ポチさん、ヴァイオリニストになる
ピンッと自分の右の耳殻が自動的にそば立つのを感じ取りました。
何でしょうか?
私は只今怠惰な午睡を楽しみ、中華飯のアタマのようにドロドロと濃度の高い微睡みの中にいるのですが。
あぁ、これは素晴らしいヴァイオリンの奏音でございます。
パガニーニ(Niccolò Paganini)のヴァイオリン協奏曲第1番、第3楽章の一番盛り上がるパート、いわゆる『サビ』に差し掛かった所ですね。
私は午睡を貪ることを止めて、頭をもたげて音の発する源へと向き直りました。1つの音をも聞き漏らさぬように注意深く耳朶を欹(そばだ)てました。
おおぅ…お見事な演奏!
完璧なる『ダブル・ハーモニクス』
音程を完全には押さえ込まず、弦に優しくタッチして口笛の様な高く澄んだ音を発出させる『フラジオレット』を同時に重音(2つの音)で出さなければならない最高難度のパートを、ここまで鮮やかに奏でられるとは…
ヴァイオリンの技巧の中でも最高峰に難しく、何ですか、伝え聞く所によると、指で弦を押さえる位置が僅か1mmでもズレると全く音が鳴らないとか。
しかも、その完璧な演奏に自らの感情をも織り込んでおられるのですから…
もはや脱帽するしかございません。本当にこの演奏を耳にすると言葉を失ってしまいます。
まるで音符たちが実体化して空中を舞い踊っている様子が窺えるかの如く、でございます。
うーん、惰眠を貪食していたのは迂闊そのものでしたね。
第1楽章の終盤に差し込まれるカデンツァ、エミール・ソーレのカデンツァを聞き逃してしまいました。残念無念でございます。
『Recapitulation(再現部)』の終わり、『Coda(コーダ:結尾部)』の手前に打(ぶ)ち込まれる…こほん、言い直します。そこに挿入されるソーレ版のカデンツァは『史上、最も難度が高いヴァイオリンの曲』(の1つ)と言われております。
『3度の重音の高速連続演奏』や『超高速フラジオレット』が『これでもか!』と言わんばかりにギュウギュウに詰め込まれていて、約5分間もの長きに渡って地獄の様な超絶技巧の暴風が吹き付けてくるのでございます。まさに第1楽章のクライマックス、です。
傾聴したかった…
織お嬢様が演奏されるソーレのカデンツァは何度か耳にしたことがございますが、ま、初めての時はもちろん多少の突散らかしはありましたが、3度目くらいからでしょうかね、作曲者であられるパガニーニですらその演奏を前にしたら裸足で逃げ出すであろうことが容易に想像できるほどの、まさに全てを圧倒する『奏音』への昇華がなされておりました。
(筆者注:パガニーニは作曲家として有名だが、超一流のヴァイオリニストでもあった)
え?
二重フラジオレットとか言う、何やら聞き覚えのないモノの演奏が、なぜ最高難度になるのか? ですって?
分かりました。概説をいたしましょう。
ニコロ・パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品6(Niccolò Paganini : Violin Concerto No. 1 in D, Op. 6)』の第3楽章(ロンド)における二重フラジオレット(ダブル・ハーモニクス)はヴァイオリン演奏において最も神業的および極限的な技術とされるモノでございます。
この二重フラジオレットが演奏される箇所は第3楽章の中盤以降、ロンド主題や、それに続く華麗な変奏・エピソードの中で登場します。パガニーニ様はこの協奏曲をはじめとする多くの作品で、通常の重音(2つの弦を同時に強く押さえて鳴らす tecnica〈技法〉)に加え、弦に軽く触れるだけの『フラジオレット』を2つの弦で同時に(もしくは素早く切り替えて)鳴らす手法を取り入れました。このヴァイオリン協奏曲第1番 第3楽章のなかでも、オーケストラが奏でる軽快なロンド・テーマ(theme:主題)の合間や、ヴァイオリン・ソロ(solo:独奏)が跳ねるようなスタッカート、あるいは高音域で透き通るような美しいハーモニクスを響かせるフレーズの中に組み込まれており、聴き手にはフルートや別の楽器のような、現実離れした神秘的な音色として聴こえます。
(テーマ〈主題〉とは楽曲の中心となって統一感や展開を生み出す、まとまりのある主要な旋律や音楽素材のこと。いわば曲の『核(Central dogma)』)
(solo〈独奏〉とは、1人の奏者が単独で楽器を演奏する。イタリア語の『ソロ(solo)』と同じ意味を持つ)
おっと、誠に無粋で申し訳ございません。
ニコロ・パガニーニについての説明を失念しておりました。
Niccolò Paganini(1782〜1840)は、イタリア・ジェノヴァ出身のロマン派音楽のヴァイオリニスト兼作曲家です。『ヴァイオリンの魔術師』や『悪魔に魂を売ったヴァイオリニスト』と称されるほど、圧倒的な超絶技巧で19世紀のヨーロッパ中を熱狂させました。
ヴァイオリニストとしては、1本だけの弦で弾く演奏や、左手によるピッツィカート、高速の跳弓(スピッカート)など、当時としては破格の高度な演奏技術(超絶技巧)を開拓しました。彼の、そのあまりに人間離れした演奏や不気味な容姿から『悪魔と契約して技術を手に入れた』という伝説や噂が流布したほどの傑物でした。
そしてフランツ・リスト(Franz Liszt 〈1811〜1886〉ハンガリー王国出身のロマン派音楽を代表するピアニストであり作曲家)やシューマン(Robert Alexander Schumann〈1818〜1856〉ドイツ・ロマン派を代表する作曲家) ブラームス(Johannes Brahms〈1833〜1897〉ドイツ・ロマン派に属する作曲家、ピアニスト、指揮者。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没す)といった後世の音楽家たちにも多大な影響を与えました。
それでは再び二重フラジオレットのお話に戻りましょうか。
何故に『最高難度』なのでしょうか?
それは、指が弦に触れるタッチの位置や圧力が極限的にシビアであることが最大の原因でございますが、それ以外にも複合的な要因が複雑に重なっております。
まず第一に物理的な接触ポイントの狭さがその要因として挙げられます。つまりスイートスポットの極小化とも言い得ます。通常のフラジオレット(人工ハーモニクス)は例えば『1の指(左手の人差し指)でしっかり弦を押さえ、4の指(小指)などで軽く触れる(タッチする)』という形をとります。これを2つの弦(重音)で同時に、しかも正確な音程で行う場合、許容されるズレが髪の毛の幅くらいしかありません。タッチの位置が僅かコンマ数mmズレるだけで、音が全く鳴らなくなったり、汚い雑音になってしまったりするのでございます。
因みに、左手の指は、人差し指から順に『1番(人差し指)・2番(中指)・3番(薬指)・4番(小指)』と数えます。親指はネックを支えるという役割のため、番号は割り振られておりません。ヴァイオリンを構えた時に(弾き手から見て)弦は左から右に向かって(弾き手の顔側から外側に向けて)G線(ソ:最も太い弦で最低音)、D線(レ)、A線(ラ)、E線(ミ:最も細い弦で最高音)の順番で並んでおります。
なお『この指はこの弦の担当』というような固定された割り当ては無く、左手の人差し指(1番)から小指(4番)までの4本の指は、4本の弦(G線、D線、A線、E線)の全てを状況に応じて押さえるのです。
ヴァイオリンは、ギターやウクレレなどと違い、指板(弦を指で押しつける板:黒檀製〈エボニー:非常に硬い木〉)に音程を区切るフレットが存在しておりません。そのため、正確な位置を指で押さえる高い音感が要求されるのでございません。
フレット(Fret)とは、ギターやベースなどの弦楽器で、指板(ネック)に埋め込まれている棒状の金属パーツのことです。
その主な役割とは、
A:音程を固定する:弦をフレットに押し当てることで弦の振動する長さが変化し、誰でも正確な音階(一般的に12平均律)を出音することができます。
B:弾きやすさの向上:指先で弦を金属棒にしっかりと押し付けられるため、バイオリンのようなフレットのない楽器と比べて音を鳴らしやすく、音の伸び(サステイン)もよくなります。
ヴァイオリンに何故フレットが実装されていないのか?
それは、現代の我々がよく知るヴァイオリンの基本構造・デザインを確立した、言わば『ヴァイオリンの発明者』の1人であるアンドレア・アマーティ(Andrea Amati 1505頃〜1580頃:ヴァイオリン製作一族であるアマーティ家の初代)に尋ねないと分からない事柄にてございましょう。
そして2番目の要因として左手に無理な形を強いること、それに付随する緊張が挙げられます。2つの弦で同時にハーモニクスを成立させるためには、指のバランス、弦に対する角度、押さえる力と触れる力の絶妙なコントロールを同時に左手1つで行うという難儀な作業をする必要があります。もし、演奏家の手が小さい場合、彼もしくは彼女の指を広げるという行為だけでも大変な負担になるはずでございます。
ま、織お嬢様におかれては、絶妙にその白く長い細指が巧妙なる働きを発揮するので、あの様な世にも妙なる『楽の音』を披露できるのでございましょう。
3番目として『空気が抜けるような失敗のリスク』があることが挙げられます。
言い換えますと。音が裏返ったり、消失してしまう恐れがあるのでございます。
普通の重音であれば、多少は音が外れても『音程が悪い』状態で音自体が鳴りますが、フラジオレットは条件が揃わないと『無音』または『不気味に響く奇妙な擦れっからし音』になってしまいます。コンサートなどのステージ上で、その一発勝負の成功率を100%に近づけるのは非常に困難な営為と言い得るでしょう。
この難所(二重フラジオレット)をクリアし、音楽として美しく響かせるために、演奏者は次のようなポイントを心掛けておるようでございます。
1)『押さえる指』と『触れる指』の役割分担における完全な分離。
ベースとなる音を押さえる指(通常は1番の指〈左の人差し指〉など)の圧力と、ハーモニクスを作るために軽く触れる指(4番の指〈小指〉など)のプレッシャーのバランスを、無駄な力みを一切入れずに、保つこと。力み過ぎるとただの重音となり、弱過ぎると音自体が消失してしまいます。
2)楽器のコンディション(弦の調整や駒の形状)の最適化。
二重フラジオレットは、ヴァイオリン自体の鳴りや駒のカーブ、弦の張力(テンション:tension)にも大きく左右されます。ですから、演奏者が使用する楽器の特性を熟知し、どこに指を置けば最も倍音が共鳴するかという『ツボ』を身体感覚として完全に覚える必要があります。
(筆者注:ヴァイオリンの駒〈bridge〉とは、弦とボディの間にあるカエデ材で作られた小さなパーツのこと。もう少し読み進めるとポチさんによるヴァイオリンの説明がある)
3)恐怖心を捨てた『脱力』と『正確なアプローチ』
難所であるが故に演奏者が身構えてしまい、腕や指に力が入り過ぎると余計に音が出なくなります。どれだけテンポが速くても、左手(弦を押さえる指たち)を完全にリラックスさせ、可能な限りピンポイントの位置に精確に『置く』感覚が要求されるのです。
パガニーニ自身がこの曲を演奏した際には、聴衆たちが彼のあまりに人間離れした超絶技巧に『パガニーニは(この超絶技巧を手にするために、その代償として)悪魔に魂を売ったのではないか?』と本気で疑ったというエピソードが後世まで語られていますが、この二重フラジオレットはその伝説を裏付ける、非常に象徴的なテクニックと言えます。
あぁ…終曲が本当に終局を迎えてしまいました。
もう少し聴いていたかったものでございます。
バルトロメオ・ジュゼッペ・グァリネリ “ デル・ジェス ” (Bartolomeo Giuseppe Guarneri del Gesù)製作の銘付きの名機。その銘は『il Mortaio』
その意味はイタリア語で、臼砲または迫撃砲。
パガニーニ自身が愛用したことで有名な『il Canone(大砲の意)』の製作年1742年の翌翌年1744年、グァリネリが鬼畜に入る直前に完成された最後にして最高峰の逸品でございます。その特徴というと、かの高名を謳うヴァイオリンの名機たるストラディバリと比較すると、外観の仕上げはやや荒々しいと言いましょうか、野生の力強さを感じさせる頑強なモノですが、その不利をも吹き飛ばしてしまうような深く、ダークで、圧倒的な迫力・爆発力を帯びた音を奏で上げてきます。
グァリネリの目指した『力強く野性的な響き』を体現する最高峰のヴァイオリン。
『素晴らしい』の一言にてございます。そして、その名機のポテンシャルを、余す所無く発揮させた織お嬢様、本当に素敵であられます。
(筆者注:ヴァイオリンについては『名器』と表記するのが普通だが、筆者はヴァイオリンは精緻な機器であると尊崇の念を抱いているので、誤用ではあるが『名機』と記している)
(筆者注:『il Canone』の製作年は1743年という説もある)
おや…今度は同じくパガニーニによる曲ですが…
あぁ、無伴奏ヴァイオリン曲『24の奇想曲(カプリース):Caprice No. 24 in A minor, Op. 1, No. 24〈イタリア語では、24 Capricci, Op. 1 - No. 24 in A minor〉』作品の最後を飾る第24番(イ短調)ですね。
おぉ、織お嬢様におかれては機体を持ち換えておられるようでございます。
あの気品に満ちた甘く美しい高音域、エレガントで満腔の透明感を湛えるその音色。
先程のグァリネリとは非常に対照的な出音…
ニコロ・アマーティ(Niccolò Amati:1596〜1684:クレモナ)が1682年に、彼のヴァイオリン製作家としての最晩年に造り上げた銘機『il Enigma』
それは羅甸語で『謎』を意味する言葉でございます。
ま、これは伊太利亜語になるのでございますけれども。
なるほど。『il Enigma』のウォーミングアップとしてカプリースを弾かれておられるのでしょうね、織お嬢様は。
「ヴァイオリンのウォーミングアップって何?」
?
玲瓏たる声が到来してきた方向に頭部を振ると、あぁ、慧茄(えな)ですか。
無意識の内に図らずも声が吐いて出てしまったようですね。
私は緩々(ゆるゆる)と起き上がりました。
あっと。
何でしょうか、お尻がムズムズしますね。まさに『座りが悪い』状態でございます。
5〜6回ほど前後左右に身動ぎ(みじろ・ぎ)をすることでようやく安定の座位を確保いたしました。
「ね、パパ。ヴァイオリンにもウォーミングアップって必要なの?」
「勿論です。クルマに最低限の暖機運転が必要なように、ヴァイオリンの演奏にも『暖機運転』が必要なのです」
「ふーん…」
「それは、ですね…」
?
!
あっと、私としたことが皆様に対しての自己紹介を終えておりませんでした。
誠に申し訳ございません。
改めて再会のご挨拶をすることに致しましょう。
実に不注意な真似を仕出かしてしまいました。
年齢の所為、には致したくございません。私、1つのことに夢中になってしまうのです。
悪い癖でございますね。
私、ポチでございます。
ミヤウチ家でお世話になっております、野良犬上がりの老犬です。
皆様にお眼にかかるのは1年振りの事になるのでしょうか?
