あの日の夏
プロローグ︰境界線の向こう側
惹かれ合うのに、そう時間はかからなかった。
だけど、決して結ばれることはない。
そう、分かっていたのに……。
私は一線を引いていた。
でも、彼はその一線を越えようとしてきた。
共通の趣味で知り合った彼は、私よりも8個も若い青年だった。
ただの趣味の合う相手、そう思っていたはずだった。
でも、彼とメッセージのやり取りをしていくうちに、何気ない日常の中に、彼とのやり取りという小さな楽しみが増えていった。
ダメだと分かっていた。
だから、最初に私が結婚していることを伝えたのに、彼からのアプローチは止まらなかった。
『特別』その言葉を言われるたび、無意識に喜びを感じていたのかもしれない。
誰にも言えない、言えるわけがない……。
そうして、私たちだけの秘密が始まった。
気づかないふり
彼は、とにかくよく質問をする人だった。
涼太『今日は何するの?』
知里『家のことやるよ』
涼太『旦那さんは仕事?』
知里『うん、今日も仕事だよ』
最初は、本当にこんな他愛もない会話ばかりだった。
その話題は途切れることがなく、私はいつも笑いながら答えていた。
毎日そんなやり取りを繰り返すうちに、彼からのメッセージは少しずつ私の日常になっていった。
涼太『知里ちゃんの好きな食べ物は?』
知里『うーん……いくら、かな』
涼太『いくらか、僕も好き』
そんな何気ないやり取りが、いつしか当たり前になっていた。
彼からのメッセージが届く朝が、少しだけ楽しみになっていた。
涼太『知里ちゃんと話してると楽しいな』
知里『私も楽しいよ』
その時は、純粋に嬉しかった。
ただ、それ以上の意味なんてないと思っていた。
それからも、私たちは毎日のように他愛もない話を続けていた。
涼太『知里ちゃんに癒されたいな』
知里『え、急にどうしたの?』
涼太『知里ちゃんのところに癒されに行こうかな』
知里『無理だよ。話をすることしかできないよ』
涼太『やっぱり無理かー』
怪しいなとは思っていた。
それでも私は、気づかないふりをしていた。
一線を越えてはいけない。
そう自分に言い聞かせていたから。
それでも、彼は諦めなかった。
それから、しばらく経ったある日。
涼太『やっぱり会いたい』
知里『ごめんね、会うことはできないよ』
涼太『じゃあ、僕に会いに来てよ』
知里『それも無理』
断るたびに、これで終わるだろうと思っていた。
それでも、彼から届くメッセージを待ってしまう自分がいた。
近づく距離
あの日を境に、彼は以前よりも気持ちを伝えてくるようになった。
私は相変わらず受け流していた。
それでも、その言葉が少しずつ心に残るようになっていた。
涼太『僕とデートして』
知里『だから、無理だってば』
涼太『じゃあ、何ならいいの?』
知里『ここで話すくらいしかできないよ』
断っても、彼は諦めなかった。
それでも私は、会うという選択はしなかった。
涼太『仕事終わったー』
知里『お疲れ様』
涼太『知里ちゃん……僕のこと癒やして』
知里『いやいや、どうやって癒すのよ』
涼太『会いに行くから』
知里『はいはい、無理ですよー』
彼は冗談めかして何度も「会いたい」と言ってきた。
私はそのたびに笑って受け流していた。
涼太『今日、地元の花火大会なんだ』
知里『そうなんだ。見に行くの?』
涼太『仕事だから行けない』
涼太『花火より酒飲みたいけど笑』
知里『私は花火みたいな』
数日後、今度は私の地元でも花火大会があった。
その日は、旦那と一緒に車で出かけた。
知里『花火見てきた!すごく綺麗で興奮しちゃった』
涼太『見れて良かったね』
知里『うん!目の前で見れたの』
少しずつ
いつからだったんだろう。
彼からのメッセージが届くことを、当たり前のように思うようになったのは……
朝、スマホを手に取る。
そこに彼の名前を見つけると、ほんの少しだけ嬉しくなる。
それだけだった。
私は、そう思っていた。
ただ話をするだけ。
何気ないことを聞いて、笑って、くだらない話をして、それだけの関係なのだと……
