「彼女に神の救いはない」と。

第一章 10歳 修道士とセラ

 ああ、ここが僕が仕える新しい修道院か!
 アルプスからルビコンを越えてラツィオの修道院へ。旅程は雪深い峻険な山奥から、徐々に豊かになっていく。街道には白い花が溢れ、紫のアザミや赤い芥子の花はまさに命が溢れる色彩を突きつける。
 風が甘い。豊かさは空気の質も変えてしまう。
 まさにこれが神の恵み。麗しの首席司教座のお膝元。ラツィオ!
 修道士は気分も爽快に、建物に足を踏み入れる。荘厳かつ優美。古代の神殿を思わせる。まさにルネサンスと呼ぶにふさわしい建築。ところどころにフレスコ画が描かれていて、抽象的な昔の絵とは全く趣が異なる。描かれている天使も、まるで目の前に飛び出してきたかのように描かれているだ。
 修道士の目の前に一人の少女が現れた。金色の巻き毛が回廊に差し込む光を反射し、無限光を思わせる。絵から本当に抜け出して……。いや、フレスコ画の天使はこのように優美ではない。
 巻き毛の繊細な光に、整った顔。10歳頃だろうか。その幼さと、ここが修道院であるという場違いさと、さらにこの優美な空間が、少女というよりも天使のような印象を与える。
 しかし、その顔は浮かない。
 少女はうわ言のように独りごちる。震える声は、苛立ちを隠さない。
「パパじゃ話にならない……。カッシーノに手紙を書かなきゃ……」
 モンテ・カッシーノに何か用があるのだろうか。
「すみません。こちらの方でしたら修道院長のお部屋はどちらに……」
 声を掛けた修道士に、少女はにべもなく答えた。凛とした声が回廊に響く。
「今、それどころではないのです。私は主の問いに答えなければならない」
「どのような問いですか。私に答えられることであれば」
 少女は修道士を一瞥する。いかにも期待していない顔で。
「今、主より私に課せられている問いは……」
 そして流暢に語りだした。
「マタイによる福音書の第19章では、主は富裕な青年に言われました。『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』と。ここに留保はありません。さて、今教会で販売されている贖宥状について、定額の金銭で煉獄での罰を軽減することができるという論拠はどこにあるでしょうか」
 格調の高い聖句の暗誦が、回廊に響いていく。
 修道士は考える。確かに、少女が考えるには難しい問題だ。しかし、答えられない問いではない。キリストと聖人の功績の宝庫。教皇はその鍵を預かり、信者に分配できる。この子には難しいかもしれないが、これくらいは言うべきだろう。
「それは……」
 口を開きかけたところで、少女が次の言葉を告げる。
「スコラ学では、そうトマス・アクィナスは言いました。『キリストと聖人の功績の宝庫。教皇はその鍵を預かり、信者に分配できる』と。ではここに疑問が生まれます。もし青年が財産を売り払わずに、わずかな施しで『満足』を得られるとするなら、主の言葉は何だったのか。あるいは、使徒言行録第4章では、『信者たちは財産をすべて共有し、一人も欠乏する者がいなかった』とあります。原始教会のその姿と、今日の贖宥状を教会が『販売』する姿に、いかなる神学的連続性があるでしょうか」

 彼は気がついた。
 この問いには答えることができない。いや、答えてはいけない。
 マタイ19章での主と青年のやりとりでは、律法を守り非の打ち所のない生活をしている青年が、足りないところは何か主に問うた。主の答えは
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」である。つまり、天に徳を積み、完全になるためには財産をすべて捨てなければならない。少なくとも分け与えるだけの余分を持ってはいけない筈だ。
 その証拠に同じマタイ19章で主はこう言っている。
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
 確かに、ここには緊張がある。教会の販売する贖宥状は定額の対価と引き換えに贖宥を認めている。実際には累進するが、特に聖職を買えるような富裕層に対してはその負担はわずかになるように設計されている。
 この緊張は修道士には耐え難かった。
 もし、聖書が正しいと言えば、定額で罪を赦すとした教会を批判することになる。ここで口にするのは厳しい。
 もし、教会が正しいとすれば、聖書を否定することになる。マタイの19章を曲げて、教皇が赦しを減額していることになる。
 この問題には、はっきりと簡単に答えられない。やはり、誤魔化してしまおうか。
「それは、教会の伝統的解釈により……」
 修道士と少女の視線が交錯する。
 見透かしたような瞳からはソロモン王が持つサファイアから発する光のような眼光。彼女の深淵めいた知性が自分を無言で問い詰める。
 少女は淡々と口を開く。
「伝統。では、ガラテヤ人への手紙にはどう答えますか。『しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわれるべきである』と。教会の決定が、もし福音と矛盾するのであれば、どちらを優先するのですか」
 青の眼光は修道士を刺す。
 なぜ、この程度のことも答えられないのか。お前は誰に仕えているのか、神か、教会か!
 まるで主に叱責されているような、熾烈な視線。
 そのようなことを口にできるものか!
 少女は物憂げな表情から、その視線に苛立ちを含むようになってきた。
「あなたが『神学大全』を読んだ。あるいはどなたかの受け売りを語ろうとしているのは理解しています。しかし、あなたが言いたかった「伝統」は福音ではありませんよね? トマス・アクィナスが考えたことです。これはわかりますよね?」
「……はい」
 修道士の力のない問いに、少女はヨハネによる福音書14章を引用する。修道士の目には、彼女の青い瞳に十字の閃光が輝いたように見えた。
「主は彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』と、いいですか。はっきり言っておきます。トマス・アクィナスは真理ではありません。あくまでも福音の解釈に注釈を入れているだけです。そして、ここに緊張があります」
 今にも悲鳴を上げそうな修道士に少女は問いを投げる。最初の問いだ。
「私は今、主の前に福音と教会の伝統の間にある緊張を抱えて立たされている。主の問いにどう答えるかを悩んでいるのです。修道士様。答えをお持ちなのですよね?」
 修道士は屈した。
「……私はこちらへ来たばかりの未熟者ゆえ、何も申せません。ただ、主の御言葉を黙想するのみです」
 少女の青い瞳の奥に輝く十字に裁かれる。修道士にはわかる。
 彼女の口がゆっくりと動き、言葉が紡がれていく。マタイの16章。
「『……する者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」
 そのまま、彼女は修道士を一顧だにせず写本室に入っていった。
 修道士はしばらく呆然と立ち尽くさざるを得なかった。彼は膝をついて打ち砕かれる。
 少女の問いすら、何も答えられないのであれば、神に仕える資格はないのではないか。
 修道士はただ、恐ろしくなり十字を切る。

