書破山

書破山

 病に苦しむ、父の最後の願いを叶えてあげたくて、私は果樹園から林檎をひとつ盗んだ。
「林檎が食べたい、甘酸っぱい林檎が食べたい」
 老いた父の切ない声に、私は自らが罪を犯す事に、迷いが無かった。それこそが、私に取っての本当の罪だったのかも知れない。
 父は、切り分けた林檎を一口齧ると、心の底から救われた様な安堵の声で囁いた。
「嗚呼、美味しい……。最後の願いを叶えてくれて、ありがとう」
 それが、父の最期の言葉だった。息を引き取った親の手を握り、私は大粒の涙を零した。
 父の葬儀の準備をしなくてはならなかった筈だが、村の誰かが、私が盗みを働いた事を役人に密告したらしく、六名の兵士が家にまでやってきて、私を捕らえた。もはや、抗う積もりも、逃げる積もりも無かった。この世を去った父の亡骸を目の前にして、私が醜い姿を見せる必要が、一体どこにあるだろうか。
 それに、私には卑怯な打算があった。
 もしも、私が盗みの罪で死罪を言い渡されるのであれば、それこそ、亡き父にすぐに会いに行ける。そう、歪な考えが心の片隅にあった事は、決して否定できない。

 縄で縛られ、兵士達が護送する先で待っていたのは、予想だにしなかった領主であった。私の様な、名も無ければ武勲も無い、貧しい罪人一人のために、何故に領主が態々裁きを下すのか、それは理解を超えていたが、理解する気も無かった。私は空っぽの人間だったから。
 領主の目の前で跪いて、私は視線を合わせる事も無く、項垂れていた。
「お前は、病に伏した父の、最後の願いを叶えるために、あの果樹園から林檎を盗んだ。その咎を、慈悲だけで赦す訳にはいかない。だが、慈悲も無しに無暗に裁く様では、徳で統治する事などできない。よって、お前には罪を償う機会を与える。良いか、心して聴け。ここから東へ向かった先に、書破山と呼ばれる煉獄の山が在る。その山の麓に赴いて、洞窟を通り、山の頂まで登るのだ。無事に達成されたのであれば、その時、お前の罪は全て償われる。何者にも、お前を盗人と呼ばせたりはしない、約束しよう。お前は、この罪を償うか。罪を償う事を、私に約束してくれるか」
 私は唖然としていた。斯様な罪償いの術の前例は聴いた事が無い上に、ただ、山に登るだけで罪が償われるだなんて、道理が通らない気がしたのだ。
 だが、領主の静かな眼差しを前に、恩情を無碍にできる筈も無く、私は顔を上げて答えた。
「約束します」

 六人の兵士達に護送されながら、私は里を離れて、東の遠くに山道を辿っていた。
 目的地である書破山は、まだ見えてこない。それでも、胸いっぱいに吸い込む緑の香りや、心を弾ませる鳥獣の鳴き声に、私は無自覚にも、生きる活力を取り戻していた。つい先日までは、父を亡くした事を理由に、自分の死さえも願っていた筈なのに、身勝手にも、生きたいという本能が湧き起こっていた。私は自身に起きている変化に気付いていたが、しかし、どこか「それが自然の姿だ」と言わんばかりに、自らが罪を犯した自責の念も忘れて、生きていた。唯々生きていた。
 数日を掛けて、兵士達と野路山路を越えていくと、いよいよ、雄々しい山の姿が遠くに見えてきた。
「囚人、あれが書破山だ。我々が護送するのは、あの山の麓にある、洞窟の入り口までだ。それ以降は、一人で山を登れ」
 私は思わず、兵士の一人に訊いてしまった。
「もしも、私が逃げ出したら、どうする心積もりですか。殺しますか」
 すると、兵士達は顔を見合わせて、腹の底から笑った。
「仮にお前が逃げ出したとしても、自身の罪から逃げる事はできないだろう。故に、我々がお前を追う必要も、殺す必要も、どこにも無いのだ」
 一囚人である私には、その言葉の意味が解らなかった。彼らがどうして笑い、どうして納得をしているのか、私自身、理解が及ばなかったのだ。
 まるで、私一人が世界の常識から仲間外れにされた様な気持ちを抱えながら、無心になって歩き続けると、いよいよあの山の麓、洞窟の入り口に到着してしまった。
 六人の兵士達は「お前の罪を償いなさい」と、まるで儒学者の師が教えを諭す様に、その一言だけを残して、私を置いて帰っていった。