なのに、彼から連絡が来ない日は、どこか物足りなさを感じるようになっていた。
涼太『おはよう』
知里『おはよ』
涼太『今日も残業になりそう』
知里『そうなんだね、ファイト』
涼太『早く帰りたいよー』
知里『うーん……早く帰れるように頑張るしかないね』
涼太『早退して、知里ちゃんに会いに行こうかな』
知里『また、そんなこと言って……私よりもっと若い子と遊んだら?』
涼太『知里ちゃんは特別!』
知里『特別って言われてもな……』
涼太『離さないよ』
知里『ちょっと、怖いよ』
怖いと言ったけれど、本当に怖かったわけじゃなかった。
そんなふうに言われたことが、少しだけ嬉しかった。
けれど私は、その気持ちを深く考えないようにしていた。
ただ、彼と話す時間が楽しい。
それだけなのだと、そう思っていた。
交わされた言葉
それでも、私たちのやり取りは変わらなかった。
朝になれば「おはよう」とメッセージが届いて、仕事の話をしたり、くだらないことで笑ったり。
そんな毎日が、当たり前のように続いていた。
涼太『今日は仕事早く終われそう』
知里『そうなんだ、良かったね』
涼太『お酒飲めるー』
知里『あまり飲み過ぎないようにね』
涼太『知里ちゃんは飲まないの?』
知里『私はお酒やめたよ』
涼太『えーもったいない一緒に飲みたかったな』
知里『残念でした笑』
涼太『タバコは?』
知里『タバコもやめたよ』
涼太『そうなんだ』
知里『ちょっと、旦那に呼ばれたからまた後でね』
涼太『良いよ、後で僕ともイチャイチャしてね!』
知里『何言ってるの、マッサージ頼まれただけだよ笑』
涼太『僕もマッサージしてほしい』
知里『毎日デスクワークだと目や肩凝るよね』
涼太『うん、だから知里ちゃんに癒されたい』
知里『うーん……私では癒せないなぁ〜』
涼太『何でよ』
知里『だって遠いから』
涼太『もうちょっと、僕のこと意識してよ』
知里『意識してるよ?若さに負けないように笑』
涼太『そうじゃなくて』
知里『ふふふ』
涼太『僕だって男なんだからね』
知里『分かってるよ』
涼太『じゃ、もっと僕のこと見てよ』
知里『分かった分かった、ちゃんと見とくね』
涼太『また夜話そう』
知里『了解だよ』
涼太『仕事終わったー』
知里『お疲れ様、今日は早く帰れたんだね』
涼太『うん、早いって言ってももう21時だけどね』
知里『確かに』
涼太『今日は何してたの?』
知里『ん〜いろいろ考えごとしてた』
涼太『それは……僕のこと?』
知里『いや、違う』
涼太『何だ……』
知里『ちょっとは考えてたよ?』
涼太『本当?どんな事考えた?』
知里『可愛いなぁ〜って』
涼太『えー何それ』
知里『ふふ、ねぇ……涼太』
涼太『ん?』
涼太『もしかして好きになっちゃった?笑』
知里『え?好きよ……人としてね笑』
涼太『知里、僕も好きだよ』
涼太『だから、おやすみなさい!』
知里『おやすみ笑』
声
あの夜、私たちは「好き」という言葉を交わした。
それでも翌朝、私は何もなかったように「おはよう」と返した。
昨夜のことには、あえて触れなかった。
触れてしまえば、私の気持ちまで知られてしまうような気がしたから。
大人の余裕を見せたかったのかもしれない。
それに、分かっていたはずだった。
たとえ私たちが同じ気持ちだったとしても、付き合うことなんてできない。
私の「好き」と、彼の「好き」が同じものなのかも……今となっては分からない。
涼太『おはよう』
知里『おはよ』
それだけだった。
昨夜のことに、彼が触れることもなかった。
私も、何も言わなかった。
彼はその日、仕事が忙しかったのか、いつもよりDMも少なかった。
涼太『今日から夜勤だからあまりDMできないかも』
知里『そっか、大丈夫だよ無理しないで、夜勤頑張ってね』
彼が夜勤になってから、連絡は少しずつ減っていった。
それは仕方のないことだと分かっていた。
仕事なのだから、私が寂しがる理由なんてない。
そう思っていたのに。
