええと…」五十嵐の目が漠然と宙をさまよう。「すみません。意味わかりません」
「十八歳の私はね、病室で五歳の私を体験したの」
「さらに皆目、わかりません…」と五十嵐。「オレ、頭悪いんかな?」
「ごめん…」私は謝り考える。「説明が難しいんだけど」
「いや、こうなったらじっくり聞こうじゃないの、その話」頬杖をつきながら五十嵐が至近距離から私の目を覗く。
「夢に似てるかな。でも夢とは違うの」
「夢に似て、非なるもの」
「そう…」ここまで来たらもう話すしかないな、と私は思う。「どう話していいかわからないから、そのまま話すわよ」
「カモン、ベイベ」五十嵐はゴクリと日本酒を呑む。
「私は五歳のころ、郊外の団地に住んでたの」
「五歳のアキさんは団地に住んでいた。リョーカイ」
「入院先のベッドで、私は五歳の私として、そのままその団地にいるのよ」
「ええと…。ちょっとイイデスカー…」と、頭を抱えるようにして五十嵐。「オレ、少し迷子になりました」
「ごめんね。やめよっか、こんな話…」と私はまた時計を見る。「あ、もう十一時過ぎてる。明日の…」「ヘイヘイヘイ!」と五十嵐が割って入る。「ノープロブレム。明日は明日の風が吹く。オレ、気合入れて聞くから」彼は私の肩を掴み、私のぐい呑みに熱燗を注ぎ足す。
「つまりね…」と少し姿勢を正すようにして私。「入院先のベッドに寝ている自分についての意識、つまり怪我して入院してる十八歳の自分、って意識はどこかにちゃんとあるんだけど…」
「うんうん…」五十嵐は目を閉じて考えながら頷く。「アキさんは当時十八歳で、頭打って入院してて、ベッドに寝てて、そんな自分のことは百パーセントわかっている。以上リョーカイ」
「違うの…」と私も目を閉じて彼の言葉を訂正する。「十八歳の自分についての意識、百パーセントは、ないの」
「ええと…」と五十嵐の声。「百パーセントは自分の状況がわかっていない。半分くらいなんとなくわかってる、と?」
「十パーセント、かな。怪我して入院してる実際の自分の状況を、意識の十パーセントで了解してる…」正確な言葉を探しながら私は答える。「十パーセントでは、ちゃんとわかってる。そんな感じ」
「なるほど。で、残りの九十パーセントの意識は…?」
「九十パーセントの意識は…」私は目を開けて五十嵐を見る。「体験してたの。五歳の私を」
「意識が、体験してる?」彼も目を開けて私を見る。
「そう。変な言い方だけど、そうなの」
「わからない…」と、ちょっと子供のようなあどけない目をして彼は問う。「五歳の自分になってるような夢を見てた、ってこと?」
「違う」と私は断言する。「夢とは違うの。体験っていうか、追体験っていうか…」私は慎重に記憶を探る。「つまり、本当にあったことなんだもの。あのとき私がリアルに体験したのは、かつて五歳の私が実際に身を以って体験したことなの」
「ええと、つまり…」彼はアルピニストの足取りで、一歩ずつ確かめながら前身する。「十八歳の自分はベッドの上で、五歳のころの体験を、非常に生々しく思い出していた…、ってそういうこと?」
「そう!」そうかもしれない。「そうよ、そう、…そういうことなのよね、つまりは、きっと。でも、実際にあれを体験した私にとっては、単なる追憶とか思い起こしとか、そんな次元とあまりにあれが掛け離れていて…。あなたに言われて今やっとわかった。あれはつまりそういうことね。なんて言ったんだっけ? あなた今…」
「非常に、生々しく、思い出していた…」
「そう。それ」
「うーん…」彼は解せないというふうに首を捻る。「別にアキさんが言うほど特殊なこととも、不思議なこととも思えないけど…」
「それはね、その[生々しさ]の程度を、あなたが想像できないからよ」
「どのくらいの程度なわけ?」
「百パーセントそこに現存する感じ」
「そこ?」
「病室」
「病室に…」彼は殆ど苦悶の表情で次の言葉を選び出す。「十三年前のアキさんと、その周辺がダブって存在してた、みたいなこと?」
「天才!」彼に握手したい気分で私は言う。「かなり近い!」
「どもども…」と会釈して彼は少し得意げに全体を要約してみせる。「えー、つまりつまり、そのときその病室には、十八歳のアキさんが十パーセントと、五歳のアキさんが九十パーセント存在してた。と、そのように十八歳のアキさんには感じられた。さほどにそれは生々しい追憶であった。と、そーゆーこと?」
「まあ、そうね…」と私。「言葉にすると、そうかな」
「どんなことを生々しく回想したの? なんか重大事件とか?」
「ああ、回想なんてもんじゃないのよ…」もっと圧倒的に[生々しい]の。「内容はまったく全然、重大でもなんでもないこと。トラウマとかそんな要素のカケラもない、ごくごく普通の日常のひとコマ…」
「話して」
「私は五歳…」私はまた目を閉じる。「郊外の団地にいる。その日パパとママはどこかに出掛けていて留守。外は雨。夕方…。私と弟が、寝室で唄を唄いながら、輪になってグルグル追いかけっこをしている。唄はね、こんな唄…」私は小さな声で唄ってみせる。「チュルチュール♪ チュルチュルチュルチュール♪ チュチュチュル♪ チュルチュール♪ チュール! デン!」
「何それ?」
「当時流行ってた子供ショーかなんかの唄。最後のデン! っていうのはね、歌が終わったときに押入れの近くにいた方、私か弟のどちらかが、押入れに入っている布団を引っ張り出す音なの。かごめかごめみたいなもんよ。で、引っ張り出した布団に引っ張り出した人はワザと埋まるの。そうして二人は笑うの」
「他愛もない遊びだな」
「うん。そういう極めて他愛もない遊びを、私たちはかつて実際にやっていたの…」目を開く。「それをまるごと、そのまま体験したのよ、ベッドの中にいる十八歳の私が。夕暮れの感じも、遠くで鳴くカラスの声も、雨の匂いも、足の裏が蹴る畳の感触も、輪を描いて走る体の傾きも、私の唄声も弟の唄声も、そのリズムも息遣いも、ドスンと落とした布団の重さもその匂いも、本当に微細にわたってリアルなの」
 五十嵐は黙って聞いている。
「もちろんタイム進行もリアルなの。連続してるし、はしょってもいないの。映像なんて平板なものじゃないし、夢みたいに漠然としたものでもない。五歳のある日、この私にリアルに起こった事実を、あらゆる微細な感覚まで忠実にそのままに、私は再体験したの」
 五十嵐は黙って私の目を見ている。
「感じとしては、タイムスリップみたいなもんよ」
「タイムスリップ」
「しかも私は、五歳の私として私なの。わかる?」
 無言。
「あとになって思ったわ。人間の脳ってすごいし、怖いなって。この人生で味わった全てのコトは、どんな些細なコトまでも、そこにリアルにそのまま蓄積されているんだなって。普段は思い出せないだけで、って…」
「脳…?」
「私の体験っていうのは、私の[脳の中]以外には存在しないはずでしょう?」
「…たぶん」
「でも、なんだかなあ、アレは[脳の中]の記憶がどうとかじゃなくて、というよりも、あの時間とあの場所とあのころの私たちが、そっくりそのままどこかに存在してるみたいな、そんな印象だった…」
「それじゃ、パラレルワールドだ」
「そうね、SFになっちゃうわね…」と私は笑う。「だから実際はあれもあなたの言う、非常に生々しい記憶とその再生、ってことなんでしょうね」
「だろうな」
「そういうことにしときましょう…」と言って私は伸びをする。「でも、それほど完璧なメモリーが脳に存在してるのって、いったいなんのためかしらねえ。普段思い出すこともない微細な感覚に至るまでの完全なメモリーが…」
「それが本当だとしたら、未来の老人向けビジネスに活かせるかもな…」と笑って五十嵐。「寝たきり老人の脳から、若かったころのひとときを、選択的に取り出し再生するんだよ。老人は寝ながらにして人生の任意の時間をリアルに追体験できる…」
「追体験、なんてもんじゃないわよ。その時間をまんま生きるって感じよ。つまり脳が生きている限り、その老人の人生はその生存時間分そっくりそのまま、[現存]するに等しい、みたいなことになるのかもね」
「今こうしてオレがアキさんと話してるこの時間も、そっくりそのまま保存されてるってわけだ」
「逆に今のコレも、実はずっと昔にあったことで、今のこの感じはそれをリアルに思い出してるだけ…だったりして?」
 私たちは顔を見合わせる。
「なんだか今夜は変な酔い方してるなあ。自分が自分じゃないみたいだ。ここんとこ、なんかこう変なカンジなんだけど、今夜もまたいっそう変なカンジ…」
「あなたもそうなの? 私もそう。自分が自分じゃないみたい…」と私は少し自嘲的に笑ってみせる。「全ては、拾った猫のせいなのよ」
 
 ヒロのせいで私の人生はおかしなことになっている。そんなふうに思う。今夜は五十嵐も巻き込んでしまった。
 私は、ここで、何をやっているんだろう? 
 ここはどこだっけ?
 ここは那智勝浦。私は雑誌編集者。今は取材旅行中。同行者はイラストレーター。明日は本取材。もう寝なくちゃ。仕事モードにもどらなきゃ。現実にもどらなきゃ。
 私は五十嵐におやすみを言う。
 心の中でヒロにもおやすみを言う。
 広末の影がチラリと頭をかすめるが、私がホテルの廊下を曲がると、それはもうどこかに消えうせる。

 翌日。
 ザトウクジラは空に向かってジャンプした。

11
 都心にもどると、非現実的な月のように広末。無味無臭。
「小島に孤立してるみたいね」私が言う。
 週末同棲のマンション。三十階のバルコニー。
「にゃ?」バルコニーに広げたデッキチェアに寝そべって、ヒロがのんびりと応える。
 都心の夕景が広がっている。淡いピンクと紫の雲。
「鯨をたらふく食べてきたのよ…」と私は言う。「クジラ取材が終わってから、鯨料理の店で」
「美味しかった?」
「美味しかった。クセのある味。野生を含んだ味。管理されていない肉の味…」
 このマンションはなんだかとても嘘っぽい。バルコニーに吹く風までが嘘っぽい。
「あなたは、無味無臭…」急速に苛立ち始めた自分を感じながら私はヒロに言う。
「猫を食べるにゃんて…」はぐらかすように言うヒロに取り合わず私はさらに続ける。「あなたは自己愛主義者。ナルシストよ」
 私は何に苛立っているのだろう?
「そうなの?」とヒロ。
「言葉ばかりで実際の行動がない。観念的にしか生きていけない…」私は攻撃の手を緩めない。
 ヒロはデッキチェアから体を起こして、まん丸の目をして私を見る。
「観念を生きてるだけ。この現実の人生を生きていないのよ…」
「クジラがそう言ったの?」とヒロは笑いながら言う。
「私が言ってるの」
 ヒロは立ち上がり、都心の夕暮れを眺める。その背中に向かって私は、独り言のように言葉を続ける。「あなたはどこにも行けない。肉体性が薄い。心の中ばかり見ていて、この世にリアルに存在するものを何も見ていない…」
 ヒロは振り返る。ヒロはもう猫の目をしていない。寂しそうに笑う広末は、その目で静かに私を見つめる。夕焼け雲の赤が心に突き刺さるような気がして、私は泣きたくなった。

「ねえアキ…」ケータリングサービスの夕食後、ワイングラスの赤を見つめる私に広末が言う。「いいもの見せてあげようか?」
「何?」
「すごーく大きなもの。アキが生まれてから見たものの中で、たぶん一番大きなもの」
「私、つい最近クジラを見たのよ」
「クジラよりもね、もっと遥かに大きいよ」広末はそう言いながら立ち上がり、クローゼットを開ける。
「なるほどね」私は頷く。
 広末が取り出したのは天体望遠鏡だった。

 口径百ミリの屈折望遠鏡と、口径八十ミリの大型双眼鏡を彼はバルコニーに持ち出す。
「結構見えるもんだよ、都心でも…」三脚に据えつけた双眼鏡の角度を調整しながら広末が言う。「うん…。これで入った。覗いてごらん」
 広末に促されて私は双眼鏡を覗きこむ。
「今、視野に入っているのが…」と、私の肩に手を置き広末が解説。「アンドロメダ大星雲。二百三十万光年彼方にある銀河だよ」
 視野の中、浮かぶ星の群れ。光の速さで飛んで二百三十万年もかかる彼方にある存在。私は素直に驚く。「つまり今私がこうして見ているこの光は、二百三十万年前にあの天体を出発した光だってことね」
「うん…。別の言い方をすれば、今アキが見ているその姿は、二百三十万年前の銀河の姿だってこと」
「すごい…」なんとまあ浮世離れな光景。「時間や空間のスケールが違いすぎて目が回りそう…」そう呟きながら双眼鏡から目をあげると、隣で望遠鏡を操作していた広末が私を手招きして言う。「今度はこっちだよ。これを見てごらん…」

 望遠鏡で見上げる夜空。巨大な月面クレーター。ボーダー柄のシャツみたいな木星。漫画のように嘘っぽい土星の輪…。
 更けていく静かな夜。非現実的な都心のマンション。非日常的な宇宙鑑賞会は続く。
「あれ?」私の目の片隅が何かを捉える。
「始まったかな?」と広末。「今夜は流れ星の夜なんだ」
「流れ星の夜?」と私は笑う。「予約してたみたいな言い方ね」
「予約を入れたのは神様だよ…」と彼も笑う。「流れ星ってのは、毎年だいたい同じ日に流れるんだ」
「そうなの? どうして?」
「宇宙ってのは…」と彼。「精巧な暦であり、時計であるからさ」
「あ…」また一つ流れた。
「コーヒー、淹れるよ」そう言い残して広末は部屋にもどる。
 
私は独りで夜空と向かい合う。
(あなたは心の中ばかり見ていて現実を生きていない。私は広末にそう言った。でも…。私の言った[現実]っていうのは、限られた地球上の、限られた人間社会の、つまり[日常]っていう意味だったんだ…)宇宙空間としての夜空を眺め、時折流れる流星を目の端に捉えながら私は思う。(心の中も宇宙空間も、[現実]であることに変わりはない…)
「宇宙はね…」コーヒーを手にいつの間にかもどった広末が言う。「途方もなくだだっぴろい虚な空間…。その茫漠とした空間に、ひどくまばらにポツンポツンと、孤独な天体が存在している…」広末はコーヒーカップを私に差し出す。「信じられないくらい遠いんだよ、お隣さんは…」
 二つ並べたデッキチェア。私たちは並んでコーヒーを飲んでいる。 
 そうだ。隣にいるこの人が、あまりにも深く私の心に潜るので、私は自分自身とこの人との距離を誤っていたのかもしれない。隣に座る彼は、私ではなく、彼だ。他者だ。私自身と他者との間には、無限に隔たった距離がある…。
 「想像してごらんよ…」私の寂しさに気がつかない様子で広末は語り続ける。「とてつもなく広い真っ暗闇の中、孤独に燃えるいくつもの太陽。それを取り巻くいくつもの惑星。惑星を取り巻く衛星たち。メカニカルに規則的な運動を続ける宇宙…」
 私は想像してみる。暗黒の宇宙を。気が遠くなるほど広い広い空間に散る、球状の無数の天体たちを…。
「この世、イコールこの宇宙に、リアルに存在しているものってのは、つまりそういうものなんだよ…」と広末。「人間が人間的なモノサシで作り上げた、文化だとか価値観だとか、日々の暮らしだとか、そういうものは超微細で局地的なものに過ぎない…」
(太古の昔…)と私はまたイメージする。(人間にはなんの理性もなかった。たぶんただ単に生きているだけだった。空を見上げるといくつもの天体が規則的に運動をしていた。そこから人間は、人間的な様々なイメージを連想した。関連づけ、また意味づけた。そのルールやら価値体系やらを次世代に伝えた。世代を重ねるごとにそれは複雑化した。子供たちは生まれるとすぐに、そういう決まりごとをあたかもこの世の普遍の法則であるかのように教え込まれた…)
「虚無的なまでに殺風景に存在する星ぼし。それがこの世の、ありのままの姿だよ…」広末の擦れた小さな声が、私をさらなる連想に誘う。(その星ぼしからイメージされるものを、人は団結して信じ込み、意味づけした。そしてそれを模倣した。それは殆ど魔法のようなもの…)と私は思う。(まず、ここにかくあれかしと、みんなが共通した意識を持つ。次に物質やらシステムやらを、その手とその頭脳で創造する…。全ては想像に始まり創造に至り具現化されてきた。具現化された処理済のものだけを私たちは今[現実]と呼ぶ。つまり[現実]というのは、それこそ人間が作り出したものだ…)
「この世に実在している根源的なものは、宇宙という[空間]と、星ぼしの相対的な運動によって生じる[時間]、それだけだ…」広末が言う。「星ぼしの位置が変わることによって生じる変化。それが物質を生み、物質を変化させ、生命を生み、生命同士を関係させ、何やらかにやらを生み出す…」
 私はもうその飛躍した論理展開について抗議する気持ちも失っている。広末の言葉は音楽のようでもあり、呪文のようでもある。私の意識は彼の意識に感化され、ともすると同化しそうになる。彼は正しさを失いつつ、代わりに何かを得ようとしている。彼と私の間で、何かが生まれつつある。月の引力で、海に波が生まれるように。
 「いいかい?」広末は語り続ける。「頭の中で起こっていることは、この[日常]で実際に起こっていることと本質的に等価なんだ。なぜならそのどちらも、この宇宙空間で起こっている根源的なことの鏡だからさ…」言いながら広末は私の目を覗きこむ。「最初に出会った日、キミの[中のこと]を知りたいと言ったでしょ? 覚えてる? あれはつまりね、キミの特性によってキミの位置を知りたいと、そういうこと…」
 広末の言葉、私にはもう理解できない。が、それを味わうことはできる。
「人間ルールに汚された見栄やら意地やら、常識やら社会通念やら、そういうものは本質を見えにくくする…」広末は初めて出会った日の目でさらに至近距離から私を見つめる。「だからキミの内部を覗く。そこにはありのままのキミがいる。キミのとる位置が割り出せる。キミの位置を知ることで、僕は僕の位置を定位したいんだ…」
 私の中で弾ける、何かが…。
 私は立ち上がる。弾みでコーヒーがこぼれる。喉の奥から何かが込み上げてくる。
「私は怖いの、自分の中を見るのが!」気がつくと私は叫んでいる。「向き合いたくないのよ!  自分の内面なんかと…」
 広末は立ち上がり、ゆっくりと夜空を仰ぐ。そして言う。「外にあるものと中にあるものは、おんなじだよ…」
そして広末は私の肩を抱いた。彼の目に流星を見たような気がした。

