霞ゆく夢の続きを(10)

霞ゆく夢の続きを(10)

(59)

 部屋のドアをばたんと閉めるや、
「ちきしょぉ~~い。この、この、この‥‥‥‥」
「え? なんすか」
「このハゲ散らかしジジイがあ!!」
 とつぜん箱村が大声をあげたので、ビックリしてしまった。癇癪玉が破裂した。もともと気分屋だが、最近の箱村はとくに着火点が低い。毎日、家で夫婦喧嘩が続いているのか。かなり虫の居所が悪そうだ。腹の虫が治まらないってかい? 🐜🐛🐝🐞‥‥‥‥ムシムシムシムシ
 空襲警報かよ。こんなとこで大男が腹いせに地団駄を踏んでもらったら困る。なんだ、なんだ、やめてくれよ、床が抜ける。地震になったら、どーすんだ。アパートの上階でそれやったら騒音トラブルになっちゃうよな。詰まらんことに駄々をこねて、アンタは子供なのか。
「ツルの一声で何でも決められると思ったら大間違いだ。空威張りしやがって。どっかで鼻を明かしてやる、このツルっぱげミニトランプがぁ! 大声で怒鳴りやがって」
“ツルの一声”と“ツルっぱげ”。う~ん、そこまでイライラしているのに、このタイミングで駄ジャレ言う? いや、たまたまだろうな。本人も気づいてなさそうだ。
「ツルの一声でもないですよね。なんかズラズラ並べてましたけど」
「ああ、ズラズラと受けないネタをな」
「ドナルド、怒鳴るどぉ‥‥ですか?」
「おい、お前もシャレかよ」
 おっ、やっぱりあれ、シャレだったんだ。
「箱村さんのシャレに反撃です。トランプも社長も十年後にはこの世にいないっしょ、抑えて抑えて」
「あの蛸ジジイがぁ。酢ダコにしちゃろか。 “ワシはいま大事な作業をしてるんだ!”とかなんとか、偉そうに墨を吐きつけくさって。平家ガニの甲羅みてぇな苦虫を噛み潰した顔すんな、ちゅーの」
「え? それってどういう顔なんですか?」
「生き物図鑑で調べてみろ、まったく何も知らん奴だなぁ」
「はあ」
「あの豚まん野郎、太って丸い体のくせに、いちいち角の立つ言い方すんな。お前みてぇな生きた化石が最新のIT機器つかって何ぞかできんのか。こ、この悪玉コレステロール団子虫(だんごむし)がぁ! お前はチビで丸い、ちびまる子かぁ? 小学生でも一筆書きできそうな単純な面しやがって。ミートボールにしちゃろか。お前の肉団子なんぞクソまずくて食えねぇな。コンピューターだか何だか知らんが、変な装置を一杯並べやがってよ。業者が揉み手で近づいてきて、おべんちゃら並べるもんだから気分をよくしたんだろうな、大枚はたいて全部買っちまいやがった。負担と効果がまったく見合ってないんだよ。この見栄っ張りの成金趣味がぁ。いったいどこにアクセスしてやがる。モニターに何を映し出してんだぁ、エロ画像かぁ? それともエロ動画なんかい。あれで最新のテクノロジーを駆使してるつもりなんだからねぇ。あんなの真似事だよ、猿真似ならぬ豚真似だ。駅のホームで傘をスイングして、ゴルフの練習した気になってるアホと同じよ。ただ遊び道具を並べてるだけじゃねぇか。玩具箱にでもしまっとけ。にわか仕込みで何やってやがる。やってることが奇抜だからいいってもんじゃねぇ。絵空事だ。塵も積もれば山となるってかぁ? 訳の分からん狂った言葉の塵を積もらして、いったいどうするつもりだ。お笑いぐさだぜぇ。何を旗揚げしようとしてんだか知んねぇが、過去の屈辱に一矢報いようとしたってダメの皮だ。アイツの握り拳なんてプヨプヨで、文壇だか出版業界だか何だか知らんが、怖くもなんとも思わんぜ。中身からっぽのペーパータイガーに噛みつかれたって痛くも痒くもないさ。くたばってゾンビになって蘇って、またくたばってゾンビになって蘇って‥‥‥いくら繰り返そうが一矢報いることなんてできねぇよ。お前が成功してきたのはバブル銭のおかげだ。バブルはとうの昔に去りにけり。あの頃はツキも金で買ってたんだよ。今は時代が違う。鬼も金棒を持たなきゃ、ただの鬼瓦だ。さぁ〜てねぇ、いったい今度はどういう商売をおっぱじめるつもりだ。終活と就活は同時にはできんのだぞ。あんたのプロジェクトが軌道に乗るのはいつのことでしょね。誤算につぐ誤算‥‥‥結局そんなもん永遠に来ねぇよ! 床の間に大昔の掛け軸を飾って、いまだに昭和前半に生きてるようじゃな。新機軸を打ち出したと悦に入ってるのは自分だけだ。周りはみんな“旧機軸、ポキッと折れる”とあざ笑っている。見てろ、どこかで必ず大ドジ踏むぜぇ。大火傷して、資金繰りが厳しくなって、あっさり幕引きってのがオチだ。どんな金持ちでもポカばかりじゃ、いずれ運転資金が尽きて終わりだよ。物笑いの種だな。トランプは大統領ビジネスで純資産が一兆円を超えたというが、それは悪人だからできたんだ。ふつうは良心の呵責があってあんなことはできねぇ。花菱は根が善人だから騙されて身ぐるみはがされるってのがオチさ。そのうち闇金がきっつ~い取り立てに来るんじゃねぇか? そうなりゃ成金趣味も打ち止めってこった。大言壮語の空威張りもお終いだ。負け犬ならぬマヌケ犬だな。ワッツハッハッハ~、こりゃおもろい、マヌケ犬ってか! おもろいのが浮かんできた。忘れんようにノートにメモしとかんといかんばい」
「もういい加減にしましょう。そんなこと言ってるから怒られるんですよ」
「何でえ、あん畜生。マヌケ犬のくせしてプリプリ怒りやがって。プチンと切れくさった。てめぇはプリンか!」
 はいはい、ぷっちんプリンね。毎度毎度、ごちそうさま。堰を切ったように喋り出す箱村。喋れば喋るるほど怒りに薪をくべ、はらわたが煮えくり返っているご様子だ。こういうのをきっとゴマメの歯ぎしりというんだろう。その怒った顔を手鏡で見てごらん、きっと恥ずかしくなって怒りが収まるから。
 短足花菱と長足箱村は歩調がまったく合わない。なるほどコンパスの長さがあれほど違えば当然だ。足並みが揃わなければ、歩み寄りがないのも無理ないか。S極とN極が引き寄せあい、ピタリと意気投合とはいかないようだ。S極かN極かはともかく、客観的に見れば二人はよく似ている。両者、善人で根っこは同じ。同極どうしだから、かえって反発し合うのかもしれないね。
 僕が雇われてから、二人だけで膝を交えて長時間話し合ってるシーンを一度も見たことがない。そのくせ相手がいないところで互いの悪口を言い合う。鵜の目鷹の目で互いの粗(あら)を探してはケチをつける。それを聞かされる立場の僕にとっては、あまり愉快なことではない。
 たまに面と向かって話しているかと思ったら衝突していて、デブとノッポの異種格闘技戦だ。沸点の低い者どうし、上を下への大騒ぎをやらかしている。まるで小中学生の修学旅行のような有り様で、悪口の枕投げに興じている。押し問答だから当然、折り合いはつかない。つばぜり合いのすえ喧嘩別れだ。彼らにはほどよい車間距離というものがないのだろうか。
