眠らない君のコーヒーはいつもダークロースト。

ごめんね、昨夜から何度も電話をしてたよね。
最初のコールで答えてくれれば、こんなにしつこくリダイヤルせずに済んだんだけど。
たぶんまた、ぐっすり寝てたんだね。そのことを忘れていた。悪かったよ。そうだ、君は一度そうなってしまえば、今度は朝陽を浴びても目覚めない人だった。まるでバンパイアが昼間のうちは決して棺の蓋を開けたがらないように。
あ、たとえが悪かったかな。この点も謝るよ。なにしろ薄暗い場所で物事を考えているのでいつも、表現がこうやって適切な配慮の範囲を超えて吹っ飛んでいってしまうんだ。
そうそう、君はついに眠れたんだ。ここのところずっとそうなのかな。そうだったら、とてもいいことだ。僕も心から祝福する。安心したよ。そうすればたぶん二度と前のようなことはないんだろうから。そう言えば桜の咲く季節だったように思う。あれも、ふんわりと暖かな夜だったね。(そう、今、君と僕との出会いを話しているよ、唐突で悪いけど。)
年初に仕事を辞めた僕は場つなぎで始めた宅配便のバイト先で君に出会った。
空港近くの集配所だ。大型のトラックが何台も出入りする、大きな倉庫に君は勤めていた。ここでは飛行機で昼夜問わず荷物が到着する。それらを配送エリアごとに仕分けてトラックに載せるまでが僕たちの仕事だったんだけど、飛行機の到着する時間帯によって到着がまちまちになるので仕事は日勤夜勤のシフトで組まれていた。
そこではスタッフの間でシフトを調整するのは自由だったので、日勤ばかりの人もいれば夜勤が多い人も出る。もちろん希望が多いのが日勤で、夜勤は希望を出せばほぼすんなりと受け入れられた。夜勤で時給が割増になるとは言え、たった数百円の違いだ。あまり人はやりたがらない。でも僕は夜勤を希望した。こうした仕事は、夜間は顧客対応も少なく、決まった仕事さえこなせれば比較的自由に自分の時間を使えることを知っていたからだ。最初は君もそうなのかと思った。
「何か大金が必要な事情があるんだろ」
周りのみんなは君が夜勤ばかりを希望しているのを知ると、そう噂した。近くの貨物区のオフィスで派遣の事務職もしてダブルワークしているのだと、どこからか聞いたからだ。
昼も夜も働いて、お金が必要な理由。例えば浪費家の男とか、ギャンブル癖とか、理不尽なくらいの額の借金とか。口さがない人なら、だったら水商売でも風俗でもやったらいいのに、と露骨に陰口を叩いた。実際、君は綺麗だった。けばけばしくなく、清潔でいてこんなむさい職場にはまったく似合わなかった。自分からほとんど話はしないけど芯が強そうなものも感じさせたし、そのせいか職場の先輩も表立ったセクハラをしたりはしなかった。
同じシフトが多かった僕たちは、徐々に話すことが多くなっていった。年も近かったし、どこかうすぼんやりとした空気感が僕たちには共通した印象としてあったから。職場でやや浮いてるのも同じだった。でも別にすすんで女の子と話したりしない僕にとっては、君と仲良くなれたのは、最初は純粋に不可解な驚きだったんだ。
君はコーヒーが好きで外国雑貨のお店でコーヒー豆を買うのが楽しみな人だった。お金を貯めて何度か、ハワイへ現地産のコーヒーを飲みに行くくらいで僕にもお土産でコナコーヒーのパックをくれたよね。ダークローストのコーヒーはかび臭い木の匂いがしたけど、慣れるとこの匂いなしではいられなくなるんだ、と君はいつものぽつりぽつりつぶやく口調で話した。(君はなんの話をしても、いつも眠たそうで淡々としていて。人には本当は何を話していても面白くもないんじゃないか? と言う印象を与えた)
