後の復讐のため、今加虐されることに至高の喜びを感じる魔性の少年森田修平。異能の力で自分を追い詰めたものたちを、ひたりひたりと破滅に導いていく。

     魔



一、 はじまり 


まだ五月にもならないのにじりじりと、まがまがしい日差しだった。
宝伝(ほうでん)方面に向かう農道沿い。
田んぼの中にぽつんと、古い大きなスレート葺きの納屋が、強い西日にさらされて立っている。
ぼうぼうとした草むらの中に高々と積み上げられたパレットの山が三つ四つ。
敷地のきわに廃棄されたミニバン。
塗装がところどころはげ、赤さびが浮き上がっている。
その間を、ちらちらと人影が動くのが見えた。
森田修平は遠くから、気づいていた。
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
ゆったりとベダルを踏みながら、修平は妙な歌を口ずさんでいた。
うっとりと笑みを浮かべている。
退屈な一ヶ月だったが……。
とうとう始まろうとしている。
(待ちに待っていたことが……)
どうしようもない嬉しさがこみ上げてきた。
修平の自転車が納屋にさしかかってとき。
突然、二つの影が道に飛び出してきて、行く手をふさいだ。
「あっ!」
と、驚いた。
ふりをした。
どちらも南野中学の生徒だ。
一人はよく知っている。
堀田和人。
同じクラスだ。
もう一人は確か、
(石田弘志……)
だったと思う。
クラスは違うが、休み時間になるといつも堀田和人のところにやって来てヘラヘラしている。
二人とも、身ごろを詰めた学生服を着ている。
校門を出てから着替えたものらしい。
南野中学の服装検査はわりあいに厳しく、メジャーを持った教師が抜き打ちの服装検査を行う。
規定に違反していれば、スカートであろうがズボンであろうが、即、没収され、卒業時まで、
「学校が預ります」
毎年、入学式の壇上から校長が保護者に言明する。
さらに、その違反行為については、生活指導主任名で家庭に「厳重注意」なる文書が送付される。
文書は高校進学に際しての内申書の比重について説明している。
婉曲な脅しである。
多少悪ぶっている生徒も、ほとんどの場合、進学は望んでいるし、学校でしでかした不始末を親に、
「チクられる」
ことを恐れている。
それ以上に、なけなしの小遣いをつぎこんだとっておきの「勝負服」を取り上げられてはかなわない。
現実的だ。
南野中のワルたちはみな、校内用と校外用を使い分けている。
手間なことだが、彼らにとって学ランは、紋入りの羽織のようなものである。
「こっちへけえ」
堀田和人がいった。
無理に低い声を作っているのが分る。
そんな力みを隠しきれないところも子供である。
のっぺりとした丸顔で、眉を細くそっている。
その顔で、和人はにやりと笑った。
埴輪が笑っているようだった。
退路をふさいでいた石田弘志が、修平がまたがっている自転車の後輪を蹴り、
「はよせえ、中へ入れ」
そういいながら、修平の背中を拳で突いた。
石田弘志は腰巾着のように、いつも堀田和人にくっついている。
くっついていさえすれば威勢がいい。
子供のくせに残忍な目つきだ。
だが、嬉しいのだ。
中学に上がった当初、弘志は、地味でおとなしい生徒だった。
というより、誰からも相手にされていなかった。
ところが……。
夏休みが終って登校してきたとき。
弘志は別人のように変わっていた。
陰りのあるいやな目つきになっていた。
鋭く剃った眉は堀田和人をまねたのだろう。
相手にされないのは以前と同じだったが、ともかく、人目につく存在になったことは、外見の変化以上の驚きだったかもしれない。
しかし、職員室は、
「狐じゃな、石田は……」
と評した。
虎の威を借る、という意味である。
「スネ夫」
などという呼び方をする者もいた。
おおむね、その通りだった。
狡猾な面もある。
しかし、基本的には鈍であり、狐のシャープさはなかった。
修平は逆らわなかった。
しずしずと自転車を押して納屋の中に入っていった。
と、すぐに、
「ゴ、ゴ、ゴッ……」
と、たたきをこすりながら、後ろで重い板戸が閉じられた。
急に暗くなった。
高い場所に一か所、明かり窓があるきりで、薄闇はカビた臭いがした。
農薬だか化学肥料だか、かすかに薬品の匂いが鼻をついた。
板戸の隙間から突き刺してくる光が白刃のように、黒いたたきを、修平の足元まで鋭く断ち切っていた。
石田弘志はすばやく、引き戸の取っ手をロープで結わえた。
用意のいいことである。
手際のよさといい、今日だけのことではなく、案外、ここは彼らの日常的な仕事場なのかもしれない。
「持ってきたんか」
堀田和人が、埴輪のような眼で修平をのぞきこんだ。
修平は下を向いて黙っている。
実は修平。
昨日の下校時、自転車置き場で、不意に、この二人の少年に挟まれ、
「明日五千円持ってけえ」
と、脅しをかけられていたのである。
そのとき、堀田和人はポケットからカッターナイフを取り出し、鋭い刃の尖端で修平の脇腹を突っつき、
「分ったのう」
と、例の力んだ声で修平を脅していた。
転校生の通過儀礼である。
この春。
森田修平は東京から岡山市立南野中学二年に編入してきたばかりなのだ。
ところで。
昨日も修平は、うんともすんともいわず、ただうつむき、黙っていた。
「持ってきたんか」
石田弘志が修平の背中を小突いた。
それでも。
修平はぴくりとも動かない。
「かずちゃん、こいつ、びびり上がって、声も出んのじゃねえか」
弘志がニヤリと笑った。
どこかうれしそうだ。
堀田和人は舌を鳴らし、
「弘志、ポケットを探れえ。良美、カバンを開けてみい」
いつの間にか、堀田和人の後ろに少女が立っていた。
納屋の中に待機していたらしい。
横山良美。
同じ中二である。
色白の丸顔。
ぱっちりとした黒い瞳。
小柄なわりにふくよかである。
普通にしていれば、かわいい部類だろう、たぶん。
が、この少女も眉がほとんどない。
スカートはウエストで巻き上げて、目のやり場に困るほど短い。
素足にカンフーシューズのようなものをつっかけている。
全体、かもす空気が崩れている。
修平は今日初めてこの少女を見る。
「かずちゃん、これっきゃねえ」
石田弘志は、きちんと折りたたまれた白いハンカチを振って見せ、足元に落とし、靴で踏みにじった。
「カバンの中は?」
「お金はないよ」
良美は修平の通学カバンを前に、ごそごそやっている。
中のものを次々に地面にぶちまけ、その上に尻を落としてあぐらをかき、むっちりとした太ももがまぶしい。
黒っぽいショーツも丸見えだったが、見せパンなのか、そんなことは頓着しないようだ。筆箱の中からシャー芯のケースをつまみあげ、
「あ、これもらい」
無邪気な声を上げ、ちゃっかりとスカートのポケットにすべりこませていた。
そんな良美の様子を、石田弘志は盗み見ていた。
「おい、どうゆうことなら。金はどしたんなら。五千円持ってけえゆうたろうが、あん?」
堀田和人は眉を八の字に寄せ、細い目を三角にしていた。
つるりとした平坦な顔がかえって不気味だった。
この顔で堀田和人は南野中学を仕切っているのだが……。
修平は反応しない。
足元を見つめている。
「黙っとったらわからんで、こら」
石田弘志が威勢のいい声を張り上げ、
「なんとかゆうてみい、こりゃあ」
背後から修平の太ももを蹴った。
強い回し蹴りである。
びしりと、肉が鳴った。
ぐらりと膝が折れ、あやうく修平は後ろに倒れるところだった。
痛いはずである。
なのに、うめき声ひとつ漏らさない。
石田弘志は去年の夏から西大寺(さいだいじ)の空手道場に通っている。
堀田和人に誘われたのだった。
和人の方は、小学校に上がるころから習い始めており、道場に通う同世代の練習生たちから、
「あいつにゃ、ぜってー勝てん」
と、一目おかれている。
もともと堀田和人は運動神経がいい。
上背もある。
石田弘志のような平均的な中学生と比べると基礎体力も相当に勝っていたのである。
が、それよりも何よりも、稽古であれ試合であれ、和人の相手になるものはみな、その気迫に圧倒される。
目の光が狂気じみている。
休み時間などに二人は、これ見よがしに空手の型を遣って見せ、周りのものを威圧して悦に入っている。
石田弘志などは、憧憬の目で見られていると思い込んでいる。
実際のところ、ほとんどの生徒は、二人のパフォーマンスを冷笑しているだけだったが、当人たちは気づいていない。
このあたり、二人とも年齢ほどの脳の発達はない。
堀田和人は、修平の胸ぐらをぐいとつかんで引き寄せた。
「おえ。うんとか、すんとかゆうてみい。金はどしたんなあ金は、あん?」
堀田和人が、ぐっと腕に力をこめた。
修平の細い身体は半ば浮き上がり、詰め襟の金ボタンが一つ飛んだ。
それでも。
修平は何もいわない。
「なめとんか、こらあ」
堀田和人は胸ぐらをつかんだまま、もう一方の手で修平の顔面を殴った。
拳は頬の上から歯を打ち、
「ゴン」
鈍い音がした。
腰の入っていない突きだから、折れてはいない、たぶん。
修平の口の端から、つつと、ひと筋、赤いよだれがつたった。
「かずちゃん、顔はやべえって……」
石田弘志が慌てている。
困惑した表情が小学生のように幼い。
教師が見咎めれば、犯人探しをする。
累が及ぶことを恐れているのだ。
堀田和人にはマエがある。
昨秋の体育祭の日。
からんできた上級生の顔面を殴り、鼻骨を折ってしまった。
事はすぐ露見し、生徒指導室という窓のない小部屋で、担任と学年主任の二人からねめ下ろされながら、こってりと絞られた。
和人は、怒声まじりの教師たちの説教を、どこ吹く風で聞き流していたが、担任はふてぶてしい和人の態度を見透かしたように、急に柔らかなトーンになると、
「またやったら、県立はきついで……」
急所を突いてきた。
これは、こたえた。
堀田和人は私立には行けない。
「私立で遊ばせる銭はねえぞ。県立に行けんのなら、働けえ」
父親から釘を刺されている。
石田弘志は、和人のそういう事情を知っていた。
「県立はきついで……」
担任の言葉は十分な抑止力になっていた。はずだった。
しかし、和人はかっとなると、前後の見境がなくなるところがある。
(やばい)
修平を殴ったあと、すぐに和人は強い後悔の念に襲われた。
父親の顔が浮かんだ。
父を恐れている。
工務店に勤めている堀田和人の父堀田次郎は粗暴な男だった。
次郎は体格のいい和人より、またひとまわり大きい。
ずっと肉体労働をしてきただけに身体頑健、腕力も強い。
道場空手で多少ちやほやされている程度の和人では、まだまだ歯が立たないのだった。
それ以前に、父の前では萎縮してしまい、抗おうという気すら起こらない。
いつ爆発するか分らない狂気に対する怯え。
幼いころから身にしみつき、魂は抑圧され縛られていた。
それが外で、ときどき解き放たれる。
和人も、小学校六年になる弟の義人も、兄弟の母親も、みんな次郎の暴力の被害者だった。いわゆるDVである。
酒の入った次郎は虫のいどころが悪いと、これといった理由もないのに、いきなり獣のように吠え、家族を殴り、蹴る。
暴君そのものだった。
ところが意外なことに。
こんな堀田次郎も外では案外おとなしい男なのである。
小心といってもいいほどである。
もし工務店の同僚が次郎の家内での豹変ぶりを見たら、
「うそだろ!」
と驚嘆するにちがいない。
人というのは分らないものである。
実は今。
小学校六年生の義人は、肋骨にひびが入った状態で通学している。
数日前。
晩酌中にトイレに立った次郎が、何を思ったか、いきなり子供部屋の戸をがらりと開けた。そのとき、たまたま床に寝そべって携帯ゲームをしていた義人の姿が気に入らなかったらしく、
「勉強もせんと、なにしょんなら」
どなりあげ、床に固まっている義人の脇腹を蹴りあげたのだった。
「顔はやべえって……」
もう一度、石田弘志はなだめるようにいった。
堀田和人はやっと手を離した。
瞬間に沸騰した血は、またたく間に冷めていた。
和人は修平の口元をじっと観察した。
真っ赤なよだれがどくどくと溢れ出している。
口の中を大きく切っている証拠だ。
自分ではそれほど力を入れたつもりはなかったが、自然に、空手独特の、拳をねじ込むような突きになっていたらしい。
これは口内の裂傷を大きくする。
顔もすぐに紫色に腫れあがるだろう。
(やべ……)
そして明日には、まちがいなく教師の眼にふれることになる。
ならば、保険をかけておかなければならない。
(どうするか……)
しばらくの間、堀田和人は埴輪のような顔の眉根らしきあたりをしわ寄せていたが、
「良美、ケータイ持っとるなあ」
「ふん」
良美はスカートのポケットからパープルのスマホを取り出し、顔の前で振って見せた。
ストラップにスマホと同じくらいの大きさのピンク色のブタをぶらさげている。
ために、スマホを取り出すとき、良美の短いスカートが一緒に引っぱり上げられ、白くむっちりとした太ももが露わになった。
ほんの一瞬のことだったが……。
石田弘志は見逃さなかった。
弘志はいつも待っている。
スカートの裾やブラウスの胸元に眼に見えない触覚をのばし、甘美な一瞬に神経を集中するのだった。
堀田和人はさっと修平の背後に回って羽交い絞めにした。
修平はまったくされるがままである。
「おい、弘志、こいつのズボンを下ろせ」
意外なことを命じられ、
「なにすん、かずちゃん?」
「ええから、はよせえ。写真を撮るんじゃ。良美、用意しとけよ」
口止めのネタである。
弘志もすぐに理解した。
弘志は修平のベルトをゆるめ、ズボンをひざ下まで下げおろした。
修平は真っ黒なビキニブリーフをはいていた。
が、
「あっ!」
弘志も良美も、同時に息をのんだ。
「立っとる……」
弘志は口の中でつぶやいていた。
この状況で、修平の股間のそれは、ブリーフの生地を破り通さんばかりに突き上げていた。
羽交い締めにしている和人には見えない。
「一枚撮っとけえ。顔が入るようにせえよ」
良美はスマホを構え、いわれたとおりにした。
カシャ、という擬態音を聞き終えるや、和人は、
「おえ、今度はパンツを下ろせえ、弘志」
「お、おう」
さすがにためらった。が、
和人がやれというならやるしかない。
弘志は両手でブリーフのウエストを手前に引っ張り、勃起のピークを乗り越えさせるようにして、一気にずり下ろした。
それは、しゃがみこんだ弘志の顔のまん前で脈動していた。
「で、でけえ……」
驚嘆する弘志。
なるほど大きい。
きしゃな体には不釣合いな存在感だった。
そいつがドクドクと、弘志の鼻先に屹立している。
弘志は、今、眼前に怒張している存在の不条理に戸惑い、苦しんでいた。
一方で、転校生に自分たちがやっていることの理不尽さにはまったく気づいていない。
「良美、撮れ。弘志、そこをどけえ。頭が邪魔じゃあ。ぼさっとすんなあ」
「お、おう」
夢から覚めたように弘志は身を移した。
彼我を遮るものがなくなったとき、スマホを構えている良美の手指が、ぴくりと震えた。ぽっと顔を赤らめた。
良美は、結んでいた唇をわずかに開き、画面が捉えている修平の下半身を燃えるように凝視していた。
「良美、何しとんなあ、はよ撮れ。顔が入らんといけんで」
「あ、ああ、ふん」
良美は夢中でシャッターを押した。
と、そのとき。
「あっ!」
と良美は息を発した。
ずっと目を伏せていた修平が、ひたと良美に視線を据え、ニヤリと笑ったのである。
一瞬のことである。
背筋がぞくりとした。
不気味な笑いだった。
人間ではない何かに見つめられたような気がした。
良美は無意識に、くつろげていたブラウスの胸元をかき合せていた。
「どしたんなら?」
和人が訊いた。
「かずちゃん、こいつ、今、私を見て笑うた。すっげー、きもかった」
「こいつが?」
和人は、ゴンと修平の後頭部を小突き、
「そんな余裕ねえじゃろう、こいつに。弘志、おめえも見たか?」
「見てねえ」
石田弘志は急に元気がない。
「見てねえけど、かずちゃん、こいつ、普通じゃねえかも……」
そういって弘志は、修平の股間を指差した。
顔はそむけている。
堀田和人は、前に回って初めてそれを見た。
糸のような目を見開き、うっと息を呑んだ。
(うちのジジイのよりでけえ)
父親のことである。
夏どきの風呂上がり、堀田次郎は素っ裸で家の中を歩き回る。
ときにはそのままテレビの前に腰かけ、小一時間もビールを飲んでいたりする。
性分だろうが、それ以上に自信を持っているようだ。
たまに出かける公衆浴場などでも誇示しているようでもあった。
「良美、ちゃんと撮ったか」
和人は不要に怒鳴っている自分に気づいた。
何かを振り払おうとしている。
ぺこりとうなずく良美も、どこかしおしおとしている。
修平は下半身をさらしたまま、突っ立っている。
少し背を丸め、首を垂れ……。
なのに、股間のそこだけは隆々と天に向い、圧倒的な無限ベクトルを放射していた。
堀田和人は修平の顔に唾を飛ばしながら、
「ええか、何を訊かれても、おれらの名前を出すなよ。写真を撮ったからのう。しゃべったら、分かっとるなあ……」
もちろん脅しにすぎない。
和人は、写真をどうこうするつもりなど毛頭ない。
もし外部に流したりすれば、
「ちょっとしたいじめ」
では済まなくなる。
例えば、はっきりと個人を特定できるポルノ画像がネット上に流出したりすれば、まちがいなく、
(警察が動き始める)
動けば、発信元は必ずつきとめられることになる。
実は。
和人は、そうやって高校進学を棒に振った先輩を知っているのだ。
ワルの先輩だったが、ほんの面白半分で同級生の半裸画像をあるサイトに上げ、結果、少年課のお世話になり、PTAや教育委員会を巻き込んで大騒ぎしたあげく、最後は、高校進学をあきらめるはめになった。
そのあたりは、堀田和人も馬鹿ではない。
それにしても。
修平は足元を見つめたまま、身じろぎひとつしない。
前を隠そうというけぶりすらない。
ここにきてさすがに、
(何かが違う)
と、堀田和人は、感じ始めていた。
喝上げなど数えきれないほどやってきた。しかし、
(今日は……)
何か妙だった。
修平の無反応と無抵抗。
ほんのわずかだが、和人の気持ちが揺れ始めていた。
(馬鹿なんか、こいつは……)
ズボンを下ろされるときも、ブリーフを下ろされるときも、少しも抵抗しようとしなかった。
写真を撮られるときもそうだ。
普通じゃない。
初めは、怯えきって固まっているのだ、と思っていた。が、
(何かおかしい)
ふと、堀田和人は、
(こいつの目を見てやろう)
と思った。
目は多くを語る。
うつむいている修平のあごに和人が指先をかけようとしたとき、
「コン」
と、入口の板戸が音を立てた。
小石を投げつけたような音だ。
「はっ!」
三人は同時に息を詰めた。
しばらく、じっと聞き耳を立てる。が、
それっきり何も起こらない。
最初に和人が動いた。
そうっと板戸に忍び寄り、隙間から外の様子をうかがった。
誰もいないようだ。
いつのまにか石田弘志も和人の横に並んで、外をのぞいていた。
良美も胸の前で両手を握り、二人のすぐ後ろに立っていたが……。
ふと、何かに引かれるように後ろを振り返った。
白い臀部をこちらに曝して修平が突っ立っている。
一歩も動いていない。
それにしても転校早々こんな目に遭うとは……。
さすがに良美も罪悪感を感じずにはいられない。
良美はこんなことに加担したのは初めてだった。
堀田和人などとつるんではいるが、本来、性質(たち)の悪い少女ではない。
だが、
(さっきのあの笑いは何だったんだろろう……)
と、そのとき。
置物のように突っ立っていた修平が首だけねじり、ドロリとした目で良美を見た。
そして、肩をひとつ揺すり、せせら笑いを浮かべた。
良美の背中をぞわり、と悪寒が走った。
修平がもとのように視線を伏せたとき、良美は呪縛から解かれたように、
「かずちゃん、こいつ、また私を見て笑うた」
良美は和人の腕にしがみついた。
「あほう! 大声を出すな」
良美は身をかがめながら、
「誰かおるん?」
おびえ顔でささやいた。
「誰もおらんけど黙っとれ」
「なあ、かずちゃん、こんなやつ、ほっといて、もう帰ろ。なんか気味が悪い。変態かもしれんよ、こいつ」
返事もせず、和人はしばらく外を注視していたが、誰もいないようだと見極めをつけると、まっすぐ修平に歩み寄り、物もいわずにいきなりむき出しの尻に蹴りを入れた。
「びしっ」
と濡れ手ぬぐいを叩きつけたような音が響き、修平は二三歩つんのめった。
が、声はあげない。
「こそこそ、こそこそ、なめたまねをするんじゃねえぞ、こら」
胸ぐらをつかみ、
「おれの前でも笑うてみいや。ほりゃ、笑うてみいや」
和人は修平の顔に、ぺっと唾を吐き、両手で修平の身体を突き放し、また同じ場所に蹴りを入れた。
逆上は父親に似ていた。
弱者に対してだけである。
修平の白い尻が、みるみる赤くはれ上がってきた。
唾液の塊が、ゆっくりと小鼻を伝い落ちていく。
修平はぬぐおうともしない。
「良美、こいつあ、おめえのパンツや胸見て喜こんどるんじゃ。見てみい、こいつの股ぐらを……」
みごとに怒張したままである。
と……。
一物を見ていた和人の顔が奇妙に歪み、やがて口元に残忍な笑みが現れた。
弘志は、
(あっ)
と息をのんだ。
何をやろうとしているのかすぐに分った。
思わず、
「やべえよ、かずちゃん。金的はやべえって」
弘志は叫んだ。
声が裏返っていた。
無理もない。
弘志は空手を始めてもうすぐ一年になる。
その間、稽古や試合中に生じたいくつかの事故を目撃していた。
もし。
無抵抗に突っ立っている者に、空手の上級者が容赦のない金的を入れれば……。
まちがいなく睾丸は破裂する。
そうなれば……。
弘志は身ぶるいした。
修平は立ち上がることもできず、即、病院に運ばれることになる。
「やべえよ」
もう一度弘志はいった。
しかし、和人には聞こえていないようだ。
和人の両眼はほの暗く燃えていた。
修平の下半身から父親を連想していたのだ。
和人の胸は恐怖と憎しみでいっぱいになっていた。
馬鹿ではない。
が、ちょくちょくこうして自分を見失う。
もはや病気かもしれない。
和人は修平を突き放し、間合いをとった。
胸の前で両手をハの字に構え、ちょんちょんと小さくジャンプし始めた。
やがて静止し、腰がぴたりと定まった。
修平はだらりと突っ立っている。
これでは、まるで据え物切りである。
「いけんて、かずちゃん。いけんて、ああああ……」
弘志の声帯が発しているのは、もうほとんどうわごとだった。
和人はゆっくり、大きな息を吐き、呼吸を止めた。
一秒。二秒。
和人の右大腿動脈がピクリと痙攣したとき、
「ガシャン」
納屋じゅうにけたたましい音が響き渡った。
良美は、
「きゃあ……」
と大きな悲鳴をあげ。
和人と弘志は思わず中腰に身をかがめていた。
頭上の窓ガラスがすっかり砕け散っていた。
方形の枠の外に空のきれいな青がのぞいていた。
その清明な青は、薄暗い納屋の中からは異世界の違和感だった。
しかし。
いったいどうして……。
そんな中、修平だけは同じ姿勢で突っ立っていた。
あんなに激しい音がしたのに、微動だにしていない。
むしろ、こちらの方が驚嘆すべきことではないか。
しかし、そんなことに気づく余裕は三人にはない。
「なんかやべえよ、かずちゃん」
弘志がいった。
すっかり浮き足立っている。
逆に和人はかえって腹がすわってきていた。
和人は考えていた。
(もしだれか大人が、おれらのやっていることに気づいたのなら……)
正面から乗り込んで来るか、あるいは警察なり学校なりに通報するのではないか。
少なくとも、入口の戸に石をぶつけたり、ましてや、ガラスを割ったりはしないはずである。    
しかし、戸板に小石を投げつけるのはともかくとして、窓ガラスを叩き割るというは、ずいぶん思い切った行動である。
軽犯罪ではないか。
(となると……)
子供のしわざでもないような気がした。
考えるほど、分らなくなる。
和人は板戸に近づき、かんぬきを外し、体の幅だけ戸を押しあけ、思い切って外に出てみた。
いつまでも、中で縮みあがっているわけにはいかない。
こんなところは果断である。
誰もいない。
真夏を思わせる西陽が地面を焼いていた。
納屋の周囲には田植え前の田が広がっている。
身を隠す場所などまったくない。
割れた窓は南の田に面している。
和人は南側から、建物のまわりをぐるっとひと回りしてみた。
やはり、誰もいない。
ガラスが割れてから、和人が外に出てくるまで、おそらく、二、三十秒。
周囲はさえぎるものもない田が広がる。
道といっては、納屋の前に農道が一本だけ。
車やバイクのエンジン音は聞いていない。
犯人が、徒歩や自転車で逃げたのなら、その後ろ姿を捕捉できないわけがない。
(どういうことだろうか……)
首をかしげながら戻りかけると、弘志と良美も外に出てきていた。
「どうじゃった?」
不安げな良美。
「誰もおらん」
「でも、勝手にガラスが割れるわけないが……」
今にも泣き出しそうな声である。
それはその通りである。
しかも普通の割れようではない。
ガラスは完全に破砕され、窓枠には破片一つ残らず、きれにい飛び散っている。
「かずちゃん、もう帰ろうや」
弘志は、とっくに喝上げどころではなくなっている。
和人はイチジクの木の方をちらと見た。
三人の自転車は、イチジクの木の下にパレットを数枚立てて、農道からは見えないようにうまく隠してある。
和人だって内心、一刻も早くこの場を去りたい。
(このままここにいると……)
何かが崩れるような不安を感じていた。
そんな様を、
(弘志や良美に見られるわけにはいかない)
ここを離れたい。
なのに、
「もっぺん、納屋の中へ入れ」
と和人はいってしまった。
いってすぐに、
(ちぇ……)
虚勢をはらねばなぬ自分が恨めしかった。
まず弘志が、続いて良美が納屋に向かって歩き始めた。
直後、二人は後ろに、
「ううっ……」
という呻き声を聞いた。
振り返ると、和人が地面にうづくまっている。
下腹部を押さえている。
「えっ! どしたん……?」
同時に、二人は和人に駆け寄った。
「い、痛え……」
和人は地べたに両膝をつき、片手で身体を支え、もう一方の手で腹を押さえ、ぎゅっと目を閉じ、必死に耐えているのが分かる。
まともに声も出ない様子だ。
突然どうしたというのか。
弘志と良美は和人をはさむようにしゃがみ込み、ただおろおろと呻吟するリーダーを眺めるばかりだった。
油汗をにじませてうなる和人。
「救急車呼んだほうがええじゃろうか」
良美は窺うように弘志を見た。
涙ぐんでいる。
「救急車?」
弘志は目を見開き、すぐにその目を伏せ、黙り込んだ。
(大変なことになってきた……)
と弘志は思った。
確かに和人の苦しみ様はただ事ではない。
しかし、ここに救急車などを呼べば、すべてが露見してしまう。
田舎では救急車がやってくること自体が大きなニュースである。
そこに未成年者の事件がからんだりすれば、
(いけん。えらいことになる……)
こういう打算が先行するあたりが、この少年の性質を表している。
「なあ弘志、救急車呼んだ方がええじゃろうか」
良美はすでにスマホを手に持っている。
今にも指を動かしそうな勢いである。
現在自分のおかれている状況を考えれば、浅慮ともいえるが、この少女はひたすら、仲間の身を案じている。
弘志は目を合わせようとせず、黙っている。
その間も和人は身をよじり、呻き続けていた。
「なあ、どうする、弘志」
と良美が半泣きでいったときである。
気配を感じ、弘志は後ろを振り返った。
「おっ!」
全開した入口に森田修平が立っていた。
しずしずと自転車を押してこちらにやって来る。
着衣はちゃんと整えている。
修平はかげろうのように三人の横を通りすぎ、農道に出ると自転車にまたがり、一度も振り返らず、宝伝(ほうでん)方向へ走り去って行った。
何事もなかったように、中断されていた軌跡をなぞるように、ゆらゆらとその後ろ姿は小さくなっていった。
弘志と良美は虚脱したままこれを見送った。
やがて修平の影が小さな点になり、農業用水を跨ぐ太鼓橋の向こうに消えたとき、今の今まで地べたで悶えていた堀田和人が、むくっと四つん這いの身を起した。
「えっ! どしたん、かずちゃん?」
弘志が驚きの声をあげた。
「何ともないん、もう?」
良美も目を丸くしている。
「お、おう……」
和人自身、何がなんだか分からない。
さっきまでの痛みは嘘のように消えていた。
実は。
堀田和人は黙っていたが、脂汗をにじませ、身をくねらせながら堪えていたのは睾丸の痛みだった。
恥ずかしくて、とてもいえなかった。
「かずちゃん、転校生、帰ってしもうたよ」
「お、おう……」
そんなことはどうでもよかった。
和人は、睾丸に錐をもみ込まれるようなあの痛みが消えたことに、ただただ、ほっとしていた。
安らいでぽかんと口を開けた和人の表情は、どこか間が抜けていた。
鼻の頭に汗の玉が浮いた顔は、やはり、穴を三つ穿った埴輪だった。



