きやれん「虹」

 久しぶりの外出日にも関わらず、その日は雨で、俺はただぼんやりと窓の外を見るともなしに見ていた。通り雨のようで割合しつこいその雨は、骨身に染みわたり、全身が軋むような錯覚を覚えた。
 静寂が支配する部屋。この窓際の、この場所は、いつも鍵谷―――きーやが座っている場所だ。ここでなくてもいいはずなのに、誰もいないのをいいことに、俺は根を張るようにその場に座り込んでいる。そんなはずもないのに、残り香が鼻先を掠めたような気がして、深呼吸をしながら。
 冷たい雨音を聴きながら、うつらうつら、船を漕ぐ。いい夢を見られるかもしれない、この残り香に縋ってさえいれば……、そう思った時、
「マエ」
 煙草の匂いが、今度は確かな温度を纏って鼻腔をくすぐる。肩を叩いた手が、その呼び声が、振り返らなくとも声の主が誰なのかを知らせる。
「きーや、どうしたん」
 振り返らなくてもわかっているくせに、それがきーやに伝わってしまうことは憚られ、しっかりそちらへ振り返って、見上げる。
 ここに座り込んでいたのはたまたまだよ、だなんて、きっと気にも留めないだろうことを、心の中で必死に弁明しながら。
「見ろよ、虹が出てるぞ」
 きーやが指さす方向へ視線を移す。外はもうすっかり雨が上がり、まだ濡れた景色が反射する光が眩しい。そして、きーやの言葉通り、空には大きな虹がかかっていた。眠っていたのはほんの一瞬のつもりだったが、思っていたより時間が経っていたようだ。
「ほんとやね、久しぶりに見た」
「だろ、しかもかなりでかいぞ」
 虹を見てはしゃぐなんて、かわいらしいな。
 口にしてはいけないけれど、思うくらいなら。溢れだしそうになる言葉を、心の底に押し込む。
「なあ、見に行かねえか?」
「え?」
 きーやはすこし気恥ずかしそうに、それでも迷いなく、言葉を続けた。
「虹の端っこ、探しに行こうぜ」

  *

 湿った土のやわらかで不快な踏み心地も、今は全てが愛おしい。きーやとふたり、雨上がりの澄んだ匂いが立ち込める土手沿いを歩いている。
 虹の端を探して。
 きーやの足取りは、迷いなく、規則正しい。ああ、ずっと、着いて行きたい。貴方の後を、ずっと。
 押し込めた言葉は、体内で氾濫し、えずきそうなほど胸を締め上げる。苦しい。それでも、苦しみを伴う幸福でも、きーやがくれたものなのだから、噛み締めていたかった。
「まだかなり遠いな。マエ、もうちょい早く歩け」
「うん」
 早く歩いたら、虹の橋に辿り着いたら、後は終わりに向かうだけの時間になる。終わりへと続いていくこの道を、この人生を、まるで現れない虹の端が、引き延ばそうとしてくれているように感じながら、そんなに都合の良い考え方ばかりして、と自分に呆れた。
「なあマエ」
 取り留めのない会話が途切れたのもつかの間、きーやが改まった口調で切り出す。
「もし俺が先に征っても、笑って生きろよ」
 それは、祈りのような、呪いのような、俺の全てを絡め取る言葉だった。
 笑って生きろよ。
 無理だ、そんなことはできるはずがない。
 俺は皆がいるから……きーやがいるから、こんなに笑うようになったんよ。きーやが征ったら、征っても、笑え、だなんて。
「……っ、うん」
 それでも頷くしかなかった。きーやの心残りにはなりたくなかった。迷いのない貴方のままでいてほしい。どこまでも自分勝手な願望が、言葉の代わりに、涙となって溢れた。
 きーやに気づかれぬよう押し留めようとしても、一度決壊すれば、これまでの我慢など全て、いとも簡単に崩れていった。
「マエ?」
 歩みを止めて俯く俺の顔を、きーやが覗き込んでくる。
「……マエ」
 また、煙草の匂い。鼻先をくすぐり、そうかと思うと次の瞬間には、頬にあたたかいものを感じる。
 きーやが、俺の頬に触れている。
「笑ってほしいとか言いながら、泣かせちまうなんてな」
 すぐに後ずさったが、きーやはすぐさま距離を詰め、さらに顔を近づけてくる。
「マエ、よく聴け」
 あまりの距離の近さに、顔を上げることができない。涙が湿った地面に落ちて、その輪郭が溶けていく。きーやの体温が、吐息が、俺の体温に、吐息に、混ざっていくようだった。
「俺の近所に住んでたオヤジの話なんだがな、ある時家まで我慢できずに野グソしてたんだよ、そしたら草むらから蛇がひょっこり現れて、オヤジの玉をな、」
 内容にそぐわない真剣な声色で勢いよく話すきーやに思わず拍子抜けし、顔を上げる。視界がきーやで埋め尽くされた。
「へ?」
「玉を、ちょろっと舐めたんだと、そしたらオヤジ、クソだけでよかったはずが、刺激されちまったもんだから、ションベンも……」
「……っ、ふっ」
 あくまでも真面目な表情で続けるので、思わず笑ってしまった。
「なんなん、そんな真面目な顔して、そんな話……っ」
「笑ったな、マエ。その方がいいぜ、マエは」
 くしゃりと目を細め、きーやも笑った。
「もしお前が先に征っちまったら、向こうでお前を笑わせられるやつがいねえからな、俺が先じゃねえと」
「……待ってて、くれるん」
「当たり前だろ」
 本当は俺が先がいい。きーやがひとりにきりになる時間など、ひと時たりともない方がいいのに。
 それでも、その言葉が嬉しかった。嬉しいと感じてしまう自分を誤魔化しようもなく、笑った。
「そんなに面白かったか、さっきの話」
「ふふっ、うん、面白かった」
「忘れるなよ」
 きーやから貰ったものは、全て覚えている。それでも忘れるなという言葉が、きーやの忘れてほしくないという願望が滲んだ言葉であるかのように感じて、この痛みも幸福もどうして忘れられるだろう、そう思いながらも、泣き笑いの表情で応えた。

  *

「あーあ、見つからんかったなー」
 結局虹の端へは辿り着けず、俺たちは来た道を早足で戻る。
 終わってしまう、なにもかも。この喉が焼けつくような渇きを、何度貴方から貰っただろう。
 それでももう、二度と潤わなくてもいいのだ。渇いたままでも貴方を好きなまま生きて、いつか、征く。
「また探しに行こうな」
 生きているうちには訪れないだろう「また」を、きーやが当たり前のように口にするので、そうやね、と返す。
 いつか辿り着けるといい。そう、たとえば、向こうで。

きやれん「虹」

きやれん「虹」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-17

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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