 父との関係。結局はそこに行き着くのだ。
「パパは私を愛していなかったの…」ベッドの上、ブルーのタオルケットにくるまりテルテル坊主な私は、子供のように素直に語り始めた。
 広末はグラスを片手に、ソファに身を沈めて私の話を聞いている。
 部屋の照明は絞られていて、淡いオレンジ色の中、彼の顔は見えない。彼の持つグラスの氷が、時折光を反射してキラリと光る。
「パパはね…」私は独り言のように話す。「私が好きなことをして楽しむことが嫌いだったの。私が楽しそうに、例えばコメディ番組を見て笑うだけでも不機嫌になったの。女の子がそうやって大声で笑うのは下品だとかなんだとか言って…」
「そう言われてアキはどうしたの? 反抗した?」
「するわけないじゃない。あのころはまだ私、子供よ。パパに嫌われたくないって思うじゃない?」自分で自分を可哀想に感じる。「必死にパパのご機嫌とったわよ。歯を見せて笑うこともしないし、十時には必ずベッドに入るし、朝は笑顔でおはようございます、よ」
「アキが今いつでもキリリとしてるのは、パパのお蔭なんだね」
「緊張しまくってたのよ、子供のころ…」と私。「いつも優等生だった。百パーセントを遥かに超えて私は頑張って生きてたの。パパに笑っていて欲しかったから」
 なんだか寒い。私はタオルケットをさらにしっかりと体に巻きつける。
「まるで難破船から救助された乗組員だね…」と広末。「あったかいミルクでも飲む?」
「有難う…」と私。「でも今はこのまま話していたい。どこまで話したっけ?」
「パパに笑っていて欲しかった。だから私は頑張った、ってとこまで」
「そう…」顎を膝に沈めるようにして私。「緊張しながら頑張ったの。でも、パパはずっと私を許してくれなかった」
「許す?」
「そう。パパの思い通りの娘になりきれない私を、いつも黙って冷たく責めてた…」私は目を瞑って回想する。「ある日ね、こんなことがあったの。私、高校受験で私立の学校に合格してね、パパはそのお祝いにレストランを予約してくれたの…」名の通った高級レストランだった。「パパと二人でレストランで食事するの。私は嬉しくって、でも緊張して、お上品なワンピース着てレストランに行ったの。フランス料理のフルコース。お嬢様学校の生徒になるんだからテーブルマナーくらいしっかり勉強しておきなさい、ってパパは言ったわ。はい、って私は答えた…」緊張しながらも幸せそうな私。「パパはプレゼントをくれたの。その場で私は包みを解いた。オメガの腕時計だった。女の子にオメガってどうよ? って思ったけど、とても嬉しかった。私はもらったばかりの時計を腕にはめて、ニコニコしていたと思う…」そこで時間が止まってくれたらよかったのに。「重い時計を腕につけて、慣れないフォークとナイフを使って、緊張しながら食事をしたの。背筋を伸ばして、スープも音をたてずに飲んだわ。でも、失敗しちゃったの。グラスの水に手を伸ばしたとき、グラスを落として、スープ皿の縁で派手に割っちゃった…。しまった! と私は思った…」私はしばらく間を置いてから広末に訊ねる。「パパはそのとき、なんて言ったと思う?」
 広末は沈黙したまま。
「バカ! って言ったの。私は慌ててグラスの破片を拾ったわ。パパはまた言った。バカ、何してるんだ! って。その声に驚いて私はグラスの破片で指を切ってしまったの、深く。白いテーブルクロスに私の血がポトポト落ちて。私は泣き出したい気持ちだった。お店の人が駆けつけてくれて、グラスの破片を掃除してくれた。その間ずっとパパは無言で不機嫌で。お店の人が掃除を終えると、パパは壱万円札を二枚出してテーブルに置き、言ったの。コレ会計の分と、テーブルクロスの弁償分ですから、って。そう言うとパパは私を席に残したまま、一人でお店を出て行っちゃったの。私は独り残されて、テーブルクロスにポトポト落ちた自分の血を見ていたの。そのうちポトポト涙が落ちて…」話していると今でも泣きそうになる。「それから私は止めたの、パパに愛されようって思うのを。ものすごく反抗的な娘になったわ。パパは文句を言ったり、怒鳴ったり、無視したりして、なんとか私をコントロールしようとしたけれど、私は絶対コントロールなんてされてなるものか! って強く思った…」私は溜息をつく。
「ねえ、ミルク飲みたい。あったかいやつ」私がそう言うと広末は、オーケーと言いながらスルリとキッチンに向かう。ミルクパンで温めたミルクを、私のためにベッドサイドまで運んでくれる。「何か食べる?」
 私は首を横に振る。「ミルクだけでいい。有難う」
 暗がりで飲むミルクは、なんだか不思議な味がした。その味を確かめながら、また私は話し始める。「編集長との関係もなんだか似てるの、パパと私の関係に。私はすごく反抗的なの。編集長はパパみたいに偉そうで。それが私には、たまらなく嫌なの。私、たいていの男って嫌い。偉そうで支配的で…」
「オイラのことは?」ヒロの声で広末が訊ねる。
「ヒロは全然偉そうじゃないもの…」と私。「癒されるわよ」
「ミルクも沸かせるよ」
「そうね。ありがと。ヒロのそういう、男クサくない言い方がスキよ…」と笑ったら少し泣けた。「家族の中でも職場の中でも、確かに私は反逆者。女らしい優しさがないって、よく人に言われる。頭を抑えられるのが嫌いで支配されるのが嫌い…」ミルクをサイドテーブルに置き、私は小さく伸びをする。もう寒くはない。「でも、そんな自分が人の頭を抑えたり支配したりすること、それは直視したくなかった…」
 自分の心の中を覗いてみると、それはすぐにわかった。私はヒロに対してとても支配的だし、目下の男の子、例えば編集部のバイトくんなどに対しては、これもまた随分と威圧的だ…。
「ねえ。ちょっといいかな?」広末の声にもどって彼が言う。「アキの中にはね、[アキのパパ的フック]と、[子供のころのアキ的フック]があるんだよ」
 フック?
「[フック]って何よ?」壁に掛けられたイルカの額縁を、ぼんやりと眺めながら私は訊く。
「感受点。外界のいろんなものをぶらさげる、とっかかり、のようなもの…」
 自分の心の中に私は、二つの[フック]を思い描いてみる。
「[パパフック]と[リトルアキフック]と名づけよう」と広末が言う。  
 私は思い描いた二つの[フック]に、そのように名札を貼った。
A・[パパフック]
B・[リトルアキフック]
「いいかい?」と広末。「日常の職場に存在する、編集長とアキ。アキは自分の心の中で、[パパフック]に編集長をぶらさげ、[リトルアキフック]にアキ自身をぶらさげる。すると編集長が、子供のころのアキから見た[パパ]に重なる。支配的で反動的に感じられる。実際の編集長は、アキが思うほどに支配的じゃないかもしれない。優しいところだってあるだろう…」
 心の壁にぶらさげられた、編集長の人形と私の人形、そんなビジュアルを私はイメージする。
 「一方で、会社のバイトくんとアキとの関係を考えよう…」と広末。「アキは今度は自分を[パパフック]に据えて、バイトくんを[リトルアキフック]に据えている…」
 心の中で私は、壁に掛かった人形を取り換える。Aの[パパフック]に私の人形。Bの[リトルアキフック]にバイトくんの人形。
「気がつくとキミは、バイトくんに対してひどく支配的に振る舞っている…」
 確かにバイトくんに対する私の言動は、私に対する編集長の言動とよく似ている…。
「威圧的で思いやりのないパパを嫌だなと思っていた筈なのに、アキ自身が他者に対して同じような態度を示しちゃうのは、まあそんなわけなんだ…」と、広末は私の真近に身を寄せて、私の目を覗き込む。「だけど、いいかい? その二つの[フック]はアキ自身の[心の中]にあるんだ。さらに言うとその二つの[フック]は、アキが[生まれながらにして]持っていたものなんだ…」
 彼の視線が、私の中に入ってくる。
「だから実際は、アキのパパだって、アキが思うほど支配的でも冷酷でもなっかったかもしれない。アキは[フックA]にパパを据えて、[フックB]に子供のころの自分を据えた。それだけのことかもしれない。つまりアキの心に映るあらゆる人間関係は結局、アキの[生まれながらにして持っているフックの位置関係]に過ぎないということ。誰のせいでもないし、誰も悪くない。もちろんアキだって全然悪くない…」
「私はどうしたらいいの?」いつのまにか私はタオルケットを力いっぱい握っている。
「[フックA]と[フックB]の関係を葛藤したり、ときに調整したり、努力しながら、具体的に生きるしかないだろうね。ひょっとしたらキミの中の[フックC]が、調整役をしてくれるかもしれない。そして[フックC]は[フックD]との間にまた別の関係を築いているかもしれない」
 心の中、四方の壁に取り付けられたいくつもの名もなき[フック]を、私は想像する…。そしてそのフックに、日常出会う様々な人々や物事を、その都度付け替えながらぶらさげている自分を連想する。
「どうすればいいの?」と私はまた呟く。
「具体的に…」と広末。「この地球というささやかな星に生きる、一個人としてのささやかな人生を、[具体的に]生きるしかない。君の言う通り、具体的に、抽象的にではなく。今実際にアキはそうしている。そうやってキミは少しずつ、キミ自身の心の中心に近づいている」
「あなたは?」
「僕は…」と広末。「アキとは違ったフェイズで、やはり心の中心を探している」
「違ったフェイズ?」
「天動説的な中心と、地動説的な中心があるってことだよ」
 私の中心と、あなたの中心は重ならないの?
「百人の[私]がいたら、百通りの[中心]があるってこと?」この辺になると、私はもう直感に頼ってコトバを紡いでいる。
「まあ、そうかな」
「百人の[私]の中心には何が?」
「もぐらがいるんだ」
 心の闇の中、モソリと動く影。
「もぐら?」と少々大げさに驚いてみた拍子に、私はベッドサイドのホットミルクをこぼしてしまった。私の手に掛かったミルクは、たいして熱くはなかったけれど、広末はちゃんとこう言った。「大丈夫? 火傷しなかった?」
 私たちは目を見合わせて、そして笑った。
「にゃにゃにゃあ、大変や!」照れたヒロが今度は混ぜっかえす。「オイラお気に入りのシーツがミルクまみれ?。どーしてくれるんや、アキのバカ!」
「それもまた、正解」と私。
 彼はどうやら、私の[フックA]にはぶらさがらない種類の存在らしい。

「色々有難う。今夜は眠るのが怖くなさそう」
新しいシーツの上に体を伸ばして、私は心からのお礼を口にした。
「いつも怖いの?」猫のように側に寄り添いヒロが訊く。「眠るのが?」
「うん、子供のころから眠る直前はいつも怖いって感じてた…」と私。「自分自身の意識が断絶して明日にワープするってことが怖かった。今の自分は消えてしまって、明日の自分はもう今の自分じゃない、そんなふうに感じてた」
「今夜は怖くない?」
「うん…」私は目を閉じる。「自分のとんがった自我、みたいな浮き輪を外しても、大きな海はまるごと私を包んでくれている、そんなふうに感じる」
「アキが眠っている間だって、アキとともにいるんだよ、もぐらは」
「だから、もぐらって何よ?」と私は笑う。「あんたは猫でしょう?」
「にゃー、そーやった…」とヒロ。「猫やった。わーすれとった」

 その夜私はもぐらの夢を見た。夢の中のもぐらは、サングラスをかけた三毛猫のような姿をしていた。


太郎[Tarou]


「だーいじょぶっすかー?」と声を掛けても、薫さんはカウンターに突っ伏して眠ったまま、ピクリとも動きません。
 お客は他に誰もいません。
 このごろ毎晩のように来店される薫さん。雇われ店長の身としては、そりゃもう感謝感激であります。でも、深夜を過ぎるといつも決まって眠り姫になってしまう薫さんには、正直、手を焼いています…。「明日も会社あるんでしょう? 朝、早いんでしょう?」
 薫さんは大手のデパート勤務です。パソコンにいろんなデータを打ち込む、という極めてカタギな仕事をされています。こんな状態で明日はちゃんと出社できるのでしょうか?
 …などと心配していたそのとき、店の扉を開けて、やっとのこと保護者が現れました。「ちゃんちゃかちゃーん。ででんのデーン!」と賑やか過ぎる登場。やれやれです。
 でもまあ、ともあれ助かったって気持ちです。
「正巳ちゃーん…」僕は保護者に救助を求めます。「今夜はお迎え遅いじゃないですか…」
 有田正巳も常連客。自称へっぽこデザイナー。
「うはは、既に三軒目、なんだもーん…」と保護者は陽気に…。「ひゃー、今夜はちっと酔っ払ったラッタ♪」
 …いつもです。いつもたいてい正巳ちゃんは酔ってます。正巳ちゃんのガールフレンドが薫さんです。薫さんもたいてい酔ってます。そういう人たちです。 
 確かにウチはバーですから、酔うために来ていただくのも、酔って帰っていただくのも、そりゃ当たり前なのですが、でも、それにしてもこの二人はあまりに…、酔いまくりです。僕は二人を酔いどれカップルと名づけています、もちろん口に出したりはしませんが、心の内でこっそりと。
「で、なんにします?」
「あーれー?」と案の定、正巳ちゃんは絡んできます。「商売熱心だねえ、オマエは。オレってば、こんなにヘベレケのベロロ?ンなのに、まだオレに酒、勧めるの?」
「水にしますか? ウーロン茶にしますか? トマトジュースにしますか? 梅コンブ茶にしますか? 人間辞めますか?」
「コブ茶、あるの?」
「ないっす」
「うーん。じゃ、ええと、テキ-ラ。テキーラをくださいな」
 まあ、わかってはいるんです。とことん飲むんです、どーせ。「銘柄は?」
「パトロンをくださいな」
 はいはい、了解。僕はショットグラスにテキーラを注ぎます。
「お付き合いしてもいいですか? 僕も。 もう今夜はお客も来ないでしょうし…」
「おうおう、飲め飲め、これが飲まずにいられるかってーの!」
 いつでも飲まずにはいられない人でしょ、あなたは。
 グラスに注いだテキーラを、僕らは共にカウンターにカンカンと叩きつけ、一気にあおります。すかさず突き出されるグラスにまたテキーラを注ぎ、揃ってまたカウンターに叩きつけ、そしてまた飲み干します。二杯目をあおると喉が焼けるよう、涙の薄い膜が目を覆ってゆくように感じます。
「で、どうだ…」と、軽く咳こみながら擦れた声で正巳ちゃん。「何か手掛かりは把めたか?」
「軍が関与してる可能性があります」僕は正巳ちゃんの耳にこっそりとそう囁きます。
「ホントかよ?」
「カワイイですね、本気にしますか?」
「死ね、コノヤロ!」
「あれ? 警察ごっこ、じゃないんですか?」
「死ね、バーカバーカ!」
「ごっこ、しましょうよ、正巳ちゃん」
「オレは今回大マジメなんだよ…」と正巳ちゃん。「犯人の目星がつくよーに、オマエ、バーテンダーのフリでもなんでもして、客から情報取れよって、あれほどオレが…」
「ってか、バーテンダーのフリって、なんすか? 本当に職業そのものなんですけど…」
「うっせ、バーテン太郎、商売熱心な良い子してる場合じゃねーんだよ、今は。薫が犯されたんだよ。これは犯罪なんだよ。人権問題なんだよ。国家騒乱なんだよ。天変地異なんだよ…」腕をバタバタと振って、正巳ちゃんは少し可愛く吠えたてます。
「レイプされたわけでもないでしょーに…」と僕は優しく慰めます。「水に流すって言ってたくせに、正巳ちゃん」
「ちーがう、ちーがうだろ!」三杯目のテキーラグラスを突き出しながら、正巳ちゃんは例によって熱血モードで…。「突っ込んだとか突っ込まれたとか、そーゆーお下品な話をしてるんじゃないのだよ、おじさんは…。オマエわかってねーのか? 東大出身のクセに頭、もしや悪いんじゃねーの? 幼稚園はどこ出たんだ?」そんなふうに毒づきながら三杯目のテキーラを飲み干したあと、正巳ちゃんは声のトーンを変えてこう言葉を続けます。「オレが言ってるのは…、薫の心の中のコトだよ」
「心への侵犯」と僕は言ってみます。
「なんか悪いモンに取り憑かれてる、ってそんなカンジだな、ありゃ」
「憑依現象」
「そう、それだよ、オカルトだよ、まさしく。太郎くん、エラいよオマエ、さすが東大出身!」
「恐縮っす」
「だからー、薫の心ん中に入り込んで、そんでもってお化けみたいに消えちまったアイツの、身元とトリックの謎を探れ、ってそう命じただろ、オレ、オマエに。ちゃんと働けよ、バーテン太郎。酒ばっか飲んでねーでさ…」そう言って正巳ちゃんは僕の頭をパン! とはたいて…。「結局手掛かりなし、か。それなら帰るぜ。タクシーに薫、乗せるの手伝って…」と言いながら立ち上がり掛ける正巳ちゃんを、僕は優しく笑って制します。「ちょっと待ってくださいよ、お客さん…」
「あんだよ、コノヤロ」
 僕はカウンターの下に用意していたノートパソコンを取り出します。「これ、無線でインターネットに繋がります…」
「で?」正巳ちゃんの目に少し光がもどって…。
「広末晴樹を捜してる人がいるんです…」ネットを立ち上げ、昨日発見したページを呼び出しながら僕は言います。「僕らの他にもね」
 それを聞いてムクリと起き上がった薫さん…。その目はもう酔ってもいないし、眠そうでもありません。「広末晴樹?」と訊く薫さんに向かって僕は指を二本立て、テキーラグラスをもう一つ取り出します。三つのグラスにテキーラを満たしたところで、ちょうどホームページに繋がりました。
「さて、それでは乾杯いたしましょう!」と僕は宣言します、かなり誇らしい気分で。
「何に乾杯だ?」と正巳ちゃん。
「インナーダイバーズに!」カンカンカン! と僕は勢いよくグラスを叩きつけ、それから掲げ、直後一気に飲み干します。
 ホームページのタイトルは【インナーダイバーズ・オンライン】。
 正巳ちゃんと薫さんはしばらく黙ってそのタイトルを見つめ、それから各々一気にグラスのテキーラをあおりました。


 昨夜は朝七時に帰宅。部屋にもどって、洗濯機を回し、ミルクを飲みながら朝刊を眺めました、前日の夕刊と一緒に。どこかの会社がどこかの会社を買収したり、海外でまたテロが勃発したり、遠い宇宙で新たなブラックホールが発見されたり、新聞はそんなニュースを伝えていました。そのあと歯を磨きながら、思いついてPCを立ち上げ、ネットに接続。お店で使うちょっとしたマシンが故障して、部品の取替えが必要になったため、その部品について調べておこうと思ったのです。部品の名前で検索をかけました。【インナードライバー】そう打ったつもりが打ち損じて、実際に打った文字は【インナーダイバー】で…。そして、そのまま検索されて出てきたページが【INNER DIVERS ONLINE―インナーダイバーズ・オンライン―】だった、というわけです。
 インナーダイバーズ?
 どこかで聞いたことがあるな。そう思い、そして気がつきました。脱ぎ捨てたジーンズのヒップポケットから財布を取り出し、捜してみるとちゃんとそれはありました。

【インナーダイバーズ 
メンバー

バーテン太郎

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


 煙のような男が置いていった名刺。薫さんとともに旅をして、地の果てで消えたというあの男が残した名刺。今から思うと幻のようにも思える男の、実在を示す唯一の証拠。
 僕は急にドキドキしてきて、震える手でマウスを握り、【INNER DIVERS ONLINE―インナーダイバーズ・オンライン―】にアクセスしました。
 僕はショックを受けました。
 煙のような男は確かに実在したのです。僕と正巳ちゃんと薫さんの他に、その男と接触した人物がいたのです。そのホームページの管理人、その名前はAkiでした。


「広末晴樹を捜しています。そう書いてあるな…」正巳ちゃんが、テキーラ数杯分の酔いなど微塵も感じさせない、乾いた声でそう呟きます。
 薫さんは黙って画面をスクロールしています。
「でもよ、広末晴樹なんてよくある名前だぜ。別人かもしんねーよな…」と正巳ちゃん。「そもそもあのヤローとの出会いが、同姓同名の誰かさんとの人違いだったって、薫、オマエ言ってたしな…」
 薫さんは応えません。
「薫さん。ここ見て…」と僕は画面を指差します。「ここ。この【広末語録】ってところ」
 薫さんは【広末語録】と題されたページを開きます。

【広末語録】

●[私]とは何か?
[私]とはシステムである。
ひとつのシステムだ。

●つまり、[過去の私]も[未来の私]も同時に存在しているのだ。
と、いうと言語矛盾があるけれど。

●神様は独りぼっち。

●流動的思考の反対は固定観念。

●五感の総力を挙げて今を捉えよ。

●魂はこの世の縮図。

●人は解釈を加えずにモノを見ることは滅多にない。

●社会は地球の脳で、人間は社会の脳細胞。

●知っているのに知らんフリ=人生ゲームの絶対ルール。

●キミが[キミになる前]とキミが[キミでなくなった後]にキミ的な何が存在するか?

●自[己]を愛することは他者を愛すること。
自[分]を愛することはナルシスティックなこと。

●[ありのまま]の自分を愛せる人は他者も愛せる。[あるべき]自分しか愛せない人は自分も他者も愛せない。

●多くの人間は半分眠りながら生きているようなものさ。

●なぜ人間は同じ感情や認識を共有できるんだと思う?

●時の流れと垂直なベクトルで上昇できれば違う景色に出会えるさ。


「彼だよ…」薫さんはそう言いました。「間違いない」


カオリとアキ[Kaori & Aki]


送信者:カオリ 宛先:Aki 3/8/3:27
件名:はじめまして
はじめまして。わたしはカオリです。こんな時間にメールごめんなさい。Akiさんのホームページを見てあわててご連絡しています。びっくりしました。とてもびっくりしました。あなたがさがしている広末晴樹を実はわたしもさがしています。彼はフィンランドで行方不明になりました。いいえ、すこしちがいます。消えたのです。うまく説明できません。ぜひ会ってAkiさんとお話したいです。とつぜんのメールでごめんなさい。メールのご返信お待ちしています。

送信者:Aki 宛先:カオリ 3/8/3:32
件名:Reはじめまして
 前略。カオリさん。Akiです。私この時間は全然守備範囲の人間ですから、時間についてはノープロブレム。
 ところではっきり書きますが、「悪戯退散」でよろしく! 
 私がこのページを立ち上げてから約1ヶ月。その間、何人かの方から、あなたの送信と同じような魅力的なメールを頂きました。が、その度に私はつらい思いをしてきました。悪戯メールにはうんざりです。あなたのメールをすぐに信じることができなくてごめんなさい。広末晴樹を捜している人が他にいるなんてにわかには信じられません。最近私は、広末が実在していたのかどうかさえ疑わしく感じています。私の記憶が私には信じられないのです。
 テストをしていいですか? 次の質問に答えてください。
1 広末晴樹の年齢は?
2 広末晴樹の住所は?
3 広末晴樹の職業は?
4 広末晴樹を動物に例えると?
5 広末晴樹のあなたから見た印象は?
 ごめんなさいね。くだらない質問ばかり。最近混乱していて頭が上手くまわらないのです。
 願わくばあなたが、あなたの文章と同じくらい誠実な方でありますように。私はもうがっかりしたくないのです。悪戯だったらもうメールしてこないでください。本当にお願いしますね。草々。

送信者:カオリ 宛先:Aki 3/8/3:40
件名:ほんとうです!
ほんとうです! Akiさん。わたしは広末といっしょにフィンランドに行っていたのです。そこで彼は消えてしまいました。Akiさんはいつから彼を知っているのですか? どんなに小さな手がかりでもいいです。教えてください。
テストのこたえを書きます。でも、ほとんどこたえになっていません。ごめんなさい。
こたえ1 年齢はわかりません。私より少し上くらい。三十代だと思うのですけど。
こたえ2 住所なんてわかるはずありません。わかってたらとっくにたずねていっています。
こたえ3 職業もくわしいことは知らないけれど、有名な会社の経営者の息子さんだと聞いた気がします。不正確ですみません。
こたえ4 わかりません。思いあたる動物はいません。しいて言えばイルカかな?
こたえ5 これはいっぱい書けます。広末晴樹は、たよりがいのあるお兄さんのような人で、とてもものしりです。とてもやさしくていつもわたしをリードしてくれました。わたしはなにからなにまでたよりっぱなしでした。ちょっとだけさびしそうなところもありました。そんなときの彼の目は変ないいかただけど、おしゃかさまのようでした。
ちゃんとしたこたえが書けなくてごめんなさい。わたしは頭が悪いのです。おまけにすこし酔ってるし。おねがいですから返信くださいね。わたしのたったひとつの手がかりはAkiさんです。長いメールをごめんなさい。

送信者:Aki 宛先:カオリ 3/8/4:12
件名:(無題)
 カオリさん、あなた年齢は? 文章からすると随分と若い方のような気がしますが。
 あなた、本当に広末と旅行してたの? いつ? どのくらい? って、ま、いいか。テストの結果は二十点ですから。私は今ひとつあなたを信用できません。とにかく悪戯ならこれっきりにしてくださいますように。私もヒマじゃないのです。
 一応テストの採点結果と、私側からの広末情報を記します(フェアでありたいですから)。
 年齢は私も知りませんが、住所は知っています。というか知っていたように思います。職業は会社経営。これはカオリさん正解ですね。でも、その辺りのことって、私既にこのページに書いていましたもんね。四番目の質問にあなたは答えらえませんでしたね。実際に広末を知っている人なら間違いなく[猫]と回答する筈なのに。どう見ても猫っぽかった、私の知ってる彼は。それから最後の回答ですが、これを見る限り、私たちの捜しているのは別人のようです。私の知っている広末は、頼りがいなんか全然なくて、とても甘えん坊で、三毛猫のようなまん丸の目をしていました。  
 悪戯ならさようなら。

送信者:カオリ 宛先:Aki 3/8/4:14
件名:住所教えてください!
Akiさん。彼の住所を知っているなら教えてください。おねがいします。それで人ちがいだったらわたしもあきらめられるし。それから、わたしは二十八歳です。

送信者:Aki 宛先:カオリ 3/8/4:22
件名:Re住所教えてください!
 ひやかしにしては随分熱心ですね。
 だんだん私もあなたのことが気になってきました。何せアイツ(広末のことです)は、女癖悪そうだったし。
 住所の件。教えてもいいんだけど、そこにもう彼はいませんよ。というか、そこには彼の部屋もありません、今は。つい先月まで週末ずっと一緒にいた部屋なのに。なんの痕跡もなし。本当になんだか悪い夢を見ているようです。
 嫌な書き方をしてしまったこと、許してね。私は混乱していて、あらゆることに対して疑り深くなっているのです。もうこの【INNER DIVERS ONLINE―インナーダイバーズ・ オンライン―】も閉じようかと思っています。

送信者:カオリ 宛先:Aki 3/8/4:24
件名:本当ですか?
本当ですか? 先月まで彼と週末同棲していたのですか? いつからですか? フィンランドでいなくなってから彼は、Akiさんといっしょにいたのかな?

送信者:Aki 宛先:カオリ 3/8/4:29
件名:おいおい。
 カオリちゃん。あなたこのページちゃんと読んでないでしょ。
 【飼育日記】のとこに書いてあるでしょう? 
「半年前に雄の三毛猫を拾って、週末は一緒にご飯を分けあった」って。

送信者:カオリ 宛先:Aki  3/8/4:49
件名:ごめんなさい!
今、【飼育日記】読みました。【飼育日記】ってペットのことが書いてあるのかな? って思ったんです。ごめんなさい。【広末語録】ってとこを読んですぐにあわててメールしちゃったから。ちゃんと読まずに連絡して失礼しました。
私たちのさがしている広末は、どうやらやっぱりAkiさんのさがしている広末さんのようです。先月までAkiさんといっしょにいたのですね…。
すぐにお会いしたいのですが。【飼育日記】を読むとAkiさんは都内在住ですね。どこですか? これからそちらにうかがってもだいじょうぶですか?