本当にお久しゅうございますなぁ。
一瞥するに皆様におかれては、すこぶるご健勝のようで、これは非常に喜ばしい事でございます。かく言う私もまた1つ齢を重ねまして、後期高齢者の最深部の方へと押し込まれてしまう少々厄介な事態に陥りましたが、ま、幸いにも身体の方は全く健康そのもの。
脚腰が弱る気配なぞ微塵も感じる事なく、毎日朝晩の散歩に勤しみながら次々と立ち現れて来る電柱の群れへのマーキングも万全、そこに余念が生じる空白など全くありません。
そして眠気に襲われる時間は、歳が歳だけに多少なりとも増えました。しかしながら、頭脳の方も、ま、若い時分の明晰さを少しも失う事もなく、この老犬の灰色の大脳皮質は機能を十全に維持できております。
白内障の嫌いは懸念事項ではございますが、奥様のサチエさんが毎日注して下さる点眼薬のお陰なのでしょう、進行の度合いは遅く、以前と比べても重篤度は増してはおりません。
え?
健康を吹聴する割に、先程は不必要なくらい過度にのっさりと起き上がった、ですと?
うふふ…
生物でも機械でも起動時、つまり動き始めが一番故障を誘発し易いのでございますよ。
逢魔を除けるため気を付けるのに越したことはありません。
ま、こうして恙無(つつがな)く皆様と再会できた事を私、稀なる慶事なのだと心の底から感じ入り、真に嬉しく存じ上げるのでございます。
正面から相対してチョコンと座っている慧茄は、私の顔を見上げていました。
緩やかなクサビ型の小さな頭部は、丸い額が特徴的で、そして力強さを感じさせる発達した顎もまた丸いので全体としては丸顔の印象を受けます。
広い根許からシュッと伸びた耳介の先端もまた丸いのです。
短めの鼻梁に大きな眼。
彼女の眼はそれぞれ綺麗なカッパー(赤みのある暗い黄茶色)の右眼、流麗な翡翠色の左眼をしております。
『Heterochromia iridis(虹彩異色症)』
これは左右の眼で虹彩の色が異なる、若しくは一方の瞳の虹彩の一部が変色する形質のことです。
無駄が無い滑らかさを印象づける美しく均整の取れた筋肉質のほっそりとした肢体は、ジェットブラックと呼ばれるエナメル質の光沢を放つ、艶やかな黒い色をした短い被毛に覆われています。ウネウネと別の生物のように蠢いている尻尾は体長とバランスの塩梅が丁度良い具合で、ここもまた黒い被毛。一瞥すると華奢に見える伸びやかな四肢もみっしりとした筋肉を備えています。そして手脚も当然の如く、黒色です。密度高く生え揃った被毛はまるでサテンのような輝きを放っております
実を言いますと彼女、身体や頭部・尻尾ばかりか短い鼻先や肉球・口腔内すら黒いのです。
その斯界で形容される通り、まさに『小さな黒ヒョウ』
真の黒猫と言っても過言ではないでしょう。
彼女の名前は慧茄(えな)と言います。
私の娘です。
今年で慧茄は……人間で言えば25歳くらいに当たるのでしょうか?
まさしく『妙齢のご婦人』ということになりますなぁ。
娘と表現していますが、当然の如く、私と慧茄との間に遺伝的な繋がりはありません。
ま、イヌとネコですから、それは言わずもがな、でございます。
強いていうならば青光りする濡れ烏の毛並みが、種の壁を超えて、呆れるくらいに似ております。
え?
『濡れ烏って何だ?』ですって?
濡れ烏(ぬ・れ・がらす)とは水に濡れたカラスの羽のような、深い艶(つや)のある黒色のことです。カラスの羽と同様に、光の当たり具合で黒や緑、紫などの僅かな光沢(干渉色)を帯びて見える黒色のことでございます。
ここはミヤウチ家。
私と慧茄がお世話いただいている家庭でございます。
今年の春先、3月までリフォームやリノベーションというには大規模過ぎる、ま、リビルトと呼ぶのが相応しい大改修を行われていた建物の、ここは玄関先、土間となりますね。この土間の表面には大谷石の『板石』が全面に渡って敷き詰められております。
大谷石(おおやいし)の正式な学術名称は『流紋岩質角礫凝灰岩(りゅうもんがんしつかくれきぎょうかいがん)』もしくは『軽石火山礫凝灰岩』です。大谷石は、宇都宮市の市街地から北西に7〜8 kmほどの場所にある、大谷地区の休漁地帯で算出される緑色凝灰岩です。その成り立ちはと言いますと、今から約1500万〜2000万年前、日本列島の大半が海に中にあった頃に、海底火山が噴火することが嚆矢となります。
その噴火によって噴出した火山灰、火山礫、軽石、砂礫などが海底へと沈んで行き、長い時間をかけて堆積して(積み重なって)、推し固められて生成された岩石、つまり堆積岩でございます。因みに地質学上は『堆積岩の中の火山砕屑岩』に分類されます。
大谷石ならではの面白い特徴として真っ先に挙げられるのが『ミソ』と呼ばれる茶色い斑点上の軽石成分が含まれていて、これが独特の柔らかい風合いや温かみをもたらしております。また、スポンジのように微細な穴が沢山空いている(多孔質)ため、『消臭・調湿効果』や『耐火性』を高いレベルで備えており、古くから蔵や外壁に利用されてきました。現代では、このミヤウチ家の土間のようなお洒落なインテリアの壁材として重用されております。
そんな興味を掻き立てるような大谷石の板石が貼り詰められた土間に私と慧茄の父娘が向かい合って座っている間にも、織お嬢様が演奏なさるパガニーニの『24のカプリース Op.1 その第24番 イ短調』の妙なる調べが優雅な雰囲気を醸し出しております。
この画、中々にシュールにてございましょう。
この家屋に住んでいらっしゃるのはミヤウチ御一家でございます。
ご主人であられるアキヒコ様。
奥様であられるサチエ様。
そして長女のサナコ様に次女のカナコ様。
しかしながら数年前、そうですねぇ、カナコ様が18歳の時ですから6年前になりますか、カナコお嬢様が留学するために渡米。
その2年後、つまり4年前にご結婚をきっかけにしてサナコお嬢様も実家から出て行き、現在この家に住まうのはアキヒコ様とサチエ様のお2人だけになったのでございます。ま、私と慧茄というイヌとネコもおりますけれども。
そこで生活動線が変化したのを機に家屋の大改装を行ったのでございます。
え?
『織お嬢様って、誰だ?』でございますか?
それは、ですねぇ…
「で、ヴァイオリンの『暖気運転』って、何?」
「ヴァイオリンの『暖機運転』ですか?」
「うん。聞き慣れないよね、そんなの」
私はピクリと耳介を動かし、織お嬢様の演奏されるアマーティの『il Enigma』が発散する甘くて優しい音色を集めます。
慧茄にヴァイオリンの『暖機運転』について説明する前に、彼女が弾くこのオールド・ヴァイオリンの説明が必要だと思われますね。
「その前に、織お嬢様の演奏なさっておられる『il Enigma』について説明しておきましょう」
何故でしょうか?
慧茄が長い吐息を1つ漏出させました。
「……短めで、お願い……」
「アマーティ(Amati)とは、16世紀から17世紀にかけてイタリア北部のクレモナで活躍した、近代ヴァイオリン製作の礎を築いた名門ヴァイオリン製作者の一族(およびその工房・楽器)のことです」
「ふん、ふん」
「まずはアンドレア・アマーティ(Andrea Amati 1505頃〜1580頃)について概説を。
アマーティ家の初代で、今日の私たちが知るヴァイオリンの基本構造・デザインを確立した『ヴァイオリンの発明者』の1人です。
フランス王シャルル9世などの王族のために楽器を制作したことで名声を高めました」
「ほほぅ」
「次に、ニコロ・アマーティ(Niccolò Amati:1596〜1684)の説明をします。
織お嬢様の所有されている『il Enigma』の製作者です。祖父であるアンドレアの血を引く、アマーティ一族の中で最も卓越した巨匠です。
1630年頃のペスト流行によって一時的に作り手が激減した中、彼は生き延びて工房を再建し、のちに『世界三大名器』を世に送り出すアントニオ・ストラディバリやアンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri:Bartolomeo Giuseppe Guarneri“del Gesu”の祖父)らを弟子として育て上げました。
少し大ぶりのモデルは『大アマーティ』と呼ばれ、特に高く評価されています。
アマーティ製作ヴァイオリンの特徴としては、その音色は柔らかく甘く、気品に満ちた五韻が特徴で、小規模な空間や室内楽との相性が非常に良いとされています。
音楽界そしてヴァイオリン界における位置付けとしては、ストラディバリウス、グァルネリ・デル・ジェスと並んで『ヴァイオリンの三大名器』の系統の一つに数えられます。
現存数が少ないのが珠に瑕です。歴史が最も古いこともあり、現在確認されている楽器は世界でも数十挺規模と非常に少なく、貴重な文化財となっています」
「ふーん。で、『暖機運転』って?」
「まぁ、落ち着きなさい、慧茄」
「また、始まっちゃったよ……どーにか、なんないのかな? この説明癖…」
「何か、言いましたか?」
「いや、別に、何も」
「そうですか。アマーティ製作のヴァイオリンはオールド・ヴァイオリンと呼ばれることがあります。現代作家が製作するモダン・ヴァイオリンとの間にはその構造や音の指向性等に決定的な違いが存在しています」
「………」
「アマーティ一族が本拠地としていたイタリア北部のロンバルディア州にある都市、クレモナ(Cremona)この街は、大都市ミラノの東南東約75kmに位置しており、エミリア=ロマーニャ州との州境を流れるポー川の中流沿いにあります」
「ふぅ…」慧茄がため息を吐(つ)きました。何故でしょうか?
ま、よろしい。説明を続けることにしましょう。
「このクレモナはヴァイオリンの生産地として世界的にも有名です」
「…はい…」慧茄は諦観の表情を浮かべ始めました。何故でしょう?
ま、構うことなどありません。説明を継続するだけでございます。
「このクレモナに所縁の深いヴァイオリン製作者集団として、次の3つのグループが挙げられます。
アマーティ(Amati)ヴァイオリン製作者一族(及びその工房)
ストラディバリウス(Stradivari)ヴァイオリン製作者一族(及びその工房)
そしてグァリネリ(Guarneri)ヴァイオリン製作者一族(及びその工房)
これら3つ、アマーティ、ストラディバリウス、グァルネリは『クレモナの三大名器』と呼ばれますが、その音色のキャラクターは明確に異なります。
それぞれの音色の特徴と、モダン・ヴァイオリンとのその音質などの違いを解説します。
まずはアマーティ。その音色の特徴とキャラクターは、甘く上品、繊細でマイルド。雑味がなく、最も耳に優しいとされます。イメージすると『貴婦人のささやき』『ビロードのような光沢』最も得意とする演奏時空間は、室内楽、宮廷音楽、小ホールでの演奏になるでしょう。
お次はストラディバリウス。その音色とキャラクターは、華やかで輝かしく、完璧なバランス。倍音(響き成分)が非常に豊かです。例えるならば、『完璧なソプラノ歌手』または『光り輝くダイアモンド』と非常にゴージャスなイメージを与えます。そして得意な表現時空間は、大ホールでのソロ演奏、そこにおいて万能な表現を与えてくることでしょう。
最後はグァリネリ。その音色・キャラクターは、力強くガルガルと鳴り響く、ダークで野性的。深く太い低音が本当に印象的です。イメージ的には『情熱的なテノール歌手』または『大地の咆哮』と言い得ましょう。
そして、それぞれのヴァイオリンが奏でる音の『飛び方』に明確な違いが認められます。各々のヴァイオリンが製作された時代の要求(求められるホールの広さや演奏形態)
それによって、音の飛び方は設計段階から明確に異なっています。
ヴァイオリンのような弦楽器の世界で言われる音の『飛び方』とは、まさに手許(弾き手の耳元)での聞こえ方と、広大なホールの客席(遠方)での響き方の違い(=『遠鳴り(とお・なり)』と『傍鳴り(そば・なり)』の関係を指しています。
ざっくり申しますと、アマーティは手許で美しく響き、ストラディバリウスやグァリネリはホールの奥まで届くという認識です。これはヴァイオリンの歴史や音響特性から見ても非常に的を射た正しい捉え方だと思われますね。
この『音の飛び方』のメカニズムと、3大名器の設計思想の違いについて、いくつかの補足と音響的な裏付けを交えて解説して行きましょう」
「その『ざっくり』で十分なんだよ、ふぅ…」
「何か、言いましたか?」
「いえ…続けて、パパ」慧茄は、ブンブンと音が立つくらいの勢いで被りを振りました。
アマーティ一族の中でも随一の製作者と目されているニコロ・アマーティ(Niccolò Amati)が造り上げたヴァイオリン。この弦楽器が活躍した舞台は主に王侯貴族の宮廷やサロン、つまり狭い空間で少人数を相手に演奏されるシチュエーションが主眼とされました。ですから、音の『飛び方』・響きの特徴としては手許から近距離において最も美しく響くように形成されております。甘く、繊細で、人の歌声に近い温雅な響きを奏でます。その代償として遠くまで音を飛ばす力はやや弱いと言わざるを得ないでしょう。その目的の為と言えましょうか、設計上の特徴として、楽器の表板・裏板の『膨らみ(アーチ)』が高く、全体的に小ぶりです。ですが織お嬢様のお持ちの『il Enigma』のように、やや大柄な機体もあります。
それらを『グランド・アマーティ(Grand Amati:大アマーティ)』と呼びます。
ニコロ・アマーティが1650年代以降に生み出した(それまでのアマーティに比した場合に)大型サイズのヴァイオリン・モデルの通称となります。
このグランド・アマーティの主な特徴は、それまでのアマティ家の標準的なボディ長(約350mm)に対し、グランド・アマティは約353mm〜356mmほどに大きく設計されております。そして躯体が大きくなったことで、アマティ伝統の甘く上品で柔らかな音色に加え、力強く豊かな音量が出力可能となり、より深みと力強さが加わっています。
余談になりますが、製造数が限られており、歴史的名器として極めて高い評価と価値を持っています。この高い希少性と音質の美しさから、非常に高価な機体です」
次はアントニオ・ストラディバリウス(Antonio Stradivari)の製作したヴァイオリン。その主な活躍の舞台は、近代的なコンサートホールです。想定されるのは大観衆の前でのソロ演奏やオーケストラとの共演、つまりコンチェルト(concerto:協奏曲)などです。ですから音の飛び方や響きの特徴としましては、ホールの隅々まで輝かしく飛びますし、小さな音(pianissimo:ピアニッシモ)で弾いても音の輪郭を少しも失うことなくホールの奥の奥の方まで届くのです。設計上の特徴としては、ボディのアーチを平らにし、
つまり、ボディをフラット化して延長させ、木を極限まで薄く洗練させました。
最後がグァリネリ・デル・ジェス(Bartolomeo Giuseppe Guarneri del Gesù)の製作したヴァイオリンです。その想定された演奏の場所は、ストラディバリウスと同様に近代的なコンサートホールです。先程、というか今現在も演奏されておいでですが、織お嬢様が弾かれていたパガニーニのような情熱的でダイナミックなソロ演奏を主目的として定められております。その音の飛び方や響きにおける特徴と致しましては、より深く、爆発的なパワーで非常に遠くまで響くモノです。力強くダークな音色を発揮し、弾き手がエネルギーを込めれば込めるほど遠鳴りします。それを達成するための設計における特徴としましては、ストラディバリウスと同じくボディのアーチのフラット化を採用しておりますが木を厚めに削り残して、f字孔を大きく荒々しく削ってあります。
(筆者注:f字孔については、ポチさんが後で説明するはずです。慧茄が飽きなければ)
アマーティは『弾き手の耳元で最も美しく心地よく鳴る』のに対し、ストラディバリウスやグァルネリは『ホールの奥の席(遠く)へ行くほど音が空間に溶け込み、豊かに響く(遠達性)』という特徴を持っています」
「…長ぇ…」
「何か、言いましたか? 慧茄?」
「…いいえ…続けて、パパ」
「手許ではうるさいくらい鳴っているのに、後方の客席では全く聴こえない楽器(傍鳴り)がある一方で、何故ストラディバリウスなどは、手許では静かに感じられるのに、ホールの奥の方まで音が飛ぶのでしょうか?」
「?」
「物理的・音響学的には、次のように考えられます。
『雑音成分』と『倍音成分』の分離という現象、です。
弓と弦が擦れ合う時、手許では『ズーッ』とか『シャー』という摩擦音(ノイズ)が大きく聞こえます。アマーティなどの古い設計のヴァイオリンや調整不足の弦楽器は、このノイズと楽音が未分化なまま発音されるため、手許では大きく聴こえても、ノイズが空気中で急速に減衰し、遠くに届く前に消失してしまうのです」
「はぇ…」
「あと倍音の豊かさと人間の聴覚の特性も関わってきます。
