流れる澱(稗貫依)

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 見てしまった、から。
 私はもう、引き返せなくなってしまった。
 雪が降っている。今年は本当によく降ると思う。正月も降っていた。始業式の日にも降っていた。昔は横浜で雪が降るなんて思ってもいなかったから、初めて見たときは本当に驚いたものだった。それがもう――十二年前になる。雪は毎年降るわけでもなかった。何年かに一度だけ、思い出したように降ってくる。今年はたまたまその年だった。
 少なくとも、知らない子、だった。同じ制服だったから同じ学校の子なんだろう。胸ピンの色までは確認できていなかった。だから学年は分からない。あの引き締まった体つきからすれば、もしかして部活の後輩だろうか。男受けしそうな体型だった。顔はちらとしか見えなかったけど、多分かわいいんだろう。少なくとも私よりは、恐らく。
 吹い寄せられるように、私は駅の方へと向かっていた。こういう日だから予想はしていたけど、やっぱり心なしか二人連れの姿が多いような気がする。ビブレ前の広場に来るといよいよそうだった。この寒いのに手袋さえしていない人までいる。大丈夫なんだろう、握ってくれる手があるのなら。
 私は右手に赤いストライプの紙袋を掴んでいる。どうするべきなんだろう。泣くのは許されないはずだ。私は何一つしていないんだから。見てしまっただけだ。最初から最後まで。岡野君が校舎を出てから裏門の方に向かっていって――本当はこの辺りで引き返すべきだったんだと思う。チャンスだと思ったのは熱で頭が焼き切れていたに違いない。用もないのに裏門なんて行くわけないんだ、普通なら。そしてこういう日なんだから、高校生にもなったんだから、先に感付くべきだったんだ、きっと。
 でも、それは私がその事を最後まで見てしまったという事実を覆すものでも何でもなく。後悔の念にさいなまれそうになるたびに、その映像は何度でも私の頭の中へと流れ込んできた。誰かがいる。岡野君は躊躇しない。きっと前からそういうことで、今日もそういうことになっていた。その子の顔が赤くほころんで、嬉しそうに岡野君がはにかむ。そこで理解したはずだった。理解したならさっさと取って返して、その方が浅い傷ですんだだろう。
 ――雪だから傘は持ってきていない。左手で肩と頭をさっと払った。手袋越しに、ゼリーの表面をなでるような感触。ビブレの入り口の軒下を借りる。少しだけ落ち着いて前を見ると、雪はまだ降り続いていた。雪は白かった。空がくすんでいれば一段とその白さが際だつなんて、誰も教えてくれなかった。広場には雪の上に靴跡が獣道を作って、そこだけ石畳の桃色と灰色がにじんでいる。獣道の周りは雪が汚かった。濁っている。その汚い濁りの一部は少なくとも自分の靴が持ってきたんだと思うと、ひどく憂鬱な気分になった。
 あの時。その子が鞄の中から取りだした、オレンジ色のラッピングで包んだ箱を、その子はしどろもどろに両手で持って、その子はぎゅっと目をつぶって、その子はまたゆっくりと目を開いて、その子は勢いよく岡野君の前に突き出した。その子の口から洩れだした白い息がどんな言葉をたずさえていたのか、私には聞き取れなかった。
 岡野君はくすりと笑って、その箱を――チョコレートをじゃなくて、それを強く握っていたその子の震える手へとそっと自分の手を重ねて、そうだ、驚いて顔を上げたその子の、岡野君はその子の手を引き寄せて、たぶん二人のどちらも私が見ていることなんか気付きもしないで、バランスを崩してよろめいたその子の、岡野君はその子の体を胸の中に抱き止めて、チョコレートだけは決して離さずに火照った頬で顔を振り上げたその子の、岡野君はその子の口に――。
 結局、それを私は最後まで見てしまった。最初は呆然としていただけなのかもしれない。でも、最後には明らかに自分の意志で見ていた。なんで見ていたのかは分からない。だけど確かに自分の意志で見ていたのだ。
 雪がしんしんと降っている。私の横に立っていた化粧の薄い女の人が弾んだ声を上げる。間もなく男の人がやってきた。言葉を交わして、二人して店の中へと入っていく。ひょっとしたら、私も誰かを待っているみたいに見えるんだろうか。いかにもそれらしい赤い紙袋を提げていて、それに傘を持っていないのだって相手が持ってきてくれるから。服装は制服。実にお似合いだ。ちょっと浮かれて放課後に都心まで出てきた女子高生。あと数分もすれば隣の高校の制服を着た男の子が息を切らしてやってくる。
 もちろん、そんな事はあり得ない。
 第一、今の空想は何だったんだろう。丘の上の高校にはそんな知り合いなんていない。だとすると――誰でもよかったと、別に岡野君だからじゃなくて、そういうことだったんだろうか。そんな茶番のためにこの日曜日、あそこに見えるジョイナスまで出てきて、わざわざこのチョコレートを買ったのか。
 なるほど、確かに欲求不満だったかもしれない。周りの子からそんな話ばかり聞かされていたし、うんざりしつつ私もちゃっかり聞いていたし。だから岡野君がそんな状況だと見て取って、自分が何をしにきたかも忘れて見入ってしまったと。そんなところだろうか。
「……最低」
 自分の浅ましさに自分で吐き気がする。何だ。結局あの子たちと、下世話な内容で瞳を輝かせていたあの子たちと自分も大して変わらないじゃないか。そう思った途端に、気分が急に軽くなるのを感じた。
 所詮、私もその程度の人間だったんだ。
 それで十分な話で、それは恐らく一つの真理で、それで全部の説明がつく。現にどうだ、あの二人の口の間に――何か赤い塊が覗いたのを、私はそれに釘付けになっていたじゃないか。きっと目を輝かせながら。
 雪の上についた獣道、そこに降ってきた雪のひとひらが白を失って、汚泥のような色へと変わる。私はうっすらと笑みを浮かべて、口から熱気のある息を洩らした。
「あっ、友里」
 呼ばれて反射的に背筋が伸びる。
「誰かと待ち合わせ?」
 聞き慣れた声だった。慌てて振り向くとき、紙袋の紐が手袋のナイロンと擦れる不気味な感触が手の平に伝わってきて、反射的にそのきれいな飾りリボンに目が行った。
 声の主は咲子だろう。かれこれ十一年にもなる付き合いだし、万が一にも聞き間違えるはずはない。でも、それが勘違いだったらいいのに、と思ってしまう。咲子に今の私を見られたくなかった。すぐそこにある川の中に飛び込んだ方がまし、とさえ考えてしまう。
 それでも恐る恐る視線を上げると、すぐそこにある顔は。
「咲子――どうして」
「買い物だよ。弟にね、バレンタインだもん」
 そして、案の定、咲子だった。私の顔を見て屈託のない笑顔を見せる。すぐに私の持っている紙袋にも気が付いたらしく、おお、と小さな歓声が上がった。さあっと全身の血が引いていくような感覚に襲われる。
 見ないでほしい――いや、でも。
「やっぱり待ち合わせみたいだね」
 咲子の声が遠くに聞こえる。
 ああ、やっぱり気分は最悪だ。
 ひどく悪い。