出会って半月ほどしたら、僕たちは付き合いだしていた。どちらが告白したわけじゃなかったけど、僕が一緒に住んでいた知り合いに逃げられて(そいつとは家賃を折半していた)困り果てているのをみて、「だったらうちに来れば」と言ってくれたのが、始まりだったと言えば始まりなのかな。
傍目には、僕たちはそれほど不釣合いなカップルじゃなかったはずだ。共通の趣味や嗜好もないのに物の好き嫌いでけんかをすることもなかったし(もちろん小さな諍いはあったにしても)、セックスだってそれなりに上手くやっていた。(君の小さなあえぎ声に合わせてどんなに身体を動かしても君のつまらなそうな表情を変えることは出来なかったが、自分がいっていないときに僕が終わってしまえば君はきちんと怒ったし、満足すればその後、低くのどを鳴らしてちゃんと抱きしめてくれた)お互いを変に疑いあうことなく、そのままいけば平穏な二人暮らしを続けていけるはずだった。君のささやかな秘密に、僕が目をつぶっていたらの話だったのだが。
君は極端に眠ることをしない人だった。それは生活をともにするようになっても、ずっと。変わらなかった。だからただ、夜も仕事をしていたんだ。することがないから。そんなことにようやく僕は気づいた。
「わたし、ねむらない人だから」
君は言った。
「気にしなくていいよ。だから、だいじょうぶ」
どうして休まないの? と言う僕の当然の疑問に君は簡潔に答えた。僕としては、付き合った以上、もう少し二人だけのゆっくりできる時間が欲しかったし、日中のきちんとした待遇の職が見つかったので生活のサイクルも変える気でいたから。
「いいんだ。このままで。だってねむれないんだから」
でも答えはそれだけで、それ以上は十分だろうと言うように、君はその答えしか口にしなかった。ちょうど終電のホームで最後の電車が去っていくのを為すすべもなく見送るときのように、それから僕は黙って一人寝の夜をやり過ごすしかなかった。君がひとりで外に出る時間が多くて僕は不満であると同時に不安だった。どうして休もうとしないのか。なんでまるで家へ帰るかのように外へ出て行くのか。
そんなとき、僕が一番ストレスに感じたのは君が夜中にもコーヒーを飲むことだった。夜勤がたてこんで、昼間の仕事まで眠る時間が少ないときも君はコーヒーを淹れてそれを飲んだ。そんなことをしたら絶対に眠れるはずないのに。
「美味しいのに」
君は残念そうに、唇を尖らせた。悪いけど君が自分の為に淹れたコーヒーは、僕にとってはただのどろどろとした濁り水だった。それは息が詰まるほどどす黒く淹れられていて、ひとくち飲むと熱帯雨林の沼の煮詰めた泥水を飲まされたみたいにえぐい。古いかびのひねた匂いと青臭い酸味で胃袋の底まで痙攣しそうになる。僕の知るコーヒーとはまるで異次元の産物に思えた。君はそれを男性用の大きなマグカップ一杯、必ず飲んだ。やめろと言ったこともあったし、それでけんかにもなったけど、君は一度だってそれを飲むのをやめることはなかった。
でも今から考えてみるとそんなことは、僕にとっては本当はどうでもいいことだったに違いない。本当に不満だったのは、眠れない君が、僕が眠っている間にどこかに行くんじゃないかと言うことだ。ひとくちで三日は眠れなくなりそうなコーヒーをあれだけ飲んで、僕に黙って君は眠らずに何かをしていたんだ。僕はしばらく見てみぬふりをしていた。
