かえるろーど。(五)





 つまみを回して開くのが遅くて,収録先のカセットテープから付き添う曲の前奏は,切れてしまって短い。もう,すぐにでも被せて伝えるべきメッセージは,でも朝の挨拶をする校長先生よりも分かりやすく決められている。なのに,『さようなら。』とは一言も書かれていないことに,厚紙に印刷された文字を,目で追いながら気付いた。理由は,聞いても分かったりしないかなって思うのは,それを説明する言葉が人の数だけありそうな予感を,仕切られたブース内で感じられたからだった。動かす音まで拾うマイクは一つでも,ここに座って発信する人が一人だけに限られない。そういうことと,多分近い。
 そう思う,背中を伸ばしたパイプ椅子の上で,放送委員でない私だから。
 数行で大きく,太い文字で書かれた一行一行のメッセージに,心を込める余裕はなかった。機械的で良いと褒められたけど,人として緊張は終始しっぱなし。『間を開けて』という指示の下で流れる静けさを,打ち破る一声目は荒っぽくて,余韻を残して校舎に響いた。取り残された『私』,渡り廊下の真ん中で居ても立っても居られなくなって,曲がればクリーム色のそこかしこに壁。真っ正面からゴツンとぶつかって,想像は涙目に浮かぶ。それで動揺は生まれて,お知らせするメッセージを先導する天然のビブラートは,笑ってるみたいに語尾を擽って落ち着かせない。なのに強張りっぱなしの私の表情はだから,『かえりははやくしましょう。』と,口にした間違いを取り戻せなかった。
 言い直した『早く帰りましょう。』。続けて発した『明日もまた,元気に登校しましょう。』。
 読み上げなかった最後の丸に口を閉ざせば,それが終わりになって,ウンともスンとも言わないマイクに,息はホッと落ち着いた。
 誰も拾いはしなかった。
 ちえちゃんはただ『お疲れ様。』と,口を動かし笑っていた。
 下校のお知らせはその日一度っきりのさよならの挨拶なのだからと,『締める』ために,動かせないところまでつまみを回す。戸締りのようにスイッチがカチッとなって,放送室も静かになった。さっきまでの背景からスッと消えた曲名が,ケースのテープを確認して,『下校用』とまでしか分からなくても,消音にしてからカセットテープは巻き戻して片付けるのが,決まりなのだそうだ。これが実は大事なことで喧嘩の原因にだってなるらしい。火曜日のスギウラくんはこれをやらないという理由から,水曜日のキミエちゃんに嫌われている。水曜日のキミエちゃんから金曜日までのケンくんまでの関係は今も良好だそうだ。噂では,月曜日のハシモトさんがほとんど巻き戻しをしていないらしい。火曜日のスギウラくんが実は一番の『被害者』なのかもしれない。と,事実はそうなのだと思えば,内部の事情は結構複雑なのかもしれない。
 そんな放送委員は登下校のお知らせを各委員一人ずつのシフト制にしてきたという。なのに日誌には名前だけを書いてあとは何も書かず,その日その時間ここに居たことだけを物語らせる。他のことはしてはいけない。それも含めて,これもまた決まりなのだそうだ。
 『さようなら。』の挨拶に,書いて言うべきことはそんなにないと思う。
 それでもしちゃいけないことの数は多過ぎる。そう思った。
 例えばもともとお喋りな方のちえちゃんは,今日は風邪で上手く声が出ないけど,とても気の利く『働き者』だ。教室に限っても,ちえちゃんは,黒板消しとともに黒板のチョーク置き場の掃除もきちんとするし(それは一回り小さい教室後ろの黒板でも変わりなくて),掃除道具置き場も忘れずに掃除する。教室の正面,ど真ん中でクラスの皆としょっちゅう顔を合わせる時計の電池を誰よりも早く交換する。花瓶の水も早く交換する。忘れ物も素早く見つけ,その持ち主も同じく見つける。忘れ物をした子もそう。具合が悪そうな子もそう。気持ちだってそう。隣の席のあの子の,後ろの席の私の,パパと喧嘩して荒れている朝の波模様も, まるで見えているように整えてくれる。月曜日を担当する隣のクラスのハシモトさんと違って,ちえちゃんはとても優しい子なのだ。先週から風邪を引いているけど,そこに何にも変わりはない。
 変わらない放送委員の決め事は,そんなちえちゃんの良さを塞いでしまっているように思う。放送委員のそんな決め事が,皆に伝わるちえちゃんの『良いことの芽』を摘んでるように思う。
 放送委員でない私だけど,それは違うって,一番近くに立って,簡単に言わせたくない。
 しかし担当が木曜日の『そんな』ちえちゃんは今,灰色でスチール製の,『事務のために作られました。』と淡々と述べてるような一つだけの棚から,丁寧に日誌を取ってページを開く。『放送室専用』と書いている机の上で,苗字と一緒のその名前,『ちえ』を書いている。消しゴム要らずのひらがなで,相変わらず女の子をしている丸っこい字で,素直に決まり事を守って何も言わずに,書き終えられてページごと,確かに閉じられた『ちえ』ちゃん。
 『その』日誌を,やはりずっと灰色でスチール性の,『事務のためにある。』と誓っている棚に置いたりと,放送委員のちえちゃんは慣れたもんで,続けて淡々と仕事をこなしていた。
