告げにきた(19枚)

八島シリーズ。5作目。

 店に入ったとたんに、崩れるように雨が降ってきた。
 保奈美は友達と連れだって、小ぢんまりとした喫茶店の一番奥のテーブルについた。小さな店だが、コーヒーがおいしく、趣味のいいBGMが流れているのでお気に入りだった。女友達と会うときにもよくこの店を利用する。
 でも少し前まで、そんなにこの店は利用していなかった。本当にごく最近だ。この店に通い詰めるようになったのは。
 最初は――と、保奈美は頬杖をついて回想する。
 最初は、高校時代からの友達である和葉が結婚するというから、友達同士で集まった。照れる和葉をみんなで囲んで、きゃあきゃあ言いながらからかった。ただ保奈美は、大学を出たばかりなのに結婚なんて、私はごめんだなと思った。
 和葉を散々せっついて、結婚相手の写メを見せてもらった。思ったよりも目鼻立ちが整った爽やかそうな顔をしていたので、またみんな黄色い声で騒いだ。客が保奈美たち以外にいなかったのが幸いだった。
 そのとき、カランカランとドアが開く音がしたので、保奈美は振り返った。
 どうやら男性が一人で入ってきたようである。すらりと背が高く、黒い長そでのシャツにスキニーのデニムジーンズを履いている。
 男性は保奈美たちのほうをちらりとも見ない。うつむきがちに入口近くのテーブルに座り、ぼんやりと窓の外を見た。
 保奈美は一瞬でその男性に魅入った。
 髪は自然な栗色で、前髪が目のあたりまで伸びている。シンプルな服装が、それゆえに男のモデルのような均整のとれた体型を目立たせる。最近の大学生のようなひょろりと細いというわけではなく、まるでギリシャの彫刻のように引き締まった筋肉が腕にも胸にも見てとれた。
 保奈美は今までに、こんなに美しい人を見たことがなかった。無名の俳優なのか、モデルでもしているのかもしれない。とにかく普通の人ではない。うつむいた顔、閉じられた目元に長いまつ毛の影ができている。
 きれいな人……。
 保奈美は目をそらすことができず、無礼なほどじっと見つめた。嫉妬すらしていた。こんな体験は始めてだから、どうしたらいいのか戸惑っていた。
「ね、ねえ」
 保奈美は軽く手を震わせながら近くの友人の手を叩いた。
「なあに」
「あ、あれ、あの人、素敵」
 保奈美は何度もどもりながら、そんなことを言った。
 友人たちも、そこでようやく気付いたらしい。「あら、まあ」などと言いながら、ひそひそと話しあった。
「素敵な人」
「俳優に似てるわ」
「そうね。ほら、ハリウッド俳優の誰かに……」
「あら、日本の俳優に似てるわよ」
 美しすぎる人というのは、どうにも印象が捉えづらく、見る人によって考えが違う。
 男は保奈美たちの噂話が聞こえていないのか、それともこんなことは始めてではないのか、ぴくりとも動かなかった。
 それにしても本当にきれいな人だ。イケメンだと思った和葉の彼の顔など、もう忘れている。顔だけでなく体も美しい。
「あら、でも、目が――」
 誰かがそんなことを言った。ウエイトレスがコーヒーを運んできて、男が顔をあげたのだ。
 男の目は、片目が灰色に変色していた。
「いやだあ、なあにあれ」
 和葉がふいに大きな声で言ったので、保奈美は背筋が凍りつきそうになった。
「馬鹿! 声が高いわ」
 保奈美が声を低くして怒ると、和葉は少し眉をひそめた。
「あれは白内障っていうのよ。うちの犬が年をとって、あんな目になったわ」
 和葉がささやくように言い、それきり男に関する内緒話は打ち切られた。
(白内障っていうんだ)
 保奈美はそっと心の中で思った。和葉のように「いやだあ」と思うことはなかった。ただ、灰色の片目を光らせている彼は本当に素敵だった。
 それから保奈美は、よくその店に行くようになった。