 別の修道士に道を尋ね、這々の体で修道院長の部屋にたどり着く。
「顔色が悪いね。アルプスは遠かったから大変だったろう」
 水で割った甘いワイン、それも少し濃い目に入れて歓待してくれる院長に、修道士は先ほどの体験を語った。
「いえ、旅路よりも先ほど問答した天使のような少女に、己の浅はかさを思い知らされました」
 院長は笑った。大したことでもないように。
「あぁ、早速セラにやられたのか。運が悪かったと思い給えよ。彼女は特別なんだ。どうせまたカッシーノ猊下に書く手紙の内容を試しにそこらの修道士相手に問答してただけさ」
 カッシーノ枢機卿……? つまり彼女はスコラ学の筆頭である教会の首席枢機卿と、書簡で討論をしているのか?
 修道士の震える肩を修道院長が叩く。
「なに、しばらくの我慢だ。じきにあの『雷の子』はソルボンヌに厄介払いだからな。大学の神学教授どもめ、泡を吹くぞ!」
 ソルボンヌ……大学……? 修道士の理解を越える言葉を、修道院長は次々と口にする。
「セラさんはお幾つでしょうか」
「10歳だ。6歳から聖書を読み始めてあれこれしつこく聞き出した。というのはローヴェレ猊下とカッシーノ猊下に聞いた話だ。そのカッシーノ猊下ですら最早片手間には問答できんようになった。だから、ここにやってきたんだ」
 修道院長は頭を掻く。
「正直俺でも今のセラとやりあうには丸2日は聖書を読み込まにゃやってられん。だから、うちじゃもうセラは手に負えないから、ソルボンヌに引き取ってもらうことにしたんだ。カッシーノ猊下も喜んで推薦状を書いてくださったさ。教皇聖下も鼻が高かろうて」
「聖下が……ですか?」
「公然の秘密だよ。セラは教皇聖下の隠し子だ。みんな知ってるが、外で言いふらすなよ」
 教皇聖下(パパ)! 修道士は再び十字を切らざるを得なかった。修道院長は豪快に笑って、自分のゴブレットにワインを注ぎ足した。

第二章 14歳 ヨギとセラ

 リムランド大公ヨギが、薄暗い廊下を歩く。
 彼は異教の王として苦難に直面していた。北からは騎士団領が十字軍としての蛮行を行っている。西からは帝国の圧力もある。
 これを長年の異教信仰を改め、改宗によって跳ね除けようとするのだ。
 しかし、リムランドも舐められたものだ。
 教会から派遣された改宗のための教皇特使が14歳の少女と知って、ヨギは苛立ちを隠せない。
 先ほど謁見の間で引見した少女、セラは確かに美しかった。金色の巻き毛に、透き通るような青い瞳。整ったその顔は確かに神話の女神めいて見えた。
 しかし、そんな人形のような女をなぜ教会が送りつけてくるのだ!
 異教といえど大国リムランドの自分が神を改め、教会に膝をつこうと言うのだ。相応しい人物を特使として送ってこない教皇庁に、ヨギは不満を抱いた。
 確かに雷神ペルクナスへの愛着はある。今特使が待っている王の間にはまだ、ところどころ装飾があり、特に気に入っているのはステンドグラスそのものは平凡なのに、ペルクナスの影を作り出す仕組みだ。
 ヨギが座るところからペルクナスの影が綺麗に見える様は気分がいい。
 ……まぁ、いいじゃないか。教会も聖像を崇拝している。ペルクナスの像を残し、祭りを行ったとしても、ペルクナスの祭祀を宗教権力として扱わなければよいのだろう?
 14歳の人形のような少女に何ができる。
 騎士団や帝国と直接の折衝ならばともかく、あの少女相手ならば、ペルクナス信仰を実態として残す。これくらいは押し込めるはずだった。
 彼は王の間に入る。セラは客として、交渉相手として腰掛けていた。 
 ヨギはセラに対して労いの声を掛ける。
「お若いのに大変な責務を負い、辛くはありませんかな」
 セラはしばらく天を仰いだ。彼らの神から声を聞いているのだろうか。金色の巻き毛が揺れ、光が散乱する。彼女はゆっくりと口を開いた。
「その時わたしは言った。ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」
 そして、澄んだ青い瞳でヨギを見る。セラの表情はヨギに凛々しさを感じさせた。
 彼女は続ける。
「しかし主はわたしに言われた。あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。と主は仰せられる」
 これは自分の神の定めた事だと断言する。
 僅かな沈黙の後で、セラはヨギに口を挟ませない。
「私はペトロの代理人たる教皇聖下に選ばれた教皇特使です。預言者エレミヤのように務めを果たしにここに来ました。つまり」
 セラは立ち上がる。
 彼女はステンドグラスが作るあのペルクナスの影を隠すように、太陽を背に、ペルクナスの影を踏むように立つ。セラの金色の髪が無限光めいて輝く。逆光が作る影の中で、セラの青い瞳と白い歯が輝く。
「どうしてあなたは、『わたしは汚れていない、バアルに従わなかった』と言うことができようか。谷の中でのあなたの行いを見るがよい。あなたのしたことを知るがよい」
 毅然として詰問するセラの姿に、ヨギは圧倒される。ペルクナスを踏み、太陽、いや彼女が背負う神が彼女の背後に立っている!
「陛下。像を拝まれるのも、像をお建てになるのも私や教会は咎めることはございません。ですが」
 セラの眼光も、語気も鋭い。
「そこに神はおりません。主はこう言われる。異邦の人の道に習ってはならない。また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、あなたがたはそれを恐れてはならない。異邦の民のならわしはむなしいからだ」
 セラは部屋の装飾を触り始める。的確に偶像の意匠を残した部分だけ。
「彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、木工の手で、おのをもって造ったものだ」
 彼女はペルクナスの影を映す窓辺の細工に触れる。
「人々は銀や金をもって、それを飾り、くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる」
 そして、机の上の置物を手に取る。中に隠されていた像をさりげなく取り出すと、ヨギに手渡す。
「その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災をくだすことができず、また幸をくだす力もないからだ」
 セラは窓から外に向かい天を仰ぐ。
「主よ、あなたに並びうる者はありません。あなたは大いなる者であり、あなたの名も/その力のために大いなるものであります。万国の王であるあなたを、恐れない者がありましょうか。あなたを恐れるのは当然のことであります。万国のすべての知恵ある者のうちにも、その国々のうちにも、あなたに並びうる者はありません」
 そして、再び部屋の意匠に触れる。
「彼らは皆、愚かで鈍く、偶像の教は、ただ木にすぎない。銀ぱくはタルシシから渡来し、金はウパズから携えてくる。これらは工人と金細工人の工作である。彼らの着物はすみれ色と紫色である。これらはみな巧みな細工人の作った物である。しかし主はまことの神である。生きた神であり、永遠の王である。その怒りによって地は震いうごき、万国はその憤りに当ることができない」
 ペルクナスを、ただの作り物だと?
 ヨギは憤慨する。
「……お前は何のためにここに来たのだ。私を侮辱するためか? それとも教会の神がそんなに偉いのか?」
 セラは動じない。ただ神について語る。再び彼女は逆光を背負う。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」
 と答える。
 不意に穏やかな顔つきに戻り、ヨギの前に座り直した。
「私は主の御心を騙る訳にはいきません。しかし、私がリムランドに来た証をすることはできます。つまり」
 セラは再び凛々しい顔つきに戻り、宣言する。
「わたしは真理について証をするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
 ヨギは立ち上がり、セラを怒鳴りつける。
「真理とは何だ。言ってみろ!」
 セラは不意に笑った。
「ピラトだ……。本当に言った……」
「ピラト? それはどういう意味だ!」
 セラは答えない。口を真一文字に結び、ヨギから目を逸らさない。