ストラディバリウスやグァリネリは、弾き手の耳許では摩擦音が分離して聞こえるため、一瞬『あれ? あまり鳴っていないのかな?』と錯覚することがあります。しかし、楽器のボディ全体が効率よく緻密に共鳴しているため、人間の耳が最も聞き取りやすい周波数(豊かな倍音成分)が綺麗に整理されて空間に放射されます。
これが、空気やホールの壁に遮られずに、音が『奥まで真っ直ぐジャンプ』するように届く理由です」
(筆者注:倍音とは振動数が基音の整数倍であるような上音。基音とは発音体〈楽器など〉が発する複合音の内で、振動数が最も少ないモノ。普通、楽器の音の高さは基音で決まる)
「そして、近年の研究では、アマーティは『バリトンやベース(低い声の男性歌手)』のような響きを持つのに対して、ストラディバリウスは『テノールやアルト(高い歌手)』のような、より高周波帯の、輝かしく輪郭がはっきりした『通る声』に近い特性を持っていることが判明しつつあります。この周波数帯の違いも、遠くへの音の抜け方に影響を及ぼしています」
「ほほぅ…」
「しかし、1つ強調しておきたいことがあります」
「なに?」
「ストラディバリウスやグァリネリに対して、決してアマーティが劣っている訳ではない、という事実です」
「ふーん」
「アマーティ、ストラディバリウス、グァリネリ、それぞれの用途が異なっているのです。
現代のクラシック界は『2000人規模の大ホールでオーケストラに負けない音』を要求されるため、現代のソリストは、ストラディバリウスまたはグァリネリをこぞって奪い合います。
そのためにアマーティは(音が)『飛ばない楽器』として過小評価されがちなのです」
「ふんふん」
「ま、クラシックやロマンティックなどについて(音の)『飛ばない楽器』は敬遠されがちですが、室内楽やレコーディング、あるいはJ・S・バッハのようなバロック音楽の文脈では、アマーティの持つ『手許や近距離で完結する、密度の高い極上の美しさ』は、今なお他の追随を許しません」
「なるほど」
「音の『飛び方』つまり『どの空間サイズをターゲットにして音を放射するか?』の設計思想の差異が、そのままこの3大名器の個性の違いを体現しているのです」
あぁ、織お嬢様が『il Enigma』の暖機運転を終えたようですね。
彼女がこの銘機へとヴァイオリンを持ち換えたということは…おそらく…あの曲を…
やはり、そうでした。
私の推察通り、J・S・バッハ作曲の『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BMW1007 Iプレリュード(Johann Sebastian Bach:Suite No.1 in G, BMW1007 I Prélude)』
(筆者注:勿論この曲はチェロ用だが、数多くの楽器によって演奏されている)
織お嬢様がこの曲を好んで演奏なさるのには理由がございます。
彼女にとって最重要で最優先される『理由』です。
それは…
「ねぇ、パパ。だから結局ヴァイオリンの『暖機運転』って、何なの?」
「そうですねぇ」私は右斜め上に視線を移動させ、三角形に尖った両方の耳朶をピクリと動かしながら、数秒間思索を重ねました。
やはり、ヴァイオリンの魅力や構造について概略的な説明が必要なようですね。
「あなたはヴァイオリンについて何を存じているのでしょうか?」
「うーん…オーケストラとか室内楽とかソロ演奏とか、結構幅広いジャンルで演奏される弦楽器ってことくらいかな」
私は彼女の返答に満足し、満腔の嬉しさを覚えました。
「そうですね。一般的な認識としては満点です」
「えへっ、褒められちゃった」
「そこに付け加えるとするならば、華やかで美しい高音域と、人の声に似た豊かな表現力が特徴の弦楽器です」
「ふむ」
「では、ヴァイオリンの構造についてはご存知?」
慧茄は微妙な照れ笑いを浮かべながら言います。
「イヤー…そこまでは…」
「なるほど。それでは軽く説明しておきましょう。ヴァイオリンの構造や各部位の名称・その機能などが分かっていなければ、とても『暖機運転』のことなど理解できませんし、そもそも説明しても珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)でしょうから、ね」
「うひゃっ!」しまった、地雷踏んじゃった、と言わんばかりの表情を浮かべる慧茄。
「ヴァイオリンは各種の木材から作成された美しい曲線を描くボディを持っています。
4本の弦を備え、低い方からG線(ソ)・D線(レ)・A線(ラ)・E線(ミ)の4つの音に調弦(チューニング)されます。因みに、顔側にG線 → 外側にE線の並びです。
(筆者注:これは読者サイドには既に説明済みの事項ですが、慧茄は知らないので改めて説明しています)
あと、音を奏でるために必要な物は、弓です。
そしてヴァイオリンを弾く前、演奏者は弓に張られている『馬の尾毛』に固形の松脂を直接擦り付けなければなりません。何故ならば、ヴァイオリンの弦は(たとえ弦がガット〈羊の腸〉であっても スチールやナイロンであっても)表面が非常に滑らかであるため、弓に張られた馬毛そのままで擦っても滑ってしまい音が発生しません。毛に塗布された松脂の粉末が引っ掛かることで摩擦が生じ、弦が振動を起こすことで音が生成されます。
ヴァイオリンのボディ内部には魂柱(こんちゅう:Soundpost)と呼ばれる小さな木の棒が備えられております。ボディの表板と裏板の間に挟んで立てられていて(接着はされていない)表板と裏板を支え、弦の振動をボディ全体に伝える。非常に重要な役割を担っています」
「ほーん」と気の無い相槌を返す慧茄。
「演奏者が彼もしくは彼女の左手で弦をタッチ(押さえる)部分が細長い首状のネック(Neck)です。弦の下に位置しますが、そのネックの上部には指板(Fingerboard)と呼称される硬い黒檀製の板が貼り付けられています。ギターやウクレレなどとは違い、ヴァイオリンの指板には音程を区切るフレット(Fret)が実装されておりません。そのため、精確な位置を指で押さえる高い音感が演奏者には求められます。
フレットとは、ギターやベースなどの撥弦楽器で、指板に埋め込まれている棒状の金属パーツのことです。
そのフレットの主な役割は、音程を固定すること。そして弾きやすさの向上に寄与します」
「何で無いの、ヴァイオリンには? 備えてあれば色々と便利なんでしょ?」
「そうですね。フレットが実装されていれば、弦をフレットに押し当てることで弦の振動する長さを確実に変化させることが可能で、それによって誰でも正確な音階を生み出すことができます。加えて、指先で弦を金属棒(フレット)にしっかりと押し付けられるため、音を鳴らしやすい上に、音の伸び(サステイン:sustain)もよくなりますから」
「じゃ、何で無いの?」
「それはフレットがないことで多くのメリットが生まれるから、です」
「どういう?」
「まず第一に音程をコントロールする自由度が上がるから、です。
固定されたフレットがあると、平均律に縛られた音しか出せなくなります。
ヴァイオリンはフレットを備えていないため、オーケストラや弦楽四重奏で周囲の音に合わせて音程をミリ単位で微調整し、最も美しく濁りのない響き〈純正律など〉を作ることができるのです」
「ほー」
「第二に、滑らかな音の移動と表現(ポルタメント:Portamento)が可能となります。
音と音の間を滑らかに繋いで滑らせるように謳う『ポルタメント』という表現は、フレットが無いからこそ可能になるのです」
「で?」
「第三には、フレットを実装していないことで表現力に富んだヴィブラートが実現可能です。弦楽器は弦を指の腹で押さえて揺らすことで、深く豊かなヴィブラートを掛けることができるのですが、フレットがあると金属や木に邪魔をされて、ヴァイオリン特有の艶やかなヴィブラートの発出が制限を受けることになります」
「お次は?」
「ヴァイオリンという楽器は小さいので、フレットを配置するスペースの確保が困難だ、という物理的な問題があります」
「あらら」慧茄は少しずっこけました。
「ヴァイオリンは弦長(=指板の長さ)が非常に短い楽器です。もしフレットを打ってしまうと、高音域に行くほどフレットの感覚が狭くなり過ぎて、人間の指では精確に押さえられなくなってしまうのです」
「それが最後?」
「そうですね。ま、ヴァイオリンは、フレットを備えていなかった『ヴィオラ・ダ・ブラッチョ』という古楽器の系統から発展したという歴史を持っております。
ご先祖様が持ってなかったから、持たないまま、とも言い得ます」
「で、ようやく『暖機運転』のお話なの?」
「そうですね。ヴァイオリンは各部位によって異なる木材が使用されております。その説明と並行しながらヴァイオリンの『暖機運転』について説明して行きましょうか」
「やっとだよ…」
「何か?」
「イヤイヤ、何でもない。どうぞ、続けて」
「ヴァイオリンは主に『スプルース(松科の針葉樹)』と『メイプル(カエデ科の広葉樹)』という2種類の木材を適材適所で組み合わされて製作されています」
「へー」
「ヴァイオリンのボディの表板(表側の板)にはスプルースを用います。この木材の性質としては非常に軽くて柔らかく、縦方向への振動のレスポンス(response:音の立ち上がり)が抜群に優れています。音質に与える影響としては、弦の振動を敏感にキャッチして楽器全体へ伝える『心臓部』です。
明るく抜けの良い、クリアな響きを生み出します」
「おう、はあ」
「ボディの裏板(裏側の板)と側板(表板と裏板を繋ぐ側面の板)、ネック、スクロール(scroll:ヴァイオリンの先端の渦巻き部分)などはメイプルを使用しています。
スクロールとネックは、どちらもヴァイオリンの持ち手側(細長い部分)にあります。
ヴァイオリンの最先端にあるカタツムリみたいな渦巻き状の彫刻部分がスクロールです。
このパーツは、実は音響的な役割はほとんど無く、
主に 1)装飾:古代オリエントや建築から受け継がれた渦巻きの伝統美が体現されている。
2)製作者の個性:巻の数、彫りの深さ、全体の丸みなどに職人のクセが出やすいため、製作者や流派を見分ける指標となる。
3)左右対称かつ滑らかに木材を削り出すには高度な鑿(のみ)使いと熟練が必要なため、その楽器のクオリティを測る重要なバロメーターとなっている。
と、いうことです」
「あそこ、あんまり意味無いんだ」
「音色に関しては、無いですね」
「ネック(棹:neck)はスクロールを頭部とすると、下部のボディ(本体)へと繋がる、演奏時に左手で握る細長い木製の『頸(首)』の部分です。その表面には黒い指板(しばん:エボニー製)が貼られています。
位置関係を整理すると、上から順に『スクロール(渦巻き)』→『ペグボックス(pegbox:糸巻きのある部分)』→『ネック(握る部分)』という並びになっています。
尚、ネック(neck)は楽器の『さお』に当たる木製パーツで、主にメイプル(カエデ)材から形成されています。その役割は、弦の張力を支え、左手全体で握り込んでヴァイオリン自体を保持するための土台です。
このメイプルという木材の特徴は、スプルースよりも硬く、密度が高くて靭性(粘り強さ)に優れています。『虎杢(とらもく)』と呼ばれる、美しい模様が現れることも特徴の1つです。楽器全体の構造をしっかりと支えるとともに、音質への影響として、豊かな倍音を生み出し、音に立体感や深み、そして輪郭を与えます。
そして指板(fingerboard)とはネックの表側(弦の下)に貼り付けられている黒い板のことです。素材として非常に硬いエボニー(黒檀)などの木材が使用されます。このパーツの役割は、左手の指で弦を押し付けて音程を変える時に、弦を受け止める面(受け皿)になるのです。わずかにカーブ(反り)が付けられています」
「弦を受け止めるために硬い木材が使われてるんだね」
「そうです。黒檀などの硬木が素材として使用されているのは、他には『糸巻き(pegs)』『テールピース(tailpiece)』があります。
このエボニーという木材は非常に硬く、摩擦や湿気に強い極めて頑丈です。
弦を強く押さえる指の摩擦に耐え(指板の場合)弦の振動をロスなくボディへ伝えることで引き締まったタイトな音色造りに貢献しています。
糸巻きは、弦を巻き付けて固定し、張力(テンション)を保ち、音程の大きな調整(チューニング)を行う役割を担っています」
「テール・スープ?」
「いえ、それはフランス料理の一種です。
そうではなくてテールピース。
このテールピース(緒留め〈おど・め〉)は駒とよばれるパーツの下側(ヴァイオリン本体の下部)に設置されたパーツです。このテールピースも弦の固定や張力(約25kg)の保持を担い、チューニングの微調整を行うための『アジャスター(adjuster)』を装着するベースともなります。
この糸巻きは、その素材、形状、重さ、差し込み具合などが楽器全体の振動(響胴)に影響を与えますし、テールピースも、その重さ、素材、駒からテールピースまでの長さ(アフターレングス:afterlength)の違いが、楽器全体の共鳴や倍音、音の立ち上がり(attack)に大きな影響を及ぼすのです」
「なんか、さ。ヴァイオリンって全部のパーツがその音色に影響してるみたいだね」
「その通りです。音の発出に影響を与えていないパーツなど、何一つ有りません」
「なるほど、ね」
「ま、細かいパーツは今回は横に措くとして、そこそこ大きめな部材についてざっくり説明しましょうか」
「はい
「先程、チラリとその名前が出たのが駒(bridge)です。このパーツは弦とボディの間にあるメイプル材で作られた小さな物です。主な役割は4本の弦を正しい位置と高さで支えることです。あとは弦の横方向の振動を縦方向に変換し、表板へと伝達すること(振動変換装置としての役割)です。弦の小さな音を、ボディ全体の共鳴につなげて音の増幅を担います。
あと、駒から伝わった振動が魂柱やバスバーを介して裏板まで伝達し、ヴァイオリン独特の音色を創り出すことに寄与しています」
「オイオイ、また聞いたこと無いパーツ名が出て来たぞ」
「何か?」
「何でも無い。続けて」
「ヴァイオリンの『魂柱(sound post)』とは、ボディ内部で表板と裏板の間を支持するように屹立している小さな円柱状の木の棒(スプルース製)のことです。この木の棒は他の木材で固定されている訳でも無く、ましてや接着剤で固着されている訳でもありません。弦を張った時の圧力(テンション)だけで、まるで突っ張り棒のように上下から挟み込まれて立っているのです。弦から駒、駒から表板に伝達された音の振動を、昆虫を介して裏板へと伝え、ヴァイオリン全体を共鳴させるのです」
「接着してないのね」
「はい。何でしょうか、ついでのように言及しましたが、バスバー(bass bar)とは表板(うわいた)の裏側、G線(一番低い弦)側のエフ孔(f孔)のすぐ横を縦に走る、細長い木の棒(梁:スプルース製〈トウヒ系〉)のことです。
その主な役割は、弦の強い張力(約20〜25kg)に対抗して表板を補強し、テンションの荷重を分散することで変形や割れを防ぎます。
そして低音弦(G線)側の駒の足から伝達してくる低音の振動を受け止め、表板全体に効率よく響かせる役目を担います。あと、船の竜骨(キール:keel:船底の中心部分を縦貫している力材。船の背骨)のように、ヴァイオリンのボディの膨らみ(アーチ)を保つ役割を果たしています。長さは20〜27cm程度で、膠(ニカワ:天然の接着剤:獣類の骨・皮・腸から抽出したゼラチンが主成分)を使って表板の裏側に直接接着されています。反対側(E線側)にある魂柱と対になるように配置され、ヴァイオリンのバランスを取っています」
「エフ孔って?」
「エフ孔とは、ヴァイオリンの表板にある『f』の字の形をした穴は『f字孔(エフじこう)』または『fホール』と呼びます。
空気の振動を外部へと放出する仕事を担っています。弦の振動が駒を通じて表板に伝わり、更にボディ内部の空気を震わせます。その空気を外部へと効率よく放出し、豊かな音量と響きを生成します。このf孔が開いていることで表板の端(特に中央付近)が自由にしなやかに動きやすくなり、その結果として楽器全体がよく共鳴します。
ギターのような単なる丸い孔ではなく、細長い『f』の形状にすることで周囲の長さ(外周)がより長くなり、同じ面積の円形などの穴に比して約2倍の音響エネルギーを効率よく外に伝えられるようになっています。特に低音の強化が顕著です。F孔の中央にあるノッチ(notch:切り込み)は、弦を支える駒や、内部で音を裏板に伝える魂柱を正しい位置にセットするための目印にもなっています」
「あの『f』の形にも意味あったんだね」
「そして、演奏前の『暖機(ウォームアップ)』についてですが…」
「ようやっとだよ…」
「何か?
