NULLの箱庭(将倫)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

Noise35(テーマ:星)のサブ原稿として用意していた作品です。もう三年も前になるらしいです。

 僕は雨が嫌いではなかった。

 雨は町の虚しい喧騒を奪っていくし、人の冷たい視線が交わることも許さなかった。人通りは少なくなり余計に町に静寂をもたらした。傘で遮られる視界は、だがしかし前を見る僕の視線の妨げにはならなかった。十メートル先を眺める僕の視線、角度にして八・五度下方にちょうど傘の端が重なった。水溜まりに映る街灯の光を雨が叩けば、二月のこの時期、季節外れの線香花火だって見えた。
 だが積極的に好きになれないのにはもちろん理由があった。もう半年以上は続けているだろうか、家から徒歩三分ほどのところにある公園に散歩に行けなくなるからだ。僕は雨が降っていない日には、必ずこの公園に行っていた。都会に忘れられたようにぽつんと浮かぶ小さな公園、そこにある小さな池を眺めることが僕の日課だった。散歩は副次的なものでしかない。
 この寂れた池の何が僕を魅了したのかは、今となってははっきりと覚えていない。水面に映る街の光が妙に憂いを帯びていて、それを見ると幾ばくか心が落ち着いたからかもしれない。満月の夜でさえ月を隠すほどに明るい街でも、一度風が吹いて――あるいは小石を投じて――水面を揺らせば、その存在はひどく脆いものに見えた。池の水面は、僕の虚無感をそのまま投影していたのかもしれない。
 二日続いた雨が止むと、僕はいつものように公園に向かった。乱立する高層ビルが遥か上方から僕を見下ろす中、ただ十メートル前だけを見て僕は歩いた。公園に着くまでの三分の間にも、重たく暗い雲に解放されて意気揚々とした街のざわめきが僕の目と耳には届いていた。
「寒い……」
 白くなった呼気で手を暖めながら、僕は進める足を少しだけ早めた。都会に住む人は誰も彼もが同じ顔付きをして、誰にも興味を示さずに他人とすれ違っていた。誰も僕を見なかったし、僕も誰も見なかった。そんな街は息が詰まりそうなほどに冷たいが、あの公園はいつも温かかった。そして僕の視線の端、きっかり十メートル先に公園の入り口が見えた。
 意気揚々というわけでもなく公園に入ると、いつもと変わらずそこには池があった。僕は池の縁まで歩み寄るとそこに腰を下ろした。夜の公園に人などいるはずもなく、僕はただ独り、池を眺めた。
 氷を張ったかのように動じない水面は、まるで僕を拒絶するかのような煌々とした光を放つ夜の街をそのまま映していた。僕はふと近くに転がっていた小石を池に投げ入れた。石が水面に触れると、そこを中心に波紋が広がった。そしてそれと同時に、今まで鮮明に映していた景色が歪んだ。先程までくっきりとビルの形をしていたものは、今やバネのように見えた。僕はそれを見てほくそ笑んだ。
「ほら、こんなに脆い」
 減衰振動の末にか細く消えていく波と同じように、僕の笑みもやがて消えていった。この余韻に少し酔ったのかもしれない。池は静まりかえり、後には何事もなかったかのように無秩序に明るい街の様子が映っていた。
 ひとしきり満足感と安心感を得た僕は、ゆっくりと腰を持ち上げて池に背を向けた。今日一日の鬱憤が――そう言える程に精力的に日々を過ごしているわけではないが――晴れていった。帰り道には、あれほどうるさかった街の喧騒もほとんど気にならなかった。街頭で宛もなく配られているティッシュも、郵便受けから溢れるビラも、今はどうでも良かった。あの池の光景を思い浮かべて一日を終わりたかった。
 帰宅して僕は早々に床に就いた。布団に入ってつかの間の寒さに身を震わせながらも、自分でも驚くほど直ぐに眠りに落ちていった。
 明くる日も明くる日も、二月の乾いた晴れに恵まれて僕は池へと赴いた。池に何か変化があるわけではなかった。僕に何か変化があるわけではなかった。ただ僕は十メートル先だけを見て、池だけに心を寄せて毎日を送っていた。