 リムランドにおける教会の政治的地位を話すはずの会談は物別れに終わった。

 ヨギは焦っていた。教皇特使はあまりにも苛烈だ。ペルクナスを偶像に過ぎないと言い、今にも全て彼らの教会に置き換えてしまいそうな勢いで語る。14歳の少女と侮っていたが、確かに出会ったことのない圧を感じる。あれは一種の神性だ。ペルクナスの神殿で感じるものだから、分からなくもない。
 なるほど、教会はあの神性を持って、俺に圧をかけようと言うのか。
 ここでふと気になった。真理とは何か聞いたときの、『ピラト』とは何なのだ?
 別に急ぐことはないが……。
 ヨギの中で疑問が深まっていく。ヨギは特使を追い返さなかった。日を改めて会談を再開することを決めた。しかし、彼は居ても立ってもいられなくなった。

 既に日は暮れている。セラの逗留している宿舎にヨギが訪れると、アコライトがヨギを制止する。
「セラ様はただいま終課の礼拝中ですので……」
「私はこの国の王だ。特使に話があるのだから通って何が悪い!」
 ヨギは制止を振り切って礼拝を覗く。
 簡素な礼拝堂の入り口から、セラを見る。
 セラが声を振り絞って祈っている姿だった。
 そこには、ヨギを圧倒する勢いはない。
 セラが口を開く。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」
 彼女の額に、汗が滲む。息を吐く声が、静まり返った礼拝堂に響く。
 セラは祈る。
「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」
 セラは伏してもう一度祈る。声は細い。ヨギは声を掛けられない。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい……」
 セラ……。沈黙が置かれた。不意に祈りの調子が変わる。
「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです」
 セラ……。沈黙がしばし場を支配する。
「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる」
 セラ……。彼女の祈りに、沈黙がまた場を支配する。
 セラは再び五体を投げ出す。
「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。 わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。救は主のものです。どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように」
 セラ……。沈黙の仲にヨギは立ち尽くし、セラに気づかれる前に立ち去った。

 とはいえ、疑問は解けない。この国に来ている宣教師を、セラの代わりに呼びつける。
「私なんぞに、まだ用があったのですか」
 宣教師は改宗の申し入れをするまで散々邪険にされていたことを根に持っているのか、ぶっきらぼうに答える。
「教皇特使が来た」
 宣教師は期待していないように応じる。
「また、いつぞやの改宗の使者のように怒鳴り散らしたりはなさらなかったのですか」
 ヨギはセラについて尋ねた。
「それを悩んでいる。セラ、という14歳の子どもを知っているか?」
 宣教師の顔色が変わる。喋り方も、心なしか変わる。
「セラ……? あぁ、あのセラが来たのですか。追い返さなくて正解です」
「知っているのか?」
「教皇聖下の隠し子で、筆頭枢機卿のカッシーノ猊下と長らく論争しても譲らない、他の枢機卿とも親密なお方で、教皇庁の派閥の仕組みにも長じていらっしゃる。じきに枢機卿、いえおそらく聖座の主になられるお方ですよ。私なんかとはえらい違いです」
「わかった」
 ヨギは急に早口でまくし立ててきた宣教師を宥め、本題に移る。
「セラの祈りについて教えてほしい。過ぎ去らせてくださいだの、杯を飲むだの飲まないだのなんだの言う祈りだ。どんな呪いだ?」
 宣教師は呪いと言われて少し機嫌を悪くしたが
「それはゲツセマネの祈りですね」
と軽く言った後で
「はっきり申し上げましょう。あなたの明日の返答次第では、セラは死ぬ気です。教皇聖下もあなたをお赦しにはなりますまい。ほかの枢機卿もです。この国は十字軍によって消えます。脅しではありません」
 待て!
「なぜそうなる」
 死ぬ? 十字軍? 何の飛躍だ!
 宣教師はヨギが慌てたのを見て調子を取り戻したのか、淡々と答え始める。
「それは主が十字架に架けられる前の夜に夜通し『この運命を避けられないか』と祈った祈りだからです。セラはあなたが自分を十字架に架けるのではと恐れています」
 恐れている? セラが? あの態度で?
 ありえないだろう?
「セラは会談で何と言ったのですか」
 ヨギは理解に苦しみながら、忌々しそうに説明する。
「ペルクナスは木で彫った偶像に過ぎない。神ではないと。私の気に入っている影を踏んで、だ。それだけならばまだいい。使者の無礼だ。あいつは偉そうに、私は真理について証をするために来た。などと言った。そう。聞きたかったのはそれだ、『ピラト』とはどういう意味だ?」
「ピラト。それは簡単です。主を十字架に架けたローマの総督です。まさか、真理とは何か聞き返しませんでしたか?」
「そうだ」
「それでわかりました。聖書の一節で、ピラトが主を十字架に掛けることを決める場面と同じだと察したのではないでしょうか……」
 ヨギは首を振る。
「それは、しない。するはずが無い」
「明日いの一番にそれを言いましょう。ただし、今夜動くのはよくない」
「わかった。セラについて、ほかに何か知っていることはないか?」
 宣教師は考え込む。
「私はあまり詳しくはありませんが……。あぁ、セラは教会では『雷の子』と呼ばれているとか。何故かはわかりませんが……」
 ヨギは首を傾げた。
「雷?」
 あの少女は、教会でペルクナスのような存在なのか?