「いいえ、続けて」
「自動車における暖機運転と同様に、ヴァイオリンにも演奏前や弾き始めに『構成材の木を温め、それによって音を安定させる』時間が必要であるという考え方は、演奏者の間でもよく語られるトピックです。
その理由として幾つかの要素が挙げられます。
1)木材とニスの物理的変化:ヴァイオリンは非常に繊細な天然木とニスの塊です。気温や湿度の変化、あるいは人間の体温(顎や頸、左手などヴァイオリンと直に接触する部位)が伝わることで、木が僅かに伸縮し、緊張状態や緩みが生じます。
2)弦の張力と調弦の安定:4本の弦にはトータルで約20kgもの強いテンション(張力)つまり負荷が掛かっています。弾き始めることで弦や本体のバランスが動き、音程が狂いやすくなります」
「なるほど。で、どーやるの?」
「自動車のようにエンジンを空回りさせる訳では有りません。何せ、ヴァイオリンにエンジンは搭載されていないのですから」
「そんなの分かってる」
「そうですか。演奏家は本番の前に『長めの音をゆっくり弾く』とか『開放弦を響かせて共鳴を確認する』『ポジション移動を繰り返す』もしくは織お嬢様がなされたように『実際の曲、なるべくなら先に述べた動きの全てを網羅した曲を弾く』といったウォーミングアップを行います。これによりヴァイオリンの構成木材全体に振動が行き渡り、休眠していたボディが目覚めて本来の豊かな響きを取り戻す(音が『開く』)ようになるのです」
「ふーん、なんか今ひとつ納得いかないなぁ」
「それではヴァイオリンの各部材に用いられる木材や素材の性質の違いがもたらす影響を、楽器科学や制作の現場で得られた知見とともに見て行きましょうか」
慧茄は『しまった! また地雷を踏んじゃった』とでもいうような臍(ほぞ)を噛んだ顰め面(しか・め・つら)を表出させました。
私は気付かぬ振りを装いつつ説明を続けました。
「ヴァイオリンは、異なる性質を持つ木材(主にスプルースとメイプル)や硬木(エボニー)、そして伝統的な天然の接着剤(膠)が緻密に組み合わせられた『複合構造体』です。
この素材それぞれの材質の違いが、演奏開始時の物理的変化や音質にどのような影響を与えるのか? 主なポイントを解説して行きます」
慧茄は『仕方ない。この解説大好き親父に付き合うとするか』という微妙な表情を浮かび上がらせました。
「まず、表板と裏板の材質の違いを考えましょう。
1)表板(スプルース)と裏板(メイプル)の『伸縮率の差』
ヴァイオリンの『心臓部』である表板(スプルース)と、骨格を支える裏板・側板(メイプル)は、それぞれ密度も硬度も、加えて湿気や温度に対する反応(伸縮のしやすさ)もことなります。
スプルース材は針葉樹であり、非常に軽量で柔らかく、湿度や温度変化によって横方向(年輪の方向)に大きく伸縮しやすい性質を持っています。
それに対してメイプル材は広葉樹であり、密度が高く硬度も高いので、スプルースほど環境変化による急激な寸法変化を起こしません」
「ふーん」
「この構成材料の性質の違いがもたらす『暖機』への影響を考えてみます。
演奏者がヴァイオリンを構えると、体温や室内の温度・湿度の影響を受けて、表板だけが僅かに早く・大きく膨張・収縮しようとします。この時、硬く変化しにくいメイプルの裏板・側板との間に微細な『ねじれ』や『内部応力(ストレス)』が生じます。
弾き始めてしばらくの間、振動を与えることで、この(スプルースとメイプルという)異種木材間の微小な歪みが均等に分散・解消され、楽器全体が渾然一体となって響くようになります。
2)ネック(メイプル製)と指板(黒檀製)の『異素材の緊張』を考察してみましょう。
弦を支える頸部(首)に当たる部材である(ネック)と、指で押さえる硬い板(指板)の間でも、顕著な物理的な違いが観察できます。
材質の違いとしては、ネックはしなやかで加工しやすいメイプル、指板は鉄のように硬く湿気に強い極硬木である黒檀(エボニー)が使われます。
これらの差異が演奏の準備段階としての暖機を必要とさせるのです。
エボニーは非常に密度が高く温度を伝導しづらい木材であるのに対し、メイプルは比較的影響を受けやすい素材です。演奏前、左手の体温がメイプル製のネックに伝わることで、メイプル側(ネックの下側)が僅かに温まって微小に変化し、そこに強力な弦の張力(約20kg)を負うエボニー製の指板(ネックの上側)との間でバランスが崩れ、僅かにネック全体の反りや弦高(弦の〈指板からの〉高さ)のバランスが揺らぎます。これが『弾き始めに何となく音のツボが定まらない。ピッチ(pitch:音の高低)や響きが不安定に感じる』原因の1つとなり、少しの時間ヴァイオリンを弾くことによって楽器全体が馴染んでくると、音色や響きが安定して来ます」
「ははぁ…」
「ははぁ?」
「博学な父親を持つ娘の専門的用語の1つ」
「?
ま、良いでしょう。
3)弾き手の体温による膠(にかわ・接着剤)の結合の軟化も考慮に入れなければなりません。ヴァイオリンの多くのパーツは、化学合成ボンドではなく動物由来の天然接着剤である『膠(にかわ)』で接着されています。
その膠は硬くかたまるため振動成分(音)をロスなく伝える優れた特性を持っています。
しかし『熱と湿気に弱い』という性質もあります。ですから演奏を始めると、弾き手の顎(あご)や頸部(くび)そして左手の熱(体温)がヴァイオリンのボディやネックに伝導すると、接合部に使用されている膠や木材の表面温度が極僅かに上がります。これによりガチガチに硬化していた各パーツの接合部がほんの少しだけ『しなやかさ』を取り戻します。
結果として、バラバラだった部品同士の振動の橋渡しがスムーズになり、音が『スッと遠くまで飛ぶ(いわゆる、楽器のエンジンが暖まった状態)』ようになります」
「おう、ほう」
「おう、ほう…?」
「真の黒猫だけに許された専門的用語」
「ま、良いでしょう。
4)次に駒(メイプル製)と魂柱(スプルース製)の密着度の変化について述べます。
弦の振動をボディに伝える『駒』と『魂柱』はネジ止めではなく、お互いの圧力と摩擦のみで接合しています。
ヴァイオリンの『魂柱』は楽器の内部に建てられている非常に重要なパーツです。
英語では『サウンドポスト(sound post)』と言い、その重要性からヴァイオリンの『魂(Soul)』とも呼ばれます。重複になりますが魂柱の重要性を鑑み、その材質について述べましょう。
魂柱に用いられるスプルース(松科の針葉樹)その中でも木目が真っ直ぐで均一に詰まった良質な部分のみが素材として選ばれます。このスプルースは非常に軽量で弾力性に富み、縦方向の振動を伝導するスピードが極めて速いという特徴を持っています。
演奏を始めると、弦の約20kgもの強力なテンションと激しい振動が駒と魂柱に加わります。木材や湿度の違いによる微細な変形が起きている状態から、演奏者の体温や室温そして激しい振動のエネルギーによってマイクロメーター(μm:1000分の1ミリメートル)単位でパーツ同士の噛み合わせ微小ですが伸縮・変形します。挟まっているだけの魂柱は『最も無理の無いバランスの取れた位置や密着状態』へと微調整(セトリング:settling:馴染むこと)されます。これにより部材同士の無駄なストレスが解消され、エネルギーのロスも消えて、響きが豊かになって行きます」
「ふーん。で、ざっくり言って『暖機運転』の目的は?」
「それはヴァイオリン全体の振動(音)の伝達効率の最大化、です。
ヴァイオリンは、弦の振動を『駒』が受け止め『表板』から『魂柱』を介して『裏板』へと伝えることで、楽器全体をボディごと共鳴させることで大きな音を生成します。
弾き始めの『硬い』状態から、ウォーミングアップを通じて魂柱と表裏の板がピタリと馴染むと、振動のエネルギーロスが消失、音がスムーズに裏板まで伝わるようになります。
これが『音がこもった状態から、真のある豊かな響きへと開いていく(音が抜ける)』大きな要因になります。ヴァイオリンの各部材は演奏前の短いウォーミングアップの時間の中でも微小な変化を重ねて行ってダイナミックに環境へ適応しようと働いています」
「ふんふん」
「このようにヴァイオリンの『暖機運転』は『異なる木材(スプルースとメイプル)、異なる高度(黒檀)、そして天然接着剤が、体温や湿度そして振動によって微視的にバランスを再調整して行く時間』だと言い得ます。このプロセスを経ることで、各々の木材料が本来持ち備えている最高の共鳴を引き出すことができるのです」
「…終わった…」
「そうですね。とっくに終わってしまっていますねぇ、織お嬢様の演奏」
トントンと軽やかでリズミカルな足音が聞こえて来ます。
その発生源を探るように私と慧茄は頭部をその方向へと指向しました。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
織お嬢様でした。
ま、既にその足音で誰だか判明していたのですが、ね。
「いえ、お嬢様の演奏に感じ入っていたのでございます。素晴らしい奏音を前にすると時の経つのは疾(はや)いものです」
「えへっ」
当年とって弱い14歳の、ま、一般的には『少女』というカテゴリーに分類される織お嬢様でございますが、かなりの高身長で、私と慧茄がご厄介になっているこのミヤウチ家の長女のサナコ様、そして次女のカナコ様とほぼ同等の高さとお見受けしましたから、優に170cmは超えていることは容易に推察できます。
そして、そのお姿は神秘的な美しさを湛えております。
ま『ルッキズムはNG』などという無粋な思潮の暴風が吹き荒れている現代、この文言は不謹慎であると受け止められることは必至なのでございましょうが、人間が同類の他者をその外観で判断するのは、神代の昔から連綿と続けられて来た通常の営為である、というのは厳然たる事実です。どんなに否定しようとも、それは変わりません。
『人は見た目が9割』
悲しいけれど、これって真理、なのよね。
と、宇宙世紀の何とか中尉が言い放ってそう、ですが…
その織お嬢様の容姿は、と言いますと、もしもこの世界に神様なる存在が大座(おほま)しますのならば、彼(もしくは彼女)がその全身全霊を捧げて全力でタクトを振るい指揮をした結果である、と形容しても全く過言ではありません。
そのお姿というと、高い位置で微笑みを湛えている小さな頭部。その容貌は彼女のお母様に瓜二つでございます。目許がキリッと引き締まったアーモンド方の大きな双眸。スッキリと通った高い鼻梁。健康さと意志の強さを窺わせるカメリア色の口唇。滑らかで艶やかな淡いウィート(wheat:小麦)色の皮膚は薄く、内部の強いエネルギーを透過させているかのようです。何ですか、織お嬢様におかれては生まれ落ちてこの方、現在までメイクアップをした経験をお持ちでないとか。かろうじて七五三の参拝の折に山形県産の紅花を素材とした真正の紅をその唇に置いたことがあるくらい、なのだそうです。
ま、織お嬢様におかれましては、素材がとんでもなくよろしいので、メイクなどという無粋な行為は一生涯不要と思われます。ただ単に肌膚の保湿にさえ注意を払っておけば、万事がOKなのだと存じ上げます。
心持ち前下がり気味のワンレングス・ボブにカットされた濡れ烏の髪の毛先が、織お嬢様の動きに連動して肩口をサラッと舐める様子には非常に馨(かぐわ)しいモノがあります。
左の顳顬(こめかみ)に装着された、白銀色に輝く太いプラチナ・ワイヤーを細工して形作られた矢車菊を模した華型の髪飾りがお髪(ぐし)をまとめ上げております。そんなちょっとしたアクセサリーも彼女の美しさを彩る素晴らしいアクサン・スィルコンフレックス(accent circonflexe)として妙なる機能を果たしております。
長く伸びやかな四肢、そして細身の肢体。成長途上の思春期絶賛発露中の織お嬢様。
路上ですれ違う歩行者のほぼ全てがすれ違いざまに『AIか?』と振り返って二度見するご容姿でございます。パンツの裾上げなど経験無いのでしょうなぁ。
あ!