 いつの間にか、雪は雨に変わっていた。
 ビブレでチョコレートを買おうとしていた世間知らずをジョイナスの地下まで誘導して、ついでに選ぶのも横から手伝ってあげた。咲子は結局高めのと安いのとを一つずつ買っていて、高めのは自分用、安いのは弟用だと言う。
「え、友里、傘持ってないの? なんで?」
「いや、元々こっちに来る予定なかったし……」
「雪だよ、ふつう持ってこない?」
 決して持ってこなかったわけじゃなかった。私の水色の傘は、たぶん学校の傘立てに置きっぱなしになっている。あの後そのまま来てしまったのだ。もう部活だって終わる時間だし、今頃きっと私の傘だけが残っていることだろう。
 雨は小雨だった。横浜の雪は水気が多い。気温が少し上がるだけで、すぐ空の上で融けてしまう。
「仕方ないなあ」
 ふわり、と咲子が傘を広げる。紺色のシンプルな傘だった。咲子はそうして雨の中に一歩踏み出して、怪訝そうに私の方へと振り返った。傘の右側が開いている。
「行くよ?」
「あ、……うん」
 反射的に自分の体を滑り込ませる。咲子が歩き始めて、私もそれに付いていった。西口の大通りにはまだそれほど人も多くない。目に入るのは足早に一人で歩いている姿ばかりで、それで少しだけ心も落ち着いた。
「傘なしで大丈夫だったの?」
「まあ雪だったし。雪なら子供の頃に慣れてるから」
「でも服が濡れたらきついでしょ。寒いし」
 言われて自分の制服を確認してみる。袖や裾のところが心なしか湿っていた。スカートの先もそう。そして何より靴が濡れていた。靴下まできている。歩きながら靴の中で足の指を小さく動かしてみると、水気を含んだ厚い布地がべっとりと肌にまとわりついてきた。感覚も鈍りかけている。
「大丈夫だと思うけど」
 口先では一応そう言っておく。咲子に余計な心配をかけたくなかった。でも、咲子の顔はまだ晴れない。
「本当に? 顔が冴えないけど」
「心配しすぎだって」
「……ならいいんだけど」
 それで沈黙が降りてくる。後はただ、足下でペースト状になった雪を踏む音だけが聞こえていた。私の左肩に雨が当たっている。雨は雪よりも直に肌まで染み通ってくる。服を濡らせば後で母親に怒鳴られるかもしれない。私は、むしろそう考えるようにした。
 信号で止まる。その拍子に私の持っていた紙袋が、軽く咲子のスカートに触れた。咲子は何も言わない。気にかける様子さえ見せなかった。
 第一、きっと咲子の方でも気が付いているはずだ。私は誰かと待ち合わせをしていたわけじゃない。紙袋の柄は自分のチョコの包装と同じ。そして私たちは今、駅から家に帰ろうとしているのだ。それなのに何も言わないでいてくれる。私は不意に後ろ暗くなった。咲子に気遣われる資格なんて、多分、私にはない。
 足がかじかんで、軽い痺れのようなものを覚える。早く家に帰ってしまいたかった。帰って、そのままベッドの上へと倒れ込んでしまいたかった。だけど、倒れ込んで何を忘れられるわけでもない。何にもならない。
 もの足りない、という思いが私の中で渦を巻いていた。何がもの足りないのか自分でも分からない。もっと先まで見てしまえればよかったのかもしれない。例えば岡野君の手がそのままあの子の胸へと伸びる。そのまま――どこまで見れば私は満足するんだろうか。
 その時、突然、耳元にため息のこぼれる音がした。とっさに心臓が跳ね上がる。自分でも顔が赤くなっているのが分かった。咲子の方へ振り向いてしまう。咲子はまっすぐ信号の灯を見つめていた。その頬に薄く紅がさしている。その瞳が私の顔を捉えそうになって、私は慌てて前へ向き直った。呼吸が元に戻らない。目元が熱を帯びている。
 信号が青になって、私も咲子もまた歩き始める。
「さては」
 横断歩道を終えたところで咲子が呟く。私は溶けかけた雪の塊を踏んでしまった。靴のめり込む嫌な音がした。冷や汗が流れるような感覚。
「疑ってたでしょ。私が本当に自分で食べるか」
「ち、違うから!」
 上ずりかけた声が、ゆっくりとしぼんでいく。
「すぐ動揺しちゃって。友里ってそんなかわいいとこあったんだ。素直になればもっとモテるのになあ」
 ――だけど、動揺したのは確かだった。そしてその後にすぐ安心したのも。
 咲子はころころと笑っている。本当にいい笑顔だ。
 なのに、私は。
「……かわいくなんて、ない」
 暗い声に、なった。
「あの、友里?」
「私がかわいいはずなんてない」
 分かっている。咲子の言葉は冗談で、私は軽い気持ちで滑稽に否定すればよかった。そうすれば全部は丸く収まって、そうすれば何も起きずにすんだ。
 無理だった、けど。
 そうして再び言葉は途切れた。言葉が途切れると心の中にはからっぽが残った。その奥を見てみる気にはなれない。もう何も考えたくなかった。
 橋にさしかかる。私は未だにのうのうと咲子の傘の中に収まっていた。雨に降られる左腕がかじかむ。でも咲子の右腕だって雨に濡れてかじかんでいるはずだ、と考えると自分の身勝手さがいっそ心地よいものに感じられてきた。
 川面を見ると、よく分からない油のような汚れがあちらこちらに浮かんでいた。それが川の流れにあわせて、ゆっくりと、ゆっくりと無精そうに動いている。この川は私に似ているんだ、と思った。雪の解けた雨は川の中に抵抗もなく吸い込まれていって、あの汚れと同じ淀んだ水の一滴になる。
 そうして、そういう汚れは意外と快適なものだ。
「ねえ、咲子」
 言葉は勝手に口から出ていた。
「何?」
「あのさ、これ、咲子にあげる」
 自分の持っていた紙袋を掲げた。
「でも……」
「いいんだって。ほら、傘に入れてくれたお礼。それに、さっきは酷いこと言って本当にごめん。あの時はちょっと――気が立ってたの。変なこと考えちゃってて、ね?」
 咲子が逡巡したような表情になって、足が止まる。勢い私もそうなった。私たちの横を銀色のスポーツカーが走り抜けていく。スポーツカーは路面の水を低く蹴散らして、すぐに見えなくなった。小雨の降りかかる橋の上で、私たち二人だけが佇んでいる。
 自分の手がかすかに震えている。手袋をしていても寒いからだ。まるであの子と同じじゃないか、と自嘲気味の笑みがこぼれた。やがて咲子はきゅっと唇を結ぶと、傘を持っていない方の手を紙袋の方へと静かに伸ばしてきて――私の手袋に重ねた。
「私は――私は、友里に何があったのかは知らない」
 そう言って私の手を軽く握る。
「でもね、友里がそれを私のために買ったんじゃないっていうのは分かってるつもり。別に私は女子からでも嬉しいんだけど――いや、もちろんそういう意味じゃなくてね。だけど、やっぱり友里のそれは……」
 咲子の手が離れていく。
「受け取れない」
 縋ろうとしない私の手は、止まったままだった。
 私が呆然として何も言えずにいると、咲子は小さく首を傾げてから私の両目を覗き込み、くしゃりと顔をゆがめた。
「自分の気持ちは大事にした方がいいよ」
 ……ああ、そうか。
 からっぽだったところに、雪解け水のような透き通ったものが流れ込んでくる。そうして少しずつ満たされていって、一か所だけ、さっきまではなかった空洞ができているのに気が付く。透明な水はそこには入っていかなかった。ただ、さっきまでそこにあったはずの暗い濁りはすっかり消え去ってしまっているようだった。
 私は、失恋したんだ。
 言葉にすると、言葉にならなかったものが、瞼の裏から言葉のかわりに溢れだしてくるのを感じた。にじんでいく視界の中で、咲子が途端にあたふたとし始めるのが分かった。余計な心配をかけないためにも、私は改めて笑顔を作ってみる。
 小雨の降る橋の上で、私たち二人は佇んでいた。
 雪の解けた小雨は、意外と温かかった。



