サイボーグの過信

サイボーグの過信

 先に発表した「サイボーグの目覚め」の続編となる今回の作品は、一応「サイボーグの過信」というタイトルで落ち着きました。まあサイボーグというテーマで、石ノ森さんなんかを思い浮かべて、これにたどり着いた方には、たいへん申し訳ないという思いでいっぱいです。でも身体の中に金属が埋め込まれて、それが命を支えてるといたら……どうです、立派なサイボーグでしょう。

1 自宅療養

 2007年8月、まだ40代という若さで(若くないだと?まあ、そうかも知れない)大動脈弁置換手術と冠状動脈バイパス手術を平行して受けた。心臓に埋め込まれた人工弁はチタン製で、100年は保つという代物だが、我が肉体がそこまで保たないだろうと思う。人間は永遠ではないのだ。
 さてその高性能人工弁も血栓が付着すると身動きが取れなくなるので、ワーファリンという薬を飲まなくてはいけないのだ。この薬がなんと昔は殺鼠剤だったのだ。それもそうだろう、血液がサラサラになるのだ。なんだか良さそうにも聞こえるが、出血しやすいし、一度出血をするとなかなか止まらなくなるのだ。
 ネズミなら死ぬだろう。人間だってこれから子供を産む気満々のお嬢様や流血なんのそのといった格闘家には酷な薬なのだ。だからそんな人には機械弁などは使わず、生体弁を使う。そうすればワーファリンを毎日相当量飲むといった事は必要なくなる。
 まあ機械を仕込まれたサイボーグにはワーファリン必須であって、こいつの特性は十分熟知しなければならない。毒を以て毒を制す、というわけではないが、コントロールしていかねばならない。基本的には決められた用量を毎朝食後に飲むという事だ。
 ちなみにワーファリンは、殺鼠剤として使われる前に、20世紀の初頭北アメリカの牧場で、牛の謎の多量出血死を解明するときに発見されたという。牛の飼料がスイートクローバーに変えられつつあった時に、腐ったスイートクローバーにワーファリンの元となる出血誘発物質が含まれていたという。
 じゃあ、その出血を抑えるにはどうするのか。ビタミンKを投与するんです。ビタミンKは血液を凝固させるのです。……だそうだ。
 ハブとマングース、水と火、水と油?まあ天敵というわけではないが、必ず片方が行き過ぎた時に、抑制するものがあるのを聞くとなんだか安心しませんか。2大政党制だって共和党が駄目なら民主党とか、それで駄目なら自民党とか(日米が合体しとる)ね。
 書いているのが、あの震災から数ヶ月なので挿入しますが、どうもあの放射性物質は、天敵がいないですよねえ。半減期が短ければ、その間我慢する事もできますが、30年(セシウム137)って!ウラン238なんて45億6千万年って……。
 元に戻そう。
 ワーファリンにとっての天敵、ビタミンKは、ワーファリン常用者にとってももちろん天敵で、その親玉が”納豆”だったりする。納豆、良かった、大好物ではない。さらに敵の助さんが”クロレラ”、角さんが”青汁”なので、安心だ、敵ではない。これが卵や牛乳なら致命的なのだが……。卵や牛乳がアレルゲンのアトピー患者なんか、可哀相だ。
 納豆、クロレラ、青汁など食べなくても、まったく問題ない、と個人的には思う。ただそれだけでは済まなかった。その後ろに控えしショッカーの戦闘員の位置にいるほうれん草、キャベツ、ワカメ、ニラ、ブロッコリー等も大勢でかかってこられると脅威になるというのだ。気をつけよう。
 とにかくワーファリンを飲み、ワーファリンの天敵を食べない事が大事なのだ。ただ、ほうれん草、キャベツも別な意味で必要な食物なので、適度に食していかねばならない。そうやって血栓を作らないように、機械弁に負担をかけないように、エンジンオイルのごとくサラサラにしてやらなければならない。
 入院中は、薬の飲み忘れを看護士が管理してくれたし、食堂に行っても他の入院患者と献立を区別させられた。退院後はもちろん自分で管理しなければならない。また家族の助けもあって、食事にはかなり気を使ってもらった。
 退院してきたのはいいが、正直病室慣れしていたので、病室じゃないところで何かあったら怖いような気がしていた。家内は気を使い、ダブルベッドを一人で使わせてくれて、彼女自身は、布団で寝るようにしてくれた。もちろん退院してきたばかりの病人に何かあってはいけないと当然思うではあろうが……。
 おかげさまで特に重篤となる症状には襲われず、平穏な日々を過ごした。毎日少しずつ外出を試みて、日に日にその距離を伸ばしていくことができた。江東区森下のマンションから、隅田川の新大橋まで、普通なら5〜6分の距離を15分くらいかけて歩いたりした。日によっては清澄通りを小名木川までとか、北上して江戸東京博物館とか、新大橋に背を向けて菊川や住吉までとか、東西南北を日替わりで散歩コースとしていた。
 延ばすのは、散歩の距離ばかりではなかった。髭もまたこの時期とばかりに伸ばせるだけ伸ばしてみようと試みた。もちろんサラリーマンには御法度である。それが接客業となればなおさらだろう。こんなチャンスはまず無いに違いない。取りあえず顔を洗う意外に何もしなくてもいいのだかららくちんでもあった。
 そしてこの自宅療養1ヶ月は、音楽三昧の日々でもあった。特に自作の曲を作る創作活動にとっては絶好の環境だった。手術前に何か生きていた足跡を残したいということで某動画投稿サイトに登録し、これが遺作かもしれない「サイボーグ」という作品をアップしたりしていた。これには、手術体験者からコメントをいただいたりしていた。
 サイボーグとなって生き返った僕は、生きていると悟った瞬間から、「サイボーグ」をリメイクするための英詩の作成を行っていた。実は入院中にその歌詞は完成していて、録音すればいいだけになっていた。退院して3日もすれば、歌声は取り戻すことができた。ただし、息継ぎが苦しいのだけはどうしようもないことだった。
 さあ、このリメイク作品をご覧あれ。髭もじゃの男が出てきて、目をぎらつかせて歌うのだが、入院中のいたいけなショットが満載されている。入院時の事や、自宅療養時の記憶が、自分自身、これを見る事で蘇ってくるのだ。

