塚橋「朝」
塚本くんのあの一夜、あの朝
ひとの不幸を願ったのは初めてだった。
それは一瞬だった。それでもそんなことを一瞬でも考えてしまった自分を恥じ、重営倉から足早に出ると、塚本は翌朝の出撃を控えた機体の整備に向かった。
──明日、和さ……橋内中尉は、征く。
これまでと異なる感情が波のように押し寄せ、塚本は操縦席でえずいた。
正しく征くための警備を。これまでも、葛藤がなかったわけでも、疑問がなかったわけでもない。
だが、塚本は職務を全うしょうと日々整備兵として努めてきた。
努めてきたのに。ひとりでに流れる涙が操縦席を濡らしシミを作らぬよう、塚本は持っていた布中で無造作に目元を拭った。朝にはきっと乾くだろう。全てがなかったことのようになるだろう。
それでも、一軽備兵のこのような、妨げにしかならない感情を、機体に乗せてしまうわけにはいかなかった。
塚本は考えないようにした。今、あのひとがどんな夜を越えようとしているのか。ひとりの夜をどのようにいなそうとしているか。
あの夜を思い出してはいけない。涙で霞む視界が鬱陶しくてたまらなかった。しっかり警備しなければならないというのに。最期の最期、こんな有様でどうするのだ。
蓄積した媒汚れも全て始めからなかったかのように。塚本は汚れを拭う手に力を込めた。こんな感情は、抱いてはいけない。全て、全て、始めからなかったかのように。機体の隅々を何十回、何百回、何千回と拭った。
それでも首をもたげるその願いが、どうか、叶いませんように。貴方の願いだけが、どうか、叶いますように。
貴方がどんな願いを抱いているかなんて、知らないままでいい。もし俺の願いと同じだとして、そんな都合の良い考えは、全て、全てなかったことにしますから。
どうか、貴方の願いが、全て、叶いますように。
一瞬でも願ってしまったその不幸が、貴方の幸福だったらどんなに良いだろう。
塚本は、そんなふうに考えてしまう自分の脳みそが、煮えて使い物にならなくなれば良いと思いながら、機を移動して、ひたすら警備を繰り返した。夜はどうしても明けていく。朝はどうしても訪れる。そうして、橋内は、征く。
機体が揺れている。この震えは、恐怖でも悲しみでもない。煮えたぎる怒りが、塚本を突き動かしていた。自分への怒り。考えないようにと、制倒しょうとすればするほど募る橋内への想いが、塚本の感覚を研ぎ澄ませる。
願ってしまった不幸が、現実のものにならないように。
機体が揺れている。身体は冷えきっているのに、汗が止まらなかった。その汗さえも機体に染みてしまわぬょう、汗を拭う。頬を伝って口に入った汗の味が、橋内を思い出させる。
生きている限り、見るもの、触れるもの、癒くもの、感じるもの、全てが貴方を思い出させるのだろう。鈍っていくとしても、薄れていくとしても、決して消えずに、どこまでも連れ立って、貴方を忘れさせないのだろう。
ひとの不幸を願ったのは初めてだった。
──もし、貴方が、貴方が、生きて──
断ち切るように、力を込める。手元が狂わないように、塚本は呼吸も忘れ、ひたすら整備を繰り返した。
朝は、確かな足取りで、もうそこまでやって来ている。
塚橋「朝」