トリオ現パロ「好機は用意された心にのみ降りたつ」
小綺麗で鼻につく(八木談)と噂の橋内宅に向けて、俺は大量の酒とつまみを手に、坂を登っていた。といっても、酒はビール、焼酎の二種類のみ。八木もおそらく同じようなラインナップで挑んでいるはず。
坂の頂点から下方を見ると、なだらかな傾斜の中腹に、橋内の待つ会場がそびえている。夕陽を背に抱いていればなおよかったが、今それを抱いているのは、俺の方だった。
*
遡ること、一週間前。
「こないだ、バイト先で飲ませてもらった焼酎が、めっちゃうまかったんだよ。俺、それ買っちゃってさあ」
「名前は?」
「えっと、聖歌、だったかな。変な名前だろ、由来は知らんけど」
「知らない酒だな……。芋か? 米か?」
「おっ橋内さん興味ありますう!? 芋ですよお、うまいんですよお。飲みにいらっしゃいな」
「うん、いいな。いつにする?」
「おっと、まじ? あ、じゃあ橋内んちでやろうぜ。八木いねえけど、あいつも来るだろ」
「俺の部屋か……、ああ、まあ、いいか」
「えっいいのかよ、なんか、とんとん拍子すぎて、アレだけど……、じゃ、いつにする?」
その計画を八木に知らせて後、メッセージでのやり取り。
「来るよな?」
『ああ。あれ、決行できるな』
確かに。「確かに」にっこりスタンプを添えて。
『店じゃやりづれえからな』
ぽってりペンギンが、「おっしゃるとおり!」と指を立てるスタンプを送信。会話はそれで終了。計画はもうすでに練られた後で、俺たちは決行の機会を窺っていたのだ。
そう、好機は準備のできている者にだけ、その姿をちらつかせるものだ。
*
そして、今日。橋内宅に到着。自動ドア前で部屋番号を呼び出し、開錠を待つタイプ。「どうもお橋内さあん、私よ、ともう」ブツっと通話が切られる音。肩をすくめ、自動ドアを抜ける。エレベータはないようだ。階段で3階へ。缶が袋の中でぶつかり合い、鈍い音を立てている。
ああ、緊張してきた。腹ごしらえは軽く済ませている。今日の目標を達するためには、そのくらいのハンデは必要だ。ハンデになるかどうかすら、危ういが……。305号室。呼び鈴を鳴らす。橋内が扉を開けた。
「ちょっと橋内さあん、無言で切ることないじゃなあい」
「まだ続けるか?」
「いいえー、もう満足。あ、お邪魔しまあす」
「ああ」
廊下が奥へ伸びている。左手に扉が二つ、おそらく、風呂とトイレ。扉を抜けると、左手に対面キッチンを擁する広い居室。テーブル、ベッド、本棚、テレビ、扉の右手の壁際に、クローゼットらしき扉……、そこはすこし、開いたまま。これといって特徴のない部屋。確かに、小綺麗。ふむ。
「あ、おい!」
クローゼットの扉に手を伸ばす。ものすごい物音がして、雪崩。
「やっぱりな」
「……責任を持って、片付けてくれるんだろうな?」
「水臭いなあ、別に散らかってても気にしねえよ」
「そういう問題じゃない、ああ、せっかく片付けたのに……」
「片付けた、ね……ぶふっ、あ、いや、そうね、はい」
鋭く睨まれたので、溢れた物ものをクローゼットに押しこむ「片付け」に取りかかる。橋内はキッチンの方へ行ってしまい、なにやら物音を立てている。その時チャイムが鳴った。足音。「はい」「俺だ」「名乗れ」「わかんだろ」そこで通話を切ったようだ。おかしい、一体ここは、いつから組織のアジトに?
数分して、チャイムの音。俺はなんとか「片付け」を終え、扉の前に放置していた袋を持ってテーブルに着いた。そこにはすでにグラスが用意されている。
「よ」
「よっ」
「さっきのはなんだ、お前ら、普通に来られないのか?」
「普通とは一体なんなのでしょう、それはだれにとっての普通なのでしょう」
「……鞆浦」
「はあいなんでもありません。よし、始めようぜ」
「食いもんは?」
「こっちの袋」
橋内は他の一切に構わず袋から焼酎を出し、早速準備している。お湯割り。いきなり焼酎かよ、ああ可愛げのないやつ。飲酒歴、2か月だぞ?