 お前の罪を償いなさい。

 きっと、私はこの言葉の真意にすら気付けていないのだろう。だが、ここまで来たからには、領主からの特赦の条件を達成する他に無い。私は一人、洞窟の中へと進んでいった。
 洞窟の中は薄暗く、歩けば歩くほどに、次第に暗くなっていくが、同時に気付いた事もあった。この洞窟は、まるで人が歩く事を想定した街道の様に整えられている。そのため、仄暗い空間でも、自然と転ぶ事も無く、歩き続ける事ができた。それに、不可思議な物も見えた。洞窟の奥から、微かな風が吹いてくる。その風に乗って、グシャグシャに丸められた紙が、青い炎に包まれながら燃えて、私の左右を通り抜けていく。すると、妖怪か魂か、何かしらの存在が道を照らしてくれているのか。その青い炎によって、洞窟内の道を照らしてもらっているのか。……と私の直感が納得をしたのだ。
 洞窟を進み続けると、左右の壁面に、所々、まるで部屋の出入り口の様な洞が在る事に気付いた。私がその洞に近づき、中を覗き込むと、思わず息を飲んだ。
 無数の亡者達が、紙に筆を以てして何かを必死に書いているが、この高温多湿な洞窟内では汗が止まらず、紙が汗でふやけてしまい、まともに字を書く事ができなかった。彼らは、癇癪を起こして、紙に向かって露骨に怒りをぶつける様に、グシャグシャに丸めて棄てると、新しい紙を取り出して、また筆を執るのであった。
 すると、棄てられた紙が風に運ばれて、自然発火を起こして青い炎に包まれると、洞窟の道を照らす様に、流されていくのだった。
「そうか、あの紙は、亡者達が棄てた紙だったのか」
 亡者達には、私が見えていない様だった。彼らは夢中になって、怒り狂いながら独り言を言っている。
「神よ、仏よ、私を赦してください。私の咎を赦してください、私の苦しみを取り除いてください、私を浄土へと招いてください、私を、私を、私を……ッ」
 私は気づいてしまった。彼らが書いている物は、神仏への嘆願書だったのだ。彼らは嘆願書を書けば罪が赦される、苦しみが無くなる、救われると妄信して、ひたすらに書き続けているのだ。その姿そのものが、罪で在り、苦しみで在り、救いから程遠かった。

 部屋を後にした私は、既に迷いを棄てていた。疑いも無くなった。この山を、書破山を登り切る事にはきっと意味がある。そこで咎を赦されなくとも、苦しみが残されていても、救われる事が無くとも、私に取っての意味がある。何故、そう確信できたのか、私自身にも理解ができなかった。いいや、理解できなかったのではない。理解を必要としなかった、理解を超えていたのだ。それは、言うなれば使命である。使命に殉じる覚悟を授けられたのである。
 もしも、今は亡き父が、あの亡者達の様に彷徨い、嘆き、苦しみ続けていたら、私なら、
「お父さん、貴方の罪は赦されます、貴方の苦しみを取り除きます、貴方を救います。そのための術を、私が体現して見せましょう。どうか見守っていてください」
 斯様に、迷いの無い心で誓願を立てるだろう。
 そして、父の魂が、もしも咎人であるこの私を見守って下さっているならば、何故に、私が応じない事があるだろう。生み育てて頂いた御恩に報いるためにも、生きて行える最後の孝行と悟り、愛を以てしてこの山を登り切るのだ。それが、私の使命、私自身が選んだ使命なのだ。
 勇む心で地を踏みしめて、登り続けていると、前方が仄かに明るい事に気付いた。あれは、明け方の空の光ではないか。私の胸中には無条件の希望が燃え立ち、勢いよく斜面を駆け上った。あと少し、あと少し、あともう少しで書破山を登り切れる、あの頂に立てる。
 それは、既に領主との約束を理由にした衝動ではなく、只管に迷い無き心境から生ずる、躍動であった。
「……これが、書破山の、山頂か」
 洞窟を飛び出ると、丁度、方角が東を向いていたらしく、夜明けの燃える様な輝きに満たされた空を見つめて、私は熱い涙に頬を濡らした。
 美しい。私は罪を犯した人間なのに、こんなにも素晴らしい世界を眺めて、涙している。生きている事が嬉しかった。生かされてきた事実が嬉しくなった。父の御霊に祈りかけて、黙祷を捧げた。父よ、私は貴方に正しい在り方を体現して見せる事が、できたでしょうか。
「約束を守ってくれたな」
 双眸を開き、左隣に振り向くと、ここにいる筈の無い領主が立っていた。しかし、私はこの状況を、ちっとも不思議に思わなかった。そう、約束を求めたのは領主。約束を守りに赴いたのは私。約束の場所は書破山の頂。ここでもう一度会う事は、唯物論を超越した、必然性さえも感じさせた。
 領主は慈悲深い微笑を浮かべて、私の両手を握った。
「お前に過酷な試練を課してすまなかった。私はどうしても、お前に罪を償ってほしかったのだ。お前が見事、約束を果たしてくれた事を、私は嬉しく思う」
 領主の手を握り返して、私は言葉も無しに頷いた。声にならない声で「ありがとうございました」と繰り返し御礼を申し上げながら。

書破山

書破山

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-10-19

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