 意外に私は駄目になった。手伝っただけなのに寂しくなっていた。運動場ではしゃぐ声も,ブースから出てしまえば一番に,遠く楽しく聞こえてしまう『職場環境』だと良く分かったし,風通しも良過ぎるのもまた,良くなかった。
 一人で良いからここに,居るだけでも良いからここに,パートナーは必要だ。
 そう,本当に思った。
 それで残り少ないその日は心細くなった。勿論ちえちゃんと帰らないわけにはいかなかった。放送室を出てすぐの,ブースとは別に防音された中くらいの部屋,合唱の練習とか,(多分こっちが主な使い方なんだろうけど)劇の練習とかが出来る,教室と比べて縦に長く,透明なガラス越しに例えば音出しのタイミングとか,そういったやり取りが放送室内と可能な『この』部屋から,ちえちゃんと二人で出たのだった。
 窓の閉め忘れが心配になって,一度また開けたけど,放送室の扉の鍵は,閉めた。
 何と無く二人して走り出したのは,無駄なく電気を消してる廊下の天井で,非常口へと,案内していた『あの青い人』のせいだと今も思う。






 人が少ないから私たちが目立たせた上履きのバタバタ音は,階段を駆け降りて,途中でつんのめって鞄がカチャっとする音の,タイミングも同じだった。見合って笑い,またバタバタと駆け出したちえちゃんと私は,職員室が見えてくると二人して,叱られない用心のために,静かにすることを意識し過ぎた泥棒気分になっていた。それでも職員室に入る時の『失礼します。』を忘れなかった,私たちはきちんと『生徒』だった。
 扉を横に開く。なんとなく重い。
 職員室なのに中に入れば,先生は少なく,鍵置き場の周囲には先生が一人も居なかった。目立ったのはずっと端っこの,話したこともなくて名前も知らない女性の先生で,机に向かって何かしていたけど,勿論何をしているのか分からない。知りたいとも思ったけど,自由に行動すると怪しまれる,というのが職員室と生徒の関係だと思う。だから距離を縮めず,ただ浮かべたハテナを風船みたく扱うにしておいた。
 すぐの目の前,どの先生がどんな風に座っているのかも知らない机の上。並べられた,あるいは横に置かれて積まれたりもしている本の中で丁度いい高さにある一冊は『基礎の料理』と書かれていて,どうやらシリーズの二冊目のようだった。この机に座る先生が,女性なのか男性なのかは分からないけど,表紙のすぐ近くで付箋紙が,咲いてしばらく経った花みたく,とても自然に萎れていたから,先生はもしかしたら諦めたのかもしれない。
 数字は書いてない『基礎の料理』には,黄緑色の葉っぱが,2枚記されてた。もう提出した絵の中で,私は大きく木を描いたのを思い出して,それが何本だったかが思い出せない。お裁縫は諦めた私は,まだお料理を勉強したばかりで,今のところ作れる料理は卵料理,例えばオムレツぐらい。ちえちゃんはもっと出来る。例えば美味しい,ハンバーグとか。
 『そんな』ちえちゃんが喉を痛めないように声に出さず,『いこうか?』と言うように口を動かした。私たちは職員室をあとにするために二人して(やっぱり私だけが分かるように声を出して),『失礼しました。』と言った。扉は横に閉めた。重いかどうかは,もう気にならなかった。
 『行こうか? 』と,ちえちゃんは口を動かす。
 「うん,行こう。」と,私は言う。
 もうカーテンまで閉めてた保健室の前を通り過ぎて,ちえちゃんと私は 30名前後で上履きが白く並ぶ靴箱に着く。ずっと不安定なすのこに,この時も困らされて,でももう文句は言わなかった。そういえばトモエちゃんたちのグループは今日,教室に残ってダンス大会で何を踊るかを(はうす,だとかなんとか),決めると話していたけど,靴箱に靴は残ってなかった。モエちゃんたちはすでに決定を下したか,ノリノリでファーストフードに向かったのかもしれない。
 ローファーを履いてる私たちは,ローファーを取って,すのこの前に置き(ここでもまた揺れて),靴箱に上履きを戻してからローファーを履く。私は踵を爪先で調整する。けど,ちえちゃんはしない。
  鞄を持って,まずは私から外に向かって,でも貰った手紙をきちんと入れたかが気になって,鞄を開けてみれば,追い抜いたちえちゃんが先に玄関を出ることになった。時刻は当然,決められた下校時間を過ぎているから,西陽は強く射す。前を見直せば,ちえちゃんはよく見えなくなった。
 手紙が入った中身を見て,すぐに駆け出そうとして閉じた鞄は,持ち直そうともしたから足にぶつけた。
 ジンジンとした。
 気にしなかった。
 ちえちゃんをきちんと確認して,私たち二人で玄関を出た。
 用務員さんが大雑把にいつも水をかけてる両サイドに位置する縦に長い花壇は,玄関から二つの校門までの道は,正面の大きい体育館側面にぶつかって左右に分かれるまで続く。見れば,花が咲いている。覚えてる,朝顔と夕顔のセット以外に片仮名で,ヒマワリしか花の名前を知らない私は,とにかく綺麗と思ってた。ちえちゃんも笑顔で見てたけど,ちえちゃんは私より花に詳しい。先週の終わり頃に,近所の垣根にやたら咲いていた紫色の可愛らしい花を,『紫陽花』と教えて貰った。先週よりもっと前には,空き地に咲いてた『シロツメグサ』を教えて貰った。あの『四つ葉のクローバー』もこれだよと,ちえちゃんは笑顔で言った。
 花壇の終わり頃を迎えるに連れて,体育館の側面は大きくなって,私とちえちゃんの帰りのコースは二つあった。
