ネタはオイシイはずなのに、不完全燃焼

その日は秋にしては暑い日だった。夕方、太陽が落ちていく時刻になってようやく涼しい風が空を吹いていく。学校の裏庭に人気は無く、紅葉の始まった裏手の林をぼんやりと見ながら、私は箒を動かしていた。
掃除当番だから、と惰性で裏庭までのこのこ出てきた私は、落ち葉の山を見てすぐに後悔した。一応形だけ二、三回箒を動かしてみると、すぐ口から勝手にあーあ、と溜息が転がり出る。先生がいつ見回りに来るか分からないから、裏庭には居なければいけない。でも、私以外は先生のお説教なんてちっとも怖くないみたいで、五分経っても、十分経っても、誰も裏庭には現れなかったのだ。
林から降り積もる落ち葉は裏庭全部を埋め尽くして、到底自分一人では片付けられそうもない。
自分だけ損したような気分に唇を尖らせて、林を背に箒で思いっきり落ち葉を放り投げると、はらはらと葉が宙を舞った。空気の中を不安定に落ちていく赤い羽根のような葉を見ながら、私は視線を感じて林を振り返った。
紅葉の茶色い幹の向こう側から、それは首を傾げるように顔だけをもたげて、私を見ていた。白い着物の襟が、細い首筋を覆っている。その上で、鈍い金色の角がぼんやりと光っていた。その角の下で白粉を塗り込めたような頬が歪み、恨みと怒りに満ちた顔を、その女は自分自身の顔であるように、かぶっていた。般若の面の向こう側で、一体その女はどんな顔をしていたのだろう。しかし間違いなく、健全な面持ちではなかったはずだ。怨みを背負った恐ろしい顔に違いなかった。
女は、私と目を合わせたまま動かない。異様な寒気を背筋に感じて、私はその場から逃げ出したいと思いながら、足を動かせないでいた。枯葉を降らす木の向こう側は真っ赤な林が広がっている。その女に捕まれば、二度とその場所から逃げ出せないだろうと、恐怖に満ちる頭の隅を悲惨な結末が過った。
女の背後は赤い。色づいた葉がちらちらと、雪のように私と女の間を舞っている。視界が赤く染まったのではないかと思えるぐらいだ。冬に向かって眠りにつこうとする木々は、空気の色まで死に至らせる。
突然、女の姿が消えた。消えた、と思った直後に、枯葉に突き刺さるボールに気がついた。すると耳にも、ボールが落ちた音が聞こえた。解放された、と私はその場によろよろと座り込んだ。樹の向こう側に、女はいない。
「おい、どうした。」
ボールを追いかけて来たらしい誰かが、座り込んだ私に声をかけている。ゆっくりと頭上を見ると、空を背後にして、男子生徒が立っていた。ジャージを着ているところをみると、部活の途中だったのだろう。ボールを掴んだまま、座りこんだ私を見つめている。
「大丈夫か。」
私は何も言えなくなっていた。今見たものをどう説明すればよいのか、全く見当がつかなかった。それでも恐怖を和らげる為に何かを言わずにはおれなかったし、般若の女が消えてしまったことが更に、あれが人外のものだと主張し恐怖を倍増させていた。
「いま…今…。」
彼は首を傾げた。私はあまりの背筋の冷たさに、涙を流し始めていた。その所為で言葉はもはや声だけになっていたが、彼に、ことの重大さを知らされる役目は果たしてくれたようだった。
「何があった。」
そう言いながら彼は膝を折って私の顔を覗き込んだ。すると美しい額に、色素の薄い髪が柔らかく振りかかって瞼に影をつくる。
「今、そこに、」
「そこ?」
私が指を指した樹の幹の向こう側を見て、彼は首を傾げた。そこには何も無かったのだから、それは当たり前だった。
「鬼が…。」
一体どう表現したものかと悩んだ挙句、私は一番簡単な言葉を口にしていた。そうだ、鬼だ。あそこに鬼がいたのだ。角の生えた女。まさしく怨みそのものの顔で、鬼が私を見ていたのだ。
「…鬼…?」
彼の口から、低い声でその言葉が転がり落ちてきた。とてもじゃないが信じられない、というような表情だった。私だって信じられない、と頭の片隅で私は思った。あんなもの、この世に、まして私の目の前に現れるなんて、思いもよらない。
しかし私は見てしまったのだ。
「見間違いじゃないのか。」
私は勢いよく頭を振った。
「違う、そこにいたの。般若のお面をかぶった、白い着物の女の…。」
あれの具体的な姿を聞いて、初めて彼が恐怖を目に表した。恐る恐る、と言った様子で、彼は林の方を見た。
「…信じられないな。」
「本当よ。」
まさか、と彼は独りごとのように呟いて、立ちあがった。
「本当だって言うなら、確かめてやるよ。君も、自分の目で見てみろよ。その方がいい。」
彼は私の腕を強く掴み、引っ張り上げようとした。嫌、と叫ぶ私を力づくで立ちあがらせ、林の方へ引っ張っていく。私は嫌悪で頭が飛び散りそうだった。思考が、恐怖に端々を食い散らかされて凍っていきそうだ。怖い、嫌だ、行きたくない―何度言っても、それは無駄だった。私は引きずられながら林の一歩手前まで来てしまっていた。赤く染まった木々が奥深くまで続いている。学校の隅に広がる林の終わりには、敷地の終わりを示すフェンスがあるはずだった。それなのに、いまや林の奥はトンネルのように終わりを隠してしまっている。
