忘れ物保管期限
忘れ物保管期限
間宮余白
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その町の駅には、忘れ物を返さない窓口があった。
正確には、持ち主が取りに来ても返せないものがある、ということだった。
駅の西口を出て、古い時計店と薬局の間を抜けると、突き当たりに小さな建物がある。
看板には「忘れ物保管所」と書かれている。
私はそこで二十七年間、忘れ物を預かってきた。
傘、手袋、財布、鍵。
そういうものは普通の駅員が扱う。
私のところへ運ばれてくるのは、少し違う。
「昨日の午後三時」
「言いそびれたありがとう」
「十七歳のときの勇気」
そういったものだ。
もちろん、形はない。
ただ、預かり票にはきちんと記載される。
品名、拾得場所、拾得日時。
そして、保管期限。
たいていは三か月だった。
もっとも、三か月を過ぎたからといって、捨てられるわけではない。
私たちは期限切れの忘れ物を地下倉庫へ移す。
地下は広い。
おそらく駅そのものより広い。
何しろ、この町で百年以上も忘れられてきたものが、すべてそこにあるのだから。
ある日の夕方、若い女性が訪ねてきた。
「昨日、ここに何か届いていませんか」
「何をお忘れですか」
「それが、わからないんです」
私は慣れていた。
この窓口に来る人の半分は、何を忘れたのか覚えていない。
「いつ頃ですか」
「昨日の夕方です。電車に乗っていて、急に何か大切なものを置いてきた気がしたんです」
私は台帳を開いた。
昨日の拾得物は七件。
「午後五時二十分。ため息ひとつ」
「違うと思います」
「午後五時四十一分。結婚を断る理由」
「それも違います」
「午後六時三分。母親に電話するつもりだったこと」
女性の表情が変わった。
「あ……」
「こちらですか」
「たぶん」
私は引き出しから小さな封筒を取り出した。
中には何も入っていない。
けれど、女性は封筒を受け取ると、しばらく両手で包むように持っていた。
「母は、先月亡くなったんです」
私は黙っていた。
「昨日、仕事の帰りに、いつもの癖で電話しようとして……」
女性は封筒を見つめた。
「もう、かけられないのに」
私は返却票に印を押した。
「お返しできますよ」
「え?」
「電話するつもりだったことは、もう返せません。でも、電話したかった気持ちは、まだ保管期限内です」
女性は少し笑った。
「それ、何に使えるんですか」
「さあ」
私は答えた。
「使い道までは、こちらでは決められませんので」
女性は礼を言って帰っていった。
その夜、閉店間際に老人がやってきた。
背の低い、よく磨かれた靴を履いた老人だった。
「忘れ物を取りに来た」
「いつ頃のものですか」
「六十三年前」
私は地下倉庫の鍵を取り出した。
六十三年前となると、探すのに時間がかかる。
「品名は?」
「妻に言わなかった言葉だ」
「奥様は?」
「去年死んだ」
私は少し考えた。
「申し訳ありませんが、その場合、返却できない可能性があります」
「わかっとる」
老人は椅子に腰を下ろした。
「ただ、まだ残っとるか知りたいんだ」
私は地下へ降りた。
棚は年代順に並んでいる。
六十三年前の棚は、ずいぶん奥にあった。
埃を払って台帳を開く。
その年の春、ある青年が、駅の三番ホームにひとつの言葉を置き忘れていた。
品名は「きれいだね」。
拾得時刻、午後四時十二分。
備考欄には「婚約者が新しい帽子をかぶっていた」と書かれていた。
私はそれを持って地上へ戻った。
「ございました」
老人は顔を上げた。
「そうか」
私は預かり票を見せた。
「こちらで間違いありませんか」
老人は長いこと票を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「そうだった。あいつ、あの日、赤い帽子を買ったんだ」
私は頷いた。
「返してもらえるかね」
「申し訳ありません。保管期限が過ぎております」
老人は笑った。
「そうか。そりゃそうだ」
立ち上がろうとした老人を、私は呼び止めた。
「ただし」
「ん?」
「期限切れの忘れ物には、ひとつだけ例外があります」
私は票の裏を見せた。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
《持ち主が受け取れない場合、届け先の変更を認める》
老人は首をかしげた。
「届け先?」
「はい」
私は机の上に、白い紙を一枚置いた。
「奥様に届けることはできませんが、別の方になら」
老人はしばらく考えていた。
そして言った。
「孫娘に渡せるかね」
「もちろん」
「今度、結婚するんだ」
私は紙に新しい届け先を書いた。
老人は、少し照れくさそうに付け加えた。
「赤い帽子が好きな子でな」
私は封筒を渡した。
老人はそれを胸の内ポケットにしまい、何度も礼を言って帰っていった。
時計を見ると、午後七時を過ぎていた。
私は窓口の札を裏返した。
本日の業務終了。
台帳を閉じようとしたとき、一枚の古い預かり票が床に落ちた。
拾い上げる。
品名の欄には、こうあった。
「自分が本当は何になりたかったか」
拾得者の欄には、私の名前が書いてあった。
日付は、二十七年前。
この仕事を始めた日だった。
私はしばらく票を見つめた。
そんなものを忘れた覚えはなかった。
いや。
忘れたのだから、覚えていなくて当然か。
保管期限を見る。
そこには、三か月でも一年でもなく、
「本人が思い出すまで」
と書かれていた。
私は地下倉庫の鍵を手に取った。
けれど、すぐには降りなかった。
明日の朝も、窓口を開けなければならない。
忘れ物を取りに来る人がいる。
私は鍵を机に戻した。
そして預かり票を、明日の仕事の書類のいちばん上に置いた。
二十七年間、初めてのことだった。
自分の忘れ物を、明日探してみようと思ったのは。
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了
忘れ物保管期限