二、若い女性

宝伝(ほうでん)海水浴場の砂浜は東南に向かい、三日月形に瀬戸内の浅瀬を抱いている。
海に向かって右端に、地元の人が亀の甲と呼んでいるもっこりとした岩場がある。
その亀の甲の上で、森田修平は二十分ほど前からクーラーボックスに尻を乗せ、目を閉じ、風に乗っかってくる様々な音を聞いていた。
修平は鳥の言葉が分かった。
砂浜の左端の鼻を越えると、修平が伯父夫婦と三人で暮らしている西宝伝の集落がある。
伯父の長男は東京に、下の長女は県北の真庭(まにわ)市にそれぞれ家庭を持っている。
修平がやって来たことは、寂しく暮らしていた老夫婦にとってはやっかいごとではなかった。
西宝伝の家並は壁を接するばかりにびっしりと密集していて、迷路じみた路地を作っている。
ほとんどの住まいは漁港周辺の一角に固まっているが、修平の家は、港の後背の丘陵地に広がる畑の奥にぽつんと離れて、村の全景とその向こうに広がる瀬戸内海を見下ろしている。
ぱらぱらと、そういう家がある。
いずれも新来の比較的新しい家だ。
夏の海水浴シーズン以外は閑散としている砂浜だが、今日は五月の連休だけあってかなりの人々が、浜のあちこちで、釣りやらバーベキューやらを楽しんでいる。
家族づれが多い。
ときどき子供の歓声が波間に響き渡る。
その砂浜を見渡しながら、
(今日はもう帰ろう)
と修平は思っていた。
修平の手には五、六十センチほどの長さの細い金属の筒が握られていた。
漁の道具である。一見すると吹き矢の筒のようである。
修平はこの筒を使って、磯づきの魚を狙う。
伯母は、
「ほんま、助かるわあ」
もろ手を挙げて修平の漁を喜んでいた。
というのも。
修平が家に持ち帰る獲物はハゼや小アジなどの雑魚ではなく、チヌにしてもカレイにしても、必ずといっていいほど、鮮魚店に並んでいるような立派な型のものだったからだ。
多少漁の心得がある伯父も、
「どねーなことをしとんか知らんけど、上手に獲るもんじゃ。せえに、ぜってえ、人数分獲ってくるしなあ。てーしたもんじゃ」
不思議がり、感心していた。
しかし今日のクーラーボックスは空っぽだった。
漁をしていない。
人の目が多すぎるのだ。
今修平がくつろいでいる亀の甲の尖端でも、五十年配の男が投げ釣りをしていた。
ブランドのロゴの入った赤いキャップをかぶり、二か所のスタンドにたくさんの竿を立てている。
ずんぐりとした体にいかにもという専用ベストを着けて、まるでだるまのようだ。
首に白いタオルを垂らし、しきりに汗をぬぐっている。
もともと赤ら顔なのか、手に持っている缶ビールのせいなのか、いやに顔が赤い。
立っているときも座っているときも、手から缶を離さない。
小さな砂地を挟み、ひとつ奥の岩場にも若い釣り人たちのグループがいた。
女性も混じっている。
竿は出しているが、にぎやかに飲み食いしている様子は、釣りというより野外パーティーといった方がいいかもしれない。
さらにその向こうの岩場にも似たような人々がいる。
海水浴場から外れた入江がこれほどにぎやかなことも珍しい。
細長い筒を使う漁は秘密の技だった。
その様子を人に見られるわけにはいかない。
本当は、鼻の峠から浜の景色が開けたとき、すぐに、
(今日はだめだ)
と、見極めをつけていたのだが、そのまま来た道を引き返す気にもなれなかった。
いつもの場所でいつものように……。
しばらくぼんやりしていたいと思ったのだった。
漁そのものよりも、そういう無為な時間の方が休日のアクセントになっていた。
この年齢の少年にしては、ちょっと変わっている。
波打ち際を小さな男の子がこちらに駆けて来る。
よたよたあぶなっかしく見えるが、転びそうで転ばない。
裸足で波を追ったり追われたり、ときどき後ろを振り返り、何か叫んでいる。
少し離れて、父親が小さなビーチサンダルを提げてついて来る。
すぐ後ろで赤ん坊を抱いているのが母親だろう。
満ち足りた笑み。
ありふれた家族の構図だった。
が……。
もう一人。
夫婦の後ろにぴたりと、女が一人つき従っていた。
しかし……。
ちょっと動けば汗ばむほどの五月の陽気の中、彼女は厚手のセーターを着て、首にはマフラーを巻いている。
ブルーのひざ丈のスカートも厚手のウールで、足元は、なんとロングブーツという出立ちである。
異様といっていい。
なのに……。
誰一人彼女に注目している者はいない。
一行は修平のいる岩場に上がって来た。
「ちぇ」
修平は舌打ちした。
「気持ちいい風。あの島、人が住んでるのかしら」
赤ん坊を抱いた女がいった。
女は岩の出っ張りに腰を下ろした。
男も隣りに座り、尻ポケットからパンフレットのようなものを取り出し、
「犬島だな、あれ。ここはいい風が抜けるねえ」
男の子はぽかんと口を開け、赤いキャップの釣り人を珍しそうに観察していたが、突然、我に返ったように身を反転させ、両親の間に無理やり小さなお尻をこじ入れてきた。
「もう、暑苦しいよ、卓也」
男は少し尻を移し、子供を入れてやった。
「ねえ、お昼、どうする。よいしょっと……」
寝入って重くなった赤ん坊を抱き直しながら、女がいった。
「何か食いたいもん、ある?」
「ねえ、前島に渡ってみない。なんとかって海鮮のレストランがあるっていってたじゃない、ホテルの人」
彼らが宿泊している牛窓(うしまど)のホテルのすぐ近くにフェリー乗り場があり、数百メートルの水道をはさんで前島が横たわっている。
「いいよ、ボートで行く?」
一家は牛窓港にクルージングボートを所有している。
「フェリーでいいんじゃない。卓也、お船、お船っていってたじゃない。ねえ卓也、フェリー乗りたいのよねえ?」
「フェリーって何?」
「お船よ。車を乗っけてたでしょ。ホテルの窓から見てたやつ……」
「乗る、乗る、フェリー乗る……」
男の子は興奮し、にわかに立ちあがると、
「お船、お船……」
と鼻声を出しながら、父親の手を引っぱり始めた。
この間も、マフラーの女は男の背にはりつくように立っていた。
近くで見ると若い。
「なんだか背中がぞくぞくするわねえ」
ふと、女がいった。
実際、身震いしている。
「うっそ。こんなに暑いのに……。もしかして、風邪でもひいた?」
「そうじゃないと思うけど……。何かしらね」
「ほら、優子にうつすとやばいじゃん。抱こうか?」
「ううん、大丈夫」
修平はマフラーの娘をちらと見た。
目が合った。
「ちぇ」
修平はすぐに目を逸らし、また舌打ちした。
「さあ。フェリーだ、フェリーだ。前島に行って、昼飯、昼飯……」
「ひうめし、ひうめし……」
男の子が、たどたどしく父親の真似をした。
「ひうめし、ひうめし……」
今度は男のほうが、幼い我が子の口まねをしながら立ち上がった。
女も笑いながら立ち上がった。
四人は岩場を下り、駐車場のほうへ去っていく。
なのに……。
マフラーの娘は、一人動かない。
しかも……。
いつの間にか、彼女は修平のまん前に立っていた。
修平はクーラーボックスに座ったまま、憮然と座っている。
うつむいていても、修平の目は娘のブーツをとらえているはずである。
なのに、顔を上げようともしない。
間近から凝視されて動揺する様子もない。
「見えるのね」
娘がいった。
「めんどくせ」
修平は見向きもせず、ストラップのついたタモを背中に斜め掛けし、クーラーボックスを提げて、さっさと歩き出した。
「私は松下梨絵。話を聞いて……」
修平は見返りもしない。
娘を置き去りにし、さっさと岩場を遠ざかった。
修平が鼻の峠にさしかかったとき、背中で大きなクラクションが鳴った。
びくりとして振り返ると黒いSUVが、すぐ後ろに迫っていた。
さっきの一家が乗っているのがわかる。
運転席の男が片手を払って、どけと合図している。
修平はむっとした。
ちゃんと道の右端を歩いている。
図体の大きい車だが、十分に横を通過できるはずである。
修平は無視して、今まで通りの軌道を歩いた。
たちまち、せっかちなクラクションが立て続けに威嚇してきた。
修平はまた立ち止まり、車のほうを見た。
男はウインドウを開け、
「きみぃ、もう少し端に寄ってもらえなかなあ。ボディーの左側がくさむらに当たって擦れるんだよね」
うっとおしそうな顔だ。
異常な陽気で、雑草や灌木の枝葉が勢いよく路肩からせり出して来て道幅を狭めている。男はそれを嫌っているのだ。
(ばかばかしい)
とは思ったが、修平は路肩の草の中に二三歩入ってよけてやった。
が、男の顔を真っすぐ見据え、鏡のように磨き上げられた車体と見比べ、
「ふん」
と肩を揺すった。
そんなに大事な車なら、
(わざわざこんな田舎道に入って来んなよ)
そんな顔色を男は読み取ったらしい。
修平の真横に車を止め、
「かわいくないガキだなあ」
低く毒づいた。
「あなた、やめときなさいよ。行きましょ」
助手席の女がなだめた。
それでも男はなかなか気持ちが治まらないようで、
「田舎のがきはとろくていやだねえ」
吐き捨てるようにいった。
申し分のない外見にそぐわない下品な暴慢がほの見えた。
修平の眼が白く光った。
男がブレーキペダルから右足を浮かせかけたとき、修平はすすっと車に歩み寄り、男の耳元に顔を近づけ、
「人殺し」
とささやいた。
みるみる男の顔から血の気が失せていった。
修平はにやりと笑い、もうすたすたと歩き始めていた。
車が修平を追い抜いていった。
追い抜きざま、男は、ぎろりと修平を睨んだ。
後部座席には、男の子と一緒にマフラーの娘が座っていた。
娘はずっと修平の方を見ていた。
「ふん」
修平は足元に唾を吐いた。
緩い下りカーブの向うに車が見えなくなったとき、修平は奇妙な行動をとった。
きょろきょろと周囲を確認すると、手に提げていた黒い筒を唇に当てがい、たった今車影が消えたカーブに向かって、
「フッ」
と軽い息を吹き込んだ。
何かが飛び出したわけでもない。
それだけのことをすると、修平は何事もなかったように、また歩き始めた。
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
変な歌を口ずさむ修平の顔に、白い笑みが浮いていた。
坂を下り切り、しばらく行くと、道はT字路で県道にぶつかる。
その角っこが宝伝海水浴場のバス停になっている。バスが停車できるようにかなり広い路肩をとっている。
そこに一台の車がハザードランプを点滅させて止まっているのが見えた。
男が一人、車の外で何やら作業をしている。
さっきの男だ。
パンクらしい。
男は左の後輪をジャッキアップし、だくだくと汗を流し、タイヤを外そうとしている。
修平は立ち止まり、男の背中を見降ろした。
不器用な作業だ。
昨日今日免許を取ったわけでもあるまいに、タイヤ一つ外すのに大汗をかいている。
気配を感じたのか、男が振り返った。
目が合った。
修平の口元が笑っている。と、男は思った。
悔しそうに片頬を引きつらせ、ぷいと顔をそむけた。
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
修平は県道を横切り、畑中道に入っていった。
男は再びタイヤと格闘を始めた。
まったく工具にもてあそばれている。
そのまま作業を続けていればよかったのだ。
が……。
何を思ったか、突然男はレンチを放り出し修平を追いかけた。
男が、
「おい」
と呼びとめたとき、修平はやはり笑みを浮かべていた。
肩で息をしている男に、
「あーあ、来ちゃったんだ、やっぱ。しつっこいね、おじさんも…」
修平は迷惑そうな顔をしたが、どうしようもない嬉しさをかみ殺してしるのが分った。
「人殺しってどういうことだよ」
胸にひっかかっていたのはこれである。
「ちょっとクラクションを鳴らしただけだろ。それを……」
(子供が大げさな言い回しをしただけだ。深い意味などありはしない……)
と男も思っていた。
思ってはいたが、胸中に小さな亀裂を生じていた。
(あの笑いのせいだ)
と男は思った。
修平は少し首をかしげ、男を無視したようにあらぬ方を向いていたが、
「人殺し」
とまた投げつけるようにいった。
男は、
「うっ」
と言葉につまった。
不意を衝かれ、何かが顔に露出した。と、男は思った。
また修平はにやりと笑った。
「知ってるよ」
と、少年の目は語っている。
(いや、あり得ない。考えすぎだ)
と分ってはいた。
しかし、亀裂は大きくなっていく。
「人殺しってどういうことだよ」
訊いてしまっていた。
我から小さな裂け目の中に指を突っ込んだような気がした。
修平は面倒くさそうに口を開いた。
「訊かないほうがいいんじゃないですか、おじさん。どうしてもっていうんなら話しますけど……」
遊んでいる。
男はたじろいだ。
事態は恐れている方向に向かっている。ような気がした。しかし、
(ぜったいに、あり得ない)
行きずりに出遭った少年が、
(おれの何を知っているというのか……)
男は少年の表情をうかがった。
また修平は、男を無視したように、男の肩越しにどこか遠くを見ていた。
(絶対にあり得ない)
男は自分にいいきかせた。
「何、もったいぶってんだよ。今日初めて会ったばかりで、君はおれの名前すら知らないだろう。いいたいことがあるんならいってみろよ。聞いてやるよ」
威圧的な声になっていた。
修平は、ふん、と肩を揺すった。
「ほんとにいっちゃっていいんですか?」
(このガキ、楽しんでいやがる)
 男の頭に、かっと血が上った。
「いいからいってみろよ」
唸るような声である。
握りしめた拳が震えている。
「ほんとですか? おじさん、ぜったい後悔しますよ」
どうしようもなく吸い込まれていく。
「いいから、いえよ」
また、修平は男の肩越しに何かを見た。そして、
「おじさんの車にね、白いマフラーを巻いた女の人が乗っていますよ。後ろのシートです。ぼくちゃんの横。今もこっちを見てますけど……」
男は思わず自分の車を振り返った。もちろんそんな女は乗っていない。
「見えませんよ、おじさんには。奥さんにも、ぼくちゃんにもね……」
修平はにやにや笑いながら、
「なかなかかわいらしい人ですよ。ぼく、女の人の年齢はよく分かりませんけど、そうですねえ、彼女、社会人じゃないですね。着こなしとかがね……。多分、大学生じゃないですか。重歯があって、ショートカットで……。右目の下に泣きぼくろがあります。ちょっとタレントの香里奈に似てるかも……」
みるみる男は蒼白になった。肩で荒い呼吸を始めていた。
「あ、それからあの女の人の名前ですけどね……」
「名前?」
「さっき、浜の岩場の上で名乗りましたよ、ぼくに。確かね、松下梨恵っていいました。尋ねてもいないのにね。ぼくもうっとうしいんですけどね、そういうの。あの人、ずっとおじさんの後ろをついて歩いてますよ。ほら、もうおじさんのすぐ後ろに立ってる」
男はぎょっとして後ろを振り返った。
もちろん何も見えない。が、
脇腹を冷たい汗が伝い落ちていた。
「あなた」
男の妻が呼んでいた。
車の外に立ち、心配そうにこちらを見ている。
(くそっ)
早くパンクを直さなければならないが、もうそれどころではない。
ぎりぎりの状態だった。が、かろうじて自分を制していた。
(なんでこいつが……)
松下梨絵の名を知っているのか。
(いや……)
あり得る。
ひところマスコミが大騒ぎした名である。問題は、
(松下梨絵とおれを、いったいどうやって結びつけたのたか)
そこである。
(しかもこいつは、松下梨絵の顔の特徴やあの日の服装まで知っている)
男は訳が分らなかった。しかし、
(とにかく……)
この少年をこのまま行かせるわけにはいかなかった。
(どうするか……)
男の脳細胞の中を、驚くべき速さで無数の微弱パルスが駆け巡っていた。
(少なくとも……)
この場でどうこうすることはできない。
ならば最低限、少年の身元を確認しておかねばならない。
(後は……)
それからのことだ。
追い詰められた状況の中で、よく頭の回る男だった。
この素質はこれまでおおむね、男の人生に利得をもたらしてきた。
これまでは……。
「君さあ……」
と、男は振り返った。
猫なで声に変わっていた。
「近所に住んでるんだよねえ……」
といいかけて、男は、
「あっ」
と息を呑んだ。
「いない!」
少年の姿がどこにもないのである。
「ばかな……」
いったいどこに消えてしまったというのか。
男はきょとんとあたりを見回した。
「ねえ、あなた」
また妻が呼んだ。
「ああ、いま行く」
やっと我に返り、車に向かってのろのろと歩き始めた男の胸中に、一つの決意が形を成しつつあった。




三、 廃屋 
 

ペットボトルやポテトチップスなどの詰まったレジ袋を提げて、石田弘志が別荘に戻ってみると、どうしたのか堀田和人の姿はなく、横山良美はピクニックシートの上に長々と身体を伸ばし、いびきをかきながら正体なく眠っていた。
酔っぱらっているのだ。
宝伝海水浴場の背後の谷あいに立っているこの別荘は、岡山出身で、西宮で畳店を経営していた人の持ち物だったが、その人が五、六年前に亡くなると、以来、人手の入らぬままに放置され、昨今は荒れ放題になっていた。
去年の暮ころからそこへ、堀田和人たちがこっそり侵入し、ときどき溜まり場として利用するようになっていたのだった。
悪ガキどものたまり場なら田舎なりに繁華な町場の方が刺激があってよさそうなものだが、学区の中でも特に鄙びたこんな場所にたまるのは、リーダー格の堀田和人がここ宝伝に住んでいるからだ。
非行もどこか鄙びている。
堀田和人の家がある東宝伝は、森田修平の西宝伝の東隣りの集落になる。
宝伝海水浴場は西宝伝のさらに西に位置する。
侵入といっても、別にドアをこじ開けたわけでもなく、元々古くて痛みもひどかった建物が、人の手が入らなくなると、たちまち荒れ始め、窓は破れ、ところどころ瓦も飛び、草莽に埋もれ、それこそ幽霊屋敷のようになっていた。
その廃屋に今朝から、堀田和人、石田弘志、横山良美の三人が集まり、堀田が持ってきた焼酎をコーラやジュースで割り、いっぱしに「飲み会」を開いていたのだ。
飲み食いを始めたのは午前十時くらいだったろうか。
それぞれが持ち寄ったものは、焼酎以外は、あっという間に育ち盛りの胃袋の中に消えてしまった。
こんなとき、きまって弘志がぱしりになる。
堀田和人が空になったボトルを振りながら、
「弘志、わりいけど、頼むわ」
といえば、弘志はすぐに立ち上がらなければならない。
ぐずぐずしていると、やばいことになる。
「かずちゃん」
と声をかけながら、弘志は敷居を一歩またぎ、奥の部屋へ首を突っ込んでみた。
いない。
仕切りの引き戸などとうにない。
こちらは雨戸を締めきっているのでうす暗い。
かびた臭いが鼻を刺した。
靴の下で、畳がふにゃりと沈み、弘志は背筋にぞくっと悪寒を感じた。
臆病な質である。
トイレや風呂場ものぞいてみた。
いない。
あとはがらくたをぎゅうぎゅうに詰め込んである納戸があるだけで、そこは猫の入る隙間もない。
堀田和人はいったいどこへいったのだろう。
弘志は良美の横にしゃがみ、
「横山、おい、横山……」
と呼びかけながら、指先で良美の肩のあたりをつっついた。
ぷにゅっと柔らかな少女の感触だった。
良美は一瞬いびきを止め、わずかに頭を動かしはしたが、まったく目覚めそうにない。
口の端からよだれを垂らしている。
そのよだれを指でなぞってみた。
じーんと、体の芯が振動した。
弘志が立ち上がり、一斗缶に腰を下ろす間に良美はもういびきを再開していた。
ジュースの風味にだまされて、飲み過ぎたのだろう。
アルコールに免疫のない未成年者がはめを外せば、えてしてこういうことになる。
(どうしようか)
と、弘志は思案した。
といっても……。
弘志に選択肢はなかった。和人が帰ってくるまで、
(待っとるしかねえ……)
今、自分が買ってきた菓子やジュースだって、先に手をつけるわけにもいかない。
「どしたんなら、食うとりゃよかったのに……」
と和人はいう。
だが……。
(もし先に、菓子やジュースに手をつけたりしたら……)
「なんなあー、一人でやりょうったんか……」
と、和人は刺すような目で弘志をにらむ。に、ちがいない。
「ちぇ」
弘志は大きな息を吐いた。
今日だって本当は、和人から召集がかからなければ、家族といっしょにイオン倉敷へ出かけるはずだったのだ。
両親が買い物をしている間、弘志と妹はシネコンでそれぞれ好きな映画を見る。
「ふうー」
また弘志はため息をついた。
「なんなー、これ」
尻の下の一斗缶を踵で蹴った。気持ちばかりイラつく。
仕方なく、弘志はズボンのポケットから携帯ゲーム機を取り出した。
妙なものでいったんゲームを始めるとすぐに夢中になってしまい、さきほどまでの胸のもやもやなど嘘のように忘れ、あっという間に三十分ほどの時間がすぎていた。
弘志は、ふと手を止め、
(何時だろう)
と思った。
時計を持っていない。
弘志は足元に転がっている良美に目をやった。
よだれが白く乾いていた。
ケータイを持っているはずである。
しかし、意識もなく眠り込んでいる。
どこにケータイを入れてるだろう。
弘志は良美の体をじっと眺めた。
良美は今日はスカートではなかった。
下は黒いジャージーで素足だった。
爪は何を塗っているのか光沢がある。
おそらく百均コスメだろう。
ポーチにじゃらじゃら入れて、いつも持ち歩いている。
上は、横文字のロゴが入ったスウェット。
小柄な良美にはだぶだぶである。
ツーサイズは大きいようだ。
それともこんな着こなしも子供なりのファッションなのだろうか。
目の覚めるようなピンクだったが、胸のところに茶色の大きなしみをつくっていた。
酔って、飲んでいるものをこぼしたにちがいない。
遠慮がちにそんな観察をしていた弘志の目が次第に厚かましくなってきた。
誰もいない安心感だろうか、良美の体の起伏をべったりと舐めるような目だった。
突然、何かが突き上げてきた。
弘志は誰もいるはずのない室内をきょろきょろ見回した。そして、
ごくりと唾を飲み込み、良美の顔の横にしゃがむと、
「おい、横山」
と、小さな声で呼んだ。
起こすためではない。
起きないことを確かめたのだ。
良美は一定のテンポで鼻を鳴らしていた。
その音に合わせ、二つの胸の膨らみも、規則正しく上下している。
発育のいい大きな胸だった。
弘志はもう一度唾を飲み、きょろきょろと無人の空間を見回してから、眼前に息づく膨らみに、そうっと掌を持っていきかけて、さっと引っ込めた。
また後ろを振り返った。
誰かに見られているような気がして仕方がなかった。
小心なのだ。
が、欲を抑えられない。
弘志は乾いた唇をなめた。
心臓が早鐘を打っているのが分った。 
大きく息を吸い、吐き、今度は向うの膨らみに手を伸ばした。
広げた五本の指が小刻みに震えていた。
が、柔らかな温みに触れた瞬間、嘘のように震えはぴたりと止まった。
弘志はちらと良美の顔を見た。
(大丈夫だ)
弘志は少女の胸にあてがった指をためらいがちに動かし始めた。
良美は小柄なほうだったが、手に余るほどの乳房はスウェットの下から弘志の指をしっかりと弾き返してきた。
生まれて初めて、弘志はこのように異性の身体に触れたのだった。
後頭部に燃えるような痛みを感じた。
一方、股間のそれは、ズボンの中で、すでにはじけそうに張りつめていた。
この瞬間、
(もし、良美が目を開けたら……)
そして、和人に知れるようなことになったら……。
ない交ぜになった恐怖と背徳感は、気の遠くなるような陶酔だった。
またいではいけない何かを、
(越えつつある)
と、弘志は感じていた。
しかし、もう止まらない。
かといって、意識のない少女を犯してしまおうとまで考えていたわけではない。
この少年にそんな度胸はない。
弘志は良美の腹の上に膝をついてまたがり、両の乳房をもみしだいていたが、ふとその手を止めた。
酔ったように目が熱を帯びている。
何か考えているように見える。
また良美の脇にしゃがみ、ためらいがちにピンクのスウェットに手を伸ばした。
裾を少したくし上げると、少女の肌がまぶしかった。
ジャージーのウエストのひもに指をかける。
心臓が破れそうだった。
(脱がせる)
何度も何度も夢想した行為が現実に展開され、それを為しているのは自分自身だった。
あまりの生々しさにまた指が震え始めていた。
弘志は息を止めるようにして、ゆっくりゆっくりと、
(衝撃をあたえたらいけん)
細心の注意を払いながら、とうとう、ジャージーを膝下までずり下げてしまった。
もともと良美は色白だったが、日に当たっていない太もものあたりはひときわ白く、まばゆいばかりだった。
良美は今日は無地のレモン色のショーツをはいている。
(かずちゃんはもう良美とやったんじゃろうか……)
そんなことを考えると、ぴくり、と股間が脈動した。 
弘志はおそるおそる指を伸ばし、そっとレモン色の中心に触れた。
生地をとおして伝わってくる湿度と温みは、想像していたものとは違っていた。
どちらかというと不気味だった。
だが、そんなおののきもたちまち何かに上書きされ、浸され、溺れていった。
弘志はごくりと緊張を飲み下し、ショーツに指をかけた。
良美の息遣いに注意しながら、少しずつ、少しずつ引き下ろしていく。
鼻っ面は良美の肌に触れんばかりになっており、少女の放つほのかな女の匂いに、弘志はむせかえりそうだった。
そしてやっと……。
薄くカールした陰毛と少女の局所があらわになったとき、弘志の額には玉のような汗が浮いていた。
それが、ぽとり、と一滴、良美のへその下へ落ちた。
(あっ!)
と思った。
落ちたしずくは、すすっと下腹部の窪みをころがり、生えそめたばかりの陰毛の中へ吸い込まれていった。
「ぐうっ」
と、弘志は気道を鳴らすようにうめいた。
くいと首(こうべ)を上げたとき、両目にほの暗い火が点灯していた。
また新たなスイッチが入ったらしい。
弘志は膝立ちになり、もどかしげに腰のベルトを外しにかかった。
ズボンとトランクスを一緒に引き下ろす。
そして、痛いほどに張りつめていたそれを左の手に握りしめるや、追い立てられるようにしごき始めた。
らんらんと輝く目は、少女の肌を舐め回している。
弘志はもう一方の手を良美のスウェットの下にすべり込ませた。
薄い汗をかき、少女の肌は指に吸いつくようだった。
律動はだんだん激しくなる。
弘志は手を這わせ、ブラジャーの下に差し入れた。
思いのほかひんやりとした乳房だった。
(でけえ)
仰向いていても流れない若い乳房は洋服の上からは分らない量感だった。
弘志は痛みを与えないように、そっともみ始めた。
指の間に乳首が立ち上がってくるのが分った。
(こうゆうことだったんだ)
と、驚嘆しながら、弘志は二本の指先に小さな突起をつまみ、くりくりと弄んだ。
と、少女の身体がぴくりと震えた。
身をくねらせ、何かうわごとをいったようだった。
「はっ!」
として弘志動きを止め、しばらく良美の様子をうかがっていた。が、
良美はまた元のリズムでいびきをかき始めた。
(起きりゃせん……)
と分ると、大胆になった。
左手はさらに烈しいピストン運動を再開し、右手は少女の乳房をわしづかみに揉み始めた。
爪跡が残るかもしれない、と考える余裕などなかった。
弘志は目を閉じた。
ときどき情けなく鼻を鳴らし、歯をくいしばるようになっていた。
耐えているのだ。
方や、手指に伝わる乳房の感触は、
(この先はもうないのか?)
という味気なさになっていたが、頭は、自分が中心にいる卑猥な絵柄に興奮し、痺れたようになっていた。
「はああ……」
息とも声とも分らぬものが、弘志の鼻と口から洩れた。
破裂寸前の状態に来ているようだ。
その瞬間を望みながら、同時に少しでも先へ押し戻そうと、弘志は必死にもがいていた。
思春期の少年の甘美で虚しい営みだった。
しかし、容赦もなくその時はやってきた。
「うっ」
と気息を漏らし、ぐったりと力尽きた。
しかし右手は、なお激しく少女の乳房を揉み続けている。
遠い目は、通り過ぎ、自分を置き去りにしていった何かを追慕しているようであった。
気息とともにほとばしり出たものは、良美の顔からスウェットの胸のあたりにかけて濃厚な軌跡を残していた。
ややあって。
弘志はポケットティッシュを取り出し、ことの始末にとりかかったのだが……。
その様子を息をひそめ、破れた窓の隙間からじっと見つめている二つの目があった。
森田修平である。
修平は枯れ木のように壁際に立ち、ことの一部始終を見届けていたのだ。
弘志は引き下ろしたショーツとジャージーを元に戻し、今は四つん這いになって良美の上半身に覆いかぶさり、ティッシュを丸め、良美の顔から己れの欲望の残滓をぬぐいとっていた。
白濁したそれは、良美の鼻の穴を片方ふさぎ、唇にもかかっていた。
息を詰めた繊細な手の動き。
これ以上ない集中力を感じさせる真剣なまなざし。
国宝美術を修復している特殊技能者のようでもあった。
寄ってそこだけ注目すれば崇高にも見え、退いて全景を眺めれば、一つの戯画だった。
これを眺めながら、修平は口元に得体の知れぬ笑みを浮かべていた。




