アンチご都合主義(ツサミ)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

 プロローグ

 世の中は意外と都合よくできている。
 個人にとって世の中は一見非情に見えるだろう。
 だが、世の中はその非情さすら包み込み調和を吐き出す。その運動の中に我々はいるのだ。
 だから、世の中は意外と都合よくできている。

 高橋一樹はレポート提出用のボックスを前に立ち尽くしていた。記憶を必死に辿る。今朝の朝餉よりも、昨夜の宴よりも前――
(そういえば健二の奴また金返さなかったな)
 今はそうではない、と彼は首を振りさらに記憶を探る。彼が求めているのは数週間前の記憶だ。数週間前の、講義の冒頭、教授が言った一言である。
 くしゃり。
 彼の手にした紙が音を立てる。真夏の昼だというのに薄暗く、人気のない廊下にそれは小気味よく響いた。
 ここは大学の研究棟である。全体にクリーム色で統一された建物内は、明かりが無くひっそりとしている。そして、一樹は大の怖がりである。今にもその物陰から何者かが手招きしていそうなこの空間に一樹は精神を削がれていた。ただの研究棟だと言い聞かせようやく目的地まで辿り着いたのである。
 それなのに、世の中は彼に対しては非情であった。
 初めは見間違いだと思った。次には場所を間違えたのだと思った。そして最後に自分の記憶を疑うに至ったのである。
(もしかして、締め切りは今日だった……?)
 再び紙束、彼が今朝完成させたレポートが悲鳴を上げた。信じられないが、信じるしかなかった。目の前の提出用ボックスに彼の知る教授の名前は無かった。時刻は1時を少し過ぎたところである。もし締め切りが今日であったら、正午を過ぎた時点でアウトであった。
 足が動かない。背筋に生温かいものが伝わり、蒸し暑さのせいではない汗が額に滲む。
 彼の頭の中では既に次の算段が始まっていた。しかし、いくら繰り返しても答は変わらなかった。
 土下座。
 この単位を落としたら彼は卒業が危うくなる。その瀬戸際で彼が出来ることと言えば、安い頭を差し出すことだけであった。
 動悸が激しさを増す。この扉の向こうに自らの無様な未来を見出だしていた。
(どうせなら女性がいなぁ)
 土下座をしても許されない。スマートな眼鏡をかけた女性事務員が許さない。涙を地に湛えながら必死に謝る自分。そこで怪しげに笑う女性事務員にハイヒールで背中を踏まれ――
「あぁ」
 不意に背中から男の声が聞こえ身を強張らせる。恐る恐る振り返ると小肥りの男が苦笑いを浮かべて立っていた。一樹は彼に見覚えがあった。講義中に時折現れるお手伝いさんだ。助手なのか事務員なのか分からないが、とにかく彼もレポートのことは知っているだろう。一樹は身構えた。不意を突かれたが、まだ頭を下げるチャンスはある。さぁ来い、と心の中で胸を張り叫ぶ。
(さぁさぁ、いつでもかかってこい。何をしても俺は頭を下げるからな!)
「まぁ、次からは絶対に締め切り守ってくださいよ」
「すいませんっしたぁ!……って、あの、それだけですか?」
 思い切り頭を下げた一樹は予定外の台詞に戸惑っていた。彼としては受理されないと考えていたのである。それなのに目の前の助手だか事務員だかは受理すると言っている。様子見で顔を上げると、相手も戸惑っていた。
「まぁ、教授が帰るのは夕方だから、渡せればいいと思いますし」
 そう言えば、教授もそんなことを言っていた気がする。一樹は自身の頼りない記憶を微かに呼び起こしつつ、恭しくレポートを手渡した。
「もう二度と、しません」
 さらに頭を下げる。
「では、これで」
 助手だか事務員だかの顔をまともに見遣れず、その場を足早に立ち去った。
 ひっそりとした建物内。
 今にも物陰から何者かが手招きしていそうである。
 一樹はそんな空間で立ち止まった。
 それは三階へ向かう途中の踊り場。
(仏像?)
 彼の興味を引いたのは、柱を祠のよいに掘った空間に安置された小さな像であった。仏像に見えるが確証はない。ただ、アジア圏の神像であることは、その服装からわかった。素材は恐らく木だろう。継ぎ目がないことから一木造りだとわかる。柔らかい曲線の体つき。柔和な微笑み。目は細く開かれている。
(これもアルカイックスマイル、なのか)
 一樹は美術に詳しいわけではない。ただ昔、アルカイックスマイルという仏像の微笑みについての文章に触れたことがあっただけである。アルカイックスマイルは、泣く寸前の微笑みなのだという。辛い現実を前に笑う。泣く寸前の笑顔。その脆さに、人々は惹かれるのかもしれない。
一樹は自然とそれに手を伸ばしていた。
 その時、視界の端に映ったものを彼が見逃すはずがなかった。黒い影が階下で手招きしている。手招きというのも正確ではない。不定形の影から伸びた一本の触手のようなものがうねっているだけにも見える。一樹はそれをしばらく凝視していた。怪異でない可能性を求めて。しかし、それはどう見ても何らかの影が映っている風ではなかった。明らかに意思を持ち動いている。
 再び記すが、一樹は怖がりである。そんな彼が取る行動など一つしかない。彼とて頭の悪い人間ではないのだから。
(さて、階段は向こうにもあったな)
 彼を意気地がないと蔑んではならない。彼はただ怖がりなだけである。何かを怖がるというのは極めて自然のことであり、それから逃げるというのもまた極めて自然のことだ。彼は勇者ではない。感情を殺された人形でもない。重責を担う者でもない。彼はただの人間だ。力の無い、怖いものを避けて生き残るだけの人間なのだ。
 いつものように彼が逃避しようと元来た道へ足を踏み出した瞬間、である。
「気になるかね」
 それは皺枯れた声であった。一樹の頭がさっさと逃げろと指令を出していた。
 つい今まで誰もいなかった。階段を昇る者もいなかったはずだ。
 冷や汗が頬を伝った。
 喉が乾いた音を立てる。
(振り返るな。振り返るな振り返るな振り返るな振り返るな)
 身体はその指令には正直に従った。というよりも、そもそも彼は動けなかったのである。逃避という指令には従わぬ身体。その身体中から気持ち悪い汗が吹き出ているような気がした。
「そんなに怖がらなくとも大丈夫だよ」
 その者は優しく語りかけた。それでもなお一樹の警戒は少しも緩まなかった。その口はだらしなく開かれ、何か音を出そうとしているが、先程からうんともすんとも言わない。その様子を見かねてか、背後の者はその肩に手をかけた。一樹の身体が瞬時に強張ったことは明らかであった。
「少し、話をしよう」
 掴んだ肩を強引に引っ張り、一樹と対面する。
 それは声の主らしく、初老の男であった。ダークグレーのスーツに白いシャツ。それに黒いネクタイを合わせている。シルバーグレーの髪は短く綺麗に整えられ、蜜色の瞳が一樹を柔らかく映していた。
「裏側に興味は?」
「ないね」
 その状況で即答できたのは、ひとえに恐怖心からだった。早く逃れたい。勧誘から逃れるには関心がないことを前面に押し出すのがよい。
 初老の男は少し驚いた風を見せていた。
「まぁ、そう言わずに」
「嫌だね。早く帰してくれ」
 この男が一樹を帰すつもりがないことは、肩に感じる力強さからわかった。
「だかしかし、旅先のことを全く知らずに行く者などいないだろう?」
「はぁ?」
「おっと、時間だ」
 そう言うと男は一樹の肩を押した。傍から見ると軽く小突いただけである。それなのに一樹の身体は仰向けに宙を舞った。
 そして、一樹の頭がその体勢を理解することはなかった。なぜなら、それを理解する前に彼の身体は消え去ったからである。
(さて、私も行くとするか)
 初老の男は何かを納得したように小さく頷くと、その場から姿を消した。

 世の中は意外と都合よくできている。
 個人にとって世の中は一見非情に見えるだろう。
 だが、世の中はその非情さすら包み込み調和を吐き出す。その運動の中に我々はいるのだ。
 だから、世の中は意外と都合よくできている。
 