「ビールビール、っと」
「俺にもくれ」
ビールを八木に手渡し、すぐ飲まないだろう缶類を冷蔵庫へ仕舞うためにキッチンへ向かう。先ほどの雪崩の記憶で多少怯んだが、キッチンは信じられないほど綺麗だった。冷蔵庫も、整頓されている。見るものもないほどだったので、さっさと収納し、リビングへ。
めいめい酒の準備ができ、つまみも種々広げられている。俺も缶ビールを手に取った。
缶ビールを開ける時の爽快な音! この音を聴くだけで、身体がうまいもんをもらえるという期待感でいっぱいになり、唾液がじわりと溢れてくる。だが、趣旨を忘れてはならない。気を引き締めてから2人を見回して、音頭を取る。
「じゃ、かんぱーい」
「乾杯」「うん」
「っはあー、うまあ」
「おお……、これはうまいな」
「だろ!? 俺の分も残しとけよ」
「ふうん、そんなにうまいのか?」
「そうなんだよ、これで橋内を釣ったようなもんだからな」
「釣った?」
「あーっ、いや、なんでもないなんでもない、いや、でもビールはビールでうまいよな、うん」
「?」
対面から八木に睨まれる。足も蹴られた。誕生日席の橋内は、瓶のラベルをしげしげ眺めている。ふう、危ない。
各々購入してきたつまみは菓子類に、惣菜のポテトサラダ、揚げ物各種、冷凍の小籠包などなど──カオスだ。俺と八木は、菓子類にばかり手を伸ばす。橋内はサラダと揚げ物を交互に少量ずつ食べ、焼酎をぐいぐい飲み進めている。
「腹が空かないか? 飯、炊くか」
「俺はいらん」
「俺も」
「そうか? 食わんと回るぞ」
「大丈夫大丈夫」
橋内が席を立つ。対面キッチンへ回り、米を洗い始めた。他方俺たちは、ひそひそ話を始める。
「……お前、食ってきたろ?」
無言で頷く八木。「牛丼」そして、ひと言。「大盛り」「ぶっふふ……」「あ? お前はどうなんだよ!」声がでかい。
「……声落とせよ。俺は商店街の食堂で、ラーメン」
「……ま、だよなあ」
「顔を突き合わせて楽しそうだな?」
橋内の声。「仲良しなんですう」「そうか」とりつく島もない。「橋内さんともよろしくさせてもらってますう」「……」無言の圧。「無言の圧」なんて、現実に見たことも触れたこともなかったが、橋内という男は、それが実際にあるものなのだと、俺にいつでも新鮮に教えてくれる。
米を洗う摩擦音が響く。八木はそちらを見て、にやにや笑っている。
「なに、なんで笑ってんの」
「似合わねえなと思って」
俺も改めて振り返り、橋内を見る。
「そうかあ? 橋内に似合わねえもんなんてない気もする」
「ああ……、あ? それは過言だろ。あー……、花冠とか、似合わんだろ」
「それ、似合うんじゃね?」
「…………」
「……っくぶふっ、ってか、なんで花冠?」
「パッと思いついちまったんだからしょうがねえだろ!」
「なあんか……似合う気もするんだよなあ」
言っていて自分でもわからなくなってくる。橋内に似合わないもん? ああ、片付けか。それを口に出そうとして、慌てて引っこめる。口止めされたわけではないが、八木は、橋内宅を「小綺麗」だと思っているのだ。無理に印象を歪めることもない。
「あれ、ってか橋内グラス空じゃん。何割? 俺作るけど」
早速格の違いを見せつけられたような気になりながらも、グラスを手に取り確認する。
「じゃあ、7、3で頼む」
「はいよ」
八木と目配せする。おい八木、あんまりにやにやするな。橋内から丸見えなのに……。瓶を手に取る。7……、だが、そう、これは好機。
「あんま見んなよ」
「ああ……、すまん」
3、といえなくもないぎりぎりのラインを狙い、お湯を入れ、そこへ、焼酎を注いでいく。匂いを確かめると、かなり強烈だった。八木の方へスライド。「うへえ」眉を顰め、鼻を摘んでいる。
「やばいかな」
「……ま、いけんだろ」
橋内が戻ってくる。「ありがとう」「どういたしましてえ」橋内はちらとこちらを見て、グラスをぐいと煽った。
「うん、うまいな」
「お粗末様」
「お前、ビールどんくらい買ってきた?」
「橋内が1本も飲まねえとは思わんかったから、15。八木は?」
「買いすぎだろそれは! 俺は5」
「やる気ありますねえ、八木さあん」
八木は八木で、日本酒を用意しているはず。できるだけ酒種を抑えようという狙いがあった。