四、 殺し屋


一時間ほど前。
弘志を買い物にやってから、堀田和人は部屋の南の窓を細く開け、双眼鏡で海水浴場を眺め下ろしていた。
景色ではない。
人を見ている。
レンズによって拡大され、引き寄せられた人々は、自分が見られていることを知らない。
「見られとらんと思うとる」
とき人は、
「サルとおんなじじゃあ、へへへ」
下着のぐあいを直したり、鼻くそをほじったり、妙齢の手弱女も平気であごが外れそうな大あくびをする。
和人たちはかわるがわる双眼鏡をのぞき、めいめいの発見を実況中継し、奇声をあげ、笑い転げ、飲み、食い、うす暗い廃屋の胎内でばか騒ぎをしていたのだった。
良美は小さな壜と刷毛を持ち、足の爪に何かを塗っていた。
「ああもう、失敗じゃあ。またはみ出れしもうたわ」
酔っていてうまく塗れないのである。
良美はグレープフルーツジュースで焼酎を割ったものを、
「すっごい美味しい。ぜんぜんお酒飲んどる感じがせん」
といって、立て続けに何杯も飲んでいた。
「ばか、そんな勢いで飲んどったら、後でくるぞ」
和人は注意したが、和人や弘志たちのように飲酒経験のない良美は、後で自分がどういうことになるかという分別もなく、立て続けに紙コップを口に運び、塩分の濃いスナックを食べてはまた飲むということを繰り返した。
やがてジュースと菓子がなくなり、手持ち無沙汰になった良美は、こうして足の指に透明マニキュアを塗っているのだが、血中を巡るアルコールのため、手先だけでなく、先ほどから呂律もあやしくなってきていた。
「あっ、転校生じゃ!」
和人は双眼鏡に目を当てたまま、頓狂な声をあげた。
「良美、転校生が歩いとる。捕まえに行くでえ。もしかしたら今日はあいつ金、持っとるかもしれんでえ」
「もいたがおるん?」
もりた、といえない。
「おお。クーラーとほせえ筒提げて歩いとる。ラッキーじゃ。あいつ、ぜってぇー、学校には、金、持ってこんからなあ」
あの後も、和人は何度か修平を捕まえ、金を脅しとろうとしたが、いまだに目的を達成できていなかった。
あの日、納屋で起こった怪異な現象を、和人は修平と結びつけてはいない。
どころか、いったんのど元をすぎてしまうと、怪異、という疑いさえ霧消してしまったようだ。
その後も修平を無抵抗な獲物としか見ておらず、一度など、修平を地面に仰向けに寝かせ、弘志と二人で左右から顔めがけて小便をかけたこともあった。
何をされても無反応な修平に、
「あいつぁ、いじめても面白うねえ」
と、このごろは和人たちも加虐者としての関心を半ば失いかけていた。
「今日は持っとるかもしれんでえ。まさかおれに見られとるとは、思うてねえじゃろうなあ、あいつ、ひひひ。ひょっとしたらカラオケぐらい行けるかもしれんで、へへへ。行くでえ」
和人に促され、良美は立ち上がろうとした。のだが……。
尻を持ち上げた途端、すとんと腰がくだけ、ぺちゃんと床にへたり込んでしまった。
「立てん」
へらへらと弛緩しきった笑い。
「しゃーからゆうたろうが……、がばがばやったら、そうなるんじゃ、あほうが」
和人は舌打ちした。
「しゃあねえのう。おめえはここで待っとれ。おれ一人で行ってくるから」
「独りでおったら怖いが、こんな幽霊屋敷……」
良美は心細そうにいったが、
「足が立たんのじゃから、仕方なかろうが。ぐずくずしとったら、転校生がおらんようになるじゃねえか。大人しゅう待っとれ」
和人はさっさと出て行ってしまった。
ゴールデンウィークも最終日のせいか、今日は砂浜の人影もぽつりぽつりという感じだった。
しかし、亀の甲には昨日と同じように釣り人が竿を出していた。
ここは潮目に突き出した地形から好まれるポイントなのだ。
修平は仕方なく釣り人の背中を尻目に亀の甲を通り過ぎ、いくつかの崖を巻いて、入江の奥に入って行った。
足場の悪い岩場を三つ四つ超えると、さすがにもう人影はない。
崖ひだに遮られ、亀の甲の釣り人からもここは見えない。
(だれも見ていない)
それが肝心だった。
修平は意識の先端を海中に差し込みながら、磯の岩場を渡り歩いた。
手にはいつもの筒を握っている。
ぴょんぴょん、身軽に跳び移りながら、芋虫のような形をした細長い岩の背にたどり着いた。
この岩はすとんと海中へ切れ入っている。
巨大な芋虫が海面下に頭をつっこんでいるように見える。
修平はその先端に足を滑らせないように慎重にしゃがみ、じっと水中を窺った。
前にこの場所で大型のチヌを仕留めたことがある。
五感を研ぎ澄まし、静止する。
頭の芯から宇宙のしじまが広がってくるような、楽しい緊張の時間である。
やがて……。
大小無数の生命の波動を感知する。
崖の上で赤松を渡る風の音が聞こえた。
と、そのとき、
「ぼく。なんか獲れるんか」
ぶしつけな人声が割り込んできた。
驚いて振り返ると、十メートルほど離れた平坦な場所に男が立っていた。
白いスラックスにブルー地のアロハを着ている。
漁に集中していたので修平は、人が近づいてきたことにまったく気づかなかった。
男は四十年配だろうか。
中背で全体ぽっちゃりとしている。
ふっくらと血色のよい丸顔に薄い下がり眉。
人のよさそうな笑みを浮かべて、
「ぼくなあ、これ、あげるわ。今日もあっつい、あっつい」
突き出した手に缶コーラを持っていた。
もう一方の手にも同じ赤い缶を持っている。
いかにも気安げである。
「あんな、向うの、海水浴場の自販機で当たりが出たんよ。もうけたわ。一つ、ぼくにあげるわ、ふん、これ」
と男は缶を持った手を修平の方に突き出した。
(もらっとくか……)
ちょうどのどが渇いていたし……。
修平が、男のほうへ一歩踏み出そうとしたとき、
「ダメ!」
耳元で大声が怒鳴った。
続いて、目の前に若い女の姿が浮かびあがった。
白いマフラーを巻いている。
昨日の娘だ。
娘は修平のすぐわきに立っている。
が、そこに岩はない。
つまり、娘は海面上に浮かんでいることになる。
「ちっ」
修平はうっとうしそうに娘を見た。
「ダメ! あのコーラ、毒が入ってる」
と娘はいった。
〈声がでけえよ〉
といっても、修平にしか聞こえていない。
「この男、あなたを殺しに来たのよ。あいつの仲間よ」
〈あいつって誰だよ〉
修平は唇を動かしていない。
「医者よ。神戸の佐々木美容クリニック」
〈お前、医者に殺されたのかよ〉
修平は馬鹿にしたように笑った。
「逃げて。恐ろしい男よ」
「ふん」
修平はいったん娘から目をそむけ、
「消えろよ」
というなり、
「ふうっ」
と、娘に向かって羽毛を払うようにかすかな息を吹きかけた。
途端、娘の姿は修平の視界からかき消えた。
「ぼく、何やってるの?」
男は不思議そうに修平を見ていた。
もとより、男には娘の姿は見えていない。
あらぬ方に向かってつぶやいている修平の挙動は、さぞ奇妙に映ったことだろう。
修平は男のほうに向きなおり、
「おじさん、手に持ってるコーラ、二本とも同じ?」
意地悪く笑っている。
「ふん、おんなじやけど……」
すましたものだ。
「じゃ、悪いけど、左手の方のをもらえますかあ。右のはおじさんが飲んでください」
「ええ? 何こだわっとるの。どっちでもおんなしやろ」
みじんも動揺しない。
にこにこ笑っている。
「同じなら、おじさんが右のやつ、飲んでくださいよ。おじさんこそ何こだわってるんですかあ。もしかして、毒でもはいってるとかあ? んなわけないですよねえ」
毒、と聞いて男の顔から笑みが消え、針のような視線で修平をにらみつけた。
そんな変化を気にも留めず、
「あっれえ、もしかして図星だったんですかあ。んな分けないですよねえ?」
にやにや笑っている。
男の頬が、ひくりと痙攣した。
先ほどまでとは別人のような狂暴な顔つきになっている。
今にも飛びかからんばかりである。が、
修平は平気な顔で、
「おじさん、自分で飲めないもんを人に勧めちゃだめでしょうよ。基本エチケットですよ。それとも……。ひょっとしておじさん、社会の常識とかモラルとかの外で生きてる人なんですかあ?」
大の大人をなめきったいいようである。
挑発しているようにも聞こえる。
ところが。
男は険しい顔を急になごませると、
「ははは……」 
急に笑い出した。
「かなんなあ、ぼくには。しやけどな、大人しゅう、これ、飲んどったほうがええ思うで。そのほうが、ぼくも長いこと苦しまんですむしな。わしもでけたら、血い見とうないし。な、ぼく、これ飲んどきて」
男は右手を突き出した。
優しげな表情のまま、とんでもないことをいっている。
不気味だった。
周囲に人気はない。
十四歳の子供なら怯えていい。はずである。
ところが。
修平は、にたにたしながら、
「おじさん、真っ向勝負に切り替えですねえ。
じゃ、ぼくも真っ向勝負でいきますよお。
津田恒実みたいに。
へへへ、付き合いってやつですよ。
でもその前にね、おじさんにね、一つ忠告しといてあげます。
ぼくみたいな小僧からこんなこといわれると、プライド傷つくかもしれないけど……。
あのね、おじさん、今日はたぶん、遠路はるばるぼくを訪ねてきてくれたんだと思うけど、悪いこといわないから、そのままコーラ持って、おとなしくここから消えてください。
去る者は追わず。
これ僕のポリシーですう。
弱い者いじめしたくないし。
黙って帰るんなら見逃してあげますよ、ね、どうですう? 
でも、そういうわけにもいかないんでしょうねえ、立場上。
顔に書いてありますよ。
いくらもらったんですう、あの男から?」
ほんの一瞬、男の表情がこわばった。ように見えたが、
「さあ、なんのことやろなあ。
それにしても、ぼく、おもろいことゆうなあ。
弱い者いじめ? 
見逃してあげるて……。
ははは、どういうこと、それ? 
もしかしてぼく、そんなひょろいからだして、ボクシングがなにかやっとんの? 
せやなかったら、わし、よっぽどなめられとんやろか? 
あんな、おっちゃん、こんな庶民系の顔しとるけどな、ほんまはけっこう怖い人なんやで。一応プロやしな。
分る? 
プロ。
何のプロかは、ちょっといわん方がええ思うけどな。
子供には刺激強すぎるからな。
けど、分るやろ、なんとなく。
こういう状況やし。
でな、ぼく。
なに見逃してくれるのん? 
おっちゃんに教えてくれる? 
どうでもええっちゃ、どうでもええんやけど、こんなん初体験やから、ちょっとだけ興味あるわ、ははははは。
その代わりな、もし教えてくれたら、できるだけ、苦しまんように逝かしたるわ。
ま、取引やな、これ」
へへへ、と男は口の左右にえくぼを作り、思わぬ愛嬌を見せている。
こんな顔も武器の一つなのかもしれない。
「どうしても知りたいですかあ?」
「ふん。教えてほしなあ」
「やめた方がいいと思いますよ。
ぼく、普通の子供とちょっと違うんですけどぉ……。
おじさん、あの先生から聞いてないんですか、ぼくのこと? 
プロなんですよね、おじさん。
標的の戦力分析って大事でしょうよ。
違いますう?」
修平は楽しんでいる。
「聞くんはな、必要な情報だけ。
始末つけるもんのこと、ぎょうさん聞いてもしゃあないやん。
せやろ。
ほんまは、こんなことしゃべらんのやけど、ぼくは特別や。
なんかおっちゃんのこと、わくわくさせてくれて楽しいからな。
サービスやな」
「楽しいですかあ?」
「そら楽しいわ。
おっちゃんに狙われたもんはみんな怯えた目ぇするのに、ぼくは子供のくせに妙に余裕こいてるやろ。
なんでーって感じ。
不思議やねえ、ほんま。
どんなサプライズがあるんやろ。
どきどきやわ」
「そういわれると、なんか、ぼくも楽しくなってきました。
ぼく、普段はほんとに無口な少年なんですけどね。
なんでだろ……。
おじさんとぼくには共通点があるからかなあ。
妙に親しみ感じちゃいます。
分りますう、何のことだか?」
「さあ、分らんなあ。どんな共通点やろ?」
「一つはね、絶対に自分の方が勝つって確信している。
ね、まさか自分がやられるなんて、おじさん、ぜんぜん考えてないでしょ。
ぼくもなんですう。
もう一つは、おじさんもぼくもハンターってことですよ。
なんていうか、ぼくらは二人ともダークサイドの人間です」
「あっはっはっはっはっ……」
男は弾けたように笑った。
「ぼく、ダークサイドって、あはははは……。
それ、何とかっちゅうSF映画みたいやん。
はっはっはっ……。
ほんま、おもろい子やなあ、ぼくは」
「そんなおかしいですう? 
おじさん、今、仕事忘れてるでしょう。
もしかして、そんな笑ったの久しぶりなんじゃないですかあ? 
なんだか普通の人みたいで幸せそうですよ。
ぼく、ちょっと後がやりづらくなっちゃいましたよ」
「はっはっはっ……。ほんまよう笑うた。あー、しんど。で、ぼく、後て何?」
「決まってるじゃないですか。猟ですよ。ハンターですから、ぼくは」
修平は手に持っていた金属の筒を少し持ち上げて見せ、
「これですよ、ぼくの道具は。
ほんとは秘密なんですけどね。
久々に楽しいから、今日は特別です。
サービスですよ。
実はね、ぼく、スナイパーなんです」
「あっはっはっはっはっ……。きっつう。スナイパー、こらけっさくやわ。あっはっはっはっはっ……」
ここにきてやっと男は、少年が外見よりずっと頭の幼い子供だったのだ、と理解した。
修平は男が笑い終わるのを待ち、続けた。
「相手にはね、ぼくの姿は見えないないんです。
遠くから一撃です。
目撃者ゼロ。
ぼくってけっこーナイーブだから、そういうの、好みなんです。
水戸黄門とか、暴れん坊将軍みたく自己顕示欲の強いサディストじゃない。
遠山の金さんもそうですよね。
絶対的な力を隠してて……。
小悪党いじめて楽しんでる。
すっげー陰湿。
ま、陰湿なとこは共通点あるかもしれないけど、へへへ。
ほら、これね」
黒い筒を胸の前に持ち上げ、
「実は、レミントンの銃身なんですよお。
ボルトアクションのふっるーいライフル。
ぼくね、こう見えて、インドネシアのスラムで暮らしてたことがあるんですよ。
ヤバい人たちと一緒に。
てゆーか、拉致されてたんですけど。
けっこーな苦労人。
そうは見えないでしょ。
これ、そのときの記念品なんですう。
持ち主はみんな死んじゃいましたけどね。
かわいそ、ふふふ。
でも、自業自得ですよ。
装填口のところでちょん切ってますけど。
M700の銃身です。
ほんとうはこんなもの必要ないんですけどね、きっかけっていうか、イメージを描いてね、気持ちを集中させるんですよ。
パワーアップの方便ですよ。
ずっどーん、てね」
「へえ、そうなんや。でも、ええのん、そんな秘密、人に話して」
もちろん男は本気で聞いてはいない。
含み笑いを浮かべている。
こんな頭の弱い子供を相手にしていることが、いい加減あほらしくなっていた。
「かまいませんよ。どうせ、おじさんは誰にも話せないんだから……」
うんざりと小首をかしげている男に、
「おじさんの道具は何ですか。もっぱら毒殺ですか。よかったら教えてくださいよ。ぼくも手の内を見せてあげたんですからあ」
男の顔からにわかに表情が消え、
「さあ、ぼく、もうこのへんにしとこか。時間をかけたらあかん。今日はいちばん大事なルールを破ってもうたわ。プロ失格やな」
男はぬいと、太い右手を突きだした。
「これ、飲みい。もうぬるうなってしもうたけどな」
笑みなどかけらもない。
細い目からさす光が小凄い。
「あっれえー、もうマジモードですかあ。つきあいきれないって感じですかあ。ぼくのこと、頭のおかしい子供だと思ってるんでしょうね、きっと。でもね、ぼくのいったこと、全部ほんとですよ。つっても、信じられませんよね、どーせ。じゃ、ぼくもマジモードになっちゃいますよお、いいですかあ。でも、ラストチャンス。おじさん、ぼくのことはほっといて、このまま帰ってください。見逃してあげますから。でないと……」
「でないと?」
抑揚のない声である。
まさに男は豹変しようとしている。
「あーあ、ほんと残念ですう。こういうことですよ、おじさん」
修平は緩慢な動作で筒の先端を唇にあてがい、
「ふっ」
と男に吹きつけた。
瞬間、男は驚愕の目を見開いた。
と。
同時に、がくんと岩の上に尻を落とし、
「くうん……」
と子犬のような鼻声を漏らした。
男の顔は苦悶に歪んでいる。
訳が分からなかった。
いきなり右のすねに、焼きごてを当てられたような衝撃が走り、気がつくと岩の上に崩れていた。
見ると、すねの下が奇妙な方向に折れ曲がっている。気が遠くなるような激痛だった。
「分かりましたあ? 
こういうことですう。
ついさっきまでぼくのことちょっと足らないガキだと思ってたのにね。
二百パーセント勝てると思ってたでしょ。
でも、ほら、足、ポッキリ折れちゃってる。
立てないでしょう、もう。
おじさんの負け。
現実ってつらいですよね。
だけど受け入れなきゃね。
せっかく忠告してあげたのにね。
でも、ま、仕方ないか。
こうゆうのって想定外ですもんね。
痛いですかあ?」
けけけ……、と修平は笑った。
「……」
実際、声も出ない。
それでも男は修平をにらんでいた。
それが唯一可能な反撃だった。
それにしても。
こんな状況で取り乱しもせず、じっと痛みに耐え、耐えながら身構えている様子は、やはり、この男がただものでないことを感じさせた。
「おじさん、今からでもコーラ飲んだらどうですう。
それなりに苦労して用意したんでしょ。
もったいないじゃん、ね。
でも、どうやって毒入れたんですかあ? 
プルタブ、もとのまんまでしょう。
すっごいなあ、やっぱプロの仕事だなあ。
シアン系ですか、入れたの? 
手間かかったでしょうね。
やっぱ無駄にするのもったいないですよ。
飲みなよ、おじさん」
ひひひ、と笑い、
「絶対、その方がいいと思いますよ。
ぼくねえ、外見はイジメられ系の少年ですけど、けっこー冷たい血流れてますから、楽には逝かせませんよ。
おじさんのように甘くないですからあ。
ああ、でも、どっち飲んだらいいのか分んなくなっちゃいましたねえ」
コーラの缶は二つとも岩の上に転がっている。
「こうなったら二本とも飲むしかないですね、ちょっと腹が張りますけど」
ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ……、と笑った。
「じゃね、おじさん、三分待ってあげますぅ。
その間に、コーラ飲むんなら飲んでください。
カップヌードル作る時間と同じですね。
ウルトラマンも三分でしたっけ。
三分たったら、しゅわっち、です。
今度はね、ぼく、おじさんの肋骨を折っちゃいます」
修平は指先で、自分の胸をつっついた。
「折れた骨がね、おじさんの肺に突き刺さるんですよお。
ぐさってね。
肺が破れて、空気がぷしゅーって抜けて、息ができなくなっちゃいますう。
気胸ですよ。
これってね、ものすっごく痛いし、苦しいし……、大変だと思いますよ。
窒息死するまで少し、時間かかっちゃいますからね。
じゃ、始めますね、カウントダウン」
修平はポケットからケータイを取り出し、何やら操作していたが、
「はい、ピッ。今、スタートです。アラームが鳴ったら終わりですぅ。最期の三分。宝伝。最後の風景。コーラ飲むんなら今のうちですよお」
修平は足場のいいところに戻ってクーラーの上にどかっと座り、楽しげに海を眺めていた。鼻歌を歌っていた。
『ウルトラセブン』のテーマだった。
男の顔は蒼白である。が、
ぐっと唇を引き結び、あぶら汗をにじませながら、必死に思考を整理しようとしていた。
いったいどうやってこの少年は、
(おれの足を折ったのか……)
見当もつかなかった。
男はまだ驚愕の中にいた。
しかし、確かなことは……。
少年は、
(何か特別な、得体の知れぬ力を持っている)
ということだ。
そして、その力を使えば、
(楽勝でおれを殺すやろな……)
やっと彼我の力関係を悟っていた。
男はアロハシャツの下に短刀を忍ばせていた。
ズボンのポケットにはワイヤ線が入っていた。
両端にはリング状のグリップがついている。
絞殺の道具である。
しかし、この状況では、
(おれに勝ち目はないやんけ……)
男は絶望的な分析をしていた。
(このガキ、人を殺すことをなんとも思うとらん。化けもんじゃ。くそ、へた打ってもうた。ヤブ医者の話に乗ったばっかしに……)
生涯で初めて経験する窮地の中で、男は怯えていた。
しかし、目はまだ死んでいない。
懸命に生き残る可能性をさぐっていた。
(なげたらあかん)
しぶとく自分にいいきかせていた。
この男の名は立川一郎。
元警察官である。
立川に修平の始末を依頼したのは、佐々木健二。
昨日、家族といっしょに宝伝海水浴場を訪れ、外国製の黒いSUV車に乗り、鼻の峠で修平にクラクションを鳴らしたあの男である。
佐々木健二は医師である。
神戸市内の一等地に「佐々木美容クリニック」を開業し、テレビ宣伝などを通じて巧みに評判をとり、広く全国に金離れのいい客層を握っている。
芸能関係者の出入りも多いと聞く。
医者としての技量はともかく、商売人としての資質はかなりなものがあるようだ。
実は。
立川は佐々木美容クリニックのスタッフである。
毎月、クリニックから高額の給与を得ている。
しかし、クリニックに出勤するわけではなく、佐々木以外に立川の存在を知る者はいない。
美容整形では、まるで高額な医療報酬と一つセットのように悶着がついてまわる。
それを裏で円満に収めるのが立川の仕事である。
去年の十一月。
佐々木に泣きつかれ、マフラーの娘松下梨恵の遺体を始末したのもこの立川である。
以来、立川の待遇は格段に上がっている。
「ブッ、ブー、時間だよ。ブッ、ブー、時間だよ。ブッ、ブー、時間だよ……」
女の幼児声。
ふざけたアラーム音である。
しかし、そんなことを感じる余裕は立川にはない。
「時間、来ちゃいましたね、おじさん。あーあ、コーラ飲めばよかったのに、ね」
修平は嬉々としている。そして、
クーラーボックスに座ったまま筒を構え、
「じゃ、むこうで松下梨恵さんと語りあってください。今日はほんとに楽しかったです。さようなら」
わが手で埋めた娘の名を告げられ、立川が恐怖と驚愕の目を見開いたそのとき、
「カン、カカカン……」
と、岩の上に何かが落ち、転がる音が響きわたった。
はっとして修平が音のした方へ目をやると……。
人影が一つ。
慌てて何かを拾い上げていた。
崖ひだに隠れて、修平と男のやりとりを盗み聞きしていたらしい。
こちらを向き、修平と目を合わせた人影は……。
(堀田和人!)
だった。
手に双眼鏡を持っている。
和人は突っ立ったまま動かない。
動けないのだ。
(いつからあそこにいたのだろうか)
様子から察すると……。
(見られてはならないものを見られた……)
らしい。
面倒なことになった、と修平は思った。
がすぐに、
「ま、いっか」
つぶやき、にやりと笑うと、
「おじさん、プラン変更です。
が現れちゃいました。
あれね、堀田くんていってぼくのクラスメートなんですよ。
仲良くしてもらってるんですう、いろいろと……。
ちょいワル中学生ですけど、結局、むこう側の普通の人間ですよ。
ぼくやおじさんのようなこちら側の存在じゃない。
とにかく、プラン変更ですう。
ラッキーでしたね、おじさん」
だよね、というふうに修平は和人を見た。
和人は修平に見つめられ、埴輪のような口をあわあわと動かした。
「おじさん、今度はぼくから取引の提案です」
助かるかもしれない……。
このとき、立川は思った。
そんな立川の微妙な表情の変化を見逃さず、
「ぼくの提案をのんでくれたら、肋骨折るのやめにしますけど……。どうですかあ」
立川の目が輝いた。
痛みをこらえ、やっと押し出すように、
「どんな提案や?」
「おじさん、今、財布持ってますかあ?」
立川はうなずいた。
「よかった。
第一条件クリアです。
取引に入ることができますう。
実はぼくね、堀田くんから、五千円貸してって頼まれてるんですよ。
友だちだし、いろいろお世話になってるし……。
あのね、ぼく今年の春、転校してきたばっかなんですよ。
堀田くんはね、転校早々からずっとぼくの力になってくれてるわけですよ」
修平は和人を見た。
「だよね」
和人は鉛を飲んだような顔である。
「だから、ぼく的には、なんとか堀田くんの希望をかなえてあげたいわけなんですう。
でもほら、五千円て大金でしょ。
なかなか自由にならないんですよ、中学生には。
ぼく、伯母さんとこの居候ですし……。
それがね、このところの悩みの種だったわけなんですよ。
おじさん、ぼくの話、理解してもらえましたあ?」
立川は尻ポケットから黒革の長財布を抜き出した。
身体をひねったので激痛が走り、
「うっ」
と顔をゆがめた。
「全部やるわ」
立川は修平のほうへ財布を放った。
「本当ですかあ。嬉しいです。取引成立ですね。約束は守りますよ、ぼく。でも、五千円だけでいいんですう。だよね、堀田くん」
修平はニコニコ微笑んでいる。
「ほら堀田くん、早く。五千円もらっときなよ」
和人は動けない。
「ほら」
まだ固まっている。
修平はねっとりと和人を見やり、
「ねえ、堀田くん、もらっときなって。ぼくたち、何も喝上げとかしてるわけじゃないんだからさあ」
喝上げという言葉に、和人の体がピクリと震えた。
が、根の生えたようになった足は一歩も出ない。
「あっれえー、どうしたの、堀田くん? 
もしかして、ぼくの好意って迷惑? 
んなことないよねえ。まさかね。ほら早く。
ぐずぐずしてると、今日は痛いだけじゃすまないかもよ。
破裂するかもよ、堀田くんのタマタマ」
くっくっくっ、と修平は笑った。
(あっ!)
と気づき、和人は血の気を失った。
「分ったあ、やっと。
堀田くんて、ちょっと鈍いね。
どーでもいいことにはよく頭が回るのにね。
もっとちゃんと大脳使ってやんなよ。
窓ガラスだってそうじゃん。
おかしいって思わなかったあ? 
戸に石っころぶつけたのもね……。
楽しかったね、あんときは……。
どきどきだったよね。
だからほら、もらっときなよ」
和人は突き飛ばされたように走り寄り、財布を拾い上げた。
「どう、ちょうど五千円ある?」
「ある」
幼児のような素直さである。
「そう。よかったじゃん。お釣りとかの心配しなくて。こういうことはきちんとしておかないとね。貸し借りはよくないからさあ。だよね」 
修平は窺うように和人を見、
「ぼく、掘田くんに借りないよね」
といわれ、和人はビクンと震えた。
「ね、掘田くん、人の話、聞いてる? 
ぼく、堀田くんに借りないよね? 
もしあるんならさあ、きっちり返しとかないといけないからさあ。
ぼくって割と几帳面でね。
そうことちゃんとしときたいわけ。
ないよね、借り?」
和人はのっぺりとした顔を奇妙に歪め、ぺこぺこ、ぺこぺこ、うなずいている。
「くくく……。だよね。よかったあ。あ、そうそう、堀田くん、財布の指紋ふいといてね。Tシャツでいいよ。あとで面倒くさいことになるのいやでしょ、ね」
さっと立川の顔に緊張が走った。
目ざとくそれをとらえた修平は、
「あ、おじさん、今、やばいって思ったでしょう。
くくく……。
プラン変更っていったじゃん。
あ、ここケータイ通じますから、救急車呼んでください。
宝伝海水浴場の西の岩場っていえば分りますよ。
それじゃ、ぼくたち行きますね」
目顔でうながされ、和人はぐったりとうなだれ、老いぼれ犬のようにヨタヨタと修平の後に従った。
立川はきょとんと二人を見送った。
(助かった……)
と、思った。
ほっとした途端、烈しい痛みが蘇った。
慌ててケータイを取り出した。
「へええ、あの空家の中で盛り上がってたんだ」
修平はベンチに座ったまま首だけひねり、背後の丘陵を見上げた。
和人は叱られた子供のようにうなだれ、脇に立っている。
「石田くんと横山さんは今もあの中にいるわけ?」
和人はちょこんとうなずいた。
「あ、来たね。意外と早いじゃん」
鼻の峠を越えてきたサイレンが二人の横をけたたましく通り過ぎていった。
救急車は鎖を張った支柱を引き抜いて歩道に乗り入れ、砂浜沿いにどん詰まりまで行って停車した。
三人の隊員が担架を提げ、岩場の奥に消えていった。
しばらくすると、男を固定した担架が戻ってきた。
救急車はまたけたたましいサイレンを響かせ、二人の前を走り去っていった。
「あのおじさん、助かったと思ってるんだよ、今ごろ。
へへへ、馬鹿だよね、プロだとかいって……。
狙う側の発想しかできないんだよ、いい年して。
ぼく、プラン変更とはいったけど、助けるなんてひと言もいってないのにね。
ほんと、甘いおっさん。
ぼくの命狙って、足一本で済むわけないじゃん、ね」
「よいしょっと」
といって修平は立ち上がり、空に向けて筒を構え、
「ふっ」
と、強烈な息を吹きつけた。
「今度はフォークボールだよ。あの山を越えてズドーンてね、ひひひ」
一瞬、修平の瞳が白く燃えるのを、確かに和人は見た。
気づくと小便を漏らしていた。
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
修平は妙な歌を口ずさみ、ニコニコ笑いっている。
「今晩のニュースが楽しみだね。
堀田くん、ちゃんとテレビ見ないとダメだよ、いい? 
こんな田舎が話題になることなんて、めったないんだからさあ。
さってと……。
ぼくはちょっと君たちの隠れ家、のぞいてくけど、堀田くんはもう家に帰りなよ。
早く着替えないとね。
臭うからさあ、かなり。
あ、それからさあ、友だちだからいっとくけどね。
あの日ね、もし窓ガラス割れなかったらどうなってたと思う、堀田くん? 
あのね、金的でぐしゃって血みどろになってたんだよ。
ぼくじゃなくて堀田くんのタマタマがね。
アメノカエシヤっていうんだ。
だから妙な気起こさない方がいいよ。これ忠告。友だちだからさ。
つっても何のことだか分んないよね。
堀田くんて、たぶん図書室なんて行ったことないよね。
一度さあ、古事記とか読んでごらんよ。
コジキってストリート系のことじゃないよ。分ったあ?」
ぺこりとうなずく和人を残し、修平はもう畑の中の坂道をすたすたと廃屋に向かって登り始めていた。