2 職場復帰

 9月半ばに退院してきて、職場復帰は10月16日に決定した。復帰間際には、全く苦にならないくらいに遠出も出来たし、サイボーグの利点を活かして、江戸東京博物館、現代美術館、上野動物園等を無料で巡り歩いた。 サイボーグといえばかっこ良く聞こえるかもしれないが、要は身体障害者だ。利点というのは障害者手帳のことなのだ。ただこの時点では、けして身障者であることに抵抗はなく、むしろ利点ばかりがクローズアップされていて戸惑うくらいだった。
 会社の上司、先輩がこぞってお見舞いに来てくれた。入院前に所属していた営業部のメンバーの寄せ書きや復帰にともなう厚生年金等の書類を手渡しされた。そんな風にされるとやはり職場に戻っていくのがなんとなく普通に思われるのだった。
 今回の入院に関して、母親はこの息子に対して、働かなくていいから実家に戻ってくるように、と散々申し出ていたが、それは断る事にした。それはこの手術によって、今まで以上に心臓の調子が良くなると思っていたし、まだ仕事を放棄するような年代とは思いたくなかったからでもある。
 実際、自然と職場には復帰していった。ただし最初は、なんだかやたら怖かったような気がする。多分元の所属店舗だったら、同僚が気を利かせて、僕に仕事を回さないようにしたかもしれない。だがそれだと返って元には戻れなかったろう。
 僕が復帰する直前に社内で大幅な人事異動が発令され、それにともなって僕の復帰場所が船橋になってしまったのだ。ちなみに元いた場所が蒲田だったのだけれど……。社歴はまあまあ長いから、船橋といっても知らない訳ではない。そして船橋の彼が上司だったから、案外早く復帰出来たのだ。
 その船橋配属が決まるまでの間、蒲田にも顔を出していた。退院してきたはいいが、実際顔を見せてはいなかったので、挨拶に訪れた。そして蒲田には戻ってこれないのに快気祝いを行ってくれた。蒲田は本当に良い同僚に恵まれたと思っている。
 前後するが、それなりに有意義に過ごしていた療養期間が終わろうとしていた時、船橋にも出勤数日前に挨拶に行ったが、やはり髭は御法度だった。分かってはいたけれど、口に出して否定されると何となく寂しかった。鏡の前で髭を剃っていく時に、段々サラリーマンの顔になっていくのが、やはり残念だった。きっといつか退職して自由の身になったら、伸ばしてやろうと決意を固めた。
 船橋店は、支店の中でも古い方の店で、顧客もなんだか古い体質の染み付いた輩が多かった気がする。そして上司の彼もそんな輩に負けず劣らずの人だった。彼が上司だったから、僕は早めに復帰出来たのだと思う。今となって特にその思いを強くする。
 面白いのは、1ヶ月して東京駅の支店に異動になるのだが、その彼もまた同じ支店に異動になった。つまり二人一緒に船橋から東京に異動になったのである。この異動を決定した人にも後で振り回されることになるが、それはまだずっと先の事なので、ここでは触れまい。
 船橋での1ヶ月で、最も記憶に残っているのは、年に一度の全体集会が行われたことだと思う。これは、全店が早仕舞いをして一同に会するので、年に一回懐かしい顔に会えるというイベントなのだ。今は無くなってしまったイベントだが、まだ眼鏡業界自体に勢いがあったのかもしれない。
 もちろん蒲田のメンバーはもちろん、以前所属した事のある新宿や吉祥寺方面の懐かしいメンバーたちとも交流でき、近況を話し合った。当然ながら僕の手術話も話題にあがって、その時の様子等を何回も何回も説明することになった。
 船橋から次の東京駅の店、場所的には八重洲なので八重洲店としておこう。ここには都営大江戸線を門前仲町で東西線に乗り換え、日本橋で降りる、という通勤手順をとった。この頃になってやっと日本橋と東京駅の地理的な関係を把握する。
 日本橋と言えば、古くは江戸時代、5街道の拠点だった場所である。全部言えるかというと最近はネットでささっと調べられてしまうから便利だ。うろ覚えのまま書くと、その努力を放棄してしまったことがばれてしまうから、調べざるを得ない。
 最も有名なのは東海道で、ゴールは京都の三条大橋、53の宿があることから東海道五十三次と言われていました。近代になって鉄道をひく時に東海道本線、東海道新幹線もこれにほぼならって作られたようですし、道路そのものは国道1号として受け継がれました。
 残りの4街道は、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道であるが、これについては今特に書き記す事でもないような気がするので、このくらいで軽く流したい。ただこれらの道路も国道として受け継がれ、主要なだけに高速道路の復旧も早かったルートである。
 そんな交通の拠点日本橋の上に高速道路が走っているという図が、いかにも東京なのかもしれない。いわゆる昔繁華街の名残を多く感じさせてくれる。2004年に新館を増設した三越と老舗の風格を残す高島屋が頑張っているところが、素晴らしい。
 いや、現在も再開発ということなのか、生まれ変わってお洒落な商業施設も増えてきているから頼もしい。2004年に出来たコレド日本橋、2005年に竣工された日本橋三井タワー、ここには1階に千疋屋の日本橋本店がある。
 こんな日本橋界隈の八重洲支店に配属となった2007年10月八重洲ファーストフィナンシャルビルが竣工された。日本橋駅に直結しているため、このビルの地下を通り店まで通うのだが、このビルの地下1階に近隣で働く人の憩いの食事スポット「モグモグキッチン」が併せて作られた。
 僕が異動となってほぼ同時であったので、何だかうれしく、特に上島珈琲店は、数回利用させていただいた。上島珈琲店はコレド日本橋にも入っていて、お気に入りだった。なにせ、あの、世界で初めて缶コーヒーを作ったUCCの上島珈琲だ。凄いに決まっている。ほめ過ぎか?

3 創作活動

 職場復帰する前から、創作活動に熱が入っていて、まあそれは自宅療養中、散歩するくらいしか楽しみがなかった、ということも多少の理由には違いないが、要は仕事をしてないものだから、気が楽だったというのが本音かもしれない。ところが仕事を始めてからも創作意欲は衰えず、曲を作り続ける事が出来た。
 20代に描いた音楽活動の夢に蓋をして、現実という名の急行列車に飛び乗って、各駅停車で味わえる風景というものに背を向けて生きてきたというわけだ。そう言いながら時々は、路傍の花に水をあげたりはしていたのだけれど、今回は多分本当に急行から各駅に乗り換える事に成功したような気がしていた。
 この辺りのやり取りはブログに残されていたので、ブログからの引用で繋いでいきたいと思う。
 
 2007年10月24日
 
蒼き風に舞う

原曲は「風の少年」といいます。歌詞は1980年代だからまだ20代の頃ですね、曲は2002年頃完成してBGMとしてはサイトで流してました。サビのあたりのメロディーが納得がいかずそのまま放置されていましたが、長期の自宅療養中(9月10日退院、10月16日仕事復帰)、なんとかお披露目となりました。以下が歌詞でございます。