 箱村も自分を水も滴るイイ男と称するなら、これまでの諍(いさか)いもさっさと水に流してしまえばいいものを。水に流すどころか、晴れているのに余計な口出しをして土砂降りにしてしまう。水も滴るイイ男というよりは、むしろとんだ雨男というべきだ。
 二人とも亀裂を修復する気持ちがまるでない。たかだか内輪揉めにすぎないのであるが、なぜか気になって仕方ない。まさかとは思うが、二人をチューニングする役目も僕の仕事のうちなのか? 僕に二人をつなぐ歩道橋になれって言うのか。冗談じゃない、無理難題を押しつけないでくれよ。二人とも勝手気ままに車道を横断して車に轢かれちまえ。
 仲裁は時の氏神ってか? とんでもない、いくら神様に奉られようが、板挟みになるのは嫌(や)なこった! 日和見主義も性に合わない。イソップ物語にでてくるコウモリのように、対立する獣と鳥どちらにも胡麻をすった結果、双方に嫌われ暗い洞窟に逆戻りすることになっても困る。もうここまできたら手の施しようがないでしょう。
 ただ救いは、二人で激しくチャンチャンバラバラしたと思っても数日経つとちゃんと騒動が収まっていることだ。互いにまったく遺恨が残っていない。忘れっぽいのかどうかは知らないが、あとから箱村にそのことを問えば「俺ってあのとき何を花菱と喧嘩してたっけな?」と逆に聞き返してくる始末だ。これには首をかしげたくなる。
 こうこう、こういうことだと説明すれば、「俺ってそんな下らないことで喧嘩したのか? 嘘やろう」と不思議がり、決まって最後には「まあいいよ、あんな低能デブと真剣勝負してもはじまらんからな」というセリフに落ち着く。
 花菱に至っては喧嘩したことすらすっかり忘れている。例によって薄らとぼけた答えが返ってくるのみだ。すったもんだの挙句がこれだから、いつも拍子抜けしてしまう。万端、こんな具合だから泥仕合がながらく尾を引くことはない。何事もなかったかのように丸く収まっている。不思議な距離感だ。二人の関係が、さしてわだかまりもなく辛うじて今も続いている所以である。
 思い起せば「喧嘩するほど仲がいい」との慣用句もある。なんでも遠慮せずに本音をぶつけ合えるということは、気心の知れた結びつきの証とも言えなくはないのである。
 昭和は長い。そして昭和には太平洋戦争も高度経済成長もある。昭和は激動の時代である。昭和生まれは未だに国民の七割を占めていると聞く。箱村も昭和生まれなのだろうが、同じ昭和生まれでも昭和のどこに位置するかでこうまで物の見方に隔たりがでてくるのだ。
 相変わらず箱村は怒りのマグマを噴出し続けている。あたり一面、火山帯だ。どうせ噴き出すのなら温泉にしてほしいんだけどな。箱村の悪口雑言は尽きることのない青天井、なので露天風呂だ。はぁ、いい湯だな。
( ˘ω˘ )♨ババンババンバン〜♨。
「弱い犬ほど吠えまくる、の典型だ。チンコロ野郎めが。くっちゃべるのに忙しくて大変? 皮肉を言いやがった。あんにゃろう、ふんぞり返りやがって。バク転でもしくされ。お前は裸の王様、太っちょドナルド・トランプだ。もう国際法破りたい放題、世界中が大迷惑。暴走運転なんかすんな、ちゃんと道路標識は守れちゅ〜の。アイツは自動運転車に乗せなきゃいけねぇ。雑誌の表紙で王冠をかぶったり、ローマ教皇に扮した自分の顔のはめ込み肖像画をネットに貼りつけたりして、さすがに悪評を買ってしばらく控えてたようだが、最近またやりだした。今度は病人を救うイエスキリストに見立てたAI生成作品をSNSに投稿したんだとよ。懲りない奴だ。いい気になるのもいい加減にせい。世界中が爆笑ネタにして腹をかかえてるぞ。花菱もアイツとおんなじ自分一番、自分大好き人間だ。お山の大将、無理が通れば道理が引っ込むとでも思ってんだ。花菱と俺とはどんだけ延ばしても交わらない平行線だよ。お互いパラレルワールドに住んでいる。俺らのこと、お神酒徳利だとよ。アイツも落語を聴くのかねぇ。今どきそんな言葉を使う奴なんているのか? やっぱ棺桶(かんおけ)ジジイだ。生まれた時代が違うんだよ、時代が。このビルといっしょだ、かなりガタがきてやんの。アイツがこぼしまくった物(もん)を誰が拭いてやってると思ってんだ。俺は雑巾か。ぶってぇ図体がパソコンの前に座り込みやがって。鎮座まします大仏様かぁ? 椅子が重みで潰れるんじゃねぇか。ジジイなんだから少しは痩せろ。アイツの食う物には全て、いちいち降圧剤を混ぜ込まんと、血管がブチ切れちまうんやなかとかぁ? 威張りくさりやがって、憎まれっ子世にはばかるジジイが。かつてフジテレビ天皇だった日枝久がまた再来してきたかと思ったぞ。豚まん野郎なら豚まんらしく、コンビニで売られてろ。女に生まれてこなくてよかったな。お前が女だったら、矯正下着まで矯正しちまう筋金入りのデブ女だ。“読者を白痴化しようとしてる”だって? なんでぇ、白痴はテメェじゃねぇか。なに言ってやがる。あれで自分は才能ある不世出の人物だと自惚れてるんだから世話ねぇや。この~~ォ、無芸大食デブがぁ。」
 ま~ぁ、悪態が尽きることなく出てくるわ、出てくるわ。花菱もアンタのことを無芸大食ノッポと言ってましたよ。弱々しげに何やら長々と呟くこと、頻(しき)り。きりがない。言っても仕方のない事をダラダラと口走ってどうするんだい。馬の小便たれ流しである。世迷言(よまいごと)は限りなく続く。つまらん愚痴をこぼすこと、こぼすこと。こぼしまくった愚痴を誰が掃除するんだい? 僕か、嫌なこった!
「食肉用に無理に太らされた豚みたいな野郎だ! アイツが羽根を失った白鳥だったら同情を禁じ得ないが、どうして豚が柄(がら)にもなく空を飛ぼうとするんだ。何もせずに隠居しとけ! もう歳で手遅れだっちゅ〜の。そこまで世間の注目を浴びたいのか。お前は水面に映る己に恋するギリシャ神話のナルシスなんか。なんでお前が美少年なんかい。マカロニみてぇな小さいペニスを水面に映して喜んでろい! “飛びます、飛びます”ってか? コント55号の坂上二郎かぁ? 空飛ぶ豚ジジイだろう。空飛ぶ豚まんジジイ、墜落だ。この白痴爺さんがぁ!」
 のべつ幕なしに喋りまくる箱村。まるで聞き分けのない駄々っ子である。最後の方は何を言っているのか全く意味不明だ。どういう文脈から空飛ぶ豚がでてくるんだろうか。とはいえ考えてみれば、鰭(ひれ)を翼にして空飛ぶ魚もいるぐらいだよな。豚が飛んだって悪くはないか‥‥‥おいおい、そういう問題じゃないだろう。あらまあ、こっちまでピントがずれてくる。しかしねぇ、よくそれだけの悪態をつぎ合わせられるもんだ、毒舌パッチワークだな。皮肉には皮肉をとばかりにブツブツとぼやく。
 所変われば品変わると言うが、住む場所が違えば若干性格も違ってくるようだ。決めつけかもしれないが、我が日本国において九州人は関西人に次いでお喋りの人が多い気がする。とはいえ花菱と箱村のお喋りは九州人の目からも常識破りである。どうして彼らはこんなに喋り続けることができるのか。
 ADHDにはお喋りが止まらないという特徴がよく見られるそうだ。箱村も花菱も生まれながらにADHDなのではあるまいか。もちろん本当のところは分からないが、最近よくそう感じる。