五、 母親 
 
「お待たせしまた」
山本弘子が応接室に入ってくると、客はソファから立ち上がり、
「堀田和人の母でございます」
といってぺこぺこお辞儀した。
堀田英美子である。
(あまり似ていないな……)
と弘子は思った。
堀田和人はのっぺりとした丸顔だったが、母親は面長で、目鼻立ちもくっきりとしている。
ちょっと陰気な印象を受けるが、美人といってもいいのではないか。それに、
(若い)
実は弘子は、部屋に入った瞬間、そのことに驚いていた。
羨望も交じっていた。
弘子は三十七であるが、明らかに、
(この人は、少なくても三つ四つは下だ)
はっと目を洗われる思いがしたのは、すべらかな肌は、よく見ると、まったく化粧を刷いていないらしい。
稀にこんな肌の女がいる。
弘子が担任している中二の生徒の母親たちは、ほとんどが弘子と同年輩か上だった。
(ということは、二十歳前後の出産……)
弘子は女の目で観察していた。
「和人くん、具合はどうですか」
教師に戻った。
休明けから、堀田和人は学校を休んでいる。
土日をはさんで連続三日休んでいることになる。
「素行に問題のある生徒」
ではあるが、これまで学校を欠席したことは一度もない。
担任としては、それだけでも驚くに足ることだった。
「先生。実は……、病気ではないんです。どうもすみません」
堀田英美子は意外なことを語り始めた。
英美子は今朝学校に電話を入れ、
「熱が下がらないものですから……」
と息子の欠席の事由を連絡してきていた。
ところが数時間後、再度電話をかけてきて、面談を申し入れてきたのだった。
「はあ?」
「何といったらいいか……」
いいづらそうである。
「病気じゃないというと、元気は元気なんですか?」
「いいえ、それが何といったらいいか……。気持ちの問題だと思うんですけど……」
「はあ」
要領を得ない。
第一、気持ちの問題といわれても、そんなデリケートな形容は堀田和人とは結びつかない。
「精神的にまいってる感じなんです。すごく怯えてるってゆうか……」
いちいち、胸につかえる違和感だった。
「と、いいますと?」
「もしかして学校で、その、いじめのようなことがあるんじゃないかと思いまして……」
それで今日、わざわざやって来たというのか……。
それにしてもいじめとは……。
弘子は吹き出したい気持をこらえた。
いじめることはあっても、
「和人くんが、学校でいじめを受けているということはないと思います。気の弱いお子さんではありませんし……」
はっきり、粗暴といっていい。
三年生の中にも、二年の和人にちょっかいを出せるものなどいはしない。
南野中学をシメている、といってよい。
「すみません。変なことを訊いて……。
私も和人が学校でどんな様子だか、想像はついているんです。
乱暴で我の強い子ですから、たぶん、他の生徒さんに迷惑をおかけしているだろうと思います。
先生がたにもご苦労をおかけしていると思います。
申し訳ないです」
英美子はまたぺこぺこと頭を下げた。
馬鹿ではないらしい。
ちょっとほっとした。
「ただその……、もしかしたら上級生の中に、和人が怖がるような子が一人や二人はおるかもしれん思いまして……」
気持ちが乱れ、言葉が崩れた。
「いませんねえ。なんといったらいいか……、ある意味、和人くんはナンバーワンですよ」
弘子は冗談めかしていったつもりだったが、
「すみません」
堀田英美子はまた頭を下げた。
息子のことをほぼ分っているようだ。
「あの、怯えているっておっしゃいましたけど、具体的に和人くんはどんな様子なんでしょう」
「ずっと部屋にこもっているんです。
弟と同じ部屋なんですけど……。
二段ベッドの上で、一日、ほとんど毛布をかぶっているというか……。
義人とも口をききません。弟です。
ご飯にも出て来ないし……。
真夜中にこそこそ冷蔵庫を開けたりはしているようですが……。
義人の話だと、窓もカーテンも締めきって、義人が開けようとすると怒るんだそうです。ときどき、カーテンの隙間から外をうかがったりしているそうです」
「なんか知らんけど、お兄ちゃんびびっとるよ」
と義人は母親に告げた。
「本人は何もいわんのです」
「いつからそういう調子なんです?」
「連休の最後の日からなんです」
「五月五日ですか」
「はい。朝は普通だったんですけど……。
私が夕方の四時ごろ起きて……。
夜中はスーパーの品出しをしているんで、午後からちょっと仮眠をとっていまして……。夕飯に呼んでも出て来なかったんです。
義人が、お兄ちゃん寝とるよっていったんで、ほっといたんです、そのときは。
よくあるっていいますか、主人が仕事から帰る時間がまちまちで、晩のご飯はけっこうばらばらなんで……。
そしたら次の朝も……。
学校へ行く時間になっても布団をかぶっていましたんで、私もついついかっとなって、布団をひきはがして、初めは叱りつけていたんですけど……。
だんだんに様子が普通じゃないと気づきまして……」
「どんな様子でしたか」
「いつもでしたら、うるせえ、ばばあ、とかいって起き出してくるんですけど……。
こう、敷布に顔をうずめるようにして、なんにもいわんのです。
学校はどうするんゆうて、怒鳴ったりもしたんですけど……。
やっと蚊の鳴くような声で、学校へは行けんゆうていいました。
和人がそんなことをいったのは初めてのことで……、結局、先生にはあんな電話をしたんですけど……。
すみませんでした。
目が充血しておどおどしてるんです。
明らかに寝とらん感じでした」
「和人くん、五月五日はどこかへ出かけましたか?」
「はい。朝ご飯を食べて、八時にはもう出ていました。どこへ行ったんか……。たぶん、ひろちゃんなんかと一緒じゃなかったかと思うんですけど……」
「ひろちゃん?」
「はあ、石田の弘志くんですけど……」
「なるほど……」
ありそうなところだ。
それにしても……。
(こんな話を聞くことになるとは……)
弘子はまったく予期していなかった。
とりあえず、
「様子を見ましょう」
ということにした。
マニュアルどおりの対応である。
こういうケースでは、岩戸を閉ざしている生徒を無理矢理引きずり出すようなことはしてはいけない。ことになっている。
「一言二言でかまいませんから、できれば毎日、和人くんの様子をご連絡いただけませんか」
弘子は職員室に設置してあるパソコンのメールアドレスをメモして渡した。
これも、「父兄対応に関する指針」どおりである。
こういうケースでは、こまめに連絡を絶やしてはいけない。
あとあと、
「放置していた」
受け取られる対応がもっともまずい。
このごろの母親は、手紙を書いたり、日時を決めての面談などはいやがるが、電子メールには抵抗がないようだ。
父母と各担任とのパイプ作りにメールを取り入れたのは、現校長の英断である。
実際、家庭とのやりとりが以前より密になった感がある。
学校での人間関係を恐れて家にこもる。
不登校の初期段階として典型的なパタンである。珍しくもない。
現に、南野中学にもそういう症状の生徒が何人かいる。
しかし、堀田和人ということになると……。
たとえ神の業を使っても、
(あの子はられる側にはならない)
弘子は職員室のデスクで一人首をひねったものだ。
もし本当に母親のいうとおりだとしたら、それは異常な事態である。
(形だけの対応を急いではいけない)
と、弘子は感じた。
場合によっては、カウンセラーの派遣を要請しなければならないかもしれない。
だとすれば、学年主任にも早めに相談しておいた方がいいだろう。
翌日の昼休み。
弘子は二年B組の教室でつまらなそうに椅子にふんぞり返っていた石田弘志をつかまえ、無人の理科室で向かいあった。
石田弘志は堀田和人が休みだしてから、ひっそり大人しい。
保護を失って元々の身の丈に戻った感がある。
弘志を遠まいている目は冷ややかで、ときに攻撃的でさえあるようだ。
弘子は理科担当で、奥に隣接する理科準備室には自分のデスクがあり勝手がよかったのと、閉ざされた雰囲気の指導室では石田弘志が無用に緊張するだろうと配慮した。
生徒にとっては、指導室に入ること自体、すでに特別な意味を持っていた。
五月五日のことを尋ねると、案の定、
「はい。いっしょでした」
弘志は素直に答えた。
「二人だけ?」
「あと横山が……」
顔を上げず、語尾が聞こえない。
「横山良美さんじゃな」
「……」
うなづいただけだ。
この三人グループのことは弘子も承知している。
「朝から海水浴場で何しとったん?」
「別になんにも……。ぶらぶらして、菓子食って、話して……、ゲームとかも……」
廃屋の別荘に侵入し、酒を飲んでいたとはいえない。
(あとで横山にも釘を刺しとかんといけん)
弘志はひやひやしていた。
「で、買い物から帰ったら、堀田くんはおらんかったん?」
「はい。だいぶ待っとったんですけど、かずちゃん、戻ってこんかったんで……。ぼくも横山も自転車で家に帰りました」
「宝伝(ほうでん)を出たんは何時ごろ?」
「三時ぐらいでした」
「ふうん」
弘子はふた呼吸ほど弘志をながめ、
「横山さんはどうゆうとったん?」
「はあ?」
「あなただけ買い物に行って、堀田くんと横山さんはいっしょに残っとったんじゃろ?」
「はい」
「そしたら、横山さんに何もいわずにいきなり消えたりはせんじゃろ、堀田くん?」
「たぶん……」
「たぶんて、あなた横山さんと二人で何時間も堀田くんを待っとったんじゃろ?」
「はい」
「堀田くんがどこへいったか、横山さんに訊かんかったん?」
「あ、いえ……」
弘志はしどろもどろし始めた。
訊けるわけがない。
あのとき良美は泥酔して眠っていた。
しかも弘志は、正体のない良美の体をまさぐり、自慰行為に及んだのである。
結局、二時間ほども廃屋の中で和人を待ち、
「もうしらん、帰るぞ」
半分意識のない良美を引きずるようにして家の近くまで連れ帰ったのだった。
良美はとても自転車に乗れる状態ではなく、よろよろと押し歩きしていたのだが、ときどき、自転車といっしょに道端に倒れこむような始末で、弘志はまともな話などしていない。
良美の両親は早くに離婚しており、良美は母親に育てられた。
良美の母横山美奈子は、西大寺近辺に美容院を三店舗経営している。
小さいながら社長である。
帰宅は遅い。
本店で経理事務を終えてから戸締まりをし、車で神崎の自宅に帰ってくるのだが、毎日、早くても十時は回っている。
営業時間外に得意客の無理をきくこともある。
そんな日は日付をまたぐこともある。
おかげて良美は、飲酒の末の醜態を見つからずにすんだようである。
「どうなん?」
「訊いてません」
「変じゃろ、それ。どうして訊かないん?」
「あ、はい……。待っとったら帰ってくるかなあ思うて……。それに、横山も知らんみたいじゃったし……」
「知らんみたいじゃったって、そんなん訊いてみんと分らんじゃろ」
 弘子はいらいらしてきた。
石田弘志の話は不自然だった。
(何かを隠している)
と、弘子は感じた。
不自然といえば、堀田和人の行動もそうだ。
仲間を何時間もほったらかしにし、再び合流することもなく、一人だけで家に帰っている。
(もしかすると……)
そこで何かが起こったのではないだろうか、と、弘子は思った。
「石田くん、ちょっとここで待っとってくれる、すぐ戻ってくるから」
弘子は小走りに理科室を出ていった。
トイレにでも行ったのだろう、と、弘志は思っていた。
ところが。
十分ほどして。
弘子は横山良美を伴って帰って来た。
(やべっ)
弘志は焦った。
感情がすぐに顔に出る。
それを弘子は見逃さなかった。
「石田くん、もうええよ」
「は?」
「もう、教室へ帰ってええよ。いろいろありがとう」
弘子はわざと硬い顔を作り、じっと弘志を見据えている。
(やられた)
と、弘志は思った。
しかし、こうなってはどうしようもない。
弘志は椅子から立ち上がり、ちらと良美のほうを見、すごすごと理科室を出ていった。
廊下を遠ざかる石田弘志の後ろ姿を見送ってから、
「座って」
と、弘子はいった。
横山良美はどこか落ち着かない様子である。
「連休のことなんよ。五月五日。今、石田くんにも訊いたんじゃけど……」
(あっ)
と良美は動揺したが、顔には出ない。
この幼顔の少女は、すでにそういうしぶとさを持っている。
「横山さん、宝伝海水浴場へ行ったんよな、堀田くんや石田くんといっしょに」
「はい」
良美は上目づかいに弘子を見た。
「途中で石田くんが買い物に行ったんよな」
「はい」
「それから何しとったん?」
「特になんにも……。かずくんと話とかして……、待ってました」
「どこで?」
「海水浴場で……」
良美はとっさにそう答えた。
あながち嘘とはいえない。
弘子も、まさか三人が打ち捨てられた別荘の中で飲酒していたとは想像できない。
「堀田くんはどこへいったん?」
「はあ?」
「石田くんが買い物から戻ったら、堀田くんはおらんかったってゆうとったよ。堀田くんはどこへ行ったん?」
「わかりません」
森田の名前を出せば、今までのいじめがばれてしまう。
良美は命じられるまま、ケータイで森田修平の下半身を写真に撮っている。
りっぱな共犯者である。
「わかりませんて、どうゆうこと。あなた、ずっといっしょにおったんじゃろ、堀田くんと」
「はい」
「目の前で消えたわけじゃなかろう。どこかへ行くんなら、普通ひとこというんじゃないん?」
弘子はのぞきこむように良美の顔を見ていた。
が、良美の表情は揺れない。
十四歳の小娘の中に、すでに女の厚顔さのようなものが芽を出していた。
「ちょっと待っとれゆうて……」
「それだけ?」
「はい」
「どこへ行くんか訊かんかったん?」
「はい。トイレかなあと思うて……」
「ふーん。で、そのまま帰ってこんかったわけじゃな」
「はい」
「あなたはケータイ持っとん?」
「はい」
良美はひやりとした。
あのデータは削除していない。
「堀田くんは?」
「持ってません」
「そう……。そしたら連絡の取りようがないわなあ。それにしてもよう何時間も待ったなあ」
「勝手に帰ったりしたら怒るから……」
なるほど……。
そこは弘子も納得した。
まちがいなく、それが三人の力関係だろう。
横山良美と石田弘志にとって堀田和人がどういう存在であるか、それは平生の様子を見ていれば分る。
「ありがとう。もう教室に帰ってええよ」
良美はほっと胸をなでおろした。だから、
「失礼します」
といって立ち去りかけたとき、
「あ、横山さん」
と呼びとめられて、良美はどきりとした。
「あ、はい」
と振り返ると、
「あなた、家に帰ってから電話した、堀田くんに」
「はあ?」
「五月五日」
「あ、いいえ」
どうしてせんかったん、といいかけて弘子はやめた。
そのように置いてけぼりを食わされれば、普通なら相手をなじり、詰問するところだろうが、彼らの力関係ではそうもいかないのだろう。
「そうか……。ふん、もうええよ」
良美は小走りにその場を立ち去った。
横山良美の表情は、石田弘志のように雄弁ではなかった。
が、やはり、
(あの子も何か隠している)
と、女の弘子は直感した。
しかし同時に、大したことではないだろう、とも思った。
思春期の子供が三人集まれば、たいてい、大人が目を吊り上げるようなことをやっているものだ。
ましてや、こちらは教師であり、向うは堀田グループである。
秘匿すべきことがらはたくさんあるにちがいない。
(たばこを吸って、お酒ぐらい飲んでいたかもしれないな)
ここにきて、弘子は想像した。が、
(所詮その程度のことじゃろうな)



六、 電話 

安くない給料を払っていたのに、
(肝心なときに……)
立川の不慮の死に佐々木は舌打ちしていた。
しかし、その死をあの少年と結びつけてはいなかった。
それにしても、
(救命装備の整った救急車の中で心室細動とは……)
苦々しさの下からおかしみがこみ上げてきた。
おかしみを感じたのはマスコミも同様だったらしく、そのニュースは全国放送された。
(ふん、まぬけが……)
佐々木は修平の始末を保留していた。
立川を失い、手がなくなったというわけでもなかった。
しかし、日が経つにつれ、当初の驚愕と恐怖が薄れてきていた。
もし仮に、
(おれが松下梨恵を殺したことをあいつが知っているとしても……)
警察は知らない。たとえ、
(あいつが通報したとしても……)
どこにも証拠はない。
未だに松下梨恵は行方不明者なのである。
それに、未成年者の霊感がかったたわごとなど世間も相手にはしないだろう。
そして、七月に入るころには気持ちは完全に平静を取り戻し、
(放っておいてもいいか……)
と、佐々木は思い始めていた。
ところが……。
七月中旬のある日。
院長室の内線が鳴り、受話器を取ると、女性事務員の声が、
「院長、お電話です」
「だれ?」
「子供なんですが、名乗りません。男の子です。
香里奈に似た女の人のことで話があるっていってます。取次がないと、おたく、後で叱られますよなんていって、生意気な子ですけど……。
どうしましょうか」
不意の衝撃だった。
「いいよ、出るから」
少し声がこわばっていたかもしれない。
佐々木は外線の点滅ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、佐々木先生ですかあ。ぼくですよ、宝伝(ほうでん)で会ったかわいくない少年。分りますよね」
うきうきとはずんだ声である。
癇に障った。
「どうしてここが分った」
「決まってるじゃないですか、松下梨絵さんから聞いたんですよ。
ぼく、そういうことできるんですよ、へへへへ……。
驚きましたあ? 
てゆうか、信じられないですよね、ぼくのいってること。
信じなくていいですよ、別に」
「松下梨絵って誰だね」
「あっと、へへ、そう来るわけですねえ。
去年の十一月、先生が殺した女子大生ですよ。
失踪ってことになってるようですけどね。
ぼく、ネットで調べました。
松下梨絵でググっらイッパツでしたよ。
学校のパソコンでね、こっそり、へへへ。
ぼくが住んでるところ、宝伝ですけど、まだ光が通ってないんですよ。
信じられますう。
ネット難民ですよ、ぼくたち」
去年の11月17日の深夜。
松下梨絵は神戸市内のバイト先のコンビニで目撃されたのを最後に、その消息を絶っている。
数日後、家族から捜索願が出された。
当時、松下梨絵は十九歳。
宮崎県出身。
神戸市西郊にある女子大の児童教育学科の一年生だった。
小学校教諭をめざしていた。
警察の捜査は今もほそぼそと続いているが、それは「失踪事件」としてである。
「それが私と何の関係がある。目的は何かね」
「はあ、とことんそう来るかあ。ま、いいですけど。先生がどんな趣味を持ってても、関心ないですから、ぼく」
「趣味?」
「強姦殺人て趣味でしょう。
刺激的でいいじゃないですか。
あ、それと、ぼく、警察にちくったりしませんから、その点は安心してもらっていいです、へへへ。
今日はね、先生にちょっとお願いがあるんです」
「……」
「あれえ、黙っちゃいましたねえ。強姦殺人てゆうのがこたえましたあ、もしかして。
もてあそんで首絞めたんですよねえ。
それから先生、彼女が息しなくなってから、もう一回やっちゃったでしょ。
屍姦ていうんですよね、そうゆうの。
かなりいっちゃってますね。
もう病気通り越してますよ、先生。ひひひ……」
「く……、き、きみは……」
言葉がのどにひっかかっていた。
受話器を持つ手に汗がにじみ、全身、小刻みに震えていた。
顔面にはまったく血の気がない。
「だからいったじゃないですか。ぼく、松下梨絵さんと話ができるんですよ。頭のおかしいガキじゃないですよ。少しは信じる気になりましたあ?」
もう信じる信じないの問題ではなかった。
受話器の向こうの少年は、
(すべてを知っている)
屍姦のことは死体を始末させた立川にも話していない。それを、
(こいつは……)
しかし、今、なぜ、と考えることに意味はない。問題は、
(もしかして……、こいつは……)
埋めた場所まで知っているのだろうか。
もし知っていれば、失踪は殺人事件になる。
現代の科学捜査なら髪の毛一本、乾燥した体液からでもDNAを特定できる。そして、
(こいつが警察にたれこむようなことがあれば……)
つながってしまう。
佐々木は、ほとんど上の空の会話を続けていた。
「ねえ先生、聞いてますう? 東都ホテルはスウィートにしてくださいよ」
「分かった」
佐々木は話しながら、頭の隅である計算をしていた。
切羽詰まった中にクールな一点を残し、まるでハードディスクのように着実に演算は進行している。
この男のまがまがしい才能といえた。