君が仕事を終えて家に帰ってからも、たびたび外に出かけていたしひとたび外に出たら、それから朝まで戻らないこともあったのを。僕が諦めたのは、問いただしても同じ返事が返ってくるからだった。
ねむれないから。
その言葉は、何一つ僕を納得させる内容を説明してはくれなかったんだ。今思えば、そんなことは大したことじゃないと、気にしなければ気にしないで過ごすことも出来はしたのだ。実際、その秘密とコーヒーのことに触れなければ概ね君は優しくて、僕の求めに対してもとても寛容でもあったから。でも、分かって欲しい。君のその一点だけの不可解さがいたずらに僕を神経質にさせたことを。
ねむれないから。
その言葉のただ一つのその頑なさが少なからず僕の眠りの安らぎすら奪っていたことも。
生活のサイクルがすれ違い、夜は貴重な時間になった。その頃の僕は眠らないように、出来るだけ眠らない君に付き合おうと努力していた。それでも真夜中、戻ってきた君は起きている僕をみて、一瞬だけ呆れた顔をした。実はもう、眠っていてほしかったのだと言うように。
「疲れてる?」
そんなとき、君は意味ありげに微笑むと、必ず無言でシャワーを浴びてきた。そうして戻ってきたときには別人みたいに親切になって、三歳児を眠りで誘う母親のやり方でゆっくりベッドへ誘いこんだ。それからの激しいセックスはまるで別世界へ引きこまれたようで、何度かの絶頂に疲れて僕は不可避の眠りに沈みこまされた。
あの晩もちょうどそんな夜で、体力を使い果たした僕はうつぶせのまま眠り込んでいた。
ふんわりと漂うような陽気の春の日だったね。いびきをかく僕の傍らでしずしずと君は外に出る支度を始めると、音もなく出て行った。時刻は午前三時を少し回っていた。昼と夜が分断される世界があれば、今ならどこまで行っても夜の世界だ。死の眠りに就いたような静けさの中、どことも知れない場所へ君はいそいそと出かけていった。
はじめは、尾行(つけ)るつもりじゃなかった。少し外に出るような格好だけでふらふらと出て行った君が単純に心配だっただけだ。陽気のせいか、不審者の徘徊情報だってよく耳にしていた。どこへ用事なのかは知らないけど、何とか戻りは二人で帰ってこようと考えていた。ただ、それだけだ。
早足で歩く君がふいに足を止めたとき、とっさに僕は隠れる場所を探した。君が立ち止まったのは、家から数百メートル行ったところにある大きな市民公園だ。僕たちが住む家の近くには桜の名所の公園があった。そこは篠藪と深い里山を開いて作った広大な公園で、小高い丘の上には二百本ほどの桜の木が植えられていた。遠くから花見の客も足を運ぶために敷地内には駐車場も設けられている。
僕が隠れる場所を探したのは、出入り口付近の駐車場にエンジンのかかったままの車が一台、停車していたからだ。パールホワイトのホンダのステップワゴン。後ろに貼られたサッカーチームのステッカーに見覚えがあった。
あれはチーフの篠田の車だ。以前の僕と、君の上司だ。サーフィンで日焼けした身体と、体力と早起きが自慢の鼻持ちならない自分大好き男だった。僕と君が付き合いだすと、まっさきに嫌がらせをしてきたのがこの男だった。そもそも君がひどくお金に困っていて、金さえ出せばなんでもする女だと言い出したのはこの男だ。
君は車の助手席に近づく。すると、確かに篠田が姿を現した。ほこりまじりのヘッドライトの明かりの中で篠田と君は親しげに話しているように見えた。理解が出来なかった。まさかこんな時間に、君がわざわざこんな場所まであの男を呼び出していたなんて。
