赤い狐火(稗貫依)

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 高校に入って最初の冬休み、由依が実家の二階にある部屋で半纏にくるまって古典の宿題をしていると、不意に誰かが勉強机の横にある窓を遠慮がちに叩く音がした。何気なく由依が目を向けると、外から顔を覗かせていたのは家で昔から可愛がっているイナホという名の狐だった。
「ちょっとイナホ、どこにいるの?」
 驚いて由依は椅子から立ち上がる。そのまま急いで窓を開けると、イナホは不意に飛び上がって窓の桟を越え、床に敷かれた薄い絨毯へと音もなく着地した。由依が確かめると窓の下には一階の細い庇があって、筒型の雨樋で壁沿いに地面まで繋がっていた。
「ごめんね。由依が帰ってきたって聞いたから、すぐ会いたくなっちゃって」
「でも危ないでしょう。足が滑りでもしたらどうするつもりだったんだか」
 頬に師走の冷たい外気を感じて、由依は静かに窓を閉めた。既にイナホは電気ストーブの前に陣取り、よく揃った琥珀色の毛並みを手早く整え始めている。仕方なく自分もその隣に座ろうと屈み込んだところで、由依はふと今の状況に小さな違和感を覚えた。
「イナホ、あなたって言葉が話せたの?」
 十秒ばかり考えてから由依は漸くそう尋ねる。イナホはとうに毛繕いを終えていた。振り向いた焦茶色の小さな鼻がこくりと縦に振られる。
 由依の実家は市内で一番大きな稲荷神社で、山裾にある本宮の境内は昔から近所の狐達の溜まり場のようになっていた。中でもイナホは特によく由依に懐いていて、休日に由依が社務所の縁側で本を読んでいると決まってその膝の上へと座りに来るのだった。
 もっとも由依はこの四月から高校に進学して市街地の近くで一人暮らしをしていたし、部活の合宿があってお盆も数日しか帰省しなかった。それで最近はイナホとはやや疎遠になっていたものの、その短い帰省の間にもイナホが人の言葉を話すようになったとは全く聞いた覚えがない。
「色々あってね、話せるようになったんだ」
 そう言ってイナホがストーブに当たる体の向きを変えたとき、由依は唐突にもう一つの違和感の正体に行き当たった。昔はよく読書の片手間に撫でていたイナホの柔らかなしっぽ。その数が明らかに増えているのだ。
「一つ、二つ――三つ?」
「ええっと、そうだね」
 イナホは気まずそうに言葉を濁す。しっぽが三本。何度か頭の中でそう繰り返してみてから、由依は突然ある可能性に思い至った。
「そっか、『九尾の狐』なんだ」
「はい正解。まあ見ての通り半人前、と言うより三分の一人前、なんだけど」
 前足で額の辺りを掻きながら、イナホの声は途端に小さく頼りなげになる。多分照れているのだろうと由依は考えた。
「立派なことじゃないの。早速お祝いしないと。油揚げでよかった? それともイナホは煮卵の方が好きなんだっけ」
「あっ、由依、ちょっと待ってよ」
 言うが早いか立ち上がりかけた由依の袖を、イナホは慌てて掴み取ろうとする。気配で感付いた由依が小首を傾げて振り返ると、イナホは後ろめたそうに視線を逸らした。
「それよりもさ、由依に見てもらいたい場所があるんだ。もし暇だったらちょっと外まで来てほしいんだけど――」