 そして、それは大概、我々の目に見えない所で蠢いているのだ。

 1

 目が覚めた時、一樹は見知らぬ場所にいた。少なくとも階段の踊り場ではない。見えるのは天井だろう、と自身の体勢から考える。今目の前に広がっているのはどこまでも続いていそうな空間であった。太さも様々な黒いチューブが縦横無尽に巡っていることまではわかるが、その先は暗闇であり天が知れなかった。
(手足が動かない……?)
 いくら力を込めても全く反応しない。首を動かすと、手足はちゃんと付いていていた。ただ、横たわる台から生えている枷が両手足に取り付けられている。その状況に困惑するも想像していた最悪の事態ではない。とりあえず安心して周囲を見渡すと、コンピュータのようなものに囲まれていることがわかった。人はいない。
(マッドサイエンティストの研究所みたいだな)
 彼の発想はあながち突飛なものではないだろう。仮に今ここに白衣の男がケタケタ気味悪く笑っていたとしても何の違和感もない。そんな部屋だ。もっとも今は電源が切られているようで、機械はただの塊と化している。一樹が横たえられているのは手術台のようなものであり、手足は拘束され頭にも帽子のような機械が取り付けられている。
 夢だと判断した一樹が眠りにつこうと目を閉じた時だった。この部屋唯一のドアが開く。事態の変化に、一樹が興味本位で首をもたげると、人が立っていた。
 その人物が掌を壁にかざすと部屋に明るさが戻ってきた。機械は低い唸り声をあげて起動し、天井には白い球が無秩序に浮かんでいる。
 そして、一樹が見たのは白衣の女性であった。髪は赤くやや紫がかっている。
「お、起きた」
 コツコツと近づいてくるその足にはハイヒールを履き、そこからスラッと伸びた脚。タイトスカートにスーツという、いかにも女性研究者という風貌。
「おはようも言えないの」
 彼はその女の胸に見とれていた。もちろん、彼女もそのことに気づいておりわざと前屈みになり彼の顔を覗き込んでいた風であった。きっとそういった視線に慣れているのだろう。その推測を許すだけの豊満さが彼女の胸にはあった。
「ほら、何か言いなさいな」
「あ、その、おはようございます?」
「……分からないわ」
 彼女は急ぎ足でデスクに向かった。それは一樹の足の向く方にある。彼女がデスクを素早く叩くと一樹の横たわる台が動き出し上半身だけ持ち上がった。これで彼女と対面する形になる。付言すれば、一樹の服装は何も変わっていなかった。着ている物も履いている物も意識を失う時と同じである。
「ああ、さっきのはおはようって言ったのね」
 彼女はデスクを見ながら言った。
「それなら、私からの翻訳は出来ているようね」
「あの、ところでここはどこですか」
「あらやだ、胸が大きいですね、なんて」
 彼女は隠すどころか腕を組み、それを強調して見せた。
「は?」
「本音聞かれちゃったからって恥ずかしがらなくていいのよ? よく言われるもの」
 そうして艶っぽい視線を向ける。
「いや、そうではなくて」
「え、やだそんな……二人きりだからって」
「ちゃんと話を聞いてくださいよ」
(確かにそう思ってたけど……てまさか)
「えぇ、そのまさかよ。私が見ていたのはさっきまで君が考えていたこと。この翻訳機は君の思考パターンを読んで表示してくれるの。魔法の力だから私にはよく分からないんだけどね」
「魔法?」
「あら、君の世界に魔法はないの? なら夜は暗いのかしら」
 そこで一樹は天井の白い球を見た。目を凝らすとそれは電球の類ではなく、火の玉のような光がふわふわと浮かんでいるだけだった。
「電気がありますので」
「電気?」
「俺も分かりません」
「ならお互い同じ様なものね。私も魔法は分からないけど使ってるし。後で詳しい子を連れてきてあげるわ……期待しちゃダメよ?」
「プライバシーというのは無いんですか……」
「そういう難しいのは私の仕事じゃないの。もっと頭のいかれた奴らの仕事だわ」
「とにかく、俺は喋らなくても考えるだけでいいんですね」
「そういうこと」
 彼女はちゃんと口を開いていることからすると、彼女から一樹への翻訳はマイクか何かを通して行っているのだろう。その音声データを脳に直接叩き込み聴覚として感知させる。魔法というのは都合のいいものだと一樹は感心した。
「ただ魔法を使えないのもいるからね」
「そうなんですか?」
 喋らなくていいと知っているが、つい口を開いてしまう。
「少なくとも私は使えないわ。それより、喋らなくていいのよ?」
「いや、分かっているんですけどね」
「あらやだ、私と対等に付き合いたいからなんて……」
 そう言ってわざとらしく頬に手を当てて熱っぽい視線を一樹に当ててくる。
 目は口ほどに物を言うと称されるが、脳波ほど物を言うものはないだろう。一樹の思考は瞬時に彼女に送られる。隠し立てなどできない。いや、隠していないことも彼女には分かってしまうのだ。意識に上がる前のものも彼女には分かってしまう。対して、彼女は声しか翻訳されないため向こうの意図は一樹には伝わらない。
 その時、一樹は一つの結論に至っていた。デスクを見た彼女の表情が冷たく変わる。
「そうよ。ここは拷問部屋」
 一樹の背筋に寒気が走った。様々な疑問が頭を過ぎった。彼女はデスクを凝視していた。
 どうしてこんなところにいるのか。
 どうして自分が。
 どうして。どうしてどうして。
 全て彼女に伝わっているということもあってか、普段なら途中で考えるのを辞めてしまうのに、一樹は無秩序な疑問をデタラメに吐き出した。
 そうすると、少し落ち着いた。
「答えてくれませんか?」
「それは構わないのだけど、君は彼から何も聞いてないの?」
「彼?」
「案内人……会わなかった? 白髪の爺さんに」
「あの人ですね」
「どうやら本当に何も聞いてないみたいね」
 あからさまに溜息をつき、彼女は続けた。
「ここは君がいた世界の裏側の世界。君たちが慣れ親しんでいる言い方をすれば、ファンタジー世界と言えばいいかな」
「はぁ」
 魔法があるなど、ファンタジー以外の何物でもない。それは今更驚くべきことではなかった。裏側に興味がないかというのはこういうことだったのか。
 一樹はファンタジーにあまり馴染みがなかった。読むのは大抵ミステリー小説である。馴染みがない、というより彼はファンタジーが好きではなかった。人の想像した世界。その中で一人の主人公が大活躍する。どの主人公も力を持ち、誰かを守り、仲間に恵まれ、何だかんだで危機を乗り越える。そんな話を読むことが段々と苦痛になっていった。幼い頃は憧れていたのに。その苦痛が醜い感情だということは理解していた。それでもなお、彼はファンタジーから目を逸らしてきた。
 感動物語は現実を否定する。
 いつだったか、酒の席で先輩から漏れた一言。それが彼には忘れられないものとなっていた。その一言を聞いた時、自分が分かったような気がしたのだ。空気と自分の境界がはっきりしたような、そんな感覚。
 現実は案外都合よくできている。
 しかし、都合よくばかりではできていない。
 ピンチに必ずしもチャンスは来ない。
 チャンスに必ずしもピンチは来ない。
 それが現実だ。それでも世界全体では帳尻が合っている。それが現実なのだ。
 ファンタジーでは、ピンチには必ずチャンスが来る。チャンスには必ずピンチが来る。それでもって希望を抱かせる。警戒を抱かる。それがファンタジーなのだ。
 だから、ファンタジーは好きではない。
 ファンタジーは現実を否定する。読むと惨めになる。
 一樹はそう、考えていた。
「でも私たちにとっては現実なんだよね」
 後悔したのは、目の前の女性が寂しげに笑っていたからだった。特に考えていたわけではない。だが、魔法とやらで読み取られてしまったのだろう。
「いいの。気にしないで」
「はい」
「まぁ、そんなわけで君は私たちの世界に来たわけ」
「なんのために?」
「気まぐれ、かなぁ」
「は?」
「君、案外口が悪いね……」
 本音を読まれるのだから取り繕うのも無意味だ。そうは言っても、初対面の年上の女性、しかもなかなかの美人相手に砕けて話す勇気など一樹にはなかった。
「俺は気まぐれで拉致されたということですか?」
「ありていに言えば、ね」
「誰の気まぐれですか?」
「分からない」
 彼女は悪びれることなく言い放った。
「こればかりは分からない。私はただ爺さんに渡されただけだし。強いて言うなら爺さんの気まぐれかもしれないけど、あの人は何を考えてるか分からないから」
「そうですか」
「ただ一つ言えるのは、君がバグだということ」
「バグ?」
「そう、バグ。私たちの世界にとっての異端」
 その言葉に俯いた一樹を見てかデスクの表示を見てか、彼女は慌てて付け足す。
「けどね、バグは大事なのよ。バグがあるから世界は変わる。異端があるから正当があるのも確かだし、異端があるから正当がなくなるのも確か。君は異世界人っていうだけ」
「そのバグが、どうして拷問部屋に?」
 言葉に棘を含ませる自分に嫌気がさしながら、一樹は疑問を告げた。ただの異世界人なら放っておけばいい。確かにバグはバグだろうが、何もしないなら自分はこの世界の人物と変わらないはずだ。それに、疑わしいなら殺せばよかった。自由にせず、殺さず、拘束するというのは何らかの意味があるはずではないか。
「その通り。君には頼みがあるの。だから調べてた。君が依頼に耐えうる人かどうかを」
「俺は普通の人ですよ?」
「私も普通の人よ?」
「魔法もない。力もない。金も知識もない。ましてコネがあるわけでもない。そんな俺にできることなんてあるはずがない」
「逆よ。そんな君だから動かせる」
 分からない?
 その怪しげな笑顔に背筋が凍る。赤紫の瞳が長い睫毛の奥で暗く光っている。小さな唇がゆっくり開く。
 一樹は予想していた。知識はないと言った。しかしこれは知識の問題ではない。知恵と経験の問題だ。その両方が彼に一つの不吉な運命を告げていた。

 死んできてって、そう言っているのよ?