肩を抱き合いながら、二人は公園の裏手の藪まで歩いていった。闇に消えて行く二人の姿を見守りながら息を潜めて、僕はこれからの行動を決める必要に迫られていた。なんにせよ、このまま何もなかったことにして戻る気にはまったくなれなかった。
君と篠田がどんな事情でこんなことになっているか分からないが、いざとなれば僕は、君と篠田の間に割って入るつもりだった。体力自慢の篠田を相手に、僕などが挑んでもどうやっても勝てはしないとは思うけど、そのときはそのときだ。怖かったが、何度か息を整えてなんとか覚悟を決めた。
湿った藪土を踏みしめて、僕は暗い森の中へ歩き出した。一度、躊躇してしまったせいか、もう前方に君たち二人の姿は見えなかった。昨日降った雨で、森は濡れて篭った芳香を放っていた。柔らかい春の夜風が吹くと、満開の桜の花がざわざわと揺れる音がした。凪の日の海鳴りに似たその音を、僕が初めてどこか不吉なものに感じたのはそのときだ。
カツン、と言う金属音めいた場違いな衝撃音とともに、悲鳴が上がったのは次の瞬間だった。我を忘れて僕は、その方向に走り出した。
桜の山はなだらかなスロープを描いて、山すそに落ちている。その先はさらに色濃い闇で何も見えない。人の踏み入れない山土はゆぶゆぶと柔らかく、斜面を歩くのにはとても不向きだった。足下に注意しながら近づくとそこは年経た竹やぶだ。太い礎石を打ち込んで組み上げた壁のように、厳然と立ち並ぶ真竹の袂が深いたまりになっていて、そこにぽつん、と人影らしきものが座っているのがかすかに見えた。大柄な影は君ではなさそうだった。それでも僕が呼んだのは君の名前だ。正直、別に君さえ無事であればあとのことはどうでもいい気分だった。実際、その影は振り向いて、返事をしたりなどはしなかったが少なくとも君でないのはすぐに分かった。それは中腰のような姿勢で固まったまま、まるでオブジェのようにそこにぽつんと佇んでいた。もしかしたらあれは人ではないのでは。それすら僕は考えた。しかしそれはやはり人だったのだ。
そこにいたのは、確かに篠田だった。薄闇の中で、僕は久しぶりに嫌みな上司の顔を見た。顔見知りの顔に思わぬところで出くわすのは本当に嫌なものだ。ことに、自分の知らないその人の顔をみてしまうと胸に酸っぱいものがわだかまる。ちょうど今の場合がそれだった。
篠田の顔には人間らしい表情など、ひとつも貼りついてはいなかった。いつもの自慢げな白目の大きな瞳も、偏ってへしゃげた唇も、何も語ろうとはしていなかった。篠田は無表情のまま、かすれた声でぐすぐす泣いていたのだ。唇をかすかに震わせ、小刻みに声を漏らして許しを乞うていた。痩せ犬が咳をしているようだった。どろりと黒いものが歪んだ頬を流れ重たい雫になってあごから滴った。どうやら頭を殴られているようだ。両手両足の自由を奪われて、なすすべもない状態で後頭部を殴られているのだ。
両手首は腰の後ろに回され、プラスティック製の結索バンドがしっかりと彼の手を戒めていた。化繊のジーンズを履いた大腿が黒く濡れているのは使いものにならないように、刃物で大腿部の動脈を裂かれたためだ。
まるで狩猟で収穫された野うさぎのように、ごく最小の手間で篠田は無力化されていた。かすかに残された余力がどうにか、彼にかすれ声で助けを求めさせているに過ぎなかった。
異様な状況に巻き込まれていることを実感したのか、僕の喉からようやく低い悲鳴が出た。根が生えたように動かない足が小刻みに震え、硬直してぎくしゃくする胸の周りがざわめき出した。何かが起きている。誰か危険な何者かがいる。逃げ出さなきゃ。でも、君を置き去りには出来ない。だからと言って、丸腰の自分に何が出来る?