送信者:Aki 宛先:カオリ 3/8/5:00
件名:Reごめんなさい!
 「これから」は困りますよ。私も一応社会人やっていますので、仕事もあるし。でも至急会いましょう。
 明日の夜はいかが? あ、つまり今夜のこと、正確には。
 ひとつ質問。「私たち」って、あなた書いてるけど、あなた以外に誰かいるの? 広末を捜している人が。
 私は赤坂に住んでいます。

送信者:カオリ 宛先:Aki 3/8/5:09
件名:インナーダイバーズの人といっしょです。
今、バーからメールしているのです。ボーイフレンドふたりといっしょです。ふたりも広末晴樹と、このバーで一度だけ会ってるみたい。広末がバーにおいていった名刺みたいなのがあって、そこにはわたしたち三人の名前があって、それからインナーダイバーズって書いてあって。意味はわからないけれど。
今夜、赤坂にうかがいます。何時に都合がつきますか?

送信者:アキ 宛先:Aki 3/8/5:15
件名:Reインナーダイバーズの人といっしょです。
 今からそっちにいきます!
 そのバー何処? 携帯番号教えて。車で行くから場所ナビして。


ダイバーズ[Divers]


 アキの車が首都高速を降りるころ朝日が昇った。朝日はアキが駆るプジョーのボディカラー、エーゲブルーを鮮やかに照らし出す。睡眠不足の頭に朝日が作用する。アキは軽い眩暈を覚えたかもしれない。しかしそれは嫌な眩暈ではないだろう。何かが新しく始まる、そんな[予感]の眩暈だろう。
 「今は何も考えないでいよう」アキはそう呟いた。
 【インナーダイバーズ】とは何か、広末晴樹とは誰か、様々な疑問を抱えながら、同士と接触するためアキは疾る。 
 アキは不安でも期待でもなく、ただ[変化]を感じているようだ。何も考えず流れにただ身を任せればいいとそう信じているのか、その表情は晴れやかだ。

 やがてアキは路肩にプジョーを停めて、グローブボックスから携帯電話を取り出す。コールするとすぐに相手が出たようで、アキはプジョーを降り、話しながら歩き出す。「もしもし? アキです。今、言われた住所の近くに来てます。交差点を少し直進した辺り…」
 朝の通勤者が歩くその流れに逆らってアキは歩く。「郵便ポスト? あるわね。そこを右…。はい、曲がった。左手の地下…。なんてお店? BLUE…。わかった、今、階段降りるわ。では」と電話を切り、狭い階段をアキは下る。
 Bar BLUEの扉を開けるとき、アキはふと緊張したようにその手を止める。が、もう後もどりはできない、というような直感が覚悟を促したのか、次の瞬間アキは勢いよく扉を開けた。

「おはようございます。って挨拶もどうかとは思うけど、私が…」とアキは、奥のテーブル席でPCを囲んでいる数名に声を掛ける。「高鳥アキです」
 それに応えて立ち上がった男は、次の瞬間アキを見て驚いたように呟く。「ってか、マジかよ。こーゆー展開かよ…」
 唸るような低い声の主に気がついて、アキも驚いたように男を指差す。「五十嵐さん?」言いながらアキは男に近づく。「どうして? あなた、ここで何を…」
「知り合いなの?」とカオリもまた驚いて、二人の顔を交互に見比べる。
「この人、編集者だよ…」と有田が説明する。「この前ほら、鯨、食わせてもらったって言ったじゃん。雑誌にちょろりと絵なんて描いてさ…」
「正巳ちゃん。絵も描けるんですか?」と太郎が訊ねる。
「まあまあ…」と、いくらか混乱した様子でカオリは言う。「取り合えず座ってコーヒーでも?」
「あ。そうすね…」と言いながら太郎は立ち上がると、「すみません、わざわざこんな時間に。コーヒーでいいですか? それともアルコールの方が?」と営業スマイルでアキに訊ねる。
「朝からお酒もどうかしらね…」とアキは笑う。「コーヒーをもらっていいかしら?」
「はい。少々お待ちください…」そう言って立ち上がる太郎を、「私が淹れてきますよ」とカオリは制して、カウンターの奥へと向かう。
 片目を大きく片目を小さく、アキは推理小説を読むような複雑な表情を作って、有田の向かいに座ると有田に訊ねる。「正巳ちゃん? あなたは、五十嵐まどかでしょう?」
 「あれえ?」アキの言葉を聞いて有田は驚いたように両手を広げてみせる。「ギャラ振り込んでくれたの、アキさんじゃないの? オレの本名は有田正巳。支払いんとき、名前、見なかったの?」
「通りすがりのイラストレーターでしょ、あなたは…」そう言ってアキは快活に笑う。「本名なんて、いちいち記憶してる編集者はいないわよ」
 そんなアキの表情が太郎の瞳に映っている。アキの顔。細面の顔にまっすぐ伸びた鼻筋。目は大きいが鋭い。気の強さを象徴するようなその目は多分に男性的で鷹のようだ。
「ブラックでいいですか?」と、コーヒーを淹れてもどってきたカオリはアキに訊ねる。
 アキの瞳にカオリの顔が映る。その顔の印象はアキのそれとはおよそ正反対だ。カオリの顔は茹で卵のように丸く、少しピンボケなまでに柔らかなその眼差しには、それと向き合うどんな人間の緊張も瞬時に解いてしまうような力がある。肉厚の唇にも肉感的な印象はむしろ希薄で、どのような表情のときでも、たいていマシュマロのような優しさがそこに漂う。
「有難う。ブラックがいいわ」と、低くハスキーな声でアキはカオリに答える。
 その毅然とした口元を、太郎はしばらく見つめてから、少し慌てたように視線を逸らし、また会話を繋げる。「あ。でも、正巳ちゃんってば、実はペンネーム持つほどのイラストレーターだったんですね。自分では、商業主義に毒されたへっぽこデザイナーだ、なーんて言ってたくせに…」
「へっぽこデザイナーだよ、オレ…」と、人を喰ったような口調で有田は応える。「オレに絵の仕事振ってくる編集部が、今ごろあるってんだからオレのほうがビビったよ、マジで。オレ、絵ぇ描いてたのなんて学生んときだしね」
 有田のそんな発言を、アキは苦い笑いを浮かべて聞いている。
 有田は自分の喋りに自分で酔うように、さらに乱暴に語り続ける。「そのころオレの絵で絵本を出版したいって、オレのオジキが言っててさ。オジキは小さな出版社なんて経営してたんだよ。あのオヤジ、オマエには才能があるとかなんとかヌカしやがってよ、騙したんだよ、まだ純真だったオレを…」
「五十嵐さんには才能があるわよ」とアキが口を挟む。
「あのね、編集さん…」と有田。「オレが初めて絵本の仕事やったとき、オレのギャラ、いくらだったと思う?」
 アキは曖昧に笑って首を傾げてみせる。
「太郎はどうだ? いくらだったか当ててみろよ。オジキが、オレの才能とやらにつけた値札…」
「いくら、だったんすか?」
「五十円」
「五十円?」と、アキが呆れたような声で訊ねる。「一枚カラーで描いて五十円?」
「そ。五十円…」と有田。「そっからきてんだよ、オレのペンネーム」
「あ。五十嵐まどか、って…」アキは笑いながらテーブルに指で[円]という文字を描く。「五十嵐、円なんだ…。愉快ねえ」
 遠慮のないアキの笑いを、太郎の目は好意的に見つめている。
「はは。でも、じゃ、何よ? 私は五十円でデビューした作家の作品に、ひどく感動しちゃった、ってわけ?」
「そうなんだよ、アキさん。アンタもモノを見る目がないねえ。…ってオレ、ずっと思ってたわけよ。まあ今回、戴くモノしっかり戴いちゃったあとだから告白すっけど、オレの絵に五万円のギャラ払うアンタら、ちょっと有難すぎるぜ、ホント」
 有田の、これも遠慮のない発言に、アキは声を高くして言い返す。「何よ、失礼ね! 五十嵐…じゃなかった、ええと、有田だっけ。そか、有田コノヤロー、あんたの絵を見て私は感じまくちゃったのよ、命とか永遠とか…」
「だからぁ、五十円の絵にそんなモンないって…」ヒラヒラと手を振り有田が笑う。「アキさんが勝手にそう見ただけでしょ。オレの下手クソな海をさ…」
 そのとき。
「人は、見たいものを、見る」騒ぎの中にポツンとカオリが呟いた。その、広末のような言葉に、皆沈黙する。

「そうね…。広末晴樹の話を始めましょう」アキが静かにそう言ってカオリを見つめた。


 カオリの長い話を、アキはずっと黙って聞いていた。嫉妬の感情は表情にない。ひょっとすると、広末晴樹という人物に対して自分がどのような感情を抱いていたのかも、今となっては漠然としているのかもしれない。広末との旅について、幻想的な表現を交えつつ、切なげに語るカオリという女を、アキは愛しげに見つめていた。
 同様にカオリもまた、自分の感情を見失いつつあったのかもしれない。自分が懸命に捜し続けていた男が、アキという女とともに半年間を生きていたという情報に接して、確かに最初は戸惑いや嫉妬を感じたかもしれないが、しかし実際にアキと向かい合い、広末晴樹に関する自分の[思い出]を語るうちに、カオリはアキの共感を感受し、おそらくはそれに慰められた…。
 [思い出]?
 それは[思い出]と呼べるものであろうか?   
 カオリにはわからないだろう。
「…あれは、ホントにあったこと、なのかな?」カオリはそう呟いて話を終えた。
 沈黙。カラスの鳴く声がパラパラと店内まで響いていた。
「薫さん、あのですね…」と、しばらくしてから太郎が静かに切り出す。「僕にはこんな経験があるんです。聞いてくれますか? あるとき僕は、ある先輩と話をしていたんです。少し前にバイトさんが結婚したときの話。結婚式の二次会で、バイトさんは自ら大きな声で瀬戸の花嫁を歌ってみんなの拍手喝采を受けてたんだって、先輩はそのとき僕にそう言いました。で、僕は思ったんです。あ、僕もその二次会に顔を出してたんだっけって。だってその瀬戸の花嫁大熱唱の様子を、僕ははっきりと記憶していたから…。でも先輩は言うんです。いや、お前はあの日あの二次会には来てないはずだよって。お前はあのあとの三次会から合流したはずだって。だから僕は説明しました。テーブルのこっち側から僕は見ていて、バイトさんはテーブルの向こう辺りで歌っていて、歌詞の途中を間違えて、彼女はもう一度頭から唄い直して…、ってそんなふうに。先輩は不思議そうでした。確かにその通りだ。でもお前は間違いなくあの会場にはいなかったはずなのに、変だな、おかしいなって…。花嫁が胸に付けていたコサージュの花の種類まで僕はちゃんと覚えていて…。先輩は、ひたすら首を捻っていました…。謎でしょ?」太郎はそう言ってコーヒーをすすった。「でも、なんのことはない。あとでわかったんですけど実は、先輩が携帯電話に録画していた二次会の短い映像を、僕は三次会会場で先輩から見せてもらっていた、そういうコトだったんです。そのことに、僕も先輩も、ちっとも思い当たらなくて…。短い映像を見ていただけなのに、僕は実際にその二次会会場にいたように、そう錯覚していたんです。記憶なんて、ことほどさように曖昧なもんですよ」
 太郎の言葉をカオリは黙って聞いていた。
「記憶のレベルが違うわよ」鋭く言ったのはアキだ。太郎はおとなしく頷く。
「でもよ。例えば、だよ…」と有田。「薫は実はフィンランドに一人で行っていたのに、なんらかの理由でさ、変なキノコ食ったとかそーゆーよーな理由でさ、ひどく生々しい夢を見たりなんかしちゃってさ、それがあとになっていろいろミックスされちゃって、とかさ。ほら、薫、オマエ、もともと空想癖あるじゃん…」
「この店で会ったんでしょ? 正巳くんも太郎くんも…」と、カオリは有田に応える。「広末晴樹に」
「うん…、一度だけな。でもアレだってさ、オマエの話を聞いてオレたちが勝手に作り上げたイメージ、かもしれない。何度も言っただろ。あのときオレ、とことん酔ってたし…」
「太郎くんは?」と太郎に向かってカオリ。「太郎くんは飲んでたわけじゃないんでしょう?」
「ええ。でも、はっきりしないんです、あの晩のことは…。正巳ちゃんてば酔っ払って、いろんな話をしていて…。話があっちにいったりこっちにいったり、具体的になったり、抽象的になったりで…」
「悪かったな、コノヤロ」
「で、僕も、そんな正巳ちゃんの話にずっと付き合ってるうちに、どうもなんかこう、混沌としてきて…。正巳ちゃんの酔いがノリうつるっていうか、催眠術みたいな…」
「集団催眠…」とアキが呟く。
「そう。それだよ、アキさん!」パチン! と有田は指を鳴らす。「集団催眠とかそーゆーよーなヤツだと思うんだよ、オレは。クジラ取材の夜、覚えてる? あの夜オレたちも、金縛りだの、記憶のメカニズムだのって、そーゆー話を延々としててさ、なんだか変なふうに酔ってたじゃん。あんな感じ。オレと太郎も、あの夜そんな感じだったんだよ。だからいろんなことが、なんかこう、夢うつつみたいな…」
「私の話を聞いてくれる?」とアキは有田の発言に割り込み、強く言う。「私は約半年間、広末晴樹と名乗る人物と、定期的に会っていたのよ」
「聞かせてください」カオリはそう言い、目を閉じた。
 
 アキは話し始める。「その日、目覚めると外は雪だったわ。私は独り、自分の部屋で目を覚ましたの。土曜日の朝…。時折走り過ぎる車のチェーンが路面を引っかく音…。耳に入ってくるのはそのくらい。いつもと違って世界がとても静かだったわ…」
 アキの言葉が北極圏の景色を思い出させたのか、カオリは目を開き、遠い目で虚空を見つめる。
 アキは話を続ける。「ベッドを出て、歯を磨いて、コーヒーを淹れて、冷蔵庫からサワークリームを出して、クラッカーにつけて食べた…。なんだかひどくぼおっとした気分で、まだ夢の中にいるようだった。そういうときってあるでしょう。眠りすぎた朝とか…。まだ自分の体に、自分がしっくり馴染まないような…、五感が妙によそよそしいような、そんな感じ。クラッカーを口に運びながら窓の外を見てたの。雪の反射で外がいつもより明るかった。そして感じたの。なんだか景色が急にリアルになっていくなって…」
「リアルになってゆく?」と太郎が質問する。
「そう…」アキが答える。「今までがリアルじゃなかった、ってわけじゃない。今までは今までで、十分にリアルだったんだけど、さらにグレードが一段階アップしたような、そんなリアルさを外の景色に感じたの。そしたらね、部屋の中のいろんなものも自然に輝き始めたの。鮮やかさを増してきたのよ、やかんも歯ブラシもパキラの葉っぱも…。ああ、あるんだなって感じた。やかんも歯ブラシもパキラも、みんなちゃんとあるんだなって…」
「今までなかったってわけじゃねーだろーに」と有田。
「そう。今までもあった、ちゃんと私の部屋に。でも、もっとはっきりと…、あるって実感できたの。私とやかんは今同じ空間に存在しているって、はっきり認識できた…って、そういうこと…」
「それまでは同じ空間に存在してなかった、って意味じゃないですよねえ」と太郎。
「同じ空間に存在しているっていう認識がなかったっていうか…。モノに対する優しさに欠けていたっていうか…。でもまあとにかく、その朝、なんだか覚醒したような新鮮な気分で、世界をよりリアルに感じたのよ、私は。そうしたら逆に、今までの自分はなんて曖昧な感覚で世界に接していたんだろう…って、そんなふうに思えてきてね…」
「アキさーん…」と有田。「また随分と難しいテーマの話だねい」
 テーブルの上、飲みかけのグラスの中で、氷が小さな音をたてる。
「うん。つまりね…」グラスの氷を見つめがらアキは呟く。「これが、広末の影なのね。私も彼と関わる前は、こんな抽象的な話なんて、したこともなかったわよ。でも広末と一緒にいたり、彼について語ろうとしたりすると、このテの言葉なくしては、どうにも表現が成り立たないのよ…。彼には具体性がないのね。彼という存在そのものに…」
「広末ってのはさ…」と有田。「ホントになんだか、影みてーなヤローだな」
「太陽はあらゆるものの影を生み出すけど、太陽自身は影を持たない…」カオリがまた目を閉じて、ポツリと呟く。
「ほおら、これだよ…」と有田は口を尖らせる。「広末トークだぜ。広末ってヤローのせいで、薫はこんな、ワケわかんねー呪文を唱えるよーになっちまった…」
「月は月自身の影で太陽を描く、と言えないかしら。日食のときに…」と今度はアキが言いかけて、有田は声を尖らせる。「おい、アキ、オマエもか。 やめよーぜ、もう広末ごっこはよ。そんな呪文みてーなこと言って、なんになんだよ…」
「アキさんの話の続き、おとなしく聞きましょうよ、正巳ちゃん」と太郎は有田を柔らかく制して、アキのカップにコーヒーを足す。
「ありがとね。太郎くん」アキにそう言われて太郎は少し赤くなる。アキの瞳に移る太郎は、小作りで整った顔立ちをしている。度の入っていないファッショングラスを掛け、髪は生まれつきの軽いウェーブ。その髪を照れくさそうに太郎は掻き上げた。太郎の控えめな態度と正直な反応を見て、アキは少し目を細め、そしてまたおもむろに話し始める。「どこまで話したかしら…。そうそう、雪の日の朝、世界がよりリアルに見えた、ってとこまでね。…そうしたらね、世界に対する、昨日までの自分の認識、みたいなものが、急に曖昧なものに思えてきて、ね。不安になったの。そう、急に不安になったの。理由のわからない不安。最初それが何を暗示するのか、まったくわからなかった…。クラッカーをかじりながらコーヒーを飲んでいると、そのうち心臓がドキドキしてきて…。どんどこ、どこどこ…って太鼓が鳴ってるみたいな…。不安の暗示するものが、だんだんはっきりしてきて…。私は着替えると、外に走り出て、タクシーを拾ったの。広末のマンションを運転手に告げた。タクシーの窓から見える外の世界は真っ白で、非日常的な銀世界。私にはその銀世界が妙にビビッドに見えていて、馴染んでいた昨日までの日常が、変に色褪せた、遠くのものに思えていて…。広末の身が危ない…って、そんなふうに直感したの。そりゃまあ非合理的なんだけど、確信に近い思いだったの。去り行く三毛猫の、寂しそうな後姿を、私はイメージしていたの…」
「それで…?」とカオリ。「それで、広末は…?」
 アキは肯定とも否定ともつかない首の動かし方をして、目を閉じたままのカオリを見つめる。その猛禽類を思わせる鋭い瞳の中に一瞬恐怖が浮かぶのを、太郎は神秘的なものを見るような目で見つめた。
「タクシーがマンションの前に着いて、私は車を走り出た。マンションのエントランスに急ぎ、エレベーターに向かって走った。UPのボタンを押して、エレベーターが下りてくるのを待った。それはとても長く感じられた。永遠とも思えるくらいの時間が経って、エレベーターのドアは開いた。私はエレベーターに乗って、そして三十階のボタンを…」そこでアキは言葉を失った。
「…アキさん?」と太郎が心配そうに声を掛ける。
「ええ。大丈夫よ…」照明が暗くてはっきりしないが、アキは確かに青ざめている。「私は三十階のボタンを押そうと手を伸ばして…。そうしたら…。ないのよ…。三十階のボタンがないの。先週までは、あったのよ。私は、そのエレベーターで三十階のボタンを押して、広末の部屋まで昇っていたはず…」
 カオリはまた目を開ける。
「私はまず、何か自分が勘違いをしたのだ、と思った。慌てていて、隣の建物にでも走りこんだのかと…。もちろんそんなことはなかった。あの辺りで高層住宅はただ一つなの。間違えるわけはないのよ。…いつものエレベーターとは別のエレベーターも、念のために調べた。どのエレベーターにも三十階のボタンはないの。何かあったんだ、と私は思った…。私は最初のエレベーターでともかく二十九階まで上がった。二十九階には四住居があった。2901から2904まで、ルームナンバーの入ったドアがあった。その向こうに、さらにその上の階にゆく階段を見つけて、急いで私はそれを駆け上がった。そうしたら、その上は…、屋上だったの…」
 Bar BLUEを沈黙が包む。
「屋上に積もった雪を見ながら、私は自分の頭がどうかしたのかと思って、すごく不安になった。何が起こっているの? …そう叫びたかった。見上げる空の、遥か向こうの宇宙空間で、音もなく運行している巨大な天体たち…。それを私は想像して、しばらくじっとしていた。やがて私はまた階段を駆け下り、2901号室のベルを鳴らした…。記憶に残る広末の部屋は3001号室で、2901号室の真上が玄関だったから…。2901号室からは中年の男が出てきた。この上の階はどうなったのか?  …と、私は訊いた。男は怪訝な顔で黙っている。このマンションは何階建てか? …と、私は訊いた。二十九階建てだ、と男は答えた。いつからだ? …と、私は訊いた。三年前に竣工してからずっとだ、と男は答えた。私は男の横をすり抜け、2901号室に走り込んだ。部屋の造りは見覚えのある広末の部屋によく似ていた。バルコニーの向こうに見える風景も、先週まで私が見ていたその風景だ…。何かが、根本的に、おかしい。私はそう思った。何やら喚いている男の声も耳に入らず、私はマンションを飛び出して、そして、雪の中をあてもなく歩き回った…。それっきりよ…。広末には、それっきり会ってない…。広末晴樹は実在していたのか、それとも膨大でリアルな記憶は、全て私のイマジネーションだったのか…。私は混乱した…」
 カオリがアキの手を取る。有田はカオリの肩を抱く。太郎はアキの顔を見つめている。
「何日か経って、私は思い出した…。記憶を探って、机の引き出しを引っ掻きまわして、財布や名刺入れの中を調べつくして…。で、プジョーの中、ルートマップのページの間に、やっとみつけたのよ。いつだったか海までドライブしたとき、広末が私に手渡したささやかなもの。冗談だと思って、すっかり忘れていたもの。広末が実在していた唯一の物的証拠。それがこれよ…」
アキはテーブルの上にそれを出してみせた。