 一つは裏門を通って住宅地を通り抜けるコース。もう一つは正門を通って住宅地の裏側に抜けて行くコース。どちらも下り坂になっているのは私たち二人が通う学校が丘にあるからなのだけれども,その距離は大きく違ってる。
 正門を通って住宅地の裏側に抜けて行くコースの方が,下り坂と圧倒的に長く付き合ってる。半分はもうひたすら下り坂。正門の方は下り坂の頂上に立てばもう平坦になるその終わりが見えていて,足が早いミイちゃんなら1分もかからない。
 正門から始まる下り坂はそうじゃない。終わりなんて全然見えない。長距離走もいけるミイちゃんでも,必ず途中で息が切れて立ち止まる。『やっぱ無理だわ。』なんて言う。真っ直ぐの道じゃなくて,右に大きく曲がっているから,見かけより距離も長くなって,そのまま早々に,駆け下りていくことは余計に難しくなってる。
 ただ,そんなことをせずにのんびりと,てくてくと,ちえちゃんと歩いて行く帰りは,多い空き地が続く下り坂の,ちょっと遠くまで見える景色はいつも気持ち良い。
 今朝は黄色いショベルカーが肌寒そうにシャベルの方を内側に折り曲げて,大人しく待っているのが可愛く見えた。二人して,名前を考えて登校した(カネコ君かコガネ君かのどちらにするか決めかねて,思い出せば今も決めてない。)。また茶褐色であるはずの地肌が見えないぐらいに生い茂っている雑草の一部が,もぞもぞと動けば,キャッキャとはしゃいで何が通ったのだろうかと,予想し合った。私が猫,ちえちゃんが犬という,答えだけ聞くと当たり前過ぎて面白味もないことを,後付けの理由で面白可笑しくするという遊びもした。
 途中,立ち止まって噂をしていることが丸分かりのとあるグループが,私たちのクラスの子と別のクラスから編成されていたから,気にもなったりして『なんだろう?』って,こっちでも噂みたいに話し合った。
 けれどツカモトくんが,仲のいいサッカークラブの友達の数人と,どっちが早いかの競争をして,小学校に知り合って,遊んだりもしたことあるちえちゃんと,私に,挨拶だけ残してあっという間で上り坂を駆け上がって行ったから,二人して見上げた。二人して挨拶を返せなかったのを笑い合って,『やっぱり足,早いね。』って前から知ってる事実を大事に言ってから,八時を知らせるチャイムと,キミエちゃんの声で読み上げられた朝の登校のお知らせを聞いたんだった。
 そう,思い出したから,なのかは分からない。けど,私たちは,体育館側面の突き当たりを右に曲がることになる,正門から始まる,長い下り坂の帰り道を行くことにした。覚えてないけど最後には,ちえちゃんの頷きで,決まったのかもしれない。
 低学年の校舎,先生達の駐車場。その裏っかわにある,七不思議の一つの舞台となった,何も飼われていない飼育小屋。正門近くの,見慣れた風景と思い出すあの頃を,通り過ぎて正門をくぐり抜ける。結構な厚さの石で作られてるその構えは,なかなかのものなんだなー,と何と無く思う。非常口の表示だってない。
 並んで歩くちえちゃんは,見れば真っ直ぐ前を向いて歩いてた。私も見習って前を向く。
 選ばなかった左手側からは,声がしていた。多分運動場にまだ居る生徒は帰ろうとしていなかった。
 右手側を進むちえちゃんと私は二人してこうして帰り始めてた。
 下校のお知らせを,私がしてしまったからという訳じゃないんだろうけど,下り坂の帰り道で住宅街の裏側のここには,他に誰も居なくて,私たちしか今は居ない。
 そしてこっちは,私がしちゃったからだけど,真後ろに建つ学校は静かだった。
 そしてちえちゃんと私は,話しもしてなかった。
 話さないと静かだ。車も通らないし,夕方なのに今朝みたく,ショベルカーはまた,もしかしたらまだ,シャベルを内側に,大事そうに折り畳んで眠ってる。
 話してないから静かだ。目の前の,右に曲がって下る坂の,ミイちゃんでさえ苦戦する,長い残りを気にする。帰り始めたばかりだから,余裕はあるように見える。
 話をしないままだから静かだ。
 話をしないと静かだ。
 世界でまるで,二人みたいに静かだ。
 私たちは話す必要がある。
 ちえちゃんと私で,話す必要がある。
 私は言う。
「雨,降らなくなったね。一昨日からずっと晴れてる。」
 先週から引く風邪を引っぱられて今も声が出せないちえちゃんは,笑顔を浮かべる。私はそれを返事だと思う。
 私は続けて言う。
「傘と柄を合わせたレインブーツ,あれ,今度いつ履けるかな?ちえちゃんとも色違いで,じめじめするのはコノましくはなかったけど,梅雨の中,二人で歩くのは嬉しかったのに。ねえ?」
 ちえちゃんは笑ってる。
 オレンジ色のうろこ雲が見える。
 私は続ける。
「せっかくだから,今度,最初に降った雨の日に,また履かない?あのレインブーツ。でね,その日が学校だったら,勿論,学校に行くんだけど,休みだったら,一緒にお買い物に行こう?今度くる夏に向けて,まだ買い足ししてないアイテムもあるし。ねえ?ちえちゃん,どう?」
 ちえちゃんは笑って,そして返事に向けて口を動かす。その動きはこう言う。
『いこうか?』
 私は言う。
「うん,行こう!」
 約束は出来た。でも,静けさもまた出来た。
