詩集 内省に連なる信徒らに 四章

四章

 哀しい時に「哀しい」と言いたいが為に、一人になりたくて、
 嬉しい時に、言葉も無しに喜びたくて、一人になりたくて、
 苦しい時に、誰にも心配をかけない為に、
 哀しい笑顔を取り繕う必要が無い様に、
 私は一人街路を行き、苦楽には一切の差異が無い事を叫びたい。

 心温かな人達の、思いやりというものが、薄情な私に降り積もる。
 私の、残忍さを知らない人達が、この孤忠を信じてくれたら、
 私は彼らを傷つけたくない、心乱れ、哀しみが呼び掛けても。
 振り返れば一人の轍。
 前を向けば、道は無い。
 誰にも認めてもらいたくない、信念ばかりは清廉であれ。

 八識は世界に在るのではない、私自身だ。
 貴方が教えてくれたから、決して忘れない。

 一人、また一人、真暗な街に消えていくけれど、
 次第に笑顔が失せて、死者の様な面持ちになるけど、
 一人、内省の僧は、サンガの貴方と共に学び努めて、
 心乱れる時も、揺れ動かない時も、傍に在る。
 生きる麻酔を手放した、真情のままに生きたいから。

 開かれた襟元を見つめて「好き」と呟いた君。

 人生は奪われるものであり、抗えないものだが、
 今日という一日は確かにあり、抗えるものだ。

 貴方が指さした智慧を見ず、私は貴方の指先を見ていた。
「空と不空があるんだよ」
 その教えの意味を理解するには、私は道理に疎く、
 しかし、教えてくれる貴方の愛を知るには、充分に時を過ごした。
 故に、私は、愚かと言われても構わないから、
 愛しい貴方と、同じ方向、同じ仏道を見ていたい。

「善いかな、善いかな」
 私達は誓願を果たして、幾度と生まれ変わり、
 ある時は良き友として、ある時は宿敵として、
 またある時は、最愛の人として共に在る。
 御縁は現れである。唯物を遠く離れた考えが、
 何故、私達を賛美しない事があるだろうか。
 同じ物は見えない、ただ同じ階段を上がるのだ。

 使命は感じる物ではない、殉じる定めの名前だ。

 この地上に人が生きていると思うだけで救われる。

 貴方達の理想を、貴方達の手で成し遂げてください。
 それも、人生と自らの労苦を賭した形で。
 志を果たした時、貴方達の理想は誰にも奪われません。
 決して、他者に背負わせてはなりません。
 異なる志に動く世の人を、裏切り者と呼んではなりません。
 私は主題に取り組みますが、その主は私自身、
 我が船の船頭は、私以外に存在し得ないのです。
 貴方達の主題を、私がペン先を執り代弁しない事に等しく、
 私は、自他の壁を知りながら生きられる、信徒です。
 唯識世界に生きる故に、その壁を壊す意図は芽生えません。
 貴方達が、もしも心底から誠実に仲間を想うならば、
 同胞の手によって、救い、救われてください。
 自浄作用と自助精神を尊ぶ私にとって、中道とは、
 八正道を物差しに、日々の暮らしを通して、自らを省みる事です。
 荒原に井戸を掘り、人々にも神様にも、認められない事が幸いです。

 善意は素晴らしい賜り物であり、同時に、孤忠の付添人です。
 自身を知る者は他に無く、自らを変革できる者も他に無い。
 道を行けば吹きすさぶ風、どこまでも続く野路山路。
 私は、短絡的思考の下に、善意に執着してはならず、
 報われない形で、ひたむきに労苦を重ねる太陽の人に成ろう。
 太陽が、あいつは気に入らないだとか、こいつは好きだとか、
 利己心に基づいて、地上に日光を偏らせる事が無い様に、
 私達も善意の信奉者になる前に、常しえに続く孤独を学び、
 人間一人を救う苦しみが、昨日今日の話ではない事実を、
 山川草木の在り方から、見倣い、俯瞰し、汲み取らねばならない。
 自ら思い描いた夢が叶わない時、私達は盲目の心を持ち、
 胸中の声に耳を閉ざし、他者の意見ばかりに耳を貸すから、
 ほら、できる事から始めてごらんよ。良心の声を聴く事で、
 内省の素晴らしさが、自他共に潤す水源だと気づいたならば、
 何故、私達が内省を疎かにして、集団に個を失う事があるだろうか。

 もしも、幸せである事が人間性ならば、
 この青い星は二元論で構成された地獄だった事だろう。
 知能を持つ事だけが高潔を意味するなら、
 他者を欺く人こそが、この地上で最も尊いのだろう。
 苦しみをも認めて生きられるだけの明日が来るから、
 絶望する暇が来訪する前に、私は窓から飛び立つ。

 鳥にも、獣にも、コウモリにも、
 道理の有無が明確である様に、
 私達人間も、道理に明るく、
 また、嘘を用いて嘘に囲まれるより、
 貴い生き様を提示できる。
 その主体性を知らない人々には、
 人の道の、個人なりの善悪の指針が、
 疎く、脆く、或いは、欠損している。

 真暗闇に輝いた、痛み哀しみの数珠繋ぎの道だから、
 有難く、一歩ずつ大切に踏みしめた。
 いつの日か、最後の最期までも、必ず踏破するだろう。
 如来から授かった信じる心を、人に奪われる事は無い。
 私は、恒河沙の尽きるまでの孤忠を友として、愛するよ。
 生きた時間は因果の過程であり、経験は川底の礫だ。
 実学とは礫から取り出す砂金の粒であり、生きた教書である。
 教書を活かすか燃すか、選択は常に繰り返されて、
 私達は、永の学びに努める学徒であるのだから、
 師を選ぶ権利だってある。私にとって仏門が師である様に。
 人を救う意志だってそう、数珠繋ぎで、前後に差異は無い。
 今の瞬間だけを懸命に学び、果報として他者の力となり、
 いつの日か、旅の聖の一切皆苦、その境地に達したならば、きっと、
 自らが被った、痛み哀しみの繰り返し、一途な道に殉じて、
 如来から授かった信心に、光が増す形で、報いる事も叶うだろう。

 フリゲート帆船に憧れた少年が作るボトルシップ。
 君なら叶えられる、君のために志があるのだから。
 潮騒の窓辺、暮れ方の真っ赤な空、二人きりの部屋。
 君が海原にいざ旅立つ時、私は一等航海士になる。
 夜を徹して航路を導き出し、利己の心を棄てるため。

 讃美の声の届かない場所に佇む地蔵菩薩像。
 地獄は、至る所にありますから、
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
 閻魔と御地蔵様の大悲が行き届かぬ場所など、ある筈が無く、
 私はただ、如来様から授けられた信心を思い起こして、
 暮らしの中に祈り、常しえに学ぶ、それだけで善かった。

 虚言癖を背負って生きる事は、君にとって苦楽であり、
 虚栄心で着飾る事は、君にとって幸福の一条件である。

 歪な関係であった友達に、お別れを告げる時、
 哀しみよりも、互いの成長を祈る心でいっぱいだった。
 私が、私達が、貴方達を憎しむ所以など無いから、
 せめて、道行く先々に実りの多い事を願う。
 それが、内省に基づく実直な一歩の積み重ねであれば、
 最早、人としてこれ以上の果報は無い。
 自らを問いただす、私は彼らの為に、何ができただろう。
 いいや、一切には唯物的、唯心的価値しか付属しない。
 私は、生きる為の精神的麻酔の役割を担うなど御免だから、
 せめて、痛烈な想いで「目を覚ませ」と苦言を呈する。
 結果、人々から嫌われるか、憎まれるか、そこは本質ではない。
 私は、媚びを売る暮らしを、暮らしとは呼ばないからだ。
 八方美人も処世術なのだろうか、否、それは自傷行為。
 コウモリの寓話に証明されている通り、惨めな最後が待つ。
 人は、志と思想と、信念と信条に従わねば、人間に成れない。
 生涯十数年、二十数年、三十年……。私達に時間は無い。
 修羅から人間へ、人間から菩薩へ、坂道を登る。
 私の背中は誰も追わない。誰かが石を投げても、変わらない。

 真綿で首を締める様に、悪魔が、私から信仰を奪おうとした。
 仏様の声が聴こえた、自らに疑問を投げかける形で。
「この男とは別れるべきだ、正しい僧を迎えに行こう」
 私は、信仰無き無学文盲の信徒を棄て、自身の道を正した。
 世界を置き去り、二人きり。愛を取り戻す、夜半のラブコール。

 生きる為の力、自浄作用、自助努力の精神を育てず、
 無暗に庇い、内包して、甘やかし、処理を他者に任せる事は、
 弱った人々を、さらにアヘン依存に陥らせる様な行いだ。
 仲間という一語は、本来重いものだ。
 同胞として思いやるなら、利己を棄て自らを律し、
 その姿を提示しなくてはならない。

 都合の良い人が、君にとっての優しい人ならば、
 夜の街に沈む人々を、慰み物にする人々は、
 君の眼には、善人の集いに、見えただろうか。
 唯心さえも棄てられ、唯物の夜に肉体を貪られ、
 互いの顔さえも、名前さえも覚えない関係が、
 君の云う愛の姿ならば、私は孤忠の光に生きよう。

 長年の付き合いだった友達が、もしも私を裏切るならば、
 何故、私が怒りや憎悪を抱える事があるでしょうか。
 近づくも離れるも、御縁の現れであるのですから、
 私が、神仏の計らいに異議を唱える事は、無いのです。
 希う、友がこれから出会う新しい友達を、裏切らない事を。
 それが、全てです。

 人を好きになる心が氷砂糖。
 喜びの蒸留酒に身を投ぐ、解け落ちて、濁らず、
 貴方の声音を、全て封じ込めて、
 愛の囁きに、変えちまおうか、変えちまったな。
 青白い夜明けの空の下、私は人を好きでいる。
 好きで満ちた地の上に、歩いている。

 真夜中から朝に至るまでが、混迷の時間だから、
 秒針を少し早く進めて、明け方の涼しい空気を呼ぶ。
 磯の風に町は染められて、正午は息苦しくても、
 秒針よ、ゆっくりと動いて、私の学ぶ時間だから。
 四季の足取りを追いかけて、私は少しずつ歳を重ねる。
 讃美の歌が聴こえたら、口遊もう。

 いつまでも、随筆の心構えで生きていたい。
 全ての事象を俯瞰して、心も静かなままで、
 常しえの内省に努める、この世は一切皆苦の数珠繋ぎ。
 自灯明、法灯明、素晴らしい言動は瑠璃の輝き。
 嘘の無い人々は浄土に招かれて、学んでいる。
 その姿を賛美しながら、泥に塗れた修羅は、微笑んでいる。

 謙虚の一語は装飾品ではない、言動の在り方だ。

 山川草木に見守られて、今なお面影を残す遺跡の島に、
 かつての栄華は朽ちていく、それでも想いと形は鮮明に、
 愛する二人の暮らしが、温かな未来が紡がれている。
 私達はここから始まった。二人きりの境地から始まった。
 色も鮮やかに花畑が、思い出を包んで守ってくれている。

 人間が神仏を認識する、最も簡単な術は、
 自身と接してくれる人々の、一人一人に神仏を見出す事だ。
 不変の事実に気付いた修羅は、仏性を尊び、
 自ら青い泥の世界に留まり、妄執的正義を手放した。

 水底に佇む貴方の隣に立つ為に、
 私が水面に飛び込めば、
 映る姿に、中道の一語が書き込まれて、
 貴方の手を引く。貴方と浮かぶ。
 二人で浮かび上がり、時には浜に上がろう。
「泳ぎつかれた訳でもなく、君が好き」
 貴方が私の肩に身を預けて、
 ぎこちなく、強く、抱いてあげた。晩春の事だった。

 荘厳な教会で歌われる讃美歌よりも、
 貧しい農村にて、一日を通して子守歌を唄う、
 母の姿、その眼差しに神様が宿っている。
 全ての綺麗事を裏返し、痛み苦しみを背負い、
 母が子を、父が子を、愛する姿というものは、
 一切、教義として記される事の無い、実学である。

 私がここにいる理由は、母よ、貴女が愛してくれたから。

 幼少の頃の記憶は、全て悪い夢と考えていました。
 私にも、大なり小なり、貴女を拒む心が、あったのでしょう。
 しかし、今になって、貴女の労苦に共感できる様になると、
 母よ、その小さな背中で、多くを背負ってくれましたね。
 庇護の下、恐れも知らず、私は幸せ者でした。

 唯物論に於ける裏切りとは、利己主義に基づく怒りであり、
 唯心論に於いては、主観に基づく倫理の葛藤である。
 しかし、唯識論に於いて裏切りとは、裏切りとは……。
 事象は八識を通した、現れの形である以上、是も非も無い。
 唯識の浅瀬から、大きな船を見上げている、希望が高鳴る。

 恋が貴方を縛り付けて、愛が貴方を貫いた。

 私は貴方を愛する為に、時間を分け与えた。
 貴方は私を愛する為に、時間を分け与えてくれた。
 必然、二人の時間は早く流れた、初秋の夜半。

 貴方と二人で木陰に憩う。
 けれど、木漏れ日に甘んじては、花が見えない。
 陽の下に出て、見上げれば、
 真っ赤に咲いた鳳凰木、散っても赤い鳳凰木。
 青い空に飛び立つ、心は天へ、花弁は路面へ。
 私の胸に楔を打った、執着が離れて、
 貴方の手を取り、安堵する、ここにいる。

 人を好きになる覚悟の次に必要な決心は、
 お別れを認める事だと思い至る。
 永遠を約束する、その心は、生きる麻酔を回し打ちする姿だ。
 故に私は、相手の幸いを願い、自浄作用で前へ進む。
 道に、花が咲いていなくても、自ら種を蒔こう。
 たとえ、未来に花咲く街路を眺める、その機会が無くとも。

 氷砂糖を解かす様な恋でした。
 最後は噛み砕いてしまえ、と思ったけれど、
 愛しさ故に、躊躇している間に、
 すっかり、全て溶けてしまったのです。
 好きになるほど離れがたい愛でした。
 最後は、最後を予想して、
 できる限り、貴方を大切にしたかった。
 受話器と心を抑えて、一人で強がりながら。

 貴方に愛された心で貴方を愛し、
 真情から、貴方を抱きとめる。
 人の云う道も、道なき道も、道ならざる道も、
 私達が、視線を重ね愛し合う宿命に、抗えなかった証。
 孤独でさえも、肩を並べたら二人きり。
 私の胸に、貴方は顔をうずめて照れ隠し。
 焦がれて欲する、夜伽の声音を、聖者の笑顔を。

 私は西から、君は東から。
 仏の教えを尊ぶ私達が、同じ身の上を持つ私達が、
 何故この世界で出逢い愛し合えたかなど、
 問うより先に、手を握って連れて行きたい。
 白い猫が出迎える海辺に、星を仰いだ街路に、
 人の中に在り、人と共に生きて、泣きながらも喜び、
 私は生きていたい、どこまでも。

 惚れた相手に好きだと告げる事が、落ちた人間の権利。
 恋慕よ積もれ、私の肩に、足元に。
 一歩も動けないほどに、私を留まらせて、
 いつの日か、身も心も燃した形で、
 真っ赤な灯と呼ぶにはあまりにも滑稽で、けれど、
 貴方が喜ぶ顔が見たい。貴方の胸中を熱して、
 私の生きた証よ、僅かに残れ。

 貴方と二人してリヴァプールの歌に聴き入る。
 こんな夜は決して離れられない、離れてはならない。
 私達の見つめる先に、宵の明星が光っている。
 夜更かしをして、明けの明星をも見上げたい。
 斯様な心境で、貴方を抱いている。

 貴方の腕に抱き着く様な、腕時計に嫉妬した。
 私が腕時計を贈れば良い。貴方、私に染まれ。
 つまらない人間だった私を、恋が調子を狂わせた。
 君が為に贈り物、バレンタインにクリスマス。
 私は全ては知らないけど、貴方の事は知っている。
 五年の歳月を経て重ねた、愛と称する軌跡だから。

 母は、父は、兄弟は、姉妹は、
 恋人は、友達は、隣人は、怨敵は、
 師は、僧は、郷土は、歌は、言葉は、
 喜びは、哀しみは、怒りは、内省は、
 全てが私の光、光そのものです。

 天国へのエレベーター、浄土へのバス。
 私もいつか、降りないといけない。
 哀しい事じゃない、生きるってそういう事。
 寂しいと思える心は、幸せになれた証拠。
 腕時計を見る。あと数分。
 貴方に告げて、二人でお祈りをして、
 私はステップを下りた。愛に生きた、生涯を胸に。

 喜びを、秋の訪ねと共に知らされて、
 神無月を、風に、空の高さに気付かされる。
 主達は、人の姿を借りて旅をする。
 里人の会釈に、無言で祈りながら努める。
 稲穂の輝きは、人の手に抱かれて、
 我が望郷の念も野に駆ける。
 内省の信徒よ、今は歩け、
 応じる声と不屈への称賛、身に受けて。

 弥生に出逢い如月に出逢う。

 人の憎悪を複写せず、神仏の教義に倣う。

 眼が見えない時には音を聞き、耳が聴こえない時には光を尋ねた。
 見る事も、聴く事も叶わない時には、小さな神様が傍にいた。
「神の在り処を指す為に」
 手と足、眼と耳、その全てが自由に使える時、神様は、
 人間の中に神の国を作り、人々を救う足掛かりにしてくれた。

 悪魔はいつだって尤もらしい諦め方を促し、
 君から成長の機会を奪い、苦しみを長引かせ、
 人と神とを相対する極論を用いて、堕落を強いる。
 私は君に、財施、法施、無畏施を行った。
 君の成長に繋がると信じ、三年以上の月日を賭した。
 君の胸に問いかけてみてくれ。
 悪魔は君の心を、救ったかい。

 私は人を赦せたのではない。
 赦す為の努めに迷いが無く、邁進し続けたに過ぎない。
 かつて、君にも話したね。私は修羅道の凡夫だ。
 妄執的正義と視野の狭い倫理に囚われ怒り狂い、
 永遠に争い続ける、哀しい存在だ。
 だからこそ、人間に成りたかった。
 私は全てを赦す努めに、艱難辛苦を捧げた。

 ウルヴェラの森林にて、魔王が差し出す麻酔を手に取らずとも、
 野に暮らし、里に暮らし、街に暮らし、人々と共に生きて、
 痛みから怒りへ、哀しみから憐憫へ、迷いながらでも、
 光から導きへ、道を選び傷を負う権利が、私達にはあるのだ。
 それは、帝釈天でさえもが善哉と賛美する、実学である。

 約束を守らない道理が立つならば、約束をしないほうが良い。
 人々の眼に、友人の眼に、貴方が嘘つきとして映らない為に。
 失望と内省の中で、私は人を嘘つき呼ばわりしたくなかった。
 故に、始めから無かった事にした。建前の誠意と、その嘘を。

 赦さない事で君が自由になれるなら、常しえに怒りを抱えなさい。
 私は、阿修羅道の生まれである自覚があった為に、
 一切を赦す定めを帯びて、結果、人間よりも心は自由なのだ。
 君、自由を知っているかい。対義語の中に隠れた、神仏の教えさ。
 少なくとも悪魔からは教われない、不変性の事実だ。

 フラッシュバックの様に光を当てて、
 使用済みのフィルムが増えて、
 写真の枚数を忘れて、積み重なる度に、
 私は、真情が磨り減る思いでいる。
 人を愛する事で、全てが終わります様に。
 私の心の外に一切の物や苦しみが無く、
 胸中にこそ投影し実在する事実を、
 祈りながら俯瞰できます様に。

 試練を恐れる事の無い様に、光の乏しい道を行き、
 自らの信条を傍に置く為に、明るい道を二人で行く。
 今は全てに有難う。哀しい時も有難う。
 私が生きている事実は、独りでは成り立たなかった。
 近づく縁、遠ざかる縁、例外無く皆が素敵だから、
 私は今日も、人と出会い、尊び学び、生きるのだ。

 小さな部屋に、人間と、飢えた鬼と、修羅がいた。
 鬼の姿に、人間は気づかない。
 鬼の心や言動に、修羅は気づいても、挨拶を交わす。
 憎しむ理由は無く、憎しまない事が最善の行いであり、
 何より、心から提示できる、共存の意志だった。
 鏡写しの憎悪に苦しむ鬼よ、かつての友よ。また逢おう。

 貴方の苦しみの所以が、外部に在るならば、
 友人や親しい仲間の手を借りる事で、成長の機会を失うだろう。
 貴方の苦しみの所以が、胸中に在るならば、
 他者の声や想念が届いても、その孤独と向き合わねばならない。
 怖いかい。私にとっては慣れた道なんだ。
 いつだって、私はこの道を通ってきた。

 唯物論者の願いは、全てが物質であるという共通項を作る事だが、
 唯物の為に、自他の身体は物扱い、心でさえも物扱い。
 応報として唯物の信徒は、刹那と利己の渦中に在った。
 救いを欲する必要は無い筈だ。全てが一時の物ならば。
 助かりたい、その一念の為に、善意が今日も血を流す。
 しかし、嘆く事も、恐れる事も無かった。
 一切が刹那と利己の為だけに在るならば、
 誰がこの論を受け入れて、その上で共存の意志を提示しただろう。
 私達は、真に赦し難く、受け入れ難い生類であると同時に、
 これほどに愛おしく、尊く、温かな存在でもある事を、
 疑うまでも無く、連綿と、嘘を言えない良心を手渡しに生きて来た。
 唯物から生じる、諦めや恐怖や、逃避でさえをも、
 誰かの眼には、慈悲を捧ぐべき対象に映る。
 善いかな、善いかな。
 私達は、諦める為にも、怯える為にも、逃げる為にもできていない。
 津々と生気は漲り、懇々と愛は分け与えられて、
 生かし、生かされている、その大悲の姿は、唯物を超えて。

 二人で天使の様な白猫に出逢った。

 輝きに満たされて、ありがたいと想える光がありましたか。
 私達を照らす光はいつだって、真っ暗闇の中に見つけていた。
 生きる苦しみと喜びに、ひとつでも違いがありましたか。
 生きる苦しみと喜びの、違いをひとつでも言えますか。

 憎しむ者だけが、臆病者だった。
 憎悪は利己故に燃す、最も容易い想念であり、
 他者を怨んだ自身を擁護する為だけに、
 傷に傷を重ねる様に、咎に咎を重ねて、
 最早自らの乏しい勇気だけでは立ち止まれない。
 だが、愛ある者は云う。
 慈しむ心があれば、臆病者を愛さぬ道理は無い、その努めだけを。

 生きる為の麻酔が切れた時こそが、生きている時間だとしたら、
 麻酔の為に生きていた人々は、生まれたばかりの赤子だろうか。
 志ひとつで立ち上がり、真暗闇を照らし進む人々が、
 誠実に生きる聖者であれば、この世は光に満ちただろうか。
 どちらにせよ、瞼を閉ざせば同じ。双眸を開き、歩きたい。

 回教徒と基督教徒は、兄弟の様に互いに敬意を以ていた。
 それは、彼らの神だって同じ事だった。
 自らを愛する様に、他者を、手の届く範囲までを愛した。
「誰もが正義を愛するが、家には持ち込みたがらない」
 道理紛いの弱さが、人の心に棲みついて、疑いを生じさせ、
 いつしか、ダビデ王が定義した賛美の言葉も、形骸化した。
 暗所の鬼が、人々の心を騒めかせ、それでも、
 人間の良心に怯える鬼も、本当は神に仕えたい。
 しかし、地獄に落ちない筈が無い、と自らを諦めて、
 いつまでも悪意に甘んじる自分に、鬼は慟哭した。
 鬼を、人が赦さなくとも、主が赦さない事があるだろうか。
 勇ましい鉄の音、様々な旗の下、街道が塞がれても、
 何故に、神の教えが妨げられる事があるだろう。
 菩提心に飛び出した、何もかもを捨て去った、一人の僧が、
 皆から迫害を受けて、東へ、東へと、只管に突き進んだ。
「阿弥陀様に至りつく、最も遠い道から向かいます」
 その苦難を、彼が、彼の弟子が、恐れる事は無かった。
 御仏の教えは妨げられても、その使命は奪えない。
 彼は、何ひとつとして、悪を見出さない、悪と呼ばない。
 地に根差し雨を浴び陽を受けて、恐れず進め、君が為に。

 例えば、私は仏教に於ける六道のひとつ、修羅に当て嵌まる。
 人を好きになり、愛し愛されても、それが幸せの最中に感じても、
 自らの妄執的正義に囚われて、自他を裁く怒りに駆られ、
 私は愛でさえ断罪する、艱難辛苦の信徒であった。
 同じ暮らし、同じ咎、同じ結末、しかし、人間を愛した。
 もしも、私と恋慕を募らせ、共に時間を過ごした人達が、
 哀しい終わりや、背負う痛みによって挫ける事があっても、
 それが終わりじゃないよ、と彼らの成長を心底より願う。
 現に私の恋愛観と倫理観は、変化を重ね、形を変えた。
「君を愛する事はできる。君だけの私にならない形で」
 自惚れちゃいないさ。ただ、狭い世界に留まり、偏りの中で、
 間違った形で、相思相愛の生きる麻酔を与えるよりも、
 次の段階へ進む切欠を、互いに得られる方が、はるかに幸せだ。
 誠に相手を愛した結果、私は如何なる終わり方でも憎しまない。
 たとえ、君達が私を嫌って、憎悪を募らせても、
 それは、自己愛の中にいて他者を愛した積もりに陥る、哀しみだ。

 他者を裏切り者だと考える時、自身に問いかけろ。
 自らの発言と行いは、誠意に見合うほどに誠実であったか。
 人間は利己心を持つ、保身を考える、自己愛に耽る。
 それ故に、他者の言動が自身の欲求を満たすか、その物差しで、
 脆い心のまま、自他に対して鋭い刃を押し当てるからだ。

 いつまでも、いつまでも修羅のままでいたいと願う事もあった。
 今や、君が思い描く菩薩の在り方に、焦がれるばかりである。
 菩薩は、何も特別な世界に在る訳ではない。
 野に山に、里に町に、人の精神に、至る所に存在していて、
 不思議かな、私達は刮目しても、貴い仏性に気づき難いのだ。

 私が生まれる前に他界した家族へ。
 貴女の笑顔が、もう一度だけ見たい、と願いながら、
 私は、ここまで生き長らえてきました。
 貴女はきっと、もう夢に姿を現す事は無いでしょう。
 貴女と父母の、三名を取り囲んだ苦しみは、
 私程度の凡夫には、想像もつきません。ですが、
 貴女が私を、無償の愛で支えてくれた事実は、
 私に、最後の最期まで生きる様に促すだけの、
 必然的な意義があったと思えて、仕方がありません。
 知っての通り、私は学び、文章を書く事しかできません。
 人の痛み苦しみの、全てを慮る事はできず、利他に欠けます。
 しかし、人の幸いと成長を願う心はあります。
 姉さん、貴女が私に殉じる定め、その使命を提示した時、
 私が愚かだったなら、生きる道を拒み、道理に暗いままでした。
 姉さん、私が貴女に感謝する気持ちは、生きている他者に対して、
 敵も味方も存在し得ない、一切を有難く尊ぶ気持ちに等しい。
 神仏に誓願を立てます。貴女に誓います。
 私に耐え難いほどの苦しみを、癒えない傷を与えてください。
 私はこの傷と痛みを、主題と内省として捉えて、
 一死尽くす形で、その時まで、努め続ける事でしょう。
 私は、貴女の温情と、親を想う心と、死別から教わりました。
 人生の目的は、幸せに執着する事ではない。
 裏と表で背中合わせの、苦しみに入り浸り立ち止まる事でもない。
 一言が多くて、一文字が足りない。言葉にしたら嘘に変わる。
 幾度と生まれ変わった理由があるのなら、全てに意義が有り、
 幸か不幸かの二元論を遠く離れて、菩薩に至る道ならば、
 ただ歩き、倒れ、這い上がって、雨に打たれ陽に焼かれ、
 覚えている、人生を共にした人々の顔が、声音と、思い出が、
 私の内省の積み重ねが、綴った言葉が、残せないものこそが、
 本当に、人生の目的であったと、断言できるのですから。

 君は、人を赦せないという。嘘だろう。
 年月を賭して、生きる時間を捧げ、赦す努めに励んだ事が無いのだ。
 君も、君に助言を与える悪魔も、二人して人間を見下すのだから、
 君達は始めから、人間そのものを、赦す対象と考えていないのだ。
 気づきなさい、争いに身を投じたのは、君自身だ。
 私は、抱えた怒りや憎悪を「全て赦しなさい」と師より教わった。
 努めは、君の生きた年月の半分以上に及ぶ。
 君は、どうだい。僅か一年足らずの月日で、何が解る。何を赦せる。
 欲していたものは、君にとって都合の良い、人間の一側面だろう。
 私にとって家族、恋人、友人、恩人、知人、隣人、怨敵の全てに、
 必然に仏が宿っているのだから、赦す努めに挑む時点で、
 私自身が、過ちを犯した咎人である事は、言うまでも無い。
 しかし、私は君の成長意欲に敬意を抱いている。
 学ぶ事に貪欲な姿勢に、強い共感を抱いている。
 君は、自身の赦しと程遠い在り方に、諦念を抱くにはまだ早い。
 長い人生だ、きっと、そうだろう。ならば、心も育め。
 君の手で君の想念を豊かに保ち、言動に反映するべきなのだ。
 いや、いいさ、憎い私の言葉より、悪魔の言葉が聴きたいならば。
 しかし、断言できるよ。悪魔は人間から成長の機会を奪う。
 師を選ぶなら、優れた人、優れた教書に見出しなさい。
 私はできる限りの事を、限られた時間で教える事ができた。
 それが、君に対する私の真情、怒り無き安穏の精神の根拠だ。

 人々の人生が輝いて見える事が、嬉しくて、心は自由を垣間見た。

 人に他者を憎しむ勝手があるならば、
 私にも、赦す自由が内包されている。
 人の心に怒りを燃す題材があるならば、
 私は赦しを主題に取り組む権利がある。
 人の姿に慈悲が現れる時、私は、
 自らの利他が欠けた姿を、改めるのだ。

 自らの正義によって、私は幾度と自他を傷つけてきた。
 一度たりとも悔いた事は無い。信条を曲げた事も無い。
 敵意や怒り、憎悪の人々に囲まれても、孤独の中に闘志を燃した。
 敵対者を演じた君達の胸中に、より深い孤独が忍び寄る。
 私は内省の信徒である。唯識の信徒である。
 君達の指針無き世界に、道理に暗い宇宙に、私は踏み入らない。
 私の八識世界に、君達との御縁は廻り合わせても、
 唯物主義者である文盲の君達は、私の宇宙に踏み込めない。
 我々はこの孤独を法の一部に執り、インクを織り交ぜた。
 私を説き伏せたいなら、私を黙らせたいなら、
 私を怒らせたければ、私を傷つけたければ、
 如来から授かる信心の、揺るがない姿だけが残るだろうから、
 貴方達の心から、隣人の隣人までに、布施を行ってごらん。
 君達の震えは、最早他者から奪う事では治まらない。
 奪う事だけを是としてきた、唯物の信徒達に、
 生きる意味さえをも応答できず、反応に留める姿に、
 慈悲の一語の為だけに、随所六世界の菩薩が、
 私の代わりに三つの布施を行い、道を正し、時間を掛けてくれる。
 私は修羅と人間の間を、そして垣間見る菩薩の轍を、追いかける。

 妄執的正義、常しえの怒り、永続の争いに生きる身として、
 私は、十一面観音様に礼拝し、滾り落つ涙ながらに祈った。
「私を裁いてください、砕いてください、赦してください」
 もしも、あの観音様が背面の笑顔で私を嘲笑っても、
 何故、私が一死尽くせる信心を損なう事があるでしょうか。
 長谷寺にて、愛しい貴方と二人で、静かに見上げた際には、
 有り難い事です、観音様は声をかけて下さった。
 怒りを燃した罪、正義に囚われた罪、修羅界に留まる罪、
 そして、一切合切を赦したいと誓願を立てた姿を認めて下さった。
 その場に膝をついて、崩れてしまいそうだったが、
 失った仲間達、友達、愛しい人々の顔を思い出し、
「全てを赦そう」
 誓いは生きていた。私は生きていた。揺るがぬままに。
 もしも、失う事が苦しいならば、裏切られる事が苦しいならば、
 私が、心底より誠実に、彼らを愛していなかった証だ。
 想念のどこかで、自身の所有物の様に考えていた証拠だ。
 内省に内省を重ね、今日も文士は筆を手に取る、噛みつく様に。
「阿弥陀様、私も貴方様の浄土で学び努めたい」
 菩提心により仏門を叩き、野に街に、人々と共に在りながら。

 指先で、砂上に文字をそっと書く様に、
「心も不思議も、在るらしいよ」と浜に置き手紙。

 赦しの努めを知らない者のみが、生きる意味と人間性を、
 他責の念に依存する事で、人の世の正しさを曲解する。
 リアリズムに則って俯瞰したなら、孤独の所以が解るだろう。
 自責と内省に付き従い、自他の成長を関係と呼ぶならば、
 怒りと他責に縋る姿は、自他の成長を妨げる真の孤独だ。

 君を愛する人達を、今まで君が別れを告げて終わりにした様に、
 君も、愛した人から別れを告げられて、終わる人間であった。
 ただこれだけの事実を受け入れられない人間の持つ、
 精神構造上の自他の不均衡、その歪さに疑問を持たない事を、
 昨今の日本の恋愛と呼ぶならば、私は恋愛をしないだろう。

 自灯明法灯明の教えに連なる一人で在りたいと願い、
 自ら照らし、法に照らされ、生きていたいが、
 しかし、私も一人の凡夫である。つい狭い視野と低い視点で、
 今までに見えた、見渡せた事象を全てと考え、答えを急ぐ事は、
 私自身の、次の成長を妨げる、自惚れという大きな障壁なのだ。

 信じています。貴方達の用いる罵倒語や、悪意の仕打ちや、
 人の道から逸れた、裏通りでの行いの全てが、成長であると。
 人は使命に駆られ、成長へと漕ぎ出し、果敢に挑む時、
 決して手加減をしない。なればこそ、なればこそだ。
 貴方達の行いも、手加減をしていない筈だから、それは、
 成長の為に欠かせない、善行、内省、言動の繰り返しである筈だ。
 でなければ、可笑しいではないか。全力で、堕ちていく為だけに、
 人々が苦しみと迷いからではなく、好んで自身を棒に振り、
 三悪道に留まるなど、道理に合いませんから。

詩集 内省に連なる信徒らに 四章

詩集 内省に連なる信徒らに 四章

  • 自由詩
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-10-16

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