【インナーダイバーズ 
メンバー

高鳥 アキ

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


「そうですね。集団的錯乱、のようなものでしょうかね…」オレンジ色のジャケットを羽織った精神分析医はそう言った。
 桜の花びらが舞う、ある日曜日の夕方。Bar BLUEにインナーダイバーの四人は集まっていた。
「のようなもの、ってのはなんだよ。あんたプロだろ。広末晴樹をなんとかしろよ」と有田。
 精神分析医の男はベルギービールを一口飲み、嘲りともつかない嫌な笑いを浮かべながら有田に応える。「いや、そう言われましてもねえ。こちらの若い店長さんの、たっての望みで、私はこちらに来ているわけで。それにねえ、私はまあ一応はこれでも、医者を名乗っていますからねえ。私は探偵ではないし、ましてや祈祷師でもない…」
「医学的な見地で…」とアキが訊ねる。「集団的錯乱であると、そのように判断されますか?」
 分析医はアキの鋭い視線を避けるように天井を見上げ、答える。「医学的にどうって言われても、これもまたねえ。確かにみなさんは非凡な個性をお持ちでいらっしゃるようだから、分析してみれば、そりゃ様々な要因を掘り起こすことはできるんでしょうけどね。時間もかかるし費用もそれなりに…」
「おい、太郎。知り合いに心理分析とかそーゆー先生がいるから…なあんて、オマエなー、このオッサン全然いー加減じゃねーかよ、ったく」
「正巳ちゃん。そんなこと言ったら悪いじゃないですか、せっかく来て頂いたのに…」
「ちゃらちゃらしたジャケット羽織りやがってよ、白衣も着てねーし、どーせ藪医者なんだろ。オッサンもわかったから、もーいーよ、そのビール飲んだらとっとと帰ってくれ。オレはもう、広末晴樹なんてどーでもいーんだから…」
「私は、よくない」珍しくきっぱりとした口調でカオリは言い、象の絵が描かれた青いラベルの瓶を傾け、分析医のグラスにビールを満たす。「先生は、私たちが四人揃って精神的に病んでいると、そのようにお考えなのですか?」
「さあ。どうでしょうね。皆さんがウソをついている、ってのがまあ実際、世間並みの結論、なんでしょうかねえ」分析医は今度はもうあからさまな侮蔑を隠さずに、そう言って笑う。
「この名刺は、じゃあなんなんだよ。インナーダイバーズって書かれた名刺が四枚。コレはいったいどっから湧いて出たんだ?」有田はテーブルに四枚のカードを並べる。「おい太郎、オレにもビール、もう一本早く持ってこいよ」
 テーブルに並べれられた四枚の名刺を手に取りしばらく眺めてから、分析医は有田に向かってこう言う。「こんなモノ、単なる紙きれじゃないですか? あなた、デザイナーなんでしょ。朝飯前でしょ、こんなの作るの」
「オレが、わざわざコレ作って…」と、有田の声は震えた。「茶番を仕掛けた、って言うのか…。なんのためだよ。なんでオレが…」
「それがメリットだったから、でしょう…」と分析医は落ち着いた声で静かに応える。「あなたの潜在意識にとって」
「潜在意識?」アキが問い返す。
「そうですよ。潜在意識…」分析医は煙草に火を点けながら言う。「こちらの…、薫さん、でしたっけ? 綺麗なお嬢さんの、こちらの人、彼氏だったんでしょう? 有田さんでしたっけ…」そう言って有田を今度は正面から見据える。「あなた、薫さんが知らない誰かと旅行したって聞いて、狼狽えたでしょう? で、その知らない男に対しては怒りを感じた。ですね。それはわかります…」分析医はそこで言葉を区切ると空中に煙を吐き出す。「では薫さんに対して、有田さんはどういう感情を持ちましたか? 怒り、ですか?  嫉妬? 愛? 絶望? …そのどれもが正解ですか?」
 有田は何も答えることができない。
「薫さんを失いたくない、でも薫さんを許せない…。無意識的には薫さんを許したい、でも意識的には薫さんと別れるという決断を下してしまう…。あなたは葛藤した。あなたに残された道は一つ…」分析医はそう言って、灰皿に煙草を押し付けその火を消す。「なかったことにする、しかないんです。そんな男はいなかった…。でも、傷ついた薫さんに対してそんな残酷なことは言えない。で、あなたの潜在意識は結局こうすることにしたんです。つまり、その浮気男を、神や仏のレベルに祭りあげたんです。違いますか?」
 Bar BLUEは沈黙に凍る。
「でも…」沈黙を破ったのはアキだ。痛々しいほどに擦れた声で訊く。「でも、私が受け取った名刺はどうなるの? 私は広末晴樹から直接…」
「アキさん、でしたっけ。あなたに名刺を渡したのは、たぶん有田さんでしょうね。お二人には仕事上の絡みがあった…。さっきのお話から判断すると、クジラ取材…でしたっけ?  その取材旅行中、有田さんは無意識ながらアキさんに魔法をかけたんですよ…。お酒を飲みながらお二人は、深い潜在意識の闇に沈んでいった…。有田さんを捕らえていたイメージが、その夜アキさんに伝染したんです。…時系列は問題になりません。記憶というものは、あとからいかようにも作り変えることができるものですから…。まあ全て仮説ですがね。あなた方がウソつきじゃないとすると、まあこんな感じの説明が、一番それらしく納得できるんじゃないかと…」
「あの、すみません…」と太郎。「僕も広末晴樹に会ってます、一度だけですけど…。その夜、広末は正巳ちゃんと殴り合って…」
「有田さんと殴りあったのはおそらく、キミですよ。店長さん」と、分析医は嬉しそうに笑いながら言った。
「え? なんで僕が、正巳ちゃんと…」
「理由はいろいろと考えられます。例えば店長さんは、無意識的に有田さんを憎んでいた、とか…」
「いえ! 僕は正巳ちゃんが好きです…」
「それでは、無意識的に薫さんを愛していた、かな…」
 太郎はそう言われて、思わずカオリを振り返る。カオリも大きく目を見開き太郎を見る。
「太郎、おい、そうなのか? オマエ薫に惚れてたのか? だったら…」と言いかける有田を遮って太郎は言う。「違いますよ。僕は…」自分を見つめているアキの、鷹のような瞳を意識して太郎は言ってしまう。「僕はどっちかって言うとアキさんの方が好みなんですよ。ですから薫さんに対しては、そんな…」
「自分で意識できないから無意識、なんですけどね…」分析医は少し優しげに笑いながら言う。「まあ、いいでしょう。私は恋愛カウンセラーじゃないし。でもまあ恋愛ってやつほど無意識が活躍するフィールドもないわけで、ね…。それでは、まあこんなところでよろしいでしょうか? そろそろ…」
「ちょっと待ってよ」アキが言う。「広末晴樹っていうのは、いったいなんなの? つまり広末晴樹は…」
「広末晴樹という人物は…」と、分析医は青いラベルのビールを自分のグラスに注ぎ足しながら言う。「もともとはたぶん、薫さんの心の中で生まれたんでしょうね…。そして薫さんから有田さんに、有田さんから店長さんやアキさんに、伝えられた…」
「私の心の中で…」とカオリは呟く。「つまり…」と小さな声で呻くように続ける。「つまり、広末晴樹は…」
「いやあ。口当たりはいいけど結構まわりますなあ、このビール…」分析医は立ち上がりながら言う。「デリリウム、という名前なんですか、このビール。いやいや、ごちそうさまでした…」本当に酔いがまわったのか、分析医は少しユラユラと揺れながらドアに向かって歩む。「ところで皆さん、デリリウムってどういう意味だかご存知ですか?」と背中を向けたまま分析医は言う。「幻覚、幻視。確かそんなような意味ですよ…」そう言い残してオレンジ色のジャケットはドアの向こうに消えていった。

その夜、岡野薫は静かに泣いた。


 初夏を思わせる日差しの中カオリは、待ち合わせのコーヒーショップに向かって歩いていた。渋谷駅からコーヒーショップへの道中、何人かのいかがわしい商売人が熱心に声を掛けてくる。大きく開いた胸元のその格好以上に、カオリの漂わせる一種の緩さが、鮫を集める海中の血のように、商売人どもを引きつけた。

 同じころ太郎は、ヘッドフォンを被り無表情で、HMVから出てきた。ボーダー柄のシャツが風を孕んで膨らむ。軽快な足取りで街を歩き、やがて待ち合わせの場所に辿り着いた太郎は、階段を上がりながら無造作にヘッドフォンを外す。

 コーヒーショップでは派手な花柄のプリントシャツにジーンズスタイルのアキが、コーヒーを片手に仕事用の原稿を打っていた。書き上げたテキストを上書保存したところで、ドアに付けられた鈴を心地よく鳴らし太郎が入ってきた。

「こっちよ。太郎くん」と、アキが手をあげる。
 太郎はアキを見つけて嬉しそうに笑う。「こんにちは。アキさん」  
「こんにちは。太郎くん」
「お仕事、ですか?」テーブルの上のVAIOを見て太郎は訊ねる。
「いいの。もう終わったわ。暑いわね、今日は」と言いながら、アキはVAIOを畳む。
 太郎はアイスコーヒーを注文する。
 アキは頬杖をついて太郎を正面から見つめる。
 髪をおろしたアキを、太郎は眩しそうに見つめ返す。アキの鮮やかなプリントシャツも、今日の初夏を思わせる日差しと同様、太郎には嬉しく作用したようだ。
 太郎は言う。「こうしてると僕たちって、カップルに見えますか、ね?」
「そうねえ、インナーダイバーズなんていう怪しげなチームの集会に集まったようには、うん、見えないかもねえ…」アキは顎を上げて笑いながらそう言うと視線を落とし、「その太いリング、面白いわね。ちょっと見せて」と太郎の手を指差す。
 太郎は人指し指に嵌めていたリングを抜き、アキに見せる。「ネイティブアメリカンのシルバー細工ですよ。アリゾナに行ったとき、ネイティブのおばさんがくれたんです」
「この抽象的な模様は何かしら?」
「たぶん大地と太陽じゃないかな? モニュメントバレーってそんな感じの岩山だらけだったから…」アイスコーヒーの氷を突きながら上目遣いにアキを見て太郎は言う。「気に入りましたか? よかったら差し上げますよ」
「いいの? じゃ、遠慮なくいただくわね…。ああ、残念、薬指には大きすぎるわねえ…」とダブつかせたリングを見せてアキは笑う。「親指にぴったりだわ。有難う」
「今度はもう少し小さいサイズのリングを入手してきますよ」太郎もそう言って笑い返す。
 長閑な休日。広末晴樹は影をひそめている。彼らは一見ごくごく普通に、健全に、その現実世界を生きている。

「ねえ、アキさん…」と太郎。「いつだかご紹介した精神分析の人、あの人が言ってたこと、あんまり気にしないでくださいね。精神分析なんて今の時代、そもそも医学なんて見なされてないんだから」
「大丈夫よ、太郎くん。私はね、自分やカオリちゃんが体験したことそのものを、いわゆる病的なことだとは思ってないのよ。って言うと、そこが病的だって言われちゃいそうだけど…」通りを歩く人々を窓越しに見下ろしながらアキは自嘲的に笑う。「なんらかのメンタルなエラーなんだろう、とは思うのよ、彼と遭遇したって点においては、ね。でも、でもね、太郎くん、太郎くんはどう思う? 私たちが出会ったあの男のこと、どう考える?」
「…わかりません。考えてもしかたのないことだから、できれば忘れてしまうのがいいのかな、って…」
「だめよ。忘れるなんてできない。そもそも忘れることのできるような対象じゃないのよ、アレは。今だって感じるもの、あの男の存在…」
「え?」と太郎は驚いて訊く。「広末晴樹の存在、ですか? 今、感じるんですか? どこに?」
「どこかに。この日差しの中とは別のどこかに、彼は、いるわよ」
 太郎はアキを見つめる。
「本当よ」と囁くようにアキは言う。
 太郎は椅子に深く身を沈める。「ねえ、質問ですよ。アキさんは、広末が[実在する]と、そう信じていますか?」

 通りをゆくカオリにベースボールキャップの少年が、ちょっといいですか? と声を掛ける。
 あなたは、神を、信じますか?
 そう質問した少年に向かって、カオリはニッコリと微笑む。
 信じます、と短く答えてカオリは角を曲がる。

「つまりインナーダイバーズの見解としては、広末晴樹は[実在する]と、そーゆーことだな…」日に焼けた腕を組みながら有田が確認する。
 有田が遅れて到着したころ、三人のダイバーは既にそういう結論に達していた。
「暫定的に、ですがね」と太郎が言う。
「暫定的に、じゃなくて、断定的に、いこーぜ。とにかくこれで…」と有田はサングラスを額に持ち上げながら言う。「インナーダイバーズの目指すところが見えた。広末晴樹の発見。それがオレたちの使命だ」
「なんだか、ちょっと楽しそう」とカオリが笑う。
 アキはVAIOを開いて議事録を打つ。

【第一回インナーダイバーズ作戦会議】
[チームの目的]広末晴樹の捜索、発見。

「で、手始めに、何をすればいいんでしょう?  広末を発見するために…」と太郎。
「手掛かりは広末の残した四枚の名刺だ。モルジブ・アリ環礁にサニーアイランドは実在するか?」と有田。
 アキが即答する。「それは調べたわ。実在する」
「どんな島だ?」
「小さいながらも立派なリゾートアイランドよ」
 アキは鞄の中からモルジブのガイドブックを引っ張り出すと、テーブルに広げ三人に見せる。
 トロピカルブルーの海。白い砂浜。椰子の樹が風に揺れている。
「綺麗なところですねえ。なんだかビール、飲みたくなっちゃいますねえ…」と太郎。
「よおし。んじゃ、行動開始!」と有田は立ち上がる。
「ビアホールに突撃! ですか?」
「うんにゃ。まずは、Cカード取得!」と有田は笑う。「潜らにゃいかんっしょ! なんてったって、ダイバーズ、つーくらいだから」
「青い深い海」と、カオリは小さく呟いた。


 モルジブの空港は島だ。
 エアタクシーと呼ばれる純白のフロート機が数機、濃紺の海でその翼を休めている。定員が二十名かそこらの、その小さなプロペラ機に、ダイバーズの四人は座っている。他に乗客はいない。打ち寄せる波が機体のフロートレッグで弾け、飛び散る。機体は船のように、音もなくゆらゆらと揺れた。
 快晴。
 太陽の光は、海面の様々に変化するその部分部分に反射し、輝いている。
「おい、見ろよ。パイロットのにーさん、裸足だぜ…」と有田が指差して笑う。客室に剥き出しの操縦室。そこに座るパイロットと助手は二人とも裸足だ。
 英語で流れる搭乗アナウンスも、古いカセットデッキがカセットテープを再生しているような音質。カジュアル。自由。
「サニーアイランドまで、コレで、飛んでくの?」誰にともなくカオリは訊ねる。
「あれ? 薫さん…」と太郎が応える。「もしかして、コレ、本当に飛ぶと思ってたんですか?」
「え? 飛ばないの?」
「翼がついてっから勘違いすんだよなあ…」と有田。「コレ、船なんだよ。このまま海を走ってゆくんだよ。フロート機ってのはね、そーゆーモンなんだよ」
「でなきゃ、飛行機嫌いの正巳ちゃんが、大人しく乗り込むわけないじゃないですか」
「なあんだ、やっぱりそうなんだ…」とカオリ。「私、このちっちゃな飛行機で空を飛んでくのかと思って、怖いなって思っちゃったよ…。翼は単なる飾りなの?」
 機体が港を離れる。エンジン音がひときわ高くなる。
「素敵な格好の飛行機で、リゾートな演出としてはいいんだろうけど…」と、またカオリ。「でもコレ、結構、波で揺れるね。普通の船にしたほうが…」
「カオリちゃん。どうしてあなたは、なんでもかんでもそう信じちゃうわけ?」とアキ。「あんたたちもねえ…」と続いてアキは有田と太郎に向かって声を尖らせる。「いい加減にしなさいよ。この子、本当にコレが船だと信じてるわよ」
「ウソなの?」とカオリ。
「外、見てみろよ」そう言って有田は歯を剥いて笑う。
 言われてカオリは、プロペラ機の窓から外を覗き、「あっ」と驚きの声をあげる。翼に取り付けられたプロペラの下、空港島が小さく遠ざかりつつある。上空から眺める空港はとてもとても小さな島で、目を転じると青い空。ずっと彼方まで続いている青い空。
 再び見下ろすと海は濃紺。その紺色の海に、エメラルドグリーンの花びらのように、珊瑚礁が散っている。
「綺麗…」とカオリ。「ウソみたいな景色だね」

 水平飛行に入ると有田は、ブルーのTシャツを脱ぎ、続いてアイボリーの短パンも脱ぐ。
「なんで脱ぐわけ?」とアキ。
 有田は海水パンツ一枚の裸になり、さらにサンダルも脱いで裸足になる。
「このライン、三回に一回は落ちるらしいぜ。着水したときに備えて泳ぎやすい格好で搭乗してねって、さっきアナウンスしてたじゃねーか」と有田。
「そうなの?」とカオリ。「どうしよう? 私、この下に水着、着てこなかったよ」 
「そりゃあマズイっすよ、薫さん…」と太郎。「取り合えずそのワンピは脱いでおかないと、泳ぐとき足に絡まりますよ」
「ブラだけでも外しておいたほうが無難だな」と有田。
「ウソばっかり言ってるんじゃないわよ、あんたたち」と、サンダルを脱いで裸足になりながらアキが言う。
「ウソなの? なんでじゃあアキさんも裸足になるの?」とカオリ。
「リラックス」とアキ。
 カオリは頷き、アキにならってサンダルを脱ぎ、裸足になる。
「太郎くん…」と、笑ってアキ。「あなたも脱いじゃいなさいよ、スニーカーとジーンズ。墜落したら泳がなきゃならないんでしょう?」白いタンクトップ姿のアキは、そう言いながら自分の席を立ち、太郎の隣にやってくる。
 有田はニヤニヤ笑っている。
「え? いや、裸足にはなりますけどね。でも、僕は正巳ちゃんみたいに海パン穿いてないし…」
「海水含んだら重くなるわよ、デニムは…」と言いながらアキは太郎のウエストに手を伸ばす。「そうよねえ、カオリちゃん」
 カオリも笑って太郎の隣にやってくる。
「ちょ、ちょっと待ってください。ヤバイっす…」
「いいでしょう? 無人島同然の島で、これから仲良くやっていくんだから」とアキ。
「男の子なんだから、平気平気」とカオリ。
 アキとカオリはふざけて、太郎のジーンズを引きずり下そうとする。
「はは。男の子だから、ヤバイんだよなあ…」と有田。「なあ、おい、太郎。見られちゃ困る状況だろう、今、オマエ…」と有田は指を立てる。「アキさんに惚れてるもんなあ、太郎は…」
「正巳ちゃん、ホント、マズイっす。助けてくださいよ…」と苦笑する太郎に、アキは自分の顔を近づけて囁くように訊く。「ホント?」アキは太郎の頬を両手で掴み、その視線を自分のほうに向ける。「私のことが好きなの?」
「太郎。さっきアキさんが言ったとおりだよ…」と有田。「これからオレたち、島暮らしの仲間なんだよ。オープンにしとけよな、はは、身も心も…」
「そうだよ。島暮らしなんだから」とカオリも。
「しかも、無期限。お金が続く限りの島暮らし…」とアキが補足する。
 フリーランスの有田と、クリエイティブ休暇を一年取得できたアキはともかく、太郎は店長を辞め、カオリはデパートを退職した。
「世捨て人みたいなもんだよ」有田が言った。

 モルジブ諸島・アリ環礁。広末晴樹のアドレスを四人は訪ねてきたのだ。


 離陸して四十分、プロペラ機は慎重に高度を下げ、そして着水した。四人が降ろされたのは、海面に浮かび、揺れる、プラットホーム。
 島での滞在に関する簡単な全書類を交換しつつ、パイロットはアキに訊ねる。潜りに来たのか、と。
 そうです。私たちはダイバーです。そのようにアキは答える。
 マンタを見にきたのか? と、パイロットはまた訊ねる。
 アキは今度は首を振る。もぐらを見にきたのだ。アキはそう答える。
 へえ、そうなんだ、もぐらフィッシュなんてのがいるのは知らなかったな。
 もぐらという名前の魚がいるものと勝手に勘違いしたまま、パイロットは飛び去った。
 青い空に白い機体が上昇してゆくのを四人は黙って見送った。その玩具のように見える機体は、やがて見えなくなり、代わって海原の向こうから、小さな舟がそっと姿を現した。
 やがて舟はプラットホームに接岸し、四人をピックした。船頭は老齢の現地人で、終始黙って舟を進めた。
「この舟で着くのがいよいよ、サニーアイランドなの?」カオリがアキに訊ねる。
「バウチャー的にはそうなってるわね」アキが答える。
「ツアー会社に有り金はたいてるんだぜ。サニーアイランドは、なんつーか、おそらくもう実質的にオレたちの島なんじゃねーの?」と有田。
「島、買っちゃったの? 私たち島に永住するの?」とカオリ。
「いえいえ…」と太郎が答える。「一応ツーリストですから、期限が来たら帰国しなきゃ。でもまあ正巳ちゃんの言うとおり当分の間は、飲み食い宿泊全てについて、何の心配もなく大きな顔していられるはず…」
 やがて舟はある珊瑚礁に辿り着く。
「お、アレがサニーアイランドか…」と島を眺めて有田が言う。「結構大きな島じゃねーか。おお、見ろよ。ちゃんとダイビングショップもあるよ」
 大きな看板を掲げたダイビングショップや、アジア風な装いの、レストランらしき建物も見える。
「思ったよりも文化的な生活ができそうね」とアキ。
「腰蓑つけて、ロビンソンクルーソーみたいな生活するつもりだったんか?」と有田は笑う。
エメラルドグリーンの海は静かに凪いでいる。珊瑚礁と外海の間、リーフが白い。島には白砂のビーチ、椰子の樹々…。
「天国みたい…」とカオリは呟く。
「お、サメだ。でも、ちっこいな。野良猫みたいに、いっぱいいるぞ…」と有田。「大丈夫だよ、薫。これはネコザメだ。人間は襲わないよ」
「あれ?」とその時、太郎が気づいて首を傾げる。「おかしいな。この舟、島から離れていきますよ…」
 舟は島から遠ざかりつつ、そのスピードを上げている。
「拉致されたんかな、まさか、オレたち」と有田が笑う。
 ダイビングショップの看板を横目で見るように通り過ぎ、舟はさらにもう十五分ほど海を進んだ。
そして、到着した。
 そこは、とても小さな島だった。
 突き出した桟橋。こじんまりとしたビーチ。水上に浮かぶ二つのコテージ。旅人の帽子みたいな屋根のビーチバー。以上が島の全てだった。
「小学校の校庭くらいの広さ、かな」とカオリ。
「まあ、そんなもんだろーな…」と有田。「おい太郎、よかったな。ここにもバーはあるぞ。オマエ、ここで再就職できるじゃねーか」
 船頭は、アキからバウチャーチケットを受け取ると黙って頷き、また舟を漕ぎ出し、そうして島から離れていった。
「ああ、行っちゃったね。ついに我々だけが、この島に残されたね…」とカオリ。「ご飯とか、どうしたらいいのかな?」
「魚とか釣って、貝とか拾って、ヤシの実なんて割って飲んで、そうやって生きていくんだよ…」と有田。「これから厳しい、サバイバルの日々が始まるのだ」
「始まんないわよ。そんなツアーがあるわけないでしょ…」とアキ。「カオリちゃん。いちいちこの人たちの冗談、間に受けてちゃダメよ」
「でも、ですよ…」と太郎。「実際問題この島にはレストランなんてなさそうだし、バーにも人影、ありませんよ。舟も行っちゃったし、外との連絡はどうやってとったらいいんですかねえ。あの藁葺き屋根の水上コテージに、電話があるとは、まさかね、思えませんしねえ…」
 水上に突き出た二棟のコテージは、まるで鳥小屋のように見えた。コテージの支柱に波が打ち寄せ、白い波頭が日の光を受け絵画的にキラキラと輝いている。
「よおし、探検だ!」と有田が宣言する。「二手に分かれるぞ。まずはあのコテージから調べよう。薫はオレについて来い。太郎隊員はアキ隊員とともに、あっちのコテージを調べてくれ」そう言うと有田は、桟橋に下ろされた荷物の幾つかを担いで、コテージに向かって敢然と歩き始める。
「どうやら私たちはルームメイト、ってことになりそうね…」アキが太郎に言う。「行きましょう、太郎くん。よろしくね。ところで、ゴム持ってきた?」
「え? いえ…」
「ないの? 仕方ないわね。病院もないし、できちゃったら自然分娩ね」
「…アキさん。冗談っすよね」
「当たり前でしょう」