 変わらず他に誰も居なくて,世界はまるで,私たち二人みたいに静か。
 気になる事が気になることに刺激されて,擽られて,むずがるみたいに気になった。私たちの帰り道はまだまだ下り坂だった。
 だから私は話をまた始める。
「間違えちゃったの,ごめんね。ちえちゃん,先生に,怒られたりしない?」
 ちえちゃんは返事に向けて口を動かす。その動きはこう言ってる。
『大丈夫,問題ないよ。』
 そして付け加える。
『ありがとうね。』
 私は言う。
「ううん,ちえちゃんのためだもの。間違えちゃったのは,やっぱり『ごめん。』って謝るけど,ちえちゃんの助けになれたなら,嬉しいから。また何かあったら,言ってね。下校をお知らせする役は,出来れば二度はしたくないけど,それ以外なら,で,私に出来ることなら,出来ないことでも頑張るから,喜んで手伝うから。だからね,また,言ってね?」
 ちえちゃんは言うように口を動かす。
『ありがとう。』
 そう言ってる。
 だから私は言う。
「ううん,お礼なんて,私がちえちゃんに何回でも言うべきだよ。ちえちゃんはいつも皆のために,何かしてるし,皆のこと,考えてる。皆の気持ちも,まるで見てるみたいに,感じてくれてる。ちゃんと分かって,汲んでくれる。この前だって,私とハシモトさんが喧嘩したとき,ほら,タカハシさんと私が,トリゴエさんの悪口言ってたのを,ハシモトさんが『私のこと,悪く言ってたでしょ!』って,言いがかりつけてきて,誤解だったけど,私もハシモトさんが嫌いだったから,腹立って,ハシモトさんを前にハシモトさんの悪口言っちゃったとき。覚えてる?」
 言いつつ見たちえちゃんは笑ってた。私はそれを返事だと思う。
 私は言う。
「その時,ちえちゃんはさ,まずハシモトさんを庇った,と言っちゃったら,誤解を生むね。うん,ハシモトさんの立場に立ったんだ。うん,そうだね。それで私に,謝らなきゃって,私に言ったんだ。あの時は,ちえちゃんに裏切られたって,思っちゃって,半分泣いて,半分意地になって,謝らずにちえちゃんに,食ってかかったけど,あそこでちえちゃんが私を庇っていたらハシモトさん,私のクラス発信で,学校中に悪い評判が立って,居づらくなってたと思う。『とても悪い結果』に,なってたかもしれない。ちえちゃんは,だから仲が良い私に,『謝った方がいい。』って言うことで,ハシモトさんのことを汲んだんだよね。ごめんね。」
 謝りつつ見たちえちゃんは,笑ってた。
 困った返事だと思ったのは,私の気持ちのせいかもしれない。
 私は続ける。
「私ね,すぐに分からなかったから,ちえちゃんに,腹も立ててたから,ちえちゃんと話さなかったりした。あえて違う子と,話したり,してた。でも,こうして,歩けてるから,良かった。」
 そう言ってちえちゃんを,私は見ない。ちえちゃんはきっと笑ってる。
 私は続ける。
「ちえちゃんはさ,私がどんな態度を取っても,話しかけられても,どんな返事を返さなくても,変わらず接してくれてたじゃない?だからね,考えてみたの。あのちえちゃんが,あえて,あそこで,あんな風にしたことについて。皆に接するちえちゃんと,私に見せるちえちゃんとの思い出を,合わせて,考えたの。そうしたら,さっき言ったことに思い当たって,今までの私を後悔して,ちえちゃんと,きちんと,仲直りしようと思ったんだ。だからね,今こうして,ちえちゃんと居れること,すごく嬉しい。でね,今までの私を,許してくれて,『ありがとう。』って,沢山の気持ちを,心の底から込めて,思うの。ちえちゃん,本当にごめんね。そして,本当に,ありがとね。」
 そうして見たちえちゃんは返事に向けて口を動かす。その動きはこう言っている。
『ううん。気にしないで。』
 ぞしてこう付け加えている。
『大丈夫,問題ないよ。』
 ちえちゃんはホントに優しい。
 そう思ったから,私はまた言う。
「あのね,この前,飼育係のミヨコちゃんと兎小屋の前でお喋りしてたらね,ツカモトくんが来たの。サッカークラブの練習が始まる30分前で,一人だった。ツカモトくんって,可愛い動物が好きで,兎も勿論そうなんだって。だから見に来てたんだ。ミヨコちゃんに頼んで,お気に入りの一匹に,ちょっとだけ触れてた。かわいい,かわいいって,連呼してたよ。これ,ちえちゃんがきっと喜ぶ,『ツカモトくん』情報ね。それでね,三人で兎小屋から離れて,それでミヨコちゃんとも別れてから,運動場まで行く途中でね,ツカモトくんが『ちえは今日一緒じゃないのか?』って聞いてきたの!でね,その時は私が家庭科の時間で出されたリュックのミシン縫いが全然進んでなくて,あ,ちえちゃん笑わないでよ!もう,しょうがないでしょ!生まれながらのお裁縫不器用なんだから。まあ,もう分かってると思うけど,半ドンだったその日,私は居残って家庭科室でミシンを踏み踏み,課題のリュックを,完成に向けて縫ってて,ちえちゃんは先に帰った。というか,私が帰したんだった。ちえちゃんは『付き合うよ。』って,言ってくれてたけど,時間がかかり過ぎることが,始める前から目に見えてたから,『先に帰っていいよ。』って言って,それでもちえちゃん,帰ろうとしなかった。『付き合う。』と『いいよ。』の繰り返しを,同じ所を向かい合わせた磁石みたいに,押し問答して,本当に苦労して,無理やりに帰したみたいに,帰って貰った。兎小屋前のお喋りは重い課題をどうにか押し進めた,下校時間間近のことで,そのことを,包み隠さずツカモトくんに話した。『ちえらしいや!』って,ツカモトくん,嬉しそうに笑ってたよ。それから運動場まで,そんなに長い距離も時間も残ってなかったけど,ツカモトくんと,ちえちゃんの話をしたの。良いことしか出て来なかったよ,ツカモトくんからは。」