迂闊!
申し遅れました!
織お嬢様のお名前、『織』と綴りまして『イト』と読ませるのでございます。
何でしょうか、織お嬢様のお母様のお名前が『結衣(ゆい)』でして『衣を結うにはイトが必要』との謂れ、なのですと。何とも素晴らしい命名の方法であられますなぁ。
今日の織お嬢様のお召し物は、と申しますと、檜皮色(ひわだいろ:茶色の一種)のハイネック・カシミアセーター。アクア・スキュータムの灰白色の地色に茄子紺(英国の方々は『ロイヤル・ブルー』と言い張るのですがね)それと榛色(はしばみいろ:茶色の一種)のラインが交差していて、とてもシックな印象を受けるチェック柄を配された膝丈のプリーツ・スカート。と申しましても、彼女の御御足が長過ぎるのが原因なのですが、ニーハイ(knee-high)のはずが膝上20cm以上の超ウルトラミニスカートへと変貌を遂げていることは、ま、ご愛嬌の1つでございましょうか。
何でしょうか、脳科学的には長くて伸びやかな手脚が動く様子を見ると、精神的な平穏を得られるという効果があるそうです。
今現在の私、非常に心穏やかでございます。
このコーディネイトですとお足元は黒鹿毛色をしたアンクルハイ(ankle-high)のバックスキン(buckskin)ブーツをお選びになるのでしょうか?
確かに森林の中をウォーク(walk:並足)とトロット(trot:速足)の中間くらいの速度で颯爽(さっそう)と行く鹿を連想する服装ですからね。
今日の天候は気温24℃、湿度30%の気持ち良い秋の陽気でございます。
織お嬢様のこの服装は快適そのものでしょう。
しかし午後4時を少し回ったこの時間。10月ともなると太陽が地平線の下へ隠れてしまうと急激に気温が降下して少し肌寒さを感じることもあるかも知れませんね。
薄手のカーディガンなどを羽織っていた方が良いようにも思えますが。
「織お嬢様、何か羽織った方がよろしいのではありませんか?」
「多分、ダイジョブ。2時間と3時間とか長い間お外にいるわけじゃないから」
「しかし…」
「陽が落ちる前に帰ってくるから。だって前にポチさんが教えてくれたように『秋の日は釣瓶落とし』なんだ、もんね」
「そうでございますな」
私は余計な進言をしてしまったことを後悔しました、少量の慚愧の念と共に。
「差し出がましい言動をお許しください、お嬢様」
「ダイジョブ。だってワタシを心配して言ってくれてるんだもん」
「でも、さ」
「?」
「そのお嬢様って呼ぶのだけは止めてくれないかなぁ」
「そうですか。すっかり習い性になっておるものですから」
「フフッ」彼女はコケティッシに微笑みます。
「あのさ」
「何でございましょう?」
「やっぱり鶴瓶師匠が井戸の底へと落ちて行く画(え)の方が面白い、とワタシは思うけど」
織お嬢様は『フフフッ』と笑みを漏らしながら言いました。
「井戸の奈落へ向かって『ゔぁーっ』とダミ声の断末魔の叫びをあげながら落下して行く笑福亭鶴瓶師匠の画は非常に興味を惹くシーンではありますけれど」
「フフ」
織お嬢様、お散歩用一式が詰め込まれた小型のトートバッグを左手に携えておられます。
やった!
お散歩に連れて行ってくださるようです。
自然と私の尻尾の左右の揺れ幅が大きくなり、その揺動の激しさも増してまいります。
これは意図的な行為ではなく、無意識の内に起こる現象、言わば『It’s Automatic』でございます、な。
織お嬢様は横浜にある小中高一貫のお嬢様学校に通われている中学2年生でございます。
ま、厳密に言うと一貫校なのは中学と高校で、小学校はそのシステムには組み込まれてはおりません。が、小学校を卒業した児童生徒の大半はその中学校へと進学しますから、小中高一貫校と看做しても何の問題は生じないかと存じます。
巷間よく言われるのが『お嬢様学校』ですが、その実態はと申しますと『質実剛健で真面目』そして自由と自律、学力や礼儀作法を重んじる校風でございます。
ですが、このミヤウチ家の所在地は東京23区下。
何故に、織お嬢様がここにいらっしゃるのか?
それにはまぁまぁ深い理由があるのです。
その横浜の一貫校には姉妹校がございます。
ざっと申しますと、千代田区、大田区田園調布、静岡市、福岡市、それに日本最古でアジアでも最古のインターナショナル・スクールが横浜に位置しております。(筆者注:イトの通う学校とは別個の学校)因みに千代田区にある学園校が本家筋、言わば本店。他の学園校が分家筋で、言わば支店となります。ただ、掲げられた校訓は本家も分家も皆同じ。
『SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR』(フランス語)
『徳においては純真に、義務においては堅実に』
そして横浜と千代田区の間には姉妹校内交換留学制度なるシステムがございます。
勘の良いあなた様には、もうお分かりですね。
そうです。
その『交換留学生』として今年度は織お嬢様が選ばれたという次第にてございます。
怜悧な頭脳をお持ちで学業成績もほぼ常にトップ。身体能力も高く故にスポーツも万能、中学校の課程では必修となっているクラブ活動においてはハイキング部に所属して一端(いっぱし)の『山屋』として活動しております。本当は陸上のフィールド競技である走り高跳びをしたかったのですが、あいにくと陸上部が存在しておらず、彼女のお父様と一緒によく山登りをすることから、このクラブを選んだとか。ま、ハイジャンプに向いている体型ですから、跳躍をする織お嬢様、それはきっと煌やか(きらやか)なシーン。
見てみたかった…
同級生や下級生(小学生を含む)、はたまた上級生もしくは高校生のお姉さんからの人気も絶大で、2月14日にはチョコレートが机の上に載り切らないほど集まります。その件のチョコ、織お嬢様のお父上でいらっしゃる六分儀研吾様、そして研吾様が整備主任及び副社長取締役を務める整備工場の荒川自動車、その社長取締役である野々原咲耶様と織お嬢様ご本人の3人掛かりで5日間ほど掛けて食べ切るというのが毎年恒例の行事となっているのは、全くに微笑ましいエピソードでございます。
そんな織お嬢様を交換留学生として東京へと送り出さなければならない、横浜支店。
その無念にも似た、その切歯扼腕の想い、容易に推察できます。しかしながら送り出す生徒は最高の生徒でなければならない、というのもまた真実です。
ま、どこにいっても織お嬢様の所属先は横浜支店なのですから。
そんなに気を病む必要は無いと存じ上げるのでございますけれども。
小学校に入学した頃からでしょうか、そのように聞き及んでおりますけれども、織お嬢様はヴァイオリンの演奏を始められまして、渋谷区にお住まいの東京藝術大学の教授であられる芹生公男様に師事して学ぶようになったのでございます。
1回とはいえ、毎週末に横須賀から東京へと通うのはいささか難儀なことでしたが、それが中学進学と同時に本格的に芹生先生からご指導を賜うようになりました。爾来、ご自宅が所在する横須賀市武から東京渋谷区まで毎週末に2回通うことが常態化されました。
週1回でも大変なのに、週末の土曜日・日曜日に午前10時からの、お昼ご飯タイム1時間を挟んで午後2時までのレッスンをこなすために東京へ通うのは、まさに難行苦行。
いえ、織お嬢様いわく『レッスンは楽しいんだ。でも、電車乗ってる1時間半が…』
芹生先生の教えは厳しく容赦がない、しかしその態度は非常に丁寧で優しい、節度にあふれたもので、時が経つのを忘れるほどの愉悦なるレッスンタイムなのだそうです。
どうも芹生先生は幼い時から織お嬢様のヴァイオリンに対する世にも稀なる天賦の才能をお認めになられていたようで、本格的に(プロの演奏家になるために)その演奏を教示するという運びとなって以来、その薫育状況も非常に熱を帯びたものになってしまうという顛末。指導に打ち込むあまり、普通は何人かの生徒達をまとめてレッスンを行うのですが、織お嬢様の場合は単独でその薫陶を受けるというとても珍しいケースになっております。
あ、男性教師と女の子の生徒。
このシチュエーションに何らかの危ない香りを感じ取ってお仕舞いになりました?
ご安心を。
芹生教授は立派な正真正銘の、ゲイです。
女性に対する性愛欲求や恋愛欲求など1mmも持ち合わせておりません。
ま、彼は人格者ですから、生徒さんが男の子だったとしても変な下心など持たないでしょう。
おっと、話が明後日の方向に逸れまくってしまいましたね。
元の軌跡へと戻しましょう。
通うために無為に費やす『電車時間』勿体無い、何とかならないものか、と織お嬢様とお父上でいらっしゃる六分儀研吾様、そして研吾様が整備主任及び副社長取締役を担う荒川自動車の社長取締役である野々原咲耶様が顔を突き合わせて考え込んだのでした。『三人寄れば文殊の知恵』と申しますが、長い間話し合っても何の解決策も出て来ませんでした。
そこへ降って湧いた『交換留学生』のお話。
ルアーに喰らい付くブラックバスの如く、間髪入れずにガッと飛び付いたのでございました。運の良いことに渋谷区からそんなに遠くない世田谷区に家屋の改築を終えようとするばかりのミヤウチ家が所在しておりまして。
ええ、野々原咲耶様とミヤウチご夫妻は、月に何度もご一緒して様々な活動を楽しむ昵懇の間柄。当然のように研吾様とも親しく、というよりもミレニアム・ジェイド・メタリックという翡翠色(ひすいいろ)に輝くBNR34 M.spec Nürの整備をアキヒコ様が所有し始めた時からずっと一貫して担っているのが研吾様です。整備を依頼されたのを嚆矢として、咲耶様とミヤウチご夫妻のお互いが知己としての関係がスタートしたのです。
当然の帰結として、アキヒコ様もサチエ様も織お嬢様をとても可愛がり、今では実の子供のようにすら想っておられるのです。サナコ様とカナコ様の2人の真正の娘が家から巣立ってしまった現在、たとえ仮初めの娘とはいえ、織お嬢様をミヤウチ家に向かい入れるのに何の躊躇も感じられなかったことは至極順当、いえ必然と言えるのでしょう。
こうして先の4月から織お嬢様のミヤウチ家における『下宿生活』が始まったという訳でございます。
ま、ミヤウチご夫妻にとっては下宿人が来た、というよりも実の娘が1人増えた、との認識です。お2人、この上なくお喜びになり、歓喜の極みたる微笑みをいつも浮かべるようになりました。
「ゲスト・ルーム、造っておいて本当に良かった」とは織お嬢様を家へと向かい入れることが決まった時のミヤウチご夫妻の心の底からの言葉です。
それで割を喰ったのが慧茄です。
織お嬢様がお越しになる以前には、ミヤウチご夫妻の寵愛を一身に受けていた慧茄。
ところが織お嬢様がお2人の中での『可愛がるべき存在』ランキング第1位として忽然と現れたものですから、さぁ一大事。
慧茄が拗ねるやら、妬むやら、で結構な修羅場になりかけるほどでした。
しかし、慧茄と織お嬢様の2人(?)の親和性は元々高く、その仲は刎頸の交わりと言っても全然大袈裟ではないくらいで、お互いにお互いを必要としている存在だからこそ絶対に嫌いにはなれない交友関係の2人。彼女達の間柄が元の鞘に収まるのに要した時間は、たったの3日でした。
「慧茄、ダイジョブ? なんか顔色悪いよ。疲労困憊の極致って感じ」
織お嬢様の我が娘を心から思いやる優しいお言葉に対して
「ありがと、イト。大丈夫だから。言葉の大軍に少しヤラレちゃっただけ、だから」とだけ答える慧茄です。
言葉の大軍? はて?
何のことでしょう?
慧茄がチラリと一瞥をこちらに寄越してから、
「私は大丈夫。だから、このウンチク傾けるクソジジイをさっさと散歩に連れてっちゃって」
『フンッ』という吐息のような物を1つ漏らすと香箱座りをしました。
彼女が動く度にそのビロード様のブラックサファイアを思わせる艶やかな毛並みから干渉色の青い光沢が表面を、野分けが草原を撫でるが如く、サーッと走ります。
しかし、まぁ、慧茄。お口が悪いですよ。
妙齢のご婦人がそのような汚い言葉を吐いてはダメでございます。
(筆者注:ブラックサファイア〈Black Sapphire〉は一見漆黒のようだが、実際には極めて濃い青色〔もしくは濃いグレー〕の宝石〈鋼玉:コランダム〉光を強く当てると奥から青い色が発露する)
お嬢様と私の1人と1頭は夕暮れ間近の世田谷の住宅街をお散歩している最中でございます。我々イヌにとって散歩というのは必需品、いえ必須の行為です。こうやって毎日、晴れの日も、雨の日も、強風荒れ狂う日も、1日も欠かさずに彼女は私を散歩に連れ出してくださるのです。何ともありがたい僥倖でございましょうか。東京という大都会には至極危険な地帯も存在はしておるのですが、ミヤウチ家の周囲15km四方の治安は良好そのもの。その風紀は一切乱れを見せておりません。真夜中にうら若き女性が独り出歩いたとしても何の事件にも遭遇しない、ここはそんな街でございます。
織お嬢様、やはりアンクルハイの黒鹿毛色のブーツをお履きになっておいでです。
「織お嬢様」
私はお嬢様の玲瓏たる相貌を見上げ、質問の言葉を投射しました。
「なあに」
優しい微笑みと共に織お嬢様は私を見降ろしました。
「最近、学校の方は如何ですか?」
「ぼちぼち、でんな」ご自分のニセ関西弁に思わず笑みを零しました。
「走り高跳び、残念でございましたな」
「仕方ないよ。指、怪我しちゃダメだもん」リードを握る任務に忙しい右手ではなく、トートバッグの持ち手を携えている左手を持ち上げて、視線を落としながら、そう答えました。
うーん…まぁ、ヴァイオリニストにとって弦を抑える大事な役目を持つ左手、弓を操作する右手、どちらも重要な役割を持っていますから、ね。東京本店には陸上同好会があるから、そのクラブで走り高跳びを専攻するのをとても楽しみにしていらっしゃったのに。
私も高いバーを軽々と越える跳躍を披露する織お嬢様、見てみたかった…
「でも、こっちで入った笑う会、面白いよ」
「それは本当に良きことでございましたな」
「いとうあさこ先輩も笑う会だったのかな?」
「さぁ…」と一応の相槌を打った私。いとうあさこさん、本当は陸上同好会所属だったのですよね。この真実は…伝えられない。知らない方が良いことでこの世界は満ちているのです。
『There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.(この世には君の人生哲学全てを超える数多くの物があるのだ、ホレイショウ)』
(筆者注:この言葉は、シェークスピア作『ハムレット』第1幕 第5場の超有名な台詞)
なるほど、笑う会に入部したからこその、関西弁なのですね!
