百日紅の森

ちょっとうっすら性的な表現と感じられる文章が出てきます。(多分)
血も出ます。
苦手な方はお戻りください。

百日紅(さるすべり)の森。

そこは確かにそう呼ばれていた。


その森がかろうじて見える辺りに村があった。

村長をはじめ村人はみな、
この森を畏れ…ときに恐れた。


森から村へ向かう途中に、横切るように川が流れていた。
川を渡らないと村から森へ入れないし、
森から村へ向かうにはどこを通っても川をわたらないと行けなかった。

川をたどれば森から流れが来ていることは一目瞭然だった。
森と川の間、川べりには小さな水車小屋が建っていた。


森から流れてくる水の勢いを使って水車を回す。
回った水車は水車小屋の中で小麦や大豆を挽くのに役立った。

挽かれた小麦と大豆とを袋につめ、
村に売りに行くのは、水車小屋に住む女の仕事だった。
女は背中を丸め、背負ったかご一杯に小麦と大豆を盛って、
数日に一度村へ来た。
薄汚れた色のコートを羽織り、フードを目深に被っている。
粉を買う拍子に彼女の指に触ってしまった男は、
そのあまりの冷たさに震え上がった。

女は村で一度も声を発したことはなく、フードを上げたこともない。
動きは亀のようにのろく、よくふらついていた。

村人の誰もが彼女を疎み、除け者にしようとしているように見えた。


売りに来て数時間も経たないうちに女は品物を売り切り、
また水車小屋へ戻っていく。
ふらふらと、亀のような歩みで。



夜になると百日紅の森には妖精が舞う。
この妖精は人と同じ大きさがあって
白い衣装をまとい
蜉蝣のようなよわよわしい羽根を持ちながら
白くうねる幹の間を自由自在に飛び回るという。

それを目にしたものは、
それを見てしまった者は

心奪われ、森に連れて行かれるという。



森へ導かれたあと、その者が帰ってくることはまずない。
だから、導かれたものがどうなるのか知る者は村にはいなかった。

村からは新月の夜にも百日紅の森がぼうっと薄明るく光るのが見える。
明かりは時々揺らぐという。

それこそが妖精が舞っている証拠だと、村人は言う。



その日。
新月の日。

百日紅の森へ行ったなら見ただろう。

星の光に照らされた百日紅の幹の
間を縫うように舞い踊る
白い衣装の妖精を。



妖精は迷わず森の奥へ向かった。
手にはずっしりと重みのある袋を持っている。

妖精が通る道はカサリとも音を立てず
一匹の虫さえ見当たらない。


時々ひらりと妖精の衣服が揺れる
風をはらんで膨れ、風が逃げてなびく。
どちらへ向かうのか良く分からない足取りが
踊っているように軽い。

羽根は、ないが、首に巻いた長い白い布が
羽根のように揺らめく。
時に高く舞い上がり
うねりくねり広がっては身体に沿うように降りてきて、
また舞い上がる。
それだけで生き物のように布は踊り続けた。

夜半に森に入った妖精は明け方になる前の
闇が一番濃い時分に
森から出てくる。
舞うように踊るように、首に巻いた長い白い布が、生き物のように蠢きながら、
妖精は森から出てくる。



男が一人それを見かけた。
森から出た妖精が踊るような足取りで軽やかに進むのを。
抜けるような白い肌が見え、白い衣装の下のしなやかだが柔らかい肉体が想像出来た。

「どくん」
男の胸が高鳴った。

男は妖精を見つめた。
折れそうな細い腕を
柔らかくてつかみどころがなさそうな手を
力を入れたら壊れてしまいそうなうなじを見て、
衣服の下にあるであろう、ふっくらと肉付いた胸を、見ようとした。
引き締まった腰を。
張りのある肌が衣服では隠せない曲線美を感じさせた。


「…どくん」

男は妖精を見つめ続けた。
星明りに照らされた、ちょうど上を向いたときの横顔の、ぷっくりとした唇を。
桃色に輝く頬を。濡れたような睫毛と、その下にある大きな瞳を、
つややかな長い髪の下に見てしまった。

そこにあるのは、美だった。

「どくん…どくん」
男の心臓が波打つのが感じられた。
指の先までしびれるようだった。
男は唇をなめると、いてもたってもいられなくなり妖精に足を向け、いつしか走り出していた。
その両腕に妖精を抱くために。


捉えがたい妖精の目が、男の上をなぞる。そのまま目線は森へと向かう。
踊るような舞うような、とても早いとは思えない足取りなのに、妖精は森へ向かい、
それを追いかける男は、妖精に追いつくことができない。

追いかけ追いかけ、追いかけ続け、森に入ったことにも気づかず、男は妖精だけを視界に留める。
百日紅の根に何度(つまづ)こうと、
何度転ぼうと、
何度見失いかけようと
妖精は手を伸ばせばつかめそうな、しかし決してそうはならない距離を置いて
踊り、舞い、離れていこうとする。

その身体が百日紅の幹の向こうに隠れ、



「どくん」


妖精が消えた!