 私がそう言い終わると,ちえちゃんは笑ってた。返事に向けて,口は動かしていなかった。恥ずかしいのだろう。ちえちゃんのこういうところが可愛いと,私は思ってる。
 長い下り坂は,まだ続く。
 だから私は言う。
「そうそう,ツカモトくんと話してやっぱり思ったのは,ツカモトくんって他の男子と違うなってところだったの。例えば,ほら,クラスのイシダみたいな,如何にも『俺,男子してます』ってタイプは,如何に自分を強く見せるかってこと,考えてる感じでしょ?だから,兎好きみたいなこと,私たちを前にして,絶対言わないと思うの。でもツカモトくんって関係ないんだよね,そんなこと。ミカからすれば,単に子供っぽいってことになるかもしれないけど,っていうか,実際にそう言ってたけど,ちえちゃんも,聞いてたよね?けどね,そういう真っ直ぐなとこ,やっぱイイなって,思ったんだ。ちえちゃんがね,ずっと好きなの,分かるなーって思った。あ,誤解しないでよ,ちえちゃん!私の好きな人,知ってるでしょ?それに,私がちえちゃんをずっと応援してるのも,知ってるでしょ?さっきのは,不純物なし100%の,ツカモトくんの好印象と,ちえちゃんの『男子を見る目』の確かさへの,褒め言葉なんだから。』
 私がそう言うと,ちえちゃんは返事に向けて口を動かす。その動きはこう言ってる。
『ありがとう。』
 私は続ける。
「ちえちゃんには,私には無いところ,沢山あって羨ましいんだ。あ,誤解しないでよ?って,これ,言い過ぎると,かえって怪しくなるね。ごめんね。」
 ちえちゃんは口を動かして言う。
『気にしないで。』
 だから私は続けて言う。
「例えばちえちゃんは優しい。例えばちえちゃんは可愛い。気が利くし,気づかいも上手。お喋りも上手で,まあお喋りすぎて国語のタナカ先生には目,つけられちゃってるけど,それでも『否定』なんて,されてない。数に違いはあっても,ちえちゃんはクラスの何処かで出来る,楽しさの渦になってる。ちえちゃんを好きな人はいっぱい居る。ちえちゃんを嫌いな人は滅多に居ない。私はちえちゃんが勿論好き。私はちえちゃんが嫌いになれない。出会った最初の小学校の頃からそう,同じクラスになって,違うクラスになってもそう。また同じクラスになった今もそう。ハシモトさんがきっかけでなった,喧嘩未満な状態からしていた,無視みたいな態度を,取ってた時もそう。止めた時なんてもっとそう。だから,これからもそうなんだと思う。なれれば,私たちだって大人になって,ずっと一緒なことを望むけど,色んな事情が,色んな形で被さってきて,そうそう会えない距離と位置の関係になって,しまうかもしれないけど,私はちえちゃんを,友達だと思ってるし,私はちえちゃんの,友達でいたいって,ずっと思ってる。今日ね,下校のお知らせをね,代わってし終わった時に,私はとっても寂しくなった。手伝っただけだよ?なのに寂しくなってた。あそこ,出ると運動場からの声,良く聞こえるんだね。声,はしゃいでた。風通しも良かった。カーテンも多分,良く揺れる。夕陽がそんなに射さないのは,何でなのかって,良くないんじゃないかって,言葉にしないで,心にも思わないで,感じてた。放送委員は、一人でしちゃいけないってね,思ったんだ。」
 私は少し口を閉ざす。
 ちえちゃんは笑って,口を動かさない。
 下り坂は残り少ない。
 私は,また続ける。
「ちえちゃん。ここから一緒に帰ろ?ここから帰って,やり直そう?」
 ちえちゃんは笑って,口を動かしていない。返事を待ちながら歩んでいた歩数も,残り僅かになってるのが分かって,右,左と続けて踏み出した右の一歩で,下り坂が終わってしまった。帰り道が,また無くなった。
 怖くて横を向けなかった,ちえちゃんの方を見れば,ちえちゃんは笑ってた。そうしてずっと引いている風邪のために出ない声に頼りもしないで,返事に向けて口を動かす。その動きはこう言ってた。
『じゃあまたね。』
 下り坂は終れば,右と左に別れる,私とちえちゃんの登下校の道だったから,ちえちゃんは右に曲がっていった。切ろうかどうか迷ってた,ロングの黒髪が腰のあたりで揺れてる。左右のどっちから始まった揺れなのか,最初を,よく見てないから分からない。どうしようもないと思って,何も言えない。
 ちえちゃんは居なくなった。
 私は振り返った。
 坂は上り坂になっている。






 息切れなんてどうでもいいから,私はとにかく駆け上がった。大きくなるに連れて張りぼて感が暴露てくる正門を,振り返らずに通り抜ける。駐車場には一台の車も止まっていなくて,低学年の校舎に堂々と取り付けられてる大時計なんて,短針だけしか残していない。秒針は真下に落っこちていた。長針の行方はしれない。
 撓む体育館の長い側面を,なぞるように走る。
