詩集 内省に連なる信徒らに 五章

五章

 贖罪に生きる事を申し出て、浄土への門は閉ざされた。
 咎人の私が、往生できる筈が無かった。
 ポケットの中には、君と分け合った飴が少しだけある。
 うら悲しい、振り返る旅路、今は一人、深まる秋。
 深々と積もる哀しみの、足跡を隠して、
 君の愛と痛みに胸を射抜かれて、仄かな灯、旅路を求む。

 私は善の光に群がる蛾でした。自らも善で在りたかった。
 けれど、愛しい貴方に悲哀の眼差し、怒りの声音。
 気づいた私は、自ら獄に向かい牢に閉ざされ、
 以前の様に、小さな神様が運んでくれる真水を飲んだ。
 清廉な貴方は、明るい地上で暮らしてほしい。
 私は今一度、蛹に戻る、人間に成る為に。

 内省の信徒が足を失ったなら、地を這ってでもその道を行く。
 私と貴方の物質的距離と空と海が、障壁になろうとも、
 内省の信徒は、私は、自らの惨めな姿を人々に見られてでも、
 愛している貴方が為に、傷を負って喜び、苦しんで喜び、
 涙ながらに、抱きしめて欲しくて、この世界で逢いたい。

 今まで多くの主義や、倫理や、理想の為に傷を負いましたが、
 声を用いず、論を用いず、ただ咲くだけの花の姿こそが、
 何よりも、最も説得のある形で、私の胸に沁みるのだった。
 それは、私自身の未熟と、微力をも突きつけて、静かだった。
 垣に腰かけて見守る、私の行く末を、手負いの修羅と共に。

 灯りを消した部屋、手渡された倫理を呆然と眺める。
「棄てたら全て失い、代わりを得る」
「所持し続けたら、明日が続く」
 私という人間は、どこへ消えたのだろう。
 里にも街にも、野山にも川にも、僧院のサンガにも、
 私というものは、存在しないのです。
 名前を呼んだって、意義は無いのです。

 だからこそ、二人きりの旅路を歩んできた。
 艱難辛苦、千辛万苦、一切の苦楽を分け合った。
 被る編み笠に纏う袈裟。共に、錫杖をしゃんしゃんと鳴らし、
 どこまで行こう、どこまでも行こう。
 大切な貴方を抱きしめる、その日を思い描いて、
 神仏に帰依する事で、今日も、迷いさえも旅の友として。

 悪しき道を辿る時、私は束の間の充足を得るだろう。
 孤独を忘れ、自身の狭い視野、低い視点を忘れ、
 熱病に苦しみながら笑っている様に、尊敬できない人達と、
 時間を共に過ごす虚しさを知らぬ間に、秒針が進むだろう。
 不義を突き放す為に、道を逸れた。善の道へと飛び込んだ。
 善い道を辿る時、私は常しえの孤独に苛まれるだろう。
 それは、古代ローマでも、アラビア半島でも、証明されている。
 人は自身を構成する悪には寛容で、鈍感で、
 人は、他者の言動に内在する悪に極めて敏感で、断罪する。
 迎えられざる善性の従者として、私を棄てて付き従おう。
 それは、唯物的な刹那や利己であるとか、蒙昧の損得であるとか、
 いいや、救いようの無い話はやめよう。善を探求するのだ。
 終わりも答えも無い一点に於いて、善悪は共通するが、
 神性仏性の有無という明確な点に於いて、善悪は相反する。
 進むべき道が解ったのだから、手当てを施して、ここを後にしよう。

 善の炎に飛び込んだ虫を、遠巻きに眺める虫達が貶している。
「あいつは馬鹿だから炎に飛び込んだのだ」
 それは、自身に対して言い聞かせる、言い訳だった。
 皆も心の底では解っていた。
 彼は、燃え盛る様な、善性への使命に殉じたのだと。
 燃え尽きた消し炭と煙、その暗闇に、悪の虫達は紛れた。

 岩の寝床を、二人で飛び出した。
 草花は豊穣を、空の青さは自由を、巨大な檻は定めを、
 それぞれを指して暗喩の為に用意されていた。
 奪わず、傷つけず。ここは咎が在り得ない。
 小さな楽園、その壊れかけの独房なのだろう。
 選択という人間の尊厳が与えられない、神の膝元なのだ。

 私から信仰を奪おうとした君へ。嘘つきの君へ。
 自己愛の化けの皮がはがれて、憎悪を滾らす君へ。
 八方美人を生きる術とし、媚びを売る君へ。
 私は神様と和解をして、御仏と感得を交わして、
 君達の、嘘だけの悪縁を通り過ぎていった。
 今の私は、君の何を重んじるべきか。甚だ疑問である。

 都合の良い時だけ仲間と呼び、裏で悪行を成す君へ。
 私は、実は気づいていたんだ、君が私と彼を裏切っている事を。
 物的証拠を得るまで、ずっと、ずっと、君を泳がせた。
 君が「貴方は神様だ」なんて、恥知らずな真似をするから、
 そうだね、阿修羅の眼に留まったのだよ、残念ながら。
 君は常に争いの中にいて、痛みを嘆くふりをしていた。
 な、嘘だったんだろう、本当は人々の不和を楽しんでいたんだ。
 君が憎悪の対象とする遺伝情報だか船の長だか知らないが、
 君とその御仁は、利己と争いを好む姿が、瓜二つである。
 君は昔から、人々の闘争を記録して、余所者に見せる癖がある。
 私と彼の事も、真っ赤な嘘の娼夫に売ったのだろうけれど、
 君自身、満たされたかい、楽しかったかい。
 心して聴きなさい。君が失ったものは、双方の信頼だ。
 君は斯様な悪行を娯楽に呼吸をする、畜生だと素性を明かした。
 利己の関係にある者以外から、君は二度と相手にされない。
 刮目しなさい、君が古くからの仲間を失った事が、現の証拠だ。
 人の闘争や不幸、不和が君にとっての蜜の味だったなら、
 叙事、叙情、叙景の三原則を用いて断罪するなど、容易い事だ。
 しかし、私が復讐劇より喜劇を愛する事を、君は知っているだろう。
 或いは、それさえも知らずに自己愛に利用したのかい。

 父と師の恩情に、心底より詫びる。
 私は今一度、他者を裁く事が、痛快に思えてならないのです。
 それも、元来個々人が持つべき正義に突き動かされて、
 鋭い眼光、血走った眼差しのまま、気に入らない人々を裁く事が、
 これほどに、痛みと悦楽を伴うとは、想定外でした。
 二人が知っての通り、私の生まれは阿修羅道ですから。
 下手に人間に成ろうと努めて、自らを再構築するよりも、
 菩薩行を志して、博愛の精神を育むよりも、
 遥かに自分らしくいられる、血塗れの闘士でいられるのです。
 きっと、神仏は私の姿と在り方を、否定してくれるでしょう。
 しかし、凡夫である人間如きに、どの様な道理を以てして、
 私の修羅としての性を否定し、封じられるというのでしょうか。
 私が人間の良心を裏切ったならば、その咎を追われるならば、
 人の一切は、私を裏切った者こそ前に進み出よ。
 虎の親を生きたまま毛皮をはぎ、虎面の闘争心、その異形と化して、
 ハ、ハ、ハ、これが俺の真情だろうか。
 不思議であった。心は静かで、疲れを感じる事は無く、
 在るがままの私が、唯識の世界で生かされている、と感じた。

 闘い続けて、襤褸の様な姿になった修羅が、とぼとぼと歩いていた。
 何だか、暮れ方の浜辺が恋しくなって、思い出を辿り、至りつく。
 昔は餌を求める野良猫が大勢いた。餌を与える通行人も。
 けれど、今日は気高い白猫が訪ねてくれた。
 白猫は一切を求めず、足元に憩う。そのままの私を認める様に。

 貴方達と出会えた日より、今日に至るまでを、
 手作りの花冠を乗せて祝福する様に、幸いを願う。
 ね、私達は、いつかは終わりが来る。事実として。
 だから、思い出を沢山作ろう、私達の手で。
 いつの日か、振り返った時に、嬉し涙を拭える様に。

 君達の信仰する唯物論の神様は、君達自身なのだろう。
 自身を神と崇め、崇めさせ、説き伏せたい気持ちは理解してあげる。
 けれど、私は一切の共感をしない。
 共感を得ず、孤独に陥る唯物主義者が、慌てふためく姿を、
 自らの神、その権威を疑う蒙昧の信徒、と私は呼称しようか。

 一切の内省に付き従う信徒に対して、私にできる事は、
 苦楽を分かち合い、各々の道を行き、阿弥陀の浄土に至りつく、
 奉公ひとつ、一死ひとつ、それ以上に何があるだろう。
「自己を頼れ、法を頼れ」
 私達は、幸いの中に自灯明法灯明を見失いがちだが、
 内省は、辛苦の中に咲く蓮華で在り続けた。

 自らが憎悪を抱える時、貴方達は自己を疑いましたか。
 御自身が憎まれた時、貴方達は乏しい客観視で他者に説きました。
 そうです、公平性という視点は、個人間の賜物ではありません。
 大悲の心、その慈愛が全ての人を等しく我が子と思う様に、
 愛の総称の儘に在る事は、困難極まるのです。

 唯一の道を貴方が為の道と定め従者になる私。

 赦す過程で得た一切が私の全て、
 赦しの御前に立ち、振り返れば我が轍。
 赦せた心が、私の誠実な財である。
 恩赦の日、獄から放たれた私を、
 神仏の見下ろす視線の下に、誰か知る。

 私は幾度と人を裏切って来た。互いに咎を背負いながら。
 しかし、私は一度たりとも、思い出を裏切った事が無い。
 私達の手に余りある、幸いと喜び、望み、その輝きが失せても、
 記憶に連なる愛しい人々、家族、恋人、友達、怨敵、その一切を、
 何故に、私が心底より愛さない事がありましょうか。

 生涯に於いて出逢い、関わり、愛し、紡いだ人々が、
 私に先んじて浄土や、天国や、楽園に向かい報われるなら、
 何も案ずる事は無い、これ以上の安堵は無い。
 もしも、最後の最期まで私が取り残されて、獄の中にいても、
 それは、寧ろ喜ばしい在り方、菩薩の行いなのだから。

 私には、人間も、菩薩も、難しい。
 常しえに、阿修羅道に留まりたい。
 妄執的正義に従い、怒り、永遠に争いたい。
 人間よりも人間らしく、菩薩から遠く、
 二元論を戒めながら、唯識論の幻に追われ、
 唯物論、唯心論を追放して、獄に繋がれて、
 背中合わせで仕合せの苦楽が、私の人生賛歌。

 途端に可笑しくなって、私は自らを俯瞰した。
 五年の歳月を賭して、苦楽には一切の差異が無い、その事実を知り、
 何故、今の私は善悪の差異を追い求めるのだろうか。
 それは、阿修羅道に生まれた、定めなのだろうか。
 しかし、心は軽く視野は明るかった。道理を、知っていたからだ。

 不義に与する人が在る様に、義を旗本に後ろ髪を断つ私が在る。

 暮れ方の、街路という街路を歩き続けて、在り続けた。
 野路山路の遠く、僧院のある所、僧達のサンガが在り、
 私は、仏門を叩く心に突き動かされて、礼拝をした。
「もしも、私が菩提心を持ったなら、迎え入れてくれますか」
 名も無い僧達は答えた。
「何故に、君を迎え入れない事があるのか」

 枕に沈む想念は至りつく、水底の戸を叩き、不寝番の傍らに。
 陽が昇る、夜が絶える、カーテンの内側。
 我が想念よ、寡黙の儘に正しさを問い、内省に殉じてくれ。
 この道を二人で行く。この道以外に道は無い。
 一人でも歩けた道だから、貴方を連れて阿弥陀の下へ。
 南無阿弥陀仏。

 師と二人で、無著、世親の兄弟菩薩と出会った夜に、
 私は、この世界に唯識の学問が誕生した事実を、
 心底より敬服し、その像の姿を礼拝した。
 それは、唯物、唯心と肩を並べながらも、人の苦しみに寄りそう、
 最上の教えである事を、大乗の根底である事を知らされた。
 内省の度に、今の私が唯識を学ぶ信徒である事実を思い出し、
 同時に、唯物論や唯心論も、この世を支える良き友として認識する。
 素晴らしい術に満ちた娑婆世界に於いて、私達は、
 ただ、心と道具の扱いを誤っているのだ、と気づかされる。
 ペンを執るなら、書き方と研ぎ方を覚える様に、両立が必要だった。
 弥蘭陀王問経の世界は阿羅漢の仕組み、上座部の世界だが、
 その始まりは、空思想から唯識へと転じるのだから、
 釈尊の説かれた教えが、血筋の如く、一家の系譜が在る様に、
 やはり私には、上座部も大乗も、等しく仏の教えであり、
 私が双方の仏門を叩く事は、何も、可笑しい事ではなく、
 ただ、東西に仏法僧の尊びが在る、その事実に過ぎないのだった。

 称賛の声の遠い所に、戦いから離れた修羅がいました。
 彼は、今までに、互いに傷つけ合った人々の面影を、
 流れ落ちる秋雨に重ねながら、尊び、合掌しました。
「私と出逢い、関わり、言葉を交わしてくれて、有難う」
 修羅は自身との闘いを始めて、内省に殉じる覚悟と対峙しました。
 何者が、ウルヴェラの森林を、その菩提樹を燃し尽くせるでしょう。
 釈尊の悟りを開かれた、あの夜にも、魔王は姿を現した。
 悪魔を、凡夫の一人一人が、退けられない所以など、無いのだから、
 自らの妄執的正義を、ひとつの指針に昇華した修羅にとって、
 魔王パアピアス・マラーは、大悲の心で慈しむ相手でした。
 赦し赦され、咎を取り払う姿に、ただの一人でも良い、ただの一人、
 誰かが双眸を開いて、東西の明星を仰いだ時、確かな菩提心が、
 手渡しに、愛する人へ、友達へ、隣人へ、譲り合える真水の様に、
 音も光も動きも無く、約束されるのだから、
 私の闘いには意義がある。勝子行に従う、姿のひとつとして。

 愛は総称の一語であると定義された。欠けた水晶の星の中にて。
 私には解らない、と言い切ってしまいたい、その積もりだった。
 仏典を読み、トルストイを読み、朱子学を教わり、
 そうであった、私は、欠けた水晶の一部であった。
 人を愛する術を知らない、ひとつの群青、その破片であった。
 しかし、嘆く暇は無い、その必要も無い。
 自らの未完全を鏡写しに頼らず、内省に見出した時、
 私は初めて、仏典の、トルストイの、朱子学の、
 世に残された意義を知り、魂の武装を解く事が叶い、
「今になり、誰かを愛してみたい」
 涙ながらに渇望する権限を、仏は、神は、人は与えた。
 私は斯様に生きてきた、と語れる自負があるのだから、
 何を恐れる必要がある、死後の世界でも同じ器だから。
 私は名を変え、姿を変え、幾度と輪廻を繰り返して、
 未完全極まりない愛と、敵意と、その背中合わせの事実を、
 これまでに無い程に、有難く尊ぶ。振り返れば、私自身が、
 その未完全な愛という物に、どれほど救われ、生かされてきただろう。

 人々の義は理由の為に在り、理由は言い訳の為に在り、
 言い訳は気に入らない相手を断罪する、義の建前の為に在る。
 気づいた日から、私は理由を述べなくなり、只管に寡黙の儘に、
 研ぎ澄ました妄執的正義の形で、人を裁く様になった。
 人の姿を真似て、義を語るより、余程清々しいではないか。

 君達が最も恐れる者は、弁明をしない咎人だ。
 君達が認識の外に追いやりたがる者は、全てを赦す人だ。

 人に優しく在りたい心は、利己を超えた、御布施である。
 君の学びの為に、私の実学が在るならば、
 常に、惜しみなく分け与えるべきだった。
 それが、今生に於ける私と君の、共に仏門を叩いた縁なのだ。
 人に物は必要だ、心は必要だ、それ以上に縁が必要だ。
 我々は、一人では有難いのだから。

 恐れると、利己心、自己保存、他責の念が生じる。
 争いの動機を得ると、最早武器を手に取る事を躊躇しない。
 ね、哀しい事じゃないか。私は恐れないと決めたよ。
 今生を生きる事も、死後も精進し続けて、輪廻する事も。
 私達は恐れを学ぶ事で、克服する権限と学びを得るのだから。
 けれど、恐れ知らずとは違うのだと信じたい。
 蛮勇に生きたら、怯えている他者の想念を汲み取る事も、
 その者に、無畏施を行う事すらも、儘ならない。
 私が怯えた過去も、向き合った死後の世界も、耐えて努める今も、
 一切が、私自らが人を愛する為の糧であった事を、
 疑う余地が無い程に、何もかもに納得ができていた。
 それ故に、君が知っている恐怖を、私も知っている。
 十三年前の私が、同じ恐れと対峙していたからだ。
 だからこそ、君の前進を願う、本当の幸いを願う、今もなお。
 君を惑わせる者も、友の中に、隣人の中に、学び舎の中に、
 至る所に在るだろう、私も同じだよ、唯識の問いに学んでいる。
 恐れを取り除いた時、全てが優れた教書に思える、その日を掴んでくれ。

 他責に走れば他責に追われる。赦しに努めれば赦される。
 前者は出逢う全ての人々から。後者は出逢う全ての神仏から。
 この考え方を、唯物論を用いて否定してもらっても構わない。
 だが、多くの人々は唯物論を扱いきれないのだ。
 使う内に自らが使われる。咎を追う事で咎を背負う様に。

 修羅と名も無い僧が、暖かな火を囲んでいた。
 そこへ、傷を負った青鬼がやって来て、頭を下げた。
 どうか、私も暖を取らせてください、と震えながら。
 僧は微笑みながら「傷の手当てをしよう」と言い、
 修羅は、雑穀の粥を三つのお椀に装う。
 人の温情を久方ぶりに受けた青鬼は、清い涙を流した。

 老僧は、親に棄てられた子猫を抱いて、寺へ連れて帰った。
「この子は長く無い、尊厳のある最期を迎えさせよう」
 典座に重湯を作ってもらい、老僧が子猫に匙で飲ませると、
 子猫の心に、知らぬ筈の母の顔が浮かび上がった。
「天上天下唯我独尊」
 子猫は老僧に、この一言を説いて、世を去った。

 一切皆苦の世に於いて奇跡とは、信じがたい事象の事ではなく、
 寧ろ普遍性を体現した事で、皆が原点に立ち戻る姿を指す言葉だ。

 貴方と初めて逢えた日の思い出に、
 入り浸れば、胸は高鳴る、空は青くなる。
 道路越し、互いのバス停より手を振る、
 恋人達の笑みと眼差しを、誰も知らない。
 世界を置き去り、二人きり。
 世界の中心が、私達の舞台である証明に、
 東へ西へ、どこへ向かっても拝んだ、
 明星ひとつ、心がひとつ。

 私がもっと愚かだったら、君の肩に噛み傷を残してあげた。
 けれど、痛がる君を慮り、代わりにその御心に手で触れた。
 君が喜ぶ時も、浮かれる時も、冷静な時も、真摯な時も、
 思い出の一語を総称と頼りに、私は君を知り尽くす。
 君が私を、私が君を、自らの一部とした、あの初夜から。

 自らの意志と言動で、進んで地獄へ堕ちた者達が、
 渦中に於いて、救済を叫ぶ、救い主を求める。
 中原を掌握した皇帝が、野心で地上を支配した男達が、
 宮中に於いて、怒りを叫ぶ、安穏を失う。
 開墾に汗を流した農民が、井戸を掘り続けた男が、
 生きる苦しみの中心で、賛美の歌を唄ったと云う。

 孤独を恐れる者に限って、孤忠の光を仰げない。

 数に頼りながら、恐怖を麻痺させて、闘争を始めても、
 無力の聴衆に等しい君達が、修羅の文を読む。
 君達が耳を塞いでも、怒声を用いても、冷笑に頼っても、
 筆先は雄弁でインクは絶えず、修羅は沈黙と微笑の姿で眼前に在る。
 今一度問う。君達は誰を敵として、誰に怯えていたのか。
 受動的に身勝手な立ち振る舞いをする事で、自由に至れたかい。
 自己憐憫に依り争う君達が、憎悪を持たない修羅と対峙して、
 斯様に小さな存在として、恐れ、吠えている姿は哀れであった。
 考えてもみなさい、人間として生きられる内省の術を棄てて、
 君達が自らの意志で選び取った、憎悪に依存した結果、
 己の人格を壊し、悪魔の助言と寵愛に、依存しているではないか。
 もしも「いいや、お前のせいだ」と断言したいのであれば、
 君達が受動的姿勢で、一切皆苦の世界を相手にしている事が、
 説明の必要も無く、立証済みではないか。唯物論者には難しいかい。
 私が能動の儘に、内省を我が物として、生きる姿が、怖いか。
 いいや、本当は、恐れない私の姿ではなく、常として、
 外敵という存在を作ったが為に、誰が為に争うとも知らず、
 自己が約束した宿命が怖くて、蒙昧の信徒として、生きているのだ。
 違うと考えるなら、その震えている脚と指先を、止めてごらん。

 孤忠と内省は最良の伴侶である。

 人にとっての共通項である苦しみが、
 修羅の眼には、精進の道に映る。

 ナイフで切り傷を付けたオレンジを、
 箱に封じれば、見向きもされないけれど、
 自らの記憶との向き合い方は、意図に反して、
 膿んだ傷口に刃を当て、処置を施す姿だ。
 生きる麻酔は、私を腐らせるだろう。
 生きるために、中道に従い、双眸を開きたい。

 修羅は、八正道だけを携えて、仏門を叩いた。
 当時、彼は無学故に、とても心細かった。
 しかし、寺の住職が初転法輪を説いた時、
 彼は胸中にて、涙を流していた。無畏施を施されたからだ。
「お坊さん、俺は無学で、道理に暗い」
「いいや、明るいさ」
 住職は説く。信仰は如来からの賜りものだと。

 無学文盲の民の為に説かれた教えが、末法の始まったその日から、
 自灯明法灯明が説かれて、釈尊が姿を消した日から、
 いつしか、学問の体系に成る事を使命づけられて、
 無学文盲の、それこそ、救われるべき民草にとって、
 遠く、近寄り難い、求め難い法則に変えられてしまった。

 トルストイ、貴方の御心が、少しだけ解った気がします。
 時の帝政ロシアに於いて、貴方が世界中の賢者達と文通をして、
 追い求めていた答えとは、教会と国家の針路、その中道だった。
 故に、貴方は徹底的な非暴力と報復の放棄を説いて、
 一切の財産を人々の為に手放し、凍え死んだのですね。

 唯物主義を哀れに思う私が、唯物的相対評価に依存している貴方達の、
 眼で見える物差しで測る程度の優劣に縋り、一喜一憂をして、
 増上慢に陥ったり、虚栄心を抱える姿を、哀れに思うのは必然である。

 君にとっての仏法が、他者を見下す為、或いは優越感を得る為の術なら、
 気づいた私が、君の精進の為に、その場を離れる事は、想像に難くない。
 君は賢い。だが、自らに疎く、道理に暗い。何故だか解るかい。
 他者を見る眼は血走り、内省の双眸は閉ざしているからだ。
 しかし、君の気持ちは、その心境は私にも痛いほど解る。
 かつての私も、自らの艱難辛苦と向き合う為に、他責の念を持ち、
 誤った想念を以てして、仏法を求めた時があったからだ。
 だからこそ、私は神仏に諭され、道を正して頂いた。幸いである。
 では、君の道を正してくれる者は、唯物主義者か、利己主義の信徒か。
 私は、今でも君を大切に想う。故に、君の成長を心から願う。
 以前、君の誕生日の夜、君の頬に手を添えて話した。
「君を人間として愛している、君の、本当の幸せを願う」
 私は残忍な男かも知れない。けれど、血は流れている、善心はある。
 君が、人として成長する姿を、またどこかで見かけたい。

 私が使命を裏切る事はあっても、使命が私を裏切る事は無い。
 ならば、私が使命を裏切る事など、可能であろうか。

 貴方と二人きりで、猫の国へと招かれて、
 私達が臨めた、浄土の姿に涙した。
 一切皆苦の約束が施された、この世に於いて、何故、
 二人の出逢い、二人の日々、二人の心が、
 これほどにも温かい仏国土を創造したのだろう。
 神性仏性、共に各々、人の心に在り。
 きっと奇跡で、きっと必然なのだろう。

 封建制度の名残りが強い沖縄で、柔軟に生きる術は、
 建前上の屈服は惜しまず、だが、心服はしない事だ。
 狭い村社会で生まれる子が、遺伝的な病を持つ様に、
 狭い視野で生きた人々の心は全盲で、聴力は損なわれ、
 神道、仏法、儒教の教えは、既に形骸化している。

 いいえ、私が傷を負った事は、ただの一度だってありません。
 もしも、私が「はい」と応じたならば、世界は哀しくなります。
 大勢の咎人を作ってしまい、私怨に満ちて、憎悪が燃される。
 解りますか、赦し耐え忍ぶ事は、自他への滅私なのです。
 私がいない所に、私の怒りが生じる事は無いのです。

 赦す事を、自らの意見を否定する事と解釈する人々もいます。
「全てを赦したら、自分の意見を失う」と煽る人々もいます。
 では、問いかけましょう。貴方達は人を赦した事はありますか。
 火災の方便を話しましょう。燃え盛る炎の出所は、貴方達の心です。
 赦せないから、赦したら自分を失うから、と道理の分別を付けずに、
 怒りに執着して炎をより大きく、被害を広めた末を想像しなさい。
 燃え尽きる物とは、貴方達の安穏、平常心、日常、知性、
 そして何より、貴方達の無数の隣人なのですから。
 考えてみなさい、火災を放置する事で「全てを失う」のは、
 一体、誰なのでしょうか。それが自由な意見なのでしょうか。
 それが、誠実に自らの意見に従う姿なのでしょうか。
 私には甚だ疑問です。
 怒りを野放しにする事は、野火の傍で眠りこける事に等しい。
 気が付けば炎に退路を断たれ、周囲から孤立し、自らが苦しい。
 解決の術は何であったか、今一度問いかけましょうか。
 赦す心は、何も相手に全てを譲る言動ではありません。
 赦しとは、能動的かつ積極的な、空思想に身を委ねる一歩。
 貴方達は己可愛さに、赦しを敗北であると履き違えたのだ。

 赦す努め、筆を執る努め、内省の努め、どれを取っても、
 続けるほどに、精進するほどに、成果を得るほどに、
 周囲の人々からの嫉妬を受けて、道を塞がれるけれど、
 邪魔をされた事は一度も無い。相手にしていないからだ。
 師は私に三度、次の様に諭した。
「人を相手にするな、天を相手にしろ」
 常に教えを思い出し、また、師と出逢えた幸いに感謝する。
 私に主題、課題、難題を与えてくれる、蒙昧の人々にも同様に。
 解るかい、全てが師なんだ。
「家族、恋人、友人、知人、隣人、怨敵に差異は無い」
 全てがチベット密教に於ける菩薩行で、等しいと定義される。
 君も、きっと長い人生を生きて行く上で、様々な壁にぶつかるだろう。
 この人は優しい、この人は嫌い、この人は、この人は……。
 難しい事を言うかも知れない。私は、君と出逢えて嬉しかった。
 互いに喜び、互いに傷つけ合い、相互に学び、互いに今、仏縁がある。
 恵果阿闍梨と弘法大師空海は、師と弟子でありながら、
 互いに教えを施し合った、互いに学び合ったと云う。
 いや、何も難しい話ではなかった。
 私達人間が出逢い、関わり、言葉を交わし、紡ぐ時間とは、
 それほどに、貴いものである事を、この朝に想っただけである。

 木漏れ日の下に辿り着いた修羅は、利己の為ではなく、
 この木々の在り方を守る為に、妄執的正義を持ち込んだ。
 しかし、それでは憩いを欲する人々が、傷を負うだろう。
 気づいた修羅は、自らの不義を知り、義に従って森林を後にした。
 ウルヴェラの魔王パピアス・マラーだけが、寂しがった。

 善人に成る事を恐れなくたって良い。
 善性を志して、たとえ善に至れなくたって、
 自らの悪性に甘んじる事の無い姿は、
 人間の持ち得る神性仏性の、儘の姿だから。

 他責に走れば、人に石を投げる事も躊躇できない。
 咎を追えば、断罪の為に武器を取る事も、迷えない。
 哀しい事はやめにしよう。
 道から礫を取り除いて、街道を造り、
 武器を手放した手で、他者を受け入れる事ができたら、
 人は道に迷わないだろうし、帰る場所も失わない。

 修羅は、赤い袈裟を纏い、編み笠を被り、旅に出た。
 赦す為に何もかもを手放して、唯物の悪縁を断り、
 阿弥陀の浄土に至る為、唯心の手枷足枷を外して、
「阿弥陀様、私は東の道、最も遠い道から参ります」
 修羅の行く所、錫杖の音が鳴り響く。
 菩提心から生じる使命の儘に、道は連なる、南無阿弥陀仏。

「静寂の儘に、この哀しみを後にしよう」
「人を傷つけてまで、お別れを飾る必要は無い」
 私は常に、その信条に従っていました。
 何も述べずに立ち去る私の背中に、大勢が石を投げました。
 解りますか、彼らが求めていたのは、私ではない。
 私がいる事によって満たした、利己を可愛がったのです。
 ですから、私は、静かに仏法を求める人が好きです。
 夜は焚火を囲い、昼は縁側にて語り、探究をする君が好きです。
 君が求める学びの為に、私がどれほど尽力できるか、
 それは約束できませんが、同時に、私も学ばせてほしい。
 かつて、私は君の心を、深く傷つけてしまった。
 私も無明の心を閉ざして、全てに怒り狂っていた。
 この二人が、三年の月日を経て、再会を果たして、
 仏縁の中に生きている事を、心底より尊ぶ。
 私は原始仏教、上座部を通り、大乗に帰依した。
 君は、自身で菩提心を持ち、道を踏破して、努めている。
 通る道は異なり、目指す頂がひとつならば、
 私は僧として、君は学者として、努め尽くし、朗らかにいよう。

 人を咎めそうな時は、戒めて、八正道に従った。
 私が、私の信条の根底を成す八正道を裏切る時は、
「私に光を与えてください、その為に罰してください」
 斯様に、稚拙な祈りの最中、涙した。
 けれど、癒えない傷を、立ち直れないほどの苦しみを、
 神仏に乞うと、何故か、想念は楽になった。

 失望と悪意、絶望と追い打ちの連なり、その事象の連続であった人生。
 私は、今日までを生きた私自身を、認めてあげたい。
 負けざる者であったとか、不屈であったとか、斯様な讃美は大袈裟で、
 私にはただ、耐え難い日々の連続が、今日までの全てでした。
 人の喜びの為に努めた事も、利己主義の為に溺れた事も、
 善意の種を蒔いた事も、悪魔と共に微笑んだ事だって、
 それは、ありました。私は、善人ではない自覚があります。
 大切な人達を裏切った事も、何度かありました。
 この私は、人から信頼されますが、しかし、同時に人を断罪しています。
 阿修羅道の定めに従って、妄執的正義に従って、闘いました。
 結果、私は多くの友達から離れました。
 傍に居続ける事で、互いに哀しみを分け合うよりも、良いのだ。
 そう自らに言い聞かせて、孤独という前提と向き合いました。
 世の人の、熱病の様に浮かれて燥ぐ姿を、僅かに羨ましく想った。
 ですが、私の内省に基づく平穏は、自ら静けさを生む以外に、術は無い。
 私は、両手で数え切れるほどの輝きを、有難い縁起を、
 大切にしようと思いました。それが私の度量なのです。
 多くを得る事よりも、小さく満たされる事を。
 多くに囲まれるよりも、隣人の手を握る事を。
 多くを失った人に、心ばかりの思いやりを持つ事を。
 そして、私自身が、成長を志す事を、大切にしたい。

詩集 内省に連なる信徒らに 五章

詩集 内省に連なる信徒らに 五章

  • 自由詩
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-10-16

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