 じゃ、お前はどうなんだと言われてしまいそうだが、自分は少なく見積もっても話す分量の二倍は黙って考えているつもりである。彼らとは違う。彼らは考える先から口を動かしている。比べてもらったら困るのだ。彼らと会話するときは幾分お喋り気味になるが、それは二人のペースに合わせているにすぎない。
 花菱、箱村御両人とも、幻覚体質の僕は脳の機能が人と少しズレているとよく揶揄(からか)う。だが、頭の構造が人とズレているのはアンタ達も同じではないか。ズレた者三人がたまたまこの職場に集まり、好き放題やらかしている。そんな印象がぬぐえない今日この頃である。
 今も斜に構えてズラズラ皮肉を並べているお喋り箱村なのではあるが、小声でボソボソ、相手に聞こえないのでは意味がない。情けなかぁ。その囁き声、ボサノバでも歌っているのかいな。やっぱり花菱に聞こえるのが怖いんかぁ。肝っ玉、小っさ!
 男のくせに喋ること喋ること。いいかげん強がりを言うのはおよしなさい。オッサンよぉ、いつからピヨピヨとヒヨコさんになったんかぁ🐤? 
「なんかぁ? “ぴっぴっピーヨコちゃんじゃ、アヒルじゃがぁがぁ”ってか? それって“獅子てんや瀬戸わんや”やがな。なんでお前がかの伝説の漫才師を知っとるんや。なんかぁ? 男のくせに喋ること喋ること、ってかぁ? 男がお喋りで悪いんか。蝉はオスしか鳴かんぞ」
 あら? この人、読心術でも心得ているのか。毎度のことながら、また心ん中が見えちゃってる。思いが素粒子となって箱村の脳ミソに滲み込んだのかな? 二人の脳機能が無線ランでつながってるとか。まさか、でしょう。そんなこと、あってたまるか〜~い。
「あれ? 僕いま、口にしてました?」
 混乱して頭の中がてんやわんやの赤井君である。
「いいや、俺は一を聞いて十を知るからな。一流の釣り師は浮子(うき)の微かな動きで水中のあり様をリアルに感じ取るだろう。あれと同じだ、ビビビときたんだ」
「ビビビ? ほなアホな。“獅子てんや瀬戸わんや”? それって、いつの漫才コンビなんです? なんでヒヨコとアヒルがいっしょにいるんですか。ヒヨコの親はニワトリでしょう」
「そげな、細けぇことを突っつくな。若い奴らは何にも知らねぇんだな。当時は一世を風靡したんだぞ」
 還暦、古希の爺ちゃん婆ちゃんにしか通じない漫才師をここに持ってこられてもねぇ、話が噛み合わないよな。
「“ぴっぴっピーヨコちゃん”って片岡鶴太郎の持ちネタでしょう。オレたちひょうきん族でやってたんじゃなかったっけ。なんかそんなの、ユーチューブで見ましたよ」
「コントの歴史をもうちっと学べ。あれは鶴太郎が“獅子てんや瀬戸わんや”をパクったんだ!」
 何でそんなことに得意満面で勝ち誇っているんだ。難儀な人やなぁ。誰が誰をパクろうがどうでもいいことでんがな。それより箱村さん、飼い主に吠えるチンコロ犬とは空しいねえ。花菱社長に怒りが収まらないなら、冷却水でもぶっかけてあげまひょか。
「まあまあ、抑えて。“ぴっぴっピーヨコちゃん”はともかくとして、そんなにムキにならないで。花菱社長を白痴なんて言い過ぎですよ。それに白痴なんて言葉、むやみに使うもんじゃないです」
「ふん、令和小僧の倫理観か。お前、ベタ褒めされたからだろう。んだから庇(かば)い立てすんだ。そういやぁ花菱に歯が浮くようなおべんちゃらも言うとったな。このゴマすり男がぁ。お前をすり鉢ですって、和え物に振り掛けちゃろかぁ! 初めて会社に来たときに小遣いを奮発してもらったからか。いまだに恩義に感じてるたぁ、義理堅いこって。白痴がお気に召さないならボケでもいいぞ」
「言葉が過ぎますよ。社長、老化で少し物覚えが悪くなったぐらいで、ぜんぜんボケてませんよ。ボケたふりして、ふざけてるだけです。箱村さん、ちょっとアレンジしすぎちゃいまっか?」
「もうすでにボケているジジイが、ボケたふりなんてできると思うのか。半ボケ老人の言うことを真に受けたらお前までボケてくるぞ。何が第三の顔だ、偉そうに。人がそこに立ちゃ影ができるに決まっとるじゃないか、ボケが。誰だってそうだ、当り前じゃねぇか。そんな分かりきったことに言葉をこねくり回しやがって。ふざけた影踏み遊びしてんじゃね~よ。なんでアイツの肩を持つ。子分が親分に花を持たせてるつもりなのか。なんでそんなゴマすり発言すんだ。スポンサー家電をヨイショしたおすテレショップか。ボケてないって、どんなふうにだ」
「え?」
 土俵際で箱村からうっちゃりを食らわされてしまった。
「え~と、どんなふうにと言われても」
「だからぁ、どんなふうにかと聞いてんだよ。ボケてないって言うからには何かあんだろう」
 箱村は詰めてくる。
「え~と、トランプとの討論で年齢不安が表面化したバイデンと比較したら‥‥‥あ~ん、なんて言ったらいいんだろう、難しいな」
「アハハハ、なんじゃい、そりゃ。なんでここに懐かしき元アメリカ大統領が出てくんだ。最近じゃトランプのほうだって“そろそろボケてきたんじゃね?”と陰口たたかれてるじゃないか。ちょっとそれ、流行遅れで極端すぎね? 仲良し小良しのコントじゃねぇぞ」
「いえ、あの、その、何はともあれ、社長のボケはやっぱり演技じゃないんでしょうか。いましがたもパソコンとか、いろいろな機材を操作してたじゃないですか。ボケていてあんなことできます?」
「eスポーツでもしてるんじゃね? お前が対戦型ゲームをする柄か、ちゅーの。自分自身がゲームのキャラクターじゃないか。スポーツなら体を動かして少しは痩せやがれ。要するにアレだよアレ、ありゃ、体(てい)のいい遊びだ。せっかく設備投資に金をつぎ込んだんだから、せめて遊んで元ぐらいはとらなきゃなと考えてるだけだ。単なる素人の真似事だよ。これで当人はベンチャービジネスだと信じているんだから笑わせらぁ。昔、まぐれでボロ儲けした旨みが忘れられんとちゃう? バブル期じゃないんだ、大判小判ザックザクとはいくもんか。時代が違うんだよ、時代が。よぉ、花咲かデブ爺さん、“枯れ木に花は咲きません”てなもんだ。何がベンチャーだ。“福袋、開いてみたら貧乏神が入ってた”なんてな。行く末はそんな感じだろうさ。後から貧乏神を押しつけられたらたまらんぞ」
「三人が互いに貧乏神を押しつけあってどうすんですか(w)。でもそうなのかなぁ。僕たちも外野で勝手に詮索するだけで、けっきょく点と点が繋がって線になったわけでも、面になったわけでもないじゃないっすか。社長が何をしようとしているのか全体像が見えないうちから、遊びとか貧乏神とかボケたとか独断で決めつけるのはいかがなもんでしょうか」
「なに言ってんだ。あのデブ、何をしようとしてんだか。きな臭さプンプンじゃねぇか」
「それ、箱村さんに染みついたコーヒーの失敗作の匂いでしょう(w)。失敗作でもいいから一度飲ませてくださいよ。慣れれば乙な味わいで、意外と癖になっちゃたりして。感謝感激、炭火珈琲です」