「ポチさん」
「何でございましょうか?」
「ゴメンね、お散歩行くの、遅くなっちゃって」
「いいえ、一向に構いません」
「時間、掛かっちゃって。お手入れに」
「そりゃ、3台の、しかも全て17〜18世紀に製作されたオールド・ヴァイオリンですから。クリーニングには長いお時間が必要なのは仕方のないことでございます」
「そう言ってくれると、気分的に楽」と朗笑を顕現なさいました。
え?
ヴァイオリンの手入れってそんなに手間暇喰うの? ですって?
そりゃ、そうです。掛かって当然でございます。
モダン・ヴァイオリンでも相当な時間を要求されますし、その上、織お嬢様が所有なさっておるのはオールド・ヴァイオリンの中でも逸品中の逸品、稀有なる掘り出し物ですから。
大体において個人がクレモナのヴァイオリン製作における三大巨匠であるニコロ・アマーティ、アントニオ・ストラディバリ、そしてバルトロメオ・ジュゼッペ・グァリネリ “デル・ジェス” の機体を3台も所有していることが、本当に奇蹟なのです。
彼らが組み上げた銘付きのヴァイオリンは、富裕層の篤志家(真心のある支援者)、財団法人、社団法人、企業または国家や王室が所有するケースがほとんどでございます。
その価格を考慮すれば、個人が所有するのは、まぁ、無理ですよね。
(筆者注:安くても数億円、高ければ数十億円はする)
織お嬢様が3台も所有なさっておいでの理由。
それは非常に単純明快です。
お父様の研吾様が唸るほどの量のお金をお持ちだからでございます。
いや、織お嬢様が研吾様に高価なヴァイオリンをおねだりした訳では決してありません。
最初に入手したヴァイオリンはニコロ・アマーティ製の『il Enigma』
もちろん鑑定書(Certificate of Authenticity)付きでございます。何故ならば、オールド・ヴァイオリンの世界において『鑑定書』は楽器そのものと同等、あるいは機体以上に重要な意味を持っているのです。それは数億円〜数十億円という巨額な取引が行われるオールド・ヴァイオリンの市場ではアマーティ、ストラディバリ、グァリネリといった名機の『偽物(コピー品)』やヴァイオリン内部に貼付された『ラベルだけが本物』で機体自体は別物という詐欺的なヴァイオリンが大量に流通しているからです。
織お嬢様のアマーティ『il Enigma』を鑑定なさったのは、誰もがひれ伏さざるを得ない伝説的な鑑定人(エクスパート:Expert)であるW. E.ヒル&サンズ(W. E. Hill & Sons)とシャルル・ベア(Charles Beare)の両者です。この組織とお人が『本物である』とお認めになったら、そのオールド・ヴァイオリンは正しく本物に間違いございません。
この『il Enigma』は研吾様が昔から荒川自動車で使用される製品や部品の調達に関して普段から取引をなさっておいでの調達人である横浜市旭区に所在している『パーヴェイヤー・ユースケ』こと中山祐介様が極秘のルートで手に入れた物でございます。
織お嬢様が研吾様に「ヴァイオリン、やってみたいな」と告げるや否や、お父様は中山様に連絡を入れ、10日後にはお嬢様のお手許に届いたという驚異的な早業を存分に見せ付けた『パーヴェイヤー・ユースケ』
普段から「俺に任せてくれりゃ、何でも手に入れて差し上げますぜ。核爆弾以外は、な」と豪語されている中山様。お見事な手腕発揮でございました。
(筆者注:パーヴェイヤー〈purveyor〉とは『特定の店舗や組織に向けて継続的に物資を納める仲介業者で高品質な品物を買い付けて提供するのを専門している場合が多い』の意)
図らずも織お嬢様が初めて手にしたヴァイオリンがニコロ・アマーティ製作の傑物。
芹生先生が織お嬢様を生徒として迎い入れた時、この『il Enigma』をご覧になって、機体が放つそのあまりの荘厳さに息を呑んでしまって、二の句が全く継げられなかったという次第にてございます。
あ、織お嬢様におかれましては当時6歳(4月21日が誕生日)なのにも関わらず、その身長は155 cmもある、小学1年生にしては大柄な肢体でしたから、標準サイズの4/4(フルサイズ)がピッタリ適合寸法だったそうなのでございます。
(筆者注:グランド・アマーティはモダン・ヴァイオリンと比較すると全長が同じかやや小さめ(約2mm)ボディの横幅が1cmほど広く、その膨らみはハイ・アーチと呼ばれる中央に向かってふっくらと肉厚に隆起する独特の形状をしている。これにより深みのある特有の音色を生み出している)
最初、彼女はこの『il Enigma』が持つその価値を全く理解できていなかったとか。
そりゃ、当然です。
いくら子供の頃から聡明であられた織お嬢様としても、産まれたばかりと言って良い、わずか6歳なのですから。
今ご想像された通りに、その後、折に触れてと申しますか、折を見てポツリポツリと祐介様からヴァイオリンに関しての連絡が研吾様に入りまして、
「今度、さ。出物のストラディバリウスが見付かったんだけれども」とか
「あのさ、グァリネリの状態の良い個体があるんだけれども」とかの情報を織お嬢様のお父様に流しまして(勿論そのストラディバリにはシャルル・ベアとヴァッテル・アンド・ドナ(Vatelot-Rampal)グァリネリにはW. E.ヒル&サンズとヴァッテル&ドナの鑑定書がそれぞれに付属しております)その都度彼は何らかの理由を付けて即座に購入に踏み切ったのでございます。織お嬢様の「アマーティがあるから、他の要らない」というお言葉を頭から完全無視をしてまで。そして頃合を見計らって隙を突くように「これ」とお嬢様に差し出すという荒技を披露なさいました。「ふぅ…」と諦観のため息を1つ吐きながら「アリガト」と受け取る織お嬢様。
その昔、お嬢様(と私及び慧茄も)が荒川自動車に隣接する野々原咲耶様のご自宅にご厄介になっていた折、彼女が私にソッと「ケンゴは、さ。いつもはちゃんとしてるって言うか、節約家だし、合理性の塊みたいな人だし、常に理性を失わない冷静沈着な人なんだけど、時々、初号機みたいに暴走しちゃうんだよ。ケンゴには全く悪気がないから、ホント始末に負えないんだよね」と嘆息と共に告げられたのでした。
(筆者注:ここのポチさんと慧茄が咲耶さん家に居候するに至った運びについては前々作及び前作を参照して下さい)
織お嬢様、最初の機体である『il Enigma』が一番のお気に入りのヴァイオリンなのだそうです。その証拠(?)として、彼女に取っても最も大切で最愛の曲(Anthem:聖歌)であるJ・S・バッハ『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BMW1007 Iプレリュード(Johann Sebastian Bach:Suite No.1 in G, BMW1007 I Prélude)』だけは『il Enigma』以外で弾くことなど、絶対になさらないのでございます。
(筆者注:『折に触れて』は『何かにつけて』の意で『折を見て』が『適当な機会を見計らって』の意)
あ、ヴァイオリンのお手入れについて、でしたね。
ヴァイオリンは非常に繊細な木工品であり、適切な保管と日々のメインテナンス(お手入れ)が楽器の寿命と音質を大きく左右します。現代のヴァイオリン(モダン・ヴァイオリン)の基本的な取扱いと、17世紀などの「オールド・ヴァイオリン(クレモナの古典名器)」に関する特殊な配慮について分かりやすく解説いたします。
まず普通のヴァイオリンの保管方法についての説明をします。
ヴァイオリンの最大の敵は『湿度』と『温度の変化』そして『衝撃』です。
最初にお知らせしたいのは湿度と温度の管理についてです。
ヴァイオリンにとって理想的な湿度は40%〜60%になります。
高湿度(60%以上): 木材が膨張して響胴の接着(膠:ニカワ)が剥がれたり、カビが発生したり、表板・裏板が変形する原因になります。
低湿度(40%未満): 木材が収縮して表板や裏板に裂け(クラック)が入る危険があります。特に冬場の乾燥や暖房には厳重な注意が必要です。
ヴァイオリンの保管状況に関して、理想的な温度帯は15℃〜25℃前後、つまり人間が快適と感じる室温とほぼ同等です。
保管場所に関する注意点としては、直射日光の当たる場所、エアコンの風が直接当たる場所、湿度の高い部屋(地下室など)は避けてください。
そして車の内部に放置するのは厳禁です(特に夏場は数分で接着材のニッカワが溶けたり、木材が割れたりする危険性が大です)
演奏が終わったら必ず専用のケースに収納します。
そのケースないには楽器様の温度・湿度計をセットし、必要に応じて『楽器様調湿剤』を併用します。老婆心からですけど、立てかけて置くと転倒の危険性があるため、ケースは平らな場所に置くか、頑丈な専用スタンドを利用するべきだと存じ上げます。
毎日のメインテナンスについて申し上げます。
演奏前後のほんの少しの手間暇が、ヴァイオリンの良好な状態を長持ちさせます。
ヴァイオリンを演奏した後のお手入れに関してのお話でございます。
まずは弓から飛散し、ヴァイオリン本体や弦に付着した松脂を除去しなければなりません。
演奏後、弦・指板・表板(特に駒の周辺)に付着した松脂を、乾いた柔らかいクロス(マイクロファイバーやシリコンクロス)でやさしく拭き取ります。
その理由は、もし松脂を放置するとニャー(ニス)と反応して固着し、ニスを傷めたり音色を損ねたりするからです。汗が付着した部分(あご当て周辺やネック)も拭き取らなければなりません。ここでの注意点としては松脂を拭き取るためのクロス(布)とニスをケアするためのクロスは絶対に別の物を用意して使用することです。何故なら、松脂を除去したクロスをニスのケアのために用いるとせっかく拭い取った松脂をボディ全体に塗り拡げてしまうことになるからです。
そして弓に張られた馬毛を弛めることも必須事項です。
演奏が終わったら、必ず弓のねじ(アジャスター)を緩めて毛の張りを戻します。
馬毛を張ったまま放置すると、弓の木(ペルナンブコなど)が反ったり、折れたりする原因になるからです。
定期的なチェックとヴァイオリンの調整としてペグ(糸巻き)の調整と駒(ブリッジ)の傾きの確認があります。ペグが固くて回らない、あるいは勝手に緩む場合は専用のペグコンポジション(ペグ滑り止め/滑り出し剤)を使用します。
弦を調弦していると、駒が徐々に指板側へ傾いてきます。時々横から確認し、直角(またはやや後ろ傾斜)になるよう指で優しく補正します。
ま、1年に1〜2回程度、弦楽器専門の職人(ルシアー)にチェックしてもらうのが理想ではあります。
(筆者注:ルシアー〈Luthier〉とは、ヴァイオリンやギターなどの弦楽器を専門に製作・修理・メインテナンスする職人〈弦楽器製作者・修復家〉のこと。語源は中世ヨーロッパの弦楽器である『リュート〈Luth〉』の製作者に由来する)
しかしながらモダン・ヴァイオリンとオールド・ヴァイオリンではメインテナンスの方法が違って来ます。
ニコロ・アマーティ、アントニオ・ストラディバリそしてバルトロメオ・ジュゼッペ・グァリネリ(=グァリネリ・デル・ジェス)といった17〜18世紀前半に掛けて製作されたヴァイオリン(ここで言及している『オールド・ヴァイオリン』のこと)は、現代に製作されたモダン・ヴァイオリンと保管やメインテナンスにおいて幾つかの重要な違いや特別な注意点がございます。
因みに、現在演奏に用いられているストラディバリなどの多くのオールド・ヴァイオリンは、そうですね、19世紀頃にモダン仕様(ネックの長さや角度の変更、指板の延長、バスバーの強化など)へと改造されています。しかし本体の木材やニス自体は17世紀に施されたままです。
オールド・ヴァイオリンに塗布されたニス(ヴァーニッシュ:Varnish:ヴァイオリンの木材表面に塗る保護用のニス〈ワニス〉のこと。演奏者の汗や湿気から木材を守るだけではなく、板の振動をコントロールして楽器の音色や見た目を決める、ヴァイオリン製作において最も重要な要素の1つ)の性質とその保護について申し上げます。
17世紀頃に製作されたクレモナの名機には極めて繊細なオイル・ニスが使用されています。(他にはアルコール・ニスやラッカー・アクリル系がある)このニスは非常に薄く柔らかいため、経年変化や摩擦で剥がれやすく、熱や薬品に極めて脆弱です。ポリッシュ(磨き剤)やアルコール系クリーナーを使うとニスが溶けて不可逆的なダメージを与えます。
モダン・ヴァイオリンには合成樹脂や強固なスピリット(アルコール)系ニスが使われることも多く、オールドに比べると薬品や摩擦に対して比較的耐性があります。
オールドとモダンのメインテナンスの違いとは、オールドの清掃は乾拭きのみが原則であり、汚れ落としや磨き作業は必ず専門の修理修復家(レストアラー:restorer)に任せる必要があります。
オールド・ヴァイオリンに関しては、使用されている木材の経年劣化と環境の変化への超過敏性に留意しておかなければなりません。
オールド・ヴァイオリンに用いられている木材は300年以上経過しており、乾燥が進み切っています。これは構造的に非常にデリケートです、湿度の急激な変化に対してモダン楽器以上に敏感で、少しの乾燥や湿度変化で簡単にクラック(割れ:crack)が入ります。
オールド・ヴァイオリンの保管時の湿度管理(常に45〜55%程度を維持)はモダン以上に厳格に行われなければなりません。移動時には湿度変化を防ぐために高度に気密性と断熱性を備えた特殊な専用ケースを使用します。
17世紀当時の状態(バロック・ヴァイオリン仕様)に復元されている機体の場合、スチール弦やナイロン弦ではなくガット弦(羊の腸で作られた弦)を使用しています。ガット弦は湿度や温度の変化で著しくピッチ(音高)がかわるため、頻繁な調弦(チューニング)と細やかな毛羽立ちのチェックが必要となります。
オールド・ヴァイオリンは内部の木材やバスバーの疲労を考慮し、あえて張力の低い弦を選択してみたり、長期間演奏しない場合は少し調弦を緩めて保管することもあります。
経過した300年の歴史の中で、ほぼ全てのオールド・ヴァイオリンは何らかの修復(裏板の補強パッチやペグ穴の埋め直しなど)を受けております。衝撃に対する耐性がモダン楽器よりも数段階低いため、日常の取り扱い(ケースの置く向き、演奏中の顎当てや肩当ての装着時の圧力など)において、補修部分に負荷を掛けないように細心の注意を払うことが必要になります
オールド・ヴァイオリンは歴史的文化財でもあるため『薬品やポリッシュを使用しない』『より厳格な湿度管理』『自己判断でメインテナンスせず専門職人に任せる』という点が、モダン・ヴァイオリン以上に徹底されなければならないのです。
結局、重要なことは演奏後の松脂の除去と日々の保管方法に尽きます。
え?
松脂の除去って、そんなに重要事項なの? ですって?