 曲がったから正面に捉える,運動場から声がして,そこに居る生徒はまだ帰っていない。帰ることなんてないだろうと思ってる。そう思うのも,何回目か知れない。
 まだあった,左側への曲がる道は,両サイドに花壇を備えた,玄関への道だった。さっきと違うのはその距離が,倍以上になってると,確信してしまうところとだ。私はさらに駆け出し始める。
 嫌でも目に入る花壇の様子は,めちゃくちゃだった。私がセットで覚えてる,朝顔と夕顔が,交互に咲いてる箇所もあれば,ヒマワリが夕陽に向かって揺れて咲いてる箇所もある。雨なんて,降ってないって私は知ってるのに,いま止んで,さっきまで降ってた雨粒を,とにかく葉っぱから零すシロツメグサと,水溜りに浮かぶ落ち葉が漂っていた。赤や黄色や橙が,鮮やかだったからモミジ辺あたりの,何かなのかもしれない。
 近付く玄関の様子が,はっきりと見えてくれば,もうドアーは半分閉まってた。もう半分も,これから閉まる気配に満ち溢れて,私は息を吸うことをやめた。呼吸音の代わりに聞こえるローファーの,『カッカッカッカ』と鳴る音が,私の世界の全部になる。間に合わせることしか考えてない。間に合わせることしかない。
 つんのめったとしても,そのまま雪崩れ込むように転がり込んで,行ったのだった。
 反射で瞑ってしまった真っ暗の中,『パタン』と,半分のドアーが閉まった。
 タイルの感触が肘とか,頬っぺたとかに感じられる。
 私は間に合った,と思う。
 私は校内にいる,と思う。
 私は目を開ける。すのこを正面から捉えれば,上部の板を支える二本の脚が揃ってないことに気付いた。考えればすぐに分かる不安定の原因を,私は考えたこともないことも分かった。乗って,ただ揺られてただけだったと,知った。
 皆,外から来るのだから,裏門から登校すれば,運動場のすぐ側を通るか,運動場を横切る男子だって,少なくないんだから,靴箱が立ち並ぶここの玄関に,砂があるのは当たり前で,倒れ込んでる私が塗れるのも当たり前。口に入ってるものを噛み砕けば,『ガリッ』っと言った。
 味なんてしない。
 どうせ誰もいないからと,スカートなんて直しもせず,素肌を晒した右足を,踏ん張りどころにして立ち上がる。靴箱と同じ高さに,私が戻って来る。そのままの目線をキープして振り返った後ろには,押して開く二枚の扉を,固い一枚みたいに閉めたドアーがあった。顎ごと,上を見る。非常口の案内がぶら下がっていた。
 『あの青い人』がそこには表示されていなくて,その真下,私の正面に立っていた。
 私は言う。
「見落としてた。まさか,玄関にあるって,思わなかった。」
 『あの青い人』は,青い目の海外ドラマの一人物みたいに,両手を腰の辺りで,手の平を上に向けてから首を大いに左右に振って,大袈裟に,『それは残念。』というジェスチャーをした。
 私は言う。
「そうね,残念ね。私はまた,ここに居るわ。あなたの,思い通りにはならなかった。」
 『あの青い人』は,全く同じジェスチャーを繰り返す。両手を腰の辺りで,手の平を上に向けてから首を大いに左右に振って,大袈裟に,『それは残念。』と表現する。
 私は言う。
「用は済んだでしょ?で,私のしようとしていること,分かってるよね?こんなやり取り,もう何度目か,知れないんだから。」
『あの青い人 』は指先で,側頭部を掻く仕草をする。『やれやれ,困ったもんだ。』と,何もしてないところも含めて,全身で表してる。
 それを見て私はもう,何度目かの「じゃあね。」を言う。校内に立ち去ろうとする。
『コンコン。 』
 見れば,『あの青い人』が固く一枚に閉じたドアーを叩いて,私の気を引く合図をしていた。そして指の向きだけでしか分からない,顔が位置するはずのその正面を,後ろに向ける。そこには挿し口が多く設けられている,生徒用の傘置き場があって,『あの青い人』はそこに数枚の紙を置いていた。書かれている内容と,その順番を確認するように,正面と代わり映えしない背中を私に向けたまま,捲ってる。
 付き合う気もないし,必要もない。
 そう思って,私はもう一度振り返った。時間は足りないんだ。そう思い続けてた。
『コンコン。コンコン。』
 『あの青い人』がまた固く一枚に閉じたドアーを,『待て待て!』と言いたげに,強く多めに叩いて,私を振り返らせる。さっきの紙を持っていた。私に向けて,見せていた。その紙には筆と墨を用いた達筆で,こう書かれていた。
『早く帰りましょう。』
 その紙がどこに貼られてて,そもそも何のために書かれたものかは分からないし,多分国語のタナカ先生あたりが,熱血の,体育タナベと一緒に,特に低学年の,生徒指導の向けの一環ってやつで書いた数枚の,一枚だと思う。冗談でも笑えない。馬鹿みたいで,鼻が鳴る。
 私は無視して,一歩を踏み出した。
『ゴンゴンゴン。』
 無視をする。
『ゴンゴンゴンゴン!』
 聞きはしない。振り返らない。
『ゴンゴンゴ,ゴシャンッ!』
 振り返ってしまったら,これまでに一番強く大きく叩いた音が,あの固く一枚に閉じたドアーを半壊させていた。そうしてその場にしか人が居ない校内の,奥の奥から低く漂ってくる静けさが,『あの青い人』に向かって集まって来ていた。
 誰も乗っていないすのこが揺れてる。