見知らぬ街に
タバコを吹かし
少年は通り過ぎて行く

虚ろな夢を追い掛けて
何処にあるのか知りもせずに

春の気配だけを頼りに
街角から流れる歌に口笛を合わせる

夜の闇を恐れもせず
部屋の隅でギターを弾いてる

奏でる音に夢を乗せて
明日の道を探している

春の訪れはもうそこまで
履き古した上着を捨てて身軽な気持ちで

朝が訪れラッシュアワーの街に
背を向けて鮮やかに
蒼き風に舞う軽やかに
蒼き風に舞うしなやかに

2007年12月20日

新曲「悠久を超えて」


明日になれば忘れられることも
今日は心に重く被さってる
そうして今は暗い道を一人
通い慣れた坂道の国道
車を避けながら足を運んでいる

信じていれば救われることも
足の先から凍り始めてる
こんなに辛く感じられるくらい
深い想い 抱き続けていた
笑顔を見るためにドアを開けるまでは

深い海の底に眠る
昔栄えた文明思いを馳せてる
不思議なくらい落ち着いている
何もなかったように

会いたくなってベルを鳴らした
返事が無くてノブを回した
鍵もかけずに危ないなと声に
しようとして思わず飲み込んだ
二匹の獣が瞳を光らせてる

裏切られても他人を憎むな
傷ついたとて武器をつかむな
愚かさに今気が付かされたけれど
顔を上げて 無意識の底から
暗闇を引き裂き明日へ生きるため

深い海の底に眠る
昔栄えた文明繰り返すほどに
愚かというのか
深い海の底にかつて
栄えし者達がいた
黄昏に時を失いはしない

2007年12月23日

新曲「標なき道」


幽かなる息を吸い込む音に
気付いた夏は彼方に
静けさの中で破片を拾う
砕けた身体と知らず

浅き夢みし午後の語らい
遙かなる大地を背に

いつか振り返る日のために
共に優しさを交わしている

夢の隙間からこぼれて落ちる
砂の粒数えるよに
意味のない時を費やしながら
徒労に終わりため息

午後の日差しの温もり浴びて
声にならない言葉に

計りしれない明日を見て
共に虚しさを交わしている

遙かな想い時を隔てて
蘇る熱き想い

明日を描くキャンバスに舞う
慣れた筆さばきに想いを馳せ
赤い絵の具を絞り出しながら
闇に明かりを灯し続けてる

いつか未完の作になれども
共に標なき道歩いてる

2008年01月16日

今年最初の曲「アルキダスト」公開!

1月1日から3日にかけて作っておりました「アルキダスト」を本日アップしました。

アルキダスト

閉じ込めた過去の記憶
透かして見ている今日の
淋しさを今噛み締め
歩き出す時間心は沈黙の彼方

誰人も忘れている
秘密の言葉の意味を
刹那さに今ほだされ
過ぎ去る昨日に歯止めをかけて思い出す

悲しい涙を流す瞳の向うには
敗者の意識が渦巻く都会が見える
競うだけの生き方を捨ててしまうのなら
明日は一筋の希望が輝いている

背を向けて影を見てる
問いかけた人も消えて
救いなき日々語れる
文書もどこかに隠されて埃を被る

寂れた時計の歯車の一つになれば
ただ回ることだけを考えて明日を待つ
無意味な言葉を吐き出すのはいつも一人
狂った歴史の中に時間を忘れてる

仕組まれた罠を避けて
閉ざされた道を選ぶ
生きてゆく今心は
揺れ動くたびに霧が行く手を阻んでる

閉じ込めた過去の記憶
透かして見ている今日の
淋しさを今噛み締め
歩き出す時は心は沈黙の彼方
歩き出す遠く心は無人の海原

2008年02月13日

新曲「空を飛ぶ箒がなくても」公開!(今年2曲目)


空を飛ぶ箒がなくても

誘われて何処までもついていく
気まぐれな瞳の裏側に
やりきれぬ哀しみ滲んでる
終わらない昨日が追いかける

付いてきて離れないで
足跡が消えないうちに
太陽が沈まぬように願いを捧げよう

抱きしめた心は冷めすぎて
暖める言葉は固まって
降りしきる雨の中突き進む
夜は今静かに訪れた

付いてきて恐れないで
泥濘が邪魔をしても
残酷な闇の中で願いを捧げよう

素敵なことだけ頭に描いて
弾けるリズムを刻みながら
確かなことだけ分かっているなら
迷うことはない
いつだって

紫色の夜明けが今二人の身体を包み込む
砕けとぶ破片をすり抜けて
新しい時代のベルが鳴る

ここにいて離れないで
輝きが衰えてしまっても
空を飛ぶ帚がなくても
想いを伝えよう
胸に希望が湧いてきたら
大切な明日を抱きしめる


2008年03月13日

新曲「白い髭はここにある」公開!今年3曲目
毎月1曲アップできてますね。快調!快調!


白い髭はここにある

大きな河を渡って列車に飛び乗り
街から街に遠くへ旅路は続く
人も羨むよな思い出を語り出す
白い頬髭なで回して笑ってる

祖国を追われて北の氷の大地を
愛する人と共に彷徨い続けていた
涙無くしては語れない物語
低く嗄れた声で話してくれる

疲れて眠った顔は
やさしさ溢れる
時々怯えたように
寝言を呟いてる

明日はまたどこかへと
旅立つ定めを
背負って生きるすべての
命に祈ろう

少し気になり始めてミラー横目で
覗いてみれば確かに気になることだけど
どこか似ている頬にあったあの印は
あの白い髭はここにある


2008年04月17日
新曲「サイレント・ライフ」公開!今年4曲目
本当に1ヶ月に1曲ペースで作成されている。好調です。

サイレント・ライフ

深い悲しみに心奪われて身動きできない
明日が来ることなんて今は気にしたくない
空は変わりゆく雲が風に運ばれて流れてく
まるで凍えた姿を笑う悪魔みたいに

だけどいつかは何もなかった
様なふりして現実をこなしてく

風が隙間を吹き抜けてゆく
ハウスダストが舞い上がり器官を襲う
朝を待たずにベッドを降りる
孤独の闇の中に見ている倒れていく姿を

やわらかな人に誰も癒されて夢に溺れてる
終わりなき覚醒の悪夢は胸を蝕む
夕闇の中で明かりともる部屋の中を覗けば
愛する人達の温もりが伝わる気がして

だけど本当の事は言えずに
ホームシネマに助けを求める

使者が訪れ告げる言葉は
エンドロールを巻き上げて探しつづける
窓は開かれ誘いの声は
特別なものだけを招いて取り込んで果てる

眠れぬ夜に部屋を抜け出し
静かな街を彷徨ってる
夢の彼方に走り去る人
仮面の中の歪んだ笑顔を

鏡の中で見破る鍵は
ゲームサイトの番人が握りしめてる
朝日が闇を溶かし始める
無理は望まず生きてゆこう
このサイレントライフを

変わらない日々を誰も気まぐれに生きている
走り去る人は消えて時を静かに紡ぐだけ


2008年05月17日

新曲「Flight Plan」公開!今年の5曲目
 もう、意地になってますかねえ。ひと月に1曲!頑張りまっせ!