 夜にはまた雪に戻っていた。
 案の定、制服を濡らして母親には散々しぼられた。傘を学校に置いてきたと言うと、罰として夕食のおかずを一品抜かれてしまった。それで私はお風呂から上がったとき、普段より少し小腹が空いたままになっていた。
 パジャマに着替えて部屋に戻ってくると、机の上に飾りリボンの付いた赤い紙袋が置いてある。底の方がちょっと濡れてにじんでいるけど、さすがに中の箱は厚紙だから大丈夫だろう。実際、ジョイナスの地下まで出向いて買ったチョコレートだ。普段ならおいそれと手を出せるものでもない。
 そう考えると現金なもので、たちまちお腹の虫が鳴る。ついでに生唾をごくりと飲み込んだ。どんな味がするだろうかと想像してみる。
 なるほど。今の私に足りないものは確かに目の前にある。
 たちまち自然と頬がゆるんだ。

 きっと、私は明日の朝、少しだけ太っている。

流れる澱(稗貫依)

稗貫です。丁度1年くらい前に書いた作品。当時の作者の瑞々しさが滲み出ています。
なお、2013年はバレンタインデーもホワイトデーも平和な日常が過ぎて行きました。

流れる澱(稗貫依)

横浜の街に雪が降る、雨が降る。二人の高校生とチョコレートの話。 初出は部誌『Noise 39』(2012年2月発行)。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-29

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