 翌日。あの王の間でヨギは再びセラに対峙する。
 セラは真っ先にマタイを引用する。視線は厳しいが、ヨギを圧倒する程ではない。
「祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」
 昨日覗いたのを戒める内容だ。ヨギは弁解する。
「いや、悪かった。それは許してくれ。昨日の話は私にも悪いところはあった。今日は誤解を解きたい」
「はい。わたしもそのつもりでした」
「ではまず教えてほしい。貴女が教会で『雷の子』と呼ばれているのはどういう理由なんだ? ペルクナスと関係があるのか?」
 セラが不意に笑う。ぞっとするほど美しく、この世ならざるものの顔だ。
 彼女が天を仰ぎ、口を開いた。
「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」
 反射的にヨギが頭を抱えてうずくまる。
「陛下。大丈夫です。貴方に雷を落としたりはしません。私は自分をまるで使徒ヨハネのように例えるその『雷の子』の冗談を言われた時に、この聖句でお返しするようにしているだけです」
 冗談? 教会の冗談はここまで恐ろしいのか?
「それで、特使殿に相談がある」
「セラで構いません」
 セラは軽いようで、毅然としている。ヨギは釈然としない。
「……セラ。まず、改宗したとしてもペルクナスの像を残していただけないだろうか。わが国の民はあの像を眺め、祭りを暮らしの一つとして生きているのだ」
 セラは「は?」と何を言っているのかわからない様子をした後で、説明を始める。
「あなたは勘違いをしています。まず、あれはただの像です。ただの像を倒して、改宗が捗るとは思えません」
「では、祭りは……」
 セラの真意を測りかねながら聞いてくるヨギに、彼女は解決策を出す。
「はっきり言っておきます。ペルクナスは神ではありません。ですが、難しい事を考える必要もありません。聖座が認める新しい聖人伝承として作ればよいのでは?」
 は?
「それはどういう……」
 セラはあっけらかんと答えた。
「伝承とはそういうものではありませんか?」
 本当に昨日と同じ少女なのか?
「お前は自分の教会を何だと思っているんだ、そんなことが……」
 セラの青い瞳がヨギを見据える。雰囲気が、再び変わる。
「……わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」
 ヨギは圧倒される。しばらく後で、不意にセラの雰囲気がもとに戻る。
「納得がいきましたか? それから、安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである。と主もおっしゃる。つまり、祭り自体は守られます。さて、聖ペルクナスの祭日は……」
「そのうち雷に撃たれるぞ」
 ヨギは悪態をつくしかない。
「大丈夫です。……そうですね。聖ペルクナスは雷除けの守護聖人です。今私が決めました。雷が落とされるのは嫌ですから」
 そしてセラの返しはヨギの意表を突いた。
「聖ペルクナスなど、そんなもの、教会が認めるはずが……!」
「それが、あるんですよね。勅書」
 セラが鞄から羊皮紙を取り出す。そこには聖ペルクナスの文字と教皇の署名。
 まさか、教会はここまで見越して準備していたのか?
 驚いているヨギにセラは畳みかける。
「問題はそれだけではありません。教会からも要求があります」
「……どのような要求だ」
 ペルクナス崇拝の事実上の保持の代わりに、一体何を飲まされるのか、ヨギは身構える。
「北方騎士団を封建していただけませんか?」
 なんだと?
「それは、わが国と北方騎士団の関係を知って言ってるのか?」
 声を荒げるヨギに、セラは動じない。
「はい、知っています。北方騎士団が聖戦を名目に略奪や人狩りを行なっていたことは教皇庁も存じています。これらは今までは黙認できていたのですが、貴国が異教国でなくなった以上、今後は聖戦をするわけにはいきません」
 ヨギはセラの提案にそんな急に言われてもといった表情になる。
「しかし、これまでの経緯を考えるとだな」
 セラは笑う。これは初めてヨギに見せる神聖さが全くない笑いだ。
「納得できませんか。であれば、北方騎士団は帝国に封建させることにします。私は首席司教座への帰路に帝国に寄ることにしますよ。皇帝は領地を必要とする3万の兵力を得て喜ぶでしょうね」
「それは困る」
「でしょう。ですから、北方騎士団との諍いを、神の前で水に流していただいた上で改めて封建契約を結んでいただきます。騎士団にも生活があります。ペルクナスの神殿領も一部分与いただく必要があるでしょう」
「一部?」
「はい。教会はペルクナス信仰の世俗の行いを代行しなければなりませんから、神殿領を必要とします。しかし、すべてではありません。北方騎士団も同様です」
「では、残りは?」
「教会にも、北方騎士団にも、必要な取り分はあります。差配するのは陛下です」
 不要になったペルクナスの神殿領を分配……。それも自分が……。いや、王権も強化できるのだが、教皇特使とはここまで考えてくるのか?
 ヨギが絶句していると、セラは尋ねた。
「何か?」
 ヨギはため息をつく。
「いやはや……。貴女には頭が上がらない。貴女をリムランドの大司教に推薦したい程だ。貴女に私の塗油をお願いし、貴女にはリムランドの民を是非導いてほしいのだ」
 セラは困惑する。
「いえ、私のような若輩者に、大司教座は過ぎたるものです」
「『あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない』のではなかったのかな。聖女殿」
 ヨギがセラの使った聖句を返すと、セラは苦笑いするしかない。
「おっしゃる通りです。エレミヤもそう導かれました。しかし」
 セラは視線を伏せる。
「……大司教座はパパが決めることですから」
 まるで、真意を読ませまいと視線を逸らしたのが不思議だった。

 二日目の交渉はまとまった。
 セラは立ち上がり恭しく礼をする。
「私は特使として、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返す事ができたと思っています。それでは、陛下に地上の栄光がありますように」
 その笑顔にはどこか影があった。ペルクナスを覆い、主の畏怖を見せつけるような姿はなく、14歳の少女でもない、不思議な印象だった。

 ヨギがセラに騙された事に気が付いたのは、代わりの司教が揃いも揃って行政能力だけに長けた俗物だということを知ったからだった。
 教会は本当に大物を送り込んできていたのだ。