七、 東京

修平はスクランブル交差点を渡りながら109を見上げた。
東京らしい空だと思った。
低い空を眺めていると、晴れているのか曇っているのかまるで分らない。
しかし、中天からは真夏の刺すような日差しが人々を炒り上げている。
三月に岡山市東区宝伝(ほうでん)に引っ越していくまで、修平は世田谷区池尻に住んでいた。田園都市線の池尻大橋駅が最寄り駅になる。
新築の分譲マンションで、芸能人なども入居しており、あたりでひときわ目立つ豪奢な外観の建物だった。
修平の父親が勤めている商社が、社宅として、何部屋かを所有していた。
そこで修平は「ヤスさん」と二人で暮らしていた。
本名は近藤靖子。
修平の父親が雇った家政婦である。
ヤスさんは聾唖者で還暦を過ぎていたが、よく気がつき、小柄で、足腰のしっかりした働き者だった。
今は、茅ヶ崎の長女夫婦のところに引き取られているはずである。
そのヤスさんと、修平は小学校四年生のときから中学二年まで、足掛け五年のあいだ二人で暮らした。
中一終了を機に、修平が東京を離れることになったのは、ある事件のせいである。
三学期に入って間もなく、修一と同じクラスにいた萩原千春という男子生徒が自殺した。自宅マンションの屋上から飛び降り、即死だった。
メモのようなものを残していた。
修平の名が書かれていた。らしい。
そのメモは公開されていないが、関係者への事情聴取で、警察は繰り返し修平のことを訊いたらしい。
そのため、萩原千春を自殺に追い込んだのは、修平ではないかという噂が広がった。
しかし、
「ぜってーありえねーし」
「逆じゃん、それ」
「ケーサツってトレぇー」
などと、生徒たちは鼻で笑っていた。
実際、修平は萩原千春のグループから「いじめ」られていた。
日常的に金品を要求され、ときには万引きを強要されたり、また女子生徒の盗撮を命じられたりしたこともある。
拒んだり、逆らったりすれば、容赦のない暴行を受けた。
当然、言葉の暴力など、推して知るべしである。  
誰もが知っていた。
教職員もある程度気づいていたはずである。
見かねた生徒が何度か「チクっ」た事実もある。
が、表沙汰にはならなかった。
萩原たちのやっていたことは明らかに法に触れる犯罪である。
「おおむね十二歳以上」であれば、少年院送致の対象となる場合もある。
しかし、教師たちはその犯罪をむりやり、「いじめ」というオブラートに包み込み、犯罪の存在を認めようとしなかった。
正常な社会の理性に対し、不輸の権を行使するかのごとくである。
これもまた犯罪である。
くる日もくる日も修平は何の抵抗もできず、萩原たちからいいようにいじり回されていた。
無口で覇気もなく、やわやわとした修平は、誰がどう見ても、問題児の萩原を自殺に追い込むような生徒ではなかった。
が、噂とは怖いもので、いつのまにか主と客が転倒し、校外では修平はいじめを主導した生徒に仕立て上げられていた。 
やがて、
「そんな生徒が同じクラスじゃねえ……」
と事情も知ずに騒ぎたてる親もあらわれ、どこからどう伝わったのか、修平のマンションの住人たちも修平を白い目で眺め始め、郵便受けに性質(たち)の悪い書きつけが投げ込まれたりするようになった。
極めつけは、ゴシップ週刊誌が事件を取り上げたことである。
「イケメン中学生自殺」といういかにもという見出しで、「人気者のサッカー少年」萩原千春は、いじめに対応できない制度教育の被害者として脚色されていた。
もちろん固有名詞は伏せられていたが、それでも見る人が見ればすぐにそれと分る。
以後、修平は学校で「M」と呼ばれるようになった。
週刊誌が修平を「M少年」と呼んでいたからである。
周囲のから騒ぎを、修平自身は特に気にしている様子もなかったが、ヤスさんや学校から事情を知らされた父親が、即座に転校を決めた。
修平を守るためではなかった。
今、修平がやっかいになっている宝伝(ほうでん)の伯父は、父親の長兄である。
修平の父親森田克明はある大手商社マンで、現在、上海に駐在している。
単身赴任である。
日本に帰る話はこれまで何度もあったが、その都度、森田克明はそれを拒んできた。
日本に帰ることがいやなのではなく、修平を避けていたのだ。
今もそうである。
実の父親がわが子を避ける。穏やかではない。
事情はこうである。
六年前の夏。
当時、森田克明はインドネシア支店に勤務していた。妻の花枝、修平も一緒である。
八歳の修平はジャカルタの日本人学校小学部の二年生だった。
七月の週末。
午前中の家事を終えてから、花枝は修平とインドネシア人のメイドを連れ、ポンドックインダに出かけた。
ポンドックインダは一家が暮らす住宅街からほど近いショッピングモールで、日本の大手デパートなども出店しており、花枝は買い物はたいていここで済ませていた。
商品の品質や治安など、いろいろな意味で外国人居住者が安心できる場所だった。
ところが、その帰り道。
ポンドックインダで買い物を済ませ、花枝は郵便局に立ち寄った。
モール内にも郵便局はあるが、その日は込んでいた。
だから、家に向かう幹線道路沿いにある支局に寄ることにしたのだ。
路側帯に車を止めれば、局の玄関までそれこそほんの数十歩と手軽でもあった。
なにより、ここなら待たされることはまずない。
花枝は修平とメイドを車で待たせ、日本の知人に宛てた絵はがきを数枚持って局の建物に入り、窓口で料金を支払い、足早に戻ってきた。
ほんの数分間のことである。
局を出た花枝の目に最初に飛び込んできたのは、路上に転がっているメイドの姿だった。駆け寄ってみると、生え際から少し血を流し、意識がなかった。
花枝は全身から血が引いていくのを感じた。
「修平、修平、……」
花枝は必死に叫びながら、車のドアを開け、トランクを開け、車体の下を覗き込み、気が違ったようにわが子の名を呼びながらあたりを走り回った。
しかし、修平の姿はどこにもなかった。
何が起こったのかすでに花枝は理解していた。
高鳴る動悸を抑えながら、花枝はすぐに警察に、それから夫に連絡をとった。
じっとしていない修平を車から出し、歩道で遊ばせていたところ、
「後ろからいきなりでした」
と、警察の事情聴取にメイドは答えている。
四十代の半ばで夫婦からの信頼も厚く、しっかりものの彼女だったが、犯人の顔を見ていない。
人数さえ分からない。
目撃証言もない。
運が悪いというより、それだけ犯人ないしは犯行グループの仕事が速く、周囲の状況をよく見極めていたということだろう。
微細な鑑識捜査にも、何の痕跡も引っかかってこなかった。
「まちがいなくプロの仕業です。誘拐ビジネスですよ」
と警察は夫婦に告げた。
身代金要求を想定し、警察スタッフが森田邸に待機した。
が、犯人からのコンタクトはなかった。
となると、
「臓器売買が目的ではないか……」
と警察は考えた。
臓器売買ブローカーはインドネシア各地でうごめいている。
誘拐された子供は港近くのアジトに集められ、中国行きの船に乗せられる。
臓器売買のシンジケートは中国にあるのだ。
事件から三カ月も経たぬうち、花枝が死んだ。
麻薬の過剰摂取である。
粗悪な薬だったらしい。
そんなものを妻がいったいどこで入手し、また常用するようになっていたのか、夫の克明はまったく気づいていなかった。
検死の結果を知らされたときも、克明は、
「えっ」
と口を開いたまま、しばらく阿呆のように担当官の顔を見つめていた。
後に分かったことだが、花枝は夫が会社にいる間、こっそりと家を抜け出し、修平の写真を携え、ジャカルタ周辺のスラム街など、外国人が絶対に立ち入ってはならない場所を頻繁に訪れていたらしい。
どうやら花枝は一人で「捜査」をしていたようだ。
遺品の中から、それらしい書き込みをしたノートや地図が発見された。
「確かに……」
事件以来、花枝はおかしくなっていた。
それは克明にも分かっていた。
極度に顔色の悪いときもあり、情緒の安定しないこともあった。
しかし、それは克明自身にも当てはまることだった。
男の克明は仕事で紛らし、どうにか精神の均衡を保っているようなところがあったが、女の、母親の花枝は息子の匂いが濃厚に残る家の中に独り取り残されていた。
(たえがたいことだったろう)
と、今にして思う。
だからといってどうすることもできなかった。
克明は克明で悶々とした日々を過ごしていたのだった。
夫婦はそれぞれ深く傷つき、お互いをいたわる余裕を失っていた。
一度、神奈川の実家に帰ってはどうかと勧めたこともあったが、花枝は克明をきっとにらみ、激しく首をふった。
花枝はまったくあきらめていなかったのだ。
対し、克明はあきらめかけていた。
(そんなおれの内面を……)
花枝はにらみつけたのだ。
(今にして思えば……)
である。
花枝を失って、克明は変わり始めた。
おのれを木石にしようと努め、実際そのようになった。
克明は自ら、私生活を仕事で削るようになり、時には頼まれもしない仕事まで手元に引き寄せ、隙間を埋め、私人に戻る余地をつぶしていった。
かといって疲れた様子を見せるでもなく、手繰り寄せただけのものは、機械のように、着実に淡々とこなしていった。
「ワーカホリックだよ、森田は」
同僚たちはささやいたものだ。
過酷な日常を慣習化した姿は、一見、求道者のようでもあった。
が、原理を伴わないだけに、無機質な表情は洗脳やロボトミーを連想させる冷たさだった。
いつしか世間は二つの事件を忘れていった。
克明はといえば、はた目には、世間よりもずっと早くそれらを記憶から消去してしまったように見えた。
修平が発見されたのは、事件から十三カ月後のことだった。
翌年八月の夕方。
修平はジャカルタ郊外の自動車道の高架下にぽつんと座っていた。
ぼろをまとい、手も足も顔も垢まみれだった。
靴さえ履いていない。
妙なのは、両手でしっかり細い金属の筒を握りしめていた。
発見したのは警邏中の若い警察官だったが、初めは、
「近くのスラムの子だと思いました」
と語ったほどのあり様だった。
修平の様子は、貧民窟の子供そのものだったのだ。
修平は一軒のバラックを背にして座っていた。
高速道路の高架下には、そうした違法住宅が、ぽつりぽつりと立っている。
若い警官が勘違いしたのも無理はない。
にもかかわらず、彼が徐行させていたパトカーを停車させたのは、
「血だとすぐに気づきました」
と語ったように、修平の半身はまだ乾いていない鮮血でぬらぬらと光っていた。
ただちに彼は無線で応援を呼び、修平は保護され、背後のバラックが捜索された。
すると……。
バラックの中には死体が三つ、転がっていた。
いずれも成人男子である。
外傷はまったく見られない。
うち一体は中華包丁のようなものを握りしめており、その刃には血痕が付着していた。
後の鑑定で、その血痕は修平のものだと判明した。
修平は肩から胸にかけて浅く肉を切り割られていた。
一方、三つの遺体の体内からはいかなる毒物も発見されなかった。
まったく原因不明の死である。
死体の指紋にマエはなかった。しかし、
「ただものではない」
と、警察はみていた。
というのは、バラックの中から拳銃が一挺。
少量の覚せい剤、注射器などが発見されたからだ。
保護されたとき、修平は心神喪失の状態だった。
どんな質問にも無反応だった。
どころか、誘拐以前のことも以後のことも、ほとんどの記憶を喪失していた。
ただ気分の高揚したとき、無意識に歌の一節らしいものを口ずさんだ。
後にそれは、花枝がよく台所で歌っていたイタリアの唱歌だと分った。
修平が生きて戻ったと知らされたとき、克明は狂喜した。
花枝を失う先から、一人息子のことはもう諦めていたのだ。
しかし……。
上海から飛行機に飛び乗り、ジャカルタの病院で修平と再会したとき、克明の胸は一気にしぼみ、親子の将来が暗い靄のようなものに覆われていくのを感じた。
修平には実の父が分からなかった。
息を切らしながら病院に駆けつけ、ベッドの脇に立った克明を、修平は物を見るように見上げた。
感情のない暗い眼だった。
克明は修平が退院するまで付き添い、その後、赴任地の上海に引き取ったが、そこで始まった父子の生活は辛く味気ないものだった。
ばかりか、無意識のうちに克明は、妻があのような最期をとげた責任の一端を修平にかぶせるようになっていったのである。
そんなに時間はかからなかった。
やがて修平一人、日本に帰された。

修平は池尻の「竜の子」という中華料理店に入った。
道玄坂を登り切り、246沿いをここまで歩いてきたのである。
昼の時分どきを過ぎているせいか店内は空っぽだった。
厨房の火も落としているらしく、冷房が寒いほどだった。
「いらっしゃい」
カウンター席で雑誌を広げていた娘が立ち上がった。
娘はニキビ顔を修平に向けると、
「あっ! 森田」
と驚いていった。
娘の名は石原りせ。
かつてのクラスメートである。
「あっ!」
と修平も驚いた。ふりをした。
修平は「竜の子」に入るのは今日が初めてだったが、土曜と日曜、石原りせが店の手伝いをしていることはガラス戸越しに見知っていた。
なんといっても転校するまで、このあたりは生活圏だった。
実は。
石原りせは修平をいじめていたグループの一人である。
グループは三人いたが、萩原千春は自殺した。
もう一人は小倉健太郎といういかつい少年で、性格もぴたり外見どおりだった。
リーダー格の千春は健太郎のことを「オッサン」と呼んでいた。
死んだ萩原千春が知謀をめぐらすタイプだったのに対し、小倉健太郎は実動的だった。
石原りせはこの少年とできていた。
十四歳で男と女の関係だった。
「お父さん、ちょっとトイレ……」
といって石原りせは奥に引っ込んだ。
白い半袖のコックコートを着た父親は不機嫌そうに娘の背中を見送った。
りせは、おそらくメールを打ちに行ったにちがいない。
「くくく……」
修平の肩が揺れていた。
「何にしますかあ?」
カウンターのむこうからオヤジがいった。
修平はチャーハンを注文した。
オヤジはあざやかな手つきで、黒光りする鉄の鍋をカンカン叩きながら、あっという間にチャーハンを作りあげてしまったが、修平は運ばれてきた料理を、ゆっくりゆっくりと、時間をかけて口に運んでいった。
一口食べては、漫画雑誌を数ページ読み、水を一口飲んで一話よみきり、また一口……。そんな調子である。
そして、やっとチャーハンの山が残りわずかになったころ、
「あ、すみません」
と、思い出したように焼き餃子を追加注文した。
結局修平は、一時間近くも「竜の子」のカウンター席に座っていた。
修平は壁の時計をちらと見、
「いいか」
とつぶやいた。
席を立ち、レジに向かう。
レジの前では石原りせが待っていた。
りせはずっとそこに立ち、修平を見ていた。
そちらを見たわけではない。
が、修平は全身でずっとりせの視線を感知していた。
金を手渡すときりせは、修平の耳元に息を吹きかけるように、
「おかえり……」
とささやいた。意味ありげな笑みを浮かべていた。
修平は眼を伏せ、逃げるように店を出た。
池尻大橋の駅の方に向かって歩きながら、いい演技だった、と思った。
(始まった)
のだ。
鼻の奥に、修平は氷柱の匂いを嗅いだ。
そんなものがあるとしたら、今修平は、全身を冷たい炎に焙られている気がした。
白く揺れる焔の中で、修平はえも言われぬ歓喜がこみ上げて来るのを感じていた。
頭の上でクマゼミがしきりに鳴いている。
修平は蝉の姿を捜すように手をかざし、街路樹の木漏れ日を仰ぎながら歩いていた。
ふと気がつくと、エンジュの木陰からぬらりと現れた人影が、修平の行く手に立ちふさがっていた。



八、 刺客
 
ケータイが鳴っている。
深夜だった。が、佐々木は眠ってはいなかった。
ベッドに横になってはいたが、なんとなく眠りそびれていた。
芦屋の父からだった。
「ヨシが死んだぞ」
いきなり隆志はいった。
由樹のことである。
驚くべきことを、隆志は告げている。
が、佐々木はそれほど驚かなかった。
自分が平静すぎることに、むしろ驚いていた。
定時連絡というのではないが、決行が近づいた四五日前から毎夜、由樹は佐々木に連絡を入れてきていた。
その連絡が今夜はなかった。
虫の知らせとでもいのうか、なんとなく嫌な予感がしていた。
「渋谷の路上でいきなり倒れてな、救急車が来たときはもうあかんかったらしい」
隆志の声も割合、落ち着いている。
「なんで東京なんかにおったんかなあ……」
さすがに力はない。
その訳を、小林は知っている。
「すまんけど……、明日、いっしょにヨシを引き取りに行ってくれるか。お母さん、寝こんでしもうたわ」
住所不定の由樹だったが、所持していた運転免許証には芦屋の両親の住所が記載されていた。
担ぎ込まれた渋谷の病院からの電話をとったのは、由樹の母冬子だった。
十一時を回っていた。
「はい、はい……」
けたたましく鳴り始めた電話に応答していた冬子が、
「えっ!」
急に声色を緊張させたかと思うと、もたれるように壁に片手をつき、そのままずり落ち、へたりこんでしまった。
隆志はあわてて後ろから支えてやったが、冬子は立ち上がることもできず、そのまま床についてしまった。
夕飯を終え、風呂も済ませ、テレビの前に夫婦で座り、
「そろそろ寝るか」
と、話していたときのことである。
翌朝一番。
小林はクリニックで事務長の大賀にあれこれ指示を与えてから、自家用車で芦屋に急行し、父親を拾い、新神戸駅に向かった。
由樹は佐々木とはひと回り離れていた。
三十を過ぎて停職にもつかず、ふらふらしていた。
ただふらふらしているだけならいいが、好ましからぬ、非社会的な筋との付き合いもあるようだった。
そういう何の自慢にもならない知己関係をたてに、由樹は大阪の歓楽街を肩で風を切って歩いていた。
素人相手の暴力沙汰で、何度か警察の世話になったこともある。
絵に描いたようなチンピラだった。
女のひものようなことをして暮らしていたが、いよいよ遊ぶ金に詰まると、きっと芦屋の実家に転がりこんだ。
遅くできた子のせいか、ふた親そろって由樹には甘かった。
「にっちもさっちも行かんようになったら帰ってきおる。ええ年をして、ばかもんが……」
隆志も初めのうちは、不肖のせがれに辛い小言を浴びかける。
由樹は決して逆らわない。
妙にしおらく父や母の小言を聞いている。
浮かぬ顔をして二三日おとなしく過ごす。
心得たものだ。
哀れげな息子の様子を見ているうちに、やがて、父母ともに情にほだされてくる。
結局、由樹は小金を手にし、勇躍、夜の街に、ひらひらと舞い戻って行く。
由樹は小林のところにもときどき姿を見せる。
小林はそのたび口元に冷たい笑みを浮かべ、
「しょもない……」
弟に小遣いを与える。
肉親の情などみじんもない。
別に意図がある。
社会の屑のような由樹であっても、
(屑なりの使い道はある)
血を分けた弟を、単に道具として見ている。
小林はそういう男だった。
小林は客のクレーム処理などに際し、由樹を顧問弁護士のカバン持ちにして同行させた。
由樹は弁護士の横に控え、一言もしゃべらない。
しかし、素人相手の示談交渉では、どかこしら崩れのある由樹の風貌は意外な力を発揮した。
目つきに険がある。どう見てもまっとうでない男が、まっとうな格好をし、黙って座っている。
相手は勝手に疑心暗鬼を生じ、たいてい、交渉はこちらのペースで進んでいく。
しかし……。
今回、そんな兄の意図によって、
(由樹は死ぬことになった)
小林は由樹を抱き込み、森田修平を始末しようとしたのだ。
「うまくいったら三百万やるよ」
というと、初めはためらっていた由樹が上体を乗り出し、目を輝かせた。
小心ものだが、欲が勝つと、とんでもないことをしでかす。
小林は弟の性格を見抜いていた。
兄弟は入念に計画を練った。
ミナミに「空」というスナックがある。クウと読ませる。
由樹は月に一、二度、一人で飲みに行く。
そこにレイというホステスがいる。
美人である。性格は純朴。
中国からの留学生だが、学費と生活費を稼ぐために、分のいい水商売でこっそりバイトをしているのだ。
もちろん不法就労であるが、店はその弱味につけこんで使いたたくようなことはしていない。
レイは今日日の日本人が失くしてしまった懐かしい風姿を持っており、その郷愁が客を呼び寄せ、店を潤しているからだ。
レイは実の兄と同居している。
兄のブンユウも留学生だった。昨年度までは。
妹より一年早くこちらに来ていたが、学費を納められなくなり、今春、除籍処分となった。
昨秋、上海で中古車販売業を営んでいた父親が病死したのである。
死んだ途端あちこちから債権者が涌き出し、押し寄せてきた。
そして、あれよあれよいう間に一家は丸裸にされてしまった。
家屋敷、預金、証券、別荘、車。根こそぎ持って行かれた。
どうしてそんなことになったのか、会社の経営の圏外にいた家族にはまったく分らなかった。
倒産と同時に、姿を消した幹部社員が数人いた。
疑えば、疑えた。
が、いまさらどうすることもできなかった。
ブンユウは理工の秀才だった。
妹は兄の才を惜しみ、
「私が働くから……」
と兄にいった。
躊躇なくブンユウは妹の申し出を退け、中華料理店で働き始めた。
こちらは、文字通り使いたたかれているが、ブンユウは中国に残している母親と弟のために辛抱している。
レイの時給がいくら高いといっても週三日程度のパートでは、月給も知れている。
ブンユウの稼ぎと合わせ、兄妹は異国の都会の片隅でかつかつの生活を送っているのだが、レイの目には光があった。
それは過酷な運命を受け入れ、現状を前向きに主導するエネルギーを感じさせた
日本の若者の目には見られない輝きだ。
「空」で、ブンユウがレイと立ち話しているのを、由樹は何度か見かけたことがある。
いずれも、近くの路地裏である。
ひょろりと背の高い男だった。
この男を初めて見たとき、由樹は背筋にぞんわりと悪寒を感じたものだ。
目が合った瞬間何かに射通されたと思った。
飢えた野良犬のように腐肉も厭わない、これも今日日の飽食した日本では見かけなくなった目だった。
兄妹は市の南部に住んでいた。
由樹は、レイと仲のいいアケミという同僚のホステスから、二人が暮らしているコーポの場所をそれとなく聞き出していた。
特別に下心があったわけではない。
行く先々でこんなことをしている。
日常の一つなのだ。
食指が動けば、ときには小金も使い、巧みに情報を収集する。
付かず離れず、あっちの店こっちの店のホステスのもとに通い、店が引けた後、メシをおごったりすることもある。  
しかし、女に対し性急に目を血走らせてはいけない。
相手が物足りなく感じるほど、さらりと別れた方がいい。
気長にすましていることだ。
ひょいと思わぬときに、女の方から懐に飛び込んでくる。
紅灯緑酒を生き抜く中で女が身に備えた薄い甲殻の下には、多くの場合、案外なもろさが隠されていた。
今一緒に暮している女も、そんなまめな努力の結実といえる。
寄生虫には寄生虫なりの苦労がある。
女以外でそんな努力ができていれば、もう少し違った人生もあったかもしれない。
そんな情報の一つが「計画」に役立つことになった。
実に単純な計画である。
しかし、うまく行っても、失敗に終わっても、絶対に足は付かない。
そこが最大の利点である。
「ダメもとでやってみる?」
と由樹が兄の顔色をうかがいながらいうと、
「いや意外にいけるかもな……」
佐々木は思わず弟のほうに身を乗り出していた。
何かがこの冷徹な男の直感にはまったようだ。

七月下旬のある日。
ブンユウがスーパーの袋を提げてコーポに帰ってきたのは、夜の十時過ぎだった。
アルバイトからの帰り道、ブンユウは近くのスーパーに九時半を過ぎてから立ち寄る。
売れ残った弁当や惣菜類が半額になるのだ。
こうしてブンユウは、レイがスナックに出る夜は、一人、わびしい夕食を済ませる。
レイは店で食事を済ませ、帰ってくるのは深夜だ。
朝方のこともある。が、どんなに疲れていても大学の講義を休んだことはない。
階段下で、四世帯分がひとまとまりになったステンレスの郵便受けを開けると、チラシが数枚、いっしょに茶封筒が二つ折りにして投げ込まれていた。
表にも裏にも何も書いていない。
封はしてある。
何が入っているのか、かなり手おもりがする。
ブンユウは首をかしげた。
当然、郵便ではない。
誰かが直接投げ入れたものにちがいないが、思い当たることがない。なにも書いていないのは不審でもある。
二階の部屋に入るとすぐ、ブンユウは茶封筒をビリビリと開封した。中身を見るなり、
「あっ!」
思わず声をあげた。
紙幣がいっぱい詰まっていた。
ばさりと、テーブルの上に空けてみると、すべて一万円札である。
指を震わせながら数えると、ちょうど百枚。
その間から二つに折りたたんだ紙切れが一つ。
こう書いてあった。

《八月七日、東都ホテルに宿泊する森田修平という中学生を殺せ。成功したら、今度は三百万円投げ込む》

パソコン打ちの文章である。
ブンユウはテーブルの上に散乱した金と紙片をじっと見つめたまま、動かなかった。
そうして座ったまま小一時間も何かを考えている様子だったが、突然、ピクリと顔を上げたかと思うと、こけた頬でにやりと笑った。
ひょろりと貧相な風貌の中で、眼だけが異様に強い光を放っていた。
良樹を貫いたあの視線だった。

八月七日の夕方。
ブンユウは東都ホテルに着くとまっすぐに、ロビー階のトイレに向かった。
(よし)
誰もいない。
鏡を見た。少し青ざめて見える。が、
(変じゃない)
今日は若者に人気のあるブランドのサマースーツで身を固めている。
カットもそれなりの店に行った。
例の金で整えたのだが、
(けっこういい感じ……)
だと、自分でも思う。
こんなときに気持ちが華やぐ人間というものを、
(妙な生き物だ)
と感じる。
以前を思い出す。
ついこの間のことなのに、ずいぶん昔のような気がする。
父親を亡くしてからはずっと、背を丸めるような暮らしぶりだったが、元々、ブンユウは裕福な家庭に育ち、高価な装いも自然と身に添うのだ。
《落ちつけ》
中国語で、ブンユウは鏡に話しかけた。
目を閉じた。
一つ大きく息を吸い、長くゆっくりと吐いた。
《よし、大丈夫だ》
ブンユウは目を開け、ジャケットのポケットから白いガーゼのハンカチの包みを取り出し、洗面台の上に置いた。
直接指を触れないように注意して包みを解くと、中から出てきたのはウォークマンだった。透明な専用ケースに入っている。
イヤフォンも差し込まれたままだ。
ブンユウはハンカチで慎重にケースをぬぐった。
本当はそんな必要はなかった。
周到に用意したのだ。
指紋も掌紋も残していない。
緊張のせいだ。
「ふん」
ブンユウは意気地のない自分を笑った。これで、
(仕事の半分は完了した)
続きは大人の常識と子供の非常識に任せる。
(あとは……)
待つだけだ。
(成否は神に委ねる)
なんと、ブンユウはクリスチャンなのである。
(とにかく……)
ここでぐずぐずしていてはいけない。
ブンユウは足早にトイレを出て、広いロビーを横切り、そのままホテルを出た。