 赤紫色の髪をした女性は、微笑んだまま、拘束された青年を見つめていた。
 その赤紫色の瞳が重い瞼に隠されるまで、ずっと。
 
 2

「おはようございます」
 聞き覚えのない女性の声に目を開けると、メイドが覗き込んでいた。男としては喜ぶべき事態であるが、今の一樹にはその余裕がなかった。
「御気分が優れないのですか?」
 首を傾げると黒い前髪が揺れた。同い年くらいだろうか。顔立ちは幼いが、全体として細い体つきからはどことなく妖艶さを感じる。もっとも、メイド服のうえからでもわかるくらい女性としてはがっしりとしており、エプロンドレスの前に揃えられた手には傷が目立った。
「いや、そういうわけではないんだけど」
「なら早く起きてください」
「そうしたいのは山々なんだけど」
 一樹は昨日から拘束されたままである。研究者曰く「ノリ」で投与された麻酔は切れたが、事態は変わらない。
「それくらい自分で何とかしてください」
「無理だって」
 魔法が使えるなら何とかしようもあるのだろうが、残念なことに一樹は魔法が使えない。するとメイドは不満顔を隠すことなく「仕方ないですね」と言いながら構える。
 手刀が右手の拘束具を破壊した。
「は?」
「あなたもこのくらいできないと困ります」
 そして、さぁやってみろ、と言わんばかりに見下ろす。一樹は自由になった右手をしばらく眺め、動かしてみた。特に普段と変わらない。何の変哲もない自分の右手だ。
(けどひょっとしたら)
 ここはファンタジー世界だ。ひょっとしたら、何かの間違いで能力に目覚めているかもしれない。そうでなくても、この拘束具の素材が物理的な力に強いと誰が言ったのか。女性でも簡単に壊せた。もしかしたらそういう素材なのかもしれない。いくつかの可能性に思いを馳せ、一樹は拳を握り、思い切り左手の拘束具を叩いた。
 鈍い音が部屋に響く。
 この世界は案外都合よくできていないのかもしれない。痛めた右手を振りながら一樹はメイドを恨めしげに見た。
「まったく、なんで私があなたみたいな人に」
 文句を隠すことなく呟きながらも、彼女は残りの拘束具を全て手刀で破壊していった。

 一日のブランクとはこうも人を弱くさせるものかと、一樹は思った。自由の身となり立ち上がろうとしても足元がおぼつかない。地面を踏み締める感覚がなく、メイドの助けを借りてようやくまともに立つことができる状態であった。
「あら、もう仲良しなのね」
「いいえ、こんな弱者に情は移りません」
 入ってきた研究者にメイドはきっぱりと言った。研究者は白衣を身につけておらず、白のワイシャツに黒いロングスカートという出で立ちであった。
「ところで」
 研究者はメイドに笑いかける。
「弁償、してくれるのよね?」
「私のせいではありません。全ては弱いこの男が悪いのです」
 無表情のままメイドは言った。その理不尽さに一樹が物申そうとした時、メイドは彼を睨みつけた。その視線から殺気を感じとった憐れな一樹は、何も言えずただ彼女に支えられていた。
「ま、いいけどね。本題はこれから」
 そう言うと、研究者はデスクに向かい、椅子に腰掛けた。
「昨日は基本的なことを聞き忘れちゃってね」
 デスクに両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せて上機嫌な猫のように笑っている。
「君の名前、なんだっけ?」
 言われてみれば互いに名乗っていなかった。いや、一樹としてはとうに名前を知られていると思っていたのだ。それだけにここで名前を聞いてくるのは意外なことであった。
「君は自分の名前を意識したりするの? 自分の名前は知識ではないからね。どうもこの魔法では感知できないみたい」
「なら、改めて。俺は高橋一樹と言います」
「一樹君ね。私はリヴ=ラエール。リヴでもリーちゃんでもお姉ちゃんでも好きに呼んで……どうやら最後が気に入ったみたいね」
 楽しげな笑顔に一樹がそっぽを向くと、小さく笑って彼女は続けた。
「で、そのメイドがレスグアッド=ナタス。昨日言った魔法に詳しい娘よ」
「好きに呼んでくれて構いません」
「普段は何て呼ばれてるんだ?」
「レイシー」
「なら俺もレイシーと呼ぶ」
 と、ここで一樹は違和感を覚えた。
「そう。この娘はね、君の言語、日本語が話せるの」
 レイジーは初めから翻訳抜きで会話をしていた。確かに、これから「依頼」をこなすにあたって通訳は必要不可欠だ。その「依頼」とやらがこの部屋だけで済むのでない限り。逆に言えば、レイシーがメイドとして付いた時点で、その「依頼」が外で行われることが確定したと言える。
「この娘は一時期君の世界にいたことがあってね。魔法も剣技も優秀だし、君の護衛には打ってつけかなって」
 その言葉で一樹は合点がいった。彼女が常人から外れた力を持っているはずである。きっとあの手刀には何か魔力的な付加があったのだろう。
「いや、多分それは単純な力だと思うよ」
 デスクの画面を見ながら、口に出していない一樹の思考にリヴは答えた。
「彼女は軍人だからね」
 その軍人に捕われているのが自分なのだと、一樹は自身の現況を思い知った。異世界人が捕われ、拷問され、軍人が付く。その軍人がメイド服を着ていないなら完全に単なる捕虜である。
「なぜメイド服を?」
「一樹君の世界ではそういうものじゃないの?」
「いえ、まったく」
「じゃ、じゃあ、研究者が白衣にピッチリスーツっていうのも?」
「えぇ、まったく」
 残念ながら、一樹はミステリー小説としか縁がない。巷の噂と友人との会話とから、リヴと似たような感覚は知識としては持っていたが、だからと言って実際にそうあるべきだなど考えたこともなかった。まして、軍人にメイド服を着せるという発想など彼が持ち合わせているはずもなかった。
「そうなんだ。まぁ、何だかんだその娘も楽しそうだったからいいや」
 レイシーを見るがとても楽しげには見えない。むしろ嫌々メイド服を着ているとしか見えなかった。そんな彼女から発せられているあからさまな害意を無視して、リヴは会話を続けた。
「で、一番肝心な、依頼のことなんだけど」
「はい」
 来た。昨晩は狼狽が激しく内容を告げられることはなかったが、ついに来た。死んでこいと言われる依頼。緊張しないはずがなかった。死を前にして躊躇う人間などいないわけがない。しかし、一樹はどこかで冷静になっていた。それはきっと、未だに自分の死という未来を目の当たりにしていないからだ。そうでないなら、ただ単に諦めているだけか。彼の真っ黒い瞳からはそのいずれかを判断することはできない。