第三章 15歳 ローヴェレとセラ 1

 教皇宮殿の廊下を、緋色の服の男がアコライトを連れて歩く。
 彼は枢機卿のローヴェレ。前の教皇の親戚だった彼は、20年ほど前にほとんど名ばかりの村の貴族からあっという間に枢機卿に引き上げられ、半島内の富裕な司教座を掛け持ちするようになった。
 自分を教皇の親戚の縁故、成り上がりもの。
 と蔑む古くからの教会貴族どもめ。あいつらは学識もなく、献金を集めてくる能力もない。ただ、富裕な司教座を梃子に、領地を手に入れて有力諸侯となっただけ。
 ならば、お前たちも同じ縁故ではないか!
 ローヴェレは、
「いや俺はそのような連中とは違う」
 と内心息巻きながらも、半島政局を切り抜け、教会の威信を世界に対して示す。金を集め、時には甲冑を着て教皇庁に従わぬ都市を包囲したこともある。
 その成果を誇り、ローヴェレ殿は次は教皇か。そう言われて図に乗っていたのも懐かしいが、あまりにも忌々しい。
 ローヴェレは隣を歩くアコライトに肘鉄を入れ、今日顔を合わせる今の教皇の顔を思い浮かべる。鮮やかな金髪、碧眼、20年近く経っても衰えぬ容貌。あの男が20年前の、俺の前回のコンクラーヴェの対抗馬ではなく、ダビデ像のモデルであればどれだけ良かっただろうか!
 ああ!顔がいいだけに余計に苛立つ。
 全く忌々しい。なぜ神はあのような男を未だに聖座に座らせているのだ!
 不意にアコライトが立ち止まったのに気がつく。ローヴェレはアコライトの腕をつかみ、視線の先を見る。
 廊下の向こう側から歩いて来るのは、鮮やかな巻き毛の金髪。ソロモンのサファイアに例えられる碧眼。あぁ、今日は何の神学の命題に悩んでいるのだろうか。憂いを帯びた表情を宿す天使のようなその容貌は、人の心を嘆息させるには十分だった。
 セラか。ローヴェレは彼女を実の父親よりもよく面倒を見ている。
 彼女が6歳の頃に自らの出生を知って救いを求めている時に、聖書の読み方を教えてからの仲だ。セラは父親譲りの容貌だけではない。あっという間に聖書を理解し、片手間では応答できなくなり、修道院で自由に本を読ませ、それでも足りないからソルボンヌに推薦状まで書かされることになった。
 しかし、だからなんだというのだ。あいつは自分の父親が教皇であることの整理すらまだつけられていない子供だ。父親がいて、母親がいれば子供が生まれるのは当然ではないか。
 まぁいい。久しぶりにセラの顔を見たのだ。浮かない顔をしているが、挨拶くらいはしてやろう。どうせ教皇との対話の後だ、セラは構ってもらいたかったのに教皇がぼんやりしていて話を聞いてもらえなかったに違いない。
「セラ。久しぶりだな」
 セラがローヴェレに気が付く、心なしか、顔色が明るくなったようだ。
「はい。ローヴェレ様もお変わりないようで」
「首尾は聞いている。リムランド王を神にひれ伏させたとか。形式だけの特使とはいえ、十分に召命を成しえたことは素晴らしいことだぞ」
 ローヴェレに褒められて、セラはややはにかんだ様に見えた。
「そのような。私の力ではありません。神の御前では、人は皆そうならざるを得ません。それよりも」
「ふむ」
「王に請われたのです。リムランドの大司教に是非、と。ですが」
 セラは目を伏せる。
「私はお断りしたのです。しかし、リムランド王陛下は是非にと聞かず」
「悪い話ではないではないか。教皇聖下は何と?」
 彼女は伏せた目をローヴェレに向け、彼の手を取る。
「パパは『王が望むなら、それもいいんじゃないかな』と言っていたのですが、私のようなものにはより相応しい役目というものがあります」
 相応しい役目。とセラが言うと、ローヴェレの眉が釣り上がる。教皇特使を見事に務め上げて、改宗させた王の土地を相応しい役目ではないと辞退すれば、後はもう枢機卿くらいしか残っていないではないか。
 セラは物怖じせずに続ける。
「それで、申し上げにくいのですが、パパには是非ローヴェレ様にもお口添えいただければ幸いなのですが……」
 ローヴェレはセラの手を振り払った。
「なるほど! 教皇に対して私から自分を枢機卿に推せと言うのか! 言うようになったな!」
 しまった。つい口に出てしまった。
 正直かわいくない。枢機卿だぞ!? 子どもがおもちゃをねだるのとはわけが違う!
 セラも、ローヴェレに叱責されて少し小さくなったように見える。
「いえ、そのようなつもりで申し上げたのではございません……」
 これは、よくない。話を変えよう。
「いや。私も怒鳴るほどのことではなかった。ところでセラ。あのバシリカは、古くはないか」
 ローヴェレはあえて窓から外に目をやった。セラの神々しさと、彼女の頼み事の差に耐えられない。
「ペトロの墓所、首座たる聖堂。あれほど神聖なものが、この教皇宮殿から見下ろされるような様であってはならぬ。私は常にそれを憂いている」
 セラはペトロの墓所を見ない。しかし、
「はい。ローヴェレ様。ペトロの墓所が、よりにもよって彼が主より預かった鍵を受け継いだものたちから見下されるなど、あってはならないことです」
 彼女も同意する。なるほど話がわかるじゃないか。
「そこでだ、セラ。私はあのバシリカを、世界でもっとも壮麗な建物にしたい」
 ここで、セラは窓の外を見た。しかしペトロの墓所を見たわけではないようだ。これから建つであろう大聖堂を幻視しているのだろうか。
「それは……。お金がかかりますね」
 まさか、セラはマタイでも引用するのか。しかし、教会は『完全になりたい青年』ではない。財を受け取り、分かち合う側だ。それに金に関しては、セラが昔一度尋ねてきたとき、マルコの2章を使って説明をしたことがある。
 あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、また読んだことがないのか。と。
「しかし、致し方ないだろう? 使徒ペトロの墓所。神の家である教会の中心がここならば、エルサレムよりも壮麗な神殿であっても、いやそうあるべきではないか」
「エルサレムよりも立派な神殿を……。それはまるでソロモンのような……」
 セラは目を丸くして、そしてはっと何かに気がついたように口を開き、ふたたびローヴェレの手を取る。
「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」
 彼女はヨハネによる福音書4章、サマリア人の女の言葉を引用した。
 ……セラめ。よりにもよって、ペトロの墓所にサマリアの女の言葉を持ってきたのか!
 アコライトの脛を蹴飛ばして、ローヴェレはセラの手を振り払う。
「……聖下をお待たせするわけにはいかん。失礼する!」
 セラはローヴェレの背中に「答え」を投げる。
「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」

 セラから目を離せず、未だ恍惚としているアコライトを引きずり、頭に拳を打ち込み、ローヴェレは内心で叫ぶ。
 エルサレムに決まっている!
 主は単に何処で祈ろうと祈りは祈りだと言っているだけで、場所の優劣ははっきりさせている。であるからこそ、主はエルサレムで過越を祝い、エルサレムで十字架にかかったのではないか!
 セラめ、大学で神学をひけらかして、異教の王を説き伏せた程度で増長しおって、リムランド大司教だと言われて調子に乗っているのか。
 異教の王ごときに推された程度で、大司教になれるとでも思っているなら……。
 いや、セラは断りたいと言っているのか。
 ふと、ローヴェレは思い立った。そうか、セラは得意げにああ言っているが、教皇宮殿の廊下で俺と神学論争をしたかったわけではない。そのようなこと、さすがに不毛に過ぎる。
 大司教座であろうが、セラは単純にリムランドに行きたくないのだ。だからセラは俺がエルサレムに決まっていると言わせようと煽ったのか。リムランドより首席司教座で務めたいのだから、俺が怒鳴りエルサレムに決まっていると言わせて「私もローヴェレ様と同じように考えております」
 などと言うつもりであったのか。
 まことの礼拝などと言っているのは、引っ込みが付かなくなって泣き言を言っているだけ。
 こう考えれば、セラもなかなかかわいいのではないか。わざわざ俺に捌けた形で、下品にまわりくどくならないように縁故を頼み込んでいるのに、俺は機嫌を損ねて席を蹴ってしまった。
 いや、セラに悪いことをしたかも知れん。
 であれば、これからセラのパパにひとつ話をしてやろうか。あの何を考えているか分からない天使気取りの金髪のガリア人に、セラの件で貸しを作れるとは思わないが……。
 ローヴェレは頭を掻き、もう一度自分のアコライトの頭を殴りつけて、予定通り教皇の間に向かった。