「それって、“雨あられ”だろう。勝手に造語すんな。よほど俺のスペシャルブレンドが飲みたいんだな」
「いいじゃないっすか、言葉の使い方なんて緩くて。ちなみに夏場だからコーヒーはアイスで(w)」
「アイスでだと? 贅沢いうな。氷砂糖でも入れとけ。甘ったるいお前にゃピッタシだ。ただし入れても冷やっこくはならんけどな」
「まあ、それは置いといて‥‥‥」
「置いとくな!」
「あらあら、おかんむりですこと。まあ、それはともかく、さっきから社長をボケ呼ばわりしてますけど、今日のレクチャーの中にも非凡なところがチラッと見えましたよ。そこまで言うなら、ボケはじめたかどうか本人に訊いてみたらどうでしょうか?」
「フン、師匠と弟子の厚い絆ってわけかぁ。“あんたボケでます?”と問われて“ボケてます”と答えるボケがどこにいる。けど、どっちにしてもボケには変わりねぇだろう」
「あ~ん、なんか、ややこしい言い方」
「アイツ、電車の車内にどれだけの傘を忘れたことだろうな。忘れた傘の本数を数えりゃ、これからのアイツの人生、あらかたの降水確率が分かるってもんだ。土砂降りだぜ。忘れ物を取りに帰ったら、何を取にきたか忘れちまう。ボケ防止で俳句をはじめ出したら、書きためた俳句ノートを毎回どこに置いたか忘れちまう。何を、どこで、誰に言ったか次から次へと忘れちまう。アイデアが浮かんだのでどっかに書き留めたが、それがどこだったか分からない。今は離婚して独りモンだからヘソクリしなくていいが、そうでなけりゃ秘密のヘソクリもどこに隠した忘れちまう───てか、ヘソクリしたこと自体も忘れちまうだろうぜ。そのうち自分が誰かも分からなくなっちまうんじゃねぇのか。ボケの二乗、三乗。ボケボケボケだ。あいつ、そんな感じだろう。近い日、本格的にボケてボケも言えなくなるぜ。これぞまさしく本ボケだ」
「───アレどこだ コレあったなら アレ忘る」
「おっ、久々に下手っぴ川柳が出たか」
「随分とご無沙汰しちゃったもんで。ここらで凡フライを打ち上げとかなくちゃと思って」
「アイツはボケの初期段階を通り越して、いよいよ末期だ。耳はまださほど遠くないようだが、あれだけ次から次へと忘れちゃうようじゃ詐欺電話にもひっかからないな。お相撲さんは引退するとき髷(まげ)を切り落とすだろう。ツルッ禿げでもう髷は結えないんだから、お前も相撲取りなら相撲取りらしくサッサと引退しくされ。引退して大人しくチャンコ鍋でも食っとけ。もう一発当てるにゃ歳で手遅れだよ。えらく意気込んでるが、新たな儲け話はもう無理だ。ぜいぜい詐欺師に騙されて釣り針から餌だけ取られて逃げられるのがオチだな。よぉ、スローモーなデブ亀さんよ。お前はもう再起不能の亀なんだから、引退してウサギと駆けっこしたり、浦島太郎に助けられたりしてろ!」
 糞味噌(くそみそ)に罵る箱村。普段はノロノロ口調のくせに、悪口を言うときだけ舌がよく回る。御当人は内緒話のつもりだったんだろうが、ヒソヒソ声はとっくの昔にいつもの大声に戻っている。人間拡声器箱村の復活だ。いったいその威勢の良さはどこから来るんだろうか。祭りでもないのに大太鼓を打ち鳴らすなよ。話し声に気づいて花菱が出てこなければいいが。海坊主が聞き耳立てて波間からヌッと顔を出すってか(w)。出てきたらきっと取っ組み合いの大喧嘩になるぞ。
「そりゃ言いすぎですよ。う~~ん、でも確かに話してると、たまにそんな兆候はちらほら見えますね」
「ホラホラそうだろう。それも最近ボケだしたってわけじゃないぞ。初めて遇ったときからああだ。要するに天然ボケってやつさ」
「でもそういうことって、若者にもありますよ」
「そういうことって?」
「例えばドアをひらくと、何しにこの部屋に来たんだったか忘れてしまうなんてこと。俗にいうドアウェイ・エフェクトってやつですよ」
「ドアうんにゃらエフェクト? なんじゃい、そりゃ。それ、塩をわざわざ塩化ナトリウムと言ってるのと同じなんじゃねぇのか。なんでも難しく言えばいいってもんじゃないぞ」
「知らないんですか?」
「知らん、それ、そんなに有名なんか」
「まあ、そこまで有名でもないですけど、ちょくちょく出てきますよ。心理学者のガブリエル・A・ラドヴィンスキーの記憶理論の一つです」
「なんじゃい、ガブリエルなんたらって? 生意気な名前つけやがって。ガブリエルたぁ大天使だろう」
「いえ、そっちじゃなくてぇ」
「そいつはそこまで偉いんか。そんなに偉いんなら聞いてやる。かいつまんで説明してみい」
「端折って話すと、要するに何ですかねぇ‥‥要するに場所ごとに記憶が紐づけられていて、ドア等の境界を越えると、脳が新しい環境に順応しよう短期記憶を更新してしまう現象が起こりうるということなんですよ。いわば脳が場所の区切りと情報の区切りを混同してしまうってこと。箱村さんだってそういうことってあるでしょう。僕は時々ありすよ。頻度はともかく花菱社長だけじゃないと思います」
「まあ、俺もあるっちゃあるが。そうか‥‥そう言われると納得せざるを得んな。しかし何でかいな、博学多才を誇る俺がアホのお前に丸め込まれちまうなんてよぉ」
「正論だからじゃないですか?」
「ああ、ああ、いい、それでいい。わかった、わかったよ。そこまでアイツの肩を持つなら仕方ねぇ。こっちが悪かったことは認めるよ。でも花菱の野郎、何もあそこまで言わなくてもな。こっちが悪いことぐらい分かってんのによ。公共の場所でもないのに、少しぐらい騒いだぐらいで何でいけねぇんだ。ここは図書館かぁ? 図書館だったら私語は慎まなきゃなんねぇけどよ」
「公の場でなくても職場でしょ? もっといけないじゃないですか」
「う~ん、それもそうだなぁ。違(ちげ)ぇねえ。お前もたまには正論を連発することもあんだな」
 ふり上げた拳がだんだん下がっていく箱村である。
───そうそう、いくら緩い職場とはいえ、勤務中に子供みたいにはしゃいだ僕らのほうが悪いよね。彼も悪ノリし過ぎたことはちゃんと認めて反省しだしたらしい。感情の荒波はおさまり、凪になってきたようだ。
 やおら箱村が大股で廊下をのしのし歩きだした。なんとも無骨な歩き方だ。からくり人形のような、ゴツゴツしたその動き。歩幅が広い。おいおい、スタコラ一人で何処へ行く。アンタの大股ににゃとてもついていけないんだよ。コンパスが長いんだから、せめてテンポはアンダンテにしてくれ。
 まさかそのまま歩き続けて地平線を越え、小倉湾にドボンじゃないでしょね。どこまでもどこまでも歩き続けて、あの世にまで行ってしまうんじゃ笑えんでしょう。霊柩車に乗るのはまだ早い。もう好き勝手に泳ぎ回るのはよしてくれ、遊泳禁止の赤旗をたてなきゃな。
 ものの数秒で箱村は10メートル近く離れてしまう。足取りが軽い。それを磁石に引き寄せられるかのごとく、ちっこい赤井君が追う。その慌てぶりはエリマキトカゲのようだ。