「魔王に会ってきて欲しい」

「魔王?」
「うん」
「倒すんじゃなくて?」
「倒せるの?」
「無理です」
「んじゃ、そういうことで。詳しくはまた明日追って連絡するから、その娘と仲良くしててね」
 直後に向けられるレイシーの視線など物ともせず、リヴは颯爽とその場を去った。残された二人。一樹は居心地の悪さから、何となく先程まで自らを拘束していた台に腰掛けた。レイシーは立ったまま、正面で一樹を見据えている。
「質問、いい?」
 沈黙に耐え切れず一樹が口を開く。
「はい。そのための私ですから」
 レイシーは眉根一つ動かさない。
「魔王って何?」
「そのままです」
「そのままか」
「そのままです」
 会話が尽きる。一樹の予定では魔王の話から色々な話題に発展するはずであった。魔王の説明に分からない言葉があればそれを聞けばいい。さらに分からない言葉が出たらそれを、と芋づる式に会話が続いていく予定だった。やはり最初のステージでいきなり魔王を出してくるのは無理な話なのだと思い知る。
「とりあえず、座ったら」
「いえ、お気になさらず」
 一樹としては彼女の取り扱いに困っていた。彼女はメイドとして一樹に付いているが、実態は監視役だ。軍人の監視役がメイド服を着て目の前に立っている。この特異な、シュールな状況に一樹は対応できずにいた。
「魔王は」
 その表情は女性的であった。それまで一樹に焦点を当てていた両目は天井に向けられ、どこか遠くを見つめていた。
「最強の魔法使いに与えられる称号です。もっとも、今では別の意味合いが強いですが」
「別の意味?」
「はい」
 そこで視線が再び一樹に向けられる。
「ここ、ナパジェ王国は魔王討伐を目指しています」
「魔王だから当然、というわけでもなさそうだな」
「はい。元来、魔王は最強の魔法使いであり、国王は最強の剣士の意味でした。外見上は国王が代表ということになっていましたが、両者は互いに国を統治していました」
 かつて、琉球王国では俗的な君主と神的な巫女が夫婦関係となり国を治めていたという。ナパジェ王国もまた同じように、互いの権威を合わせて安定した統治を行っていたのだろう。
「しかし、それに不満を持つようになった魔王が革命軍を組織し国王に抗うようになりました。よくある話です。以来、魔王とは革命軍の大将を指すようになりました」
「とすると、結構長く続いているのか?」
「四百年以上は続いているでしょうか。初めこそは国王も改めて魔王を任命していたようですが、その内誰もが任官を拒むようになり、魔王の今の用語法が定着したようです」
「ところで、人の寿命は?」
 一樹にとって四百年と言えば江戸時代より長く平安時代より短いくらいであり、長く感じるが、ここはファンタジー世界、寿命が違えばそう長く感じないかもしれないと思ったのだ。とにかく、一樹は知識が欲しかった。
「種族によって違いますが、純粋な人間はあなたと変わりません」
「他にも種族が?」
「はい。エルフやドワーフはあなたも馴染みがあるでしょう。それから獣人や魔物・妖かしの類。大まかに言うとそんな感じです」
「なるほど」
 特に馴染みがあるわけではないが、彼女の分類で姿を想像できない者はなかった。
「ちなみに、先程の女はサキュバスです」
「なるほど」
 納得である。あの色気とふざけた様子はサキュバスとして場慣れしているからだろう。もっとも一樹の想像するサキュバスはもっと積極的な者であったため、その点では想像とは異なっていた。
「で、そのサキュバスさんはなぜ俺を魔王に?」
「現代の魔王は好戦的ではありません。国王もできたら和平をしたいと考えておいでです。そのための特使を果たして欲しいのだと私は聞いています」
「ならなぜ俺なんだ? 正式に和解を申し出ればいいじゃないか」
「それは軍人にすぎない私には分かりかねますが、様子見ということでしょう。いきなり和解を申し出るのは愚直に過ぎます。まずは下地を固めて交渉の場を設けるのが普通です」
「まぁ、だよな」
 口ではそう言ったものの、一樹は納得していなかった。確かにいきなり敵陣に大事な人材を送り込むのはナンセンスだ。しかし、かと言って、王国になんの関わりもない素性の知れない男が乗り込んだところで話を聞いてくれるのだろうか。仮にそれで向こうが和解に応じたとしよう。その知らせを王国はどうして信頼するのか。素性の知れない男が持ち込んだ相手の情報を信頼するなどそれこそ愚直である。
結局、死んでこいというのはそういうことなのだろう。恐らく魔王に殺されることはない。なぜなら、それでは相手に付け入る隙を与えるからだ。仮に魔王が圧倒的な力を持っているならむしろそれを好機と捉えるであろう。しかし、レイシーの話では好戦的ではないらしい。とすると実力は拮抗しているとみてよい。一樹はここで死ぬのだと思った。このナパジェ王国で、自分は殺される。素性の知れない重要人物など放っておくわけがないからだ。殺さないまでもどこかに幽閉する。それはここで骨を埋めるということだ。
そこまで思考が至り、一樹は思わず溜め息が出た。不思議と悲しさはない。未だに現実感がないからだろう。その非現実感を醸し出すのに一役買っている目の前のメイドは、小首を傾げていた。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
 気のない回答に、思案顔でふむと頷くと、レイシーはいきなり一樹の手を取って立たせた。
「では、少し散歩をしましょう」
 それが戦場を駆ける軍人ならではの気遣いであることまでは、一樹は想像することができなかった。

 3

「この施設は国立の研究施設です」
 散歩と言っても施設内を案内してもらうだけであった。軍人らしからず、メイド然として隣を歩く女性。少女と言っても通じる容姿。一樹も背の高い方ではないが、彼女はさらに小柄で、彼の肩くらいに彼女の頭のてっぺんがあった。
「ここでは主に科学技術の研究をしています。開発とは少し違いますね」
「どういうこと?」
「我々が科学技術をあなた達の世界から取り入れ始めたのです。百年前くらいからですね。あなた達の技術を後追いしているだけですので、自ら道を拓いているわけではありません。なので、あくまで研究です。開発はしていません」
 一樹はざっと辺りを見回した。言われてみればどこか古めかしい。最先端の科学技術を研究している施設にしては野暮ったい。廊下の壁は石造りで洞穴を想起させる。先程聞いた話ではここは本当に洞穴らしい。崖に穴を空けて作ったという。一樹がその理由を尋ねると、戦時中だからだという。それに意外と快適なようだ。崩壊の危険と隣り合わせだが、一樹の居た世界でも未だに洞穴で暮らしている人間がいるのだからさほど支障はないのかもしれない。洞穴とは言え魔法の光球が浮かんでいるため暗くもない。ただ野暮ったいのだ。
「魔法があるからいらないんじゃないの?」
「戦争だからですよ」
 そう言うとレイシーは足を止めた。彼女の視線を追うと、リザードマンがこちらに歩いて来ていた。
 レイシーが恭しく頭を下げる。リザードマンは快活に笑いながら彼女の肩を数度叩く。そして彼女の後ろに居た一樹を見つけると何やら彼女に話し掛けた。その言葉は一樹には分からないが明らかに自分のことだろう。そう思うとあまり良い気はしなかった。すると、リザードマンは彼に近寄り手を差し出した。反射的にその手を握る。表面は固いが弾力のある不思議な感触だった。爪が少し刺さっていて痛いが仕方ない。
 リザードマンはそれで満足したのかレイシーに何やら言葉をかけるとその場から去って行った。
「あの人は?」
「ここの所長です」
 思わず振り返るがリザードマンの姿は既になかった。アロハシャツを思い出させる花柄のシャツに短パンという出で立ち。リヴの方が研究者らしい。
「言いたいことは分かりますが、ここではそういうものです」
「でもリヴさんは」
「私がアドバイスしましたから。向こうではどういう格好が普通なのかと尋ねられたので。あの方もあれで気を遣っていらっしゃるのですよ」
 その後二人は朝食を取りに食堂へ向かった。
 食堂の様子は元居た世界とあまり変わらなかった。メニューがあり、それを告げる。違いがあると言えば文字が読めないことと食堂の従業員が人間ではないことくらいだった。一樹はサンプルの無いメニューを逐一レイシーに説明してもらいながらカレーらしきものを頼んでもらった。金もないので奢ってもらった形になる。一樹がすまなそうにすると、彼女は無表情のまま経費で落ちると言った。
「味は普通だな」
 出てきた料理はカレーに近かった。白米を炊いたものに、肉や野菜を含む茶色ルーがかかっている。その点は全くカレーだった。しかし、その白米というのはドロドロのお粥である。液体に液体をかけたような状態だ。
「それは病院食みたいなものなんですよ。徹夜する人もいますから」
 辺りには、朝だと言うのにテーブルに突っ伏して寝息を立てている者が散見された。一樹達がいるのは窓際の一画である。元の世界と同じように明るい太陽が差し込み食堂全体を照らしていた。
「どうしました?」
 レイシーが怪訝そうに尋ねるのも仕方ないことであった。陽光の下、半袖から伸びたレイシーの腕や手が輝き、一樹はそれに見とれていたからだ。視線の先に気づくと、レイシーは小さく溜め息をついた。
「体質なんですよ」
「君は人間じゃないの?」
「えぇ。私は」
 そこで言い澱む。一樹が声をかけると、どうでもいいじゃないですか、と食事を続けた。一樹も木製のスプーンを口に運びながら、それでいて目の前のレイシーを盗み見ていた。単純に驚いたのだ。少女、と言っても構わないくらいの女の子が、自分と見た目の何ら変わらない女の子が人間でないことに。それほどまでに彼女は人間らしかった。
(まぁ、リヴさんもサキュバスだったしなぁ)
 そう考えて見るのを止めたのは、彼女が冷たい視線を当ててきたからだった。