「……はい、……はい。……分りました。いえ、結構です。ぼくが下に降りて行きます。……はい、これからすぐ」
修平が受話器を置くと、
「なんだって?」
すぐに小倉健太郎が訊いた。
健太郎はソファにふんぞりかえってタバコを吸っている。
石原りせもいる。
こちらはベッドに寝転がり、冷蔵庫から引っぱり出したジュースをラッパ飲みしながら、テレビを視ている。
ときどき大口を開けて笑い転げる。
「フロントで忘れ物を預かってるって……」
修平は蚊の鳴くような声で答えた。
「なんだよ、忘れ物って?」
「ウォークマン。トイレに忘れてたって……。ケースにぼくのネーム、入ってたから……」
「とっれぇー。やっぱ、おめぇー、馬鹿じゃねえの、しゅーへー」
りせが見向きもせずにいった。
修平がドアの方へ行こうとすると、
「どこ行くんだよ、ぼけ!」
健太郎が怒鳴った。
修平はびくりと身体を震わて立ち止り、
「フロント」
と、また蚊の鳴くような声だ。
「フロントじゃねーよ、ばーか。どっか行くんならよう、許可がいるだろーが、許可が。あん、分かってんのかよ。奴隷なんだよ、てめーは。奴隷は息すんのも主人の許可がいるんだよ。こっち来いよ」
修平はいわれたとおりにした。
「立ってんじゃねえよ」
健太郎はノーモーションで修平の腹に拳をくれた。
総合格闘技のジムに通っている。ただの拳ではない。
「うぱっ」
と上体を二つに折った修平の背中に、すかさず健太郎は踵を落とし、そのまま足の裏で押さえつけた。
修平は犬のように這いつくばった。
げほっ、げほっと咳き込み、口の端から粘っこいよだれが垂れている。
「それでいいんだよ。手ぇ出せよ」
背中で大きく喘ぎながら、修平がそろそろ右手を差し出すと、
「はあぁ? 逆だよ、ばーか」
眉を八の字にし、健太郎は足の甲でするどく修平の顔をはじいた。
ツツと一筋鼻血が伝い、よだれといっしょになって、ぽとりと床に落ち、ベージュの絨毯を赤く染めた。
「しゅーへー、おれさあ、手に何もってる? いってみぃ」
「タバコ」
「んだろ。な、よく見てみ。灰が落ちそうじゃん。な。じゃ、何がいるんだよ。な、それぐらい気づけよ、奴隷なんだからよう。おめぇーの脳ミソはサル以下か、はん?」
今度は肩のあたりに、ドスッと重い踵を入れた。
「めんどくせー説明させんなよ。ちょっと田舎に行ってる間に、おれらの教育、忘れたみたいだな、しゅーへー」
修平は手のひらを上にし、灰を受けるくぼみを作った。
「それでいいんだよ」
健太郎は酔ったように笑い、修平の手の中にトントンとタバコの灰を落とし、深く一口吸い、修平の顔に、
「ふうー」
と煙を吐きつけた。
「りせ、こっち来いよ」
眼底が青光りしている。
となりに座ったりせの腰をぐいと引き寄せ、健太郎は舐めるようなキスを始めた。
その間、目の端で油断なく修平の反応をうかがっている。
りせは嫌がる様子もない。
慣れているのだ。
「しゅーへー、手が下がってっぞー」
つま先で顔を小突かれて、修平は懸命に手を伸ばした。
健太郎はその手首を左手でぐい掴み寄せ、いきなり火のついたタバコを押しつけた。
「ジュッ」
と嫌な音がして、肉の焦げる匂いがした。
健太郎の強い力に捉えられ、修平は手を引っ込めることもできない。
健太郎は苦悶に歪んだ修平の顔をにやにや見つめながら、ぎりぎりとタバコをねじこんでいる。
「その吸殻はじっと握ってろよ。おれの足元汚すんじゃねえぞ。分かったか?」
修平はコクリと頷いた。
実は健太郎は後でその吸殻を、健太郎に食べさせようとたくらんでいる。
りせも喜ぶにちがいない、と。
弱いものを支配し苛む喜びは麻薬のように、健太郎の頭の芯を痺れさせた。
少女への肉欲が触媒となり、太古から人間が深層に抱えている嗜虐性が振動しているようでもあった。
あるとき、花壇で捕まえた芋虫を押さえつけた修平の口に放り込み、無理矢理食べさせたことがある。
萩原千春の思いつきだった。
「喉を通らないか? 飲めよ」
千春が目配せすると、健太郎は修平の頭を地面に押さえつけ、紙コップから生暖かい液体を修平の口の中に注ぎ込んだ。小便である。
むせ返る修平を見下ろし、千春は愉快そうに、
「お前、なんで生きてんだよ、しゅーへー。なあ? 死ねよ、手伝ってやっから。お前がいるとさあ、空気がくせーんだよ。ほら」
修平の顔の横に除草剤のボトルを置いた。
脅しのための小道具である。
学校の備品を盗んだのだ。
娯楽のためには労をいとわない。
「ほら、楽になれっぞ。飲ましてやろうか?」
千春はキャップを外し、ボトルを修平の口元に持っていった。
修平は激しくかぶりを振った。
「お前さあ、生きてて楽しいか?」
「楽しいです」
弱々しく答える修平に千春は、
「そっか、楽しいか。じゃもっと食わせてやるよ」
と、健太郎に合図した。
健太郎は割り箸で小箱の中から青虫をつまみあげては、修平の口に突っ込んでいった
。修平が吐き出そうとすると、容赦なく殴る蹴るの暴行を働いた。
その光景を、
「やっだあ、もう」
奇声をあげながら、石原りせは面白そうに眺めていた。
そんな狂気が日常の中にあった。
日常が狂気の中にあったのかもしれない。
その日から間もなく、萩原千春は自殺した。
「しゅーへー、おれらを見ろよ」
健太郎の目が異様な光を帯び始めている。
修平の視線の先で、健太郎はりせの短いスカートの中に手を突っ込み、ももを割った。
「ちょ、ちょっと……」
反射的にりせは健太郎の手を押さえた。
が、強い力ではない。
すぐに体は弛緩した。
「しゅーへー、ちゃんとこっち見てろよ。りせ、お前もよう、修平を見なよ。な、興奮すっからよ。へへへ……」
あやしい焔(ほむら)が燃えていた。
健太郎はちらちら修平を見ながら、しばらくは服の上からりせの胸のあたりをまさぐっていたが、
「ちぇっ」
どうしたのか、突然、舌を鳴らして立ち上がった。
いま一つ突き抜けられない。
苛立っていた。
先ほどまでのぎらぎらした感じがすっかりしぼんでしまっている。
わずか十四歳にしてこの少年は、同い年の少女とのセックスにおいて、まるで中年男のように、どうしようもない倦怠に捉えられている。
悦楽を生き急げば、代償も早いのだろうか。
と、何を思ったか健太郎はりせの正面に膝をついて座り、りせのショーツを脱がしにかかった。
さすがにりせも身をよじらせ、健太郎の手を抑え、修平の方をあごでしゃくった。
「だって……、見てるじゃん」
「恥ずかしがることねーよ。な、こんなやつ犬とおんなじだよ」
「だって、そっからだとまともじゃん……」
「どってことねーよ。しゅーへーなんてただの物体だよ。な、りせ、頼むよ。ぜってーいい感じになるって、な」
健太郎は、大きな図体をすぼめよるようにして少女を見上げている。
哀願するとオヤジ顔が本来の年齢に戻っている。
りせは困ったような顔をしているが、
「ケンさあ、だんだん危なくなってきてんじゃないの」
という声に力がない。
普通じゃだめなんだ、と、りせも時々感じるようになっている。
うまくいかなかったときの健太郎の苛立ちを、りせは何度も見ている。
焦れば焦るほどダメになるタイプだ。
外見ほど気持ちは強くない。
しかし、りせは責める気にはならない。
むしろ、同い年で、しかもまだ子供といってもいい年齢ながら、りせは母性をくすぐられる。そして、
(いっかあ……)
という気になってくる。
実際、徐々にエスカレートしていく健太郎の要求を、りせはこれまで一度も拒んだことはない。
(今日も、たぶん流される……)
りせの若い肉体はすでに予感している。
「な、りせ、頼むよ」
鼻声を出し、眉を下げ、いかつい顔が滑稽なほど幼い。
(やっぱ、こうなる……)
りせは黙りこんだ。
唇を引き結ぶと、そんな気はないのに、口元がほほ笑んでいるように見える。
それがゴーサインになってしまう。
今日も健太郎はりせのほほえみに目を輝かせ、スカートをたくし上げにかかる。
健太郎は荒っぽくショーツを下ろし、りせの両足首を握り、ソファに乗せた。
今、りせの下半身はМ字状に開脚している。
健太郎はりせの背後に回り、
「どーよ、しゅーへー。黙ってねーで、なんか感想いえよ」
修平はりせの股の下で四つん這いになっている。
この状況ではさすがにりせも、目を伏せ、赤面していたが、そのことが修平に対し悔しい様子だった。
修平の視線は確かにまっすぐ、りせのそこに向かっているのだが、実際に見ているのかいないのか、顔色にも息遣いにも何の変化も生じない。
「相変わらず反応のねえ野郎だなあ」
健太郎はじれ出した。
「もっと前に寄れよ」
修平は、一歩、二歩、りせの股間に近づいた。
右手はまだ吸殻を固く握りしめている。
「もっとだよ」
半歩、寄った。
もう無理だ。
修平の頬はりせの太ももの熱を感知していた。
濃密な少女の体臭が鼻腔をふさぐ。
「ひひひ……」
健太郎は引きつった笑い声を漏らした。
「舐めろよ」
りせが、ぴくりと震えた。
修平は動かない。
「聞こえなかったか、しゅーへー。あん?」
健太郎は修平の横に回り、自分のパンツの腰から、ぬらりと黒い革のベルトを引き抜いた。
「舐めるんだよ」
健太郎はベルトを持った手を頭上に振りかぶり、
「おらー」
渾身の力を込めて修平の尻に切り下ろした。
「ビチッ」
という渇いた音といっしょに、
「あっ」
りせが喘いだ。
衝撃の一瞬、修平の上体が前にのめり、鼻面がりせの中心に触れたのだ。
二度、三度、続けざまに漆黒の軌跡がしなり、ビチッ、ビチッ……、という音といっしょに、りせの身体は妖しく揺れた。
健太郎の目が再び、ほの暗く燃え始めていた。
勃然として、健太郎は振り下ろす手を止めた。
二つ折りにしたベルトで修平の顔をピトピト叩きながら、
「しゅーへー、ウォークマン取りに行ってこいよ。おれがもらってやるよ」
眼球に毛細血管の赤い縞が浮いている。
「しばらく、帰ってこなくていいぞ。分かったか」
健太郎は修平の尻に、ドスッと蹴りをくれた。
「行けよ、さっさと」
修平は転がるように廊下に出ていった。
二人きりになると、すぐに健太郎は部屋の照明を落とした。
「来いよ」
声が上ずっている。
りせはすぐには動けない。
力が入らないようだ。
健太郎は待っていられない。
けだるそうにソファの上に立ちあがったりせを軽々と抱きかかえると、そのままベッドに走り、もろともに倒れ込んだ。
りせのスカートは腰の上までめくれ上がっている。
露出した白い下半身が暗い灯の下で淫靡にうねっている。
(今日は違う)
健太郎ははっきり感じることができた。
完全に突き上がり、ふくれあがり、満ち満ちていた。
久々の感覚だった。
こらえきれず、健太郎は鼻からりせの中心に突進した。
若い弾力が健太郎の顔に吸いつき、はね返す。
健太郎は激しく頭を振り、鼻面をもみ込みながら片手をりせの胸に伸ばし、もどかしげにブラウスのボタンを外そうとしていた。
部屋を出た修平は、エレベーターに向かっていた。
いやにゆっくり歩いている。
ときどき後ろを振り返る。
何かを探しているようでもある。
右の拳はまだしっかりと握りしめている。
面を伏せているので表情はわからない。
が、突然、左右の肩が小刻みに震え出した。
「クックックッ……」
笑っているのだ。
と、どうしたのか、修平は廊下の真ん中にいきなり立ち止った。
そして、左手の壁に向かい、
「あんたのいった通りだったよ。これからウォークマンを取りに行くよ。それにしても、せこいこと思いつくね、中国人は。だけど馬鹿じゃない」
修平は見えない何かに話しかけていた。



十、 三つの死 

午後八時すぎ、光点が動き始めた。
ブンユウは手元のタブレット端末をじっと見つめていた。
電子辞書ほどの大きさである。
ある周波数の電波を受信し、地図上に位置表示している。
(ホテルから出るのならチャンスがあるかもしれない。タクシーに乗られたらどうしようもないが……)
「ふん」
何も入れ込で無理をすることはないのだ。
はなっから運任せの計画をじゃないか。
ブンユウは顔を洗うように、ゴシゴシと両手で顔をこすった。
どっちにころんでも足は付かない。
この計画の価値はそこにある。
謎の殺人依頼者に倣ったのだ。
(頭のいいやつだ。やつは……)
失敗に終わっても何も失うものはない。
(だから……)
ブンユウもそういう計画を立てたのだ。
いや得失をいうなら、すでに百万は手にしている。
洋服や日本橋で調達した電子機器に二十数万費やした。
ブンユウはウォークマンに発信機を埋め込んだのである。
大した苦労もなくそんなことができる。
才能ではある。
それでも手元には七十万以上の金が残っている。
今のブンユウにとっては大金である。
(欲をかけばろくなことはないさ)
慎重である。
これが犯罪でなければ、賢明といってもいい。
ブンユウは急いで勘定を済ませ、二時間以上も粘っていた喫茶店の階段をかけ降りた。
歩道に出ると、タクシー専用の一通の車道をはさんだ向かいが東都ホテル本館の側面になる。
ブンユウはホテルの方をちらちら確認しながら道を少し南に下り、一本の街灯の下で立ち止まった。
ガス灯を模した古風な街灯の支柱に身体を預けるようにして、ブンユウはホテルの方を振り返り、野球帽のひさしを少し上げた。
ここからだと障害物もなく、正面玄関の出入りを監視できる。
この間も、ブンユウはずっと手に持ったタブレットを注視し続けている。
しばらく静止していた点がまた動き始めた。
「エレベーターを出た」
らしい。
南に動いている。
玄関に向かっているということだ。
(しめた、外に出る!)
ブンユウの胸は高鳴った。
次の瞬間、風のようにガードレールを飛び越えたブンユウの体は車道に着地していた。
人影に驚いたタクシーがブレーキを踏み、激しくクラクションを鳴らした。
構わず、ブンユウは三車線の道路を横切り、正面エントランスを目指し徐行するタクシーの車列の脇を全力疾走した。
すでにラフな格好に着替えていたが、背中には小道具をぎっしり詰めたバックパックを背負っている。
若いブンユウもさすがに息が切れた。
が、あと三十メートル。
その時。
大きなガラスの自動ドアが開いた。
少年が出て来た。
(!)
連れがいる。
少女だ。
二人はタクシーの乗り場を通り過ぎ、楕円形のロータリーを東に歩いて行く。
つまりブンユウから遠ざかっている。
慌ててポケットからタブレットを取り出す。
「光点も……」
遠ざかっている。
(あれだ!)
間違いない。
ブンユウはただちに尾行を開始した。
東都ホテルを出た二人は有楽町駅まで歩き、外回りの山手線に乗った。
はじめは二人ともドアの近くに立っていたが、新橋駅で運よくすぐ脇のシートが一人分空き、すかさず少女の方が座った。
りせである。
健太郎はりせの真ん前に立ち、吊革につかまっている。
二人は何やら話していたが、しばらくすると、りせが、こっくりこっくりし始めた。
ブンユウは一つ後方のドア際に立ち、少年の様子をじっと見張っていた。
このいかつい少年を森田修平だと思い込んでいる。
(大人の常識と子供の非常識が見事な連携を果たしてくれた)
もともと運任せの計画が最良の形で進行していくことにブンユウは感動していた。
殺人という重大な犯罪も今のブンユウにとっては、単に知的な酩酊をもたらすバーチャルゲームのように感じられていた。
ブンユウはトイレに置いたウォークマンに「森田修平」というネームテープを張り付けておいた。
良識ある誰かがそれを発見し、フロントに届けた。
(フロントから連絡を受けたとき、あいつはラッキー、と、思ったのだろうか……)
「ふん、馬鹿だ」
同じ日、同じホテルに、同性同名の人間などいるはずがない。
ませた顔をして、あんなにがたいはよくても、頭は幼い。結局、
(子供なのだ)
だが、ずるくてふてぶてしい。
子供なんてそんなものだ。
しかし、許されない罪ではない。
(でも今回は……)
それが命取りになる。が、
(おれとは何の関わりもない……)
一個の死にすぎない。
おそらく同じ瞬間に地球上に発生する決して知り得ることのない無数の死の一つだ。
ウォークマンに仕込んだのは発信機だけではなかった。
イヤフォンの接耳アダプターはブンユウの手製で、二層になっている。
内側は粘土質の物質を形成したもので、主成分はトリメチレントリニトロアミン。
無色の結晶である。
なめれば甘い味がする。
ところから、途上国では今でも殺鼠剤として使用されている。
猛毒である。
この物質を、ブンユウは南京街の華人から入手した。
それに微量のエンジンオイル、ガソリン、合成樹脂、可塑剤を添加し混合成型すると……。
つまるところ、プラスチック爆弾である。
ブンユウは早くも高校時代からそんな物騒なしろものを試作し、実際に爆発させ、いわく、
「刺激のある遊び」
で仲間たちを驚かせ、楽しんでいた。
天才肌だった。
しかし社会にとっては、危険の萌芽だったともいえる。
そんな子が青年となり、異国で不遇の中にいる。
ブンユウが手にしているタブレットのキーを操作すると、接耳アダプターに微電流が流れる。
その瞬間、森田修平の両耳の中で、指向性の小さな爆発が起こる。
なにも頭が吹っ飛んだりするわけではない。
隣に座っていても、電車の音にかき消され、爆発音にさえ気づかないかもしれない。
しかし、森田修平の大脳は、側頭葉を中心に致命的な損傷を生じることになる。
りせは船を漕いでいた。
ときどき隣りのOLが迷惑そうに、しなだれかかってくるりせの体を押し返している。
健太郎は手持無沙汰だった。
急に思い出したようにズボンのポケットから、修平から取り上げたウォークマンを取り出した。
にんまり笑った。
健太郎もウォークマンを持っているが、こっちは最新のモデルで、しかも上級機種である。
ケースに貼ってあったネームは、はがして路上に捨てた。
ラッキーな一日だった。
一流ホテルのスウィートルームというものも体験した。
健太郎はイヤフォンを耳に入れ、収録曲をチェックし始めた。が、
(なんだよ、これ)
ラップ系の曲がない。
ジャズやらクラシックやら、ロックもあるが健太郎の知らないものばかりだった。
(あの馬鹿、何聴いてんだよ、ったくよう)
舌打ちしながら健太郎は太い指でちまちまと操作を続けていたが、やっと我慢できる曲を見つけてプレイモードにしたらしく、本体をポケットに突っ込み、また吊革につかまった。上体でリズムをとっている。
電車がスピードを落とし始めた。品川駅だ。
まもなく電車は停車し、ドアが開いた。
どやどやと人の入れ替えが始まる。
車内アナウンスが乗換えを案内している。
さなか、突然車内に異様などよめきが広がった。
幾重もの人垣ができている。
輪の中から何か焦げ臭い匂いが漂って来る。
騒然とした気配に、りせもやっと目覚めた。
目を開けると……。
遠巻きに、多くの顔が自分の方を見ている。
口ぐちに何かいっている。
どの表情も、
(普通じゃない)
警察とか、駅員とか……、救急車という言葉も聞こえる。
足元を見た。
くるぶしに何かが触れていた。
(手だ!)
手の先をたどると、座席の下に隠れるように、仰向けに人が横たわっていた。
耳のあたりが煤け、多量の血を流している。
りせは恐怖の悲鳴を上げ、反射的に人垣をかき分けホームに走り出た。
出てから初めて、あれは健太郎だったと気づいた。
おののきながらホームに立ち尽くしているりせの脇を駅員が駆けて行き、警察官が駆けて行った。
怖くなった。
やがて、遠くから救急車のサイレンが近づいてきた。
多くの人と喧噪が慌しく行き交った。
幻を見ているようだった。
いつの間にかロープや規制テープが張りめぐらされ、知らぬ間にりせは騒ぎを見物する人だかりの端に追いやられていた。
りせを目の前で発生した事件の被害者の連れだと考えるものなど一人もいなかった。
どれほどの時間が経過したろうか。
気がつくと、りせは内回りの山手線に乗っていた。
逃げるつもりなどなかった。
だが、今ごろ引き返して名乗り出るのも気後れがした。
(それに……)
今日は美佐江の所に行くといって家を出て来た。
クラスメートである。
お互いこういうときの口実として名前を貸し合う。
両親に嘘がばれるのが怖かった。
特に母は容赦なく手を上げる。
りせは家に帰ってから、健太郎が死んだことを知った。
もうテレビのニュースになっていた。
強い衝撃の中で、ますます話せなくなった、とりせは感じた。
「ウォークマンのイヤホンが爆発……」
とニュースは報じていた。
ならば、修平のしわざだ。
と、りせは短絡的に考えた。
(あいつがケンを……。ちくしょう)
ニュースは、連れがいた、とはいっていない。
とにかく、今日一日のことは、
(黙っていよう)
と、りせはほぞを固めた。
しかし、
(修平を許すことはできない)
絶対に方を付けなければならない。
(ちくしょう、しゅーへー。陰険な手を使いやがって……)
りせは唇を噛みしめた。
むろん修平の仕業ではない。
が、この少女はそう信じ込んでいる。
にもかかわらず、何の危険も感じていない。
どこか思考にずれがある。
しかも、その危うさに気づいていない。
翌日は、健太郎の事件を受け、りせの二年生だけ臨時登校した。
校長、学年主任、担任からそれぞれ話があった。
三人三様に似たようなことをしゃべっていた、と、思う。
体育館でも、教室に移ってからも、りせはほとんど聞いていなかった。
ただ、三人ともしきりに、マスコミとか、不用意な発言とかいっていたようだ。
それだけが耳に残っている。
結局何のために学校に集められたのか……。
よく分らなかった。
りせは正午前に帰宅し、カップ麺をかきこみ、身支度を終えるとすぐに「竜の子」に向かった。
夏休みに入ってからは毎日、午前十一時から午後二時までの書き入れ時、店の手伝いをしている。
勉強嫌いで、素行も決していいとはいえず、クラスメートたちからも、
「あいつ、ちょっとあぶねーよ」
「あんまし、近寄りたくない」
陰でそんなことを囁かれているりせだったが、家の手伝いはよくする。
母親がくたびれているときなど、いわれなくても家事を手伝う。
嫌じゃない。
小さい頃からの習慣で、自然と身体が動く。
学校というものの枠からははみ出しがちな少女の意外な一面である。
信号待ちをしている姿は、ぼんやりしていて元気がない。
昨日の今日である。
しかも、体のつながりのあるボーイフレンドの死。
十四歳の少女にとっては大きすぎる衝撃だったにちがいない。
一方で、
(ケンをあんな目に遭わせた……)
修平への激しい憎しみが突きあげ、りせの胸の中にはよどんだエネルギーが鬱積していた。と、
ふと顔を上げたりせの目に信じられないものが飛び込んできた。
「あっ! しゅーへー」
なんと、横断歩道をへだてた反対側に森田修平が立っている。
こちらを見てにやりと笑った。
ずっとりせを見ていたにちがいない。
りせが気づくと、くるりと向きを変え、すたすたと歩道を歩み去っていく。
「ちっくしょう、しゅーへー」
血が逆流した。
信号は赤だったが、かまわずりせは車道に飛び出した。
われを忘れていた。
けたたましいクラクションの間をぬいながら道路を渡りきって修平の去った方角を見ると、はるかに通行人の間を赤いチェックのシャツが見え隠れしながら遠ざかっていた。
(あれだ!)
りせはタンクトップの胸を激しく揺らしながら必死に走った。
あと少し。
りせがあえぎながら赤いシャツの背に迫ったとき突然、修平は直角に向きを変え、右手の古いマンションの中に駆け込んでいった。
りせはここを知っている。
入口の左右が貸店舗になっていて、左側は「奄美」という居酒屋である。
りせの父親は、仕事帰りによくこの店に立ち寄る。
昼は定食をやっている。
りせも両親と一緒にここで、何度か食事したことがある。
躊躇せず、りせは後を追ってビルの中に飛び込んだ。
細長い通路を奥に突きあたり、L字に折れたところがエレベータホールになっている。
うす暗く細い階段が併設している。
幼いころ、りせは仲間と一緒に、この階段をよく探検したものだ。
りせが角を曲がった瞬間、エレベータのドアが閉じきった。
りせは飛びつくようにボタンを押した。
が、一歩間に合わなかった。
箱はすでに上昇を始めている。
それでもガチャガチャとボタンを押し続けながら、
「しゅーへー、この野郎、しゅーへー」
りせは天井に向かっておめき続けた。
自分を取り残して閉じたばかりの、のっぺりとしたクリーム色の扉にりせは抑えようのない憎しみと怒りを感じた。
ドンドンと、握りしめた拳を打ちつけた。
力任せに蹴っとばした。
ゴシャンと、無機質な音が共鳴した。
「ちくしょう」
りせは歯がみしながら、電光表示をにらみつけた。
数字は真っすぐ九階まで上がって行き、最後のRで止まった。
それを見て、りせはにやりと笑った。
修平は何か当てがあってこのマンションに逃げ込んだわけではなかったのだ。
この古い建物には通り抜けのできる裏口はないし、各階は三坪ほどの共用フロアに三世帯の玄関ドアがコの字に並び、身を隠すような場所などまったくない。
もう逃げることはできない。
「あははは。てめーはやっぱバカだよ、しゅーへー」
やがて、エレベータがまっすぐ一階に下りてきた。
りせはホールの隅に置いてあった子供用の自転車を引っ張ってきて、横倒しにして開いたエレベータの扉のつっかいにした。
これでエレベータは使えない。
「待ってろよ、しゅーへー」
りせは各階の玄関前を確認しながら、上へ上へ階を詰めていった。
りせはとうとうR階まで登り詰めた。
どこにも修平の姿はなかった。
(表示板は……)
まだ一階に止まっている。
ということは、
(しゅーへーはここにいる)
りせは屋上に出るドアのノブを回した。
開いた。
りせが探検していたころは、いつも鍵がかかっていたのに……。
ドアの向こうは驚くほど何もなかった。
まだらに黒ずんだコンクリートの広がり。
それだけだ。
猫の子一匹いない。
陰を作っているのは、機械室と貯水タンク。
二つだけ。
一つずつ、ぐるりと周囲をあらためた。
(いない?)
いったいどこに修平は消えたのか。
それとも……。
ここには修平をかくまうような誰かが住んでいるのだろうか。
(そんなはずはない)
エレベータは途中で一度も止まらなかった。
また、階段を上がってくる際、りせは何の物音も聞いていない。
各フロアのほぼ中央を煙突状に貫くこの階段空間は、どんなに遠くの階であっても、他の誰かが階段を上り下りしていれば、足音の反響は必ず耳に届いてくる。
幼いころの経験でりせは知っている。
各世帯のドアの開閉音も同様である。
古くて重い、今どき珍しい鉄の扉は開閉時にガシャンと大きな音を立て、階段の円筒空間にこだまする。
施開錠の音だって聞き分けられる。
りせは全身を耳にしてここまで上がってきた。
どんな小さな気配も、
(見逃すはずはない)
ソックス裸足になり忍び足で歩けば、足音の反響は消せるかもしれない。
だが、船舶のハッチのような年代物のドアの開閉音は、
(絶対に無理だ)
屋上の周囲は二メートルほどの高さに金網のフェンスで囲ってあった。
りせはグリーンの塗装がほとんど剥落したフェンスに沿って歩いた。
三宿方向に金融会社の大きな看板が見えた。
その下のレンガ色のビルの一階に「竜の子」がある。
「あっ」
りせは慌ててケータイを取り出した。
(やばい)
家を出るとき、
「十二時半には着くから」
と、店に電話を入れた。
「急いでよ」
一言だけ、早口にいうと、母親は乱暴に電話を切った。
機嫌が悪い。
忙しいのだ。
「ちくしょう」
りせが体を反転しかけたとき、視界のはしっこに何か赤いものが引っかかった。
はっとして視線を戻すと、金網の遥か下方の路上に立っているのは、赤いチェックのシャツだった。
「しゅーへー」
遠くて顔の表情など分からないはずなのに、
(あいつ、笑ってやがる)
と、りせは思った。
「しゅーへー」
カッと血が逆流した。
自分でも顔面がほてるのが分かった。
りせは建物の中に突進した。
エレベータのランプは一階に止まったままである。
試しにボタンを押してみた。
(上がってくる)
誰かが自転車を片づけたのだ。
だが……。
何か変だった。
三階、四階……と上がってくるランプの間隔がいびつでいやに速い。
それに、黄色い表示ランプが何だか弱弱しくうす暗い感じがした。
すぐにエレベータはりせのところにやってきた。
が、ゴシャンというあの重い停止音が聞こえなかった。
違和感を感じた。
しかし、気は急いていたし、何が変なのか、瞬間、思い至らなかった。
音もなく扉が開いた。
あっと驚くのと、一歩踏み出すのが同時だった。
そこに床はなかった。
「いやあああ……」
叫びながら、りせの身体は暗い奈落に吸い込まれていった。

翌日の夕方。
佐々木由樹は井の頭線のガード下で焼き鳥をつっついていた。
串はまずタレを注文する。
タレが美味ければ、塩も頼む。
まずければ、店をでる。
食習慣も含めた日常に節操というもののほとんどない男の妙なこだわりだった。
「塩食って分かったような顔してるヤツはバカだよ。タレだよ、タレ」
酔った先々でそんなことをうそぶいている。
渋谷は東京で唯一、東西南北の分かる街だった。
実は由樹は学生時代をこの街で過ごしている。
もっとも中退するまでの二年間、学校にはほとんど顔を出さず、もっぱら駅周辺をぶらついていた。
学生の分際で、いくつかの雀荘では結構な顔になっていた。
由樹は昨日から明治通り沿いのビジネスホテルに投宿している。
二三泊するつもりでいる。
もし、
(レイの兄貴が仕事をやるとしたら……)
昨日か今日だろう。
森田修平は今日東都ホテルをチェックアウトし、岡山に帰る。と、兄から聞いている。
そして、
(やつが成功すれば……)
事件はすぐにニュースになるはずである。
(やる以上……)
そういう仕事でなければならない。
公にならなければ報酬にならない。
由樹は夕べから、ホテルの部屋のテレビはつけっぱなしにしている。
ニュースが始まるとすぐにテレビの前に座る。
由樹はちらと、しみだらけの壁を見た。
油煙にまみれて黄ばんだ時計が六時五分を指している。
もう少し時間がある。
女と会う約束をしているのだ。
素人の女である。
しかも、
(たぶん、未成年者だ)
一度も会ったことはない。
サイトで知り合い、メールだけで付き合ってきた女だ。
こと女に関しては、そんなまめさと忍耐もある。
由樹は何度か、言葉巧みに女を大阪に誘い出そうとした。
が、どのように手練手管をろうしてもうまく行かない。
ぬらりぬらりと、女は由樹の手の中をすべり抜けていく。
かといって由樹を嫌がっているというのでもない。
相手は間違いなく、
(おれに関心を持っている)
遊び慣れた由樹には分かる。
それではなぜ誘いに乗らないのか。
かつてない経験は新鮮でもあり、かえって欲をそそられた。
(未成年なのだ)
体と金が自由にならない。
おそらく中学生か、いや、たぶん高校生だろう。
それがたくさんの女と関わってきた由樹の結論である。
(隠そうとしてはいるが……)
メールの端々に見え隠れしている相手の幼さを、由樹は敏感に嗅ぎ取っていた。
別に、小便臭い小娘が好きなわけではなかった。
どちらかといえば面倒くさい。
小娘を束にしたようなアイドルグループなどは、言葉本来の意味で鳥肌立つほど嫌いだった。
しかし女遊びも他の道楽と変りはない。
ときどきは変化が必要なのだ。
長くてこずった女を押し開いていく楽しみがあった。
少し残っていた焼酎のロックを一息にのどに流し込み、由樹は店を出た。
109の地下エントランスで会うことになっている。
そこを指定したのは女の方だ。
まるで学生の待ち合わせみたいだと思った。
(やはり……)
相手は未成年者なのだ。
ガード下のごみごみした一角こそ昔の風情を留めていたが、路地から大通に出て、あらためて周囲を見渡すと、そこは由樹が十数年前に学生時代を過ごした渋谷とは全く異なる新しい街になっていた。
馴染みがないからよそよそしいというだけでなく、大阪とは違う匂いがした。
大阪はどこを歩いても独特の体臭のようなものを放っている。
(ここには……)
それがない。
匂いはあくといってもいいかもしれない。
目の前の渋谷は、由樹にはあくの薄い街のように感じられた。
大阪は人々の間を流れる空気までが絡み合い、十重二十重に撚り合っていたが、今、由樹の周りを行き交う人々は、目に見えない小さな球体の中に鎧われて自己完結しており、まるで質量のない無機質で透明なガラス球のように、お互いに交差することもなく漂っていた。
由樹は信号待ちをしていた。
横断歩道を渡れば、目の前が109である。
両手をズボンのポケットに突っ込み、キョロキョロと落ち着きがない。
大阪ではこんな男は珍しくない。
が、渋谷ではちょっと目立つ。
道路を隔てて、ショッキングピンクがいやに目立つ怪しげな立て看板の脇に、一つ、人影が立っていた。
じっと由樹の方を観察している。
手に横笛のような筒を下げている。
森田修平である。
まだ東京にいたのだ。
「へええ、あれが院長先生の弟……。でも、あんまり似てないなあ。
せかせかしたおっさんだよな。
まるでテキ屋の若い衆じゃん。
最期の風景なんだから、もっとしみじみしろよ、ってね。だろ?」
修平はニタニタ笑いながら、看板に向かって話しかけている。
太ももをあらわにした女子高生のグループが、不審げに修平の方を振り返った。
髪の色といい派手な化粧といい、もし学校の制服を着ていなければ、遠目には水商売の女と区別はつかないだろう。
すれ違う年配者の中には、日本人かどうかさえ疑っている者もいるかもしれない。
会話はセンテンスをなさず、意味不明のギャル語が飛び交っていた。
少し行き過ぎてから、
「きゃはははは……」
と大口を開け、両手を打ち合わせながら、身をもむように笑いころげていた。
本当にそんなに可笑しいのか、単なる型なのか、虚が感じられなくもない。
しかし。
そんなことをいい出せば、われわれが拠っているリアリズムなど、多くは生活臭の濃い虚構ではないか。
現実を見つめる目は、腹具合・懐具合で、ころころ屈折率を変えている。
うちの二人がまた修平を振り返り、遠くから何語か分からぬ単語をおめいた。
それを聞いた他の娘たちは体をくの字に折って、地団駄を踏んでいる。
たぶん肉体の発育に比し、精神の成長が遅れているのだ。
そんな彼女たちを好奇の目で振り返るものもいるのだが、当人たちは恥ずかしげもない。どころか、どうやら優越意識を持っているらしい。
もしかすると遥かな王朝時代、牛車で市井を往来した殿上人のような気分なのかもしれない。
それほどに少女たちの人も無げな様子は、自らを故のない高みに峻別しているように見えた。
容姿、ファッション、しぐさ、たぶん何でもいいのだ。
あの娘たちは笑いのネタがほしのだ。
沈黙が怖いのだ。
おそらく、義務や責任など意識したこともない。
幸福なことだ。
蜜だけを求める蝶のように渋谷の街を舞うJKルックは紫や緋の袍(ほう)であり、この雑踏は彼女たちのランウェイなのだ。
車の流れが止まった。
歩行者側の信号はまだ赤だったが、先頭に立っていた由樹はわずかなタイムラグを待ち切れず、勢いよく横断を開始した。
そのとき。
修平はだらりと提げていた金属の筒をさっと口に当て、立看の陰から、
「ふっ」
と一息、力強く吹き付けた。
白い炎が見えた。
こんなことは初めてだった。
奥深くで何かが変態しつつある、と感じた。
と、横断歩道の半ばにさしかかっていた由樹が、
「いっ」
と、しゃっくりでもするように喉を鳴らし、左手でかきむしるように胸を押さえ、道路の真ん中で棒立ちになった。
何が起こったのか分らなかった。
うだるようなビルの狭間に木枯らしの音を聞いたような気がした。
修平はまだ立っていた。
かすかに唇が動いている。
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
あの歌をくちずさんでいる。
白いライトに浮き上がった頬が笑っていた。
どぎつい化粧の女が立ちどまり、ある媚態を発しながら修平を見ていたが、振り向いた修平と目を合わせるなり、びくりと震え、
「怖い子ね」
ひと言残し、逃げるように去って行った。
野太い男の声だった。