篠田はまだ生きていた。僕の前でぶるぶる震えて助けを乞うていた。そうだ。救急車を呼ばなくちゃいけないという当たり前の判断が脳裏をよぎったのは、それからしばらくしてからのことだった。幸い、電話は持ってきていた。僕はジャージのポケットを探り、携帯を取り出そうとした。その瞬間だ。
カーン、と大きな金属音が響き、ついで猛烈な頭痛と衝撃が僕に襲いかかってきた。折れそうなほど首がねじ曲げられて、僕は吹っ飛ばされそうになりながら膝をつくと、ようやく自分がどうにかされたことを知った。殴られたのだ。
血のついた金属製のスコップを持って、君は立っていたんだ。ちょうど僕の真後ろだ。それで殴ったのは君だと言う以外にないという結論を出すのに、僕は自分の中の飛躍しすぎた事実の様々な混乱を立て直さなきゃならなかった。やっと整理したファイルの山を順序ばらばらに床にぶちまけられた気分だ。
それにしても頭が痛かった。焼け野原から逃げてきた大きな野ねずみが、火達磨になって僕の頭の中を走っている。あちこち壁に追突する。そのたびに不気味なほどのめまいと吐き気がとまらない。
「・・・・どうして?」
ようやく出てきた言葉がそれだった。でも、今から考えればその言葉こそがすべての発端であり、帰結であるように、僕には思えてならなかった。
「だって、ねむれなかったから」
と、君は言った。いつもと変わらぬ口調、おんなじ表情で。
「わたしは美味しいコーヒーが飲みたい。美味しいコーヒーが飲めたら、わたしはねむることができる。だから」
と言うと、君は足元に置かれたいくつかの袋を僕の前に投げ出した。プラスティックの細かな網目で編まれたその袋の中にはなんと、大量の生のコーヒー豆が詰まっていた。
「これをあなたたちと一緒に埋める。しばらくしたら、取り出して精製してみる。もしかしたら美味しいコーヒーが出来るかもしれない。出来なくてもしばらくは、コーヒーには困らない」
支離滅裂だ。わけが分からない。死体と一緒に埋めた豆でコーヒーを飲むだって?
じゃあ、僕にいつか飲ませてくれたあの、泥水のようなコーヒーって。
「いつもは一人分だけど、今夜は二人分。試してみる価値はあるかもしれない。上手くいかなくてもわたしはわたしの好きなあなたを飲むことができる。それで、十分ではある」
君はゆっくりと僕に近づいた。そして、無駄のない動作で僕の手首を縛った。その後ろで篠田が突然、倒れこんだ。はいずりながら、君から逃れようとしているようだ。
「少し待ってて。ちょっとあっちを片づけてくるから」
子供をあやす口調で僕にささやくと、君は音もなく立ち上がった。いつのまにか君は狩猟用のくの字型のボウイナイフを持っていてうずまき模様のダマスクス鋼の刃を皮のシースから抜いていた。
重ねた布団を上から叩くような音とともに、篠田の息が絶えるのを僕はずっと見ていた。
それから僕も刺されて埋められた。君が刺したのは八回だったと思う。穴は篠田のものより、深く、そして中はずっと狭くて暗かった。

あれから僕は考えてたんだ。ずっと、君と僕との会話の記憶のそこここを探って。君がどうしてあんな方法でコーヒーを飲むことに執着したのか。海外旅行をしていて、いつか君が一番美味しかったと言うコーヒーの話を聞いた。南米のある社会主義国の話だ。白人の言語と現地人のそれでがやついた市場の呪術師のテントで君はそのコーヒーに出会った。
「そのコーヒーには精霊の命がこめられている」
つたない英語で、その呪術師は言った。君が言うには確かに、そのコーヒーには深い香りの層と舌に沁みるほどの強い味わいがあった。飲むと、身体の芯に暖かく震えが走り、安らぎを帯びた穏やかな波が手足のすみずみまで行き渡り、とても心地よかったそうだ。
君はぜひ、そのコーヒーを持ち帰りたいと言った。金額しだい交渉すると、呪術師はしぶしぶ応じてくれた。しかし念を押すように、
「そのコーヒーには精霊が入っていない。ここでそれを入れなければならないのでこのコーヒーはあなたの期待には応えられないだろう。それでもよければ」