スマホを見る回数が、少しだけ増えていた。
涼太『今、休憩』
知里『お疲れ様』
涼太『暫くは家に帰れない』
知里『そんなに忙しいんだね』
涼太『うん、もう少ししたら仮眠する』
知里『ゆっくり休んでね』
涼太『知里ちゃんも早く寝るんだよ』
知里『はーい』
涼太『夜勤終わったー』
知里『お疲れ様』
涼太『知里ちゃん癒して会いに行くからさ』
知里『いやいや、寝なさいよ』
涼太『一緒に寝てくれる?』
知里『無理だよー笑』
涼太『えー』
知里『夜勤明けなんでしょ?ちょっとは寝なね』
涼太『知里ちゃんと話してたい』
知里『無理しないで』
涼太『寝落ちするかも』
知里『それで良いよ』
その日は、それ以上話すことはなかった。
涼太『昨日は寝ちゃった』
知里『大丈夫だよ、疲れてるんだろうし無理しないで』
涼太『今日は休みだから買い出し行かなきゃ』
知里『一人暮らしは大変だよね』
涼太『うん、知里ちゃんにご飯作りに来てほしいな』
知里『行けたら良いんだけど、遠いからなぁ』
涼太『じゃあ今から行こうかな』
知里『無理よ、来ても会わないよ笑』
涼太『だめかー』
知里『私が絶世の美女だったら会えたんだけどね笑』
涼太『そんなの関係ないよ!知里ちゃんは知里ちゃんだよ』
知里『ありがとう、お世辞でも嬉しいわ』
涼太『お世辞じゃないよ』
“メッセージを取り消しました”
涼太『見たよ!笑』
知里『え、見てたの?』
涼太『うん、でも一瞬だったからよく見えなかったな笑』
知里『……声、聞きたいって……』
涼太『僕もずっとそう思ってたよ』
知里『旦那が仕事でいない時なら電話できるよ』
涼太『ほんと?』
知里『うん、その時ならね』
涼太『できる時は教えて』
小さな違和感
彼とのやり取りが続く中で、私は少しずつ、自分のことを話すようになっていた。
ある日、私は彼に、重い話でごめんね、と前置きをして話した。
病院へ行ったら、手術をしなければならないと言われたこと。
涼太『それは頑張ろうよ』
その言葉に、私は「うん」と返した。
きっと彼なりに励ましてくれたのだと思う。
でも、今になって思えば――
あの頃の彼は、誰かに甘えることはできても、誰かの気持ちに寄り添うことは、まだ上手じゃなかったのかもしれない。
それでも、私たちのやり取りは続いていた。
そんなある日、私は共通の趣味を少し休もうかなと彼に話した。
涼太『僕が寂しくなるから、やめないで』
その言葉に、私は少し迷った。
涼太『一緒に頑張ろう』
知里『そうね……まだ考えてるだけだから』
彼がそんなふうに言ってくれたことが、少しだけ嬉しかった。
それからも、私たちは変わらず他愛のない話を続けていた。
仕事のことや食事のこと、そんな何気ない話ばかりだった。
それでも、彼の「会いたい」という言葉だけは、少しずつ強くなっていった。
何度断っても、彼は諦めなかった。
私は改めて、彼に伝えた。
知里『涼太……気持ちは嬉しいけど、会うことも、それ以上のこともできないよ。ごめんね』
涼太『そっか』
これで分かってくれたと思った。
私が彼に会うことはできない。
それは、彼も分かってくれたはずだと思っていた。
それからしばらくは、いつもと変わらないやり取りが続いた。
知里『月曜日、旦那が仕事で居ないから電話できるよ』
涼太『月曜日?時間があればいいよ』
それまでなら、彼はもっと嬉しそうに返してくれていた。
だから、その返事を見たとき、私は少しだけ違和感を覚えた。
でも、気のせいだと思った。
仕事もあるし、疲れているのかもしれない。
私はそう思うことにした。
知里『大丈夫だったらで良いからね?無理なときは言ってね』
彼から返事はなかった。
その後、彼から届いたのは、電話のことではなく、共通の趣味に関するメッセージだった。
涼太『予約、まだされてないからお願いできますか?』
その言葉を見て、私は少し戸惑った。
いつもなら気にも留めないような、何気ない言葉。
それなのに、そのときはなぜか、距離を置かれたように感じた。