第四章 16歳 ローヴェレとセラ2

 中央の席には白い法衣の男が座っている。彼は金色の巻き毛に、澄んだ青い瞳の美男。
 教皇は膝上に猫を乗せてぼんやりとしている。しかし指先は猫を逃がすまいと、気持ちよさそうなところを探っている。
 ふん。忌々しい。何が「シノンの聖者」「ガリアの天使」だ。
 教皇を呼びに来た枢機卿のローヴェレは、教皇の容貌に嘆息しながらも、彼を苦々しく思っていた。
 無論。教皇は顔のいいだけの美男ではない。彼はガリアの内戦時にシノンで逼塞していた王太子に声を掛けた逸話によって世に出た。
 自らの出自を疑う王太子に向かって、説教壇の影から声だけを出して
「王よ、貴方はエッサイの子ダビデを知っていますか」
「王よ、塗油へ赴きましょう。ガリアの全ての民が、諸侯が貴方を求めているのです」
 と、その声で王子の背中を押した彼が、王子よりその指で塗油を求められたためにランスの大司教に推される。
 先代の教皇が亡くなった際にもローヴェレと他の教会貴族で票が割れ、コンクラーヴェが終わらなくなるという事象が起きる。
 彼はガリアの枢機卿を集めて、アヴィニョンで声明を出した。
「教会が割れてはならない。神の家は一つです。全ての信徒が首席司教座を見て嘆いているのを、貴方がたに聞いてほしい。パパを早く決めるべきだ」
 そして、コンクラーヴェでは、シスマを思わせる場所にガリアの枢機卿を集めるという動きを取った彼を逆に教皇にする、という決定を下すことになった。
 あぁ、この男がいなければ。今ごろ俺が……。
「ねえ、ローヴェレ」
 教皇が不意にローヴェレへ声をかける。
「僕は教皇として相応しいのかな」
「何をまた。近所の天文学者と論争して言いくるめられ、あだ名がシンプリチオになったことについては、誰も気にしておりません」
 ローヴェレの毒づく声を聞いて、教皇は笑う。
「違う違う。それはセラが何とかしてくれたじゃないか。論題の方だよ」
 ローヴェレの顔が険しくなる。
「聖座はあの程度では揺らぎますまい?」
「そうかな。僕はあの論題については軽視できないと思う。もしあれが僕の不徳なら。聖座を誰かに譲った方がいいかな。ケレスティヌス5世のように」
 また始まった。こいつは自分だけ逃げるつもりだ。俺にセラを押し付けて。
「誰もボニファティウス8世のようになりたくありますまい。それに、聖下もケレスティヌス5世のようになりたくはございませんでしょう?」
 厳しい表情のまま答えたローヴェレに、教皇はぼんやりとしたまま笑う。
「あはは。確かにそうだ。僕もローヴェレに閉じ込められたくないよ」
 こいつは本当に変わらん。
 不意に猫が教皇の膝上から飛ぶ。
「あぁ……。猫が逃げてしまった。聖座の上が心地よい牢獄だと、彼にもわかってしまったのかな」
 教皇は立ち上がる。既に50を超えている筈の彼は、未だに地上に降り立った天使の風格を失っていない。
「さぁ、行こうかローヴェレ。またセラに助けてもらおう」
 

 首席司教座にすぐに集まれた枢機卿達で枢機卿会議が行われている。議題は95ヶ条の論題について、この異端者をどうするか。帝国は改革者による諸侯の動揺を見て、改革者をすでに追放しており、どうやって異端として吊し上げるかを枢機卿会議に持ち込んだのだ。
 ローヴェレはまず、教皇を見る。彼はぼんやりと場を眺めている。その視線の先はローヴェレの隣に向かっていてカッシーノ枢機卿がセラと問答している。この二人が今回の主役になるはずだが、のんびりと神学の話をしている。
「セラさん。贖宥状の問題の前に聞きましょう。悔悛とは何でしょうか」
 セラは即答する。ヨハネの第一の手紙を引用した。
「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない」
 カッシーノは一瞬驚くが、すぐに元の調子に戻った。ローヴェレもこの解は聞いたことがなかった。大体、司祭に罪を告白し赦される。悔い改めのプロセスを答えるのだが……。
 ふふん。セラはカッシーノに何か仕掛けているな。
「では、その祈りに応える権能を、主は誰に委ねられたのでしょうか」
 カッシーノは少し問いを調整した。95か条の論題にもある教皇権だ。答えによっては最初の問いにつながっていくはずだ。
 セラは聖句で即答する。
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれるであろう」
 マタイ16章。ここは一般的だ。特に気にすることはない。カッシーノは話を進める。
「ペトロは、その鍵を何のために用いよと命じられたのでしょうか」
 セラはペトロの手紙で応じる。
「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである」
 ローヴェレは一瞬腹が立ったが、すぐに心地よさを覚えた。なるほどセラめ、ペトロ本人の言葉で教皇権を縛りに来るか。
 さて、カッシーノ「先生」はどう評価するかな。ローヴェレは楽しくなる自分に驚いていた。自分の召命でなければ、案外神学というものは面白いのだな。と。
 カッシーノはしばらく黙っていた。
 そして、静かに頷いた。
「見事です、セラ」
 セラは少し驚いたように顔を上げる。
「はい。貴女は素晴らしい聖職者だと思います」
 カッシーノの称賛に表情を輝かせる。
「ありがとうございます」
「ヨハネの手紙から教皇権を導き、ペトロの鍵を教会の務めとして説明しながら、同時に教皇そのものを絶対視しない。その論理をこの場で組み立てられるのは、教会史上、貴女くらいでしょう」
 セラは困ったように微笑んだ。
「そんな……」
 カッシーノは浮かれるセラに表情を変えることなく続ける。
「ですから、一つだけお願いがあります。教理担当枢機卿には、絶対にならないでください」
 セラの目が見開かれた。
「……え?」
 カッシーノは真剣な表情を崩さない。
「皆が困ります」
 ローヴェレが吹き出した。たまらず口を挟む。
「おい、カッシーノ。そこまで言うか」
 カッシーノはここでようやく苦笑する。セラを認めた上で拒否するのは、トマス・アクィナスに注釈をつける伝統の番人たる彼にも難しいのだろう。
「言います。私は本気です」
 そして彼は、セラをまっすぐ見た。
「教皇なら構いません」
 ローヴェレはカッシーノに駄々をこねるように抗議する。
「駄目だ駄目だ。俺の目の黒いうちは、俺が先だ。だからカッシーノ、長生きしろ。セラを止められるのはもうお前しかおらんのだからな」
 カッシーノはまた真顔になった。
「ローヴェレ枢機卿。あなたも勉強してください。セラにいいようにされないように」
 ローヴェレは気にもとめない。それどころか、セラを彼女の名字である「キルルギ枢機卿」と茶化して見せる。
「ふん。セラはいつまでもセラのままだろう? 俺はこいつが6歳の頃から面倒を見ている。可愛いセラだ。キルルギ枢機卿? 歯が浮きそうだ」
 カッシーノはローヴェレの親馬鹿に近いリアクションに対して視線を逸らす。
「はい。酷い目に遭う前に、私は止めましたからね」
 ローヴェレは気にもしない。
「さて、セラ。お前はこの論題をどう解くんだ?」
 セラは胸を張ってローヴェレに意気込みを語る。
「大丈夫です。ヨハネの手紙を起点にもう論旨は組み上げていますから。後はカッシーノ先生と細部を詰めるだけです。この論題を貼った神学教授にも、この間の天文学者のように誤りを認めさせてみせます」
「お前なぁ……」
 ローヴェレはついこの間のことを思い出した。