案の定、持ち帰ったコーヒーは、君が期待したほどの効果を得られなかった。呪術師にはあれから何度か会いに行こうとしたが、すでに引き払った後で同じ人は見つけられなかった。
しかし君は諦め切れなかった。そしてお金を貯めながら色々と現地のことを調べ始めた。そしてやがて呪術師が豆を手に入れた場所のことを知るに至った。そこはとある現地人の集落でコーヒーは長年、村人たちの間で飲まれていたものだった。そこではコーヒーに精霊を込めると言う。それは、死者とともに埋葬したものだと言う。
「でも、世界最高級のコーヒーなんて猫の糞からとられるのよ」
死体と一緒に埋めたコーヒー豆なんて気色悪いな、と言う僕に君は言った。それは、命を飲むのだとも。まさか。猫の排泄物から取り出したコーヒー豆は飲めたのだとしても、そんなコーヒーが美味しいはずはない。君は冗談で話していると思った。でも、考えてみればずっと、君はそのコーヒーを探していたに違いない。あのとき君が怪しげな呪術師から与えられた精霊入りのダークローストを。

さて、そろそろ話を終わりにしようと思う。で、あれからあの豆は引き上げられて、コーヒーは飲めたのかな。君は美味しいコーヒーを飲むことが出来たのだろうか。それがすごく気になるよ。君が見つけ出した方法は、本当に立証されたのかな。
実を言うと半分、僕は信じてるんだ。君が飲んでいたあの泥水のようなコーヒーには何がしかの効果がある。それは僕が保証する。君は憶えているかな。あの地獄のようなコーヒーを僕も飲んだことを。そのせいか、土の中で、僕は目覚めてしまったんだ。お陰で、過ぎた出来事についてじっくりと考える時間をもらえた。
今では身体も冷え切って、スコップで殴られた痕も君に刺された傷も何も感じないんだ。あそこは沼の底みたいに冷たくて静かだったからね。
冬場の寒さが厳しくて、外に出るのにちょっと時間が掛かってしまった。でも春になれば山土もやわやわとほぐれてくる。また、新しい桜が咲いていて、里山の風もこんなにあたたかい。
それにしても、今夜の月も綺麗だ。君は起きているかな。もう眠ってしまったかな。どちらでもいいよ。今度はちゃんと、僕が準備してきた。時間はなかったけど、あれから何人か埋めておいた。そこに君も加えたら、格別な味がするだろう。楽しみだ。安心して僕もぐっすり眠れるかもしれない。
電話を切るよ。住所が変わってなくて安心した。ながなが、一人で話し続けて悪かったね。つまりは僕が何を言いたいかというと、今から僕は君のところへ行くということなんだ。

眠らない君のコーヒーはいつもダークロースト。

と、言うわけでホラー短編です。(脈絡は特にありませんが)最後までお楽しみ頂けましたでしょうか。ちなみに作中に少しだけ登場する世界最高級のコーヒーは、コピ・ルアクと言ってインドネシア産だそうです。ジャコウネコの糞からとられたもので、現地では1杯800円程度、豆は1キロ4万4000円するそうです。いつかは飲んでみたいけどコーヒーにそんなにお金かけられないな。わたしもコーヒーを豆で挽いて飲みますが、ダークローストはあまり好きではありません。浅煎りの中挽きのふわっとした香りが好みで。とか話してたらコーヒー飲みたくなってきた・・・

眠らない君のコーヒーはいつもダークロースト。

そろそろ桜の季節。と言うことで、春の夜長をテーマに描いてみました。タイトルはゆったり系ですが中身はサイコホラーです。(なんでこうなったのか・・・)怖い人がでてきますし、あちこち痛いです。作品は夜中にかかってきた元彼の電話、と言う形をとっています。「僕」と「君」の桜咲く晩の秘密とは。それほど長くはありません。よろしければ最後までお楽しみください。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-15

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