 愛なのかと問われれば、おそらく愛ではない。
 その証拠に彼と会話したり、彼と目を合わせたりというようなことは想像もできない。愛というわけではない。ただ一度見るともう一度見たくなる。繰り返し再生した映画のビデオのように。
 そうやって喫茶店に通い詰める保奈美を、女友達はからかった。
「今度会えたら、逆ナンでもしたら。思いきって」
 保奈美はなんとなく不機嫌になり、返事をしなかった。
 だいたい、例の彼とはあれきり会えていないのだ。馴染みの店ではなかったのだろう。この町に雰囲気のいい喫茶店はいくらでもある。
「ねえ、ところで、知ってる?」
 女友達は、噂話特有の粘っこい話し方をした。
「なあに」
「和葉、あの子流産したのよ」
「え」
 保奈美は思わず声を出した。
「……妊娠してたの」
「いやだ、知らなかったの。できちゃった結婚だったのよ。でも流産しちゃって」
「かわいそうに」
「すごく落ち込んでたんだけどね、やっぱり結婚はするって。彼がすごく和葉のこと大事にしてるし、彼の両親も和葉のこと可愛がってるんだって」
「いいわねえ」
 ついつい本音が出た。なぜだか、女友達の幸せは上手に祝えない。
 そんなとき、カランカランとドアが開けられる音がした。あ、彼だ、と瞬間的に保奈美は確信した。顔をあげて見れば、その通り、彼であった。
 保奈美は息すらもとめて彼の気配と動きに集中した。そんな保奈美を、女友達は完全に呆れた顔で見ている。
 彼は男友達を連れていた。メガネをかけた若い男だ。
「ねえ、あなた、彼氏でもつくったら。合コンとか開催して」
 女友達は、意地悪そうな笑顔をした。
 そんな声を無視して彼を見つめた。これだけ見ているのに彼はちらりともこちらを見ない。こんな視線には慣れているのかもしれないし、単純に鈍感なのかもしれない。
 いいことがひとつあった。メガネの男性が、彼のことを『斎藤』と呼んだのだ。体全身を耳のようにして聞いていたのだから、間違いはない。「佐藤」でも「伊藤」でもなく「斎藤」だった。
「今日、斎藤んち泊まっていい?」
 たしか、こんな感じの会話だった。
「斎藤さんっていうのね」
 保奈美は小さな声でささやいた。
「はあ? 何が?」
「あの人よ。今そう言ったわ」
「何それ。私は全然聞こえなかったわよ。あなた、耳がおかしくなったのよ」
 そうなんだろうか、と保奈美は思った。常識で考えて、少し離れたテーブルの会話が聞こえるわけがない。よほど大声ならともかく。本当に耳がおかしくなったのかもしれない。でも、それでもかまわない。とにかくミステリアスな彼に名前がついたのだ。
 結局、保奈美が話しかけることもなく彼らは帰って行った。あとを追いかけることもしなかった。会話したいわけではないのだ。
 それから、三日に一度ほどのペースで保奈美はその店に通った。行くたび期待は高まって行くが、彼には会えない。あれくらいかっこいい人には、一生のうちに一度か、二度会えればいいほうなのかもしれない。
 もう一度姿を見たいな、と思いながら、なかなか思うようにいかない。保奈美自身も忙しかった。始めての就職、仕事。保奈美はデパートの受付嬢をしている。見かけは華やかな職業だが、女性ばかりでなかなか難しい。
 それでも昼休みや休日など、なんとか時間に折り合いをつけて喫茶店に行ったが、徒労であった。
 保奈美はそんなものなのかもしれない、と思った。恋でも愛でもない思いなのだ。あえてたとえるとしたら、面白い映画をもう一度観たいと思うような、そんな気持ちである。ただその映画はもう上演を終えてしまったのだ。
運がよかったら、もう一度観られるかもしれない。
せっせと足を運んだおかげで、オーナーのご婦人とはすっかり仲良くなった。友達同士で集まるときは、必ずこの店を使った。喫茶店といっても定食やちょっとしたお酒もあるので、女の子を呼びやすいのだ。
「そういえば」
 と、女友達の一人が言った。
「和葉がまた妊娠したんだって」
「へえ」
「産まれるといいわねえ、今度こそ」
 友達の中で結婚したのは和葉だけだから、自然とよく話題にのぼる。カランカランという音がないので、保奈美は会話に集中できた。今日は貸し切りなのだ。
「保奈美の、一目ぼれの彼はどうなったのよ」
 お酒がすすみ、そんな話題も出た。保奈美は軽く首をふって答えなかった。すると、ますます激しく問い詰めてくる。
「どうして声をかけなかったの。振られてもいいじゃない」
「人生は一度きりよ」
 はいはい、と軽く返事をしたが、そんなものは通用しないらしい。いつの間にか「斎藤さん」の話題が長く続いた。
「そんなにイケメンなの」
 斎藤さんを見ていない子が、興味ありげに尋ねた。
「けっこうよかったけど。どんなんだったっけ?」
 斎藤さんを見た子の一人がそう言った。
 保奈美はなんとなく笑ってしまった。顔があまりにも整っていると、どうやら記憶に残らないらしい。そう言われてみれば、保奈美もきちんと顔を思いだせるかというと、自信がない。
 柔らかそうな髪の毛や、長い足などはよく覚えているが、顔のほうはなんともいえない。ただかっこよかったとだけ脳にインプットされている。
「あーあ。あたしも見たかったわ。もう一度こないかしら」
 見ていない子は残念そうにそう言って頬杖をついた。
「でもこんなに期待して、いざ見たらたいしたことないかもしれない」
「それはあるわね。期待したらだめよ」
 会話を聞きながら、保奈美は自然と斎藤さんのことを考えていた。仕事は何をしている人なのだろう? いつもはどこで食事をしているのだろう? どこに住んでいるんだろう?
「斎藤さん、元気かなあ」
 保奈美はそう言った。ぽつりとつぶやいたつもりだったが、自分でも信じられないくらい、よく響く高い声になっていた。
 はっとして口を閉じた瞬間、後ろのほうから男性の声がした。
「死にました」
 振り返ると、メガネをかけた若い男性が立っていた。おしゃれな男の子がよくかけているような黒ぶちのメガネで、その奥の目が琥珀色に近い茶色だった。抜けるように色が白く、目元に青を通り越して紫色のひどい隈ができていた。
 黒いシャツに黒いズボンという服装のせいで、白い顔だけが浮かび上がっているように見える。唇は赤く、微かに震えていた。雨の中をきたのか服や髪が濡れて、床に小さな水たまりができている。
「斎藤は死にました」
 それだけ言い、メガネの男性はふらりとドアを開けて出ていった。
 しばらく、誰も何も言えなかった。
 保奈美はふと思った。ドアのカランカランという音がしただろうか? 聞いていない。会話に夢中で、聞き逃したのだろうか。
「いやだ……なあに」
 誰かがぽつりとそう言って、それからみんな騒ぎだした。
「何、あの人。ここは貸し切りよ」
「貸し切りって知らずに入ってきちゃったのね」
「だけど、なんで『死にました』なんてことを言うのよ」
 あの人は――と保奈美は考えた。あの人は、斎藤さんが連れていた人だ。
 貸し切りと知らずにこの店に入ってきて、偶然に保奈美の台詞を聞いたのだろうか。「斎藤さん、元気かなあ」という保奈美の言葉に、「斎藤は死にました」と答えた……。
保奈美はぞっとし、急に立ちあがった。頭から足まで電撃が走ったようになっている。直観的に、何か恐ろしいことがあると思った。
もはやいてもたってもいられない。あわてて店の外に出て、きょろきょろと探したが、メガネの男性はどこにもいなかった。
店内に駆け戻り、唖然としている友達のことも忘れて、店のオーナーに詰め寄った。
「さ、さっきの人、知ってる人ですか?」
 顔を真っ青にして詰め寄る保奈美にたじろいだのか、オーナーの女性は困惑した顔でうなずいた。
「少し前までは、よく来てたけど」
「どこに、どこに住んでいる人ですか?」
「さあ、そこまでは……」
 オーナーは助けを求めるように保奈美の女友達のほうを見たが、保奈美は許さずにさらに尋ねた。
「もう一度会いたいんです。どんなことでもいいから、教えてください」
「そんなことを言われても、ねえ」
「お願い! お願いします」
 目に涙を溜め、保奈美は合掌して拝んだ。土下座までもするつもりだった。
「そういえば、近所のパチンコ店の制服をきて、いらしたことがあるけど」
 オーナーがそう言った瞬間、保奈美は駆け出した。近所にパチンコ店は一件しかない。
 保奈美は全力で走り、パチンコ店に駆け込むと、近くの店員を捕まえて、まるで喧嘩するような迫力で尋ねた。
「メガネをかけた男性を、知りませんか」
「はあ?」
 店員は困惑した顔をする。
「じゃあ、じゃあ、『斎藤さん』を知っていますか」
 そう言いなおすと、店員は合点がいったような顔をして、保奈美にそっとささやいた。
「あの人は、亡くなったそうですよ」
 保奈美は愕然とし、恐ろしいものを見たかのようにぶるぶる震えながら後ずさりをした。背筋に悪寒が走っている。恐怖で足が重い。
 ――斎藤は死にました。
 あのとき、そう告げた男の声が頭から離れない。いつまでも連呼している。