〈青信号 歩幅届かぬ ご老体───おっと違うだろう、違うだろ。まだご老体じゃないだろう、若いくせにしっかりせい!〉

 本人はアレグロのつもりなのだろうが箱村との対比で、全力疾走しても小股でひょこひょこ、スロージョギングぐらいにしか見えない。これでも当人は急ぎ足のつもりなのだから笑ってしまう。ビデオ映像を早送りしているかのようにチョコチョコ動くも距離は縮まらない。親鳥の後にヨチヨチついていくカルガモだ。
 せっかく磁石になぞらえてやったのに、実態は歩調がまったく合っていない。二人は心理的距離が近くとも物理的・身体的距離が遠いのだ。磁石は磁石でも超電導磁力で、リニアモーターカーみたいに浮上して走行しなきゃとても追いつけそうもない。よぉ、腰巾着の赤井君、離されるなよ。
「ちょっとぉ〜~、どこ行っちゃうんですかぁぁぁ〜? また、いなくなっちゃうんじゃないでしょね。うんもぉ、箱村さんには首輪とリードがいるんだからぁ〜」
 慌てた赤井君の声に振り向きざま、
「俺はペット犬か。お前と連れ立ってお散歩なんか行きたかねぇぞ。小便だ。生理現象よ。用足ししちゃいかんのか。小便しにいくのに、どうしてお前をいちいちウインチで牽引せんといかんのか。小便しにいくぐらい勝手気ままな一人旅させろや。はばかりは憚(はばか)りながらコソッと行くもんだぞ。それにしてもなんでかいな、最近やたら尿意を催すんだよね」
「ダラけすぎで、腎臓まで怠けて素通りなんじゃないですか?」
「過活動膀胱かもしんねぇな。年は争えねぇよ。体にガタが来はじめてんだ」
「仕事さぼって大胆不敵にもコーヒーを作ったりするからですよ(霞ゆく夢の続きを〈9〉─58)。カフェインには利尿作用があるっていうでしょう。ほら、腎臓の血管を拡張させ尿を一杯つくらせるって。コーヒーの失敗作を飲み過ぎたせいなんじゃないっすか? どうせ失敗作ばかりになるんだったら、今度はいっそティラミスにでも挑戦してみましょうよ。ティラミスってコーヒー風味が普通なんでしょ?」
「調子に乗んな。お前が食べたいだけだろう」
「バレたか。まあ、歳をとればトイレが近くなるっていいますから仕方ないっすよ。スペシャルブレンドが成功したら花菱社長にも飲ませてあげればいいんじゃないかな。だってあの人、むくんでるっしょ」
「ありゃ、むくみじゃなくて脂肪だよ」
「そう言えば僕たち二人、よくトイレで出くわしますね」
「それ、お前も頻尿だと告白しているようなもんじゃないか」
「あ、そうかぁ。暇で時間を潰せないからかもしれません」
「暇ションか。ああ、嫌だ嫌だ。そのうち下着を紙オムツに変えんといかん日が来るんかよぉ」
「箱村さんに合うサイズ、日本で売ってますかね」
「おいおい、ビクつかせんな」
「ま、いいかぁ。万一なければネットで海外から取り寄せればいいんだ」
「くっそ~~ぉ、たかが紙オムツごときでこのザマかぁ。歳はとりたくないよ。なんでこんな戯(たわ)けたことまで心配せにゃいかんのだ」
 この人、何処までが本気で何処までが冗談なんだろうか。
「そういやぁガキの頃、寝小便の夢をよく見たな。俺、シャ~~ッとオネショしてるわけよ。けど“これは夢の中での出来事だから大丈夫なんだ”と安心してるんだな、これが。そして目覚めてみると案の定、フトンにやっちまってる。なんであんな夢よくみたんだろな。きっとお袋に叱られるのがよっぽど怖かったんだろうな。お前もオネショやらかして一杯叱られたろう」
「僕、オネショしなかったんで。これ、憶えている限りですけど。それに母親は人を叱るようなタイプじゃなかったんで」
「ああ、巷によくいる、優しすぎて甘やかし放題の足乳根(たらちね)カアチャンな」
「ええ、優しかったですね。心のアルバムに一杯思い出が貼られています。そんなに長い期間じゃなかったけど、手塩にかけて育ててくれました。あるのは感謝だけです」
「そうか‥‥‥」
 箱村は空を見上げてしばし沈黙する。子細顔だ。
「そう」
「しかしそんな甘やかし子煩悩カアちゃんで、よく我儘に育たなかったもんだ」
「本人は結構我儘なつもりなんですがねぇ」
「我儘でねぇってのはそういうところだ。ホントに我儘な奴はそういう自覚がないからな、大橋巨泉やトランプみたいに」
「だったら性格も遺伝するのかもしれませんね。それにイジメも経験して、周りとつながりを持たない孤立した時期が長かったたから」
「そうか」
 再度箱村は空を見上げ、押し黙る。何か考えているようだ。意味深な顔つきである。赤井君は箱村の沈黙の意味を読み、この状態のままどれだけ待つか慮った。それは言うべき言葉を知らない者の沈黙ではなかった。言うべき言葉を言うべきかどうか躊躇っている沈黙だった。
「いくら涙しようが死んだ母ちゃんは戻ってこない。過去は戻せない。お前は満月を見上げて涙すれば月に戻れる、かぐや姫じゃないからな」
 そうポツリと言って、また黙り込む箱村。自分の哀しい思い出と僕の思い出を重ね合わせているのかもしれない。
 待てば海路の日和ありとばかりに、赤井君はしばらく模様眺めする。どうやら戻すべきは話題の方らしい。そう結論づけたうえで口を開く。
「さ~てねぇ、オネショですかぁ。“これは夢ん中の出来事だから大丈夫”ねぇ。そんな感じの夢は誰だって見るんじゃないっすか? 将来不安だらけの今の自分の境遇も、夢ん中だから大丈夫ってことになってくんないかなぁ」
「つまりそれ、今の俺も夢ん中の登場人物ってことになるよな」
「ええ」
「お前が夢から目覚めたら俺は消えちまうってことかぁ。まあ、とことん考えてみりゃ、どっちが夢でどっちが夢でないかなんて誰も分かっているようで分かんないもんな。とりあえず今は大人になって、さすがにオネショはしてない。確かなのはそれだけだ」
「夢といえば、今日の明け方、夢を見たんですよ。ふつう夢って起きたらすぐ忘れちゃうでしょ? でもそれが鮮明で、今でも記憶にはっきり残っているんですよぉ」
「別に夢を思い描くのは悪くないだろ。夢あってこそ将来の希望も持てるんじゃんか。いい夢を見たけりゃ宝クジを買えってなもんや‥‥‥三度笠だ」
「その夢じゃないですってば。わざとボケるのはよして下さい。これ、真剣な話なんっすから」
「どんな夢だ」
「緑色の水玉模様の服を着た人が、僕の正面にずっと突っ立ってるんですよ。辺りにも緑色のシャボン玉みたいなのが一杯ただよっていて。ただそれだけの夢。今もその夢を忘れないのは何か意味があるのかなぁと思って」
「夢の世界に遠路はるばるやって来てくれたのか。“友あり遠方より来たる、また楽しからずや”だな」
「いや、友達でも何でもなくて、ぜんぜん知らない人だからそこにいてもらっても少しも楽しくない」
「お前と同じで、論語読みの論語知らずかもな」
「何でいちいち論語と絡めてくるんですか、ふざけてるんですか」
「教養のチラ見せだ。お前への戒めでもある。ほんで、そいつ男なの? 女なの?」
「分かんない。フードをかぶってるから顔の部分が影で隠れてて」
「このクソ暑いのにか」
「ええ」
「変わった奴だ」
「あたりも暗かったし。でもスカートだったから、おそらく女」
「水玉作品で世界的に有名な草間彌生が化けて出たんじゃねぇの?」
「たはッ、んなわけないじゃないっスか」
「オカマかもしんねぇぞ。てか、オカマって言えばお前じゃないか。自分自身を見てたんじゃねえの? 逃げても逃げてもついてくるから変だなと思っていたら自分の影だったってオチだろう。おらおら、お前が二人いる。“忍法、分身の術でござ〜い”ってか? お前とそいつは対称図形だよ。お似合いだぞ。夢の直線軸で向き合ってんのさ。あんまり油断し過ぎてよ、月夜に釜を抜かれたんとちゃうか、オカマだけにさぁ。お、こりゃブチおもろい、ガハハハ。ノートにメモしとかんといかんばい。ガハハハ───」
「だからぁ〜そんなワケないっしょ。長浜ラーメンじゃあるまいし、なんで僕にそんな替え玉みたいなのがいるんですかぁ」
「長浜ラーメン? 他県出身者のくせに、お前もかなり福岡になじんできたなぁ。通でもないのに本場・福岡の長浜ラーメンを語るとはな。極細麺、あっさりスープ、ほんでもって替え玉だ。ほかの県の奴らには長浜ラーメンと言ったって、ピンとくるのにワンクッションあるもんな。滋賀県長浜市の長浜ラーメンと混同しやがる。一般的にいう豚骨ラーメンなら、どこに住んでても近所のラーメン屋に行きゃ食えるからメジャーなんだけどなぁ。博多もまだまだ全国区になってねぇ」
「とんこつラーメンの発祥は久留米なんじゃないっすか?」
「これだからトーシローはいけねぇ、いろいろ説があるんだよ。そんなことよりお前、食いてぇんだろう、こう、割り箸をパキッと二つにわってさ。考えてみりゃ割り箸もシンメトリーじゃんか、ちゃんと俺の言い分を裏打ちしちょる。いっぺんお前、替え玉になって宙を飛んでみるか。受け損なって床に落ちたりしてな。笑いが取れるぞ。大ウケばい(w)」
 あれだけ花菱に腹を立てていたのに、今は大笑いしている箱村である。まったく気分に斑(むら)のある人だ。感情が消費者物価のように変動する。お天気屋で手に余ること、余ること。
「ほらほら、注目するのはラーメンの方じゃなくてぇ。なんかこの夢、深い意味があるように思いません?」
「思うもんか。お前がスケベで、女のことばっか考えとるから夢に出てきただけのことだ。ポルカドットなんて涼し気でいいじゃないか、夏向きだろう。季節感ぴったりじゃんか。で、それがどうしたってんだ、しょーもな」
「いや、ここからが言いたいことなんですよ。目を凝らすとその緑の水玉の一つ一つに小倉北区らしき場所の、ありとあらゆる路地裏の光景が断片的に映しだされているんですよ。これってもしかして‥‥‥(霞ゆく夢の続きを〈9〉─56)」