だが、重要なのは、ペースを乱されないこと。八木はもう2本目に手を伸ばしているが、そんなことでいいのか? 俺はまだ1本目を3割残している。橋内のグラスは、4割といったところか。顔色ひとつ変わっていない。
「……鞆浦、お前、静かだな?」
「ぎくうっ、といっても、別に理由はないけど」
「ふっ、なんだそれは」
「……お、これうまい」
「それ何味?」
「ガーリックバター」
「また濃そうなものを……」
「橋内も食ってみろよ」
「ん? ……まあ、いけるな」
「ほらな」
「そういやこないだ店にめえっちゃ可愛い子が来たんだけど、飲みすぎたとかでチェイサー持って行ったら、ちょうど目の前で、おえーっと……、うわ、思い出したらまた気持ち悪くなってきた」
「じゃあそんな話すんなよ!」「ならそんな話はするな!」
「いやー、ついな、酒飲むと最近そればっか思いだすんだよ」
「せっかくの酒を吐くまで飲むなんて、どうかしてるな」
「同感」
「まあでも俺もやらかしたことあるからひとのことは言えないんだけどなあ」
「……お前、吐くなよ?」
「さすがにひとんちで吐かねえよ!」
「どこで吐いたわけ」
「実家」
「ならいいが……」
「いいのか? それ」
橋内はまだ疑わしい目を向けながら、グラスを空にした。
「お、お注ぎしますよお」
「ああ、頼む」
今度は橋内の視線があるから、あからさまなことはできない。おっと入れすぎた、なんて手は、一度しか使えないだろう……。うん、八木、なんとかしろ。
視線を送ると、八木は思案し、橋内、と声をかける。
「あー……」
「なんだ?」
「あ、その、元気か?」
「ぶふっ……、八木、なに言ってんの?」
思わずツッコむ。いくらなんでも下手すぎる。橋内は怪訝そうに俺を見てから、律儀に「元気だ」と返している。なんなんだこいつら……。しかし、笑っている場合ではない。橋内の視線が逸れた一瞬の隙にお湯を少量入れ、焼酎を手早く注いで量を誤魔化す。
*
「見たいよな?」
「ああ、見たいな」
春を迎えのどかな緑を蓄えつつある中庭を遠目に、窓際の席で、俺と八木は会議をしている。重要な会議だ。
「だよな、あいつ、いつも涼しい顔して。歪ませてやりたいよな」
「あ? そこまでは思わんけど」
「そこは心意気をひとつにしてもらわねえと、困るんだけど」
「俺にはそこまでの熱意はねえよ……、単純に、酔ってだらしねえ状態になってる橋内を、笑いたい」
「それ、俺よりひどくねえ?」
「そうか? ま、やるなら早い方がいいな。まだ、慣れてねえうちに」
「だな」
頷きあう。動機は多少異なっているが、利害は一致している。
「橋内を潰す」
「ああ」
*
「焼酎なあ……、どうも、匂いがなあ」
「そおんなことおっしゃらないでえ、お飲みになったらいかがあ?」
「鞆浦、今日は一段と様子がおかしいが……、なにかあったのか?」
「ぎくっ……、いや、まあ、なんもないけど」
「そうか、ならいいが」
「ひと口くれ」
「きゃっ、関節キッスじゃーん、どうしようかしらあ」
「……ふうん」
八木は構わずグラスに口をつけ、眉を顰めた。
「うまく飲めんやつにはもったいないな」
「日本酒でいいや」
「唇を奪っておいてそんな雑なことでよろしいんですかあ? どうなんですかあ? 八木さあん」
「絡むな鞆浦。お前、酔ってんな?」
「ええっとお……、うんまあすこし」
橋内は何杯目だ? もうわからない。俺はビール3本を飲んだのち、焼酎4杯目に入っている。俺は、6、4。絶対に6、4。で、なんだっけ? ペースを守る? だれだ、そんな不可能を言ったのは。橋内はどんどん飲む。八木は……、八木のことなんか、知らない。
大体、潰し方をもっと検討しておくべきだったのだ。なんだあの適当な会議は。目標を決めただけじゃないか。手段は? おい、なあ鞆浦、ああ……。
「ゼミ選考、どうだった?」
「おおっとここに来て真面目な話をしますかあ。俺はいけた」
「鞆浦って、専攻はなんなわけ」
「運動療法。けど最近は、高齢者の地域社会における運動量と、身体機能低下に焦点を当てた……」
「ふうん、よくわかんねえけど」
「お前が聞いたんだろー」
箸が転がるだけでもおかしいような状態になってきている。けらけら笑いが止まらない。橋内がグラスを置いて、俺の前で手を振っている。それを追う。右、左、右、左……、