 教皇と論争した天文学者は自説を売り込むために、教皇を「シンプリチオ」というキャラクターとして自分の本に登場させた。彼を天動説支持者に見立て、自分を模したキャラクターに論破させるという痛快な筋書きの本は割と評判になった。
 案の定。この天文学者は匿名で異端審問所に通報された。審問を担当したのはたまたま首席司教座に戻ってきていたセラ。
 セラは「天文対話」を一読し、天文学者を呼び出す。彼女は天文学者に対して、予審としてにこやかに告げた。
「大変面白い本でした。古代の地動説を採用し、天動説と論争させる自然科学の本という主張ですね。これは禁書に指定され、あなたはこの後の裁判で異端として認定されます。これからあなたの調書を取って、悔い改めることにより異端から回復することを宣誓していただく予定です。ご心配なく、今の段階で宣誓していただければあなたに刑罰を科す予定はありません。本格的な裁判にならなければ、水とパンで7日を過ごすこともないでしょう」
 天文学者は反論する。
「あなたは科学を理解していないようだ。いいですか……」
 セラは講義を始めようとする天文学者を制止した。
「はい。自然科学について、私は興味がありません。太陽を固定すれば地球が動く宇宙論ができるのは当然です。月の地形や木星の衛星の話も面白かったですし、望遠鏡のお話も素敵でした」
 天文学者は禁書に指定される理由が分からなくなった。
「……父親を愚弄したことがそんなにお気に召されませんでしたか?」
 セラは笑っているが、その目は笑っていない。青い瞳は天文学者を問責している。
「いいえ。パパは愚かです。皆知っています。それは問題にしていません。教皇個人と聖座の価値を同一視しないことは、ペトロが多くの誤りを犯しながらもその信仰を主に認められたことからも導けます」
 驚愕しつつ首を傾げる天文学者に、セラは宣告する。
「神の全能性ゆえに、人間は自然現象について神が採用した唯一の説明を確定できない。これは神学命題です。あなたはパパが口にした神学命題をパパを模した人物に語らせて嘲笑しました。これは聖座に対する侮辱であり、教会に対する神学的挑戦になります。つまり」
 セラは笑っていない。彼女の声のトーンが変わるとともに、天文学者には予審に使われる部屋が冷たくなっていくように感じる。
「あなたは、自然現象について人間が神の採用した唯一の説明を確定できる、と考えているのでしょう?」
 セラはヨハネによる福音書14章を引用する。天文学者の目には、彼女の青い瞳に十字の閃光が輝いたように見えた。
「主は彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』と、いいですか。はっきり言っておきます。あなたは真理ではありません。悔い改め、この一節を取り消し、自らをキリストかのように思った傲慢を反省してください」

 天文学者はセラに対抗できなかった。
 異端。いや本格的な宗教裁判を回避するために調書を認めて宣誓させられる。
「私の誤りは天文学と神学を混同し、正確な根拠をつけずに神学的命題に挑戦し、教皇聖下を愚か者と記述することで聖座を愚弄しました。今後は神学的命題に対しては根拠なく神学的な挑戦をせず、教会を否定しないことを誓います」
 さらに、宣誓に署名した天文学者に、セラは追い打ちをかける。
「先生。誤解なきように。教会は正確な宇宙論を必要としています。教会はあなたの天文学の研究を応援しているのです。ですから、あなたの自説がグレゴリオ暦よりも正確であると判断された場合は、是非計算書を教会にお送りください。復活祭と生誕祭が被りにくい暦を教会は求めているのです」
 そして、この天文学者は「異端先生」とあだ名されて揶揄されることになった。

