No
『書かなければ生きていけない ~No Writing, No Life.~』
遠野太陽
20分
時代劇
2人用台本
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805 views2025.6.19
台本説明
穏やかな昼下がり。内田百閒(うちだひゃっけん)の前に現れたのは、言葉を話す一匹の猫。 「やあ、内田君」 それは猫に変身した芥川龍之介だった。 これは、文豪たち...
登場人物
内田
男性
内田百閒(うちだひゃっけん)。売れない作家。
セリフ数 112
猫
不問
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)。大正時代を代表する文豪。
セリフ数 108
台本本文
内田
1926年の春。その日、私はいつになく穏やかな昼餉ひるげをととのえた。漬物は少し塩が勝っていたが、炊きたての白飯がそれを許してくれた。熱いお茶を湯呑みに移し、ひと息つくと、陽の光が障子をとおして畳の目に細かな塵ちりを踊らせていた。まるで時間そのものが、猫のようにうたた寝しているようだった。 私は書きかけの原稿を机に残したまま、硝子戸がらすどのそばに座布団を敷いて、まどろみに身を委ねた。風もない。時計の音だけが、まるで遠くの町で誰かが靴を履いて歩いているような、乾いた響きで刻まれていた。 うとうとと眼を閉じていると、どこからか、ふわりと声がした。
猫
やあ、内田君。
内田
……やあ。
猫
ふむ。何も驚かないのかい?
内田
何か驚く要素でもあるのかい?
猫
猫が人の言葉を喋っているんだ。もう少し、何かあってもよかろうに。
内田
昨日はカラスが「食くい物をよこせ」と鳴いていた。その前はカエルで、その前は煙をまとうた見たこともない獣だった。人の言葉を喋るくらいで驚いていたら心臓がいくつあっても足らぬよ。
猫
(笑)それでこその内田君だ。相変わらず君は幻想の中に生きている。しかも頭がイカれてるわけでもなく、なんの薬物も使わずにだ。これだから僕は君のことが大好きなのだよ。
内田
僕のことをよく知っているような口ぶりだね。
猫
もちろん。君のことは誰よりもわかっている。僕ほど君のことを理解している人間はいないと思うね。
内田
人間? 君は猫だろう。
猫
今はこんな姿だが、僕はちゃんと人間さ。誰だかわかるかい?
内田
ふむ。僕のことは僕が一番わかっている。が、同じ姿をしていないということはドッペルゲンガーではない。
猫
うん。
内田
それに漱石先生が猫の姿をしていたならば「僕」とは言わないはずだ。
猫
そうか。吾輩と言っていたら君を騙せていたのかもしれないな。それはそれで愉快なことになった。惜しいことをした。
内田
(笑)僕にこんな物言いをするのは一人しかいない。
猫
わかったのかい?
内田
久しぶりだね。芥川君。
内田
芥川龍之介。筆の先が火花を散らすがごとき勢いで書かれた数多あまたの小説は、文壇において一際の光を放ち、彼は作家としての名声を欲しいままにしていた。僕と芥川君は漱石先生の弟子であったが、彼は、うだつの上がらぬ僕ごときとはまるで別の世界に生きていた。
猫
正解だ。うん。いい匂いがする。畳の香りに、火鉢の灰の温もり。障子の紙が日に焼けて、煤すすけた埃と墨の匂いが少し混じってる。 ああ、今聞こえた音は市電が向こうを通り過ぎたのか。ごとん、ごとん。あの音はまるで東京の心臓のようだ。
内田
君は今、湯河原で療養中だと聞いていたが。
猫
ああ。君に会いたいと思い隙間を通ったらここまで来ていた。猫が神出鬼没な理由がわかったよ。
内田
それはどこにでも好きなところに行けるだろうさ。なんせこれは僕の夢なんだから。
猫
君の夢?
内田
夢でなければ猫が喋るわけがない。それくらい僕にだってわかる。つまりこれは僕が見ている夢だ。
猫
(楽しげに)これは僕の夢だと思っていたが、違っていたのか。いや、あるいは、どちらも正しいのか。どちらにせよ僕は今、猫になって君の夢にお邪魔していると、こういうわけだな。
内田
ずいぶんと上機嫌だね。
猫
それはそうさ。猫になってから頭も胃もどこも痛くない。これほど快適なら生まれ変わった時は猫になるとしよう。
内田
どうやって猫になったんだい?
猫
実は昨夜、突然に目の前の空気が揺らいだと思ったら奇妙な洋服を着た男が現れて、僕にこう言ったんだ。「私は百年後の未来から来た」と。
内田
百年後というと2026年か。
猫
そう。男は過去に戻る薬を飲んだそうだ。
内田
未来にはそんな薬があるのか。
猫
そうらしいね。僕が「なにをしに来たんだ」と聞いたら男は答えた。「芥川龍之介の病気を治しにきた」と。
内田
ほう。それで?
猫
「なんでそんなことを」と聞くと、「芥川龍之介の小説が大好きだから」だと答えた。僕の書く小説をもっと読みたいから、僕の病気を治したいと。
内田
百年後の未来でも君の小説は読まれているのか。素晴らしいじゃないか。
猫
とっくに著作権は切れているがね。
内田
それでも歴史に名を残す大文豪だ。
猫
それで男は次々に僕の症状を言い当てた。頭が痛い時に見える歯車のような光の模様のこと。これは閃輝暗点せんきあんてんという症状らしい。神経衰弱による不眠症や胃の痛み。そんな僕を悩ませる体の不調が、百年後の未来では薬で簡単に治すことができるそうだ。
内田
凄いじゃないか。それで君は、その薬を飲んだのかい?
猫
そんな怪しい薬を飲むわけがないだろう。
内田
そうだろうね。
猫
僕が丁重にお断りすると、それならと、トリプタン製剤という痛み止めの薬を出してきた。これで症状が和やわらぐはずだと。
内田
君は、その薬を飲んだのかい?
猫
そんな怪しい薬を飲むわけがないだろう。
内田
そうだろうね。
猫
僕がまたも丁重にお断りすると、それならと、猫に変身する薬を出してきた。これで体が軽くなると。
内田
君は、その薬を飲んだのかい?
猫
そんな怪しい薬を飲むわけがないだろう。
内田
そうだろうね。
猫
男はがっかりして未来に帰っていったよ。
内田
何をしにきたんだ、その男は。
猫
そしてつい先ほど、僕はその男のことを思い出していた。猫になるというのは、どのような心持ちなのだろうかと。そうしたら夢の中で猫になって、内田君、君の家に来ていた。と、こういうわけさ。
内田
どうして僕に会いにきたんだい?
猫
実はね、百年後の未来から来た男と僕は色々話をしたんだ。なんでも、今から数十年後にクロサワという男が僕の小説を映画キネマにしてくれるらしい。
内田
ほう。
猫
そしてそのクロサワは内田君、君の映画キネマも作ったそうだよ。
内田
僕の!? 僕の小説が、映画キネマになるのかい? どの話だ?
猫
それは言ってなかった。きっとこれから君が書く小説だよ。
内田
これから……。
猫
それを聞いて、僕は君に会いたくなった。
内田
映画キネマになるような小説を書くのか? この僕が?
猫
もちろんさ。君の書く小説は僕の憧れなんだ。
内田
天下の芥川龍之介にそんなことを言われるとは思わなかった。僕の書いた小説なんて、誰も見向きはしないよ。
猫
そんなことはない。君の小説が素晴らしいことは僕が誰よりもわかってる。君が以前に書いた「冥途めいど」は本当によかった。
内田
ちっとも売れなかったがね。
猫
それは震災が起きたせいだ。あれがなければ出版社は君という才能を見つけていたはずだ。
内田
買いかぶりだよ。
猫
そんなことはない。あの小説を書いた内田百閒ひゃっけんという作家を僕は心から尊敬した。憧れた。そして激しく嫉妬した。どうすればこんな狂おしい世界を描くことができるのだろうと必死で考えた。
内田
僕には君が思うような才能は、これっぽっちもない。
猫
ある。
内田
ない。
猫
あるよ。
内田
ない。
猫
絶対にある。君の小説が映画キネマになるのがその証拠だ。
内田
そんなおかしな男の言うことを真に受ける君はどうかしているぞ。
猫
才能がないなら、どうして今も書いているんだ。机に置かれたままの原稿、それは書きかけの小説なんだろ。
内田
くっ。(紙を掴んで屑籠くずかごに捨てる)
猫
ああ、何も捨てることはないじゃないか。
内田
(ため息)……書いては捨てての繰り返しさ。僕に出来るのは屑籠くずかごに紙の山を築くくらいだ。
猫
読ませてくれないか。
内田
読みたいのかい? 芥川龍之介が、駄文にもならない文字の連つらなりを。
猫
内田君の小説の熱烈な読者なら、例え駄文でも読みたいと思うのは当然のことだろう。
内田
読まないでくれ。
猫
え?
内田
お願いだ。
猫
どうしてだい?
内田
君にだけは。芥川龍之介だけには読んでほしくない。
猫
僕だけ? それは不公平だ。
内田
そうさ、世の中は不公平なんだ。あの震災がなかったとしても僕は君のようにはなれない。僕に憧れている? そんなわけない。君は遥か高みから僕を見下ろして、評価されぬ僕のことを憐れんでいるだけだ。
猫
……(静かに)僕がそんな男に見えるのか。
内田
違うというのか。
猫
僕は、そんな男ではないよ。
内田
(ため息)憧れているのは僕のほうだ。僕は芥川龍之介の才能に憧れ、嫉妬している。君は漱石先生のお気に入りだった。
猫
漱石先生?
内田
ああ、そうだ。先生は君の小説を手放しで褒めていた。今まで読んだ中で一番だと。
猫
気にかけてもらってはいたが、それは君も同じことだろう。
内田
僕と君とは違う。
猫
漱石先生は内田君の書く文章を面白いと言っていたじゃないか。独特のユーモアがあって、何とも言えない味があると。
内田
何とも言えない味、そうだ、何とも言えない味だ。それは果たして褒め言葉なんだろうか。
猫
どういう意味だい?
内田
例えば、そうだな。ちょっと待ってくれよ。(筆を取る)
猫
何か書くつもりかい?
内田
今から僕が猫を描く。そこを動かないでくれ。
猫
僕の似顔絵かい?
内田
ああ。これでも僕は絵に自信があってね。ここをこうして……。うん、こうかな。よし。できた。どうだい、よく描けているだろう。
猫
それはなんだ、狸か? 下手糞へたくそにもほどがある。5歳の子供でももう少し上手く描けるだろうよ。
内田
(笑)君は正直だな。では、この絵をどうしても褒めなければならないとしたら、君はなんと表現する?
猫
この絵を褒めるのかい? そうだな……。これは誰にも真似出来ない。独特だね。何とも言えない味があるよ。
内田
それだ。漱石先生も僕の小説を読んでそう言っていた。
猫
本当だ。同じことを言ってしまった。
内田
先生は弟子の小説を読んだ時に、例え拙つたなくても褒めるべきところを探して褒めてくれていた。 だが、僕の場合はどうだ。あの褒め上手な先生でさえ、褒めるところが見つからなかった。何とも言えない味があると、こう仰おっしゃったんだ。
猫
そうか。そうだったのか。君の小説には褒めるところが一つもなかったのか。
内田
うん。そう素直に納得されると、それはそれで胸の奥がざわめくのだが。
猫
悪かった。でもそれは想像だろ。僕や久米君、それに松岡君だって、内田君の才能を認めていた。漱石先生だってきっと君の書く小説を面白いと思っていたはずだ。
内田
芥川君、僕がそう思うのには、ちゃんとした理由があるんだ。
猫
理由?
内田
君は「鼻」を書いた時に先生から手紙をもらっていたね。
猫
ああ。あの手紙は僕の宝物だ。あの手紙があったから、僕はこうして作家を続けている。
内田
君が先生から手紙をもらった後、僕も小説を書いて先生に読んでもらった。
猫
うん。漱石先生の手紙にはなんて書いてあったんだい?
内田
……。
猫
君の小説を褒めていただろう。手紙にはなんて書いてあったんだ。
内田
……手紙は……くれなかった。
猫
……え?
内田
漱石先生は、僕の小説を読んだ後、手紙をくれなかった。木曜会に集う誰もが、先生のお言葉を賜たまわったというのに。弟子の中で手紙をもらえなかったのは、きっとこの僕だけだろう。
猫
……うそだ。
内田
本当だよ。漱石先生は僕に何の言葉もかけてくれなかった。僕の存在を否定するかのようだった。僕には才能がなかった。僕は君とは違うんだよ!
猫
……そんなはずはない。
内田
なにが?
猫
手紙はあった。僕は知ってる。確かに見たんだ。
内田
なにを言ってるんだ。
猫
あれは確か、君が用事で木曜会を休んだ時だった。漱石先生は君の姿を探して、君がいないことがわかると少し落胆していた。 「どうしたのですか」と僕は聞いた。すると先生は「内田君の小説の感想を書いたのだが、不在ならば仕方ない」と。
内田
えっ……。
猫
その時、隣にいた橋本君が「僕が内田君に渡します」と先生から手紙を受け取ったんだ。
内田
橋本……。
猫
覚えていないかな。ほんの少しの間だけ木曜会に来ていた顔の大きな男だ。
内田
ああ、すぐに来なくなった、あの品のない男か。
猫
僕はてっきり、あの後、君は橋本君から手紙を受け取ったと思っていた。
内田
何も受け取ってはいない。
猫
今、橋本君はどこで何をしているだろうか。
内田
そんなことを知ったところでどうにもならない。手紙はとっくに捨ててしまっているさ。
猫
どうして橋本君はそんなことを……。
内田
理由はわからないがね。きっと僕のことを気に入らなかったんだろうさ。
猫
どうして僕に相談してくれなかった。あの頃に聞いていたら橋本君を問い詰めることだってできたのに。
内田
相談だって? 君に相談なんてできるわけないだろ。
猫
どうして。
内田
漱石先生から作家としての輝かしい未来を約束されていた君に、僕は何を相談するんだ。「先生から小説の感想がもらえないんだが、どうすればいい」と君に聞くのか。そんな恥ずかしいこと出来るわけないだろ。
猫
……。
内田
君が羨ましかった。恨めしかった。悔しかった。負けたくなかった。君にだけには相談したくなかった。
猫
……すまなかった。
内田
いや。君が謝ることではないよ。
猫
いや、僕が手紙を受け取っていれば、こんなことにはならなかった。先生が君へ送った大切な手紙だったのに。
内田
そうか。手紙はあったんだな。
猫
ああ。手紙を持っていた時の先生の顔を覚えている。早く手紙を君に読んでほしい。そういう顔をしていた。君の小説が面白くて、早く感想を伝えたかったんだ。
内田
手紙はあった。それだけで十分だ。手紙は……あった。……あった。
猫
ああ、そうだ。
内田
それなのに僕は、手紙をくれなかった先生を恨みがましく見てしまった。なんで僕にだけ手紙をくれないのですか。僕の小説はそんなに駄作でしたか。お目汚しでしたか。たった一言の助言すら頂けないのですか。僕はそんな目で漱石先生を見てしまっていたんだ。ああ、僕はなんてことをしてしまったんだ。すいません。すいません、先生。
猫
……しくじった。
内田
もういいよ。過ぎたことさ。
猫
いや。未来から来たというあの男から過去に戻る薬をもらっておくんだった。そうすれば、手紙を漱石先生から預かることだってできたのに。
内田
そんな薬があったとして、君は、その薬を飲んだのかい?
猫
そんな怪しい薬を飲むわけがないだろう。
内田
そうだろうね。(笑)
猫
(笑)
内田
(ひとしきり笑って、やがて大きく息をつく)……ありがとう、芥川君。
猫
僕は何も。
内田
ずっと胸の奥に沈んでいた鉛のような塊が取り除かれた気分だ。
猫
そうか。
内田
芥川君。
猫
なんだい。
内田
僕はこれから、映画キネマになるような小説を書けるだろうか。
猫
書けるさ。さっきも言ったが、君のことは僕が一番よくわかってる。
内田
ありがとう。そのことを伝えに、わざわざ猫になって僕の前に現れたのかい?
猫
まあ、ね。
内田
他にも何かあるのかい?
猫
うん。内田君の顔が見たくなった。
内田
もうすぐ死ぬ人間みたいなこと言わないでくれよ。
猫
……。
内田
まさか君は、死ぬつもりではないだろうね。
猫
……。
内田
なんとか言ったらどうなんだ。
猫
(困ったように笑う)
内田
冗談はよしてくれ。君はこれからもっと沢山の傑作を書かなきゃいけない。僕が、いや、日本中の君の読者がそれを楽しみにしてるんだ。
猫
内田君、僕はね。僕の才能はとっくに枯れてしまっているのさ。
内田
何を言ってるんだ。
猫
それでも筆を執とるのは、書かなければ生きていけないからだ。 英語が堪能たんのうなとある夫人はこれを「ノーライティング・ノーライフ」だと言っていた。
内田
ノーライティング・ノーライフ。
猫
才能が枯れた僕が小説を書く方法は一つしかない。割れそうな頭の痛みと、僕を蝕むしばむ体の激痛と、時折見える幻と、脳に響く声、それらに耳を傾けることだ。 傷口に塩を塗り、火で炙あぶり、刃物を突きたてる。そうして言葉を絞り出して僕は小説を書いてる。
内田
そんな…。
猫
遥か高みから君を見下ろして憐れんでいるだって? 馬鹿なことを言わないでくれ。僕はいつも君を見上げている。僕はこうすることでしか、内田君が持つ幻想にたどり着けない。僕が君に追いつくには、これしかないんだ。
内田
そんなことはない。君なら命を削るようなことはせずとも書けるはずだ。
猫
それじゃ駄目なんだ。
内田
もっと自分の体を大切にしてくれ。
猫
生きることがひどく重荷に感じるんだ。睡眠薬を飲んで眠った次の朝、目覚めてしまった時の憂鬱を君は知っているか。また忌々いまいましい一日が始まってしまった。そんなふうに思うんだ。いっそのこと、誰か僕の首を絞めてはくれないだろうか。そう思うことすらある。
内田
本当に死にたいと思っているなら、未来から来た男がくれた薬を飲むことに抵抗などあるわけがない。薬を拒んだということは、つまりは……。
猫
もし薬が本物で本当に病気が治ってしまったらどうなる。僕はこの痛みを失うんだ。そうしたら僕はもう本当に何も書けなくなってしまうかもしれない。それが恐ろしかった。
内田
それは……。
猫
それにだ。もしそれが青酸カリであったらどうする。死ぬのは構わないが、苦しんで息絶えるのはごめんだ。僕はもっと安らな方法で、眠るように死にたい。
内田
よしてくれ。
猫
大丈夫。まだ死なないよ。その前に、書かなきゃならない話があるんだ。
内田
それを書き終えたら、君は死んでしまうというのか。
猫
どうだろうね。その後、また書きたい話が出来るかもしれない。
内田
そうか。
猫
でももし僕が死んだ後、猫に生まれ変わったら、君が僕を飼ってくれないか。
内田
猫を、僕が?
猫
名前はそうだなぁ。ノラ。ノラにしよう。ノーライティング・ノーライフのノラだ。
内田
(ため息)わかった。もし君が亡くなった後、猫になった君を見つけることができたら、ノラと名付けるよ。
猫
ありがとう。君は長生きをしてくれよ。
内田
するさ。僕は君と違って、命を削って小説を書いたりしないからね。
猫
それがいい。君はそれでいい。
内田
いつか納得できるものが書けたら、君は読んでくれるかい?
猫
それまで生きていたら、必ず。
内田
書く。必ず書くから、だからそれまでは死なないでくれ。君は僕の熱烈な読者なんだろ。だったら、それを楽しみに、生きてくれ。
猫
うん。楽しみにしているよ。
内田
「楽しみにしているよ」。その言葉を最後に、ふわりと猫は、光の中に溶けるように消えてしまった。 その次の年、芥川龍之介が自ら命を絶ったと報しらせをうけた。睡眠薬を多量に摂取したらしい。 君は阿呆あほうだ。何がノーライティング・ノーライフだ。僕は魂を削り、身を焦がしてまで小説を書きはしない。書きたいことを書きたい時に書く。食べたい時に食べたいものを食べる。明日やってもいいことは明日やればいい。そうやって、この浮世のささやかな喜びを、君の分まで味わい尽くしてやる。
内田
それから季節は幾度となく巡り、桜が咲き、雪が舞い、また花開く。そしてある日、僕は一匹の猫に出会った。
内田
僕はその猫を、ノラと名付けた。
No