勿論でございます。
松脂が付着する出処は『弓の毛(馬の尾毛)』です。弦がガット(羊の腸)であっても、スチールやナイロンであっても、また弓の木材部分(ペルナンブコ等)のことではなく、弓に張られている『馬毛(ばもう)』に直接塗った松脂が演奏によって飛散し、ヴァイオリンの本体や弦に付着します。
ヴァイオリンを弾く前、演奏者は弓に張られた馬毛に固形の松脂を擦り付けます。以前にも申し上げた通り、その理由はヴァイオリンの弦は表面が滑らかであるため、毛のまま擦っても滑ってしまって音が鳴らないからです。松脂の粉末が引っ掛かることで摩擦が生じ、弦が振動して音を出力することが可能になるのです。演奏中、弦と弓毛(張られた馬毛)が激しく擦れ合うことで、松脂が細かい白い粉末(粉塵)となって飛散します。それが弦、コマの周辺、表板、指板に付着してしまうのです。
何故、飛散・付着した松脂の粉塵を放置すると危険なのか?
それは、演奏直後の松脂は『ただの白い粉』ですが、次に述べる理由から即座に拭い取る必要があるのです。
ヴァイオリンの表面に塗布されたニス(特にオールド・ヴァイオリンのオイルニス)は非常に繊細です。付着した松脂の粉塵を放置してしまうと、演奏者の汗や体温、空気中の湿度などでニスと化学反応を起こし、ニス自体の中に溶けて固着してしまいます。こうなるとクロスによる乾拭きでは除去できなくなり、ニスの質感を損ねてしまうことになります。
それに加えて、弦の上に松脂が分厚くこびりつくと、弦の正常な振動が妨げられ、雑音の原因や音質の低下をもたらしてしまうのです。
そのために、演奏が終わったら『マイクロファイバー製などの乾いた柔らかい布で、弦と表板の松脂を優しく拭き取る』ことが毎日の不可欠なメインテナンスとなっています。
オールド・ヴァイオリンの非常にデリケートなメインテナンスに関して、楽器の寿命やニスの美しさを守るための細やかな配慮が必要不可欠となるのです。
演奏直後のヴァイオリンに付着した松脂の微粒子を拭き取る際に使うクロスは『超極細繊維(マイクロファイバー)製』や『目の詰まった上質な綿(コットン)100%』の、できるだけ柔らかいものが最適となります。
マイクロファイバークロスのメリットは、繊維の隙間に微細な松脂の粉塵をしっかりとキャッチできるため、乾拭きでも効率よく汚れを落とせます。
しかしながら、あまりに安価でザラつきのある物は、デリケートなオールド・ニスに微細な擦り傷(ヘアライン:hairline)を付ける原因となります。必ず『弦楽器用』として販売されている、非常に毛足が短く柔らかいクロスを選ぶことが肝要です。
伝統的に使用されて来たシルクもしくはコットン製のクロスもあります。
そのメリットはマイクロファイバー製クロスが化学繊維であるということを気になさる場合や、昔ながらの伝統的な手入れを好む場合に適しております。選定するに当たって留意しなければならないポイントとしては、ガーゼのような目の荒い製品は埃が出やすいため、避けなければいけないのです。目の細かい上質なネル生地やフランネル素材を用いた製品をお勧めします。
ただ、どちらにせよ『ヴァイオリン(弦楽器)のメインテナンス・塗装保護』に特化した専用クロスをしようすることが肝要です。もちろんメガネのレンズ部分をクリーニングするマイクロファイバークロスをヴァイオリンのメインテナンスに用いることは、可能ではあります。
なにせ、素材自体は『超極細繊維(マイクロファイバー)』と同じ物なので。
マイクロファイバーの髪の毛の数分の1という極細の繊維が、眼には見えない無数の隙間(ポケット)を持っています。これが松脂の微粒子や指紋の脂分を繊維の毛細管現象と摩擦によってガッチリとキャッチし、ボディ本体に傷を負わせることなく松脂の粉塵を拭い取ることができます。
メガネのレンズのコーティングは非常にデリケートであるため、メガネ用マイクロファイバークロスは『傷を付けない柔らかさ』を追求して作られています。そのため、緊急時や入手しやすい代用品として、高品質なメガネ用クロスがヴァイオリンのお手入れに使われることもあり得ます。
しかしながら、楽器市場には弦楽器専用のクロスが多数流通しており、オールド・ヴァイオリンのメインテナンスにおいては専用のクロス(あるいは楽器用に厳選された上質なクロス)を使用するのがベストと言えます。
その理由としては、市販されている一般的なマイクロファイバー製のメガネ拭き用クロスの中には。縁のパイピング(ほつれ止め)に硬いナイロン糸が使われていたり、硬いプラスチックのブランドタグが縫い付けられている物が存在しています。これらが不注意からオールド・ヴァイオリンの柔らかいニスや木部に当たってしまうと、一瞬で深い線傷(ヘアライン)が付いてしまいます。
それに対して楽器専用として製作されたクロス(たとえばヤガー〈Jargar〉やヒル〈W. E. Hill〉もしくは日本国内の楽器メーカー製など)は、布地の端の処理がレーザーカットで切りっ放しになっていたり、柔らかいサテン地で包まれていたり、タグの類が一切無いなど、楽器に損傷を与える危険性を回避する工夫が徹底されています。
加えて、メガネ用のクロスは、ガラスやプラスチックレンズに付着した頑固な油膜をスパッと落とすために、やや毛足が短くドライな感触のものが多いのです。
一方、デリケートなオイルニスが塗布されているオールド・ヴァイオリンには、少しだけクッション性があり、松脂の微粒子を奥までしっかりと包み込められるような、極めて毛足が短く、かつ高密度でしっとりとしたウェッティな質感のクロスが求められます。
専用クロスのメーカーは、ニスの硬さや特性を研究した上でヴァイオリンのメインテナンスに最適の布地を選定しています。
ま、オールド・ヴァイオリンのメインテナンスに用いるクロスは、安全性を最優先とし、楽器店(できれば弦楽器専門店)で販売されている『ヴァイオリン専用マイクロファイバークロス』や、伝統的に使用されて来た『シルク・コットン製弦楽器用クロス』を松脂除去用とニスのケア用で2枚用意するのが最も安心です。
ヴァイオリンに付着した松脂の粉塵を除去した後、ニスのお手入れも必要となります。
ま、松脂を綺麗に拭き取った後に行われなくてはならないニスのお手入れも、基本的には『柔らかいクロスで優しく乾拭きする』だけで十分なのですけれど。
市販の家具用ワックスや、成分が不明なポリッシュ、アルコールやベンジンなどの溶剤を自分でオールド・ヴァイオリンに使用することは厳禁でございます。17世紀に製作されたオールド・ヴァイオリンに塗布されているオイルニスは非常にデリケートであり、研磨剤やアルコールで簡単に溶けたり、曇ったりしてしまいますので。
ここでいう『ニスのお手入れ』とは、何か特別な液体を塗るということではなく『松脂の固着を防ぎ、その日に付いた汗や手の油脂、埃などをその日のうちにリセットしてニスの健康状態を保つ』という意味での乾拭きを指します。
もし経年による汚れの蓄積やくすみ、ニスに何らかの異常を感じた場合は、演奏者自身で解決しようとはなさらずに、必ず経験豊富な弦楽器専門の修復家(ルシアー)に相談してクリーニングを彼もしくは彼女に任せるのが最善の方法です。
あ、松脂除去用クロスとニスお手入れ用クロスに違いがあるのか? ですって?
結論を先に申し上げますと、同じクロスでございます。
ただ『役割を分けるために、物質的に明確な区別をするべき(クロスそのものの状態や使い道を分ける)』となります。
たとえば同じマイクロファイバー製やコットン素材のクロスを使う場合であっても、以下の理由から、完全に別の布を用意し、混在させて使わないということが鉄則となります。
理由その1:松脂の油分・粉塵の二次付着を防ぐため
松脂除去用のクロスには、眼に見えないレベルの固形化した松脂の微粒子や、摩擦で移行した微量のヤニ分が付着してしまっています。そのクロスをそのまま『ニスのお手入れ(仕上げの乾拭き)』に使用してしまうと、クロスに付いた松脂の微粒子を逆にボディ全体に塗り広げてしまうことになります。
理由その2:クロスの役割分担(汚れ落とし&仕上げ)
松脂除去用クロス(クレンジング用)は、弦や駒の周り、表板など、松脂が特に多く付着する箇所を拭くための『少し汚れを受け止める側』のクロスとなります。
対してニスお手入れ用(仕上げ・保護用)は、松脂の微粒子が綺麗にリセットされた状態のボディ全体を優しく撫でるようにして、その艶を整えるための『常に綺麗な状態を保つ』クロスと言えます。
多くの弦楽器奏者は、次のようにして2枚のクロスを区別しています。
松脂除去用クロスは、少し使用感が出た(つまりくたびれた)クロスを用います。または松脂除去をメインにするため、定期的に洗濯(または専用クリーナーで洗浄)して使います。
ニスや本体の乾拭き用のクロスは、松脂が絶対に付着しないように、常にクリーンな状態を保った最上級の柔らかな物を用います。
もちろん織お嬢様は、松脂の粉塵を除去するためのヴァイオリン専用マイクロファイバー製クロスとニスのケア用のマイクロファイバー製クロスを用いて日々のメインテナンスを行なっております。
そのお手入れが3台ぶんですからね。
時間が掛かるのも無理はありません。
メインテナンスを行なっている際も細心の注意を払う必要があるのですから。
彼女の所有する3台の名機に用いられているオイルニス(Oil Varnish)は、亜麻仁油やクルミ油などの乾性油と樹脂を混ぜた物で、塗布してから乾くのに時間が掛かりますが、しなやかで奥行きのある音色を引き出す効果があるから、多くの名機に採用されています。
しかしながら、そのメインテナンスには氷の刃の上を歩くような細心の注意が必要になるのです。
(筆者注:アルコールニス〈Alcohol Varnish〉はアルコールに樹脂を溶かした物で、すぐに乾く。比較的硬い塗膜となり、シャープで明るい音質になりやすい特徴を持つ。
ラッカー・アクリル〈Lacquer・Acryl〉系は安価な量産品に使われることが多く、塗膜が非常に硬く変化しにくい性質を持つ)
完璧なお手入れが施された3台のオールド・ヴァイオリンは楽器専用電子制御型全自動恒湿保管キャビネットの中で一刻の眠りに就いています。この保管庫は、環境管理機能を備えたヴァイオリンの保管に特化した高性能な防湿・恒湿キャビネットでございます。
ヴァイオリンを保管するのに最適な温度と湿度を常に管理している、非常に賢い保管庫なのです。ヴァイオリンの保管に最適な環境は、温度が20〜25℃前後、湿度は40〜60%(可能ならば50%前後)です。人間の棲息にも適した心地良いこの数値を保つことが、木材や接着剤(膠:にかわ)の劣化を防ぐ基本となるのです。
たとえば温度が40℃を超えると接着に使用されている膠(にかわ)が溶けたり、ニスが柔らかくなったりする危険がありますし、湿度が40%以下になると、つまり乾燥状況に機体が置かれた場合は、木材が縮んで表板・裏板のひび割れや指板の剥離が起こる危険性があります。反対に多湿(湿度60%以上)の場合は、膠が緩んで板の剥離が起こったり、木材の膨張により魂柱が倒れたり、カビの発生などが起こったりします。
勿論、演奏中なども太陽光の直射やエアコンなどの空調設備からの風は避けなければいけません。日光に曝される窓際や空調の風が直接当たる場所は、急激な温度・湿度変化を招くからです。
因みにヴァイオリンの持ち運びの際に用いられる、外気の極端な湿度変化や衝撃、急激な温度変化からヴァイオリンを守るための高性能ケースも存在しています。
織お嬢様の所持されている移動用保護ケースはムサフィア(Musafia)というクレモナの老舗ケースメーカーの製品です。このケースは内部の熱伝導率・気密性が非常に高く、熱や衝撃、急速な湿度の変化を防ぐ構造(熱伝導遅延システム)が組み込まれておるのです。
重力の影響を一切感じさせない軽やかな脚取りで織お嬢様は歩みを進めていきます。
「ヴァイオリンさんたち、いい眠りに就けたかな?」
お嬢様の横をポチポチと歩きながら、首をもたげて私は彼女に話しかけました。
「それは、もう。当然でございます」
「それなら、いいけど」
「大丈夫でございますよ」
太陽を確認するかのように、一瞬だけ上を見上げた後、秋の強い陽光に眩惑されたのか、瞼を閉じながら微笑んだ織お嬢様。
そして「ホント?」と、澄んだ双眸で私を真っ直ぐ見詰めながらお尋ねになりました。
『Heterochromia iridis』
虹彩異色症。
これは左右の眼で虹彩の色が異なる、若しくは一方の瞳の虹彩の一部が変色する形質のことです。私の娘の慧茄がそういう特性を持っていますが、実は織お嬢様もそうです。
彼女の右の虹彩は黒褐色をしていますが、左の虹彩は褐色(かち・いろ)で、紺色よりも濃い、漆黒の黒に思えるほどの暗い濃藍色をしています。織お嬢様の左の瞳を覗き込む度に、私は静嘉堂文庫美術館に所蔵展示されている曜変天目茶碗、通称『稲葉天目』の斑紋を取り囲む地の部分の濃藍色を想起します。
「本当です」
「なら、一安心」
え?
何でイヌである私と織お嬢様が普通に会話を交わしているのか? ですって?
それは前作である『ポチさん、仕事をする』と前々作の『ポチさんとイト』
そして織お嬢様の初登場作品である『ポチ、私のパパ』をご参照下さいな。
ま、何がどうなっているのか、その作用機序はさっぱり分からないのですが、織お嬢様は人間以外のモノと会話を交わすことがお出来になるのです。
私のようなイヌだったり、慧茄のようなネコだったり、BNR32のようなクルマだったり。
それにしても名高いクレモナのヴァイオリン製作者3名の傑物をそれぞれ1台ずつ、総計で3台も所有なさっておるとは、本当に奇蹟と言わざるを得ませんな。
「ケンゴが暴走しちゃって」戸惑いの微笑みを浮かべた織お嬢様。
「六分儀様に擱(お)かれましてはお金が唸りを上げるくらいの量をお持ちですからね」
「お金は唸らないよ。唸りをあげてたら、毎晩うるさくて眠れないじゃん」
「チッチキチー」
おっと大木こだま師匠の決め台詞が口を吐いて出てしまいました。
しかしながら六分儀様、決して金の亡者ではございません。
『経済力は幸せになるための手段であって、目的ではない』
『経済力は不要な不幸を回避するためには非常に有効な道具』
『お金自体に色は付いていない。お金の使い道、それを良い方向にするか、悪い方向にするか、それを決めるのは人間である』
この事実を彼はよくご存知でございます。
そしてそんな六分儀様のことを、織お嬢様は本当によく理解なさっておいでです
それは羨ましいご関係だと存じ上げております。
傾倒しつつある太陽の光に照らされて織お嬢様の胸許の石がピンクともオレンジとも言えない、何とも形容し難い色を輝かせました。
「これ、綺麗でしょ」彼女がその石を右の人差し指で指し示しながら柔らかく微笑みました。
「そうでございますね」
「ハスの花の色、なんだって」
「カピル様が教えて下さったのですね?」
「その通り」
カピル様というのは東上野で宝石店を営んでおられるインド出身の高名な宝石商でございます。宝石に関しまして、六分儀様が全幅の信頼を置いているお方です。
エルメス製のチョーカーのペンダントトップとして、織お嬢様の胸許で微かな陽動を見せつつ、ピンクとオレンジが絶妙なバランスで混ざり合った、現在私達の上の穹窿(きゅうりゅう:空)がその色へと変化して行っている所の、まるで夕暮れの旻天(びんてん:秋の空の意)やハスの花を思わせる独特の色合いを備えている宝石。
パパラチアサファイアにてございます。
え?