「鞆浦、お前もうやめておけ」
「え、なにを?」
「酒」
「や」
「や?」
「いや」
「いや? ん?」
「やめねえってことだろ」
「ああ。そういうことか」
八木が意味ありげに微笑んでいる。なんだこいつ。
「なあに八木さあん、なにがおかしいわけえ?」
「だから絡むなって。いや、橋内も回ってきてんじゃねえの?」
「は? 俺は平気だ」
「ふうん?」
「で、なんの話だったっけ?」
「え?」
「だから、ゼミだろ」
「ああ。俺は機体の軽量化シミュレーションを最適化設計に……」
「えっと、それは、なんなの?」
「航空機構造力学」
「ふうん……」
「八木は?」
「集団心理における極化プロセスが市民社会にもたらす影響と……」
「続きは?」
「俺だけ詳しく話したくねえよ……。選考自体は全員通ったんだな」
「だな。落とされるひともいるらしいけどさ……、したい研究できなきゃ、なんのために大学来たんだか、わかんねえよな」
「そうじゃない奴もいる」
「あー、まあ、そうだけど」
ようやく、5杯目に入る。酔いを誤魔化すために皿の端で萎れかけている、脂ぎってやわらかくなったポテトを口に入れて橋内の様子を伺うと、相も変わらず涼やかな表情を湛え、一定のペースでグラスを煽っている。
「橋内ぃ……、それ、何杯目?」
「いちいち数えていない」
「さいですか」
「なんで拗ねてるんだ?」
きょとんと首を傾け、それからまたグラスを煽る。
「八木は……まあいいか」
「いいなら言うな。お前……、なに怒ってんだ?」
「いや、拗ねてもねえし、怒ってもねえよ。はあー……」
テーブルに顎を乗せ、目を閉じる。ああ今なら気持ちよく眠れる。でも目を開けなければ……、
「寝るのか?」
「いや起きる。めっちゃ起きる」
「意味わかんねえ」
八木が吹き出した。珍しい。八木も多少は酒が回ってきているということか。
「橋内どう? いい加減降参しない?」
「あっおい……」
「降参? なにに」
「いやあ……、ってか焼酎もうなくなるじゃねえかっ」
「まだあるぞ」
「え?」
橋内は立ち上がり、キッチンへ向かう。嫌な予感がする。しゃがんで姿が見えなくなり、次には手になにかを持ち、橋内は嬉しそうに微笑んだ。
「俺も買っておいた。まだ、飲めるぞ」
「ああ……」
八木を振り返り、顔を見合わせる。八木は肩を震わせ、笑いを堪えているのか、慄いているのか……、いや、俺だって、怖いわけではない。
「……俺、駄目かも」
八木は首を振っている。諦めろ、耐えろ、と言われているようだ。橋内が戻ってきて、瓶をテーブルに置いた。
「まだまだ、飲めるぞ」
それは俺が用意してきた中瓶よりさらに大きいサイズだった。ああ……、橋内……。
時刻は21時半。飲み始めてから、3時間が経過しようとしている。
*
もう、なんだか、ああ、なんだっけ?
橋内は、多少ペースダウンしたものの、ほとんど顔色を変えず、飲み続けている。──イカれてる。助けてくれ。俺はもう、降参したい。八木は……、八木は、ちびちび、日本酒を味わっている。こいつ。日本酒だとぉ? 甘えてる、いや、そうじゃない……。
「……で、本自体に仕掛けがあって、それがすごいわけ」
「へえ……、俺はどうも、フィクションはなあ」
「まあ読んでみろって。貸すから」
「そこまで言うなら、わかった」
本の話をしている。本? 今は、思い出すだけで目が回りそうだ。字が……、踊っている。ちゃんと紙の上でじっとしていてくれないと、読めないじゃないか……。
「そういやお前、新入生に告られたって?」
「ああ」
「大変だな、お前も」
「大変?」
「断んのもエネルギーいんだろ」
「ああ……、なんだ八木、気遣ってくれるのか」
「げえっ……嬉しそうにすんなよ」
「は? していない」
もう、同期で橋内に挑むやつはいない。諦めたのか、なんらかの協定が結ばれたのか……、橋内の生活を考えれば、穏やかで、いいことだ。
「あ、それえ……、また、おかわりですかぁ?」
「ん? いい、自分で注ぐ」
「まあまあ」
橋内は伸びをして、席を立った。トイレにでも行くんだろう。ちょうどいい。
「へっへっへ……しかしあいつ、いい加減、顔色ぐらい変えたらどうなんだか」
「潰れる気配ねえな」