 食堂を発ち、二人はリヴの研究室に来ていた。
 部屋には随分と立派な、恐らくキングサイズだろうベッドが置かれ、それだけで部屋の四分の一を占めていた。他にも木製のタンスに背イスが二つ。それが囲む小さなマルテーブルの上には中が空洞なランプシェードが置かれていた。
 部屋の主はベッドの端に腰掛け一樹達を迎えた。
「どう、私の部屋は?」
「住んでるんですか?」
「そうよ」
 この会話はもちろんレイシーが同時通訳している。
「ま、とりあえず二人とも座って」
 言われるままに座ると、リヴは一樹をじっと見つめた。不思議と引き込まれる。一樹も頭では理解していた。これはサキュバスの能力なのだろうと。しかし、逆らえないからこその能力なのだろう。赤紫の瞳が揺れているように見えた。そんな二人をレイシーは気力ない表情で見ていた。
「本当に君は普通ね」
 目を瞑りリヴは言った。
「気をつけなさい。生きて帰りたければね」
 再び開かれた瞳を見て一樹は身の毛がよだった。暗い。夜のように暗く深い、どす黒い血のような色をしていた。自らの意思に関係なく奥歯が鳴っていた。見開かれ瞬きもできず乾いた目からは自然と涙が溢れるが、それは汗に紛れて消える。
「ま、大丈夫よ」
 リヴはふと表情を緩めるとベッドに仰向けになった。同時に、一樹を襲っていた感覚がなくなる。思い切り深呼吸すると一樹は口を開いた。
「なんですか、今のは」
 その問いに上体を起こす。リヴの瞳は元に戻っていた。しかし、リヴが語りかけたのは一樹にではなくレイシーだ。そのため何を言っているのか分からない。二、三言で二人の会話は終わる。
「時々あるんですよ」
 一樹の問いに答えたのはレイシーであった。
「サキュバスの能力なのですが、本人に自覚がないみたいで」
「どんな能力なの?」
「相手を服従させます」
 一樹はそれで納得した。あの感覚を知った者なら誰しも納得するだろう。恐怖。単なる恐怖ではなく、抗いようもなく抗う意思も生まれない恐怖。それに名が与えられただけで気分は楽になっていた。
「というわけで、君は私の奴隷だから」
「あまりそんな気がしないんですけど」
「まぁ私もこの能力はよく分からないから」
 そう言いながら立ち上がり、タンスの鍵の付いた引き出しを開ける。現れたのはコンピュータのキーボードだった。
「一応仕事部屋だからね」
 部屋が暗くなり、魔法の白い球が天井に浮かんだ。その一つが一樹の目の前にまで降りてくる。
「この技術は」
「簡単なことよ。魔法使いがしてることを科学で表現しているだけ。君達みたいに一から科学で創り出したわけじゃなくて、魔法があってそれを動かしてるだけだよ」
 それはもはや自分の世界よりすごいのではないか。一樹は目の前の白球が徐々に形を変えていくのを見ながら思った。それは球体から平らな板になり、ディスプレイのように何かを映し出した。恐らくこちらの文字なのだろう。アラビア文字に似たものが整然と並んでいる。
「これが命令書」
「読めません」
「レイシー」
 隣のレイシーも画面を見ていた。難しい表情に不安になる。
「……読めません」
「あ、やっぱり縦書きじゃダメかー。君の国では縦書きだって聞いたから。今直すよ」
 レイシーは呆れたというより軽蔑したような視線を向けていたが、表示が変わると見慣れたあの無表情でそれを読み始めた。
「一樹君へのお願い」
「え?」
 のっけから邪魔をされて不機嫌そうだ。
「黙っていてください」
「あぁ、うん」
「一樹君へのお願い。異世界から来て早々で悪いのだけど、お使いを頼みたいんだ。ある人に会って欲しい。ある人というのは、魔王だ。魔王に会って、終戦の提案をして欲しい。それだけ。道中は部下を付けるから安心して。では、気をつけて。ナパジェ国王、アラン=ナパジェ」
 レイシーが溜め息をつくと、それを合図にしていたかのようにリヴが「そういうことで、頑張ってね」などと調子のよいことを言う。
「で、その部下というのが」
「私ですね」
 微かに眉をひそめたことを一樹は見逃さなかった。
「嫌なら断ればいいのに」
「いえ、護衛などよくある話ですので。ただ……」
 少し口を曲げ思案顔をする。
「なぜあなたのような貧弱で無能な方を、と」
 それはそうだと一樹自身思うが、面と言われると苦笑いしか出せなくなる。
「なに言ってるの。一樹君はこのために呼ばれたようなものなんだから」
 タンスの上にある鏡を見ながらキーボードを叩いていたリヴが割り込む。
「どういうことでしょうか」
 レイシーの問いかけにもリヴは鏡から目を離さない。よく見るとその鏡は彼女を映しておらず、代わりに細かい文字が並んでいた。
「仲介なら第三者がいい。それだけのことよ」
「ですが、わざわざ異世界から呼ばなくとも」
「甘いわねー」
 一つの白球が一樹とレイシーの間に降りてきた。それは同じようにディスプレイとなり、どこかの地図を表示した。陸地は全体的にイタリア半島のような長細い形をしている。
「いい機会だから説明しようか」
 そう言うとリヴは二人へ身体を向ける。
「まず、ここがナパジェ王国」
 キーボードを叩くと同時に地図上に実線が引かれる。それはナパジェ王国が陸地の南西の一部分を占めることを示していた。海には接しており南西地域の約四分の一ほどだろうか。
「そしてこれがカンナイ王国」
 次に現れた実線は、ナパジェ王国の東から北東と隣接し南西地域の半分近くを占める国を示した。
「で、北にあるのがオディアコー王国」
 ナパジェ王国はカンナイ王国とオディアコー王国に囲まれていることになる。
「一樹君にとってはあまり馴染みがないかもね、王制国家ばかりなのは」
 続けてリヴがキーボードを叩くと大小様々な赤い円が地図上に現れた。
「よくある話でね」
 いつの間にか一樹の背後に立ち両肩に手をかける。そして不必要に唇を耳元に近づけ、さらに不必要に艶かしく告げる。
「利権争い」
 その間一樹は微動だにできなかった。レイシーも動かない。リヴの姿を再びタンスの前にあるのを確認して、一樹は彼女の吐息の感覚を惜しみつつ口を開いた。
「石油でもあるんですか?」
「一樹君の世界みたいに石油を見つけたり掘り出す技術はまだないんだよ」
「では何を?」
「魔法の源かな」
 リヴがレイシーに視線を送ると、レイシーは改めて一樹に身体を向けた。
「魔法を使うにはエネルギーが必要です。それはその土地にあり、魔法使いはそのエネルギーを消費しているわけです。喩えるなら、魔法使い自身が火力発電所といったところでしょうか」
「なるほど」
 その上で地図を眺めると、赤い円はナパジェ王国に集中しているようだ。所々にある大きな円は恐らくエネルギーの大きさを表しているのだろう。そしてその莫大なエネルギーもまた多くはナパジェ王国にあるのだった。
「ナパジェ王国は随分と豊かなんですね」
「それに、だから狙われるんだよ」
 柔らかい音はベッドに腰掛けたリヴが出したものだった。
「長くなったけど、こんな状態だと仲介する方も渋るわけ。だから、周りには頼れない」
「今まで内戦状態でよく無事でしたね」
「このデータは最近分かったものだからね。一樹君の世界を真似して調査してみたらね」
 自分の世界が間接的に今の緊張状態を招いたのかと思うと複雑な気分だった。
「ま、元々仲が良いっていう訳じゃなかったけどね。で、分かった? 一樹君が適任な理由」
「中立国はいないんですか?」
「いないね。教皇のいるアガペ教国は一応中立ってことになっているけど、あいつらもどうせ利権を狙ってるわ」
 胡乱な目つきだった。次いでだらし無く口元を緩めた。それでいて視線は一樹を固く捕らえている。
「まー頑張ってぇ。魔王の場所はぁその娘が」
 上体がベッドに沈み小さな寝息が聞こえてきた。サキュバスとはこうも唐突に眠るものなのだろうか。この女性がつい昨日、自分に死んで来いと言ったのかと思うと、一樹としてもやはり緊迫感を覚えなかった。
「では、行きますか」
「もう?」
「元より今日の午後にあなたと発つ予定でした。部下にもその時刻に来るよう伝えてあります」
「そうなのか……まさかそのまま?」
「いえ、護衛ですからそれなりに準備をします。あなたも戻って準備をしてください」
 それだけ言うとレイシーはさっさと部屋を出て行った。