Flight Plan

交わした言葉の数だけ伝わる想いもあればと
かすかな期待を寄せてもつまりは自身のためだけ

救いの天使は哀れみ情けに身を寄せ一夜を
過ごしてみるけど朝には
醜い姿に変わってる

フライトプランを信じて
急いでエアポートに乗り付け
搭乗手続きすませば誰かに
呼び止められても振り向きはしない

刃を研いでる夜更けに/静かな不安に襲われ
はがれた仮面を脱ぎ捨て
素顔でこの世を呪ってる

フライトプランにはなかった
セキュリティーチェックに戸惑う
思いもかけない悪意の仕業に
なす術なくして空を見上げてる

わずかな希望を求めて/世界の出口を探してる
虚ろな天使の姿が記憶に閉ざされ眠ってる

フライトプランには僅かな
誰にも気付かぬ過ちが
暗闇にいつか一筋の光
希望が羽ばたく大空めがけて

離陸準備…
セイフティベルト…
眼下に小さな束縛の世界
過去から抜け出し自由を求めて


2008年06月30日

新曲「坂道の記憶」公開!今年の6曲目

 1ヶ月に1曲、なんとか公約を果たすことができました。それもギリギリ30日です。今朝少し時間があったのでアップ作業をいたしました。
内容は、20代の頃の想い出+最近の自分。タイトルは処女小説のタイトルとこのブログのタイトルとを重ね合わせてます。人生という坂道はいつの頃から下り坂に変っていくのだろうか……なんてね。

坂道の記憶

階段を登れば見えてくる丘の上の
夢幻という名前の木造アパート
思い出を語らう友の声が聞こえてきて
明け方の始発で海に行こう

あの頃は坂道下ってるなんて思いもしなかった
やがてくるその時をこの手にするのなら
傷つきはしない踊り疲れても

階段を登れば木々の中異彩放つ
懐かしい思い出詰まったアパート
さよならは唐突に気まぐれなその性格
いつの日か戻ることもあるだろう

あの頃も坂道下ってるなんて思いもしなかった
やがてくるその時を夢に描きながら
ストレス飲み込む夜更けの盛り場で

坂道を上るイメージでいつも仕事をこなしてきた
知識を身につけ、要領もつかみ、力もついてきた
ライバルは消えて一人マイペースで優々生きてきた
思えばそれこそ坂の頂上に向かっていたと気づく

今日はなぜ坂道下ってるように感じてるんだろう
もう来ないその時は思い出の中に捨てて
痛みを感じるくらく湿った部屋で

2008年07月20日

新曲「サスフォー」発表! 今年7曲目!

7月で7曲!順調!今回仮タイトルのまま、良いのが思いつかずそのままにしてます。でも最初からSus4コードなんですよ。

サスフォー

再生の夢に囚われて
無くした記憶をまさぐる
どこまでも続く砂浜に足跡見つけて振り向く
ストライプのシャツ脱ぎ捨てた肌に
ペイントされた蝶が舞う

喧噪の中で聞こえてる
埋もれたサインに振り向け
流れ行く時はいたずらに間違いを正す事もなく
スロープを滑り金網の向う
歪んだ日常飛び越え

風に揺らいだ頬を擦れる髪
一夏の思い出に
明日のことさえ考えられない
重ねた指先を見る

青い海空と解け合って
沖を行く船に手を振る
唐突に脳裏を掠める記憶の欠片に怯える
スローモーションで時が遡り
底知れぬ絶望に遭う

翳す手のひら眩しさを避ける
仕草さえ幻と
深い記憶の中に刻まれた
裸身の姿に似て

数えきれない夢のリフレインは
果てしなく傷つける
流す涙の意味さえ分からず
さよなら告げる人が
夏と共に消えてゆく


2008年08月28日

今年8曲目の新曲「ノイズの向うの真実」発表!

 8月で8曲目、予定通りでごわす。

ノイズの向うの真実

確かな記憶だけ追い求めてる雨の中で
ワイパー越しに見る久しぶりの故郷の街に
訪れ……過ぎ去る歩行者に
あの日の少年を重ね合わせてみてる

誰にも話せない話したくない古い傷に
触れてはいけないと背中を向けて煙草を吸う
閉ざした扉にかけられた鍵を開くことは
すぐには出来ないだろう

遠ざかる夢の彼方で呼んでる声は
雑音だらけの言葉の世界で消され
頼りないけれどさあどこまでも歩いてく一緒に

倒れて血を流す力なきものを踏みにじる
頭を抱えてるノイローゼの吹きだまりさえ
怯えて……ロッカーに鍵をかけ
従う振りをして微笑みを絶やさずに

飛び交う情報の渦に巻き込まれた感情
頼みの知識さえ剥げ落ちた粉飾メッキと
途切れた回線は異常の赤いランプ灯す
受け入れられない事態

遠ざかる夢の彼方で呼んでる声は
雑音だらけの言葉の世界で消され
頼りないけれどさあどこまでも続いてく時間の

流れに身を寄せ意識をノイズの向うに

真実の声はかぼそく弱くてもろい
時には勢いのある罵声にどやされ怯える
だけど微笑んでさあ歩き続けていこう一緒に

遠ざかる夢の彼方で誰かが手招きしてる 
雑音だらけの言葉の破片が額に刺さってる
血は流れなくても心に傷を無数にこさえる
きっと君がいるからこうやって歩いていける


2008年09月27日

今年9曲目の新曲を発表!

いやあ、1ヶ月に1曲!おかげさまで続いております。4月発表の「サイレントライフ」以来の手応えを感じております。


アルバムの中の…(11月23日An Albumより改題)


風の音に癒されてるのは
長くつらい旅が終わるから
君と離ればなれになーって
一人寂しさをかみしめてた

安らかなる時のゆりかごは
眠りを誘う振動つづけ
母親の乳房を求めてる
幼子みたいに微睡んでいる

刹那さに心まで
悩まされ涙に暮れてた
あの時からこんな日々が
来るなんて思いも寄らずに
諦めないで時間が心の
澱みを洗い流してく

遠く遙か思いえがいてた
希望にかがやくはずの未来
予測なんてだれにも無意味と
ニュースキャスターは知らない顔

目のまえの嫌な事もいつか
どこか見えないとこに消え失せ
つらく悲しい想い出秘めた
苦しんでいた日々にさよなら

闇の中眠れずに
ラジオのスイッチひねれば
ジョークでさえあたたかな
語り手のやさしさが見える
時には朝を待つのもいいさ
思わぬ景色に出会える

哀しみも喜びも
いつの日か思い出に変るから
過ぎ去る夏を記憶に留めて
ページの中に閉ざして

時にはアルバムめくって今の
「私」と比べて微笑む


2008年10月29日

今年10曲目の新曲「バベル」発表!

 おかげさまで、1ヶ月に1曲のペースを守り抜いています。こんなこと過去にもしたことがなく……いや?20代の頃ですかね。2晩で10曲書いた様な?ただそのスタンスだと5〜6曲つまらない曲ができてしまいますね。
 その中で残ってるのは……みんな残ってるけど……「あの娘の手紙」とかですね。
 ちなみにこの「バベル」、バベルの塔の話がモチーフにはなっています。歌詞を書く時点で参考にしました。しかし結構知らないことって多いですね。もっと勉強しなくてはですね。
 
バベル

寂しげな瞳の中
きらめく星の向うに
閉ざしたはずの心が投げかける疑惑が渦を巻く

例えば誰かに夢を
打ち明けた時でさえも
閉ざした心の鍵はしっかりと握りしめていて

嘆き悲しむその姿いつもこの目にしてきたけれど
夜明けの空に消えてく
星の明かりに未来が見える

行く手を阻むものなく
そびえ立つ夢の塔を
その瞳に見据えてる足下を見ることもなく

暗い谷間を渡る風まるでウイルスの様に忍びよる
不信と裏切り時には恐れを
知らない愚かな行い

遥か昔作られた
天空に向かう塔は
混乱の中に消えて振り返ることもできない

たいそれた野心なんて
抱くはずはないけれど
通じ合える架け橋を
作ろうとしていたかもしれない

輝く未来に残せる何かを
今日も気付かずに作ってる

築き上げたとき思わぬドラマに


2008年11月23日

今年11曲目の新曲!「巡礼」!