「もしかして悪魔に乗り移られてる証拠じゃないかって言いたいのか。ふ~ん、悪魔に憑りつかれて呪い死ぬとでも?」
「ええ、だって夢というのは真の自分を理解するのに重要なファクターでしょう」
「あらあら、いつからフロイトになったんだ。『夢判断』かよ。たいした悲観論者でありまする。夢茶に酔った挙句、変な夢を見て死んじまうとはな。それって俺の大好き四字熟語の酔生夢死じゃね? まあ、変な使命感もつよか、そんなダラダラした生き方も悪くないよな。お前ん中に何かが入ってきて乗っ取ろうとしてんのなら、お前がお前として生きている意味がなくなっちゃうじゃないかぁ。そんなことなんてあんの?」
「え、どういうことなんす?」
「何や知らん、夢ん中で夢を見とるよな寝言はよせ。いいかげん目を覚ましたらどうだ。いま無理して眠らなくとも何十年もたったら必ず永眠できるんだからよ。とりあえずお祓(はら)いでもしてもらえ。どんな名医だって、心だけは手術も解剖もできないんだぞ。悪魔に乗り移られそうでも誰一人、手も足も出ない。そんな複雑怪奇な悪夢はバクに食わせちまえ。アホかいな。もっと縁起のいい夢を見んかい、一富士二鷹三茄子みたいな」
「それ、正月の初夢でしょう」
「夢は夢だ。夢に特別な意味なんてあるもんか。夢というのはな、この世で本人以外は誰も同じものは見れないんだ。お前だけしか知り得ないものの意味を、どうやって他人様に証明しようってんだ。夢なんぞ起きていた時の出来事を眠りながら脳が整理するためのものだ。いわば記憶の再編集だよ」
「記憶の整理・再編集というより僕の場合、どっちかっていえば記憶の混濁です」
「知らんがな。どっちにしろ夢なんてレム睡眠中に脳の一部分が活発に活動していた、ただそれだけのことよ。寝言もいってたんじゃねぇか、“僕はオカマ、スカートはいて普通の女の子に戻りた~い”ってな。キャンディーズの解散コンサートかぁ? お前さんはミキなのか、ランなのか、スーなのか」
「ふざけないでくださいよ」
「悪魔に乗り移られそうだなんてこと言ったら、死んだお母さんが悲しむぞ。その歳になっても育ててくれた母親を心配させて、どういう了見だ。もう亡くなってだいぶ経つんだろう」
「ええ、でも片時も忘れたことはありません。未だにゴキブリなんかを見たら、もしかしてこれ、母さんの生まれ変わりなんじゃないかと思えて殺せなくなっちゃうことがあります」
「たはっ、お前の優しいお母上がゴキブリに生まれ変わるわけないじゃんか。まあ、そういう気持ちは大切な人を亡くした直後は誰にでも訪れるけどな。けど未だにそうとは珍しい」
「ちょっぴり輪廻転生を信じてる部分もあるんで」
「お前、前世の記憶ある?」
「あるわけないっしょ」
「たいていそうだよな。記憶が全くないのなら、お前が前世どういう人間であろうが今のお前には無関係に等しいだろう」
「そうですね」
「だからよ、母親の生まれ変わりが万、万、万が一そのゴキブリだったとしても関係ねぇよ。肉体はすでに人からゴキブリに入れ替わっている。ゴキブリには本能だけがあって思考はない。もしあったとしても、前世の記憶は消されている。だったら母親とゴキブリにどういう繋がりがあるの? ないといっしょじゃんか」
「なるほど、そう考えれば心が軽くなりますね」
「だいたいゴキブリに生まれ変わるような奴は、前世で何十何百の人々を虐殺したような輩だ。戦争なんかを起こしちゃったりしてな。平和のための戦争じゃなくて戦争のための戦争をする奴らだ。目当ては領土なのか資源なのか知らんが、自分の欲のために人を殺すんだから罪は重いわな。人を殺したから今度は因果応報で人から殺虫剤をかけられて殺されるってわけだ。こういうのを別名、地獄界と言うんばい。お前のカアチャンみたいな善人がゴキブリに生まれ変わるもんか」
「ゴキブリって世界中に何匹います? それだと数が合わなくなるんじゃないですか? 世界中、極悪人だらけってことになっちゃう」
「心ん中まで含めればそうだよ」
「え? 心ん中まで含めちゃうの? そりゃフェアじゃない」
「フェアじゃないってか? 何いってんだ。人間に比べてゴキブリの寿命がどれだけ短いか知ってんのか。人の一生の間に何回ゴキブリが生まれ変わると思ってんだ。何百人も殺した奴は何百回もゴキブリに生まれ変わって、その度ごとに駆除されるんだ」
「やれやれ子供だましの御伽話(おとぎばなし)だ」
「でも気持ちは楽になったろう。ゴキブリを見て母さんの生まれ変わりかもしれないなんて思うなよ。お前、弱っちくて悲観的な男だから、母親の成仏を願って千羽鶴を折りだされても困るからな。愛する人と別れた直後は、こんなちっぽけなことで悩む奴も結構いるんだ。どんなに強い人でも弱い時期はある。かけがえのない人と死別したとか、大病にかかったとか‥‥‥悪魔はそういう時期を狙って近づいてくるんさ」
「確かに御伽話でも気持ちが楽になりましたね」
「そうだろう、そうだろう。御伽話かどうかがセンターピンじゃない、真意は相手の憂いを取り除けるかどうかにあるんだ。どうだい、こういうのを方便って言うんだぞ」
「方便?」
「そうクサ、平たく言えばお前の頭脳レべルに合わせて法を説くちゅうこっちゃ。プレゼンするときは内容どうこうよりも先ず聞き手に理解してもらわなきゃ始まんねぇだろうが」
「方便ねぇ」
「いくら御伽話でも相手の不安さえを和らげることができればいいんだよ。厄除けのお札とか熊よけの鈴だって、本人が信じれば心理的な効果はあるんだ。まずは素直に聞いとけ、悪魔が近づいてきて心を乗っ取られないようにな」
「う~ん、方便かぁ」
「そうだ。どうしても信じられなきゃ、“嘘も方便”だと思って聞いとけ。それでいい。信じてもらえるのが一番なんだがな」
「“鰯の頭も信心から”ですか。なるほどガッテン!」
 赤井君は手の平を拳で叩く。
「おいおい、この有り難い説法を鰯の頭にしちまうつもりなのかよ」
「海産物が好きなんで」
「なんで海産物の話なん? なんば言うちょるんか」
「二枚貝なら味噌汁に入れたらおいしそうですが、二枚舌のほうはちょっとね‥‥‥」
「どこが“なるほどガッテン!”だ。NHKのあの伝説番組はとっくに終了してるぞ。俺が二枚舌を使っているとでも言いたいんか。そんなトンチンカンギャグ、全然おもろなかばい、うん?‥‥‥うお~ぉ、漏れる。ズボンの中にチビっちまいそうだ。お前が下らん話をしてくるから、忘れとったわ。この話の続きは待ってくれ。考え事があるから、ちょっくら頭を冷やしてくるわ。この窓からシャーッとやるわけにはいかんだろう」
「僕も」
「僕も、なんだ。連れションか」
「じゃなくて、花菱社長が心配なんで見てきます。起こさないように抜き足、差し足、忍び足で。寝タバコしながらコックリしてたから、もし火事になったら大変でしょう」
「甘やかしすぎだぞ、お袋がお前を甘やかしたみたいにな。けむたい奴だからモクモクと煙の中におりゃいいんだ。あげなジジイ、豚の丸焼きになっちまえ」

(60)

 土曜、18時半、あの勝山公園から、再び。(「霞ゆく夢の続きを〈8〉─53」の続き)
 勝山公園の芝生広場から紫川沿いに二人は歩いている。薄茶色の煉瓦張り遊歩道が続く。辺りは暗くなりははじめ、引き伸ばしたストッキングを透して見るかのように景色の輪郭が曖昧になる。
 河面に落日の反射が揺らめく。透明度は低いものの、微妙に透過性のあるその表面。砕けたミラーサングラスの破片さながら、光の粒子が散りばめられる。河に水銀を流し込んだかのようだ。