「かくなる上は……」
グラスを引き寄せ、ついに俺は、9、1という暴挙に出た。匂いだけで酔いが回る。恐ろしい。だが、世の中には原液のまま飲める人間もいるという。これが橋内に効くとはもはや思えないが、やるしかないのだ。
「お前、ペース乱しすぎだろ。もうやめとけば?」
「駄目だろ、俺らも飲んでえ……、あいつだけ潰れる。そうじゃなきゃ、達成感ないだろ」
「あー……、ああ」
八木はぐるりと目を回して、なんらか考えたようだ。ばちっとこちらを見て、笑った。
「お前、ゲロれば?」
「は?」
「もらいゲロ、効くかわからんけど、試す価値あんじゃね?」
「馬鹿じゃねえの……ぶっ、ふ、ふふっ……馬鹿だな、八木。それ、潰したことになんねえだろ。それに、後が怖いじゃん……」
橋内が言外に漂わせる迫力を思い出すだけで、鳥肌が立つ。
「俺が片すんだから、俺は怒られねえだろ」
「抜けがけすんなよ、俺も片す」
「てめえのを? ああ、それはそうしろ」
「なあんだかなあ……でも俺もう、なんも考えらんねえ」
「じゃあゲロしかないな」
橋内が戻ってくる。グラスを手に取り、ひと口。
「ん?」
「どうした……?」
気づかれたか。橋内はグラスに鼻を近づけ、なにかを確かめている。
「なにか混ぜたのか?」
「え、なんも混ぜてないけど」
「あ」
「え?」
「それ、俺がさっきまで使ってたグラスじゃねえか」
「あれえ……ごめんごめん、ってかお前、なんでグラス変えたの」
「小籠包落としたんだよ」
「えっ、あっ……」
グラスの底の方では、小籠包の皮がひらひら、水族館でいつか見たくらげを思わせるたおやかさで揺れている。
「…………」
橋内はじっと俺を睨んでから、箸を手に取り、小籠包を掴んで口に入れた。
「あっ、おい!」
「……うん、わるくはない」
「げえっ……」
八木は全身で引いて、橋内の方を恐々見つめた。
「ってか橋内、自分のグラスどこやったんだよ!」
「え? 知らない」
「知らないってなんですかあ……」
八木が突然、にやけ顔を隠さずに立ち上がってリビングから出ていった。すぐに戻ってきて、「ほれ」手を掲げた。
「あ、グラスだ」
「便所にあったぞ」
「ああ、なんだ、そんなところにあったのか」
「お前が持っていったんだろ!」
「ああ、別に、いいだろ」
「……うへえ、俺、酒まみれの小籠包なんか食えねえよ」
「俺もお」
「仕方ないやつらだな」
したり顔で、橋内はまたおかわりを準備している。
「ちょ、まだ飲むのお?」
「まだあるからな」
「いや、飲み切る必要、ないだろぉ……」
焼酎が注がれ、そこへお湯を……、おいおい橋内、それ、順番が……、笑いがこみ上げてくる。
「ああ、はっはっ、はははっ、あーあ、無理だな! これはさ、無理だわ、うん、むりむり」
「鞆浦……?」
「降参! 俺ぇ、もう、無理ぃ……」
「鞆浦っ、おい、鞆浦!」
「橋内しゃんにはあ、かないませんってえ……」
「は?」
目を閉じる。ああ、上下が逆転したような心地がする。なにか大きな音がしたような気がしたが、もう、それが夢だか現実だか、わからなくなっている。
*
「で、なんなんだ? さっきのは」
「……あー、まあ、いいじゃねえかそんなことは」
「今日の鞆浦は一段とおかしかったからな、なにか、あるんだろう。酒も、あいつが作る時はやたら濃くて……、っ、と、ああ……」
「橋内?」
「いや、ああ……ちょっと、水、水を……」
「回ったのか?」
「……うん」
「じゃ、まあ、引き分けってことでいいか」
「は?」
負けてはいないだろう、そういうことにしておく。不思議そうな橋内を置いてキッチンに向かい新しいグラスに水を注いでいると、ドタン、と音が響いた。
「……やったか」
横たわる鞆浦と橋内。橋内だけ潰してやるつもりで、橋内の部屋を会場にしようと企んでいたわけだが……、まあ、結果オーライだ。
水を飲み干して、ソファに寝転がる。達成感よりも、先ほど自分で言った、ゲロ作戦が不実行に終わったことへの安堵が勝っている。
笑ってやるつもりが、笑ってやる相手もいない。
残ったのは、眠る仲間と、大して減っていない日本酒、空いた酒瓶、そして不思議な疲労感と虚無感、上機嫌な酔っぱらいくらいのものだった。
トリオ現パロ「好機は用意された心にのみ降りたつ」