さよなら人類


 何か嫌な音がしたなと思いヌシカが机の端に目を遣ると、黒い染みが付いているのを見つけた。こいつかと思い手を伸ばすと染みは素早く逃げるように机上から失せ、床の上に落ちた。その落ち方と言えばまるでつい落ちてしまった、という風で、間の抜けた染みだなという印象を彼女は持った。
 別段構う必要もないだろうと思い中途だった書き物を再開しようとペンを持った。締め切りまでまだ四日もあるのだが、いつもは眠っている午前中だというのに目が冴え、気分が良く、午前中に一区切りできるだろうと思っていた。午後になったら散歩しながら写真を撮りに行こうと楽しみにしていた。インクを垂らさないようにそっとペンを原稿用紙に近づけると、紙の上に拳ほどの大きさのある染みが再び現れた。今度はコーヒーを溢してしまったのだろうかと飲みかけのカップを眺めても溢れた様子はなく、今日はやけに染みが多いなと呟きながらペンを置き、原稿の上の染みを右手で払った。染みはヌシカの手に触れると軽い身震いを起こし、手が払いのけられると同時に姿を消した。
 どこに行ったのだろうと訝しげに机上を眺めたが見当たらず、右手を返すとそこに染みが張り付いていた。
 染みがここまで人を恐れないとは、今までヌシカは知らなかった。甲に張り付いた染みを見ているうち、染みには何色もの色が混じっていることに気が付いた。流動している身体の中に、小さな気泡のようなものも見える。これはなんだろうかと目を細めて見つめると、気泡の中にさらに小さな気泡があった。その小さな気泡の中にも、気泡がある。入れ子の構造になっているのだ。それはどこまでも続いているように見えた。
 ヌシカは少し楽しくなってきて、そっと染みに左手を伸ばして捕まえてやろうと試みた。じっくり観察してやろうと考えたのだ。
 ヌシカの手が染みに触れる直前、ヌシカはまた嫌な音を聞いた。反射的に手の動きが止まると、染みはまた身震いし、さてどこからいこうかと一瞬の迷いを見せた後、右手の薬指の爪に、音も無く潜り込んだ。
 ヌシカは悲鳴をあげた。慌てて爪の先から引っ張り出そうとしたが遅かった。染みは手の平を伝い腕の奥深くに入り込んでしまった。
全身に寒気が走るのを感じながら、ヌシカはどうにかしようと部屋の中をうろつき回った。鏡の前で止まり、服を脱いで身体に異常は無いか確かめたが、どこにも見当たらなかった。変化が表れてこないか、鏡に映した自分の身体をしばらく眺めても、やはり何も変わるところは無かった。
 ヌシカはすぐにでも病院に行こうかどうか迷ったが、ただが染みぐらいで大の大人が騒ぐのはみっともないだろうと想い、明日まで様子を見ることにした。しかし彼女はその日は執筆もせず散歩もせず、落ち着きのないままに一日を過ごした。

 翌日の朝、異性の旧友であるアカーキィからかかってきた電話に、ヌシカは驚いた。ベッドから起き上がり、受話器を取ると、アカーキィの「やあ久しぶり」という懐かしい声が聞こえた。その言葉に、彼女は「前方不一致」と返した。
「え?なんだって?」
「だってあの子が笑うんだもん」
「なんの話?寝惚けてるの?」
「グリーンティに、レモン」
「え?どうしたの?ヌシカ、大丈夫?」
「鋏は例えば紙を切るものよね。でも鋏は切るものじゃなく断絶を生むものだと思うのよ。あるいは空間を入れ込むものね。紙を見れば判るわ。だとすれば鋏は破壊、変形させる道具じゃなくて、創造する道具なのよ。何が言いたいかっていうと、道具に限らず、何かを使った後に残った結果の見方を変えれば、使ったものの見方も変えられることもあるのよ」
 言ってすぐ、ヌシカは受話器を落とすように置いた。そして口を両手で塞いだ。私は何を言っているんだ。「久しぶり」と言われた時、ヌシカも「久しぶりねえ」と返したはずだった。試しに、「私は正常だ」と声に出してみた。
「電柱の影に夜がある」
 あの染みのせいだ。あれはきっと悪い染みだったのだ。
 ヌシカは急いで病院に行くことに決めた。服を着替え、鞄を持って家を出ようとしたが、自分の口では何も伝えられない事に気が付いて、机に置いてあったペンと原稿用紙を鞄の中に突っ込み、車を走らせた。
「どうしましたか?」という医者の言葉に、ヌシカは、私は喋れないのだ、というジェスチャーをした。「ああ」と医者が頷くと、彼女は原稿用紙に状態を伝えるために文字を書き始めた。すると途端に立ち上がり、そのまま病院を飛び出した。診察室に残された原稿用紙には、「昨年は冷害で、農家が困っているというニュースを良く覚えている」と書かれていた。