佐々木は院長室で、まだ受話器を握ったまま、呆然と座っていた。
一昨日。
肉親だけ集まり、ひっそりと由樹の葬儀を終えたばかりだ。
「弟さんも心臓が弱かったみたいですね、ひゃひゃひゃひゃ……。
もっと身体の丈夫な人選ばなきゃだめじゃん、先生。
次は期待してますよ。
あ、それからあの中国人、勘違いして別人を殺しちゃいましたよ。
ウォークマン爆発事件、先生もニュース見たでしょ。
あれですよ。
笑っちゃいますよね。
それじゃ、AKBのチケットお願いしましたよ。
ホテルはこの前のところでいいです。
あ、それと、今度はグリーン車にしてもらおうかな……」
相手はしゃべるだけしゃべって電話を切った。
森田修平である。
佐々木はほとんどひと言も発することができなかった。
電話が切れてから小一時間が過ぎようとしているのに、佐々木はまだ膝の上に受話器をにぎっていた。
由樹は、
(心臓麻痺なんか起こすやつじゃない……)
立川だってそうだ。
このとき初めて佐々木は立川の死に疑問を持ち始めたのだった。
(だとすると……)
佐々木は受け入れがたい非合理の中を堂々巡りしていた。
(もしかするとおれは……)
とんでもない掛け違いを犯したのかもしれない。
体内に不気味な疑惑が増殖し始めていた。
とともに、佐々木は生まれて初めて、人に対して怯えた。



十一、 入院

九月に入って、
「聞いたかあ、堀田がなあ、精神病院に入っとるらしいで……」
そんな噂が南野中学の生徒たちの間に広まっていた。
事実だった。
堀田和人は夏休み中の八月下旬、岡山市北区にあるM病院に入院した。
その二週間ほど前。
堀田和人の家である事件が起こった。
発見したのは和人の父次郎である。
その日。
次郎が仕事から帰って来たのは午後七時を少し回ったころだったが、車を車庫入れし、植え込みの間を母屋に向かっていると、薄闇の地面に何かが転がっていた。
近づいてみると、
(犬じゃねえか……)
死んでいるようだ。
車庫に引き返して懐中電灯を持って来た。
照らし出されたのは見覚えのある犬だった。
近所の年寄り夫婦が飼っている。
飼っているといってもほとんど放し飼いで、港の周辺をのろのろ歩いているのをよく見かける。
あちこちで食べ物をもらっているようだ。
毛の長い茶色の老犬で、人に吠えかかったりすることなどなく、いたって大人しい。
いわば、町内会で面倒をみているような犬だ。
田舎町には、そんな犬や猫がけっこういる。
次郎は犬の死骸を見下ろしながら、険しく眉間を寄せた。
死に様が普通じゃなかった。
四本の足がすべて、まるでポッキリと鉛筆を折ったようにあらぬ方向に折れ曲がっていた。
事故なんかじゃない。
「こりゃあ……」
明らかに人の仕業だ。
次郎は思わずうなり声を漏らしていた。
残忍な動物虐待である。
「四本ともこねえにのう……」
胸の悪くなるような冷酷さだ。
アルコールが入ると粗暴になる次郎だったが、さすがにこんなまねはできない。
しかし実際、何者かがそれをやり、しかも、
(うちの庭に…)
遺骸を放置した。
気味悪いメッセージを感じないではいられない。
電話で知らせてやると、飼主はすぐに引き取りに来た。
元公務員だった老人は、見事な白髪を指で梳(す)きながら、ときどき額に手を当て、
「でぇーがやったんか知らんけど、むげえことをするもんじゃ。おとなしいやつじゃったのに……」
洩らしたつぶやきには怨嗟がこもっていた。
この夜から、和人はおかしくなった。
庭先で起こった異変を和人に知らせたのは、弟の義人だった。
義人は母親の英美子といっしょに庭に出てきて騒ぎを見守っていた。
部屋にこもっていた和人に、興奮して戻って来た義人が、
「お兄ちゃん、すっげーかったよ。
ラッキーの足がな、四本全部、Vの字に折れとんよ。
骨が見えとんよ、皮を破ってな。真っ白。
ちょー痛そうじゃわ。
ゆーてもラッキーはもう死んどんじゃけどな……。
かわいそうじゃあ、ラッキー。なあ、お兄ちゃん」
話の途中からすっと和人の顔色が変っていた。
血の気を失った唇がぱくぱくと、何かを発しているようにも見えた。
と、異臭が義人の鼻をついた。
「あっ!」
和人の黒いジャージーの股間からヌレヌレとした滲みが広がっていた。
ぽたぽたと、床にしずくが垂れている。
失禁しているのだ。
「お兄ちゃん」
義人は丸々と目を見開き、ただ兄を見つめるばかりだった。
その日から和人はまったくしゃべらなくなった。
どこから探し出してきたのかフルートほどのサイズの塩ビ管を肌身離さず携えるようになった。
寝るときも布団の中で抱きかかえている。
トイレに入るときも握りしめている。
別に害はないようなものだが、その使いようが家族の目にも不気味だった。
ときどき部屋の窓を細く開け、じっと外の様子をうかがっている。
突然、塩ビ管を吹き矢のように構え、
「ふっ」
と、何かに向かって吹き付ける。
管の先から噴出されるのは、和人の肺で暖められた空気だけである。
また、狙い定めた管の先に獲物らしきものがいるわけでもない。
それとも和人は、余人の視覚が捉え得ない何かを捕捉しているのだろうか。
「ふっ」
と吹いた後、必ず和人は、ニコニコ笑う。
どのような幻覚を見ているのだろう。
とにかく不気味だった。
失禁は癖になった。
急に何かに怯えて漏らしてしまう。
寝小便もするようになった。
たいてい激しくうなされた後だ。
どうやら、夢に怯え、眠りながら失禁しているらしい。
とうとう二親が両方から抱えるようして、和人を病院に連れて行った。
運んだといった方がいいかもしれない。
まるで体温のある蝋人形だった。
運ばれながらも、和人は例の塩ビ管を握りしめていた。
病院では一日かけていくつかのテストをした。
その際も和人は塩ビ管を離さない。
取り上げようとすると激しくわめきたて、暴れ回るのだ。獣だった。
持ってさえいれば大人しいのである。
「狂うとる……」
次郎も英美子も、病院に連れてくる前からすでにあきらめていた。
病院の判断も同様であったらしい。
夜。
次郎と英美子は二人だけで家に帰ってきた。
両親を迎えた義人も、
「お兄ちゃんは?」
とは訊かなかった。
むしろ、表情は安堵していた。


十二、 自殺
 
 
二学期になって、変化がもう一つ。
石田弘志である。
堀田和人の不登校が始まってから、もう一つ元気のない石田弘志だったが、元々、
「虎の威を借る……」
と見られていたとおりで、周囲の目も、
「ええ気味じゃ」
冷たかった。
ところが……。
夏休みが終わって登校してきた弘志を見て、教師も生徒もあっと息を呑んだ。
一言でいうと、見る影も無くやつれていた。
げっそりと痩せ衰え、顔色も悪い。
おどおど視線を落とし、話しかけてもろくに返事もしない。
まるで重病患者が病院を抜け出してきたようだった。
吉岡という担任が優しく声をかけた。心配せざるを得ない。
弘志は一瞬、すがりつくように吉岡を見た。
が、すぐに表情を閉ざし、
「何でもありません」 
消え入るような声で答えたものだ。
誰がどう見ても何でもないわけがない。
放っておくわけにはいかない。
吉岡は、一日、石田弘志の母親を学校に呼び出した。
「分かりません」
母親は声を震わせながらいった。
当然、わが子の変化には当初から気づいていた。
しかし、どうしてそうなったのかまったく思いあたることがない。
「突然部屋に閉じこもるようになって……。
ご飯もほとんど食べません。
前は、三杯も四杯もおかわりしていたんですけど……。
ハンバーグとか、好きなものを作ってやっても手をつけませんし……。
どんどんやつれていって……、主人も私も、もう何がなんだか分からなくて……。
弘志は何も話してくれないんです。
というか、だれとも顔を合わせようとしないんです」
すがりつかんばかりだ。
「病院へも連れていったんですけど、体に異常はないんです。ただ……」
不眠に苦しんでいて医師の処方を受けている、と、母親はいった。
何かに怯えているようだ、ともいった。
「八月十一日からです」
母親ははっきりと日にちをいった。
「ええ、その日、大阪から主人の弟が家族でうちに来まして……。
毎年、お盆にはお墓参りに帰って来るんですけど……。
小学生のいとこが二人いまして、弘志はいとこと遊ぶのを楽しみにしていて、ゲームをしたりとか……、毎年、叱るほどはしゃぎまわってるんですけど、今年は部屋から一歩も出てきませんでした。
どうしてこんなことになったのか……」
とうとう母親はハンカチを出し、目のあたりをぬぐい始めた。
八月十一日といえば、堀田和人の家の庭先にラッキーという老犬の無残な死骸がころがっていた日である。
実は、その日の朝。
石田弘志は堀田和人を訪ねている。
午前九時ごろ、横山良美から電話があった。
「ひろし、和ちゃんが話があるゆうとる。ふん、家へ来てくれえゆうとるよ」
どうして直接電話してこないのだろう、と弘志は思ったが、
「でな、誰にもいわずにこっそり来てくれえゆうとる。ふん、ふん、そうじゃあ、すぐに……」
和人は秘密裏に話したいことがあるらしい。
弘志はいわれた通りにした。
といっても、今日は家にいるのは五年生の妹だけだ。
両親はついさっきミニバンに乗って出かけたばかりだ。
岡山駅にいとこたちを迎えにいったのだ。
妹に行く先を断る必要はなかった。
和人の家でも家族は出払っていた。
(じゃからか……)
と、弘志は納得した。
久しぶりに会う和人はまるで別人だった。
頭髪はばさばさに伸びほうだい。
その下にのぞいている顔は白蝋のようだ。
理髪店などにはかかっていないらしい。
どころか、家から出ること自体がないのかもしれない。
空手で鍛えた筋肉も落ちてしまい、ひょろりとした体は末期の老人のようだ。
何より目に光がない。
二年生にして南野中学をシメていた面影などかけらもない。
何といったらいいのか……。
言葉に詰まっている弘志に、
「ヒロちゃん、わりいな」 
かすれた声で和人がいった。
ヒロちゃんと呼ばれ、弘志はうろたえた。
そんな呼ばれ方をするのは小学校のとき以来だ。
近年は呼び捨てにされ、あごで使われてきた。
もちろん驚きは大きかったが、ショックの方が勝り、それ以上に何かを危ぶんだ。
和人は弘志を自分の部屋に招じ入れ、ドアにカギをかけた。
家人は誰もいない様子なのに……。
真夏の日中に、窓もカーテンも閉ざしたままである。
部屋の中はかなり蒸し暑く暗い。
「かずちゃん、エアコン入れんの?」
というと、
「そんなことをしたら、足音が分らんじゃろうが」
と、和人はわけの分からないことをいった。
いったい誰の足音だろうと思ったが、弘志は言葉を飲み込んだ。
兄弟二人分の家具調度を唯一詰め残した部屋の中央の一畳ほどの床に、二人は額をつき合わせるようにあぐらをかいていた。
そして……。
話かけてはためらい、口を開きかけてはため息を漏らしていた和人がやっと、
「ヒロちゃん、頼むから誰にもいわんでくれえな」
か細い声でぼそり、ぼそりと、驚愕すべきことを語り始めたのだった。
まがまがしさが沈殿したような暗い部屋の底に、弘志は幽鬼のような和人と差し向かい、二時間ほど座っていた。
玄関を出るとき、弘志の顔は、こちらもまた来たときとは別人のようになっていた。
茫洋とした目つきは、軸を失ったように漂っていた。
宝伝(ほうでん)から西片岡に帰るには、峠を一つ越えなければならない。
宝伝に限らず、瀬戸内沿岸の集落はすぐ背後に山が迫っている。
どこに出かけるにも必ず峠を越えることになる。
弘志は自転車を押して、とぼとぼと山坂道を上がった。
いつもは変則ギアを使い、若い筋力任せに、「乗りっぱ」で峠を越えるのだが、今日はそんな元気はなかった。
やっと峠にたどり着いた。
少し下ると左手に溜池がある。
水量が減り、葦などが生茂り、沼と呼んだほうがいいような暗い感じで、暮れどきなどはちょっと薄気味悪い。
数年前、子供がこの池にはまり、溺れ死ぬ事故があったらしい。
昔から、この溜池では何度もそういう事故が起こっているそうだ。
池の周囲には数か所、地蔵の立っている場所がある。
南側から峰がかぶさっているので日が差さず、あたりは昼でもうす暗い。
霊鬼が漂っている。気がした。
弘志はここを通るのが嫌いだった。
いつも池から目をそむけるようにしてさっさと通過することにしていた。
しかし……。
今日の弘志はそんなことさえ忘れていた。
峠を過ぎ、もう道は下りになっているのだから自転車に乗ればいいようなものを、弘志はぼんやりと自転車を押し続けていた。
池の半ばにさしかかったとき、ふと、後方に何かが見えた気がした。
白いものである。
惹かれるように、弘志は振り返った。
そこだけすっきりと灌木が刈り払われ池の土手に四体、くすんだ地蔵がちんまりと並んでいた。
その背後に、にょっきりと、地から白いものが生え出していた。
いや、人だった。
真っ白なTシャツを着た人が古木の幹のように立ち、地蔵の四つの顔といっしょに、真っすぐ弘志を見すえていた。
「!」
森田修平だった。
森田修平が能面のように静止した顔で、じっとこちらを見つめているのだ。
弘志は、
「ひゅっ」
と北風が鳴るような声を発し、その自分の叫び声に驚いたように反射的に自転車に飛び乗ると、脱兎のように坂道を逃げ下っていった。

「カラオケに行かんか」
と声をかけてきたのは山口信夫だった。
堀田和人とつるむようになってから、ますます誰からも相手にされなくなっていた弘志にとって、信夫は唯一「まともな」友人といってよかったが、
(ふん)
弘志は腹の中で鼻を鳴らしていた。
信夫に他意はなかった。
単に友人を力づけようとしていた。
今の弘志にはほのかな温くみではあった。
しかし、
(今さら……)
だった。
そのとき弘志はもう覚悟を決めていたのだ。
というより、そこまで追い詰められていた。
方法も決めていた。
あとはいつ実行するか、それだけだった。
今日でも明日でもいいのだ。
(早くこの恐怖から逃れたい)
弘志は、陸上部の練習で日焼けした信夫の丸顔をまじまじと見つめた。
スポーツ刈りに人のよさそうな笑みを浮かべ、そんな見慣れているはずの表情が妙に懐かしく、古い写真でも眺めているような錯覚を覚えた。
信夫だけではなかった。
周囲で進行しているすべてのことが遠く感じられた。
色が抜け落ち、無関係だった。
「カラオケ……」
なに、それ? 
あまりにも現実的なことをいわれ、弘志は即座にそれを経験値として理解できなかった。
「おう、神崎のパンプキンじゃ。割引券があるで……」
最期の決まった自分だけの静寂の中に、信夫は、突如、闖入してきた。
が、もう、
(うっとうしい)
とさえ感じなかった。
(ぜんぶ終わった……)
はずだった。
が、霧のように弘志を押し包んでいた虚無の彼方に突如、何かがきらめき、勃然と、思ってもみなかった欲求が突き上げてきたのである。
(あの日から……)
ずっと、汚泥が詰まったようになっていた胸の一か所がふっと軽くなり、そこに小さな真空を生じたような気がした。
そして……。
穿たれた真空を一瞬のうちに満たしたのは、横山良美だった。
あられもない姿で廃屋の床に横たわっていた良美の幻が、少女の濃い体臭とともに再生された。
我知らず、弘志の五指は空(くう)をまさぐり始めていた。
白く盛り上がった乳房はひんやりとして、掌からこぼれるばかりだった。
力を入れると、ゴムまりのような弾力で弘志の指を押し返してきた。
(ああ、良美とやりてえ……)
憔悴した弘志の眼底に、あやしいほむらが燈っていた。
「よっしゃ。久しぶりにおれのエグザイルを聞かせてやるか」
弘志は頓狂な声を張り上げていた。
信夫は唖然としていたが、それ以上に驚いていたのは弘志自身だった。
このとき、信夫の大脳旧皮質は一瞬、調子の外れた弘志の空元気の向こうにある何かを感知した。
が、その超微弱パルスは、新皮質に伝送される前に消滅した。
 
弘志は信夫に頼んで、横山良美を誘ってもらうことにした。
もともと良美は弘志を相手にしていない。
つるんではいたが、それは堀田和人が軸になっていたからである。
和人が不登校になってからは、二人が行動を共にすることはなくなっている。
しかし弘志の方は、それからも良美の影を追っていた。
校内で良美の姿を捕えるたび、弘志は制服の下に隠された少女の肌身を透視しようとしていた。
あの日以来、良美は何度も夢に現れた。
生々しい夢である。
夢に見たことでさらに良美のことが気にかかってくる。
悶々と押し上げてくる若い血のいいなりに、弘志は廃屋の残像と感触を呼び起こし、手淫にふけったものだ。
辻雅子が良美に声をかけた。
雅子は山口信夫とつきあっている。
雅子と良美は近所どうしで、小学校のころから仲がいい。
信夫から誘われたとき、休眠していた弘志の脳回路が突如通電し、瞬時に狡猾な演算を開始した。
追い詰められた最後の状況で突き上げてくる衝動がこういう淫靡な欲求であるあたりに、この少年の本質が表れているかもしれない。
信夫と雅子。良美を加え、結局パンプキンに集まったのは四人である。
信夫はもっとにぎやかにしたかったらしいが、
「四人でよかろう。あんまりぎょうさんおってもなあ……」
弘志はわざと渋い顔を見せた。
多人数では計画にならない。
スナック類はそれぞれが好きなものを持ち寄り、現場で盛り合わせることにした。
飲み物は、費用は折半だが、
「ペットボトルは重てえから、おれらが用意すりゃよかろう」
と、弘志が誘導し、男子の分担になった。
弘志と信夫は具体的な銘柄まで話し合い、それぞれ二三種類の大型ペットボトルを用意していくことに決めた。
当日。
四人はパンプキンに午後一時に集合した。
九月はもう半ばを過ぎているというのに、日中の日差しはまだ真夏の酷しさで、カラオケルームは、一歩中に入ると、むっと胸のつかえるような熱気が顔面を押しふさいだ。
「殺人的な暑さじゃなあ、こりゃあ」
田舎によくある平長屋の施設なので、屋根から直に炎天の熱が伝わる。
信夫は飛びつくようにエアコンのリモコンをつかみ取り、
「よっしゃ、最強モードじゃ」
芝居っ気のある雄たけびをあげ、ピッ、ピッ、ピッと威勢よく温度設定ボタンを押し続けていた。
そのエアコンの冷気がまだ部屋の隅々までゆきわたらないころ、良美の着メロが鳴った。
「あ、ごめん、お母さんから……」
といいながら良美は外に走り出して行った。
しばらくして戻ってくると、
「ごめん、私、家に帰らんといけんようなった」
申し訳なさそうにいった。
三人一様に驚いたが、
「えー、どうしたん?」
と最初に訊いたのは雅子だった。
「急におばあちゃんの具合が悪うなってな……。ずっと入院しとったんじゃけど。危ないみたい。これから病院に行くから、すぐ帰ってこられえて」
「うっそー、大変じゃが……」
と雅子がいい切らないうちに、
「横山、おれらのことはええから、そっこーで帰れ」
と信夫は良美を追い立てた。
弘志は黙っていた。
落胆のあまり声が出なかった。
ババアがどうなろうと知ったことではない。
計画が、
(だめになる……)
頭を占めていたのはそのことだけだ。
「横山、急げえ」
「良美、はよはよ」
二人にせき立てられ、横山良美は帰っていった。
かなり慌てた様子だった。
が、演技だった。
「おばあちゃん」が危ない状態にあるのは事実だ。
しかし、それは昨日今日のことではない。ずっと寝たきりなのだ。
点滴や排尿管、センサーコードなどに繋がれたまま、ピクリとも動かない。
十日ほど前から、
「もういつ逝ってもおかしゅうないわ……」
と母親から聞いている。
しかも。
「おばあちゃん」というのは、実は母方の大伯母のことである。
生涯独身を通したため、面倒を見てくれる家族というものがなく、仕方なく、近くに住んでいて経済力もある良美の母美奈子が最期の世話をしていたのだ。
大伯母は瀬戸内市の山中にたった一人で住まっていた。
茅葺きの古い家には、二十一世紀の今日、電気水道もなく、なんでも巫女だか口寄せだとか、うさんくさいことを生業にしていたらしい。
親戚たちが敬遠したのも頷けるところだが、飢えもせず米寿を過ぎるまで齢をまっとうしてきたということは、とりもなおさず、そんな陰陽道めいたニーズが今なお世間には残っているということで、そちらの方が驚きである。
大叔母が倒れ、親族が寄り集まったとき、みんな伏し目がちにもぞもぞと関わりを避けようとしている中、一同を見回していた美奈子が、
「ええよ、私が見るわ」
と歯切れのいい声を上げたのだった。
美奈子は女一人で生きてきただけに、人にはいえないような苦労もなめている。
そのせいか、男性的なきっぷの好さがある。
懐にも奥行きがある。
尻込みしている親戚たちを意地悪く責める気もなかった。
これが世間一般の反応なのだ。
良美はこの大伯母に何の愛着もない。
幼いころは、
「抱っこされたり、お年玉をもろうたりしとったんよ」
母親から聞かされているが、良美はその人の顔すら覚えていない。
「危険な状態です」
と担当医にいわれてから、美奈子は毎日病院に通っている。
昨夜、良美は母から、
「おばあちゃんの息がある間に、あんたもいっぺん顔を見とくかな?」
といわれた。
美奈子は、欠かさずに見ているドラマがコマーシャルになったとき、からっとした声でそういった。
ふと思いついただけのことで、本気でいっているのではない。
「いい」
良美はそっけなく答えた。
「じゃわなあ」
美奈子の方も再開したドラマにもう意識が戻っている。
ところが……。
今朝になって良美の気持ちが変わった。
カラオケがうっとうしいのだ。
いや、カラオケで歌うのは楽しい。
弘志と顔を突き合わせることが重たくてしかたない。
実は、雅子から誘われたときからそう感じていた。
感じてはいたが、雅子や信夫がいっしょだし、
(ま、いいか)
と気持ちをごまかしていた。
ところが約束の日曜日が近づくにつれて、小さな胸のつっかえが次第に膨らんできた。
そして今朝起きたときには、とうとう、まるで悪性の腫瘍のようなのっぴきならないしこりになっていた。
なぜなのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
(ただ……)
弘志が自分を見る目つきがいやだった。
漂わせている空気がいやだった。
(もしかすると……)
初めから弘志が嫌いだったのかもしれない、と、良美は思う。
ただ、和人がいたときは気づかなかったのだ。
和人は暴君にちがいなかったが、それなりの安定と秩序をもたらしていた。
和人がいなくなって、弘志の体内に抑制されていた臭気のようなものがにじみ出してきたのかもしれない。
それに良美はたまらない嫌悪を感じる。
ここ数日の弘志の目つきは異様だった。
とり憑かれたような……。
廊下などで何度か見かけた。
こちらが気づいたとき、向こうはすでにじっとこっちを見ていた。
きっと、知らないうちに、
(あの目で……)
見られていたにちがいない。
考えただけで皮膚が怖気立った。
良美は今朝、トーストをかじりながら、
「お母さん、何時に病院行くん?」
と訊いた。
「お昼からじゃけど……、何時ゆうこともないんよ。適当」
「私、やっぱ、おばあちゃんの顔見に行くわ。今日、いっしょに病院行く。二時くらいからでもええ?」
「ふん、そんなもんじゃろうなあ……。ええよ。じゃけど、どしたん、急に?」
不思議そうに娘を見た。
「気分。そしたら、一時すぎに電話して。すぐ帰ってくるから」
良美は良美で謀っていた。
ここまで避けられていようとは……。弘志も気の毒な少年である。
三人になってから部屋の中はかえってにぎやかになった。
はしゃぎ出したのは信夫と雅子だった。
気遣いだろう。
弘志はそんな二人を見ているばかりだった。
失望は大きかったが、見た目、変化はなかった。
そんなことより、目の前に死があった。鼻っから絶望の果てにいた。
それに。
こう見事な失敗に終わると、かえってすっきりと笑いたいほどの気分だった。
(横山とやりてえ)
あんなに強く願っていたのに、
(んなこと、どうでもええのに)
と今は感じられる。
どうしてしまったのだろう、と、思った。
自分が分からなかった。
そう思ってることさえ端から淡く透けてゆき、さらさらと溶け流れていくようだった。
弘志はトイレに立った。
実は、気分が悪いのをさっきから我慢していた。
もどしそうだった。
元々顔色が悪いから、信夫も雅子も気づいていないようだ。
それとも、薬が効いてきたのかもしれない。二人とも元気よく歌っている割に、目がとろんとしている。
(おれのために…)
無理してるんだ、と弘志は思った。
パンプキンは長屋形式で、トイレは別棟の管理棟の中にある。
一度外に出なければならない。
洋式トイレの便座の前にしゃがみこむなり、弘志は激しく嘔吐した。
食べ過ぎたのだ。
といっても、口にした量は高が知れている。
このところ、食物を受け付けない体になっていた。
弘志は四回吐いた。
最後に吐いたのは、
「げほっ」
という気味悪い音だけだった。
もしかすると、その音は生命のかけらだったかもしれない。
部屋に戻ると二人とも眠っていた。
かなりの間、トイレにいたらしい。
信夫はソファの肘掛に頭を乗せて天井を仰ぎ、雅子は信夫のパンツのふくらはぎのあたりにほっぺたを乗せ、縦に連なっている。
仲のいいことだ。
グレープフルーツジュースのボトルは七分方空いていた。
弘志は処方された睡眠導入剤をほとんど服用しなかった。
眠るのが怖かったのだ。 
いつやられるかわからない。
(あいつは化け物だ)
あの日から、尋常の怯えようではなかった。
元来が小心者なのだ。
疑心暗鬼で自滅するタイプかもしれない。
だから、一人っきりで家にいることにも耐えられない。
恐怖はどこにいても同じだった。ならば、
(あいつの姿が見えていたほうが……)
不意打ちを食わない気がした。
けなげに学校に通っていたのはそのためだ。
眠るまいとしても人間である。
いつかは眠りに落ちてしまう。
だが、無防備な時間は一分でも一秒でも短くしたかった。
結果、今の変わり果てた姿である。
薬は、多分、十数錠残っていたと思う。
すべて粉々に砕き、すりつぶして粉末にし、グレープフルーツジュースに混入した。
キャップはいぼの箇所を瞬間接着剤で留めた。
といっても、そのボトルは自分で開栓したのだから、結果として手の込んだ無駄をやったことになる。
弘志は雅子を見た。
デニムのスカートがずり上がり、子供っぽい柄のショーツが丸見えになっている。
それでも固く膝を閉じているのは、娘らしさだった。
肉のない太ももだった。
顔はぽっちゃりとしているのに、首から下は驚くほど肉がない。
胸も薄い。
弘志はつと立ち上がった。
雅子の前に膝をつくなり、何のためらいもなく、雅子のTシャツをめくり上げた。
水色のチェックのブラジャーが現れた。
それも、すいと、たくし上げた。
ぽろりと、乳房と呼ぶには小さすぎる胸が現れた。
膨らみ始めたばかりの痛々しい胸だった。
あばらが浮いていた。
それにしても、今日の弘志は廃屋のときとは別人のような放胆さだ。
今度はすいとスカートをめくり上げ、ショーツに手をかけた。
が。
どうしたのか、そこで突然動きが止まった。
手を引っ込め、その手で、むずと自分の股間をつかんだ。
少し首をかしげたようだった。
股間を握ったまま、
「ははは……」
と笑った。
もしかすると泣いたのかもしれない。
涙は出ていなかった。
弘志はブラジャーやTシャツを元通りにしてやり、ふわりと立ち上がった。
改めて雅子の寝顔を眺め、信夫を見た。
うつろな目だった。
疲れた。
どさりとソファに身を投げ、しばらく、焦点のない目を天井に向けていた。
何もしたくなかった。
といって、することなどなかった。
長い間そうしていた。
気づくと、はらはらと涙を流していた。
どういう涙か分からない。
だが、自分のために泣いていることに変わりはない。
そういう少年だった。
やがて、ぬらりと立ち上がり、一人、ドアの向こうに消えて行った。