「どこに行きたいの? どこでも連れてってあげるわよ」
「どこと言われても、もう遅いし」
「ボクちゃん、女の娘に持てないでしょう」
「あっ、あ~、どうもそのようですね。こりゃ痛い所つかれちゃいましたね。どうしてそう思うんです? “見るからにそう”ってな安易な理由じゃダメですよ」
「優柔不断だから。男は即断できなくちゃ。男はリードしないと持てないわよ、強引なくらいじゃないと」
「あ~そうか、そ、そうでしょうね。自分でも分かります、分かります」
「私は強引な男って大っ嫌いなんだけど、なぜか多くの女はそうなのよね、リードしてもらいたがる。どうして私だけ違うのかな? “人は自分に似たタイプを嫌う”っていうでしょう。たぶん、そのせいかも。私って強引なのかしら?」
「いえ、ぜんぜん。ただし一般的な女でも強引にしてほしいのは相手の男を好きな場合だけですよね? 嫌いな男に強引にされたらどっ白(ちら)けでしょう」
 彼女はその問いには答えず、
「う~ん、海にしようかな、山にしようかな。どっち? 決めてごらん。どっちが好き?」
「“う~ん、海かな、山かな”ですか。ずっと昔にこれと似たシチュエーションで同じようなセリフを聞いたような気がします(『女と』)。何だかとっても懐かしい」
「さあ、どっち?」
「山ですかね」
「どうして?」
「海の波打ち際を思い浮かべると何だか哀しい気持ちになっちゃうもんですから。哀しくて、それでいて懐かしい。なぜだか分かんないけど、込み上げてくるものがあるんですよ(霞ゆく夢の続きを〈3〉─21、『女と』)」
 赤井君は古いアルバムを開くかのようにノスタルジックに過去を偲ぶ。
「懐かしいって、どんなふうに?」
「あの、なんていうか、引き出しの奥に子供の頃の古いハーモニカを偶然見つけたみたいに。ずっと忘れていたハーモニカを」
「ハーモニカって、あの小さなハーモニカよね。いまどきハーモニカを吹く子供っているのかしら。鍵盤ハーモニカやリコーダーだったらしっくりくるけど。なにかお爺さんと話している感じ。じゃぁ哀しいは? 哀しいってどんな気持ちなの?」
「なんだか尋問されてるような感じですね(w)。そうだな〜、籠のなかに散らばり残る鳥の羽根みたいな儚さ。愛していた鳥がいなくなっちゃた‥‥‥と、こんなこと言っても何のことだか分かんないですよね」
「あら、センチになっちゃうのね、かわいい。それも幼い頃の話かしらねぇ」
 えっ、かわいい? 僕は子供なのか。
「そうでもなさそうです」
「じゃ、いつなの? 産道をくぐりぬける前のことかしら」
「いえ、もっと前、ずっと昔」
「ずっと昔って、ボクちゃんが産声あげたのっていつ? たかだか数十年前のことでしょう(w)」

 紫川沿いの煉瓦張り遊歩道を二人は歩きつづける。こうやって眺めると美女とチビ男のツーショットもそれなりに絵になっている。勝山公園の外周をたどる二人。最初は先生に引率される小学生みたいだった赤井君も次第に慣れてきたようで、今はカップルらしく横に並んで腕を組み、睦まじさも堂に入っている。光沢ある彼女の髪がみずみずしい若葉のように風になびく。まさしく緑の黒髪だ。

「周囲を見渡してもカップルって私たちだけね」と彼女。
「いっそ今度はペアルックにしてみましょうか」
 “今度は”と勇気をだして仄(ほの)めかしてみた。
「そうね。痩せてるから私の服でも着れそうね。背もあまり違わないし。若いころ買ったボーイシュな服が一杯あるの。ペアルックには事欠かないわ。一度女が着た服なんて着たくないでしょうけど」
 笑っているので軽い冗談のつもりかもしれない。いくらボーイシュでも男物と女物が違うことぐらい僕にでも分かる。嫌みで言ったのかなぁ。嫌みを言って僕の性格を確かめようとしているんだろうか。違うな、嫌みならぜんぜん屈辱感を覚えないはずはない。おそらく再度逢うことに彼女が拒否反応を示さなかったからだろう。それが嬉しい。かりに嫌みだったとしても帳消しになる。

 遊歩道のもう片側には樹木の列が並んでいる。それらの枝葉が夕暮れの日差しを斑に透かす。斑の影はまぶしい彼女の素肌の上でも踊っている。
 歩を進めるごとに枝葉の影絵もゆっくり動く。影絵のメリーゴーランド。もし今二人が馬車に乗っていたとすれば、斑の光も生き物のように揺らぎながら僕たちを追いかけてくることだろう。

「ほんとにデートしてもらっていいんですか? 女にまったく持てない男と」
「だから二人ここに来たんでしょう。持てないってことはないでしょう。さっき“女の娘に持てないでしょう”と尋ねたのは、ボクちゃんが自分のことをどう思っているか確かめたかったの。だって他人からどう思われるかより自分がどう思うかの方がよっぽどその人自身を物語るでしょう。客観より主観が大事。どうやら持てないと信じ込んでるだけのようね。まさか謙遜? 謙遜かぁ、う~ん、それとはぜんぜん違うわね」
「謙遜じゃないですよ。僕にゾッコンになる人がいるとしたら、きっと相当に頭のおかしい女性ですよ」
「わたしって、おかしいの?」
「は?」
「わたしはゾッコンよ」
「期待を全くしてなかったわけじゃないですけど、まさかと思いました。これっていわゆる蓼食う虫も好き好きってやつかな?」
「それ、違うと思う」
「違いますか?」
「きっと魂の色が似ているからだと思う」
「えっ! 僕の魂の色が見えるんですか!」
 シルクハットから鳩が出た。脳髄に無数の虹色の輪が絡みつく。僕の輪はどの色なんだ?
「薄いから見づらいけど」
 扉を開き中へ入るとそこは断崖だったとでもいった唐突さだ。晴れた日に突然雹(ひょう)が降ってきた。僕の魂の色が見えるって? フリーザーのなかのアイスキャンデーや、冷却された鉄板か何かのように体が冷たく硬直した。
「だからボクちゃんもわたしのことが好きなはず、そうでしょう」
 一瞬彼女がこの世の人でないかのように思われた。銀の靴をはいてクルクル回る御伽話のバレリーナが、終わりのない無限大の言葉の軌跡を宇宙に刻みこんでいる───なんだか今、そんな感じに見える。アン、ドゥ、トロワ‥‥アン、ドゥ、トロワ‥‥。
「おっしゃるとおり、図星です」
 彼女も魂の色が見えるとしたら、あの花菱の話は受け狙いの創作でないことになる。だとすれば箱村が老い先短いという話もあながち嘘と切り捨てられなくなるではないか。いや、それよりなにより僕の運命はこれからどうなるのだろうか。(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)
 僕もこの若さにして先が短いのだとしたら‥‥そう考えだすとライフルの銃口に指を突っ込んでいるかの如き切迫感が襲う。もちろん一方では「まさか、そんなこと」という冷めた自分もいるにはいるのだが、不安は感情なので理性では抑えられないものだ。揺り籠にいるはずの僕が一瞬にして墓穴に転落していた───そういった類の邪推や強迫観念は、不合理だと承知してはいても押しとどめようがないのである。

「あ、深く考えなくていいわ、あるがままでいて。そういう人がわたしのタイプ。私が好きだと聞けただけでとても嬉しい。普通の女とは違うの。相手が持てるか持てないかなんてことに引きずられるほど“バカ女”じゃないから。ねぇ、芸能人じゃないんだから女全員に持てる必要はないのよ、そんなこと不可能だし。わたしにはびっくりするほど持ててるわよ、ビビビとくるの」
 なにはともあれ嬉しいことを言ってくれるじゃないか。今は余計なことは考えず、そのことだけに集中しよう。別に返報性の原理に従うわけじゃないが、なにか洒落た言葉で今の気持ちを返さなきゃ。しかしなぁ、彼女の色気に脳がヒートアップして言葉のやり取りができない。頭の通気をよくして、こもった熱を逃がさないと。何を言おうか、何か言わなきゃ、
「女の人に持てるコツなんかあるんでしょうか。デート中にするような質問じゃないですけど」

〈馬鹿か。なんで今そんなことを訊く。返報性になっとらんだろうが。またウインクしようとして両目をつぶっている。好きな女の子に強がって、あえて冷たい態度をとってしまうツンデレ小学生かぁ? 空気、ぶち壊しだろうが。好きなら男らしくストレートに好きと言え。ウインクしようとして両眼をつぶっちゃ駄目だろう〉
 
 大失態である。デート中に他の女に持てるコツを訊いてどうする。
 だが彼女は落ち着いている。ぶしつけな質問にも少しも動じていない。どんなときも取り乱さず平静さを保つ、こういうのを大人の女というのかもしれない。