 翌日も僕は日が沈みきってから池に向かった。相変わらずそこにある池は、空虚に見える街を無機的に映していた。僕は池の畔に腰を下ろした。しばらくの間何もせずに暗い池を眺めていた僕は、いつものように小石を投じようと近くの石を拾い上げた。そして小さく振りかぶった、その時だった。
 池に映っていたビルの明かりが突然消えたのだ。ビルだけではなかった。街灯やマンション、ネオンなど、街中のありとあらゆる光が――これまで築き上げてきた栄華を誇示するような爛々とした光が、蝋燭の火を吹き消すようにしてふっと消えてしまった。明かりに慣れた僕の目は即座には暗闇に順応することが出来ず、またそれは僕の思考も同じだった。何が起きたのか訳が分からなかった。だが、やがて僕はあることを思い出した。そういえば何日か前に、検査のために大規模な停電があると書かれたビラが郵便受けに入っていた。僕はそれで得心がいくと、これ以上何も映さない池を見ていても仕方がないと思い、腰を上げようとした。
 闇に慣れた僕の目は、その時になってようやくその光景を網膜に映し出した。
「あ……」
 何かが池に浮かんでいる。小さく光る、何かが。一つや二つではない。百や二百でも利かない。僕は思わず空を見上げる。そして、言葉を失う。
 晴れた新月の空に、幾百もの冬の星々が瞬いている。それぞれが多様な大きさ、光度、色合いを見せながら、決して同一のものなど存在せずに空に浮かんでいる。街の光によって今まで隠されていた輝きが解き放たれ、僕の真上に降り注いでいる。
 僕は息を飲み、星の一つ一つを凝視する。天体に詳しくない僕でも、知っている星座はいくつかある。オリオン座、馭者座、おおいぬ座――。
 中でも僕の目を引いたのはおおいぬ座だ。α星のシリウスは恒星のうちで最も明るい。だが、僕の視線の先にあるのはシリウスではない。おおいぬの足先にある青白い星。どこで知ったのかは覚えていないけれど、僕の記憶には確かにその星が刻まれている。
 おおいぬ座ζ星フルド。
 明るいシリウスの陰で小さく輝くその星に、僕は自分を重ねているのかもしれない。決して表に出ることのない小さな星として。だが、今ある光景はそのような僕の考えを全て否定している。この天体に、目立たない星などない。ベテルギウスもプロキオンもシリウスも、そしてもちろんフルドだって、自己を主張するように各々明るい光を放っている。
 僕はすっくと立ち上がり、空に手を伸ばす。決して届くことはないが、立ち上がった分だけ、手を伸ばした分だけ近付くことは出来る気がする。僕は遥か彼方にある星を眺めながら公園を後にする。帰路の最中も、僕は十メートル前を見ることはない。八百光年先のフルドをただ眺めている。

 それから僕はあの池に行っていない。もう行く必要もない。あの池に行かなくても、空を見上げれば僕の心は自然と安らぎ、晴れ晴れとする。
 雨の降る日でも、僕の傘の端は視線の上方八・五度で重なる。少しでも上が見えるようにと。分厚い雲が視界を遮っても、その先にはいつも星が輝いている。むしろ、雲があるからこそ星々の存在を強く実感出来る。明るいシリウスが側にいても、フルドは誇らしげに自らを輝かせている。今ならそう確信出来る。

 僕は雨が嫌いではなかった。

NULLの箱庭(将倫)

NULLに特に意味はない。
たぶん星座に詳しくない人間はζ星なんて知らない。自分も読めない。
あと一番書きたかったのはおそらく季節外れの線香花火のことだったと思う。

NULLの箱庭(将倫)

俯きがちだった青年が夜空を見上げるお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-22

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