 ものすごく内省的な曲で、ほぼ実体験で恥ずかしいなという曲です。


巡礼

七夕の夜に仲間に別れを
告げるパーティーで10年も前の
懐メロを歌い酔いつぶれていたーー

地下鉄に乗って帰路についたけれど
アパートの階段昇ることができず
そのまま眠りについてしまったーー


あれはまだ20代の一人暮らしに慣れはじめた頃
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる


秋風の中でユートピアを求め
フローリング仕様のワンルームに住んで
友との絆を感じながらもーー

見つけた恋の終着駅に
幻想とは知らず突き進んでいった
何をやっても楽しさがあったーー


あれはまだ30代やっと逢えた喜びの中
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる


終着点はスタートポイントでしかないと
幻想から覚めた夜の道

温もりを求め帰路を歩くが
鉛を積めた靴の足取りは重く
三叉路を何度も曲がり損ねたーー


あれはまだ40代少し前の孤独の部屋で
タバコに火を付けて見てる煙の中明日が見えた
時はいたずらに過ぎ一人彷徨う旅を
巡礼と名付けてる


以上ブログから一部引用して新曲メインで掲載しましたが、昔の曲を作り直したり、コンテストに参加して、その経過を見守ったりしていたのもこの頃で、本当に輝かしい。ちなみにすべての曲をアップしていた投稿サイトが消え失せてしまい、別なサイトに移動中ですが、その作業も中途半端で、耳に出来ない曲も多数ありますね。
 とにかくこの溢れ出る音楽的才能?が枯渇せず続いた事が素晴らしく、後半の結末に対するつかの間の喜びであることにやがて気づかれる事でしょう。

4 職場復帰、その後

 年末、蒲田時代のメンバーと食事をする機会があった。皆本当は蒲田に戻ってくるとばかり思っていた。それは僕も一緒だった。
 年末年始は、大人しく過ごした。家内がおせちを頑張って作っていた。三賀日に「アルキダスト」という曲を作っていたのは先に書き記した。「サイボーグの目覚め」という小説だか随筆だか日記だか分からない文章をブログにアップしたり……。
 2ヶ月に1回は定期検診で、例の大学病院へ通った。朝一番で採血せねばならず、採血データに影響が出ないよう、朝食を抜いて病院へ向かう。サイボーグのご褒美として江東区からタクシー券をいただいていたので、結構タクシーで向かう事が多かった。使わないと余ってもったいないので、なるべく使うようにした。まあそれくらい貰えたということだ。
 採血して診察までは、1時間以上時間が空くので、その間に朝食を食べ、食後の薬を飲むのだ。よく利用していたのは、院内にあるタリーズで、ここは入院している時も3時のおやつ時に使わせてもらった。今現在でも診察日の朝食はここである。
 医療控除というものがよくわからず、管轄の江東西税務署にて確定申告を……。ところが、健康保険の高額療養費と生命保険の戻りで、マイナスではなくプラスに転じている場合は申告できないというのだ。一生懸命、歯医者とか通院でかかった費用とその交通費の領収書をかき集めたところ、ほとんど意味が無かった。
 初めてマンションを購入した時も初年度だけ確定申告をしなくてはならず、この税務署に来た事があったが、その時だって用紙の記入方法が難しくて、声をかけて聞きたいのに担当員が圧倒的に少く、精神的にはかなり疲れたことを思い出した。今回も同様に疲れた。
 税務署が終わったと思ったら、今度は社会保険時事務所である。確定申告はただ疲れたという感想だけが残ったが、社会事務所は行って良かったと思う。だいたい「障害年金」なんて、誰も教えてくれないものだとつくづく思った。僕は教えてもらったので語弊があるかもしれない。でもそれも偶然、同じサイボーグ仲間が会社の先輩で、全体集会で聞いていたから、運が良かったのだ。
 だいたい、年金なんて年を取るまでは縁がないかもしれないと誰だって思うだろう。ちなみに僕のように心臓に人工弁を装着したサイボーグは、まず国から身体障害者1級の称号を与えられる。障害者手帳をもらってそれがいろんな割引やフリーパスになることも教わる。ところが、それとこの「傷害保険」は全く別物なのだ。
 まず年金手帳を用意しよう。もし紛失してしまったら再発行できるので、サラリーマンなら会社にいえば書類を送ってくれるだろう。
その他「障害年金」は準備する書類がたいへんだ!医者の診断書、戸籍抄本、裁定書、申立書、受診状況証明書、配偶者の収入がないことを証明する非課税証明書等々。
 窓口になるのは、事業所のある土地の社会保険事務所で、僕の場合は蒲田だ。少し前よりコツコツと揃えてきて、完璧かと思われたら何か書類の不備があって、次の週にもう一度顔を出すことになった。それでもめげずに足りない書類を用意して再トライ。相性のいい担当者に巡り会ったか、ことのほかスムーズに処理が行われ、無事に申請は通った。これにより、数ヶ月後に1ヶ月6万円くらいの年金がもらえるようになる。業界の低迷もあり、収入が少なくなってきている折、この金額は大きいと言わざるを得ない。
 この2月から3月の寒い時期に我々は良く動いていたと思う。僕だけではこの時期たいへんなのだが、家内が常に同行してくれていた。この苦労が報われるかのように、春の訪れとともに桜が咲き始めた。そして毎年恒例となっている花見大会を今年も実行するのだ。
 回遊するコースもほぼ決まっていて、都営新宿線で市ヶ谷に向かう。そこから中央線にそって南側を四谷まで向かう。家内の母校をちらりと見ながら今度はまた飯田橋まで中央線の北側を歩いていく。
 この年は、四谷駅の施設内にお気に入りのジェラートショップ「マリオジェラテリア」を見つけて驚喜した。いろんな場所で目にするが、けして店舗数が多い訳ではない。銀座、深川、新宿伊勢丹と、どうも我々の行動パターンに即しているのかもしれない。
 あと四谷といえば、「わかば」のたい焼きだ。今回はジェラートを食べたので、そのまま飯田橋に戻り、神楽坂の甘味処「紀の善」による。昔はいちごあんみつ、最近だと抹茶ババロアが人気で実際おいしい。
 その後5月の人事異動で、八重洲店を去る事になり、蒲田の前に所属していたことのある上野店に異動することになった、先にも書いた上島珈琲店にも最後の珈琲を飲みにいったり、結構時間つぶしに使った本屋「丸善」で、文庫本を買ったり、高島屋の地下でホワイトデーの買い物をした思い出に浸ったりしていた。