そう思って速度を増した男は、次の瞬間には、ぽっかりと木のない広場に出ていた。
息が切れている。

妖精は消えておらず、
広場の中央に立っているひときわ大きな百日紅の木の向こう側に隠れるところだった。
「どくんどくんどくん」
心臓は早鐘を打っている。
妖精は今は視界に入らない。
太い幹の向こう側に隠れているはずだ。
広場の中央では、季節外れにも花が咲き乱れるその百日紅の木が、
妖精を隠そうとするかのように花びらを散らした。風がごうと鳴り、花びらはより多く舞い始めた。


花吹雪に呆然となった男。
今更ながらに村の掟が頭をよぎる。

「森の妖精を目にしてはならぬ」

…どくん

……どくん、どくん。


「目にしたものは魂を奪われる。」


掟は、男には絶対のものだった。
いたずら盛りの少年期を過ぎたばかりの男は、生まれてからこれまで、
掟という掟に、逆らったことはなかった。

男が、従順だったからではない。
男が、弱気だったからではない。

掟を破ったものが、どのように姿を消して行ったか、知っていたからだ。

男の父親は、ある日掟に背いた。
翌朝、彼は首だけになって村の広場に佇んでいた。

掟に背いたものの末路だ。

「森の妖精を目にしてはならぬ。」

村長の声が耳元で響く。

…どくん、どくん、どくん…
体中心臓になったように、血のめぐる音が頭に響く。

男の父親の、首だけになった姿が脳裏に浮かぶ。


…どくん、どくんどくんどくん…
村長と父親の首が男を見る。射抜くように見つめ続ける。


「掟を破ってはならぬ。」

村長が、父親の首が、男を見据えながら重々しい声を響かせる。
声は実際の重さを持って男を突き飛ばすように思えた。
男は声に押されて視線に押されて身体をのけぞらせる。

男の目が宙をさまよい始める。
掟と、欲望との間を
さまよっている。
真っ暗な空と空より黒い百日紅の葉を見るとなしに見て、

すでに掟を破ってしまった、その恐れと、悲しみと、…

反り返り、頭上の闇を見つめるうちに真っ白な百日紅の花びらを視界の端に捕らえた。
真っ暗な闇の中の白い花びら。


白。


抜けるような白い肌。
細い腕。
豊かな胸。
あの濡れた睫毛とその下の大きな瞳と白い衣装の下の身体。
抱いたらその柔らかさに溶けてしまいそうな。


あの妖精は魔だ、悪だ、森に惑わされたものは帰ってこない。
頭の中で村長が言う。

あの妖精を手に入れたい。
心の中で男が叫ぶ。

あの妖精は人ではない。全てを吸い尽くされてしまう。
村長と

あの妖精に触れたい。
自身の欲望と


あの妖精は…どくん。

あの妖精は…どくん、どくん。



…自身の心臓の音だけが男の耳に届く。


そして
掟が男の心から消えた。


男の心が森に絡め取られた。



男の目は妖精を探しはじめる。
だらしなく口を半開きにして、濁った目で広場の中の百日紅を見る。
妖精は、あの幹の後ろに入ったはずだ。
広場の真ん中の大きな百日紅の白い幹。何人かでないと抱えられないほど太く、
何本かがねじれて噛み合ったような不自然な形をしていた。
幹の不自然さを隠すように、花吹雪が舞い落ちる。


姿を隠した妖精の舞を引き継ぐように。
花吹雪が舞い続ける。

男は妖精を目で探しながら、一歩一歩、木に近づく。


花吹雪が激しくなり、男の視界をさえぎる。
それだけではない。
花吹雪は男の周りを舞い始め、
男を囲み、
男を刻み始めた。

はじめの一枚は、気づかないほど小さな傷をつけた。
続いた二枚目は、服の繊維を引き裂いた。
それに続く数枚は、肌を破り薄く血をにじませた。

それからはもう、花びらが血の味を覚えたかのように
ぷつりぷつりと男を刻んでいた。


男は百日紅の幹の裏に隠れた妖精を追うように広場を横切る。
男の目には百日紅の樹が映っている。
男の耳には男の心臓の音が聞こえている。
男の手は、もうすぐ抱けるだろう妖精をつかむように前に出されていた。