さっきまで普通に話していたのに。
どうして、急にこんな言い方になったんだろう。
私は、何度も画面を見返した。
知里『分かりました』
まだ予約できる時間になっていないことを伝えると
涼太『いつ出来るの?』
と返ってきた。
しばらくして予約できる時間になったので、私は予約を済ませた。
知里『予約できたよ』
涼太『ありがとう』
知里『私から誘っておいてごめんなんだけど、電話やめようか?よく考えたら忙しいのに無理言ってごめんね』
涼太『全然、大丈夫だよ、時間はあるから気にしないでね』
知里『うん、分かったありがとう』
崩れる関係
月曜日になった。
今日は、彼と電話をする日。
私は朝から、いつもよりスマホが気になっていた。
けれど、彼から連絡が来ることはなかった。
その日、私は共通の趣味のことで彼に一度だけメッセージを送った。
知里『今日、参加する?』
涼太『するよ!』
知里『了解だよ』
それだけで、やり取りは終わった。
それでも私は、まだ気にしないようにしていた。
電話の約束をしたのだから、そのうち彼から連絡が来る。
そう思っていた。
けれど、その日のやり取りが終わっても、彼から電話の話が出ることはなかった。
私は、少し迷って
――やめておけばよかったのに……。
そう思いながらも、私は彼にメッセージを送ってしまった。
知里『今日、本当は通話したかった。いろいろすれ違っちゃってごめんね。またできる時があったらしたいと思ってるよ』
送ったあと、私はスマホを伏せた。
もう、自分から何かを言うつもりはなかった。
ただ、彼から返事が来るのを待った。
けれど、一日経っても。
二日経っても。
返事は来なかった。
そして三日後。
ようやく届いたのは、短い一言だった。
涼太『メッセ気づくの遅かった、ごめん』
私は、そのメッセージをしばらく見つめた。
そして、返事はしなかった。
たった一言で終わってしまったことが、虚しく感じた。
それから、彼とのやり取りはなくなった。
その後、私は共通の趣味から離れることを考えた。
信頼できる人に、事情があって離れることを伝えた。
すぐには離れず、自分が任されていたことを引き継いで、数日後、これまで一緒に過ごした時間に感謝を伝えてから、私はその場所を離れた。
これで、もう彼とは関わることもない。
そう思っていた。
それから、一週間が過ぎた。
もう彼から連絡が来ることもないと思っていた。
そんなある日、彼から一通のメッセージが届いた。
涼太『戻っておいで』
私は、その言葉をしばらく見つめた。
――戻っておいで?
どうして今さら、そんなことを言うんだろう。
それから四日後、私は短く返した。
知里『どうした?』
その後、彼から返事が来ることはなかった。
エピローグ︰独白
今でも、ふとした瞬間に思い出すことがある。
彼が本当に求めていたのは私じゃなかったんじゃないか……。
都合のいい女だったのかもしれないと、思ったこともある。
全て私の憶測にすぎない。
本心なんて誰にも分からない。
でも、どうして私なの……
顔も、声も、見たことも聞いたこともないのに
何で……。
あなたにとって人妻を口説き落とすのが1つのステータスだったのかな?
私が独身だったら状況は変わってたのか……それとも
そんな事ばかり考えてしまう時もあった。
何も言わずに去った私を、あなたは怒ってるだけと思ってたかな。
そうじゃない……。
いつか終わらせなきゃいけないと、ずっと思ってた。
そのきっかけができたから私は去ったの……。
あなたを傷つけたんじゃないかって罪悪感で泣いた日もあった。
バカよね……好きと認めれば何かが崩れそうで怖かったの。
恋の好きなのかすら分からないのに…。
別に私は被害者だなんて思ってない。
離れようと思えば、もっと早く離れられたのに、そうしなかったのは自分自身。
最後くらい……声、聞きたかったな……。
でも、聞いてしまったら、本当に戻れなくなる気がしたの。
だからあの日、彼と話せなくて良かったのかもしれない。
Fin
あの日の夏