 ――死にました。
 ――死にました。
 ああ、恐ろしい。保奈美は頭を抱えて震えた。
 男の白い不気味な顔が思い出される。目を閉じたら、すぐ目の前にその顔が浮かび上がるような気がする。
 あの男は死を告げにきたのだ。
 保奈美たちに死を告げるためだけに、あの雨の中店に入り、保奈美の後に立ち、目的を終えて足早に立ち去った。
 すぐ後ろにあの白い顔があるような気がする。
 その白い顔。目元の青い隈。女性のような赤い唇が少しだけ開く。
 ――……は、死にました。
「いやっ」
 目覚めたとき、ケータイが鳴っていた。
 保奈美はぶるぶる震えながらケータイを開いた。女友達からである。
「……はい」
 電話に出た瞬間「死にました」という声が聞こえてくるような気がして、保奈美は寒気を覚えた。一瞬の間が怖い。
「保奈美。聞いた? 和葉、流産しちゃったんですって。ねえ、今度お見舞いに行きましょう。大勢は迷惑だから、とりあえずあなたとあたしの二人で――」
 保奈美はカチカチと歯を鳴らした。
 あの男は、死を告げる男なのだ。そのために保奈美の目の前に現れたのだ。
 いつか、そう、いつかあの男が保奈美の前に再び現れないともかぎらない。そのとき、彼は何を言うだろう――いや、言うことは決まっている。
 決まっているのだ。
「保奈美? ねえ、保奈美どうしたの?」
 完全に押し黙った保奈美の耳に、友達の声が聞こえる。
「死にました」
 保奈美の部屋、白い壁が盛り上がって人の顔の形をつくる。紙のように白いその顔。痣のような青紫の目元。血でつくられたようなその赤い唇が動き、言葉を吐く。
「あなたは死にました」

告げにきた(19枚)

告げにきた(19枚)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-06-03

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