 4

 旅仕度――とはいえフード付きのローブを纏っただけにみえるのだが――を済ませたレイシーに連れられ一樹がたどり着いたのは、研究所の傍にある市場であった。この市場は研究所を囲うように展開されており、食料品から日常雑貨まで多様な小売店が軒を連ねている。その雑然とした様子は、一樹の居た世界で言う築地のような雰囲気を醸し出していた。もっとも、そこにいるのは人間だけではないのだが。
 混み合う中を悠然と歩くレイシーは柔和な表情を浮かべていた。
「どうしてこんなところに?」
「いえ、特に」
 不意に陰が出来たのは飛行船が通り掛かったからであった。雲のようなそれはゆったりと二人の頭上を越え研究所の向こう側へと消えて行った。
「飛行船はあるのか」
「あれは王国の軍用機です」
「となると、何か緊急事態?」
「さぁ。今の私には関係ないことですから」
 彼女の手にしたのは小さな髪飾りだった。何の変哲もない、暗い紅をした、櫛状の。店のおばさんが固唾を飲んで彼女を見ている、と一樹は思う。というのも、その店番には首から上がなく、傍らに置かれた頭部がレイシーをじっと見つめていたからだ。何でもありなんだと悟りながらも、一樹の膝はこの状況を笑っていた。
 それにしても。
 レイシーの横顔はいつもより覇気がないように思えた。出会ってまだほんの少し。顔を眺めたことなど芥子粒ほどだろう。それでも、一樹が違和感を覚えるには充分であった。
「これを、いただきます」
 取り繕うように微笑む。
「レイシー様に買っていただくなんて光栄ですよ」
 そう言って釣銭を手渡す。
「私はそんな大層なものじゃありませんよ」
「そんな御謙遜を。ここいらの者は皆、貴女様に感謝しているのですよ」
「ありがとう、ございます」
 おばさんの言葉に躊躇うように応える。
 これらの会話を一樹は当然理解できていない。しかし、店のおばさんの態度からしてレイシーが高位の者であることは分かった。そんな者がぽっと出の異邦人を護衛する。その状況が少しだけ気になっていた。
 その時、一樹の背後で泣き声が響く。振り返ると小さな女の子が母を求めていた。猫のような耳も細長い黒い尾も垂れている。迷子の定番なのだろうかと一樹が思ったが早いか、レイシーが彼女に向かい合い座っていた。
「大丈夫ですよ。私が探しますから」
 そっと女の子の頭に手を置く。ローブから覗いた手首が陽光を浴びて輝いていた。レイシーは軍人と言うには軽装であった。甲冑の類は身につけておらず、長袖長ズボンの黒い軍服であり、矢の一発でも受ければ一たまりもないだろう。不審を口にした一樹に、彼女はそういうものだと言った。そしてそれ以上に目立つのが、濃紺のローブであった。いや、ローブと言うよりも、ポンチョの類だろう。それが彼女の全身を覆い隠していた。
「お姉ちゃん、綺麗」
 視線を上げた女の子は輝くその肌に見とれていた。心なしかレイシーは苦笑いを浮かべている。近くに母親らしき人が居ないか見回していた一樹の視界に映るのは、どこか遠巻きに眺める市場の人々であった。二人の周りを避けるように人混みが作られている。それは自然なことだろう。しかし、一樹が見たのは、不自然な光景だった。あまりにも二人から距離を離し過ぎている。ただでさえ狭い、人が五六人横並びになれば塞がれてしまうような市場の道であるにも関わらず、行き交う人々はその端を通って行く。一人しか通れなくなるまでに。そして生まれた空間にいるのは一樹を含め三人だけであった。
「そろそろ来るから」
 言い終わるが早いか、女の子の名前らしきものを呼ぶ声が聞こえてきた。声の主たる女性が女の子の許に駆け寄る。
 そして、娘を奪い返すように抱き寄せると、レイシーに言い放つ。
「娘に何もしてないでしょうね!」
 一樹に言葉は分からなかったが、その表情に感謝など微塵もなかった。その理不尽さに一樹はレイシーの反応を待つが、彼女はただ苦笑いを浮かべるだけだった。ただただ、笑っていた。
「いきなり何ですか」
 気づいた時には母親に詰め寄っていた。
「貴方も仲間なの!?」
「いいえ、違います」
 割って入ったのはレイシー。
「彼は私の護衛対象です。従って仲間ではありませんし、それが意味すること、分かりますよね?」
 その顔には熱がなく、困惑した喧騒の中でそれは異様な彩を放っていた。その威圧感と警告に母親は渋々といった様子でその場を離れて行った。去り際に曳かれて行く女の子が満面の笑みで手を振っていた。
「振り返してやらないのか?」
「出来ません」
 出来ない。その言葉の意図するところ。
「説明してくれる?」
「嫌です」
 未だ人混みに取り残される二人。レイシーが静かに歩き出すと、人々は遠慮がちに道を開ける。
「私はこちらの人々にあまりよく思われていません」
 追いついた一樹に彼女は言った。
「でもさっきのおばさんとは親しげに会話してたじゃないか。もしかして皮肉でも言われてたのか?」
「あんなの社交辞令ですよ。貴方は随分と甘い世界にいたのですね」
 彼らも商人だ、ということなのだろう。商売に種族も地位も国境も関係ない。ただ金があればよい。金を持つという限度で種族や地位は意味を持つに過ぎない。金は使い手によって価値を変えたりしないのだ。経済はそうやって発達してきた。
「でも、私の前に立ってくれた者は貴方が初めてでしたよ。事情を知らないとは言え、感謝してます、少しだけですが……ほんの」
 一樹としてはその事情が気になるところではあったが、恐らく、彼女が全身を覆い隠しているのと関係があるのだろう。あんなに綺麗な肌を隠してしまうことが惜しく思われたが、仕方ないのかもしれない。
 俯く彼女に、一樹はもどかしさを感じながらも、ただ付き従うだけであった。

 その男は眺めていた。連絡によれば飛行船が着いたらしい。自らの身長より遥かに高く、仰ぎ見てようやく天が見えるほどの大きなガラス窓。その向こう側には緑の山々が連なり、澄んだ青空へ突き刺さっているようだ。
 男はそんな様子を立ち上がり見ていた。
「国王様」
 振り向くこともない。聞き慣れた声だ。
「来たか」
「はい。緊急の事と聞き及び馳せ参じました」
 そこには良く知る少女が跪き頭を垂れていた。その様子に満足したのか、国王は用件を話し出す。
「裏切り者の処理を頼みたい」
 裏切り者という単語に少女は顔を上げた。そこにあったのは怯えか驚きか、はたまた哀しみか。なんにせよ、その少女は自らの感情を忠誠で以て押し殺していた。
「どうしてお前が呼ばれたか、分かったようだな」
「そんな……」
「用件はそれだけだ。行け」
「しかし!」
「ミイラ取りがミイラになる、という言葉が向こうにはあるらしいな」
 事もなげに放たれた言葉は、少女を黙らせるには充分であった。少女は立ち上がり一度礼をして去って行った。
 扉が閉ざされると同時に女が現れる。それまで誰も居なかった空間に突如現れた来訪者に、国王は驚きもしなかった。
「いいのですか、あの娘を行かせて。せっかくの手駒でしょうに」
「構わん。あいつは厄介だ」
「嫉妬は醜いですよ?」
「世に勇者は二人と要らんのだよ」
 そして国王は玉座につく。見渡すも味気ない。色気なら隣にあるが、これは魔の類だ。
「それより、向こうはどうなっている?」
「旅立って数日。道半ばってところですね」
「充分間に合うな」
「はい」
 見上げると、女は閉ざされた扉を眺めていた。
「お前のような奴でも心配なのか、娘が」
 その問いに女は答えない。ただ黙って扉を見つめている。
「研究のためなら何ものも犠牲にするお前がな」
 国王は声を上げて笑った。
 女は答えない。答える代わりに、彼女はスッと消えた。白衣をなびかせながら。