自身の流す血には、全く気づく様子もない。
濁った瞳は、鈍った体は、真実を見ていない。


やがて男は幹にたどり着いた。
自分を切り刻む花吹雪に、いまだに気づく様子はない。


目はひたすら、
幹の裏に隠れた妖精を追っていた。


…どくん、どくん。

男は右の手のひらを百日紅の幹に沿わせながら
指でやさしく幹をなでながら
見えない妖精の手をとろうとするかのように左手を前に出し、
時計回りに幹の向こう側へ周る。
傷ついた右手から流れる血が、百日紅の白い幹を赤く染める。

幹の向こう側には妖精がいるはずだった。

男は今や薄い傷にまみれている。
相変わらずそれに気づく様子もないが。
花びらは執拗に男に小さな傷をつけ続ける。


男の目に映るものは何か。

百日紅の、白く輝く幹。


目の前は花吹雪で覆われ
幹に触れている右の指はくねった部分に引っかかる。
唐突に恍惚とした表情になった男。
前に伸ばしていた左手を女の腕ほどの太さの枝に絡ませる。
歓喜の表情で百日紅の幹に腕を回す。
幹を見つめ、百日紅を見上げ、二つ並んで膨らんだ瘤に顔をうずめる。
巻きつきうねった幹の(うろ)に身体をそっと沿わせた。

女を抱くように優しく幹に沿わされた男の腕。
絡まりあった幹のおうとつに身体を合わせ、そっと熱い息をする。
男の目が伏せられ、もう一度開かれた。
薄く開かれた唇に、百日紅の花びらが落ちる。
男の呼吸に合わせ、口の中に入っていく花びら。
口の中でも花びらは男を傷つけ続けているのか、口の端から一筋、血が流れた。
百日紅の枝が男の下まで降りてきて、男の血をなでた。

「あぁ…」

男の漏らした吐息は、どこまでも恍惚としていて熱気を感じさせた。
男は幹に取りすがっている。
濁った瞳は焦点を合わせず
吐息は熱を帯び
荒くなっていく


花吹雪が止んだ百日紅の幹には、
男の血がうっすらと付いていた。




以来

男を

見た者は



一人もいない。




妖精は百日紅の木に絡まる男を見て頷き、
そのまま森の外へ向かう。

男は、目の前にいた妖精にも気づかず、百日紅の幹に身体を這わせている。
男が身体を動かすたびに、百日紅の幹に男の身体が埋もれていくようだった。

妖精は。

踊るように舞うように
水車小屋へ入って行った。



また数日後
水車で挽いた粉を背負って
女が村へやってきた。

こころなし、先日より足取りが軽い。
うかつにも粉の支払いをするときに、女の指に触ってしまった子どもがいたが、
その細さに驚いただけだった。

女はすぐに品物を売り切り、ゆっくりとした足取りで水車小屋へ帰って行った。



また新月が来る。

妖精が重そうな袋を持って
踊っているのか歩いているのか、もしくは浮いているのかとでも思いそうな足取りで
森へ向かう。

森の奥へ奥へと入っていって、
広場に出る。

広場にはひときわ大きな百日紅の樹。
幹はねじれくねって、何本かが寄り集まったかのように不恰好だ。

妖精が幹の裏にまわると、
そのおうとつが以前とは変わっていた。
幹に、人が抱きついたようなふくらみが出来ている。



妖精は気にすることもなく、
幹の根元に重い袋を置き、

足取り軽く水車小屋へ戻る。



水車小屋で女が眠っている
藁を重ね上にシーツを乗せた、それだけの寝床で
ぐっすりと眠り静かに寝息を立てている。

妖精はその姿をじっと見つめ
上掛けをそっと掛け直して女の横に寝付いた。



水車小屋には女が二人いる。

一人は村へ向かう女。

もう一人は森へ向かう女。

村へ向かう女は、金を稼いで水車小屋へ帰り、
森へ向かう女は金を森へ運んで行った。

村へ向かう女は日に日に衰えていくのに、
時折急に若返ったように見える。

森へ向かう女は生きているのか人外なのか分からぬほどに
今日も森へ出かけていく。


男がまた一人森へ消えたと、
噂が立つ。


噂はやがて消えていく。


男が消えた、事実を残して。



百日紅の森、と呼ばれる森があった。

森から村へ向かう途中に、横切るように川が流れていた。
川を渡らないと村から森へ入れないし、
森から村へ向かうにはどこを通っても川をわたらないと行けなかった。

川をたどれば森から流れが来ていることは一目瞭然だった。
森と川の間、川べりには小さな水車小屋が建っていた。



水車小屋には二人の女が住んでいたが、
それを知る者は一人もいなかった。

一人も。




今夜も新月。
眠る女と踊る妖精と、掟を破る男が、

ほら。

百日紅の森

調べてみたら百日紅の幹は茶色かったです。

百日紅の森

ちょっとうっすら性的な表現と感じられる文章が出てきます。 血も出ます。 苦手な方はお戻りください。 不思議の森の出来事です。 どこにでもある。

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更新日
登録日
2013-03-24

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