 立ち止まってしまった私に,『あの青い人』は『早く帰りましょう。』と書いた紙は,もう見せず,そのまま捨てるように落として,次の紙を見せた。
『トイレのあとは,手をしっかりと洗いましょう。』
 そう書いていた。
「はあ? 」
 緊迫に負けず,疑問をそのまま口にした私を見て,『あの青い人』も書いていることを確認した。間違ったかどうかを心配しているような,素振りだったが,どうやら何も間違っていないらしい。『あの青い人』は堂々と,また,『トイレのあとは,手をしっかりと洗いましょう。』と,書いた紙を私に見せてきた。
「意味わかんないんだけど。」
 そう答えても,『あの青い人』は紙を下げない。答えないと,終わりがないらしい。
「洗ってます。ソレデイイデスカ?」
 わざとらしく確認をして,けれど先程のことがあったから,振り返らずに,『あの青い人』を見続けた。紙を一向に下ろさない。
「何なの?なに?なにが『言いたい』わけ?」
 『あの青い人』は片手だけで大袈裟に,腰の辺りで,手の平を上に向けてから首を大いに左右に振って,『しょうがないなー。』と表現した。そして,空いてる片手で,『トイレ』を指差した。
「トイレ?別に行きたくない。つーか,何であんたにそんなこと心配されなくちゃいけないのよ。」
 そう言ってから「変態。」と,付け加えたけれども,『あの青い人』はピクリとも動かなかった。ショックでも受けてるのか,とも思ったけど,意味ありげに,再び,『トイレ』と書かれた部分を,『トントン。』と,ゆっくりに,『正にそれだ。』と教えるように指を差した。
「はあ?なによ,だから意味が,」
 『分からない。』と言おうとして,分かった。私はもう,トイレに行ったりしてない。トイレをしたりしていない。何を食べても,何を飲んでもいない。だからそもそも私は,トイレに行く,必要がなくなっている。
 気付く。私はものすごく走って来た。さっきなんて,息も止めてた。私は長距離走が得意なミエちゃんじゃない。というか,ミエちゃんでも息は切れる。でも私の息は切れてない。止まっては,やっぱり良くないみたいだけど,息は絶対に整えていない。
 気付いてく。私は半分閉まって,半分開いてた玄関のドアーの前で,つんのめって,雪崩れ込むように転がり込んだ。打撲,擦り傷,あの勢いだったから,骨折だってしてても可笑しくない。けれど私は立っている。何だったら階段を,すぐに駆け上がるつもりだった。ここの校舎の最上階の,放送室に居るはずだった。私は何もおかしくない。おかしいところが,何もない。おかしくなった箇所が,何処にもない。
 『あの青い人』を私は見る。
 『あの青い人』はまた紙を捨てるように落としてもう一度,もう一枚あったらしい『早く帰りましょう。』と,書いた紙を私に見せた。
 噛み砕いた砂粒が口の中に残ってる。
 私は言う。
「嫌。帰らない。」
『あの青い人 』は紙を見せ続ける。
 私は言う。
「私はちえちゃんと帰る。私はちえちゃんを連れて帰る。私はちえちゃんの友達だから。私がちえちゃんの友達だから。だから帰る。ちえちゃんと帰る。」
 『あの青い人』は紙を見せ続ける。
  私は言う。
「私がちえちゃんを傷付けた。私が一番ちえちゃんを傷付けた。話し掛けられても無視をして,隣に来たら,すぐにどこかに離れていって,ちえちゃんを無視した。一番ちえちゃんを意識して,一番ちえちゃんを無視したんだ。私のそんなやり取りが,クラスの変な雰囲気になって,それに気付いた隣のクラスのハシモトさんが次にそうした。放送委員内でもそうした。そうしたら皆に広まってた。止められなかった。止まらなかった。ちえちゃんはどんどん静かになった。ちえちゃんの声が聞けなくなった。下校のお知らせぐらいだった。ちえちゃんの声は『明日もまた,元気に登校しましょう。,』って,言い続けてた。」
 『あの青い人』は紙を見せ続ける。
 私も言い続ける。
「ちえちゃんは居なくなった。学校にも来なくなった。皆で『とうとう,不登校ってやつか?』って,声に出さずに笑ってるみたいだった。私はもう,どうしようもなくなって,馬鹿みたいな『勇気』を出して,『ごめん。』って,伝えるために,手紙を書いて,ちえちゃん家に行った。でもちえちゃんは,そこにも居なかった。どこにも居なかった。ちえちゃんは,本当に居なくなった。」
 『あの青い人』は,少し紙を下ろす。『早く帰りましょう。』の,『しょう。』が見えなくなる。
 私はまだ続ける。
「ニュースになった。警察も出て来た。色んな推測が,色んな口調でいろんな方法で,流れても,ちえちゃんにたどり着くことはなかった。事態はもう,どうにもならなかった。私は一人,必ず,正門から帰り続けた。馬鹿みたいな期待して,ちえちゃんに会えるかもって,思ってた。いつも別れる下り坂の終わりで,もしかしたらって,必ず思ってた。そんなわけない。あんなことして,あんな風にした私に,何があってもちえちゃんは,会いに来たり,するわけないのに。」
『あの青い人 』が持つ紙は,もう,『早く』としか見えてない。
 私は言う。
「手紙,今も持ってるけど,『ごめんね。』ってね,一言も書いてないの。格式張って,言い訳じみて,こうなった原因なんて,書いたりしてて,その気持ちを書いてないの。言葉を積んで,意味を出して,空白でね,『ごめんね。』って,言おうとしてるみたいだった。『ごめんね。』を,見つけてねって,ちえちゃんに言ってた。そんな手紙なの。この手紙。」
