別れ

無機質な蛍光灯の白い光に照らされ、ベッドに座り込んで机に便箋を広げる人影が一つ。インクをつけ、筆先を立てる。見慣れた病室での、何気ない動作。だが、その人物の指先は、僅かに震えていた。
「拝啓、かつての友人へ……」

拝啓、かつての友人へ。治療の一環と称して手紙の執筆を課された。なのでこれから、報告と共に君への思慕を連ねようと思う。
早速直近の出来事を……と言いたいところではあるが、まずはこの純文学めいた口調についてひとこと言っておきたい。聡い君になら、私が太宰のかの著作を意識していることを理解できることでしょう。
お察しの通り、この語り口は借り物である。だが決してむやみに格好をつけたい訳ではない。私の中にいる怪物は、飾り立てずに差し出すにはあまりにも汚らしく、あまりにも幼い。こうして言葉でくるまねば恥ずかしくて表に出せないのだ。言い訳じみていることは承知している。だが君には、君だけには履き違えて欲しくないのです。
……では、彼の構成に倣って、今私のいる病院と医師、現在受けている治療についてざっくり紹介していく。
施設は最寄り駅から徒歩十分。立地は悪くないが、そこだけ地図から切り抜かれたみたいに、周囲にコンビニやらドラッグストアといった馴染みある店が本当に無い。無いのだ。この病院は建設前にダイナマイトでも仕掛けて、周辺を更地にする段階を踏んだのだろうか。
診察室だとか、細かい用途の部屋は君も知っているだろうから割愛する。さて、次に私の担当医について。
とても優秀な医師であることを、彼を初めて見る人間にもきっと理解出来るだろう。冷気にも似た、なんとも冷ややかな空気を纏った知的な青年に見える。
しかし、彼は良くも悪くも結果に正直すぎる。患者の機微など知ったことではないという理論が態度の節々に出ている。彼の馬鹿正直な診断を受けた心の柔い人間は多分、針のむしろとなるだろう。精神的に。彼と話していると、論理の完成系を目の当たりにしているような不思議な気分になる。
ただ、義務として請け負った面倒事を投げ出さない姿勢は少し尊敬している。情という釣り針は、時に怠惰という、黒々として、その身を絡ませようと絶えず蠢く魚を引き上げるのだから。そして彼にはその、この身を締め上げる魚を取り除く手伝いをしてもらっている。彼曰く、無意識の執着を手放すことが治療の第一歩らしい。
回りくどい書き方をしたが、治療内容は極めてシンプルである。容態の報告、面談、薬の受け渡し。それだけ。面談も、こちらが切り出さなければ込み入った話は出来ない。本当に、重厚な門のような男である。自ら戸を叩かなければ決して開くことはない。
最初こそ彼の一動作に怯えていたし、彼の言葉に私の心はズタズタに引き裂かれていたのたが、最近はその一貫した言動にある種の安心感を覚え始めた。一歩引いてみると、彼の態度は恐ろしいほど揃っていることに気づく。知識が無くとも法則性を拾えるほど、機械のように正確な人間です。模倣すら出来そうだ。今度君に、彼の声真似でも聞かせてやろうと思っています。
さて、場も十分に温めたことだし、本題に入ろうと思う。精神科に通う理由である、私の心に巣食うものについてお話します。

結論から言うと、これは「本能的な恐怖」と言い表せるものなのだろう。自らを守るための、骨身に染みている硬い硬い鎧。同時に、私の心の柔いところを突き刺す針でもある。かえしのついたね。
幼い頃のこれの作りはもっと単純だったし、容易に外れた。だが、外界で生きていくには脆すぎたのだ。覚えていますか。暗い部屋で物音に怯えながら二人で身を寄せ合ったことを……ああ、怯えていたのは私一人でしたね。
怯える経験はそれから幾度も降り注いだ。母からの叱責、学校の同級生からの嘲笑、結果を求めて私を駆り立てる周囲。弱者を兎と称した先人には頭が上がらない。もっと狡猾で、もっと醜い物で揶揄されていたら、私の心はきっと今日まで持たなかっただろうから。
兎は茂みに身を隠す。そして私は、都合が悪くなるといつも思案に耽っていました。頭の中に逃げていたのです。その度に貴方は私を迎え入れてくれましたね。
分かっていたのですよ。全て私の中の怠慢が引き金となっていることを。でも、どうにも出来なかった。対処を躊躇う間にも、私の心は矢の雨に向かって開き続けていた。逸らし方も守り方も分からなかった。今ではその純真さすら憎い。馬鹿だね、本当に。
やがて、その刺さった矢たちは胸の内で形を変えました。柔らかくしなり、そして檻となった。瞼の裏に浮かぶそれは、痛々しい本質とは他所に美しい規則性を持っていた。前に、幾何学模様と称して見せた絵があったでしょう。君が綺麗だと褒めてくれた絵。あれ、私の心の中を描いたものだったのですよ。知らなかったでしょう。ああなってからは手の施しようがなくなったので、心は打ち捨てることにしました。
それからの生活は穏やかだった。本当に、平穏だった。母の叫ぶ声も猫の威嚇にしか聞こえなくて、今まで怯えていたのがちょっと可笑しくなりました。彼らの怒りも悲しみも失望も責め立てる声も、私に寄り添う声も、届かなくなった。私の心は、今もガラスに守られています。
君の声も久しく聞いていませんね。私が自分を粗末にする真似をしたから、怒っているのかな。君は私の中で、無垢の象徴でした。今思えば、かつて見た煌めく水面や咲き乱れる花々が美しく感じられたのは、貴方といたおかげなのだと思います。