 一行は草原の中を進んでいた。背の低い草が一面に生い茂り、木が点在する。サバンナを思わせる草原である。もっとも、道は整備されており、一樹たちはそれを利用していた。
 昨日辿り着いた町を少し歩いただけでこうも違うものか、と一樹は訝しんでいた。詳しくは知らないが、植生というものを全く無視している。ついさきほどまでは鬱蒼とした森の中を歩いていたはずだ。町だってその中にあった。そこはエルフが住んでおり、レイシーが言うに近年になって点在していた集落を自治組織として国に組み込んだらしい。そのことは未だ残る「族長」という言葉に表れていた。それも、町民が族長と呼ぶエルフは数人いるのである。
「なぁなぁ」
 少し前を歩くレイシーに声をかける。今のところ一樹の視界にはレイシーしかいないが、彼女の部下が周囲に配置されている。それでも護衛は合わせて五。極秘裏の任務であるからだ、とレイシーは説明した。それでも一樹は納得がいかない。知られたくないなら、なぜレイシーなのか、と。聞くところ、彼女は国軍の副将軍だ。そんな重要者の動向が知れないとなればどうなるか、それが分からない国王ではないだろう。
 一樹の不審は軽くあしらわれた。レイシーは言った。
――私しかいないのですよ。
 その時の彼女の表情を、一樹の網膜は強く焼き付けていたが、それだけであった。その情報を処理できないまま、彼の頭には違和感だけが残った。
「はい、何でしょう」
「エルフ達はどうしてあんなところに?」
「国王が決めたからです」
「彼らが元々住んでたわけじゃないのか」
「当たり前でしょう」
 振り返りはしないが、その口調から呆れ返っているのだろう。
「誰が好き好んで森なんかに住むんですか。水源は小河程度。大型の動物もいません。農作にも酪農にも適さない。少し考えれば分かることでしょう」
「そんな場所を、国王はどうして」
 今度は溜め息を隠さなかった。
「そんなの、彼らが危険分子だからに決まっているでしょう。エルフ族の魔術はどれも強力です。魔王というのは代々彼らの一族出身ですし、国王としては閉じ込めておきたいのです」
「けど、力を一箇所に集めたら」
「国軍を分散させるより集中させた方がいい。それに、村を散在させると彼らの情報を把握するのが困難になります」
「なんか、偵察管理しているような言い方だな」
「もちろん。その役目を担うのが私ですから」
「随分と彼らに信頼されてるんだな、情報をくれるなんて」
「信頼? あなたはどこまでも気楽な人ですね。我々国軍は彼らにとっては敵です。それを信頼しますか? しかも、そんな輩がのこのことやって来たのに、歓待するようなこと、しますか?」
 その声はどこまでも一樹を嘲笑うようであった。しかし、一樹にそれは自嘲のように聴こえていた。
「国軍が恐いから、とか」
「彼らの今の戦力なら国軍に劣りませんよ」
「なら、なんでエルフ達は国王に従ってるんだよ!」
「もちろん、彼らはその事実を知らないからですよ」
 そこで足を止めると、レイシーは光る腕を見せ笑った。
「彼らも同じ肌をしていたでしょう。分かりませんか? 私は裏切り者なんですよ。彼らにはエルフ族からのスパイということにしてますよ」
 その光る手を口元に当て、レイシーは押し殺すように笑った。
「ふふ、愉快ですね。嘘の情報を与えられているとは知らず飼い馴らされている姿は滑稽にもほどがあります。あの長い耳は役立たずですね。嘘を知らない。犬の耳の方がよっぽど賢い」
 その笑い声が収まるまで、一樹はただ彼女を見ていることしかできなかった。それは耳障りだった。耳障りとしか言い様がなかった。それでもどこか、その言葉では零れてしまうものがあった。そのノイズの中にあってなお耳障りなもの。ノイズの中のノイズを、一樹は感じていた。
「これで理解していただけました? 私が適任だ、という意味が。ここを通っていけるのは私くらいなんですよ」
 再び歩き出す。その背が離れていく。
「どうして俺にそんな話を?」
「貴方が聞いてきたのでしょう」
「このまま俺があの人達に知らせるとか考えなかったのか?」
「貴方が?」
 少女のような顔が一樹に微笑みかける。
「まさか、ありえませんよ。貴方にそんな勇気のあるはずがありえません」
「君は嘘が分かるんじゃないのか?」
 それは楽しげであった。どこかで見た笑みだ。一樹はそう思った。くすりと上品に笑いながら、深めに被ったフードの奥にある赤みを帯びた茶色の瞳は一樹をしかと捕らえていた。それはさきほどまでの、無邪気なものではなくなっていた。
「そうですね。なら、こう言い換えましょう」
 そう言い終わった瞬間には、レイシーは一樹を抱きしめていた。少なくとも十歩は離れていたはずである。一樹は見上げてくる不気味な笑みに硬直する。その女性らしい体躯を感じる余裕などなかった。
「貴方を信頼しています」
「どの口が言う」
 一樹としてはドスを効かせたつもりであったが、どうやら逆効果だったらしい。レイシーはその艶っぽい笑みのままであった。
「あの時、私を庇ってくれたじゃないですか?」
「それは、事情をだな」
「知らなかったから、ですか?」
 眉根を下げる。しかし、一樹の胸が高鳴ったのはその寂しげな表情のせいではなかった。その手が、一樹のスボンに触れていた。
「あの時は、何と漢らしい方かと想ったのですが」
 指先が布の上を滑る。徐々に、焦らすように、触れる面積が増え、ついには、掌全体がそれをなぞる。
 レイシーの笑顔に紅みがさす。未知の感覚に一樹は微動だにできず、彼女は搦め捕るように、空いた腕を彼の首に回した。細い指が彼の肩甲骨を優しく撫でる。
 ふと、少女は一樹と目を合わせた。その瞳は暗く物憂げで、吸い込まれそうな深い茶であった。
 少女は下半身を摩っていた手を腰に回し、力を込める。
 その瞳は潤み、吐息がはっきりと聴こえてくる。
 細く桜色の唇が迫る。静かに、それでいて貪るように。
 刹那。一樹が覚悟し目を閉じた瞬間だった。
「敵襲です」
 耳元に囁くいつもの声に我を取り戻す。レイシーは既に彼を見ていなかった。忙しなく瞳が動くのは索敵をしているからなのだろう。
「敵襲って、部下の人達は?」
「さぁ、分かりませんが、恐らくやられたのでしょう」
 そうして一樹を抱く力を強めた時であった。
「あらあら、お邪魔してごめんなさいね」
 声の主は一樹の前方に現れた。レイシーよりやや長身だろう。明るい茶髪は短く切り揃えられており、一見すると少年に見える。いや、声を聞かなければ少年と思ったであろう。何しろ彼女は鎧に身を包み、片手には幅広の大きな剣を携えていたのだから。
「邪魔だと分かっているならタイミングを考えてください」
 再び力を込めて抱き締め、レイシーは一樹から離れた。その時に出た声を聞き逃さなかったらしい。
「名残惜しいですか? 今はいい子で待っていてください。続きはまた後でしてあげますから」
 そう言って彼女は楽しげに微笑んだのだ。
「続きなんて、ないわよ」
 一樹が反論を加えようとした時、来訪者はそう告げた。
「君は誰なんだ?」
 苛立ちを隠せず、ぶっきらぼうに尋ねる。敵襲ということは、勇者と魔王が和解することを望まない輩だろう。それくらいは分かる。だが、そんな輩がどこからやって来るのか。国外からの刺客にしては早すぎるのだ。それに、敵襲だというのにレイシーのあの余裕は何なんだろう。さきほどの情交といい、レイシーの態度はどこかおかしい。それが分からないことに、一樹はなぜだか苛立っていた。
「ふむ。これが日本の武士道ってやつなの? ほら、なんか互いに名乗り合うって前に母さんが」
「違いますよ。単純に貴女が誰か聞きたいだけです、彼は」
「あー、そうか。彼は私を知らないものね」
 一つ咳ばらいを挟む。
「私はエマニュエル。周りは私を勇者と呼ぶわ」
 勇者。それはかつて魔王と並びこの国を治めた地位の名前だ。
「ということは、国王なのか?」
「いえ、民衆が勝手にそう呼んでいるだけで、彼女は国軍の将軍です」
「親しい人達はエマと呼ぶわ。貴方もエマでいいわよ」
 将軍ということはレイシーの上司だ。一樹の頭は混乱していた。国王の意向で行われる和解を国軍のトップが阻止をするのか。それはつまり。
「君は反乱するつもりなのか?」
「え、どうして?」
「そりゃあ、国王の使節を殺したらそうなるだろ」
「あー、貴方は何も知らないのね」
「もういいですか?」
 気づくとレイシーが剣を構えていた。細身で蒼い刀身が彼女によく似合っている。場違いにも一樹はそう思ってしまった。
「いくら時間稼ぎをしようと、ストーリーは変わりません。役者が変わらない限り」
「あら、私は気を効かせたつもりだったんだけどね」
 大の男でも両手で構えるであろうそれを軽々と片手で構える。白く輝く切っ先がレイシーに向けられていた。
「お別れの言葉は要らないのかしら?」
「要りません。言葉は人を縛る。魔術で学びませんでしたか?」
「あんたと違って、魔術はからっきしでね」
 ただまぁ、と彼女は続けた。
「そういうことなら……ごめんなさいね」
「そんな表情、しないでください。やりにくくなります」
 そのやりとりの異様さは互いに顔見知りだというだけなのだろうか。それにしては、エマの表情はあまりにも悲哀に満ちていた。確かに、顔見知りを、しかも上司と部下という関係であれば思うところも大きいだろう。しかし、その表情はそれだけでは説明できないものであった。説得するとか、止めようとか、そういったものを、共に生き残る道を始めから諦めているような、そんな表情であった。
「何度も言いますが、結末は変わりません。貴女も私も、そして彼も」
 再び剣を握り締めると、レイシーはエマに詰め寄った。一樹も目の当たりにした俊足である。しかし、その切っ先を易々と刀身で受け止めたエマはやはりただ者ではないのだろう。
「腕が鈍ったわけではないようで安心しました」
 繋ぎの爆炎魔法も容易く避けられる。
「しかし、なぜ反撃しないのですか? これではいつまで経っても終わりません」
 浮かない顔をする敵に、レイシーは静かに言った。
「フード」
「はい?」
「フード、とりなよ。あんたの顔、よく見せて」
「嫌だと言ったら?」
「見逃してあげる。私が命令されたのはレイシーの殺害だもの。ローブ女なんて知らないわ」
 その言葉に、フードに手をかける。そこに迷いはなかった。
「待てよ!」
 一樹が彼女の手を掴んだ時には、残すは彼女の後頭部のみになっていた。振り返りもしない彼女にフードを被せ直し、落ちないよう頭に手を置いた。
「エマ。このままなら、見逃してくれるんだな?」
「えぇ、いいわよ」
 安堵の溜め息をつき、物言わぬレイシーの手をとり歩き出した。エマから離れたら説教しよう。こいつはなぜ自ら死へ向かうようなことをしたのか。その行為は、彼女らが交わす会話の違和感からして苛立っていた一樹をレイシーへの怒りに駆り立てるには十分であった。
「まったく、貴方という人は。だから軟弱だと」
 その声は背後から聞こえた。いや、それ自体は不思議ではない。問題は想像より遠くから聞こえたことだ。
 心臓が大きく一つ波打った。
 右手を見る。ない。確かに彼女の腕を掴んだはずだ。それが、ない。彼女のかけていたローブしか、ない。
「お前なぁ!」
 エマと対峙する彼女に放つ。
「貴方はいい子にして待っていてくださいと、さっきも言いましたよね?」
 一瞥もくれない。彼女の姿はまさにエルフであり、彼らとの違いは耳の大きさだけであった。鎧の類は身につけていないがためにそのラインが浮き立つ肢体。その細い肢体を包むように皮膚は輝く。
「けど」
「あぁ、分かりましたよ。我が儘な人ですね」
 ツカツカと近寄り、一樹の頭を掴み、そして唇を重ねた。
「そちらの世界では帰って来る呪いとして口づけをすると母が言ってました。これで満足ですか?」
 突然のことに、一樹の頭は熱を帯び停止していた。一瞬だ。ほんの一瞬だった。
 しかし、その一瞬で充分であった。自然と涙が零れた。何も考えていない。ただ、レイシーというものを目で映しただけだ。レイシーというものに触れただけだ。それだけで、指先一つ動かない。
 それほどに、レイシーは美しかった。
「待っていてください、お願いします」
 背を向けた彼女の表情を、一樹は見ていないであろう。その表情が対峙するエマを困惑させていた。
「貴女、死ぬわよ」
「もとより」
 そう、と吐息のごとく呟く。
「仕方ない、のかな?」
「私たちに選択肢はありません」
 剣を構える。蒼い刀身に紅い光が宿った。
「その目……本気なんだね」
 その問いには答えず、レイシーは茫然とする一樹に再び視線を送った。その瞳は血のように紅黒い。しかしながら、はっきりと輝いていた。普段は光らない顔の皮膚も今は瞳と呼応するように輝いている。
 その瞳を一樹は知っていた。あの女研究者だ。その結論に達した時、心臓が大きく唸った。堪らず胸を抑えてしまう。その光景に、レイシーは遠くのものを見るように目を細めた。そのことを、一樹は知らない。
 レイシーが地を蹴る。
 一樹のこめかみがキリと痛む。締め付けるように。血を搾り取られるように。しかし、眼球だけはレイシーを捉えていた。先とは比べものにならぬほどの速さだというのに、である。だが、疑問を抱くことなどできなかった。それどころでない、それどころでないのだと言い聞かせ、一樹は震える左足を踏み出す。その爪先はレイシーに向かっていた。
 一撃を凌いだエマの顔から余裕が消え去る。
 刀身に空いた穴から、レイシー不気味に笑いかける。
(まさか突き抜けるなんてね、危なかった)
 跳び退り距離をとる。剣は使い物にならないだろう。少なくとも次の突きをくらえば折れるだろう。得物を失うという圧倒的不利にあって、エマは内心それを楽しんでいた。懐かしい感覚だ。久しくなかった感覚。幼い頃、あの状態のレイシーと闘ったことがあった。
(あの時以来、か。あの時は数日寝込んでたけど、今回は)
 揺らぎそうになる心を奮い立たせる。自分は勇者だ。今だけは、今だけはこの称号を掲げよう。
 再度の突き。エマはそれを手甲で受け流し剣を薙ぐ。全力で振るったのだが、レイシーはそれを柳のように避ける。当たっている感覚は微かにあるのだ。それなのにレイシーは傷一つない。
「気になりますか?」
「正直ね」
「なら、冥土の土産に教えてあげます。貴女が切ったのは私の魔力ですよ。私の全身は魔力に覆われています」
「なるほどね。私には見えないわけだ」
 魔法は使えないが知らないわけではない。魔力を纏うなど並大抵のことではないことくらいエマでも分かった。魔力は命令に従う。だから本来魔法は自分自身に向かわないのだ。自分を支配の対象とする者はありえない。誰しもがどこかに自尊心を抱いている。それが邪魔をするのだ。
(それなのにこの娘は)
 再び揺らぐ心を抑え、笑う。抑えきれなかった揺らぎがぎこちなさとして表れていた。
「で、それが遺言かしら?」
「構いません」
 レイシーが腰を落とす。
 本当に構わないのか、何が構わないのか。
(やっぱり、ダメね)
 レイシーの殺害。これは命令だ。それでも自分にはできそうにない。彼女を殺すなんて、とてもできそうにない。
 本当に、いいの?
 後悔、しないの?
 ほら、後ろの彼、頑張っているわ。見えないの? 貴女のために頑張っているのよ? 貴女の魔力を注がれて動けないはずなのに、頑張っているわ。見えないの?
(違う、か)
 背後の気配を感知するなど今の彼女には容易い。それでなお一瞥もくれてやらない理由は一つだけだろう。
 彼女は見えないのではない。見たくないのだ。
(それが貴女の覚悟なのね)
 瞼を思い切り閉じ、滲む視界を排した。澱んだ肺の空気を吐き出すように大きく鼻を鳴らす。
 大剣の切っ先をレイシーに向ける。
(なら、私も覚悟を決めなくてはね)
 恐らく次で最後になるだろう。二人の間に流れる空気がそれを示唆している。
 風が凪ぐ。
 一片の葉が舞う。
 一メートル。半分。その半分
 そして、静かに地面に着いた。
 
 瞬間、景色が紅く変わる。
 
 その光景に誰より驚いたのは、エマ自身であった。葉が落ちる瞬間に決着。それは暗黙の了解であった。それはよい、それはよいのだ。決着し、どちらかが敗北する。それもよい、それもよいのだ。そして、レイシーが斃れるのも予定通りだ。
 ただ一点。
 
 彼の腕が背後からレイシーの胸を貫いていること以外は。

アンチご都合主義(ツサミ)

ファンタジーはご都合主義にすぎる。そう考えただけで生まれた話。
普段は現実にちょこっとファンタジーが混ざる話を書くのですが、これは逆ですね。
けれど、「ご都合主義」は結局、作者が見えることを言うのではないかと思い、逃れられないなぁと実感しています。
そんな私の些細な反抗です。

アンチご都合主義(ツサミ)

大学生がファンタジー世界に投げ込まれ奮闘、しない話。(連載中)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-08

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