 『あの青い人』は紙を下ろした。
 私ももう,最後にしたい。
「私は,言わなきゃいけない。ちえちゃんに,『ごめんね。』を伝えなきゃいけない。そうして一緒に,帰るんだ。こうしてちえちゃんに会えたんだから。こうしてちえちゃんと居られるんだから。こうしてまた,ちえちゃんのところに,ちえちゃんの下に行ける私だから。人なんてもう,辞めちゃっていい。」
 そう言って,私は『あの青い人』を見続けた。二枚目の,『早く帰りましょう。』は,捨てるように落としている。残りはもう,一枚だけだ。
「理解なんていいよ。あんたにそれが出来るのか,分からないけど,私は辞めない。人は辞めても,私は辞めない。 」
 もう話すことはない。だから私は振り返ろうと,した。
 『あの青い人』が今度も片手だけで,でも小さく,腰の辺りで手の平を上に向けてから,首を小刻みに左右に振って,『しょうがない。』と表現した。そして最後の一枚を私に見せた。
『・失礼します。』
 箇条書きの一部,『・』 を連れたまま,そう書かれていた。
 『あの青い人』は飛んで来た。凄い勢いで,私はそのまま倒された。痛くはなかった。やっぱり私は,と思って,そんな暇がないことを思って意識を目の前に塗り潰す。
 抵抗した。噛み付いて,引っ掻いて,男かどうかは知れないけど,金的もひたすら繰り返した。でも『あの青い人』が怯むことはなかった。こいつも痛みがないように,すごい力で両手を押さえつけられる。それは片手で行われ,もう片方の腕で,服が破られていく。下着もボロボロになって行く。私は「この変態!」と毒づく。
『あの青い人 』が顔を近付ける。私の口をめがけて,青い色をスライムみたいに伸ばして来る。歯が砕けるぐらいに口を閉じて,塞ぐ。でも首元を締められて,その青い顔で鼻の穴も潰されて,口が開かされる。中に入ってくる。舌の上を,スライムの青が通って喉が詰まってく。
 意識がもう,遠のいて,私は涙を流した。ちえちゃん,と言えずに,ちえちゃんと思って,手紙を書き直したいと思った。小さな紙と鉛筆,「ごめんね。」の意味と文字。
 お腹というお腹に『あの青い人』が入って来て,足やら肘やらが痛くなってきた。思い出した痛みは,頭の中で光になって,隠れてた扉が開く音がした。木で出来ているのだろう,気持ち良さそうに『キイッ』と聞こえて,光がどんどん増えて,広がる。
 もう何も考えられなくなる。
 ちえちゃん,と思えなくなる。
 助けて。と思ったのは正しかったのか,分からない。
 でも私は助けて,と思った。
 暗闇から聞こえた蛙のような鳴き声は,『お安い御用。』と言ってた。
 長い舌ででも叩かれたかのような音が私の両方の鼓膜を震わせて,逆再生のように『あの青い人』は,私の中からその色を一つも残さずに戻っていった。あの大袈裟なジェスチャーを一つも取れず,ただじっと顔を抑えて,少し震えて,その痛みを表現していた。
 廊下の下に,何があるのか知らない。何かあるとも思わないけど,非常口を案内する『あの青い人』は,私の中に入ってきたときのように,そのまま下に,消え去っていった。
 『あの青い人』が半壊させた,玄関のドアーから光は漏れて入る。嘘みたいにキラキラしていた。雨上がりみたいに思えた。
 そうして私は一人になった。







 立ち上がる私に痛みはない。服もすっかり綺麗になってる。トイレに行く気はない。その時間もない。私は走る。階段を駆け上がる。
 ちえちゃんは最上階に居る。
 節電中の渡り廊下は薄暗く,急な肌寒さも引っ張られたみたいに底を這ってるみたいに感じる。それが分かるぐらいに,私はまだ,人のまま,辿り着いた放送室の前に立つ。確認のために見上げた左側,吊るされた非常口の案内には誰も居ない。
 ノブは回せば軽く開いたから,放送室の鍵はかかっていなかった。入ってすぐの,ブースとは別に防音された中くらいの部屋,合唱の練習とか,(多分こっちが主な使い方なんだろうけど)劇の練習とかが出来る,教室と比べて縦に長く,透明なガラス越しに例えば音出しのタイミングとか,そういったやり取りが放送室内と可能な『この』部屋に,ちえちゃんは私を待っていた。ちえちゃんは私を見て,ちえちゃんの笑顔をくれた。私も微笑む。
「ごめんね。待たせた。」
 そう言う。
 先週から引いている,風邪に引っ張られてちえちゃんは声が出せない。だから私がブースに入る。私が下校の,お知らせをする。
 透明なガラス越し,時計を確認したちえちゃんが私に合図をする。パイプ椅子の上で,私は背を伸ばす。
 放送委員のお手伝いでする下校のお知らせは,チャイムを鳴らさずには始められない。
 つまみを回して開くのが遅かった。収録先のカセットテープから付き添う曲の前奏は,切れてしまって短い。






(つづく。)

かえるろーど。(五)

かえるろーど。(五)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-01

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