いくらか歩みを進めて、とうとう座りこんだ私の目に、切り取ったように白い腕が映った。
渦を巻いて深まる林の奥底から、女が茶色い幹の傍らから手を差し出していたのだ。そしてその手が、二度、空中をかいた。
「呼んでる…。」
私は、茫然と声を出した。何故だろう、彼女は間違いなく私を呼んでいると思ったのだ。風に揺れる柳のように、彼女が手を動かしている。
突然腕に痛みが走り、ハッと顔を上げると、彼が額に汗を浮かべて目前で私たちを呼ぶ鬼を見つめていた。
彼は唇を開いて何事かを言おうとしていたが、そこから声は出てこなかった。
それは私も同じだった。あの、この世のものではないという気味の悪い、本能をおぞけさせる血が逆流するような寒気。それを彼も感じている。
それでも、私は彼よりましだったかもしれない。掴んでいたものを本能に任せて握りしめる彼より、与えられる痛みによって私は多少正気を保っていられたのだから。
ぽつり、と彼の額から汗が一粒、足もとの枯葉に落ちて、小さな音を立てた。その音が引き金になったように、彼は私の腕を掴んだまま体をひるがえして走り出した。林の出口へ、鬼を背にして、私たちは真っ赤な闇を飛び出していた。校舎の端に辿りつき、壁に手をついて二人で息を整えていると、日の光がまるで救いのように視界を明るく照らしていることに気がついた。あの林の周りが違う世界のようにすら思えてくる。
「…あいつ…、」
荒い息を整えながら、彼はあいつ、とあの鬼を指した。
「何なんだ?一体。」
人間か、それとも、人間ではないのか?それを、彼は聞いているに違いなかった。自分の背中を校舎側の壁に押し付けて私と向き合っていた彼は、滴る汗を腕につけていたリストバンドで拭った。
「追いかけてくる?」
「いや…。」
彼は、やっとの思いで後ろを振り返ったようだった。そしてすぐに私の方に顔を戻して、首を振った。
「大丈夫だ。」
そう言った瞬間、彼は顔をひきつらせて私の背中を自分の方に押し、舌打ちをした。その動きだけで、背後にあの女がいるのだと私は分かってしまった。逃れられないのだ、と、私は既に恐怖以外の感情が芽生え始めていた。諦めのような、悟りのような、そんな冷めた感情だ。彼の胸を目の前にして、凍てつく空気を背中に感じて、頭の片隅が何故か冷静だったのだ。
彼の心臓が早鐘を打っている。心臓の鼓動が私の頬までを波打たせている。これが、彼の胸―
私はすぐ後ろにいるであろう女を睨む彼の顔を見上げた。大きな手を背中に感じて、私は思わず手で拳を作って彼の胸に置いた。
汗ばむ手を更に強く握って、私は胸の深いところから、黒い筋が這い上ってくるのを感じた。
それは無理に千切り捨てた恋情だった。どうしたって、手に入らないことは分かっていた男だった。美しく強い、人の上に立つ為に生れてきたような、そういう男。私のような平凡な女のどこが彼と釣り合うというのだろう。十把一絡げにあしらわれることは目に見えている。
だから私は、ただ遠くから見ているだけにした。それでも人間とは身勝手なもので、勝手に嫉妬したり、喜んだりするものだ。彼が新しい恋人を作ったとなれば嫉妬に苦しんだし、彼が気まぐれに私に笑いかければそれだけで一日は平和だった。
その内、彼が振り向いてくれないことを私は怨み始めた。薄暗い感情が、体中から噴き出していくように。
今なら、あの女があの面の下でどんな顔をしているのか分かる。あの女は私だ。彼を怨むほどに身を焦がしている、私だ。
だから私は―あの女は、彼を追いかけてきたのだ。あの林から、彼に知られないように顔を隠して、必死に、呼んでも来てくれなかった彼を追いかけてきたのだ。
私は、彼を捕まえなければ満足しない。
「…ねえ…。」
私の喉から、状況に相応しくない、熱っぽい声が出た。彼が、驚いた顔で私を見下ろしている。もう背後にあの女は居ないだろう。背中に、彼女が入ってきた感触がある。脊髄に同化し、彼女が私と一体になる。あの般若の面が頭の後ろから、被さってくる。そして額から角が…―
彼の熱い首筋を、私の指が自然となぞる。彼はぼうっとした顔で、私の顔を見ている。指でなぞる内に、掌が彼の喉元を覆った。血の脈打つ感触が伝わってくる。命の鼓動がそこに眠っていた。
背伸びをして唇を重ねると、彼がむさぼるように舌を絡めてきた。我を忘れて私を求める彼の思考の中に、もう恐怖は無いだろう。
これで、いい。彼を捕まえた私は、一生彼と同じ世界に住んでいられるのだ。
私の名前を縋るように呼ぶ彼の声だけが、灰色のコンクリートに跳ね返って耳に届いてくる。低く淫靡な声が私の喉を震わせる。涙を流す前のようなその震えは、僅かに白い色を残し、消えて行った。

読んでくださりありがとうございました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted