坂伴wdtm「教わる」
教わる
恋わずらい、というものがあるという。「順う」とも「患う」とも書くそうだが、まあ、この場合は後者だろうと、俯瞰してみる時だけはこれほどまでに冷静になれるものだ。
岩陰で眠ってしまった伴の寝顔は、いつまでもいつまでも眺めていられるものだったが、遠雷がもたらした一際明るい光が、その幸福に裂をもたらす。
伴の寝息が聴こえる。この時ばかりは、心地よいはずの波音が煩わしい。波音が心地よいなどと、なぜ考えるようになったかといえば、それは伴がいい音だと評価したからだ。
その瞬間の伴の、耳を澄ませるように少し上向きに傾いた頭と、顔の輪郭が生んだ影の濃度、息を吸いぴたりと止めた音、聴覚だけを研ぎ澄ませるために瞳を覆った瞼の丸み、全てを、覚えている。美化されることなく、いつでも脳裏に呼び出すことができる映像が、波音を伴って、再生される。美化する必要のない記憶である。その美しさに、加工を施してはいけない。
すべてが、伴に収束していく。
遠い記憶に、愛情の名残がある。その愛情は、その愛情として、在る。
そして、今のこの、情が在る。恋わずらいなどと、呼んでしまえば陳腐だ。言葉として口に出し伝えるためだけに付ける名前は、その情に対して不足している。名前のいらない感情があるのだと、伴はもう、知っているだろう。
遠雷が意識を引き戻す。次第に頻度を増す。
伴を起こさなければならないだろうか。雷が鳴れば、安全な場所へ身を潜めるものだ。雨が降れば、雨宿りをするものだ。愛しているならそう言葉にしなければならない場面があるように。
伴はまだ、眠っている。もうえんじの鉢巻も、形見の刀もない。ただ、伴がいる。
伝えなければ、存在しないことになるだろうか。
言葉にしなければ、超能力者ではないのだから、伴には伝わらない。
そうだろうか。そうなのだろうが、伴は、どうだろうか。そんなことは、関係ないだろうか。
「伴……、伴、起きろ」
頬に手を当て、優しくゆする。空には雲が満ちていく。雨の気配が立ち込める。ここでも、雨に降られれば、風邪を引くのだろうか。
「……ん」
伴が頬擦りする。坂ノ上さん? と小さく呟き、また眠ってしまった。雨が降り出す。冷たくはなかった。
頬がぬくい。ぬくいな、と言えば、ぬくいことが伴にも伝わる。そうですか、と応えるだろうか。
何も言わないのだろうか。
確かめるためには、言葉にしなければならない。
伴が俺を呼ぶ時の、他の何かを呼ぶ時とは異なる揺らぎに、名前があるだろうか。
こんなことばかりを考えていることが知れたら笑われるには違いない。そう思うとおかしく、自分でも笑えた。
「何、笑ってるんですか」
「お、起きたのか」
「雨……」
伴の瞳に、雨粒が吸い込まれていく。それを見ていることが、伴にも、伝わっている。ぬくい頬の上を、水滴が滴り落ちる。
「雨宿りするか?」
「いや、いらねーでしょう」
降り落ちる雨を眺めている。この景色も、新鮮に、伴に刻まれていくのだろう。こんなに無防備に、雨に打たれたことはこれまでになかったのだろうと、わかる。
「伴、」
何かを言いかけた唇に、伴の手が伸びる。口角を指先で弄び、笑っている。
「少佐どの、いや、大佐か……」
目を細め、俺を見つめている。雨粒が視界を細切れに遮っていくのが、煩わしかった。
「いいんじゃないスか、まだ」
雨が降り続く。いつか止むことを、伴も俺も、知っている雨だ。
形を持てば、あるいは名前を持てば、生命が吹き込まれ、いつか終わっていくのだと言われた気がした。それはすでに俺が、そうと知っているというだけのことだろうか。それとも伴が、そう知っていたのだろうか。
恋わずらいとは、生ぬるい比喩を持ち出してしまったと、それだけが今は、確かなことだった。
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