「君と最後に交わしたのは、どんな会話だっただろうか」
そこまで書いて手を止めた。かん、かんと、ペンの頭で机を叩く音が病室に響く。便箋の上には一つ、小さな水玉が乗っていた。コップはとっくに空であるのに。
その時、数回のノックが思考で満ちた静寂を破った。そちらに目を向けた時には、既に扉が開いていた。そしてドアの先に立っている人物。スラリと背の高い、シャツの上に白衣を羽織った男。その瞳は蛍光灯の光一つ反射していない。
「調子はどうですか」
と担当医が一言尋ねた。まあまあです。と、思ってもいない言葉が口から出た。彼はそれを受けて一つ頷き、懐から本を出した。「好きだったろう」と言い残したかと思えば、それを置いてさっさと出ていってしまった。男が出ていった後の、綺麗に閉じたドアをしばらく見ていた。
……そうだ、あの本。
徐に立ち上がる。その拍子にペンが転がり落ちたが、気にも留めなかった。入口近くの棚の前で足を止めた。カバーも何も無い、こじんまりした文庫本を手に取る。人間失格、と真ん中に小さく記されていた。
ベッドに腰掛け、記憶を頼りにパラパラ捲る。初めに読んだ時は確か、中途半端な人間だ、という感想を抱いたと思う。とあるページで手を止め、一文を指でなぞった。
「神に問う。無抵抗は罪なりや?」
しばらく眺めて本を閉じる。慈しむような手つきで表紙をそっと撫でながら、あの一節に思いを馳せた。
今なら理解できる、なんて図々しいことは言わないが、あの頃よりは先の一節と私の心が線でつながったように感じる。責任の矛先を探しても、際限ない暗闇の中ではどうしようもないのだ。このまま、諦めて海底を這いずり回る人生も一興ではないだろうか。
思考は沈んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。水面に戻るための梯子から、一本ずつ指を離していく。
続きを読む気にもなれず、そのままシーツに体を預けた。意味もなく天井の斑点を眺める。視界の端に、白い星がいくつか瞬いた。やがて、星と斑点が混ざり始め、空調の音もしだいにこもっていく。

夢、というほどハッキリは見えない。ただ、風に揺れる草原のような緑が穴の空いた視界にちらちら見えている。
隣に誰かがいた。五歳ほどの、年端もいかない子供。自分と手を繋いで笑っている。柔らかい髪が陽の光を受け、毛先が金色に光っている。こちらに微笑みかけるその顔は、目尻だとか口角だとか、そういう感情の表現を担う筋肉全てが緩んでいるような、気の抜けるほど純粋なものだった。
それを受けて私も笑顔を返した。かつて何千回、何万回と交わした、なんでもないやり取り。
でも……ああ、どうしてこんなにも、胸が痛いのだろうか。ふと、頬に温かいものが流れていることに気がついた。
ガバッと体を起こし、記憶の消えぬうちにペンを取った。再び紙の上を筆先が走る。思い出した、とだけ書いて再び手が止まった。胸を打つ拍動だけが耳に届き、私の思考を散らせた。

思い出した。私たちはあの時、理想の別れとはなんだろう、という議題を掲げていた。
二人の意見は双方噛み合っているような、食い違っているようなものだった。私は、別れ際に自分を守れるものを手渡してやること、と答えた。そして君は、これまでその人と過ごして感じたものを、二人で共有できる形に整えてやること、と答えましたね。
この手紙は、君の意見に沿った私なりの答えなのです。
長々と語りましたが、最後に君の愚痴の一つや二つ、こぼしておこうと思います。立派に仕立てたシャツより、染みたコーヒーの点々の方が目につくでしょう。
まず君は、見境なしに口を挟みすぎている。私と同一の存在だからって、実態が無いという欠点があるからって、そこにつけ込んで茶々を入れれば私が思い通りに動くと思うなよ。馬鹿。
それから、言いたいことを言ったらフッと消えてしまうのもいただけない。会話はキャッチボールだろう。投げたなら大人しく返されるのを待って欲しい。
私はね、長い間ずっと待っていたのですよ。君からの返事を。期待に沿った結果が帰ってくるのを。
執着を分かりやすく形にしたなら、こういうことになるのかもしれない。しがみつくのではなく、同じ場所に留まり、かつて得られた幸福を待ち続ける形。
この手紙は君への譲歩でありながら、これを手放すただ一つの方法なのです。そして最初で最後の、ささやかな反抗。
さようなら、かつての友人。さようなら、私の中でしか生きられない、たった1人の友よ。これからは君に施してきたものを、少し外に出してみようと思います。

「まずは彼の門を叩くことから始めることにしよう」
最後にこう締めてペンを置く。ふと、視界の端に何かがちらついた。枝木にとまる雀であった。その膨らんだ羽毛を見て、周囲がひやりと肌寒いことに気がつく。窓から差す日の光が、書いた文字たちを光で縁どった。
タントンと、紙束を机の面で軽く整える。パラパラ捲って、
「よし」
と呟いた。
一歩踏み出すごとにパタパタとスリッパが鳴る。その手には便箋と、先程の文庫本が握られていた。診察室の前で立ち止まり、一つ息を吸う。
ノックを数回。少ししてから、
「どうぞ」
と抑揚もへったくれも無い声が聞こえた。

別れ

別れ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-24

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