フユクレ「木登り」

「クレさん、助けて!」
 外出日で閑散とした部屋に流れる静寂を、その声は突然破って紅林の鼓膜を震わせた。
「フユ、どうしましたか」
 慌てた様子の冬島を見て、紅林は鍵谷の祭壇の前から立ち上がり、冬島の方へ向き直る。
 すると冬島は、紅林の腕を取り、ぐいぐい引っ張りながら大声で捲し立てた。
「猫が木から降りられなくなっているんです、一緒に来てください!」
「わかりました、わかりましたから、引っ張らないで」
 一所懸命に袖口を引っ張る冬島を、紅林は目を細めて優しく見つめた。外には暇をもて遊ぶ隊員たちも残っていただろうに、冬島は自分のところへ来たのだ、その事実をひそかに噛み締めながら。
 引っ張られるまま外へ出て、兵舎の裏手へ歩みを進める。人気のない雑木林の奥から、猫のか細い鳴き声が聴こえてくる。
「この木です!」
 枝先で震える猫を指さし、冬島は顔をしかめて心配そうに見上げている。
「ずいぶん高いところまで登ってしまったんですね」
「そうでしょう? 俺が登るんで、クレさんは下で猫を受け取ってください」
「いいですよ。フユ、気をつけて」
「任せてください!」
 足掛かりのない中でも、冬島は器用につま先に体重をかけながら、幹にしがみついた。少しずつ高度を上げて、最初の枝に手をかけ、そこからは猫を目指してすいすい枝を移動していく。紅林は、その一挙手一投足を瞼に焼きつけるように見つめた。瞬きをして視界が途切れても、冬島を見ていられるように。
「よっし、確保! クレさん!」
「はい」
 その声で我に返ると、冬島はすでに猫を抱え、一番低い枝まで移動してきていた。紅林は腕を伸ばし、慎重に猫を受け止めた。されるがままだった猫は、紅林が地面に足をつけてやると、手からするりと抜け出し、颯爽と駆け出した。
「無事でよかった。フユ、気をつけて降りておいで」
「はーい!」
 登る時に辿った場所へ慎重につま先をかけた冬島は、そこでふと足を止め、紅林を見下ろした。
「クレさん、クレさんもこっちに来てくださいよ」
「え?」
「ね! 来てください」
 手を伸ばし、冬島は笑顔で紅林を招いた。
「私はいいですから。さっさと降りてきなさい」
「えー、そんなこと言わずに!」
「……仕方ありませんね」
 冬島のねだるような甘い声を知っているのは自分だけではないだろうとわかっていながら、紅林はその呼び声に逆らわない。逆らえないのではない、逆らわないのだ。
 冬島の動きに倣って、紅林も幹につま先をかけ、慎重に登っていく。
「お、クレさんうめー! その調子です」
 頭上から降りかかる冬島の楽しげな声を聴き、紅林はそんな無邪気な冬島を愛おしく想っている自分に気づく。
 嗚呼貴方は、なんと健やかで、眩しいのだ。
 昔何かで読んだ、イノセント、という言葉が紅林の脳裏をよぎる。健やかで美しく、揺るぎない命。冬島は薄暗い雑木林の中で、自分が光源だというように笑ってみせるのだ。ここには紅林しか、いないというのに。
「もう少しですよ、ほら!」
 冬島の手が紅林へ差し出される。紅林も手を伸ばした。しかしその瞬間、紅林のつま先が幹の上を滑り、バランスを崩した。
「クレさん!」
 紅林は衝撃に備えて目を閉じた。落下。嗚呼、辿り着けなかった。そのことが何かを暗示するのなら、それも仕方のないことか、そう思いながら背中から全身へ走り抜ける痛みを待ったが、それは訪れなかった。
「ああ、よかった、クレさん」
 これまでにないほど近い場所から、冬島の声がする。紅林は目を開いた。視界が冬島で埋まっている。冬島があの一瞬で木から飛び降り、すんでのところで紅林を受け止めたのだとわかった。
 それは、おとぎ話にあるような抱きとめ方だった。背中と膝裏に、腕に、顔に、冬島の体温を、どうしても感じた。
「あ、冬島……」
「心臓が止まるかと思いました。クレさんが死んじゃう! って」
「……これくらいでは、死にませんよ」
「でも本当に焦ったんですよ」
 冬島の真剣な瞳が紅林を射抜く。紅林は、決して表情が緩まぬよう、何かの感情が滲まぬよう、ぐっと腹に力を入れて、いつも通りの凪いだ笑みを作った。
「ありがとうございます、フユ。もう降ろしてください」
「あ、ああ、そうですね……」
 冬島は、そう言いながらもなかなか紅林を離さない。紅林を見つめながら、何か言いたげに唇の開閉を繰り返す。
「フユ? どうしました?」
「……クレさんって、その、綺麗ですね」
「え?」
「綺麗というか、うーん、これはなんというか……」
「え、フユ、いいですから、もう」
「いや、もっとふさわしい言葉があるはずなんです、クレさん、クレさん……」
 何度も何度も名前を呼ばれ、紅林は腹に込めた力を強めた。これは、いったい何に対する報いだろうか。罰だろうか。褒美だろうか。紅林は身をよじり冬島の腕から逃れようとするが、思いのほか強い力が、それを許さない。
「美しい、そう、そうなんだけど、それでは足りない……、凛としていて、その、常夜灯? というか、うーんいやもっと……」
「フユ、おやめなさい!」
「え? あ、ごめんなさい……へへ、クレさん、そんな顔初めて見ました」
 どんな顔だというのだろう。いつも通りの表情を作れていなかったことが確定してしまい、紅林は体温が上がるのを感じた。
「もう、降ろしなさい」
 焦りが滲まぬよう抑制した発声で、紅林は懇願した。懇願していると気づかれぬよう、努力しなければならなかったが。
「……はい、降ろします」
 冬島の腕から解放され、紅林は木を支えに立ち上がる。
「とにかく俺が言いたいのは、クレさんはすげえってことです!」
「わかりました、わかりましたから。ありがとう、フユ」
 冬島の言葉は混じりけのない好意そのものだ。純粋な誉め言葉として降りかかったそれは、紅林を苦しめ、有頂天にもする。
「行きましょ、クレさん!」
 これは罰なのだろうか。報いなのだろうか。……褒美だと、思っていいのだろうか。
 紅林は、秘めた感情の所在を確かめた。見失ってはいない。確かに心中に巣食うその感情を眺める。
 秘めて、秘めて、空気に触れることのないその感情は、酸化することはなくとも、いつか取り返しのつかない何かへ姿を変えてしまうのではないだろうか。
 その何度も味わった恐怖も、紅林には新鮮でいて、なじみ深い。古くからの友人のような安心感さえある。
 見失ってはない。しかし、その感情が呪いに変わらぬよう、紅林は丁寧に引き出しを築き上げ、感情を仕舞い込んだ。そうせずとも見失うことはないと知っていながら、引き出しに冬島、と名付ける。
「クレさん」
「はい」
「助けてくれてありがとうございました」
「いいんですよ」
 雑木林を抜けると、めいっぱいの陽光が2人を包んだ。眩しさに目を細める冬島と、それより眩しいものをもう知っている紅林の対比を、降り注ぐ光だけが見つめていた。

フユクレ「木登り」

フユクレ「木登り」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-17

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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