 カオリは空を仰ぐ。
 広い空。晴れわたった空には、空しか見えない。
 海を見る。海も広い。水平線しか見えない。
 椰子の葉が風にそよぐ。
 波の音が聞こえる。
 ここには、何もない。
「だから、きっと…」カオリはそう呟いた。


「なんなの? これは!」コテージのドアを開けて、開口一番アキは驚いたように言う。「騙されたわねえ」
 荷物を担いで遅れてやってきた太郎も、アキの指し示す部屋の内装に目を見張る。
 豪華。
「バリ島のヴィラも真っ青の快適空間ね…」言いながらアキは、部屋を仔細に観察する。
 床は暗いトーンのフローリング。床の一部はガラス張りになっていて、海中の熱帯魚を真上から眺めることができる。所々に観葉植物の鉢が置かれている。夜ともなれば多彩な間接照明がそれら植物を照らし出し、室内は癒しのムードに包まれるのだろう。広いバルコニーはもちろん海に面して作られていて、そこには木製のデッキチェアやテーブルがナチュラルに配置されている。バルコニーには海中からそのまま木製の階段が伸びていて、その先はバスルームに直結している。バスルームのドアは広く開け放つことが可能で、浴槽に浸かりながら海や空を眺めることもできそうだ。部屋には大小のソファとキングサイズのベッド。テレビはないが、食卓を兼ねた大テーブルの上にノートPCが一台置かれていて、開いているその画面にはWelcomeの文字が浮かんでいる。
 太郎がPC画面のJapaneseと書かれたボタンをクリックすると、正確な日本語で書かれた宿泊案内が瞬時に画面に表示された。「食事のメニューがありました。すごいですね…」案内画面をチェックしながら太郎が言う。「和洋中からエスニックまで、なんでも揃ってますよ。注文画面で料理を選ぶと、隣の島から宅配してくれるシステムのようです。さっきの小舟が料理やお酒を運んでくれるみたいですね…」
「つまりここは、快適に[無人島ごっこ]ができる、いわば癒しの遊園地…ってわけね」とアキ。
「このアイコン、なんですかねえ?」と太郎。「SUNSET room…」と声に出して表示を読みながら、彼はそのアイコンをクリックする。
「なるほどね…」横からその画面を覗き込みながら、半ば感心したように、半ば呆れたように、アキが呟く。「電話があるとか、ないとか、そういうレベルじゃないわけね…」
 モニタは、やや緊張気味の有田の顔を、はっきりとそこに映し出していた。「ハ、ハロー。ディス イズ ザ サンセットルーム…」と、モニタの中で有田。
 それを見て太郎とアキは先を争うようにベッドに転がり、足をバタつかせて大笑いをする。
「なあにが、ザ サンセットルームよ。客室は二つしかないんだから、気取らなくていいでしょ
う」とアキ。
「映話だ…。うう、太郎の顔が映ってる…」と、モニタの中で有田が唸る。
「つまり正巳ちゃんたちの部屋はサンセットルームで、僕らの部屋はサンライズルームだと、そういうわけですね…」
「あ、太郎、コノヤロ。なんでオマエの方が、日出づる部屋、なんだよ…」
「正巳ちゃんが先に選んだんでしょ、そっちのコテージ…」
「つまりそっちのバルコニーからは朝日が見えて、こっちのバルコニーからは夕日が見える、ってことかしら?」有田の後ろからカオリも画面に加わる。
「たぶん、そうね。…じゃあ、夕食はそちらの部屋で、四人揃っていただきましょうか? 日が沈み始めるころ、私たちがそちらに行くわ…」とアキ。「それまで私、少し泳いでみようかしら」
「クローゼット、開けてみろよ。中にシュノーケリングセットがあるぜ」と有田。

 アキはバスルームで水着に着替えると、そのまま階段を下りて海に入る。マスクをしてフィンをつけると快適に泳ぐことができた。珊瑚礁の海を、彩り鮮やかな魚の群れが泳いでいる。やがて太郎もやってきて、二人は日が沈むまで魚を追いかけて遊んだ。


 赤く染まった雲を夕日が突き抜け、そして沈んでゆく。
「おーい、薫、来てみろよ。すごいぜ、夕日が…」サンセットルームのバスルームから有田の声。
 大理石の湯船に顎まで沈んだ有田の目には、今まさに沈み行く夕日が映っている。
 ピアノのBGMを聞きながら荷物の整理をしていたカオリは、有田の声に手を止めて立ち上がり、小走りにバスルームへと向かう。「うわあ、いいね! 入浴しながら夕日が見えるんだ…」カオリは赤い空を振り返りつつ叫ぶ。
 バスルームの向こうに広がる海面を、サンセットルームに向かって真っ直ぐに伸びてきた光の帯は、浴槽に張った湯にも伸びて、有田の顔を赤く染めている。
「夕日に照らされた顔って、見るとなんだか子供のころを思い出す…」とカオリ。「夕ご飯ができたよ、ってお母さんが呼びにくるころ、空き地で缶ケリやってた男の子たちの顔が、そんなふうに赤かった…」
 二人が黙ると、波の音が世界を支配する。
「アキさんと太郎も、海からあがったみたいだな」
「冷蔵庫からビール取ってこようか?」
「いいね」
 
カオリの持ってきたメタリックグリーンの缶ビールは夕日を受けて玉虫色に輝く。
「よく冷えてるよ。このままでいい?」プルトップを引きながらカオリが言う。
「おう、サンキュー。んじゃ、乾杯しよっか」
「何に乾杯?」
「そりゃもちろん…」と有田は目を細めて海を見る。「夕日にでしょ。とりあえず…」
 室内で映話のベルが鳴る。
「あ、お母さんからかな?」とカオリは笑う。
「ご飯の支度ができたわよ、ってか?」有田も笑う。
 カオリは有田の缶に自分の缶を軽くぶつけると、また小走りにバスルームを後にした。

「今日は初日だから、ロブスターを注文しようかと思うんだけど、どう?」PC画面の中でアキが言う。
「いいね、ロブスター。私たちもうビール飲み始めてるよ。アキさんたちも早くこっち来なよ。夕日、沈んじゃうよ」とカオリ。
「うん、ごめん。私これからシャワーするから、今日は日没、間に合わないわ」とアキ。
「いいよ、いいよ…」とカオリ。「明日も、明後日も、そのまた先も、ずうっと夕日は沈むもんね」
「太郎くんと話したんだけど、今夜はビーチバーで、上陸記念パーティーなんてどうかしら? 太郎くん、カウンターに入りたいんだって」
「うん、いいよ」
「決まりね。お酒もたっぷり配達してもらいましょう。じゃあ、後でビーチバーで…」アキがそう言うと映話は切れた。
「お、まだテレビ電話、繋がってたんか? アブネーとこだったな。アキさんにオレのハダカ、見られちまうとこだった…」と髪を拭きつつ、バスルームから出てきた有田は笑う。
「恥ずかしいの?」
「ってーか、あとで殴られると思うんだよ、変なモン見せたら。あの女キツイからな」
「じゃあ変なモン、プラプラさせてないで、早くパンツ穿きなよ。夕飯、ビーチバーでロブスターだってさ」
「薫、オマエ最近ちょっと、アキさんの影響受けてねーか?」
「一緒にいると似てくるんだよ、きっと」
「まあ、オマエらはな、足して二で割って、ちょーどいーんだろーけどよ」
「中心点に近づいてるんだよ、きっと」
「は?」
「なんでもない。早く行こうよ、お腹減っちゃった…」そう言ってカオリは大きく伸びをする。
 太陽は沈み、海は黒く染まった。。


かがり火が夜を照らしている。
 ビーチバーに食料をおろすと、舟は再び隣の島へと帰っていった。
「ええ…。本日は皆様お忙しいところ、ビーチバー開店パーティーにお集まりいただき、ホントに有難うございます…」ペコリと太郎が頭を下げる。「全島民が、今宵このバーに集い…」
「全島民って、オレたち四人だけじゃんか、バーカ!」と有田。
 有田の茶々を無視して、太郎は嬉しそうに挨拶を続ける。「虫除けスプレーなしで快適に過ごせる、波音の調べも美しい、我らが素敵なビーチバー。このビーチバー初代店長を、私、バーテン太郎が務めさせていただきますことに、皆様、異論はございませんでしょうか?」
「異議ありませーん」とカオリ。
「Bar BLUEの二号店ね」とアキ。
「いえいえ。二号店なんかじゃないです…」と太郎。「我らがDIVERS BARの一号店ですよ」
「いいからいいから、早く乾杯しよーぜ。ビールこっちにくれ…」と有田。「さっきのあのグリーンの缶、美味かったぜ」
「何に乾杯する?」とアキ。
「うーん。とりあえず…」と、太郎は少し考えてから言う。「上陸を祝してってことで」
「とりあえず、乾杯!」
「とりあえず、乾杯!」
 四人は缶ビールで乾杯をする。
「とりあえず…。そう、とりあえず、私たちは、ここにいる」と、カオリは誰にも聞こえないような小さな声でそう呟いた。

10
 ビーチバーの宴を終えた深夜、アキは独り、コテージのバスルームにいる。バスルームのドアは大きく開け放たれ、その向こうに海があり、夜空があった。バスルームとコテージ室内の照明は絞られていて、その分星が明るい。夜空に一際目立つ赤い星。アキは浴槽を出ると、その星に向かって静かに歩む。
 太郎は、ビールを片手にバルコニーにいた。太郎は自らの想いに深く沈んだ面持ちで、長いこと黙って黒い海を見ていた。
「夢のようだな…」深い想いをなぞるように彼は呟く。
「夢、かもしれないわよ」
 背後の声に驚いて太郎は振り返る。
 そこにアキの裸身があった。

 バルコニーに並んだデッキチェアの上、アキと太郎は体を伸ばしている。今は二人とも裸だ。
「ねえ…」アキが言う。「あの星、なんだかわかる?」
 赤い星を見上げて太郎は答える。「いえ、わからないです…」
「アレはね、アンタレス、蠍の心臓よ…」アキは言う。「ほら、あの星と周りの星を結ぶと、ね、こういうふうになってるでしょ?」アキは空中に指を躍らせる。「ね、蠍座」
「蠍座って、そうでしたっけ? あんなに高い位置に見えるもんでしたっけ?」
「日本では、そうね、夏の夜地平線ギリギリに見える星座、ね。なのにこの島では、あんなに高く昇るのね…」
「綺麗ですね。あの星」
「[ルビーよりも赤く透き通り、リチウムよりも美しく酔ったよう]に燃える星…」
「え?」
「宮沢賢治の童話よ」
「へえ…」と太郎はもう一度赤い星を見上げて呟く。「綺麗です。…なんだか、アキさんに似てますよ」
 ははは、とアキは顎を上げて笑う。「口説いてるの? 順序が逆だと思うけど、ま、いいか」
「いや、あの、すみません。てゆーか、まさか、今夜こんな、蠍座の下で…」
「ロブスターのせい、かもね…」アキは笑って立ち上がる。「私はもう一度シャワーするわ。太郎くんも一緒にどう?」
 言われて太郎も立ち上がる。「お背中、流しましょうか?」
 太郎の台詞に、アキはまた夜空を仰いで楽しそうに笑う。
 太郎も笑う。

「楽しそうじゃねーか。お隣さん」サンセットルームのバルコニーで、有田も笑った。


カオリの日記[Diary]


 ○月×日 はれ
 なぜ○月×日かというと、今の私たちにとって、日づけはどうでもいいからです。
 昨夜のことをかきます。
 昨夜、私は夜中に目をさましました。このところの日やけで、せなかがチクチク痛かった。シーブリーズをぬってもキキメはなくて。ハリの先でせなかをつつかれているようで、とてもねてなんていられなかった。
 となりでぐっすりとねむっている正巳くんをおこさないように、私はそっとおきて、バスルームに行き、浴そうに水をはりました。水で体をひやせば、少しは不快感からのがれられると思ったのです。
 外の風にあたりたくて、海に面しているドアをあけると、夜空に満月がうかんでいて、とてもきれいでした。そのドアを全開にして、月明かりをバスルームにみちびくと、思いのほか明るくて、私は照明をおとしたまま服をぬぎ、浴そうにつかりました。
 昼間の日光でほてった体には、水の冷たさがとても気持ちよくて、せなかの痛みも少しやわらぐようでした。私は水につかりながら月をながめ、広末のことを考えました。
 この島にきてからというもの、だれも広末のことを積極的に話しません。
 広末晴樹をどう思っているのだろう? みんなは。
 アキさんはともかく、男の子二人はシュノーケリングやビーチバレーなんかに夢中で、広末のことなんかどうでもいいように見える。
 昨日だって日中三人はシュノーケリングとかしていて、水中カメラで魚を撮影したり、サンゴショウにまよいこんだ小さなエイをおいかけたり、そんなことばかりしていました。私は砂浜でヤドカリをあつめていた。だってここのヤドカリは、それはそれはかわいいのです! 白くておしゃれな、まるで小さなおかしみたいな貝がらをせおっていて、体もすきとおるみたいにセンサイで、つかまえるとしばらく用心ぶかく貝がらの中にひっこんでいるけど、やがて意を決して貝がらから体をだすと、ショッカクみたいな目であたりをキョロキョロとうかがうのです。かわいい! 親指の先くらいのがたぶんおとなで、小指の先の半分くらいのがたぶん赤ちゃんです。赤ちゃんにはちゃんと赤ちゃん用の貝があるのです。大人のとおそろいで、白くておしゃれな貝です。私はヤシのこかげにヤドカリを二十ぴきくらい集めた。最初はみんな貝にひっこんでいて、白いおしゃれな貝がら住宅街みたいなんだけど、ちょっとすると一ぴきがニョコッと貝から半分はいずりでて、そうするとほかのヤドカリたちも、おくれちゃ大変! とあわててはいずり出て、わっせわっせと集団引越し状態になるのです。おもしろかった。
 こうして日記に書きだしてみると、私もぜんぜんなまけているよなあ。
 そのあと、海から正巳くんがもどってきて、オマエはひとり遊びがすきだなあ、なんて私に言うから、私は、海にはなにがいたの? って正巳くんに言った(広末はみつかったの? ってそういう意味)。正巳くんは青い魚がいたと言った。顔が真っ黒で、体がとってもきれなブルーで、背びれは黄色いんだって。体のブルーが海の中でもとてもあざやかで、すごくきれいだったって。いいなあ。私も今度もぐって、そしたら見てみよう。

 なんて、ダラダラ書いてしまった。
 昨夜はすごいことがあったから、そのことを書こうとしたのに。
 今ココアをいれました。ココアを飲みながら、いよいよここから本題にはいりますよ。

 とにかく私は、浴そうにはった水の中で、月を見ながら考えていたのです。
 みんな、広末晴樹のこと、どう思っているのかなあって。みんなが広末のことを口にしないのはどうしてなのかなあ、って。
 そうしたら、バスルームに続く海からの階段を、だれかがあがってくるような音がして、私が顔をあげると、戸口になんと広末が立っていたんだ!
 月の光をバックに立ってる人影は、顔もよく見えなかったけど、それが広末なのは、私、すぐにわかった。
「やあやあ。ひさしぶり」って、ささやくような小さな声で広末は言った。
 私は口がきけなかった。
「ようこそ、サニーアイランドへ。まってたよ」とかそんなふうに、また広末が言った。
 私は広末にたずねたいことがいっぱいいっぱいあったのに、なんであんなくだらない話をしちゃったんだろう?

 あのときの会話を今、思い出せるだけ正確に再現してみよう。
「あのね」と、私は広末に言った。「ヤドカリのことなんだけど…」って私が言いかけると、なつかしいあの声で広末は笑ったから、私は安心して話を続けたんだ。
「私ね、子供のころ、ヤドカリをかってたんだよ」
「うん」って、広末は言ったと思う。
「私、悪いことしちゃったんだよ」って私は白状した。「夜店で買ってもらったヤドカリは、この島にいるヤドカリみたいにはおしゃれじゃなくて、普通の、あまりきれいじゃない貝に入っていたんだけど、私はそれをけっこう大事にかっててね…」
 そこで、広末はまたゆかいそうに笑ったと思う。
「でも、ある日水そうを見たら、でちゃってたの」って、私は言った。
 私がかってたあのヤドカリは、貝が小さくなったのか、貝の外にでちゃってたのだ。
 私はすごくびっくりした。そんなのってないよ、って思った。ショックだった。で、私はひどいことをした。見ないふりをしちゃったんだ。なんだかこわくて。貝から出たヤドカリのすがたを見るのがこわくて。たぶんしばらくは砂の中にもぐったりとか、そんなふうにしてたんじゃないかと思う。でも、はっきりしない。そのあとの記憶も実はない。死んじゃったのか、捨てちゃったのか、とにかくそのあとあのヤドカリがどうなったのか、はっきりしない。今までも時々思いだしては、そのたび罪悪感にかられてきたんだけど。
 そのことを広末に白状したんだ(ほんとうにつまらない話をしたもんだ)。

 広末はだまって聞いていた。波の音が聞こえた。私はまた広末が消えちゃうような気がして、だからあわてて言った。「ねえ。なにか話して」って、言ったと思う。
 広末はそれからしばらく、広末語を話した。
 どんな話だったかな? 
 あのあと正巳くんにも話したことだけど、思いだしながら、なるべく正確にここに書いてみるよ(広末になったつもりで)。

 結局、この世界は自分の意識の鏡なんだ。自分の意識が敵意にあふれていれば、世界は敵意に満ちている。自分の意識が愛に満ちていれば、まわりの人や環境も愛に満ちているだろう。自分の出会う[全ての人]も、自分の体験する[全ての出来事]も、自分という[主体が喚起した現象]なんだ。自分の意識が、自分の意識に合わせて、この世界を作りだしているんだ。良い意識を持てば良い世界が現れ、悪い意識を持てば悪い世界が現れる。

 あいかわらず広末の言葉は私にはとても難しかったけど、あとでみんなにちゃんと報告しなくちゃと思って、一生懸命私は彼の言葉を心にメモした。おかげで頭がグルグルしはじめて、はき気までしてきたくらい。
 私は言った。「心の持ち方しだいってことだね」って。
広末はでも、それに対してこんなことを言った。

 自分の意識次第で世界は変わる、といっても、その自分の意識を自分の意志でコントロールできるかどうかは、また別の問題だ。

「自分の意識が自分の自由にならないんだったら、世界も自分の自由にならないし、そしたら結局、自分も世界も自由にならないじゃん」って、私は言った。

 つまり、人間に自由意志はないって結論になってしまうね。果たしてそうだろうか?

「どうなの?」って私が言うと、広末はやさしい声でこたえた。そのセリフは今でもよくおぼえてる。
 彼のセリフを、ここにそのまま書きます。
「キーワードは[願い]だ。願うことと信じることはよく似ている。願うことだよ、今、カオリちゃんがオイラを呼び出したようにね」彼はそう言った。一言一句そのままに、たしかにそう言った。
 アキさんに言って【広末語録】にくわえてもらわなきゃ。
「ねえ、こっちにきて」って、私は影に言った。
 広末は月を背負ったシルエットのまま浴そうに近づいてくる。
 私はドキドキして目をとじた。
 広末にむかって手をのばす。
 温かな手が私の手をつかんだ。

「手が冷たいぞ」って、正巳くんが言った。「大丈夫かよ、オマエ」って声に目をあけると、正巳くんが私の手をにぎっていたんだ。
 私はがっかりした。
 何度でも書いてやる。
 私は、ほんとうに、がっかりした!
 この日記、正巳くんには見せられないな、ぜったい。
 でも、がっかりだよー。
「オマエ、水ブロで寝てバカか? カゼひくだろ」って乱暴に言ったんだよ、正巳くん。
 がっかりだ、ほんと。
 私は広末がいたことを正巳くんに話した。
 夢だよ、の一言でかたづけられそうになった。だから私は広末との会話を、正巳くんにすべて話した。で、こうやって日記にも書けるくらい、はっきり会話を記憶してるってわけさ。
 私はタオルにくるまれて部屋にもどり、ベッドでブランデーを飲んだ。せなかのチクチクはもう気にならなかった。
 で、正巳くんは私の話を聞いて、少しバカにしたように、つぎのように言いました。

 [世界]が[自分の意識]をうつす鏡だ…ってのは、そりゃ反対だろ。[世界]が[自分の意識]をうつすんじゃなくて、[自分の意識]が[世界でおこるできごと]に影響されるんだろ。フツーに考えりゃそうだろ。いいことが起こりゃあ、いい気分だし、バッドなことが起こったら、気もちもダウンする。あたりまえのことだよ。

 って、そんなふうに正巳くんは言った。
 それからたしか、「笑う門には福来たり…ってのは、まあ身のまわりほんの数メートルにおよぼす、善循環のための心がけを推しょうしてるコトワザなわけでさ。オレたちががんばってよい意識を持ったからって、オレたちをとりまく状況がそれによってドラスティックに変わるなんてことはねーよ」とも、言ったな。
 それから「世界を変えるのは[行動]であって、意識だけじゃあ、なあんにも変わらねーよ」とも、言った。

 それからミトコンドリアだって言った。
 人間は世界から見れば、ミトコンドリアみたいなもんだって。外界のシゲキに反応して喜んだり怒ったりして、それによってなにかをすることで、外界になんらかのはたらきかけをする。自分の自発的意志なんてほとんどなくて、外界、つまり世界が先に存在していて、世界で起こってることに自分の意識は反応してるだけだって。つっつかれて貝にもぐりこむ、ヤドカリみたいなもんだって。
 そうなの?
 よくわかんない。
 それから、会社の話になった。会社から見れば、オマエはミトコンドリアだって。外界からのシゲキをうけて反応してるんだって。室長にこの計算をしてくれって言われて計算して、このデータを打ちこめって言われて打ちこんで、明日までに書類を作れって言われてイヤだなーって思いつつ、ちょっと手をぬきながらも書類を作って。ほめられて喜んで、しかられて落ちこんで。外界のシゲキに活性化したり不活性化したり(ヤドカリを見てかわいいと思ってあつめたり、ウツボを見てこわいなと思って動けなくなったり)。それにくらべると、室長はまあ胃袋くらいの機能はしてるって。食べものがはこばれてくると、それに反応して細胞を活性化させて胃液を出すって。それが消化吸収というかたちで組織として役だっているって。(そのたとえでいえば、組織に不適合で反乱分子となりかねない連中は、ガン細胞としてリストラされちゃうのかな? やっぱり)。そんでもって社長は脳味噌だって。会社としての意識をもつってことは、比ゆ的にいえばひとりの人間として生きて歩きまわっているようなもんだって。よその会社との取引は、人間どうしの他者とのかかわりあいのようなもんだって。でも人類全体から見れば、そういう社長もやっぱりミトコンドリアなんだってさ。
 よくわかんないよね。

 たぶんミトコンドリアもヤドカリも人間も、外からのシゲキに反応してリアクションをしてるだけだってこと。システムの一部だってこと。そんなちっぽけな人間が、自分の意識の持ち方一つで、世界を変えることなんてできないんだってこと。それを正巳くんは言いたかったんだよね。あるいは、意識のもち方は自分の身のタケにあった、ちっぽけな周囲に影響をあたえるし、同時にちっぽけなできごとによって意識は影響される、と。でも、それだけのことだ、と。

 広末の言ったことは、それとはぜんぜん別のことだと思う!
 正巳くんの言ってることは正しいと思うけど、広末の言ってたことはでも、そんなことじゃないんだ。私のホンヤクがヘタだからうまくつたえられないんだ。
 どういうふうに言えばよかったのかな?
 言葉ではうまく言えないな。
 今、ここで、ちょっと整理をしてみましょう。

 自分の意識は世界の鏡(正巳論)。
 世界は自分の意識の鏡(広末論)。
 逆もまた真なり(私のイメージ)。

 意識にはレベルがある。
 システム開発室室長の意識が見る世界と、大手百貨店代表取締役社長の見る世界はちがう(ミトコンドリアが認識する世界とヤドカリが認識する世界がちがうように)。
 じゃあ、世界ってなに?