そんな宝石は知らない、ですって?
そんなに焦らずに。
今から短い解説をいたします。
パパラチアサファイアは『幻の宝石』や『キング・オブ・サファイア(King of Sapphire)』とも称される、本当に希少で貴重な宝石でございます。
パパラチアサファイアは、古代よりスリランカ(旧セイロン)の豊かな大地で採掘されてきた宝石です。他の多くの宝石が『近代になってヨーロッパの鉱山探検家によって発見された』という経緯を持つ中、この石はスリランカの先住民族や現地の人々によって古来より知られておりました。ただし、長らくの間は『ピンク・サファイア』や「オレンジ・サファイア」の一種、あるいはその混色として扱われており、独立した特別な宝石として世界的な科学・宝石市場で認知されるようになったのは、ずっと後代のことでございます。
そのパパラチアサファイアという名前の由来が中々に面白いモノなのでございます。
古(いにしえ)のスリランカで話されていたシンハラ語で『蓮(はす)の花』を意味する言葉は『パドマ・ラーガ(padmaraga)』です。発音的には『パパラチャ(paparacha)』に近いのですが、これがヨーロッパ(特にドイツを始めとする西洋の宝石学者の間)に伝わった際、現地の言葉の響きに合わせて『パパラチア(Padparadscha)』として定着しました。適当に名付けられた訳ではなく、現地の言葉に由来する美しい意味を持っていますが、西洋人にとっては発音しにくく、独特の響きを持つ神秘的な名称として世界に広まりました。
発音しづらいって、もう少し努力しましょうよ、ドイツの人達。
織お嬢様がお持ちであるパパラチアサファイアはスリランカ産でございます。
スリランカは歴史的な発祥地であり、現在でも最も美しく、理想的な色合いと高い透明度を持つ最高品質の石が産出される場所です。宝石市場においては『スリランカ産』であることが一種のステータスであり、愛好家やコレクターの間では別格の価値が置かれております。
現在の主流の生産地はマダガスカル島です。スリランカ産の石と比較するとやや色味が薄い傾向が見られますけれど、良質な石も多いのでございます。
その他の産地にはベトナムや東アフリカの一部でも鉱床が発見されていますが、市場に流通する量や品質の面において、スリランカ産やマダガスカル産には到底敵わないのが現実です。
パパラチアサファイアは、鉱物としてはルビーなどと同じ『コランダム』に属します。
色味の違いは含有される不純物の種類によってもたらされるのです。
(筆者注:ルビーとサファイアは同じコランダム〈酸化アルミニウム:Al₂O₃〉だが、結晶の中に混ざる微量な不純物〈元素〉の種類の違いだけが異なる色味をもたらす。ルビーは『クロム』による赤色、サファイアは『鉄・チタン』などによる青色〈及び赤以外の全色〉)
パパラチアサファイアのモース硬度(the Mohs scale of hardness)は9で、これは硬度10のダイアモンドに次ぐ硬さです。(筆者注:ダイアモンドがこの宇宙で一番硬い結晶)
このパパラチアサファイアの屈折率は『1.762〜1.770』と高く、光を強く屈折させるために、カットされたファセット面(facet)から、鮮やかで美しい輝き(テリ)を放つのです。
余談ですが、1つ付け加えますとパパラチアサファイアの分散率は『0.018』と低いので、透明感を備えた深い色味を放射します。
え?
分散率って、何だ? ですって?
よろしいでしょう。
ざっくりとご説明いたします。
分散率とは『光が宝石を通過して屈折する際、光の波長(色)によって曲がり方が違う度合い』を示す数値でございます。
太陽光や照明の白い光には、虹の7色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)の全ての波長が含まれています。白い光が宝石に入ると、波長の短い光(青や紫)ほど大きく曲げられ、波長の長い光(赤など)は緩やかに曲げられます。この『各波長(色)の曲がり方の差が大きい(=光が虹色に分解されやすい)』ほど、分散率が高くなるのです。
では、分散率が高いとどのような影響が出て来るのでしょうか?
たとえば非常に高い『0.044』の分散率を備えているダイアモンドを例に取りましょうか。
光が宝石の内部で反射・屈折する際、7色の虹の光がパチパチと強く放たれます。いわゆる『ダイアモンドの7色の輝き』の正体は、この高い分散率の影響によってもたらされます。
このギラギラとした光輝は『ファイア(fire)虹色の煌き(きらめ・き)』と呼ばれます。
分散率の数値が低いパパラチアサファイアは、この『ファイア』が控えめになるのです。
と言いますか、虹色のギラギラ感はほとんど感じられません。
しかし『ファイア』によって地色が濁ることがないため、ピンクとオレンジが溶け合ったような『パパラチアサファイア特有の美しい幻の色合い』や濡れたような瑞々(みずみず)しいテリ(光沢)がダイレクトに眼へ届きます。サファイア族は、派手な虹色の輝きで魅せるのではなく、深い色味と上品な透明感、そして高い硬度(モース硬度9)による長く続く美しさを魅力とする宝石なのです。
歩みを続ける内に、魚を焼く芳しい香りが漂っている領域に入ったようです。
「河合さん、今日の晩ご飯はサンマだね」
「そのようでございますなぁ」
「いいなぁ…」
「何故でございますか?」
「今年も高いから、サンマ」
「仕方ありませんね。漁獲量が全然ありませんから」
「そうだね」織お嬢様が苦い笑いを噛みしめたような表情を浮かべました。
さてさて、ようやくミヤウチ家に戻ってまいりました。太陽が完全に没する前でしたから、良かったです。
「やっぱり、釣瓶落としだったね」
「そうでございますな」
西の空は赤から黄色、そして縹色までの絢爛豪華なグラデーションを呈している夕焼けが満腔でございます。この煌びやかな光景は何度観ても心を打つモノがありますなぁ。
「あ、そうだ」何かに気付いたように声を上げられた織お嬢様。
「何でございましょうか?」
「これ」
織お嬢様は紙で包まれた何物かを私の吻(ま、口先です)に差し出しました。
何でしょう?
匂いを嗅いでみましょう。
あぁ、カボチャの芳香が感じられます。
「パンプキン・クッキーでございますね」
「当たり!」喜びの笑みを爆発させる織お嬢様。
イヤイヤ、イヌでございますから、至極簡単な手業でございます。
ま、手を使ってはいないのですけれど。これは鼻業でしょうかね。
「余ったからって工藤さんがポチさんと慧茄に『持ってけ』って渡してくれたの」と言いながら包み紙を解いてくださいました。
おぉ、ペット用のクッキーですな。
「晩ご飯の後、デザートだね」と織お嬢様は満腔の微笑みを湛えています
「ありがたいことでございます」
工藤さんとは口振りから想像するにサチエさんのご友人で、織お嬢様のアルバイト先のパティスリーの経営を為さっておいでのご夫婦の内の、シェフ・パティシエをされている、ご主人の方でしょうか?
その工藤さんのパティスリーではイヌやネコ用のお菓子も製造販売しているそうで、たまにこうやって賞味期限切れが近い見切り品などの余り物を、私と慧茄に御下賜くださいます。
おう、よく覚えてらっしゃいましたね。
そうです。
パティスリー・クドウ(Pâtisserie-KUDO)とはミヤウチ家の次女であられるカナコさんが昔アルバイトとして勤めていたお店でございます。織お嬢様は忙しい学業生活とヴァイオリンのレッスンの隙間を縫うようにして、アルバイトをしているのでございます。
何というヴァイタリティでしょうか。
以前『大変ではありませんか?』とお尋ねした所『社会勉強の一環だよ』とお答えになられました。とても中々に出来ることではありません。
実はパパラチアサファイア、この工藤さんのお店で働いて得た自らのお金で購入した物です。本当にご立派な行いです。六分儀様におねだりすれば刹那の刻も置かずに贈られることでしょうが、ご自分の力で手に入れるという、誠に尊い所業。感嘆の声が上がるばかりでございます。
ま、実を申しますと、織お嬢様の装着なさっているパパラチアサファイア。
世界的に著名で、最高峰の信頼性を誇る宝石専門の鑑定・鑑別機関である『GIA(米国宝石学会:Gemological Institute of America)』と『グベリン・ジェムラボ(Gübelin Gem Lab)』というダブルの鑑別書付きなのでございます。
(筆者注:鑑別は全ての宝石を対象として調査し、鑑定はダイアモンドのみを対象とする調査を行う。鑑別書と鑑定書はそれぞれの鑑定・鑑別機関によって発行された証明書となる)
大体において10カラットのノントリートメント(non-treatment:非加熱処理)のパパラチアサファイアなど、滅多に採掘される物ではありませんからね。色味や透明感も非常に優れていて、その上、インクルージョン(inclusion:内包物)が全く見られないという代物。織お嬢様のアルバイト代だけで購入でき得る傑物ではございませんよ。
(筆者注:大抵のパパラチアサファイアはその色味を鮮やかにしたり、奥深い透明感を得るために加熱処理を施される。イトが所有しているような非加熱処理だが素晴らしい発色と深い透明感を湛えている石は眼球が飛び出すほど高価)
このパパラチアサファイアと付属していた2枚の鑑定書を見て、顔面を蒼白に変換された六分儀様。愛車のBNR32を駆って東上野のカピル様の宝石店へと急いだのでした。
織お嬢様がお支払いになった金額は10万円。
ま、中学生がアルバイトで稼いだ金額としては巨大なモノでしょうけれど、この宝石の代金としては全然足りていません。残り、というか、ほぼ全額を六分儀様が立て替えをなさったのでした。
その時に六分儀様がカピル様に「何で、あんな凄いヤツをたったの10万円で売ったの?」とお尋ねになると、カピル様は「あの石が織ちゃんのトコに行きたがってたから、売った」と平気な顔付きでサラッと言ってのけたのでした。(六分儀様談)
あ、この顛末は織お嬢様、全く知りません。
ですから、決して彼女の耳朶に囁かないよう、くれぐれもよろしくお願い致します。
「ケンゴ、来てる!」コーンフラワー・ブルーのBNR32をミヤウチ家のガレージ先に発見した織お嬢様が歓喜の声を上げました。
「よろしゅうございましたね」
「うん!」
「ねぇ、起きてる?」
イトが囁くようなヴォリュームでケンゴに話し掛けた。
「眠れないのか?」ケンゴは優しい口調で尋ね返す。
「そうじゃ…ないけど。横、行っていい?」
「ああ」
そう言うと、イトは自分のベッドから離れて、リノリューム貼りの床に直に敷かれた布団にその短躯を横臥(横向きに寝ること)させているケンゴの隣へ、スッと潜り込んだ。
「寝物語を話してやろうか?」
バリカンではなく明らかに丁寧な鋏捌きによって刈り込まれた、所謂おしゃれ坊主である頭部の下に続く手斧で削(はつ)ったような落ち着いた佇まいの相貌をイトへと向けながらケンゴは言った。顎のラインを綺麗に縁取る様に剃られたヒゲは顔付きをより一層精悍に見せていた。ミヤウチ夫妻から借り受けた藍で染められた浴衣に包み込まれているその正方形に近い体躯はサッカーのミッドフィールダーのようだった。そしてケンゴはくるりと横臥の方向を逆に転じてイトと向かい合う格好になった。その身のこなし方は滑らかで無駄が無く俊敏、その挙動はネコ科の靱(しな)やかさを連想させるものだった。
日本人男性としても小柄な部類にカテゴライズされるのだろうが、初めて会った人間は必ずと言って良い程、彼が備えている山塊のような存在感に圧倒されてしまう。身体の小ささに反比例するような重厚感。質量の大きな物体は強大な万有引力を備えていると言われるが、誰もがケンゴの発揮する巨大な『重力』に誘引されるような錯覚に囚われるのだ。
彼に宿っている精神力の質量が膨大だから、これ程までの『引力』を産み出せていると形容できるかも知れない。
「浜名湖の時みたいに?」
「ああ」
パジャマの替わりとして白地にピンクの柄が入ったジェラートピケの部屋着にその身体を包んだイトが『ふふ』と含み笑いをしながら言う。
「あの時、ケンゴ、寝ちゃったじゃん、先に」
「そう、だったかな?」ケンゴは嘘を吐いた。
「ね」
「何だ?」
「覚えてる?」
「何を?」
「あの時、私が5歳だった時、鹿児島でお別れする時にした、約束」
「ああ」
「いいよ」
「何が?」
「1年フライングだけど、今でも」
「何を言ってる」
「…ダメ…?」
「フライングって、それ、約束を違(たが)えることだ」
「ケチッ」イトは甘えるような声で囁く。
その聲はケンゴの耳朶を優しく叩いた。
ケンゴは仰臥(仰向けに寝ること)へと自分の体勢を転じ、イトに柔らかい口調で告げた。
「さ、寝るぞ」
織お嬢様、お父様との久し振りの再会でございます、な。
積もる話もありましょう。
やはり、六分儀様、宿泊して行くのがベストな選択だと存じ上げます。
ここはビールに口を着けさせることに成功した織お嬢様の勝利、なのでございましょう。
いくら六分儀様の運転技術が超一級だとしても、アルコールを摂取してしまった以上、BNR32を駆ることは不可能。ミヤウチご夫妻も大歓迎でございますし、ね。
それにしても豊富な余白を備えているガレージにしておいて、本当に良かった。
確かに至極平穏で犯罪発生件数も皆無である治安に優れたこの街とはいえ、今や世界中で大人気、1000万円を超える高額で取引されるBNR32ですから、青空駐車は厳禁です。
さて、あのお2人、どのようなお話をなさっておいでなのでしょうか?
私は募る興味心には抗えず、伏臥(うつ伏せ寝)していた身体を起こして、お2人が就寝なさっておいでの部屋の方向に頭部を巡らせました。
ま、父親と娘と言っても、実際はお2人に血の繋がりは一切ございません。
つまり織お嬢様は研吾様からDNAを全く受け継いでおられないのです。
それどころか、戸籍上も親子ではありません。
え?
それでは、あのお2人は一体どういう関係にあるのだ? ですって?
ふふふふふ…
それは次回で明らかになる事でしょう。
ま、彼等のパラメータ設定は解っております。
幸せになる事は絶対的な未来でございます。
え?
何故、解るのだ? ですって?
そうですね。
未来は不確定であって、流動性に富んでいます。
どう動くのか、誰にも予想できない。
しかしながら私は存じ上げております、彼等の未来を。
何故なら、彼等のパラメータ設定を執行(execute)したのは他でもない、『Administrator』たる、この私なのですから。
<了>
ポチさん、ヴァイオリニストになる