 翌日からヌシカは寝込んだ。彼女は自分の状態について医学辞典などで必死になって調べたが、当てはまる病気はまるで無かった。それどころか染みによって派生する病気など何一つ無かった。少なくとも辞典や本など、染みの情報といえばその生態に関するものだけだった。生態にしても、人間に害を及ぼす、という情報はなかった。
 ベッドから出ようとしない彼女を心配し、両親とアカーキィが家に滞在し看病につくようになった。三人は彼女から事情を聴こうとしたが、何も口にすることはなかった。
 しかし、彼女は何度か染みと自分の症状をなんとか伝えようと、色々方法を試みていた。喋っても書いても伝えられないのならばと、新聞の活字を切り抜いて「私は、染みのせいで、自分の言葉が伝えられなくなっている」というコラージュを作った。が、実際に出来たものは「色付いた夢が伝えるものは、眼球とまぶたの裏の汚れだ」となっており、それを見た彼女の両親とアカーキィは首を傾げるだけだった。他にも、いくつか文字が書かれている本などを集めてきて、その文字を指差し、文章を作って言葉を伝えようとしたが、彼女が指差した文字は意図したそれとは必ず違う字を指しているのだった。
 彼女はベッドの中でひたすらに思考していた。いつか治るだろうか。治ってくれないと、小説だってかけない。いや、どころか自分の想いを何も伝えられない。それを考える度、ヌシカは震えた。私は自分の言葉を伝えられないのだ。

 日が過ぎた。彼女の状態は相変わらずだった。実質何もせず、起きていてもベッドから出ることはほとんど無かった。だが彼女の苦痛は、徐々にではあるが和らいでいた。彼女はこう思っていた。誰かに何かを伝えることはそんなに重要だろうか。私が何も伝えなくても、私は生きてるし誰も特に困りはしないのではないか。必要とされていない言葉が、意味を持つだろうか。私が今まで言ったり書いたりしてきた言葉の中にどれだけ意味のある言葉があっただろうか。
 ある日、夕刻に、とある決意をしたヌシカは、手招きで両親とアカーキィをベッドの傍に呼び出した。そして大きく息を吸い込むと、勢い良く喋り始めた。
「コンクリートの中に虫が混入していたの。カマキリでもコオロギでもなんでもいいわ。虫が入っていたの。誰も気づかなかった。コンクリートは地面になった。道路になったその上を沢山の人が通った。沢山の車が走っていった。虫はいろいろな足と車輪に踏みつけられた。でもコンクリートに守られた虫は何も感じなかった。痛みも悲しみもなかった。体勢を変えられないことには少し不満だったけれど、どちらかと言えば虫は気分が良かった。守ってもらっているという安心感があった。道路が朽ちてくれば舗装してもらえ、そこから出ろと言われることも無かった。誰も虫を批判せず、罵りもしなかった。褒めもしなかったけど、今の虫には必要が無かった。乱暴に言えば、虫は幸せを感じていた。ある日その道路が取り壊されることになった。虫は掘り起こされ、再利用されるために粉々に砕かれた。虫はありがとうさよなら人類と呟いて体勢を変えずに砕かれた」
 言い終えると、ヌシカはホッと溜息を付いた。何か心安らぐものがあった。私は言葉に固執し過ぎているのかもしれないな、と心中で呟いた。少し眠ることにした。
 私は何か意味のある言葉を吐けるのだろうか。目を閉じる直前、天井に染みがついていた気がした。染みはどこにでもいるのだなと思いながら、ヌシカは眠りについた。

さよなら人類

さよなら人類

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-15

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