5 夏の思い出

 上野に戻ってすぐ、実家の富山に数日帰ることにした。それは手術、そして退院後の初の帰郷で、親戚筋に元気な顔を見せるという大目的があった。今回はただ帰るだけでは、もったいないということで、遊び要素を加え立山黒部アルペンルートをコースに含めた。さらには富山の後に岐阜の知人を訪ねるというおまけを加えた。
 富山には2泊、初日はアルペンルート疲れもあり、母と家内と3人で夕食を食べてゆっくりした後、床についた。翌日母の車を借り、家内と祖母と叔父の暮らす家を訪ねたが、叔父しかおらず祖母は外出中であった。今年に入って具合が良くなく、医者に行っているらしかった。
 3日目には、岐阜に向かわねばならず、祖母のことを多少は気にしながらもホームを後にした。ホームには手を振る母の姿があった。
後日、定期的に送られてくる母からの荷物の中に入っていた手紙に、祖母が入院してなかなか食事がとれていないと書かれていた。どんなに具合が悪くても食事がとれていれば、あまり心配はいらないが、食事がとれなくなると加速的に症状が悪化するのだと聞く。
 富山から、しらさぎ6号にのって6月7日に岐阜に到着。金華山、岐阜城を友人に案内してもらい、見学する。翌日は名古屋に出て、出来たばかりのミッドランドスクエアのスカイプロムナードに行った。そして夜には東海道新幹線で、帰路につく。
 相変わらず、サイボーグの特権を活かして美術館巡りをしていた。中でも東京芸大の美術館でやってる「バウハウス・デッサウ展」は、何か琴線に触れるものがあった。数年前にカラーコーディネーター2級を取るためにバウハウスについて学んだ事があったかもしれない。
 7月に入って体調は絶好調で、もう手術の名残などほとんど感じさせなくなっていた。少し前から手術後の軽いリハビリテーションとして水泳を考えていたのだが、気温も高くなって、いよいよ実行に移す事になった。
 水着1式を新たに用意したし、江東区の施設で、安く利用出来るスポーツセンターを調べておいた。そこではサイボーグは無料でプールが利用出来たし、トレーニングジムも半額で利用出来るのであった。家内も付き合いでジムを利用した。
 旅行とかプールとか地道な楽しみを噛み締めていたその時、友人から、
「ザ・フー、日本来ますね!」
と1声を浴びせられて、足下をすくわれた感じだった。
 寝耳に水とはこの事かと思った。ロックバンド、ザ・フーのファンを公言してもう数十年、ザ・フーに関するホームページまで出していて、これだ。
 言い訳かもしれないが、昨年手術をしてサイボーグになった自分の事がいかに大事であったかだと思う。とてもザ・フーのオフィシャルサイトなどのチェックに気は回らない。
 インターネットで予約は出来るが、11月17日の武道館は売り切れだった。その思いを複数回見る事で埋め合わせしようと14日の横浜アリーナと16日のさいたまスーパーアリーナを予約した。それに併せて12日から5連休の予定を組んで彼らとともにお祭り気分に浸る事を考えた。
 それからの数日は、来日コンサートの情報とリハビリのプール通いと田舎からの祖母に関するたよりがメインで、仕事は本当に二の次だった。そんな態勢で仕事に臨んでいたせいか、またも人事異動が発令されて、なぜか千葉店に行く事になった。
 千葉店も数年前に所属していたこともあり、メンバー的に知ってはいたが、この異動の目的は本当に分からなかった。この異動を操作している部長という役職の方の真意が分からず、時に反発をしたこともあったが、ここ数年は入院等面倒もかけているので、大人しく従う事にした。ただ後で分かる事だが、2ヶ月後にはまた上野に戻ってくるのだ。今もって謎の異動だった。
 この頃、プールの成果が徐々に現れてきて、9月までには5キロ体重が落ちていた。ちなみに11月の祖母の告別式や、ザ・フーのコンサートは無事に終える事になるのだが、その数日後、僕の身体に異変が起きる。それは最後の章で明らかになるが、体重に関してはその頃までにさらに3キロ落ちた。着られなかった服が着れたりして、喜びを感じていた矢先に事件は起こったが、コンサートと告別式の話を先にお送りしたいと思う。