その日の夜。
日曜日にもかかわらず、南野中学の窓は煌々と明かりをともし、校舎の内も外も何やら騒然としていた。
校庭にはたくさんの車があふれていた。
複数の警察車両、消防車両も来ており、ビデオカメラを担いだ取材クルーも望見された。
南野中学の正門前の農道を南に数百メートル下った道端にスレート葺きの納屋がある。
例の納屋である。
そこで今夜、南野中学の男子生徒の死体が発見されたのだ。
石田弘志である。
発見の経緯が珍妙である。
発見者は川口一成。二十六歳。会社員。
幸地崎(こうちざき)町で両親といっしょに暮らしている独身青年である。
幸地崎町は事件現場から車で数分の近間である。
その日。
午後七時ごろ、川口は西大寺のツタヤに寄った。
二号線沿いの釣具店を冷やかした帰りである。
三階の駐車場に登り徐行していると、前にもたついている軽四がいた。
はた目にも怖々と、白線の枠の中にバックで車を入れようとしている。
運転しているのは五十年配の女性で、車の外で中学の白いカッターシャツを着た少年が誘導している。
それにしても、のろのろもたついている。
「ちんたらちんたらしやがって……。免許持っとんか、あのばばあ」
車の中で毒づきながら、川口は乱暴にクラクションを鳴らした。
女性ドライバーは申し訳なさそうに、運転席からぺこりと頭を下げた。
が、ひょろりとした少年は、きっと一瞬、こちらを睨んだようだった。
それがカチンときた。
川口は今度は長くクラクションを押さえ続けた。
外国製の黒いSUV車は、車体同様、クラクションもいかつい響きで威嚇してきた。
やっと収まるべき場所に収まった軽四を睨みつけながら、川口はタイヤを鳴らして車を急発進させ、入口のまん前に車を止めた。
そこは優先スペースである。
車椅子マークの入ったあの場所である。
しかも、大きな車体を斜めに突っ込んだたため、隣りの駐車枠まで死んでいる。
傍若無人なふるまいである。
車を降り、川口が建物の入り口に歩き始めたとき、後ろのささやき声が耳に入った。
「ええ若いもんが……」
「ああいう人って……」 
聞こえたのはそんな断片だけだったが、すぐに、
(おれのことだ)
と分った。
振り返ると、女とカッターシャツの中学生がこちらを見ていた。
(さっきの……)
と気づいた途端、川口の頭にかっと血が上った。
川口は目を三角にし、
「うっせー、ばばあ。なんか文句あるんかあ。おめーの運転の方がよっぽど社会の迷惑じゃろうが……」
怯えている女性に怒声を浴びせ続けた。
逆切れ、である。
何事かと、人々が立ち止まり、こちらを見ている。
川口はぺっと唾を吐き、二人を交互にねめ回してから、肩を怒らせ中に入っていった。
帰路、川口は神崎町のローソンに寄った。
いつ降り始めたのか、電柱の街灯が白い霧雨を集めていた。
入口の手前で女性を追い抜き、ドアを押しあけて体を入れた。
普通ならここで、女性のために一呼吸、ドアを支えてやるところである。
実際、そういうタイミングだった。
ところが、川口は自分の体が入りきるなり、尻でガラスドアを後ろに押し戻した。故意でもないのだろうが、配慮のない男である。
「ゴン」
と鈍い音がした。
振り返ると、ガラスの向うに女性がしゃがみ、眼鏡を拾いあげようとしていた。
顔をぶつけたのだ。
(ふん、とれえ女じゃ)
自分に過失があったなどとは考えていない。
まして、相手をいたわる気持ちなど微塵もない。
正面から見下ろすかっこうで、
(こいつ、あのばばあか……)
と、気づいた。
目を移すと、見覚えのあるシルバーメタリックの軽四も止まっている。
助手席には、
(あの中坊が……)
きっとこっちをにらんでいた。やはり、
(あのばばあだ)
「ふん」
川口はにやりと白い歯を見せた。
コンビニのフェンスの外に、小さなタコ焼き屋がこぶのようにくっついている。
もう閉まっている。
方一間半ほどのプレハブ小屋だが、西日を避けるため、道路側に屋根よりも高いよしずを立ててある。
川口の車がコンビニの駐車場を農道に出て、このタコ焼き屋の前を走り去って行ったとき、それを待っていたように、編んだよしの隙間をこじ開けて、にょきりと黒い金属の筒が突き出してきた。
ややあって、その先端から、
「シュッ」
という音が漏れたかと思うと、筒はまたするりと引っ込んで消えた。
南野中学の前を過ぎたあたりで、いきなり車体が激しく振動し始めた。
(ちぇ)
パンクだ、とっさに川口は理解した。
ちょうどさしかかっていた草むらに車を入れた。
調べてみると、なんと驚いたことに四本のタイヤがすべてパンクしていた。
エヤが抜け切り、どれもぺっちゃんこである。
「うっそ、マジかよ」
川口はわが目を疑った。
しばらくは唖然として、まだ長いローンが残っている愛車を眺めていたが、これではどうすることもできない。
業者に電話した。
そのとき、途方に暮れる川口の横を軽四のライトが遠ざかって行った。
車の中でテレビを見ながら、川口は業者の到着を待っていた。
タバコを吸うため、傘をさして外に出た。
ヘビースモーカーだが、絶対に車内では吸わない。
ちり一つない。
使ったティッシュなどは即座に窓から投げ捨てる。
煙を吐きながらそわそわ歩き回っているうち、積み重ねたパレットの陰に妙な車があるのに気づいた。
軽のワゴン車だが、タイヤがすべて外されている。
廃車にした車体を放置してあるらしい。
それだけなら、田舎では珍しい光景ではない。
妙なのは、窓やドアをガムテープで目張りしてあることだ。
(自殺かもしれない)
と、とっさに思った。
川口は恐る恐る近づき、中を覗き込んだ。

弘志は、後部座席にエビのように体を丸めて死んでいた。運転席と助手席に、それぞれ練炭火鉢が置かれていた。
一酸化炭素による中毒死である。
警察が到着したときも練炭はまだ燃焼を続けていた。
遺書らしいものはなかった。



十三、 大伯母の死

おばあちゃんは生きているのか死んでいるのか分からなかった。
もちろん生きているのだが、しるしが、良美にはよく分からなかった。
枕辺に座った印象は、生きているというより、
(まだ死が証明されてないだけじゃないの)
という感じだった。
退屈だった。
早くも病院に来たことを後悔していた。これでは弘志のことは我慢してカラオケで歌っていた方がよかった。
美奈子は洗濯室に行ってしまった。
良美一人である。
三人部屋はみんなカーテンを引き、ひっそりとしている。
他に面会人もないようだ。
テレビはおろか、しわぶき一つ聞こえない。
引き結ばれたカーテンの向こうに、本当に生きた人間がいるのだろうか。
(もしかしたら……)
ベッドに横たわっているのは死体ばかりじゃないのか。
そんな想像がわき起こり、背筋がぞわりとした。
そうじゃないとしても、おばあちゃんと同じように、ただ死を待つ人たちにちがいない、と思った。
良美はケータイを取り出し、メールを打ち始めた。
《なにしてる?》
と二三人に送る。
一度に返事が返ってくることもある。
どうということはない。
目にも止まらぬあざやかな指さばきで、三つの会話を同時進行させる。
何の混乱も生じない。
ケータイは体の一部になっている。
良美にとっては箸で飯を食うのと大差ない。
「よしみ」
突然、聞き慣れない声が名前を呼んだ。
はっと顔を上げると、おばあちゃんがぱっちり目を開けて、こっちを見ていた。
「あっ!」
思わず大きな声を出してしまった。
(ほんとに生きてたんだ)
飾ってある人形が話しかけてきた。
そんな驚きだったかもしれない。
植物状態だと、母から聞いていたが……。
それにしても、良美だとよく分かったものである。
幼いころ会ったきりなのに。
ぽかんとしまま、
「おばあ……」
と良美がいいかけたのをさえぎって、
「憑かれとる」
とおばあちゃんはいった。
「よしみ」
鋭く名を呼ばれ、
「はい」
良美は無意識に背筋を伸ばしていた。
「すぐに大賀島へ行くんじゃ。大賀島じゃ。分かったか」
「はい」
とまた返事していた。
気づくと、おばあちゃんはもう目を閉じていた。
生きているのか死んでいるのか分からない。
室内は、先ほどまでと同じ静寂だった。
夢を見ていたのだろうか……。

「夢でも見たんじゃろ」
その話をすると美奈子は笑った。
良美は大賀島などに行くつもりはなかった。
遠い場所ではないが、寂しくうっそうとした山道を辿らなければならない。
確か小学校三年生のとき、一度だけ遠足で訪れたことがある。
そのときは登山道をてくてく登ったのであるが、とにかくきつかったことしか覚えていない。
幼い目に映る景色も、里山といっていいほどの低山なのに、深山幽谷の不気味さを記憶に刻みつけた。
大賀島というのは大雄山大賀島寺のことである。
島ではない。
良美が暮らす神崎町は、大雄山を含む標高二百メートル足らずの半島状の丘陵を北に背負い、南に幸島新田を臨んでいるが、江戸初期、池田家二代綱政のころまで、一帯は海であり、神崎は文字通り御崎だったのである。
「神」も「御」も聖なる土地への敬意である。
ため、新田内には島の付く地名が多く残っている。
吉井川の河口、かつては小さな無人島であったはずの岩場の赤松の下に、「千人塚」と呼ばれる墓石が四つ、ひっそりとたたずむ。
藤戸合戦で瀬戸内海に散った平家武者の遺体が多数このあたりに流れ着いたものらしい。その埋葬場所と伝えられている。
そんな場所はあちこちにあったにちがいない。
が、歴史は簡明になっていくようだ。
半島の北側には千町平野が広がる。
平野に槍のように突き出した高台に、十六世紀、砥石城が立っていた。
岡山の基礎を築いた戦国の梟雄宇喜多直家生誕の地である。
豊臣秀吉の五大老の一人宇喜多秀家の父である。
良美の大伯母島村ふさが暮らしていたのは、大賀島寺と砥石城跡のちょうど中間点あたりの山中である。
市が整備したキャンプ場が近くにある。
そんな場所がら、他に人家などはない。
ちなみに、かつて島村姓は宇喜多の宿敵であった。
両者とも備前守護代浦上氏の麾下であったが、近世直前の動乱期、国衆同士の勢力争いは熾烈をきわめていたようである。
どのみち、遠からず秀吉によって消し去られることになる中間層であった。
十月に入ってやっと秋めいてきたころ。
おばあちゃんが死んだ。
良美には何の感慨もなかった。
数日後。
見知らぬ老人が良美の家を訪れた。
が、訪れたとはいえないかもしれない。
午後七時過ぎだった。
美奈子はまだ帰宅していない。
安部のおばちゃんも今しがた帰ったばかりだ。通いの家政婦である。
良美ひとりだった。
玄関のチャイムが鳴り、モニタの中に作務衣を着た老人が立っていた。
インタフォンに向かい、しわがれた声で、
「大賀島から来ました」
といった。
良美は、
(あっ!)
と思った。
ドアを開けると、老人は突っ立ったまま、
「よしみちゃんじゃな」
といって、大きな眼の玉をぎろりと動かし、頭の先から足の先まで良美の全身を眺め渡した。
素足に雪駄。
みごとな白髪をポニーテールに束ねた格好は陶芸家か何かのようだった。
鋭い目つきはちょっと体育の中村に似ていて、全体のおもむきはお坊さんのようだと思った。
良美は黙っていた。
警戒したのではない。
威圧されて言葉が出なかった。
「なるほどのう」
老人はそれだけいうと、くるりと背を向け、すたすたと去って行った。
良美はきょとんと老人の大きな背中を見送った。
なんだったんだろう、と思った。
確かなのは、
(死んだおばあちゃんが……)
寄こしたにちがいないということだ。
翌日。
その老人が南野中学に現れた。
朝の校門に立ち、あの目の玉で登校してくる生徒を一人一人、眺めていた。
やはり、雪駄に作務衣である。
生徒たちの方でも珍しがって、この闖入者を興味津津に観察していた。
校長が横に立ち、にこやかに話しかけていた。
存外、知り合いなのかもしれない。



十四、 対決

メバルが白い腹を見せて海面に浮かび上がってきた。
それをタモを伸ばしてすくい捕り、クーラーボックスに投げ入れた。
魚が重なりあい、もう底が見えないほどになっている。
今日はこれくらいしておこうと思った。
修平がクーラーのストラップを肩にかけ、岩場を離れようとしたときである。
振り向いた修平は思わず、
「あっ」
と声をあげた。
知らぬ間に、人が立っていたのだ。
白髪の老人である。
目と鼻の先から、ぎょろりとした目玉でこっちを見ている。
長い白髪をポニーテールに束ね。作務衣。素足に雪駄。
すぐに分かった。
何日か前の朝、校門に立っていた老人に間違いない。
それにしても、いつからそこにいたのだろうか。
何の気配も感じなかった。
(背後をとられた)
ことに修平は驚いていた。
「変った漁をするのう」
しわがれた声で老人がいった。
話しかけたのではなく、ひとり言のようだった。
(見られた!)
と、修平は思った。
それだけではない。
突如、老人の横に、じわりと、人の姿が浮かび上がった。
大男である。
老人も大柄だが、さらに一回り大きい。
妙な格好をしている。
テレビの時代劇などで見かける白装束である。修験道のすずかけらしい。
坊主頭に頭巾(ときん)をかむり、錫杖を握り、そいつもぎろりと修平をにらんでいる。
「ちぇ、めんどくせ」
と修平は口の中でつぶやいた。
聞こえなかったはずである。が、
「見えるんじゃな」
ぼそりと、しわがれ声がいった。
今度もひとり言らしい。
修平はじっと相手を観察した。
向うもこっちを値踏みしているらしい。
(漁を見て……)
驚いていない。
はなっから、修平の秘密を知っていたのだ。
初めてのタイプだ、と、思った。
しかも、妙な霊を従えている。
おそらく、自身、見ることができ、意志の疎通も可能なのだろう。
(同類……)
ともいえる。
さらに、
(このじじいは……)
まっすぐ修平を目指してここに来たようだ。
だが、
(何のために……)
いえることは、少なくとも、
(じじいの目つきは……)
味方ではない。
だとすると、佐々木に雇われたのか。
思い当たるのはそこしかなかった。
(ちぇ)
もう少し遊んでやろうと思っていたのに……。
AKBもパーになった、と思った。
修平はじっと待った。
相手も動かない。
西の山の端に、すでに十月の陽は落ちかかっていた。
頭の上で、鳥の羽音が聞こえた。
「ぎょうさん殺(や)ったらしいのう」
初めて、話しかけてきた。
「ニムロッドの矢ですよ。ほとんど……」
「ウキタの血じゃな」
何のことだか分らなかった。
いかにも修平の曽祖父は浮田姓であったが、岡山のこのあたりではありふれた姓である。戦国の宇喜多の印象をいったのだろうか。
いずれにせよ、どうでもいいことだった。
「おじいさん、誰?」
「島村真実(ただざね)」
島村盛実という武将がいた。
宇喜多直家の祖父能家を攻め、自害に追い込んだといわれている。
「院長先生に頼まれたんですか?」
「何を?」
「殺しに来たんでしょ、ぼくを」
「そんなつもりはなかったんじゃけどな……」
「で?」
「人里に化け物を野放しにしとくわけにもいかんじゃろ」
いい終らぬうち、光芒一閃、修平の体を貫いた。ように見えた。
ところが。
青白い光は修平に触れたかと見えた瞬間、八方に砕け散り、消えた。
何かしたわけではない。
修平はただ立っていただけだ。
気づくと、老人の横にいた白装束が見えない。
とすると、あいつが光の矢になり、弾きかえされ、消えたのかもしれない。
直後。
不思議なことが起こった。
ゆっくりと、老人の体が傾き始めたのである。
ぎょろりとした目をさらに大きく見開いていた。
「化け物め……」
と唸ったのが最後だった。
老人はどうと岩の上に倒れ、それっきり、もう動かなかった。
「せっかくヒントあげたのに……」
修平は死体に語りかけ、岩場を後にした。
西の水平線が紫色に輝いていた。

同じ時刻。
遥か神戸の佐々木美容クリニックでも異変が起こっていた。
手術室で執刀中の佐々木が、胸をかきむしりながら、突然、倒れたのである。
救急車が到着したときには、すでにこと切れていた。
明らかに、進化していた。



十五、 新たなはじまり

放課後、山本広子は森田修平を呼び出していた。
連れて行ったのは校長室である。
部屋に入ると、校長の坂田はソファーに座って微笑んでいた。
目配せされ、広子はすぐに部屋を出てきた。
廊下を歩きながら、広子は首をかしげていた。
開け放った窓から金木犀が香ってきて、広子は足を止めた。
中庭を眺めていて広子は、はっとした。
ヤドリギの先端に見たことのない漆黒の小鳥がとまっていたのだ。
葡萄の粒のような青い実がたわわになったひと枝を刺すように見つめている。
たかが小鳥だったが、広子が思わず息を呑んだのは、底の知れない暗闇のように見えた羽毛の黒である。
それは突如生じた時空の亀裂のようであった。
果てのない深淵の入り口だった。
先週のことである。
職員会議で、ついでのように、森田修平のことが話題にのぼった。
修平が例の事故に関わっているのではないか。そんな噂が生徒たちの間でささやかれているというのだ。
事故というのは、学区域で発生した水死事故のことである。
十日ほど前。
早朝、宝伝(ほうでん)港を出港した底引き網漁船が、港を出てまもなく、瀬戸内海を漂っている水死体を引き上げた。
身元はすぐに判明した。島村真実(ただざね)だった。
こんなことが田舎ではけっこうなニュースになる。
南野中学でも、島村真実が、過日、校門のところに立っていた、
「ポニーテールのおじいさん」
だと分ると、好奇な生徒たちをいっそう刺激していた。
「海水浴場の先の岩場で、森田があのおじいさんと一緒におるんを見たもんがおるらしいで……」
というのが色々に飛び交う噂の芯だった。
その事故は、すでに事故として処理されており、警察も捜査らしいことはしていない。
おおかた磯を散歩中、心臓発作を起こして倒れ、おりからの満ち潮にさらわれたのだろう。そんな結論に落ち着いていた。
目撃者もいなかった。はずなのである。
そうであれば、学校としてはちょっと気になる噂である。
教職員とて公務員である。
報告が後手に回り、責任問題化することを何より恐れる。
「念のために、森田修平に話を聞いてみましょうか?」
と広子がいったとき、
「いや。それにはおよばないでしょう」
間髪を入れず、坂田がいった。
皆、坂田の方を見た。
らしくない性急さだった。
「どうしてでしょう?」
とはいわなかったが、表情には出ていたかもしれない。
「マ、ですよ」
と坂田はいった。
曖昧な、まるで独り言のような言い方だった。
これも、らしくない。
「は?」
「いや、なんでもありません。とりあえず、そっとしておきましょう」
坂田はゆったりと微笑んでいた。
もう普段の坂田だった。
イントネーションは、魔といったような気がする。
が、もしかすると、間をおけということだったのかもしれない。
今日、坂田が森田修平を寄越させたということは、あれはやはり、「間」だったのだろうか。広子はそんなことを考えていた。
突っ立っている修平に、
「座りなさい」
と坂田はいった。
柔らかな声音だった。
いわれるまま、修平は校長の向かいに座った。
坂田はうつむいている修平をじっと見つめた。
ひょろりと青白い生徒である。
肩をすぼめ、両手を膝の上に突っ張った姿は、いかにも萎縮した体(てい)である。
ただの中学生ではない何かがひそんでいるようには見えない。
(だから、魔なのかもしれない)
と坂田は思った。
「先日宝伝で死んだ島村真実は私の叔父です。叔父は君に会いに行ったはずです」
いきなり坂田はいった。
が、話しかけているという風ではなく、なんとなく俳優が台詞の一人稽古をしているような感じだった。
あるいは、ラジオから流れる朗読かもしれない。
詰問するでもなく、返答を迫るでもない、どこか淡々とした調子なのだ。
また、修平は修平で何の反応も見せない。
黙殺というのではないが、明らかに気持ちが動いていない。
向かい合った二人は、まるで別の次元に存在しているようだった。
坂田の顔から笑みが消えた。
ここに至り、やっと何かを得心したようだった。
「もしかすると、戻って来られないかもしれない。
そう叔父はいってました。
それから、もし自分に何かあっても、お前は何もするな、と。
どっちみち、私には叔父のような力はありません。普通の人間です。
今、こうして話していることは、叔父の遺旨に背いているわけですが、ただ一つだけ…。君は叔父に何かしましたか?」
「いいえ。何かしたのはあのおじいさんです」
修平はうつむいたまま答えた。
か細いが不思議なほど鮮明に蝸牛神経に届く声だった。
この声はどんな彼方にも届くのではないかと思われた。
坂田は長い息をはき、天井を仰いだ。
少年の言葉の表裏を反芻しているようでもあった。
やがて向き直ると、
「分りました。もう行っていいです」
しぼり出すように、それだけいった。
修平は教室に戻り、帰り仕度を整えてからトイレに向かった。
ちょうど中から二人の生徒が出て来ようとするところで、入り口のところで、修平は彼らとぶつかりそうになった。
修平が不注意だったわけではない。
修平は二人の気配に気づいており、歩みを緩めていた。
二人の方が話に夢中になって前を見ていなかったのだ。
なのに。
背の高い方が、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、自分の肩を修平の体にぶつけ、
「気をつけぇや、ぼけがぁ」
きっと修平をにらみつけながらいった。
形のいい眉だ、と修平は思った。
韓流アイドルのようにやさっとして、白くきれいな顔立ちである。
修平は東京で自殺した萩原千春を思い出していた。
すかさず、ちびの方が生え際を剃り上げた顔をぬっと寄せ、ぺっと、修平の胸のあたりに唾を吐きつけた。
どことなく、石田弘志を思わせる。
目を伏せ、まったく反抗の意思の見えない修平にそれ以上の興味はないようで、
「ふん」
と鼻を鳴らし、二人はさっさとその場を離れていった。
背の高い方が前田文雄、ちびが小川治。
二人とも三年生である。
修平も顔だけは知っていた。
この二人は、堀田和人があんなことになってから、にわかに威勢がいい。
いわば、ポスト堀田グループの中心メンバーである。
用を足し、修平が教室の方に戻りかけていると、
「おい、待てや!」
後ろで大きなだみ声が呼んだ。
トイレの入り口に黒ジャージの大男が立っている。
体育の中村だ。
振り返る前から分っていた。
仁王立ちに修平を見据え、人差し指を「カモン」と動かしている。
今日も不機嫌そうな顔つきだった。
笑っているところなど、見たことがない。
つまり、そういう人間関係の中に身を置いているいるということだ。
中村はいつも遠くから、不要な大声で生徒を呼び止める。
体育会系の癖なのか、威嚇効果を狙っているのか。
もし後者なら、十二分、意図通りになっている。
修平が恐る恐る中村の前に立つと、中村はいきなり、ゴンと、修平の頭頂にゲンコツを落とした。
「なんで揃えんのなら?」
これも大声である。
耳が割れそうだった。
「はあ?」
意味不明だった。
「はあじゃねえ」
またゴンと来た。
「なんで揃えんのなら?」
中村がでトイレの中をあごでしゃくった。
やっと意味が分った。
トイレ用のサンダルが一足、奥の壁際に散乱している。
片方は裏っ返しになっている。
さっき、韓流がやったことだ。
韓流は上履きのままサンダルをつっかけていた。
ちびの方はサンダルに履き替えてさえいなかった。
「おめえが使うたんじゃろうが?」
なんで今ごろ訊くのだろうと、修平は思った。
順番が違うではないか、と思ったが、口には出さなかった。
たぶん中村に対しては、多くの生徒が多くの言葉を飲み込んでいるにちがいない。
「いいえ」
「なんなー、違うんか」
「はい」
 一瞬、中村の目が泳ぐのを修平は見た。
「ま、せーでも、ちらかっとったら、片付けにゃいけんわのう」
小さな声でそういうと、ぷいと中村は歩み去っていった。
「すまん。悪かったのう」
それだけのことがいえない男だった。
が、目上には別人のようにペコペコする。
高みを利用し、高みにへつらう。
典型的なミリタリー系である。
よく言えば、ある種の原理に従って生きているようでもあり、強さとも見えたが、硬さ、偏狭さを鑑みれば、やはり、網(くら)い男といえた。
こわもてする自分に満足している程度では、教育者として、生徒一人一人を生の人間として直視することなど望むべくもないことだった。
修平は韓流が脱ぎ放ったサンダルを簀の子の前にきちんと揃えた。
水道でハンカチを湿し、チビが吐きつけた唾をぬぐった。かすかにタバコの匂いがした。
また、
(始まる)
修平はハンカチを洗いながら、
「チリビリビン、チリビリビン、チリビリビン、……」
と口ずさんでいた。
歌に合わせ、目の奥に喜々とした輝きが白く揺れていた。

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • 成人向け
更新日
登録日
2013-02-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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