 待てよ。じゃあ、こうも言えるよね。

 人間が人間の意識で認識する世界と、神が神の意識で認識する世界はちがう。

 そんなところかな、整理すると。でも、わからない。整理した中にないよ、広末の言ってたことは。

 あ、わかった。こういうこと?

 私たちが、私たちの意識で認識する世界と、広末が広末の意識で認識する世界はちがう。

 だから広末の言ってることが、正巳くんには理解できないんじゃないかな?

 つかれた。なんだか気もち悪い。またココア、いれてきました。
 私はもともと頭、悪いんだからさあ。こういうむずかしいことは正巳くんとかに考えてもらいたいよ。私なんてどうせミトコンドリアなんだから!
 でもがんばってつづきを書いちゃいますよ(でも半分は、この日記、広末が書いてくれてると思うんだ)。

 男の子ってさ、論理的にものごとを考えるじゃない?
 私なんてさ、ぜんぜん、論理的になんて考えなかったよ。っていうか、なにも考えなかったな、広末と旅するまでは。
 女の子ってもともとは、感じるんだよね。正巳くん的に言えば、外界のシゲキに対して気持ちいいと感じたり気持ち悪いと感じたりする。男の子よりもずっとはっきり感じる。でも女の子も、アキさんとか見てると思うけど、ちゃんと論理的に考える訓練をすれば、考えられるようになるんだよね。
 私だって広末と会ってから、ものすごくものごとを考えるクセ、ついちゃったしね。でも私、もともとバカだからかもしれないけど、論理的に考えてるフリをしてるだけで、本当は感情的に考えてるんだ(そんなコトバあるのかな?)と思うの。
 あれれ、迷子になっちゃった。
 ええと、つまりね、私は感じるの。広末晴樹の言ってることを。感じるように考えるの。あるいは、考えるように感じるの。
 考えるという機能と、感じるという機能をいっしょにつかうと、広末と話せるように思うんだ。

 あ。今また、感じた。
 こういうこと?

 世界は自分の意識をうつす鏡だ。そして、自分の意識というものは、なにかを[媒介]にして、[世界の外]とつながっている。

 どういう意味かな?
 わからないのにコトバがうかぶんだ。フシギ。北極圏に旅したときから、わからないのに考えてる。気持ちいいから。
[なにかを媒介にして]ってあたりに、ヒミツがひそんでいそうな、そんな気がする。

 ここまで書いたところで今、正巳くんがビーチから部屋にもどってきました。
「なに、ひきこもってんだよ。朝からずっとだぞ」だって。

 ドアのむこうには青い空があって、まぶしい。
 私も、今日はおよごう。
 そうだ。
 正巳くんの言ってた青い魚をさがしてみよう。

 今日の日記はここまで。
 長いなー。
 つかれた。つかれた。
 なんにも考えずに、およいできまーす。  


ダイバーズ アゲイン[Divers again]


 その魚は、鮮やかな青色をしていた。顔は黒い。そして背鰭と胸鰭が黄色い。目玉はコンパスで描いたような、同心円のまん丸だ。
 シュノーケリングで先を行くアキのフィンに肩を蹴られ、有田はアキの体の下に潜り込む。アキの腹を下から突付いた有田の頭を、アキは軽く突付き返し前方を指差す。そこに泳いでいたのが青い魚の群れだった。その絵画的な美しさにアキは動きを止める。まん丸な目が時折、有田とアキをジロリと見遣る。その青い群れが一つ一つの命であることを、アキは改めて思い、大変に驚いていたのかもしれない。
 海底の岩陰に、ウツボが顔を出している。有田はウツボの近くまで潜り、そのあまり獰猛には見えない顔つきに向かって戦いの意思を匂わせるが、ウツボは有田を相手にしない。
 泳ぎの達者な太郎は独り、ドロップオフに添って泳いでいた。太郎はウミガメと遭遇する。ウミガメは悠然と泳いでいた。太郎が近づいても、ウミガメは慌てることもなく穏やかに遊泳している。百歳を超えて生きているような、大変な思慮深さをたたえたそのドロップ型の目が、太郎を静かに見つめる。太郎もその目を見つめ返す。やがて太郎とのランデブーに飽きたのか、ウミガメはボートの向きを変えるオールのように、左右の腕を逆方向に掻き体を反転させた。体の向きを変えながらウミガメは、その深い眼差しを一瞬また太郎に向けた。言葉にならない何事かを伝えたかのようだった。ウミガメはそしてさらに深く潜行した。

 有田が島にもどると、カオリが砂浜でヤドカリを集めていた。
「オマエ、何やってんの?」
「あ。これ、ヤドカリの町。見てよ。このちっちゃな貝にも、赤ちゃんのヤドカリが住んでいるんだよ…」カオリは木陰に集めたヤドカリを大事そうに見つめながら答えた。
 きつい日差しが砂浜を白く照らしていた。木陰のヤドカリも白い。繊細な形状の貝殻が、人工的な美しさを思わせる。
「ホントに、新興住宅街、ってカンジだな。どの家も同じデザインだしな。一軒くらい、赤い家とかあってもいいと思うんだが…」と有田。
「条例に違反するからダメなんだよ」
「なんでそんな条例ができたんだ?」
「だって白いヤドカリの中に、一匹だけ赤いヤドカリがいたら、いじめられるかもしれないよ…」
「戦って、白組に打ち勝って、赤組の町を興せばいい」
「そういう争いが起きないように、条例があるんだよ」
「争いは起きるんだよ、いくら条例で定めたって…。自然界そのものが、争いを起こすようにできてんだからさ。さっきオレ、ウツボ見ててさ、蒲焼にしたら旨そうだなって、そう思ったわけ。 昔、水族館でマグロの回遊とか見ても、全然食欲なんて感じなかったのにな。自然界で生きてる野性の命に出会うと、それに対してはモロに純粋なムキダシの食欲を感じる、ってのは発見だったな…。争いは悪いことじゃないよ。赤勝て! 白勝て!」
「…」
 カオリのがっかりしたような顔を見て、有田は口調を変えて慰める。「けど、よく見るとなかなか綺麗なもんだな、この貝殻ってヤツも…」
「そうだよ。正巳くんは、規格ものの単一デザインだなんてバカにしたけどさ、大工さんだってそりゃ大変だよ。これだけ同じ住宅を、ちゃんと作るんだから…。ウチは手作業だからね。機械でぴゃーっと、大量生産してるわけじゃあないんだよ。一軒一軒心をこめて手作業で作ってんだから。だから、綺麗なんだよ」
「ってゆーか、コレ、天然もんじゃん。自然にできたもんだろう?」
「お客さーん。自然に…ってのは、オートマティックに…って意味とちゃいまっせ。寝てる間に小人さんがホイホイ作ってくれた、みたいな言い方されたらかなわんなあ」
「薫、オマエ上手いな、大阪弁…」
「この貝殻はね、正巳くんが綺麗だなって思ったその思いが神様に届いてね、それで神様が一つ一つ丹念にお作りになった…、そーゆー貴重なものなのです」
「ちょっと待てよ。オレがこの貝殻を綺麗だなって思ったのは、この貝殻が既にココにあったからだろう? オレの思いが神様に通じて…ってのは、順番、逆じゃねーのか?」
「いいのです。いいのです。神様に時間は関係ありませんから」とカオリは合掌して目を瞑る。
 有田は、青空を仰ぐ。「薫、オマエあんまり独りで深く潜るなよ…」
「潜ってるのは、正巳くんたちじゃん?」
「独りで潜るのはキケンだからさ、ちゃんとバディ組んで潜らなきゃ…。ダイビングのライセンスとるとき、習っただろ?」
「ねえ。海には何がいたの?」
「ああ…。青い魚の群れに出会ったな。顔が黒くて背鰭が黄色…だったな。海の中でも、その青い体がすげー鮮やかでさ、綺麗だったよ…」
「へえ、いいね。青い魚かあ」
「今度一緒に潜ってみようぜ」
「そうだね」
「インナーダイバーズはみんなで潜るんだ。ちゃんとバディを組んでさ。海の中にも、それから心の中にも、さ…」
「そう?」
「ちゃんと決まってるんだよ」
「条例で?」
「そう。条例で」


「薫がさ、会ったらしいんだよ。昨夜アイツにさ…」波打ち際に座った有田が、おそらくは隣のアキに言う。
「アイツって…」アキの向かいに座った太郎がアキに代わって反応する。「アイツっすか?」
 有田は沖を眺めながら黙って頷く。
 アキも沖を見つめたまま黙っている。
「どこで、ですか?」と太郎。
「ココで、だよ。もちろん。こんな狭い島なんだからさ…」と有田。
「ですよね…。で、今どこにいるんですか?  アイツは?」と太郎。
 有田は何も答えない。
 アキも黙っている。
「…ですよね。こんな狭い島ですもんね」太郎が自分の問いに自分で答える。
「私も…」アキが言う。「見かけた気がするの。何度か、彼を」
「どこで?」と太郎。
「もちろん、ここで、よ。こんな狭い島なんだから」とアキ。
「…ですよね」
 三人はまた沈黙する。
 近くにいる。広末晴樹は近くに存在している。そんな沈黙。
「ねえ、この島に来てから、私たちが失いつつあるものが二つあるわ…」塗れた髪を乱暴に掻き上げながらアキが言う。「一つは[時間]…」
 波打ち際から数メートルのところまでやってくる魚の群れを見ながら有田がアキに問い返す。「もう一つは?」 
 群れをなした魚は細身の魚だ。波打ち際からだと、透明に近い印象を受ける。鋭く飛ぶ幾本もの矢のようにも見える。  
「もう一つは…」アキは別の魚の群れに目を遣りながら、答える。「[思考]かな」
 別の群れは尻尾が大きくVの字型に割れた魚たち。水の色に溶け込んで、これも色がよくわからない。
「確かに…、そうですね。南の島特有の空気が、頭を空っぽにしてゆくような…」と太郎。
「オマエ、日本にいた時から、アタマ、空っぽだっただろー」と有田。
「そーゆー正巳ちゃんのツッコミにも、今は頭が反応しないんですよねー。なんだか風の音や、波の音みたいに聞こえて…。コトバの意味がよくわからない…」
 三人は再び沈黙する。風が、椰子の葉を揺らす音。波が、浜辺に打ち寄せる音。

「なあ、太郎…」ゴーグルを装着しながら有田が言う。「あの魚、シッポがVサインしてるアレ、食えそーだと思わねーか?」有田はそう言いながら立ち上がり、返事も待たずに海に向かって歩み出す。
「今日の夕飯、何にしよっか?」アキが太郎に言う。
「そうですね…。あのV字テールの魚をよーく焼いて、食べてみましょうか?」
「マンゴープリン…」
「え?」
「デザートは、マンゴープリンがいいわ。マンゴーシャーベットでもいいけど…」アキはそう言うと立ち上がり、太郎を残してコテージに向かって歩き出す。
 太郎は波打ち際に座ったまま沖を眺める。
 太陽がサンセットルーム側に傾いている。
やがて日は海に沈むが、明日になればまた日は海から昇るだろう。
「意味なんて、たぶん、ないんだ…」太郎はそう呟いて静かに立ち上がった。


【ヒント】[意識]と[世界]との相互作用に留まるのではなく、[意識]の下方を探ってみればいい。

【クエスチョン】[意識]とは何か?

サンセットルームのテーブルに置かれたPC。その画面に【ヒント】と【クエスチョン】の二つが並んでいる。
「オマエが、コレ、書いたのか?」ビーチから部屋にもどりその文書を見つけた有田は、カオリにそう訊ねる。
「違う。と、思う。これは…」とカオリ。「これはきっと、広末が書いたんだよ…」言いながらカオリは熱心にその文書を読む。
 有田はその文書に【カオリ語録】と名前を付け保存する。
「なんでカオリ語録なの?」とカオリが有田に訊く。
「カオリ…ってのはさあ、薫、オマエが広末晴樹といるときに生まれた名前だろ?」
「そうだよ。でも、この文書はきっと広末が書いたんだと思うよ。だって…」
「広末語録も、カオリ語録も、同じだよ…」と、有田は取り合わない。「あー、体が塩漬けだ。風呂に入ろう。薫、オマエも入るか? ビール飲みながらさ…」言いながら有田は海水パンツを脱ぎ捨てて、バスルームへと向かう。
 カオリはデスクトップに新設された【カオリ語録】を開き、再びそれを読み始める。
 
 やがてカオリはキーボードを打つ。
【ヒント】と【クエスチョン】の文書の下に新たに、おそらくは思いついたままをメモする。
 意識と世界は、神の右手と左手。
 意識と世界は、対立し緊張している。
 主観と客観は、対立し緊張している。
 例えば人が、自らの右足と左足を交互に前に出すことで歩くことができるように、二つの相容れないモノは、その二つの相互作用によって初めてその仕事を為す。
「なんちゃってね…」書き終えたメモを上書き保存してカオリは一人呟く。
 そして大きく伸びをする。
 バスルームから有田の鼻歌とシャワーの音。
「私と正巳くんは右足と左足なのだ。対立しなければ前に進むことができないのだ…」眉間にわざと皺を寄せ、難しい顔を作りながらカオリはまた呟く。そして、「ぬわ?んちゃって♪」カオリは服を脱ぎ、冷蔵庫からベックスビールを二本取り出しバスルームへ急ぐ。


その夜、四人はサンセットルームに集まった。V字テールの魚は捕まらず夕食は隣の島からタイ料理を取り寄せた。タイ野菜の炒め物が火のように辛かった。タイ風薩摩揚げと春雨入り海老のココナッツ蒸しで辛さをなだめた。シンハービールの瓶が果てしなく空いた。が、デザートに食べた生マンゴーシャーベットが決定的に辛さを鎮火してしまうと、それもなんだか淋しくて、四人はさらにトムヤムクンスープを追加し、シンハービールによる消火作業を再開した。陽気な夜だ。

「トムヤククンスープは、キャンプの味…」とアキ。
「へえ、アキさん、アウトドアな人だったんだ」と有田。
「車に道具、たくさん積んでね、オートキャンプってヤツ。お手軽にキャンプ地に行って、管理された焚き火を燃やして、アルミホイルにジャガイモやサーモンなんか包んで焚き火に投げ込んで…。鉄板で肉とか魚なんかも大量に焼いちゃって…。で、いつも食べきれずに余るわけ。でも、酔っ払ってそのまま寝ちゃうわけ。翌朝は太陽に厳しく起こされて、当然みんな不機嫌で、でもお腹は減っていて、で、二日酔いの投げやりな気分にまかせて、前の夜の残り物とか全部ぶち込んでとにかく鍋にするんだけど…、そんなときにはだいたい買っておいたトムヤククンの素が活躍したのよ。不思議と毎回美味しかったなあ、朝のトムヤムクンスープ…」とアキ。
「オレは夜明けのラッサムスープだな…」と有田。「デザイン終わって小腹が減って…ってとき、近くに二十四時間オープンのインド料理屋があってさ、そこで飲むラッサムスープの辛さは、まさにアレ、夜明けのブルースだったね。癒された…」
「Bar BLUEのメニューにも載せればよかったなあ、辛目のスープ…」と太郎。
「おーし、おーし!」と有田が声を張り上げる。「じゃ、ダイバーズバーでやってみるべ! この鍋持って、今から外のバーに行こう。あそこに、も少し強い酒の備蓄があったよな、確か…」
「テキーラ、ありますよ」と太郎。
「テキーラ、いいね。ラテンに燃え上がろうぜ今夜は、店長くん」有田はそう言って太郎の肩を叩く。

 サンセットルームには、アキとカオリが残された。
「暑い国の人って、なんで好んで辛いモノ、食べるのかなあ。ホットな体にホットな食べ物入れちゃって、こんなに汗、かいちゃって…」カオリは玉のように浮かんだ額の汗を手の甲で拭いながらアキにそう声を掛ける。「シャワー浴びてこようかな。アキさんは? シャワー使う?」
「そうねえ…。お湯張って、一緒に入りましょうか?」とアキ。
「えー、私、少し恥ずかしい、かな…。アキさんはさ、プロポーションすごくいいけど、私なんて下腹タプタプだもん、ほら、ここもムササビみたい…」カオリはそう言いながら自分の腕をつまんで笑う。
「毎日毎日水着で泳いで、私たちお互いみんな裸で暮らしてるようなもんじゃない? 何を今さら…」とアキは言って笑う。「私は、カオリちゃんが色白でグラマーで羨ましいと思ったな、出会ったころ。私なんて生まれつき年中日焼けしてるような、こんな肌の色で…」
「私も今は真っ黒になったよ」
「はは、そうね。じゃあお湯張ってくるわね」そう言ってアキは立ち上がる。
 カオリは食器を片づける。

「痛々しいまでにビビッドね、水着のアトが…」浴槽に浸かりながら、シャワーを浴びるカオリを見てアキが言う。「いっそのこと明日からこの島、ヌーディストビーチにしちゃいましょうか?」
「アキさん、大胆!」カオリは言ってアキにシャワーのノズルを向ける。
「冗談よ、太郎くんが欲情しちゃうわよ、あなたが裸で泳いだら…。でもそれはそうと、なんて言えばいいのかな…」アキは真顔になって言葉を続ける。「なんていうか…、私たちはこの島に来てから、どんどん近くなってる…」
「そりゃそうだよ。毎日毎日、四人だけでこの狭い島で暮らしてるんだし、仲良くなって当たり前じゃん…」カオリはそう言いながら、海に面したドアを開け放つ。ビーチバーで笑いあう、有田と太郎の声が聞こえた。
「そうね…」とアキは答える。「でも、私が言いたいのは単に仲良くなるとか、親しくなるとか、そういうことじゃないの。あるいはその延長線上にある何か、なのかもしれないけれど…。つまり、こう…、仕切りがなくなるというか、混じりあうというか…」
「溶け合う」カオリはそう言いながら浴槽に近づく。
「溶け合う…。そうかもしない。あるいは…、自分がなくなる。自分と他者とを区別しているラインがぼやける…。そんな感じ…」アキはそう言いながら浴槽に、カオリのためのスペースを作る。「少し怖いのよ。自分が消えてしまいそうで…」
「怖く、ないよ…」カオリはそう言いながらアキの背後にまわり、浴槽の中で後ろから優しくアキを抱く。「自分が消えてしまうのは怖いことじゃないし、悲しいことでもないよ。それは[帰る]ことだよ。自分がまだ、自分じゃなかったころに…」カオリの声がバスルームの中で不思議な響き方をする。
「そう?」アキは自分の肩にまわされたカオリの腕に、そっと手を重ねて言う。「そうかもしれないわね」
 海で何か、大きな魚が跳ねたような、そんな音がした。

「アキさんの肩って、うん、たくましいね…」湯船の中でカオリが、アキの肩をマッサージしながら言う。
「それって、褒めてるの?」笑ってアキが訊く。
「羨ましいよ、私なんて筋肉なくてプヨプヨだから…。アキさんみたいに速く泳げないし」
「あら? カオリちゃんは水泳上手じゃない?  この前だって独りで、随分沖まで泳いで行ったじゃない?」
「うん、水泳は昔から好きだった。プヨプヨな私でも、急がなければどこまでだって泳いでいけそう…」
「太郎くんも達者だしね。有田氏はあれはもう野生の水棲生物、みたいなもんね。彼らとあなたったら、ダイビングの講習会でも群を抜いて上達が早かったじゃない? インストラクターが、あなたたちは潜るために生まれてきたような人たちだ、って言ったの覚えてる?」
「うん。アキさんのダイビング歴に早く追いつかなきゃって私たち頑張ったんだよ…」カオリはアキと向かい合うように体の位置を変える。「アキさんはいつごろからダイビングしてたの?」
 海からの心地よい風がバスルームに吹き込む。二人が黙ると波の音が聞こえた。
「片足のね、ダイバーに出会ったの…」アキが話し始める。「五年くらい前かな? 取材で西表島に行ったときにね…」
「イリオモテヤマネコの取材?」カオリがそう訊くと、アキは笑って答える。「西表島って聞くとみんな言うのね、イリオモテヤマネコ、って。でもそのときの取材ターゲットは、マングローブ…」
「マングローブ?」
「淡水と海水の、境目に生きる植物よ」
「境目に生きる…。面白いね」
「そうね…」アキは湯船を出て、火照った体を冷やすように、浴槽の縁に腰をおろして話を続ける。「ともかくまあそういう目的の取材で西表島に行ったわけ。一週間の日程だったんだけど、そのときはいろんなことがトントン拍子に進んでね。天気にも恵まれたから、最初の二日で仕事は全て終了しちゃったの…」
「へえ。じゃあ…」カオリもそう言いながら湯船を出て、浴槽の縁に腰掛ける。二人は海を眺めるような格好で並んだ。
「そう、あとは自由時間。同行してたカメラマンが潜りたがってね。私はそれまで遊びでちょろちょろ潜ったことがある程度だったんだけど、西表島のダイビングは絶景だよって聞いて、で、ボートダイブすることにしたの。今のカオリちゃんより、全然へたっぴだったころのことよ」
「今でも私はへたっぴだよ」
「マスターダイバーが何言ってんの…」とアキは笑う。「今のあなたに潜れない海なんて、まずないわよ」
「アキさんの特訓のお陰だよ…」カオリは思い出すような表情で呟く。モルジブにやってくるまでのほぼ毎週末、カオリはアキや有田とともにあらゆる海に潜ってきた。朝の海。夜の海。沈船や横穴探検。そのうち潜らずに過ごすことができなくなったようだ。会社の同僚に岡野カエルちゃんとあだ名されるようになった。自分の掌を見て、水掻きがないことをおそらく不思議に思うようになった。水中にいると安らかだったのかもしれない。海からあがるとおそらくは陸上の重力を煩わしく感じた。
「そのボートでね、彼に出会ったの…」アキが言う。
「誰?」と夢から覚めたようにカオリ。
「片足のダイバー…」開け放ったドアの向こうに見え始めた満月を見ながら、アキが囁くように言う。「歩けない。でも潜れる。潜水の名手。そんな人だった…」アキはその男を思い出すように目を閉じる。「彼を仲間は、ハルと呼んでいたわ。小柄で穏やかな、ハンサムと呼んでもいいような、そんな外見をしてた。海を見てる横顔がとても印象的だった。物静かに、いつも何かを考えているような、そんな表情をしてた。無口な瞑想家…、ってそれが第一印象だったかな…」
「もしかして恋のお話?」とカオリ。
「はは…」アキはアゴをあげて笑う。「私がカオリちゃんぐらいの歳、だったかしらね…」
 カオリはニコニコしながら、アキの話の続きを待つ。
「なんていうのかな、彼、世界が欠落してる感じ…。この世界に生きていない感じ。片足であることに違和感がないの。片足であるがままに完結してるって感じ。彼は穏やかに笑いながら言ったわ。水平に移動できないから、垂直に移動するんだって」
 カオリはアキに近づき二人の肩が触れる。
「東京にもどってから私、マングローブの記事を入稿して、それからまた別の企画をプラン会議に提出したの。彼の記事を書きたいと思ったの。企画が通って、彼の友達に連絡したわ。でもね…」アキは肘を膝にあて頬杖をつき目を開く。「彼はその少し前パラオで潜って、そのまま帰らなかったって…。それからよ、私が本格的にダイビングを始めたのは…」
 カオリは黙ってアキの肩を抱く。
 波の音が聞こえる。
 そのとき、アキは見た。
 開け放たれたドアの向こう、海からの階段を上りきったテラスで、広末晴樹が笑っていた。
 アキはごくごく自然に笑い返す。そして横を向き、カオリと目が合う。
 カオリも笑って頷いた。
 二人は並んで、黙ってしばらく、広末の笑顔と向かい合っていた。