6 コンサート、告別式

 ファンの方ならば今更であるが、ザ・フーというバンド、オリジナルメンバー4人中、もう二人は帰らぬ人になっている。もうデビューして40年を過ぎているのだ。世界的には、ビートルズ、ストーンズに次ぐ重要なバンドという位置づけに関わらず、日本における評価は低い。
 その理由はいくつかあるだろうが、一つだけ上げれば、デビュー時からのアグレッシブなステージングとアルバム「トミー」などの哲学的ナイーブさとのギャップということではないだろうか。
 実は僕がファンになった理由の一つは、そういった2面性が、魅力的であり、返って本物の知性と強さを感じたからにほかならない。
結局枠にとらわれないない彼らを一つの枠に当てはめて販売戦略を練ったことが敗因ではないかと思われる。
 さらにザ・フーについて語らせてもらうと、デビュー当時の60年代は、ビートルズを筆頭とするバンドブームの1グループとしての、70年代はブリティッシュハードロックの一派として、日本ではそれぞれのイメージの中に押し込められてしまったのだと思う。
 1969年に彼らは「トミー」という問題作を世に送り出し、各国で高評価を得たのに対し、日本では全く受け入れられていないからである。「トミー」は1975年に映画化もされ、エリック・クラプトン、エルトン・ジョンといったビッグネームに釣られて映画館に足を運んだものの作品として理解されずに終わっていると思う。
 日本で注目されるようになったのは、まず70年代後半に起こったパンクムーブメントの中で、ピストルズやジャムなどの代表的なグループが一様に尊敬するバンドとしてザ・フーを持ち上げたこと。実際海外のマスコミなどでザ・フーを称してThe Godfather Of Punk と取り上げられたこと。さらには残念なことだが、バンドのマスコット的天才ドラマー、キース・ムーンの突然の死が、イギリスの一般紙が一面トップで報道されたことも手伝ったか。また映画「さらば青春の光」が公開されたのもちょうどその頃であったと思う。これは1973年に発売されたザ・フーの2枚組アルバム「四重人格」を映画化したものだったが、ザ・フーを知らずともポリスのスティングなんかも参加していたし、「トミー」より分かりやすく青春映画としての要素も強かったので、比較的いろんな方に見られたのではないかと思う。
 今回の来日の話に戻していこう。
 その後ウドー音楽事務所からメールが来て、ザ・フーの武道館追加公演が決まったという。もちろん参加出来なくはないのだが、どうも祖母の状態が微妙で下手をするとコンサートどころではないかもしれなかった。せっかく5連休まで取って、お祭りだと思っていた予定が通夜や告別式に変わることもしょうがないと思っていた。願わくは購入した横浜とさいたまはぜひとも行きたいと念じた。
 11月12日の5連休初日、外出先から帰宅すると母から電話が来た。12日の早朝に祖母が他界したという。まさにこの連休に合わせるかのように……。14日夕方が通夜であり、15日の午後から告別式ということだったが、どちらか一方に出れば良いという母の申し出に甘えた感じだが、告別式に行こうと思った。
 そうすれば横浜もさいたまも見る事が出来ると考えた。そのかわり強行軍だ。特に横浜アリーナを見たら上野から夜行に乗るのだ。
富山から電話があった翌日の13日、最寄りのJRステイションで列車の予約をした。今でも夜行として走っているのは国内でも数本しかないが、急行「能登」もその1本だった。
 14日天候は良く、午後ゆっくりと準備をして新横浜に向かった。駅付近のケンタッキーでチキンをほおばった。開場まで2時間はあったが、早めに横浜アリーナを偵察するとすでに20人くらいのファンが入り口を囲んでいた。どうもこの人たち物品販売を待ちわびている様子で、我々も仲間に加わった。普通開場してから?と思いきや開場まだ1時間前に物品販売の準備が始まり、勢いに押され我々もTシャツ3種、パーカー2着、トートバッグ、プログラム等購入して、残りの時間を近くのコーヒーショップで過ごした。
 4年ぶりのロジャーとピートに涙。今回は単独公演なのにどこから集まったのかこの観衆。偶然僕の隣の方と話すと北海道からお嬢さんと二人で見に来たというので、これはまた感動。全19曲渾身のプレイでした。
 終了後急いで駅に向かい、いったん蒲田で途中下車して軽く食事して上野へ向かう。なぜかやたら人が多い。人身事故でもあったか。急行「能登」は、11時半に上野を発ち、朝5時頃富山に到着する。
 昔、20歳前後、やはり夜行で今回と逆の富山から上野に向かったことがあった。その頃の疲れ知らずの記憶に頼ったのが、今回の敗因だった。朝方富山に降り立ってからがボロボロだった。結局電車の中では、眠れないのだ。通勤電車ではあんなに眠れるのに不思議なことではあるが、何か違うのだろう。
 実家にたどり着いて2〜3時間うとうとしながら、時間が来たので告別式会場に向かう。久しぶりに会う親戚の方々も多く、特に従兄弟はほとんど年下だったのにみんな所帯を持ち、風格も出て、子供がいたりするとほんとうに浦島太郎になったかのような無常さがこみ上げてくる気がした。
 祖母は91歳だった。最後に会ったのは去年だった。去年は手術前に富山に帰郷していた。まあその頃は手術になるとは思ってなかったが……。その時はまだ元気に農作業をしていて……まさか、それが……誰もがそう思っているだろう。確かに年齢だけ見れば90だが、昨年の勇姿から今日の事が想像できるものなどいないに違いない。
 富山の遺体焼却場として西の番という地名は、幼少から結構頭にこびりついていて、死んだら西の番という単純な構図ができあがっていた。予想通り西の番に遺体を運び、火葬し終えるまで、我々は味気のない精進料理を肴にビールを飲んだ。多くの人に注がれながら挨拶をした。初めて会う人も多かった。
 その日の夕飯は、母と家内と3人で食べた。妹家族も来ていたが、仕事の関係でその日のうちに東京に戻っていった。母にザ・フーの話をしたが、メンバーが二人しか残ってなくて二人とも60代であるところには、興味を示した。母もまた60代であった。
 実家に一泊して新幹線経由で、さいたま新都心駅に降り立った。ここには数年前に訪れている。アリーナに併設してジョンレノンミュージアムがあり、それを見に来たのだった。その時はクリスマス間近でいたるところが電飾で彩られていた。今回は明るい時間ながらもそういった装飾を目にする事が出来、日が落ちてからの荘厳な風景が想像できた。
 開場1時間前のさいたまスーパーアリーナは、横浜以上に物品販売の列が出来ていた。日曜日という事で結構人が集まったのだろうか。横浜に比べて若年層の割合が多いような気がする。それでも同年輩や少し上のたぶん50過ぎのおじさんたちが忘れていた青春を取り戻しにやってきたように、昔のTシャツを引っ張り出して着込んでいるのを見るとうれしくなってくる。
 おそらく横浜アリーナよりも、もちろん武道館よりもこのさいたまスーパーアリーナは広いに違いない。座った席も決して悪いとは思わないが、横浜よりステージは遠く感じた。もしかすると音響は一番良いのかもしれないが、特にそれは感じなかった。むしろ他の人の話では若干音が小さく聞こえたと言うが、そうとも思わなかった。
 個人的には、ロジャーのボーカルもピートのギターも実験的でエキサイティングに感じた。これも他の人に言わせるとフレーズが随所随所で決まらず、精細を欠いたプレーというのだが、僕はそうは思わなかった。まあ明日が武道館でその練習だったのかもしれないが、それとて貴重な1ページだと思うのである。
 一度ピートが大声で2、3度「you!you!」と誰かに向けて叫んでいたのが、少し気になった。ネットで聞いた話では、缶ビールを投げた奴がいたとか、未就学児童を発見したとかという説が出ていたが定かではない。

7 再入院までのカウントダウン

 11月17日の月曜は仕事にいったが、まるで気が入らなかった。燃え尽きた感も否めないし、その日の武道館の様子もたいへん気になった。家に帰る頃には、武道館も終わっているので、何か情報がないかファンサイトや2chなどのサイトを穴の開くほど眺めていた。
 自分の中では、昨日のさいたまで終わりにしたはずだった。さいたまのコンサートは日曜のためか、開催時刻が2時間早かったので、終了したのも7時過ぎで、即刻すぐそばのロイホで夕食を取った。混んでくる寸前に何とか滑り込むことが出来た。そこでゆっくりし、アリーナ付近を散歩しながら電飾を堪能し、我々は帰路についた。そこで強行軍は幕を閉じたのだ。
 ところが、結局追加公演に参戦することになった。家内が、浮かない僕の表情を読んだか、祖母の件ももう済んだのだし、一人で浸ってくればいいと言ってくれたのだ。さっそく18日仕事から帰ってきて、翌日の計画を練っていた。
 午後2時頃武道館に参上、この時点で特に当日券売場らしい案内は出ておらず、それらしい窓口には誰もいなかった。我々はコーヒーを飲みながら遠巻きに様子をみていると当日券を買いにきたであろうと思われる人物が1名現れた。
 さらに我々は近くのコンビニまで足を延ばし、スナック菓子などを仕入れてきたが、相変わらす彼1名がぽつんとそこにいるだけである。とりあえず彼をマークしているとようやく当日券売場の案内が出され、ポスターなども貼られ始めた。係員が彼に声をかけて並ぶ場所が決まり、我々も2番手に付いた。その時点で4時、待つこと1時間ようやくチケットを手にした。一緒に並んだ家内も誘ったが、当初の予定で終了後に待ち合わせすることにした。
 当日券だから場所は期待してなかったが、2階、いや3階ではあるものの前列より2列目で、ステージの真正面なのだ。本当に真ん中でザック(ザック・スターキー=あのリンゴ・スターの息子)のドラムセットと真向かいだ。まして武道館、そんなに広くないので、距離だけで言えば、過去2回よりも近いかもしれぬ。
 あきらかにロジャーの声は荒れていた。だが出し惜しみせず吠えまくっていた。過去2回同様僕にとっては、納得のいく内容だったし、調子の差はあるにしてもどの演奏もけっして手を抜いているようなことはなく、真摯にパフォーマンスをこなしていたと言える。
 終わってから、隣にいた当日券一番の彼に握手を求めた。彼はやさしい笑顔で「また来てくれるといいですね」と言って、応じてくれた。そして一礼して去っていった。すがすがしかった。
 終わってから家内と合流し、九段下駅を避け一駅先の神保町まで歩いた。地下鉄に乗る前に天丼を食べた。天丼を食べながら、今日一日を振り返っていた。まずは家内に感謝だ。それに天国に行った祖母にもありがとうと言った。
 今回の祖母の告別式、そしてコンサートの一連の流れ。それにプールやジムで汗を流しながら、僕の身体には多くの無理が溜まっていったのかもしれない。たしかにすべてにおいて調子に乗っていたかもしれない。
 それほど体調は良かったのだと思うのだが、良いと過信しすぎたのかもしれない。11月の下旬になって、それは腹痛という感じで現れた。かなりの激痛だった。
 心臓手術を行った病院の救急外来で看てもらうのだが、「痛い」というのは、どうも伝わらないものだと思う。正直なんとなく病院のベッドで横になって、痛み止めを点滴に混ぜてもらって、しばらくするとなんとか普通に戻るのだ。
 そして痛み止めと胃腸薬を処方されてもらって帰るのだが、2日もすると薬では抑えられない痛みを感じるのだ。そしてまた外来へ行くのだが、ロキソニンがボルタレンに変わったりする程度で埒があかず、予約をして胃腸器内科を受診した。
 12月3日の事だったと思う。胃カメラは、胃の中が全くきれいである事を物語ってくれた。ただ1部狭くなっているところがありそうだと分かった。そして腹部エコーによって胆嚢付近に何か普通は無いものがある、というところまで追いつめた。あとはCTスキャンの結果待ちという状況だった。
 痛みを感じない日もあったが、薬が慢性化しているのか、常にぼーっとしている感じだった。この時期に無理をしないよう、仕事は休ませてもらっていた。
 そこで大人しくしていればいいのだが、10日遠出をして渋谷まで行ってしまった。シアターN渋谷という小さな映画館にて、ファンの間では長らく噂になっていたザ・フーの記録映画「アメージング・ジャーニー」を観るためであった。
 多くの避難を浴びてもしょうがないかもしれないが、ファンであるから、これもまたしょうがないのだ。
 そしてしょうがないついでに、その日のレイトショウ、つまり数時間後にまた同じくライブドキュメントの「ライブ・アット・キルバーン」を観るためにファミレスで時間をつぶして戻ってきたのだった。
 その次の週には、CTスキャンの結果が出たが、エコー以上の事がどうも分からないというのだ。ただしそのデータをどうも他の部署でも確認しているらしく、次回12月24日には、消化器内科を離れ、肝胆膵(かんたんすい)外科での受診予約となった。これが何を意味するかと言えば、一つには再入院の可能性が出てきたという事であろう。
 とりあえずまな板の上のコイなのだ。覚悟はしているつもりでも、冷や汗とやはり時々腹痛に悩まされる日々だった。
 この年、11月に祖母が他界していたが、12月に入って、家内のおじさんにあたる方が80歳代で亡くなられた。奥様が一人いらっしゃって、お子さんはいない。身寄りが全くないところにもってきて、頼みの奥さんが痴呆症なのだ。
 この頃、腹痛に悩まされながらも時間が多くとれた僕と家内は、このおばさんの世話をしながら、とにかくおじさんが亡くなった事を理解させるべく、いわゆる遺体焼却場に一緒に赴いた。身寄りがないこともあって、通夜、告別式は無く、いきなり焼き場だ。
 おばさんは、いくらか分かっているように見えたが、結局誰が亡くなったのか、最後まで理解しなかったような気がする。焼却場には家内のご両親も駆けつけた。焼き上がったお骨が骨壺に入れられ、木の箱に収められたのを僕が大事に運ぶことになった。最後におばさんの家の仏壇前にお骨を置くところまで、無事に役目を果たす事が出来た。
 12月24日、世間はクリスマスイブの日。もう嫌になるほど来ているこの病院の初めて門を叩く肝胆膵(かんたんすい)外科の診察日。こんな科があることにビックリだが、名前を呼ばれて入り込んだ診察室には、10人くらいの取り巻きをバックにオーラを放つ、マスコミにも顔を出した事があるというビッグドクターが座っておられた。
 なぜか?なぜこれほどまでに大掛かりなのか。それは今回の解説を聞いて分かった。僕の腹の中にあるものが、とにかくそれは腫瘍らしいのだが、場所がなんとも不思議な場所らしかった。最初は胆嚢と言っていたが、肝臓の下であるらしく、それもがん等と違って消化管の粘膜でなく、その下の筋肉層に出来るらしいのだ。
 さらに!これが非常に珍しいものだから、きっとそんなビッグドクターがお出ましになったのではないかと推察された。病名は「GIST」で消化管間質腫瘍のことだという。もしGISTなら専用の薬を飲み続けなくてはならないらしい。そしてGISTではなく悪性腫瘍の場合は、抗がん剤等の治療になってゆく。
 ところで心臓手術との因果関係はどうなのか?この段階ではよくわからないらしい。
 そしてすべてを謎に包んだまま、腫瘍の正体を暴いてやろうというドクターの口から出たのは、
「年明けの1月5日に開腹手術をします。だから明日から入院です。今日手続きしていってください」
という当たり前のような言い回しの言葉だった。
 12月25日から再入院。年末年始の3日だけ帰宅を許された。2008年はそうやって幕を閉じ、2009年はそんな不穏な空気の中で動き始めていた。

サイボーグの過信

 今回は、再入院してしまうところまでを書きましたが、その後特に大事に至らなかったからこそ、こうやってその時の話が出来ているんです。僕はあくまでもサーボーグであって幽霊ではないんです。おかげさまで生きているんです。なんとかねえ!!ちなみに本文中に登場する楽曲の数々は、某音楽投稿サイトで試聴できます。「ALTVENRY」で検索してみて下さい。

サイボーグの過信

人工弁を埋め込まれて、職場復帰を果たした主人公。無理をしない事が最も大事な事なのに、つい無理をしてしまう出来事が波のように押し寄せてきて……ついぞ負けてしまって、突然もとの世界に送り返されるような、そんな話です。謎の病気「GIST」の疑いもかけられてしまう訳ですが……。今回は、退院以降に訪れる喜怒哀楽の荒波に翻弄されながら楽しんでいる主人公が、再入院に消されゆくロウソクの炎のような輝きを放っているところが、はかなくて良いかもしれません。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-06-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 1 自宅療養
  2. 2 職場復帰
  3. 3 創作活動
  4. 4 職場復帰、その後
  5. 5 夏の思い出
  6. 6 コンサート、告別式
  7. 7 再入院までのカウントダウン