 イナホと由依が家の外に出ると、既に夕日も山々に隠れて辺りはすっかり暗くなっていた。由依も念を入れて十分に重ね着をしたつもりだったとは言え、時折吹き寄せる冷たい旋風には思わず軽く身震いせざるを得ない。
「どこに連れていってくれるの、イナホ? 寒いから余り遠いのは勘弁よ」
「奥ノ宮まで。お花見にね」
「お花見?」
 間を置かず問い返した由依には答えず、イナホは素早く体を縮こめると俄かに飛び上がって小さな宙返りをした。呆気に取られていた由依が我に返ると、丁度イナホの体が躍った辺りで仄かに赤い狐火が一つ、どうにも所在なく漂っている。
「これで少しは明るくなったでしょ」
「――あなた本当に『九尾』になったのね」
 由依は感心して暫くまじまじとその狐火を眺めていた。続いて明るくなった家の庭先を見渡してみると、季節の草花を植えている花壇の脇、お盆の時にはまだ雑草が生えていた辺りに大きめの石が一つだけ立ててある。
「ほら、暗くなる前に行くよ」
 歩き始めたイナホに合わせてふわりと狐火が動く。由依も慌ててその後を追った。
 市内で一番大きな神社とは言え、夜遅くまで参拝者が来る訳でもないから普段は敢えて境内に灯を入れることもない。狐火のお陰でイナホと自分の姿、それに数歩先の様子くらいまでは何とか由依にも見えていた。後はただ暗い山の夜がある。イナホは殆ど迷わずに足を進めていくものの、由依は時々辛うじて視界に入る木々や建物から自分のいる場所を割り出すだけで精一杯だった。
 やがてイナホと由依は本宮の境内を抜け、奥ノ宮へと続く細い参道に入った。冬もなお鬱蒼と茂る鎮守の森を縫って進む。夜の帳は一層その色を濃くしていき、本宮の辺りでは吹いていた風もいつしか止んでいた。由依の耳に入ってくるのは石畳を踏む自分の足音と息遣いだけ。他には何も聞こえてこない。
 その時、ふと何か白い光がちらつく。
「――ゆきだ」
 暗い空から落ちてくる粒は、狐火の明かりを孕むと一気に膨れ上がって自ら淡い光を放ち始める。そうした粒は数こそ少しずつだったものの、イナホと由依の歩く周りに絶え間なく現れては消えていった。
「ねえイナホ、これって初雪?」
「違うよ。初雪は由依が帰ってくる二、三日前に降ったんだ。市街地の方は雨だったって神社の人に聞いたけど」
 言われてみれば冬休みに入ってすぐの頃、由依のいた市街地の方でも氷のような小雨が降った日があった。由依が気を付けて周囲の森を見渡してみると、確かに木々や雑草の根元ではまだ所々に白いものが残っている。
「でも雪が降ったならお花見なんて――万が一よ、季節外れにあそこの八重桜が咲いたとしても、すぐに萎れてしまうんじゃない?」
「確かにそうなんだけどね。何て言うか――ほら、もうすぐ奥ノ宮に着くよ」
 やがて目の前に古さびた石段が現れる。これを登り切れば奥ノ宮だった。由依は足元に氷が張っていないか注意しながら、イナホに続いて一段ずつ、踏み締めるように足を下ろしてその石段を登っていく。
「覚えてる? 由依と初めて会ったとき」
 石段を登りながら、振り返らずにイナホが言った。由依は何とか記憶の糸を辿ろうとしてみたものの、足元に気を取られるせいでどうにも巧く行かなかった。
「ええと、本宮の辺りには随分小さい頃から入り浸っていたから――ごめんなさい」
 由依の溜め息は白い塊となり、暗がりに薄く広がってすぐに見えなくなった。
「由依と初めて会ったのはね、奥ノ宮だよ。春先に一人で八重桜を見にきて、疲れて向拝の下にしゃがみこんでいたとき」
 イナホは殆ど呟くような声でそう言った。由依は改めてその時の様子を思い出そうとしてみる。恐らくまだ子狐だったはずのイナホの姿。自分が疲れ果てて見ていたはずの八重桜の色。それらはなおも決して脳裏に浮かび上がってこない。
 狐火が石造りの小振りな鳥居を照らし、間もなく由依は最後の一段を登り終える。途端にイナホは狐火を連れて一目散に境内の片隅へと駆け出した。
「ちょっとイナホ、待ちなさい」
 すぐさま後を追おうして、由依は忽ち言葉を失う。イナホはとうに八重桜の根元まで辿り着いていた。そうして狐火はいつしか高々と宙に上り、静寂に包まれた夜の境内に真冬の八重桜の姿を映し出している。
 桜が咲いていた。
 狐火によって薄紅に染まった六花が、細い枝々に留まったままで紅玉のような鈍い輝きを放っている。そうして枝々の間を埋めるように降るのは幾つもの淡い光の粒。
「だからさ、もし僕がいなくなっても」
 イナホは由依の瞳を真っ直ぐに見つめて、いつもの人懐っこい調子で告げる。
「今度は忘れないでくれると嬉しいんだ」
「――イナホ」
 由依は漸く、小声でその名を呼んだ。
 イナホが小さく頷き返す。
 狐火の暖かさに当てられて、細い枝から一片の透明な花弁がこぼれ落ちる。その花弁は静かに地面へと向かい――。

 ふと窓の外から小さな音がして、由依は目を覚ました。布団の中で横になっている。そう気が付いて咄嗟に体を起こすと、開け放しになったカーテンの向こう側からは透明な冬の暗がりが覗いていた。
 由依がいたのは自分の部屋だった。ベッドから飛び降りて夢中で窓を開ける。そうして部屋の中へと吹き込んできたのは師走の冷たい外気ばかりで、雪の粒はおろか雨さえも降った様子はない。
「夢だったの、かな」
 そう呟いて由依が再び窓をしめようとしたとき、視界の端にふと白が映る。思わずそちらに目を向けると、庇の上に雪の付いた一本の細い枝があった。
「イナホ?」
 呟いた声は誰にも届かず、ただ底のない夜の中へと溶けていく。

赤い狐火(稗貫依)

稗貫です。一雨降って春の足音が近付いてきますが、ちょっとだけ冬のお話を。

赤い狐火(稗貫依)

山奥の神社に今年二回目の雪が降った日。少女と子狐の、小さなお話。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-22

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