 ある朝、太陽は昇り、その太陽の光でアキは目覚める。
 
 その隣に太郎はいない。太陽の光が差し込む海沿いの窓の向こう、サンライズバルコニーのデッキチェアに太郎はいる。太郎はそこで、日の出の一部始終を眺めていた。耳にはヘッドフォン。聞いていたのはバッハのカノン。
 
 アキはベッドを出て、太郎には声を掛けず、シャワールームへと向かう。まだ完全には目覚めきっていないようなけだるい仕草で、アキは浴槽に湯を張る。 
 バスルームの外に海が輝いている。今日も快晴。
 浴槽に身を沈めると、アキは独り言を呟く。「肩越しに仰ぎ見た夏の日差し…。慌ただしい編集部。机の上にポジフィルムの束。それから…」
 アキは沈黙する。
 波の音。海からの風。南の島特有の朝。
「だめだ、何も考えられない…」アキはぼんやりと湯に浸かり、海から吹き込む朝の風に自分の全感覚を委ねるかのように手足を伸ばす。

 やがて太郎が、バスルームへとやってくる。太郎はアキにピースサインを送る。アキも浴槽からピースサインを返す。太郎は歯を磨きながら言う。今日もいい天気。アキは答える。そうね、今日もいい天気。

 サンセットルームのベッドの上、カオリは本を読んでいた。クジラについての文庫本。目で活字は追うものの、意味が上手く頭に入ってこない。豊富な挿絵を眺めつつ、カオリはゆっくりとページをめくる。

 有田はビーチにいた。日に焼けた肩が、風と会話するかのように動き、ウィンドカイトを操る。その日の風は弱く、やがて有田はカイトをやめ、海に入る。しばらく泳ぐと有田は海面に浮かび、青空を眺めそして呟く。「腹、減ったかな…」
 有田はずるずるとサンダルを引きずるようにしてコテージにもどる。
 
 昼、太陽は高く昇り、四人はビーチで寿司パーティーを開く。隣の島には和食があり、寿司もあった。ドーニーと呼ばれる小舟が寿司桶を乗せて海からやってくる様子を、シュールで面白いと言ってアキが笑った。見慣れない寿司ネタがあり四人は笑った。 
 
 やがて太陽は一番高い角度まで昇りつめた。太陽はインド洋を照らし、モルジブ諸島を照らし、サニーアイランドを照らした。
 四人は木陰に移動し、携帯用のストーブと小型のケトルで湯を沸かしコーヒーを飲んだ。
 コーヒーを飲みながらカオリが、誰にともなく言う。「時間の感覚が、なんだかおかしいかも…。朝がきたあと昼がくる、みたいなのがよくわかんない…」
 その言葉に対して、誰も何も応えない。
 太郎は熱いコーヒーをその舌で味わい、コーヒーを見つめ、そして呟く。「僕は誰だろう?」
 誰も応えない。 
「このコーヒーと、僕との違いはなんだろう?  僕は、コーヒーなのかもしれない…」
「アホか…」有田が乾いた笑いで短く応じる。
 カオリは太陽を仰ぎ見る。心の片隅に言葉を探すかのように半ば口を開くが何も発せず、諦めたようにその口を閉ざす。すると短く言葉がこぼれた。「ああ、神様…」
 太陽はもちろん何も応えずに、太陽系第三惑星の半球に存在する全てのものを、ただ等しく照らしていた。

 時が過ぎ、太陽は傾き、サニーアイランドに夕暮れがやってきた。
「さっきネットで見たんだけど、今夜は…」藍を深める空を見上げながら、サンライズバルコニーのアキは隣の太郎に言う。「接近するんだって、月と火星が」


 深夜。バスルームを出た太郎は、まだ少し濡れた体にオレンジ色のバスローブをまとい、独りサンライズルームにいる。
 他の三人はまだビーチバーにいる。
 夕食のワインを飲み過ぎた太郎は、一人で先に部屋にもどった。そのままベッドに横になると、いつの間にか眠っていた。ふと目を覚まし、腕時計を見ると既に深夜だった。まだ酔っているのか、あるいはただ単に眠たいだけなのか、とにかく頭がボオッとしたままなので、太郎はシャワールームに向かった。シャワーを長いこと浴びても頭の中のけだるさはとれなかった。部屋にもどり、照明は点けないまま、冷蔵庫から缶ビールを出して独りで飲んだ。出窓に缶ビールを置き、窓越しに夜空を見上げる。出窓にはスモークがかかっていて空がよく見えない。が、月は明るく、スモークグラスを通して暗い部屋の中、太郎をぼんやりと照らし出している。太郎はしばらくそのまま、動けずにいた。
 
 コテージのドアが開き、人影が静かに入ってきた。太郎は出窓に向かって立ったまま、ひっそりと月の光を浴びていた。
 音もなく人影は太郎の影に近づくと、その手が後ろから太郎の影を抱いた。太郎は動けずにいた。バスローブの下に滑り込んだ手はそっと太郎のペニスを包んだ。
 その手がアキの手ではなくカオリの手であったことに、太郎は震えた。肩越しに太郎が振り返ると、タンクトップとジーンズ姿のカオリがいた。カオリは目を閉じていた。まもなくバスローブは床に落ち、太郎の裸身が月の光に照らされた。
 闇の中で手は緩やかに動いた。息遣いで空気も動いた。太郎は動けないまま、その流れに包まれる。全裸の背中を抱きながら手は動き続けた。

 アキと有田は波打ち際にいた。月明かりがビーチに、二人の影を描いていた。ビーチバーから裸足で歩いてきた二人の足跡を見てアキは、アポロの月面着陸のようだ、と笑う。アキは手にコロナビールの瓶を持っている。コロナを一口飲んで、アキは小さな声で言う。「消えつつあるのね…」
「何が?」海を見たまま有田が訊く。
「私が」アキはそう言って、コロナをまた一口飲んでから、その瓶を有田に手渡す。
 受け取ったコロナを一口飲んで、有田は返す。「大丈夫だよ。消えやしない」
「そう?」
「大丈夫だよ」有田はジーンズの裾を濡らしながら、振り向かずに海に歩む。
 アキもスカートの裾を手に、その後を追う。
 海の水は冷たい。確かに冷たい。だがその冷たさはリアルじゃない。アキが有田にそう言うと、酔ってるからだよ、と有田が応える。
「違うわ…」アキが言う。アキは先を歩く有田のシャツを掴む。「違うの…。私は、私じゃなくなって…」
「オレだって、そうだよ」有田はそう言って振り返る。
 波が寄せて、返す。
「私と私じゃないものの、境が、なくなってゆく…」アキは有田を、どこか懐かしそうな目で見つめながら言う。「でもそれは…、悲しいことじゃないの…」
 有田の姿は月に照らされて、いつもと違った光を帯びる。
「消えるべき時が来たから、だから消えるのよ…」
 コロナの瓶が海に落ちる。
 二人も、もつれ重なるように、コロナの後を追う。  
 荒々しく自分を抱く男の背中を両手できつく抱き返しながら、海の味を感じつつ、引いてゆく波の合間にアキは見た。月に僅かな角度で寄り添う、赤い惑星。

「私たちは、一体になるべきなのよ…」カオリが呟くように言う小さな声を、太郎は背中で聞いていた。


 翌日、やはりまた太陽は昇った。    
 朝食を済ませると、有田と太郎は出掛けるための身支度を整える。ダイビング機材調達のため、隣の島まで泳ぐのだ。
「ドーニーを呼べばいいでしょう?」アキがそう言うと、有田は応える。「泳ぎたいの、オレたちは。な、太郎…」
「です」と太郎。「今は潮の流れがいいから…。向こうで機材積んだら、帰りはちゃんとドーニーでこっちにもどってきますよ」

 海辺で女二人は、男二人を見送る。
 今日もまたいい天気。

 有田と太郎は泳ぐ。照りつける太陽から逃れる場所はない。置き去りにすべき島は順調に小さくなり、目指す島は順調に大きくなる。
「なあ、オマエ昨日、薫とさ…」と有田が太郎に声を掛ける。「ヤっただろ?」
 太郎は泳ぎながら有田の方を向く。有田の腕が陽光に輝いている。
「うん」太郎がきっぱりと答える。「ヤった」
「で、感想は?」有田は口に入った海水を吐き出してから、前を向いたままそう訊ねる。 
「思い出してた…」と独り言のように太郎。「高校時代、テニス部の部活が終わって下校する、夏の風景…」喋りながら太郎は少し海水にむせる。「汗の匂いのするTシャツ。喉を鳴らして飲んだチェリオの味…」腕がリズミカルに海水を掻き続ける一方で、眠りに落ちるような調子で太郎は、ポツリポツリと語り続ける。「文化祭が近いのか、軽音楽部のトランペットの音。誰かの膝枕に頭を預けて…。その誰かの手がうちわを扇いでくれて…。蝉の声。ギターの弦の音。FMラジオから流れる歌…」
「しっかりしろ!」有田の声が響く。「自分によく言い聞かせるんだ、今自分はここにいる、って。今は、ある晴れた日の朝だ。ここはインド洋だ。我々はある島からある島に向かって泳いでいる。何度もそう自分に言い聞かせるんだ!」
「時間の感覚…、空間の感覚…も、希薄だな、何も考えられない…」と太郎。「でも、大丈夫…。勝手に手足が動いてくれる…」

 二人は泳ぎ続けた。

 島に泳ぎ着いた二人は、不確かな足取りでフワフワと浜辺を数歩進むと、崩れるようにその場に倒れ、寝転んだ。太陽が眩しい。目を閉じる。波の音。鳥の声。
「なあ、太郎…」荒い呼吸を整えつつ、有田は唐突にこう質問する。「宇宙に、果ては、あるのか?」
 太郎は、ぼんやりと答える。「果てしない、大宇宙…っすよ」
「じゃあ…」有田がまた問う。「時間に、終わりは、あるのか?」
「…終わりなんか、ないんじゃないかな…? 永遠の過去から、永遠の未来まで、時間は流れてる…」
「て、ことはよ…」有田が言って身を起こす。「宇宙が無限で、時間も無限なら…」有田は少し咳込んでから、また言葉を続ける。「一度でも起こった事は、あらゆる所で、何度でも無限回、繰り返し、起こり得る…って、そーゆーことだよなあ…」
「そーですか?」と太郎。
「時間にも空間にも際限がねーんだったら、つまり、そーゆーことだよ。果てしない空間で、果てしない試行錯誤が繰り返されるんだから、一度あった事と同じような事は、無限に起こりうる…ってことに、な、なるだろ?」
「喉が渇いたな…。この喉の渇きも無限回、繰り返されるのかなあ?」と太郎。「で、何が言いたいんですか?」
「…オマエ、薫のこと、ずっと好きだった、だろ?」
「たぶん…」と太郎。「そうですね、たぶん」
「アキのことは?」
「たぶん」
「好きなんだな」
「昨日、アキさんとなんかありました?」
「なんか、あったよ」
「ですよね…」太郎は立ち上がる。空を仰ぐと白い雲が見えた。同じく立ち上がった有田に向かって、太郎は突然ジャンプした。また白い雲が見えた。太郎の右足は有田の延髄を蹴った。
 前のめりに倒れた有田は、膝をつき、太郎を振り返る。笑う太郎の白い歯が見えた。
 有田は立ち上がり太郎の頬を殴った。有田も笑っていた。
 太郎は倒れず、体制を整え直す。
 有田は落ちていた流木を拾い上げ、太郎の脳天に振り下した。
 倒れながら太郎はまた白い雲を見た。


「やっぱよ…」有田がピザを齧りながら言う。「オレ思うんだけどさ、宇宙は閉じてるんじゃないかな? 地球が丸く、空間的にループしてるように…。地上はどこまで歩いても地上だけど、宇宙と地球には確かに境があるように。でもって、時間もまた、閉じている、と…」
「そうっすか?」太郎もピザを齧りながら応える。
「でないとさ、オレたちは今後何度でも、無限回出会って、無限回女とヤって、無限回殴り合うことになる。今までもずーっとそうだったし、これからもずーっとそうだ、ということになる…。ってか今この瞬間にも、遠く遠くのどっかで、オレと太郎は殴り合ってる…かもしれない、いや、百パーセントそうだ…ってことになる…」
「退屈、ですね」
「だろ? だから、空間も時間も閉じてるって考えた方が救われる…」
「じゃ、空間の外や、時間の外には、何が?」
「そりゃ、アレだよ。非空間と非時間が、まあ、あるんだよ」
「空間がなかったらそこはゼロスペースなんだから、そこには何も[あり]はしないでしょう? ゴマ粒一つ置くスペースだってない。存在のしようがない。おまけに時間もなけりゃ、変化が生じないんだから、永久に固着したままでしょう、その何もない状態が…」
「つまり、[無]。[永遠の無]…」
「[永遠]なんて観念もないでしょう。時間がないんだから…」
「じゃ、[空]だ」
「寝言、言ってんじゃないわよ、あんたたち!」と、横からアキが割って入る。「腫れあがった顔と、血だらけの頭で…」
 カオリが笑う。
 ダイバーズの四人はサンセットルームのバルコニーで、ピザを齧りながらビールを飲んでいた。夕日がまさに沈みつつある。
「はは…」と有田は笑う。「ショップのおっさん、マジでビビってたよなあ」
「血まみれの日本人がいきなり現れて、ダイビング機材貸してくれって頼んだんだから、そりゃ驚くでしょうよ」と太郎。
 有田と太郎は愉快そうに笑う。
「なんでケンカしたの?」とカオリ。「…って聞いていい?」
「不条理」有田が答える。
「太陽が眩しかったから」太郎が言い添える。
 フラッシュのような瞬きを残して、夕日が沈んだ。波の音が少しボリュームを上げる。
「あんたたちの顔と頭が治ったら、そしたら…」とアキ。「潜りましょうね」
 太郎は黙って頷いた。
「アタマは治んねーよなあ」有田が茶化した。


ダイアリー アゲイン[Diary again]


広末のこと、だれもはなさない。
なんでかな? どうしてかな? 私も、はなさない。

「私ってば、やっぱバカだよなー。日記読み返したら、平仮名ばっかりじゃん…」とカオリは呟き、舌を出す。「でも、頭、ホントにまわらないんだよねえ、南の島ってさ…」
 カオリはサンセットルームのベッドに独り寝転がり、日記帳を開いている。

 ついに上陸! 今夜は上陸パーティーです。楽しみ。
島についておどろいたよ! コテージが超ごーか。ウソみたい。
 なんだか楽しいことになりそう。
 でも、いいのかな? 私たちがこの島にやってきたのは、広末をさがすため。
 [広末]って名前をこうして書くのもなんだか、はずかしい。なんだか、書いちゃいけないコトバを書いてるみたい。
 広末のこと、だれもはなさない。
 なんでかな? どうしてかな? 私もはなさない。
 なんか、はなしちゃいけないことみたいな。

 カオリは日記のページを遡る。

 今日はダイバーズミーティング、行ってきましたよ。
 ダイバーズミーティングって、なんかカッコいい。スキューバのチームみたい。
 そうそう、実際に私、来週からスキューバ、はじめますよ。
 正巳くんが言ったんだ。「オレたちはインナーダイバーズ…っていうくらいだから、もぐらなきゃいけないんだ」ってさ。
 ってゆーか、正巳くんは、たんにモルジブでもぐりたいだけなんじゃないかな?
 でも、まーそれでもいい。
 …あの人が前に言ってたから。どっか旅行に行こうよ、ってはなしたとき、南の島で海にもぐるのもいいね、ってそんなはなしになったと思うんだ、私の記憶によると。
 記憶はなんだかたよりないどね、最近。
 アキさんはずっとダイビング、やってたみたい。教えてもらう約束した。
 インナーダイバーズって、どういうチームなのかわかんないけど、でもみんなで楽しいチームにしたいよね、って言ったら、みんな賛成してくれたよ。よかった。
 今日のダイバーズミーティングではなしたことは、そのくらいです。

「このころからもう私は、[広末晴樹]って書かなくなってたんだなあ…」最近はすっかり癖になってしまった独り言を、カオリは淡々と呟く。「[あの人]だってさ…。笑っちゃうよね。でも私、彼のこと、実際なんて呼んでたんだっけ? 二人で旅行してるときとか、なんて呼んでたのかなあ…。 広末さん? じゃないよね…。広末くん? って呼んだこともないよなあ…」
 言いながら首をぐるぐると振って、そしてまたカオリは日記の拾い読みにもどる。

「広末晴樹は、はじめから存在してなかった…ってことですよ」今日、太郎くんがそう言った。
 太郎くんの知ってるお医者さんが今日バーにきてくれたんだ。で、広末晴樹のこと、私やアキさんがその先生に話して。
 そうしたら、その先生は[幻想]だって言ったんだ。
 先生が帰ってから、どういうこと? って私がきいたら、太郎くんが言ったのです。「広末晴樹は、はじめから存在してなかったってことですよ」
 ショックだった。
 正巳くん説はこうだ。「広末ってのは、われわれの心の中を照らす鏡として、われわれの心の中に存在していたんだ」とかなんとか…。意味わかんないよね。
 ほんとはなんとなく、わかるけど。つまりさ、夢みてただけだよ、ってそういうことでしょ。
とてもリアルな夢。
 はあ。
 ありえない。
 だって私おぼえてるよ。
 雪の中でだきあった広末の体、あたたかかったよ。おひさまのにおいがしたよ。飛行機が落ちそうになったとき、彼の目は優しそうで、寂しそうで…。そうだ、ビールのんで、ヒヨコ口してピヨ! とかもやってたっけ。なによりも、さいしょにデパートで出会った日、私のずっとふかいところを見ていた広末の目、あの目を私、はっきりおぼえてる。

「かわいいよね、私ってば。結構一途な女だよね…」日記を読み返して、カオリは自分で自分に語り掛ける。「でもホントはそんなの、ウソだよね…。私、昔っから一途じゃない女…。手当たり次第に人に頼る、って言われたこともあるしね…」と、自分で自分に異論を唱える。「そうだよなあ。私、広末晴樹のこと、すごく好きなんだって思ってたけど、正巳くんも好きだし、太郎くんともエッチしちゃったし…。なんでかなあ?」カオリは溜息をつく。「なんて考えると、ほらね、もう頭がまわらなくなる…。私は昔っからそうだったよ。都合が悪いことがあると思考停止で逃げちゃうんだ…」カオリは独りで笑う。「でもこの島に来てからは、いっそうひどいね。南の島特有の空気、っていうのかなあ? それがなんだか、考えるチカラを奪っているんだ…。かと思うと広末がとりついてさ…」カオリはまた笑う。「頭が勝手に、難しいことを考えまくったり…」
 部屋の中は静かだ。
「ま、いっか…」とカオリは大きく伸びをする。「さ。じゃ、カオリちゃん。いい子だから今日の日記も、きちんと書いてしまいましょうね…」と自分に声を掛けてカオリは、本日のページを開き、ペンを執る。


 ○月×日。はれ
 さて、なにを書こうかな?
 今日は、正巳くんと太郎くんがケンカをしました。血まで出てて、びっくり。ケンカの理由はなんとなくわかるけど、そのへんのことはアイマイにしておきましょう。
 モンダイは原因でなくて、結果です。
 って書いて、あれ? 
 どーゆー意味ですかー? って自分で思うよ。
 なんだか今夜もまた、広末晴樹が近くにいるカンジ。
 モンダイは原因でなくて、結果です。
 結果。
 そう。
 結果、私たちは近づいている。
 結果、私たちはまじりあっている。
 私たちは愛しあっている。
 太郎くんは正巳くんをけっとばして、正巳くんは太郎くんのアタマをかち割って(ひどいな…)しまったけど、でも、なんだか二人は近づいてるみたい。それがよくわかる。だから、ケンカも愛なんだ。って書いてて、よくわかんないけど、ま、いいか。よろしくね、広末くん。
 とにかくまあ私たちは淫らにやってます。
 だからそれでどこにたどりつくんだ? って聞かれたらこまるけど、なんだかちゃんと前進してるって気もするんだよなあ、これが、どうにも。
 文章も乱れてまいりましたので、気をとりなおして、ここで少々テツガク的なことを書いてみましょう。私はカオリ。ツバサのはえたネコ。
 あれ? なにかな? [ツバサのはえたネコ]って…。ま、いいか。
 ええと。今日、正巳くんたちが話してたこと。
 宇宙のこと。つまり[時間]と[空間]。
 時間に終わりはあるか?(時間は無限か?)
 空間に終わりはあるか?(空間は無限か?)
 [終わりがない]ってことは、つぎの始まりもないってこと。
 無限、限りがない、境目がない…ってことは、つまり[無]ってことに近い。
 終わらなければ始まりはしないのだ。
 終わるから始まるのだ。
 時間に限りがあり、空間に限りがあり、自由に制限があり。そういうリミットのおかげで、私たちは生存しうる。
 なんちゃってなー。
 広末晴樹なら、そんなふうに言っちゃうんだろなー。

「だめだ…」カオリは独り言とともに日記を閉じる。「だって、なんだか全然、現実的なこと、考えられないんだもん…」日記をソファに投げて体をベッドに投げる。「めんどいな…」

「感じるように考えることはできます。でもそれは広末の波動を感じているだけなのです。実際的なことは考えるのも面倒なんでございます…」天井に向かって、カオリは礼儀正しく報告するが、天井は何も応えない。「てか、何も考えたくないんだよねー」とカオリは舌を出す。「美味しいものを食べて、アルコールでいい気持ちになって、波の音を聞き、星を眺めて、仲間と抱き合い、眠る…。他に何を意志する必要があるのですか? 何も求めなくても、波は寄せて返すし、夜は朝になる…」
 カオリの独り言に、天井からも、広末からも、応えはない…。
 カオリはそのままの姿勢で十分ほど天井を眺め、自分の掌を眺め、心の中を眺めていた。
 海の音がする。
「とにかく…」カオリは布団を蹴って立ち上がる。「潜ってみよう」


ディープ ブルー [Deep Blue]


 無風。
 海はベタ凪ぎ。
 インナーダイバーズの四人はそれぞれ器材を装着してボートにいる。太陽が四人のタンクを白く光らせている。静かな時間が流れていた。
 時が来て、カオリは舷側に後ろ向きに座る。片手でマスクのストラップを、片手でマスク前面とレギュレーターとを同時に押さえ、そのまま深く座り直す。マスクごしに見上げると、有田と目が合う。有田は親指を立てニヤリと笑う。アキと太郎は頷いている。カオリもマスクの内側で目を細める。
 そしてカオリはゆっくりと体重を後方に移動させると、タンクの重みに自分を任せて、そのままスルリと海に落ちていった。落ちながらカオリは青い空を見た。
 カオリのバディである有田も続いてダイブした。
 アキもまたそれに続いた。
 最後に残った太郎は、無人のボートを眺め、沖を眺め、グローブをつけた自分の掌をしばらく眺め、それからおもむろに皆の後を追った。
 
 会話のない海へ、四人は沈んでゆく。


 青い。
 浮遊感。
 重力を感じない。
 見上げると、海面を通して太陽の光。
 揺らぎ。
 潜行してゆく。
 懐かしい。
 深く深く、潜ってゆく…。

「ねえ。果ての向こうには何が?」
「果ての向こうには、本当の僕がいるよ…」
 月明かりに照らされたメタリックブルーの缶ビール。

 揺らぎ。

「本当のこと、教えてあげようか?」
「何?」
「もぐらだよ」ザッザッ。
「もぐらが穴掘ってるんだよ、どっかで」ザッザッ。

 広末に会いたい。
 私は私になりたい。
 すぐにでも。

 ねえ、知ってる? 広末晴樹って太陽みたいなんだよ。
 それに、猫みたいだわ。まん丸な目をしていてね。
 にゃにゃにゃーお。

 広末に会いたい。

 影みたいな男でしたね。
 仏みてーなヤツだったよ。

 広末に会いたい。

 ロミオとジュリエット。
 流星。
 揺れるオーロラ。

 深く深く、潜ってゆく。
 揺らぐ。

 広がってゆくオーロラ。

 広末に会いたい。

 クジラのジャンプ。
 ウォッカグラスの氷。
 ビールの泡に描かれた、逆さ文字。

 細かな泡を残して、深く深く…。

 キュッキュッ。誰かが手を握る。
 私はもう、握り返せない…。

「百人の[私]の中心には、何が?」
「もぐらが…」
 うにゃ。

 潜ってゆく。

 どこへ?
 私が訊く。
 心の中心点へ。
 誰かが答える。

 広がってゆくオーロラ。

 赤と黒。
 白と青。

 砕けるキャンドルグラス。
 中央で炎に照らされた顔。

 広末に会いたい。
 広末が見えない。
 広末が捕まらない。
 
 ミストの中。
 広末が見えない。
 裸の私。
 潜ってゆく。
 深く深く…。
 
 ピヨ!
 
 ほほ。
 
 なんちって。
 
 このヤロー。
 
 ペンギンの卵が割れて、中から出てきたのは…、
 私だった。
 
 広末に会いたい。
 
 音もなく運行する巨大な天体たち。
 
 酩酊。
 
 胃壁を焦がすテキーラ。
 
 広末はどこだ?
 
 潜ってゆく…。
 
 夏祭りの写真。
 スイミング教室。
 揺らぐ。
 揺らぐ。
 転校初日の笑顔。
 小川のヤゴ。

 深く深く潜るのだ。
 深い深い海の中なら、私は彼を恐れないだろう、私自身のことも…。
 
 青から闇へ。
 潜る…。

 軋むガイコツ。
 溶け合う体。
 愛し合う体。
 赤い星。
 優しい眼差し。
 笑い転げる。

 思い出?
 断片。

 広末に会いたい!
 潜ってゆく…。
 
 風が吹き、日が昇る。
 システム。
 時間と空間。
 システム。
 ビールを飲み、日が暮れる。
 システム。
 
 私とは何か?
 私とはシステムである。
 ひとつのシステムだ。
 
「彼だよ…。間違いない」
 
 広末晴樹。
 あなたはどこにいますか?
 私は潜ってゆく…。

「夢のようだな…」
「夢、かも、しれないわよ」
 潜る!
 ねえ、どこ?
 もぐっています…。
 
 広末晴樹。
 あなたは、だれ?
 あなたは、どこ?
 あなたは…?

「だから、キミの人生とやらも続きますよ」

 もぐります…。

「僕がキミを夢みる限り…」

 私はもぐります…。
 会いたいです。
 でした。
 会いたかった。
 
 ねえ、どこへ?
 心の中心点へ。
 会えますか?
 願うことだよ。
 もぐってゆく…。
 深く深く深く…。
 
 デパートの呼び出しアナウンス。
 迷子のお知らせです。
 私、迷ってますか?
 もぐります…。

「僕をお探しですか?」
 お探しですよ。
 砕氷船のドラの音。

「美人ですね。すごく…」ザッザッ。

 わたしは…。
 ピヨ。
 会いたかった。
 あいたかった。

 広末晴樹。
 やっぱり、
 あなたは、
 存在して
 いなかったんですね…。

 もぐってゆく…。
 ふかく…。
 あいたかった…。
 やっぱり、あなたは…。
 ふかく…。
 もぐって…。
 やっぱり…。
 ねえ…。
 わたしは…。


 あいたい!


 フラッシュ!


イレブン [Eleven]
 

 目を覚ます主観。
 ここはどこ?
 曖昧な水中のイメージ。
 ピヨ!
 誰かの声。
 …これも夢の残滓。
 振り払いつつ思う。
 私は誰?

 無意識に額にあてた手が、重い。
 見ると腕には奇妙な[リストバンド]。
 [リストバンド]についている液晶画面。
 液晶に表示された文字を読む。


四人とも主観を独白せず、全てが言動の記述のみに。非常に現実的なタッチに。モルジブマジック。主観喪失してゆく四人。

 何? これ…。

 白い部屋。中央に青いベッド。そこに寝ていた。立ち上がる。青いカーテン。カーテンを開けると珊瑚礁の海。よろけるように数歩あとずさる。
 反対側のカーテンを開けると、やはり珊瑚礁の海。自動的に窓が開く。吹き込む風。波の音。
 
 [リストバンド]を外す。[リストバンド]にはまた新しい文字の表示。


ダイビング、ツーバディ。客観。会話のない海に四人は沈んでゆく。カオリのモノローグに他の三人の主観が絡む。ショートのオーバーラップ。主語なし。広末の台詞や、音楽、オーロラや、星の色、様々なものがコラージュされ、カオリの中で混じり合い、その間隔は短く短く。あなたは実在していなかったんですね…。フラッシュ!

 そこでスクロールは終了し、液晶画面は暗くなった。
 [リストバンド]をベッドに投げる。
 伸びをする。
 随分と長いこと眠っていた気がする。心はリラックス。窓の外に目をやる。コーラルブルーの海に太陽が沈んで…、と思ったらそれは朝日だ。日が昇る。
 ここは小さな島。窓から上を見上げると、空しか見えない。小さな島に三十階ほどのビルが建ち、どうやらその最上階に自分はいるらしい。
 ここで自分は暮らしている? 
 自分は何をしている? 
 自分は誰?

 呼応するように部屋に入ってくる[自走式プロジェクタマシン]。スイッチオン。立体映像でそこに生じたのは国籍不明の老人。オレンジ色の袈裟のようなものを掛け登場。

 質問する主観。
 答える老人の立体映像。

 自分は誰?
<NO.11だ。ニックネームで呼んでいいかな? イレブンと呼んでいいかな?>
 イレブン? 自分はイレブン? 番号で呼ばれるのか。自分は囚人か。こんな海の中に閉じ込められている囚人なのだろうか?
<ダイブの後遺症だな。いつものやつだ。そのうち記憶はもどるよ。まだ夢の中にいるような気分だろ? イレブン>
 夢? ダイブ…? そうか、そうだ、俺はインナーダイバーだ。使命を果たして目覚めたところだ。先ほどベッドに投げた装置を振り返り、思う。目覚めはいつもこうだ。何度潜っても、リターンの時には初心者のように狼狽えちまう…。

 プロジェクターに歩み寄りパネルに触れると、カードが五枚出てくる。


【インナーダイバーズ 
メンバー

高鳥 アキ

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


【インナーダイバーズ 
メンバー

有田 正巳

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


【インナーダイバーズ 
メンバー

バーテン太郎

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


【インナーダイバーズ 
メンバー

岡野 カオリ

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


【インナーダイバーズ 
ダイブマスター

広末 晴樹

モルジブ・アリ環礁 サニーアイランド】


 はは、懐かしい名前だな。会いたいな、みんなに。どこに行けば会える?
<イレブン…>
 …そうか、会えないか。
<イレブン、キミはまだ覚醒途上にいる。ジャグジーに行って、ダイブメイトのマッサージでも受けてきたらどうだ?>
 確かにそうだな、なんだか、まだはっきりしない。
<やがて思い出すだろうが、キミが潜ったのはキミの心だ。キミはいくつかの意識に名前をつけた。今回は[陰]が二フック。[陽]が二フック。マスターとなる意識には[陽]を選んで潜った。今回のダイブでキミは五つの角度を統合したことになる…>
 そうだ。少しずつ俺は思い出す。俺はインナーダイバー。ダイブの度に俺の自己はいくつかのフックに分解される。フックはそれぞれ自意識を持ち、考え迷い、戦い、そして愛し合う…。
 なぜだ? なぜ俺はそんなことをしている? それがいったい何になる? これは俺の職業か? それとも囚人としての贖罪か?
<またその疑問か? キミは目覚める度に同じ疑問を抱き、苦しむようだ。キミが用意した[リストバンド]やら[プロジェクタマシン]やらの装置は、今回も十分な緩衝材となってはくれなかったのか? …職業でも贖罪でも構わないではないか? キミはそれを生業としているのだ。それを知ったところで、キミの何が変わるわけでもない>
 そう言うあんたは誰なんだ?
<ワタシはキミだ。キミがワタシの言葉を想起している>
 俺はこれからどうなる?
<キミはこの島にいて、今後も全人類と交わることはない。キミはここで目覚め、しばらく心身を癒したのち、また眠りにつく。新しいフックを掲げ、それらを統合するために、再びダイブする。それを繰り返すのだ>
 そうだ。やがて俺はまた眠りにつく。インナーダイバーとしての意識を深いところに抱えながら、表層的にはそれを忘却し、自らの心の中にたてたフックを相手に、語り、関係づけ、調整し、まとめる…。
 …悲しいことはいつも同じだ。カオリやアキや、有田や太郎、そして広末自身のことも、次のダイブで俺は全て忘却する。
 …カオリ。あなたは実在していなかったんですね、なんて言いながら海に潜ってたっけ。実在してないのは、カオリちゃんの方だよ…。
 俺は、独りだ。
(神様は独りぼっち)カオリが言って笑う。
<落ち着け、イレブン。キミはダイブから完全に覚めてはいないようだ。キミの中の局地的意識の声は消せ>
 …なんのために? なんのために俺は意識を繋げる? それでいったい何になる?
<前回にも答えたが、また同じことを答えよう。どのような存在でもインナーダイバーになれるというわけではない。キミの意識パターンが全人類の集合的無意識にピタリと重なるパターンであるということ、これがキミの存在理由であり、好むと好まざるとに関わらず、キミがダイバーであり続ける理由だ>
 全人類の集合的無意識? [全人類]だと? 人類はいったいどこにいるんだ? この同じ世界に存在しているのか? それとも俺の心の中にいるだけか?
<どちらの答えを採用しても差支えない。キミの受け入れやすいように定義しよう。…キミはこの小島に幽閉されている。階下の全フロアはキミのために用意されている。島には、インナーダイバーを慰めるダイブメイトが僅かに存在している。ダイブメイトもまた、インナーダイバーと同じ意味での実存だ。ただし、メイトとの会話は不可能だ。余計なコミュニケーションで、ダイバーの心的角度を違えないために、そういう存在としてメイトは存在する。それがメイトの存在理由だ>老人の立体映像はいつしか消えていて、声だけが聞こえる。<多分に比喩的な表現になるが、わかりやすく説明しよう。インナーダイバーはキミ以外にも存在する。それぞれがそれぞれの島でダイブしている。ダイブし続ける。一方キミのイメージするところの全人類も、世界のあらゆるところにあらゆる形で、ある意味存在している。存在し続ける。例えばこうイメージできる…>[プロジェクタマシン]は立体映像で様々な場面を映し出す。<…ある者はニューヨークマンハッタンのオフィスで会議をしているし、ある者はエジプトの砂漠で観光客を相手に土産物の石細工を売っている。ある男はある女と結婚し、子供が生まれ、子供は成長しやがて誰かと恋をする。物理学者は宇宙の普遍的真実を求め、歴史学者は人類の歴史を検証し、軍人は兵器を揃え、娼婦は男を慰める。人類は生きて、交配し、死に、生まれる。…もっともミストサウナの中にいるような存在ゆえ、人類は互いに相手の本質も自分の本質も見ることはできない。互いに互いの影を見て生きている。インナーダイバー諸君からすれば、彼らは実存に目覚めないまま生きている、そう、言ってしまえば半分眠りながら生きているような存在だ。そういう曖昧な[存在]でも、一応リアルに[存在]と定義した方が、キミには受け入れ易いだろう? どうだね? イレブン…>と頭の中から老人の声が語る。<彼らは暗い小屋の中、焚き火に照らされ、かろうじて識別し合えるような、そんな存在だ。それぞれがそれぞれの座っている角度から焚き火を眺める。焚き火が照らしだす曖昧な影を現実だと思い込む。それぞれがそれぞれに、勝手な現実を思い描き主張する。互いの位置関係や、互いの本質的実存に気づく努力もしない。全人類はそのような存在として存在している>
 人類と、わかり合えないかな?
<キミはNO.11と識別される、一つの高次の意識体だ。広末晴樹がキミの意識の一つを投影した影であるように、別のレベルで人類一人一人もまた、キミの無数の意識が投影された影だ。ダイバーの意識レベルから見れば、彼らは存在していないとすらいってもいい。別の視点からその存在を[仮定]したところで、人類はせいぜい[半意識的存在]に過ぎない。キミがキミのまま彼らと語り合うというのは、例えていえば[夢の世界に現実世界を持ち込む]ようなもの…>(待てよ、じーさん、低次元だとか半人前だとか、ナメてんじゃねーぞ、コラ!)有田が叫ぶ。俺は、ベッドの上の[リストバンド]を掴み力を込める…。
<やめておけ、イレブン。そんなことをして何になる?>頭の中で自制が語る。
 カオリに会いたい。
<イレブン。キミはキミ自身の[全存在への道]を捨てるのか? たかが一個の半意識として、名もなき一個の半意識に再会する道を選ぶというのか?>
 それもまたよかろう…。
<イレブン、よく聞け。キミは何百というフックを統合し、自己を意識化した高次の意識体だ。カオリや有田は、キミがキミの中心点を探るために作り出した影だ。まだ寝呆けているキミの意識は、より低次な意識にのっとられ、分裂しかけているように見える。すぐにその意識ゾーンを出て浮上せよ。さもないと…>
「さもないと?」声に出して俺は訊ねる。
<さもないと、世界は優秀なインナーダイバーを一人、失うことになる>
 ミイラ捕りがミイラになる、ってわけか。…わかったよ、思い出してきた…。
<キミは、焚き火の周りに配置された意識的フックに、互いの位置関係を知らせ、調和させ、または対立させ、葛藤させる。そうしてそれを繰り返すうちにそこに立ち上がるのが中心点としての自己だ>
 そう、そして俺の中心は、高次の意味で全人類の集合的無意識と重なるのだ。
<そのとおり。キミはキミの自己を立ち上げる過程そのものにより、睡眠中深層で結びついている全人類の無意識を方向づけ、統合し、存続せしめているのだ。それ即ち…>老人の声と広末の声が重なり、さらにそこにカオリの声が被る。《何十億もの別人の[私]が同じ一つの[私]である理由。(この[私]と、違う人の[私]は違うのに、なんでみんな同じ[私]なのかな?)》 

「わかった。もういい。窓を閉めろ。海を歩いてくる」俺は[プロジェクターマシン]にそう命じてドアに向かう。
 もう、いい。
 立体映像の老人と同じような、オレンジ色の服をまとっている俺。辺りに鏡は見当たらない。ダイブの際の別人格へのシンクロ率を上げるため、インナーダイバーの生活から鏡は排除されているのだ。
 俺しかいない俺の世界に、鏡があって何になる? 俺が見つめ続けるのは、俺の中の俺の意識たち。(僕はどうやら色んなものの鏡になってしまうらしい…)広末の声が呟く。
 無人のビルの三十階にエレベーターが迎えにくる。遥かに続く無人の海と空を見ながら、俺は独り降下していった。


「俺が[本当の俺]を捜す旅そのものが、全人類を一つの主体にまとめている、いわば影の力だったんだぜ。わかるかい?」と俺は女に言った。「俺が俺のバランスを崩すと、全人類の無意識が、やはりバランスを崩すんだ…」と続けながら女の表情をうかがう。「ごめんごめん。難しいか。めんどくさいよな。こんな綺麗な海でヤボなこと言って悪かったよ」と俺は謝った。
 ここは海辺のジャグジー。
 白い砂。椰子の葉を葺いた三角屋根。その下に石風呂。目の前に珊瑚礁の海。波の音。椰子の葉が風にそよぎ、鳥の声が聞こえる。オフタイム。
「今は仕事がオフなんだ。仕事が始まったらまたぐっすり眠らなきゃならないから…」はは、と自分で笑う。「今はゆったり寛ぐんだ」

 ジャグジーに浸かりながら目の前の女をしげしげと眺める。女は笑っている。微笑んでいる。
「なあ…」と女に呼びかける。
 女は首を微かに傾けて、また微笑む。
 俺は両手で湯を掬うようにして水鉄砲にする。女に向けて湯を放つ。女の胸に命中する。
 女は胸に軽く手をあて声を出さずに笑う。
「昔さ。っつーか、なんてゆーんだろ? 眠ってたときにさ…。ああ、つまり夢の中でさ。こんなようなことがあったんだ。風呂入っててさ、女の子と。でね…」俺はまた目の前の女に水鉄砲を発射する。「こーやって、水鉄砲なのだあ、なんてね…」
 女は俺の目を見て軽く頷く。
「威張った女でさ、夢の中のそいつ。アキって名前なんだ。…俺がつけたんだろうな、その名前も…」
 メイトはジャグジーの中、俺に歩み寄り、俺の肩に優しく手を置く。
「でもさ、いいヤツだったんだよ、その夢の中の女。ちょっと偏っててさ、いろいろ苦労しちゃってんだけど、でも夢の登場人物にしちゃ、なんてーか、一生懸命生きてたな…。偏ってるなりに、必死で偏ってたよ…」と言って俺は笑う。
 メイトは、俺の目を覗き込むようにして笑っている。
「俺は…、なんだったんだろうな? その一生懸命偏りながら頑張ってる女に、俺は、どう接していたと思う?」
 メイトはまた首を傾げてみせる。
「俺は、ただ見ていたんだ。とても遠いところから。とても高いところから。…俺の分身の一つは、そのとき猫男、演ってた。軟弱で逃げ腰で、ナルシスティックな猫男の役。仕方ないんだよ、それは。アキが偏ってるんだから。アキとバランスするためには、猫男くらいの芸ができなきゃ。その男も結構つらかったと思うよ。広末晴樹って名乗ってたんだ、そいつ」
 メイトの女が俺の肩に湯を掛ける。浜辺の風で冷えた肩を、湯が優しく撫でる。
「広末も全てを知っていたわけじゃない。あいつもいわば、影絵的存在だから。でもね、ある意味あいつは、俺と重なっていたんだよ。だから深いところで知っていた。全てを知りながら、知らないフリをし続けていたようなもんだよ、彼自身に対してもね。だからね…」俺はジャグジーの中でメイトに手を差し伸べ、引き寄せ、その体の向きを静かに変える。背中からその体を抱く。メイトの肩に顎を乗せるようにして俺は独り言を語り続ける。「彼には気の毒だった…。寂しかったと思うよ…」俺はメイトの肩をきつく抱きしめる。
「なあ? わかるか?」言いながらメイトの顔を覗き込む。
 メイトは穏やかに笑う。
「わからないだろう?」
 メイトは少し戸惑う。
「わからないよ。そうさ、わかるわけがない」
 メイトはまた風のように笑う。
 メイトの正面に回り込んで、その顔を見つめてみる。
「可愛いねキミ、なんちゃって」
 ラファエロのマドンナのような瞳に俺が映っている。
「名前はなんていうのさ?」
 メイトは俺の目を見る。
「なんで俺の目を見る? 俺の目に何が見える? そうか? そうだな。俺の目には今、キミが映っているんだ。キミはキミを見るのか。…俺たち似てるよ。俺たちにできることは、ある意味[見ること]だけなんだ。…ミル、にしよう。今日からキミはミルちゃんね。よろしく。よろしく遊んでやってください…」
 俺たちは握手する。
「さあて、じゃ、ミルちゃん…。一曲歌ってくり!」
 メイトは笑う。
「カラオケないの?」俺も笑う。

 夜が来て、少し涼しくなった。
 ビーチにテーブル。テーブルにキャンドル。メイトの用意した食事を食べ終えて、俺は頬杖をついている。
「リッスン!」俺はメイトに呼び掛ける。「勝手に名前をつけちゃって、怒っているのか? どうだ? ミル」
 メイトはやはり首を傾げて笑う。
「ミルをテーマに、あいうえお短歌?」俺は缶ビールに酔って言う。「あやかしの、いやしのほのお、ウソのよい、えがおかなしや、オイラひとりだ…、なんちて…」俺はメイトの反応をうかがう。「…反応なし」
 俺は席を立ち、浜辺を数歩歩み、空を見上げる。
 カオリ…。
 振り返ると、赤いキャンドルに照らされて、静かに涙を流すメイトの横顔。
 そうだったな、俺は広末晴樹じゃ、ないんだよな…。

 夜が更けた。メイトの指を背中に感じる。長い湯に浸かっては、缶ビールをひたすら開けたあと、俺はメイトのマッサージを受けている。重ねた両手の上に顎を乗せ、俺は月明かりに照らされた夜の水平線を見ている。そして、夢を見るように考えている。
 宇宙が無限なら、起こり得る事は、無限回繰り返して起こり得る。ここでも、あそこでも、どこでも…。
 俺の意識の一つ一つが、なんらかのフックとして機能するなら、一つ一つのフックは、ある種の象徴として存在しているわけで…。
 メイトの指が俺の頭を優しく撫でる。
 個々の意識はあらゆる存在になり得る。ある状況において、フックAは銀色の魚にもなるし、ヨーグルトにもなるし、映画にもなるし、カオリちゃんにもなる。逆に言えばある状況でのそれらの存在は、どれもフックAという位置を占める意識と、本質的に似ている。いや本質という点ではまさしく[等しい]はずだ。具象化する前の本質は、[本質的に]同義だ。
 そうか…。
 俺は体を起こし、メイトに優しく笑い掛ける。
 キミがなぜ今俺の前にいるのか、わかったよ。
 俺は感謝の気持ちを込めてミルの手を握った。
 カオリちゃんが幻だとしても、[カオリちゃん的本質]は俺の中に存在している!
 風呂にノボせて、酒に酔い、おかしな結論を出したのかもしれない。それでもよかった。
そして天道説は、地動説に転換。ここで起こることは、あそこでも、どこでも、起こり得るのだ。俺の中に存在している[広末から見たカオリちゃん的本質]は、俺の外にも[俺から見たカオリちゃん的本質]として存在している…。いつだって…。どこにだって…。
 俺はミルを見る。ミルが笑う。
 本当だ。中と外はおんなじなんだ。どのレベルでも…。

「有難う! ミル!」俺は深く感謝してそう言った。
 
 目覚めるために、眠っていたんだ! 
 外に向かって、潜っていたんだ! 
 
 「明日の朝、舟を出そう」立ち上がり、ミルに向かってそう言うと、「おはよう」ミルはカオリになりアキになり、[ぼく]とは違う他者になり、優しくそう言って手を差し伸べた。

インナーダイバーズ

インナーダイバーズ

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-06-24

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain