公開ピアノレッスン 井上二葉先生

公開ピアノレッスン 井上二葉先生

 9月22日、サロン・ド・サングリエで開かれた日本フォーレ協会主催の「第102回 フォーレ研究会」に参加した。今回は日本フォーレ協会顧問のピアニスト・井上二葉先生による公開ピアノレッスンということだったので、何を置いても参加しようと1週間前に申し込んだ。音大生でもない私が、二葉先生のピアノレッスンを聴講できる機会はそう滅多にあるものではない。しかし、私のような一クラシック音楽愛好家が公開レッスンに参加できるのだろうか。後先考えずに申し込んでしまったが些か心配になったが何てことはない、後々聞いてみたら現役ピアニストや声楽家、フォーレ及びクラシック音楽愛好家であれば、特に大きな規定はないという。

 レッスン当日、前日までぐずついていた天気は回復し、些か蒸し暑かったが、抜けるように晴れ渡った青空には綿菓子のような白い雲がプカプカと浮かんでいた。私のイメージするフォーレの色は空色であるから、今日はフォーレ日和だと思わず空にカメラを向けた。

 本郷三丁目駅にあるサロン・ド・サングリエには4時半を少し前に着いた。閉ざされたドア越しからフォーレの「夜想曲第6番 変ニ長調 作品63」が聴こえてきた。それから5分程して開場となり、受付で受講料を払い席に着いた。客席から見て左手の方にセッティングされた椅子に、本日の講師・井上二葉先生が座っていらした。この日の二葉先生は、大柄なプリントが施されたシルクの生地と思われるシックな色合いのブラウスに白いカーディガンを羽織り、黒のタイトスカートをお召になっていた。足元に目を移すと4月にお会いした時と同じピカピカ光る靴を履いていらした。
 8月15日に「NHKスペシャル〜少女たちの戦争〜」、22日に「おんがく交差点」と、思いもかけない立て続けのテレビ出演でお元気な姿を拝見していたのも手伝ってか、そんなに久しい感じはしなかったが、二葉先生を間近にするとやはり私の胸は熱くなった。一言ご挨拶を申し上げたかったが、公開レッスンが始まる前のバタバタしている最中に挨拶して良いものかと、気後れしたまま時間だけが過ぎてしまったが、その間に何人かの方が二葉先生に挨拶されていた。二葉先生は一人一人に微笑みながら会釈をされたが、少し離れたところにいる私にも気がつくと、穏やかな笑みを投げかけて下さった。

 この日の受講者は高橋知里さんと西原侑里さんのお二人。高橋さんが「夜想曲第6番 変ニ長調 作品63」、西原さんが「夜想曲第11番 嬰へ短調 作品104-1」をそれぞれ演奏。課題曲は2曲共、二葉先生が指定された曲である。ピアノレッスンの様子を音と楽譜がない状態で文字にすることは些か難しいが、フォーレを弾く上で大切なポイントとなる二葉先生の言葉を可能な限り書き記したいと思う。

 二葉先生は指導を始めるにあたって、楽譜は何を使っているのか二人に訊ねた。使用する楽譜によって、曲自体が全く異なったものになってしまうことを指摘された。これについては、レッスンの終わりの方だが、第三者の手により楽譜の細かな改ざんが行われていたこと等、実際の例を挙げて詳しく話して下さった。

 高橋さんが弾き終えると、二葉先生は椅子から立ち上がり指導を始めた。
 手先だけではなく腕で弾くと楽であることや、ニつ目の音で曲のテンポが決まること。左手が本当に難しいことや、テーマの流れに沿って弾くこと。短めになりがちな休符を大切にし、ペダルに頼らずに指のレガートで弾くこと。瞬間瞬間の音の響きを大切にすること。表面は淡々と弾きながらもテンポを守ること等、その都度演奏を止めながら指導された。ソステヌートペダルの使い方も細かく指導され、どの箇所で踏めば音が澱みなく流れるように響くかを説明された。曲自体が長いため開始から40分辺りで時間をチェックすると途中少し飛ばして、特に難しい箇所や念入りに指導しなければならない箇所をレッスンし、6時頃休憩となった。

 休憩時間を利用して、二葉先生はご自身が使用、所蔵していたフォーレの古い楽譜を手に取り、ピアノの前に歩み出た。
「今の楽譜とは違って真っ白じゃなく、雰囲気があって素敵でしょう」とおっしゃって、自らそれらをテーブルに並べた。二葉先生が使用している楽譜を間近で目にすること、手にすることができるとは思ってもいなかった私は狂喜した。フォーレの夜想曲の楽譜には右下にローマ字で二葉先生の署名が入っていた。

 10分の休憩の後、 西原さんが「夜想曲第11番 嬰へ短調 作品104-1」を弾き終えると、再び二葉先生の指導が始まった。
 二葉先生はこの曲は左手がものをいう曲であるとおっしゃった。左特有の節回し、味があるという意味で独特の曲であるということ。指先で音を出そうとせず、腕を使って弾けばふくよかな音が出るとおっしゃって自ら左腕を動かし、骨組みなどの説明を交えながらどのように動かせば良いかを見せて下さった。
 フォーレの専門家であり、長年フォーレの作品に取り組んでいらした二葉先生の指導は、素人の私から見ても成程と、頭の中の霧が晴れるように的確で説得力があった。良くも悪くも自分の中で作り上げてしまったフォーレの音楽、ピアノ演奏というものを変えることは容易ではない。それでも指摘された点を直そうと必死に取り組む高橋さんと西原さんの演奏は、同じ箇所を何度も弾き直しながら段々と変わっていった。
 技術的な面での壁はどうにか越えることはできるかもしれないが、最終的には曲をどこまで突き詰めて解釈できるか、演奏家はそこにかかっていると感じた。

 レッスンが終わり、まだ時間があるということで急遽質問コーナーが設けられた。先程、レッスンを終えたばかりの西原さんが、声楽の伴奏について質問された。二葉先生は歌の内容をしっかり理解することや子音を聴きながら弾くこと。和音感を良く出すことと答えられた。

 二葉先生のピアノリサイタルは必ずと言っていい程バッハの曲から始まるが、それはなぜかという質問には、パリへ留学した際、師事したラザール・レヴィ先生が一番難しい曲でピアノの練習をされていた。それがバッハのフーガであり、自分は暗譜のためにバッハを練習しているのだと答えられた。これは、安川加壽子先生の記念会の時にも話されていたことである。

 二葉先生の近況としては、11月に出演が予定されている演奏会でプーランクを弾くために練習を始め、その傍らラヴェルの書簡集を原書のフランス語で2冊のうち1冊を読み終えたという。書簡集を読むと、その作曲家の人柄等が良く分かり、ピアノを弾くにも大変プラスになるが、今の時代の人は残らないから残念(多分、電子メールのことである)とおっしゃった。
 一通りの質問が終わると、二葉先生は、「弾けるか分からないけど」とおっしゃりながらピアノに向かい、フォーレの、「前奏曲集 作品103」から2曲と、「夜想曲」1曲を弾いて下さった。二葉先生のピアノを間近で聴くのは昨年の10月以来、約1年振りであったから大変嬉しかった。

 今回初めて二葉先生の公開ピアノレッスンを受け、二葉先生の指導者としての姿を間近で拝見することができた。レッスンをする二葉先生の胸の中には、ラザール・レヴィ先生の教えが今も存在し続けていることがとても良く伝わってきた。この日のレッスン中にも二葉先生はピアノの横に立つと、タクトを取りながら「もっと歌え、もっと歌え」と、ご自分が指導を受けた時にされたように、ラザール・レヴィ先生の真似をなさって見せた。テレビのインタビューでも話されていたくらいであるから、パリ留学中は本当に大変な思いでフォーレを勉強なさったのだろうと察せられる。

 ピアノを弾かなくなって久しい私には、些か猫に小判という二葉先生の公開ピアノレッスンであったが、その中でも例えばなぜ二葉先生が3本ペダルのピアノでしか演奏したがらないのか等、そういった演奏法やエピソードをレッスンの端々で直に聞くことができたことは、二葉先生のピアニズムを知る上でも大変貴重な時間であった。

公開ピアノレッスン 井上二葉先生

2026年10月4日 書き下ろし
2026年10月10日 「note」掲載

公開ピアノレッスン 井上二葉先生

フォーレの専門家であるピアニスト・井上二葉先生の公開ピアノレッスン。長いキャリアの中で研究し尽くした二葉先生の言葉には説得力があった。空が晴れ渡るように広がってゆくフォーレの世界。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-10

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