 顛末を思い出したローヴェレの顔が不意に厳しくなる。とはいえ、今回はあんなお茶目な顛末にはならんだろうな。と。
 その彼の眼の前で、セラが論題とは別の書類をじっと見て微笑んでいる。子供がおもちゃを見つけたような目だ。
「面白そうだな。セラ……いやカッシーノも認めるキルルギ枢機卿」と茶化すように聞く。
「ええ、あんな論題を貼るような人ですから、どんな講義をしているのか気になって取り寄せたんですよ」
「俺にも読ませろ」
 セラは書類を差し出す。
「ただのローマ人への手紙の講義のメモですよ。表面上は」
「表面上は?」
 ローヴェレが書類を見ると、既にセラが注を入れ始めていた。
 人はキリストの前で、信仰によってのみ義とされる……だと……?
 セラは両手を広げる。ローヴェレにはセラの瞳の中に一瞬十字が煌めくように見えた。
 なるほど、セラが気合を入れているな。
 セラの口が開く。
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである」
 マタイによる福音書の、山上の説教を引用してローヴェレに返すセラに対して、ローヴェレはすぐに理解した。カッシーノに褒められて珍しく調子に乗っている。
「そんなことはわかっている!」と一喝するも、セラは意に介さない。
「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」
 凛とした声で言うセラに、ローヴェレはなぜか毒気を抜かれてしまった。しかし言い返してやらなければ気がすまない。
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。とでも言うつもりかな」
 ローヴェレの問いにセラは
「はい。私たちは教会です。つまり……。『雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。すなわち岩とは……』」
 ローヴェレの目にはセラが楽しそうに見えた。
「何の話をしているのですか?」
 カッシーノが追いついてきた。ようやくセラの案を起点に贖宥状を再検討しようかと決心したところに、この毒麦を放り込んだらどうなるだろうか。
 ローヴェレは書類を差し出した。
「見てみろカッシーノ。論題の教授は「信仰によってのみ義とされる」とか講義しているぞ。さて、教理担当枢機卿様のご意見を聞こうか」
 カッシーノはローヴェレの差し出す書類を一瞥もしない。
「それが本当なら読まなくても結構です」
 そして彼はそのままセラに問う。
「セラ。それでは、あなたはこの議題を大学の門前に貼り付ける異端の疑いのある男をどうしますか」
 彼女はカッシーノの問いに、おもむろにヤコブの手紙を引用する。
「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」
 ローヴェレは目を見開いた。見事。確かに異端であれば火刑だ。奴は助からん。
 そうだ。ヤコブの手紙をわらの手紙などと呼ぶ以上。こいつを異端にするのは俺でもできる。
 セラはローヴェレが何を考えているかも意に介さず、長々と聖句を引用する。論題の相手に勝利する道筋を見つけたのだ。
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか」
 ローヴェレは頷き、セラに尋ねる。
「なるほど。骨子はわかった。では、セラ。お前ならこの神学教授を審査し、異端にしてしまえるな。こいつを火刑にすれば、話は丸く収まる。主もおっしゃる。『人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』と」
 セラの顔から徐々に血の気が引いていくのがわかる。まさか、相手が火刑になるとは思っていなかったのか。
 彼女は早口で、急いでまくしたて始めた。
「い、いえ。お待ちください。ローヴェレ様。この論題を貼り付けた神学者を燃やすのはやめましょう。マタイにあります。『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう』また、ヤコブも強く戒めています。『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ』と」
 呆れた。
「セラ、ではお前は!」
 しまった。つい声が大きくなる。
 セラは食い下がる。彼女も声が大きくなる。
「ローヴェレ様。論題を門前に貼ることは私もソルボンヌでしました。カッシーノ枢機卿もそうです。教皇権について議論しています! しかし、私は火刑になっていません。おやめください!」
 ローヴェレはセラに、この論題の構図を語る。牧会者は神ばかり見ていればいいわけではない。人を見ろ!
「いいかセラ。問題はそこではない。その羊の衣を着た狼の預言者がただの愚か者であろうと、アルビジョワのトゥールーズ伯のように便乗する愚か者が現れる。そうなれば十字軍だ。お前の言う通りの異端者なら、この教会を否定する文書が流布される前に燃やすのが妥当だろう!」
 セラは歯を食いしばり、ローヴェレを見据える。すぐに額に手を当て、彼に手のひらを向けた。
「少し、少し考えさせてください……」
「セラ。お前に無理にとは言わん。無理なら言え。カッシーノ枢機卿にお願いする」
 セラは動かない。手を組み、顔を歪め、祈るように考える。
 そして、しばらくして口を開く。
「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」
 なるほど、コリントの信者への手紙か。セラの言いたいことはわかる。じゃあこうしてやろう。
 ローヴェレは意地の悪い笑い方をしながら答える。
「決まっている。俺はケファにつく」
 読めるかセラ。これは俺の信仰告白でもある。軽く扱うなよ。聖書で返してみろ。
「ローヴェレ様、そういう意味ではなく……」
 セラは即座に切り返さない。そうだ。信仰とはこういうものだ。信仰によってのみ義とされるだと。いいか、俺は「自分が神学的に正しい」などと考えるよりも先に教会で仕事をしている。このケファの墓の上でだ。
「ふん。お前をキルルギ枢機卿などと格好良く呼んだ俺が悪かった。お前はいつまでもセラのままだ」
「そんな、ローヴェレ様……」
 ここで初めて教皇が口を開いた。
「セラ。ローヴェレも君の言いたいことはわかっているよ」
 教皇はローヴェレに初めて視線を向けた。
「だから、ローヴェレ。代わりにセラの考えていることを説明してほしい」
 その表情は穏やかだが、笑ってはいない。
 ローヴェレは教皇に促されて、セラの引用したコリントの意図を説明する。
「セラ。いえセラだけではありません。我々教会が恐れることは分裂です。セラが異端に寛容な訳ではありませんが、もし教説が原因でキリストの身体を裂くことになれば、我々にも罪はあります。毒麦を燃やすとしても、諸侯相手の十字軍であれば本来、避けなければならない事態です」
 教皇はうん、うんと頷く。
「うん。わかった。じゃあ少し話を変えようか。セラはこの、いわゆる「改革者」に勝てるかな?」
 軽く聞く教皇に、セラは答えを出さない。
「勝てるかどうかはわかりません。そもそも、神学討論は本来勝ち負けではありません」
 わからんでは困る。教会は勝たねばならない。
「セラ……」
 ローヴェレをセラが制す。
「最後までお聞きください。私は主の御心のままに福音に照らして彼と話をするだけです。異端であるなら、主は彼を助けないでしょう。逆に、私が彼を追い詰められないとすれば、それは異端ではなく、一つの神学の説として認定するだけです。それから」
「それから?」
 尋ねる教皇に対して、セラの目が光る。
「『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』と。ですから主の言葉に従い、修道院を奪い、十分の一税を止めるものに対して教会はこう言えるでしょう。『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』と」
 セラは続ける。
「私はこの論題を貼った人を赦します。むしろ、別の機会に思う存分話してみたいと思います。しかし、この人を利用して不法を働くものに関してはそうではありません。そして、この論題を貼った人はともかく、修道院を奪い、十分の一税を止めようとする世俗の諸侯が、いかに強欲であるかを証しすることはできます」
 教皇がセラの顔を見る。ローヴェレの目には、セラには自信があるように見えた。天文学者を追い詰めたときのように不敵な笑顔だ。
 教皇はふぅ、と息をついて結論を出す。
「決まりだ。この論題を貼った神学教授を追い込むふりをして、匿った諸侯を帝国議会で追い詰めよう。追い詰める役はセラにやってもらう。諸侯には容赦はいらない。……これでいいかな。ローヴェレ」
 まぁ、こんなものだろうか。セラは審問官としても外交官としても十分実績がある。さらに、教皇が決めたのならば、悪いようにはなるまい。
「……御心のままに」
 結論は出た。近いうちにセラが帝国議会の大舞台で、諸侯を追い詰める筋書きをこれから組み立てる。

 ローヴェレはセラを見る。
 あぁ、賢いセラ。おそらく異端には負けないだろうが。しかし、牧会者はそう楽な仕事ではないぞ。

「彼女に神の救いはない」と。

「彼女に神の救いはない」と。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 10歳 修道士とセラ
  2. 第二章 14歳 ヨギとセラ
  3. 第三章 15歳 ローヴェレとセラ 1
  4. 第四章 16歳 ローヴェレとセラ2