「そっかぁ。人それぞれだけど、持てるならいい女に持てたいんでしょ? “バカ女”じゃなくて。いい女に持てたかったら、背伸びして自分のいいとこを見せようとしないことね。ありのままでいること。それで嫌われたらただ相性が悪かっただけよ。致し方ない、もともとボクちゃんとは無縁な人なんだから。そんな“バカ女”、ほっとけばいいわ。ボクちゃんの小説とおんなじよ。よさが解る人はとことん解る、たとえ少数だったとしても。けど解らない人には決して解らない。そんな人たちは住む世界が違うの。追わないことよ。だって求めるものが全然違うんだもん、追っても意味ない。ねぇ、どうしてそんなこと訊いたの?」
「そんなことって?」
「女に持てるコツなんて。持てなくて何か悪いことある? 持てない方が鬱陶しくなくて、いいんじゃないの? 生きてくのが楽よ」
「このまま行くとトランプゲームよろしく、最後に一枚だけ残るババ、ならぬジジになっちゃうんじゃないかと。それって怖いことでしょう」
「どこが怖いの? 結婚するのと独身でいるのとどっちが幸せかなんて、人それぞれで分かんないでしょう」
「でもほら、何かあったとき誰にも気づかれず、死体のままずっと放置されちゃったりしたら」
「そんなの、死んでるからどうでもいいじゃない。若いのに老後のことまで考えてるの? ついでに自分の死後のことまで心配しちゃってる。そういうの何ていうのかしら。中国の故事であったでしょ、空が落ちてくるんじゃないかと心配する人の話‥‥」
「杞憂ですか?」
「そうそう、それそれ。杞憂よ。大事なのは今でしょう。いま私とワンペアになってるからいいじゃない、結構いい手札よ。生涯独身でもたいして困らないわよ。案ずるほど不幸でもないし。この先のことなんて誰も知り得ない。どうせ分からないんだったら予測を語るんじゃなくて希望を語ったら? 運命は神様に任せちゃいなさいって。将来が案じられるからって、今から出雲大社にお参りに行くなんて言い出さないでしょうね。ここからは遠すぎて夜通し運転することになるわよ」
「またまたぁ、そんなこと言ってからかうんだから」
「あのね、中国では数百万人が、毎日無事かどうか回答する有料アプリに加入してるのよ。一日に一回タップして自分が死んでいないことを知らせるの。二日以上アプリに応答しなければ、指定された役所や施設に連絡がいく仕組みよ。僕ちゃんが死ぬ頃には日本でもそういうアプリが普及していると思う。よくは知らないけど、今だって自治体によっては似た仕組みがあるんじゃないかしら。だから全然心配することないと思うの」
「さすが詳しいですね」
「だって私もそうなるかもしれないから」
 うぉ、こりゃ問題発言だ。自分も孤独死するかもしれないと言っているのだろうか。だったら旦那の存在意義はどうなっちゃうの? もしやいずれ別れるつもりじゃなかろうな。その原因は‥‥‥まさか僕? うわっ、重大事だ。見方によれば今だって不倫の入り口に差し掛かっているとも言えないこともないし。
 バレたらどうなるんかな。内臓の底に固くて重い宝石が沈んでいくような不安が襲う。悪魔が僕の人生の地図を破いてしまうんではなかろうな。ふっ、仰々しい。肉体関係があるわけじゃなし、悪魔の出番などなかろう。

「よ~し、山に決定。登りましょう。思い切っちゃいなさい」
 彼女の声に我にかえる。
「え? いま何て言いました?」
「登るわよ。そこに山があれば登るでしょう。だって今は山開き海開きのシーズンだもの」
 今度はハプニング発言だ。いや~~っ、なんともかんとも。僕と彼女も今、求めるものが全然違うじゃないか。なるほど“思い切っちゃいなさい”って意味は“諦めなさい”でなくて“大胆に行動しちゃおう”ってことだったんだな。
「え、山開き? そ、そういう問題じゃないでしょう。その恰好で登るつもりなんですか? 冗談でしょう。それとも登山装備やザックがすでに車のトランクに入っているんですか? 得意のビビビで展開を予測して、前もって積んでたりして。でもいくら何でも今からは無謀でしょう」
「いま滅茶苦茶になりたい気分なの、アナタのせいよ」
 その言葉に断崖絶壁をのぞき込むかのごとく背筋をゾクッとさせる赤井君。驚かされるような、切ないような、嬉しいような、くすぐったいような、痛いような、いわく言い難い複雑な情感が湧き上がる。いろいろな気持ちが入り交じっている。溢れる思いが去来し、浮かんでは消える。その度ごとに感情が吊り輪にぶらさがって胸の奥で不安定に揺れ動く。

「え? 本気? 車で頂上近くまで行ける山のことだと思ってました。そこで一緒に夜景でも眺めるんだと。今の時刻にその恰好で登るなんて、そんな狂った山ガール、聞いたことありませんよ」
「滅茶苦茶になりたいというより、どっちかっていうと無茶苦茶にされたい気持ちかな? こんな女、引いちゃう?」
「とんでもない、女性に向かってどん引きだなんて。そんな失礼なこと思いませんよ。想像できないこともないですよ。耳朶にちっちゃな穴を開けてピアスで飾ってみたいってな心境でしょう。それって女の人にはありがちな胸の内だと思う。中には舌にピアスする人もいるぐらいですもんね。本物の愛は痛いんじゃないんですかねぇ。ほら、女の人が赤ちゃん産むときもそうでしょう。ただ僕、男だから想像すると妙にセクシーな絵が浮かんじゃうんで、ちょっと変な気持ちになっちゃうというか、何というか、ともかくそうなっちゃいけないんで」
 あたふたして自分でも何を言っているのか分からない赤井君である。必死でバタ足すれども前に進まない。ブクブクと沈んでいく。
「変な気持ちになっちゃうのは案外女もおんなじなのよ。はしたない思われたくなくて言えないだけ。誰も男の前では剥き身になれない」
「山って暗くなっちゃうと危ないでしょう。日を改めてにしましょう。お札の透かしだって十分に光を当てないと肖像や模様が浮かび上がらないじゃないですか。登るならもっと明るい時刻に‥‥‥ね」
 焦って訳の分からない喩えが口からすべり出てしまった。恥ずかしい。だが彼女は笑みを浮かべたまま一言。
「約束よ、いつか山に行くって。もしかして山のぼり、嫌いなの?」
 彼女の笑みはスミレ色だ。野に咲く可憐な花。おしつけがましくない。
「好きですよぉ、すがすがしくて。望むところです。頂上の景色がひらける前のあの期待感はこたえられない。お弁当箱のフタをパカッと開けるときの気持ちと同じですもんね。ただ今回は用心にこしたことはないと思って」
 また変な喩えを言ってしまった。動揺してるのかな? 今から山に登る───まっ、これも刺激だ。口にタバスコを流し込まれたらたまらないが、うどんにパラパラと七味をふるのは悪くない。男と女の交わりはこういう小さな意外性があったほうが面白いんだ。恋愛に意外性はプラスに働くもの。いわゆる若者言葉のギャップ萌えってやつだ。これ、心理学では何と言うんだっけな。失うように見えて実は得ている‥‥‥そうそう、たしかゲイン・ロス効果って言うんだったよね。
 そんなことをあれやこれや考えつつ、赤井君は話し続ける。難を逃れ、とりあえず人心地がついたようだ。
「驚いちゃいますよ、これから山に登るなんて言うから。あの置きスマホもそうですけど何かとすることがトリッキーなんですから」
「手品師って“種も仕掛けもございません”と言いいながら人を欺くものよ。私も真似してみただけ。でないとトリックにならないでしょう」
「おかげで魔法にかかってしまいましたよ」
「こんな年嵩(としかさ)のいったオバチャンが山に登るなんて言ったら、ギャップ萎えしちゃう?」
「何をおっしゃる兎さん、どこがオバチャンなんですか。萎えるどころか胸キュンです。もろギャップ萌えですよ。見え透いた謙遜は嫌みになりますよ‥‥‥誰かに似ていると思うんですけど‥‥‥あの人、何て言ったかな。女優でいるでしょう、可愛いのが。名前を思い出せなくて」
「誰が?」
「箱村さんが」
「わたし?」
「そう」
「笑ったときは宮崎あおいに似てるって言われる」
「あ、それそれ、何となく面影ありますよね」
 本当は僕のお母さんに似ていると言いたかったのだが。そんなことを口に出せば、彼女は急に冷めてしまうことだろう。
「でも笑ってないときはハーフですかとよく聞かれるの。不思議ねぇ、宮崎あおいは全然ハーフっぽい顔じゃないのに」
「宮崎あおいに勝ってますよ」
「うわぁ〜、そんなことあるわけないでしょう」
 うおっ、喜ぶ喜ぶ。ほんとに素直で飾り気のない人だ。そこも彼女のチャームポイントの一つ。なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
「いいじゃないですか、いっぱい顔があったほうが。笑っているときは優しさが、真顔のときは真剣さが、交互に表情に滲み出て、外からはまるで人格が入れ替わって見えるんじゃないでしょうか。カメレオンみたいに自分の色を変えることができるなんてチャーミングじゃないですか。どの顔もぜんぶ魅力的ですよ。ぜんぶ好きです」
 ふたたび彼女が微笑む。癒されるなぁ。オルゴールのような微笑みだ。蓋を開くと優しいメロディーが流れて出てくる。ただの微笑みなのではあるが、大袈裟ににいえば、自分もいつかは必ず死ななければならないという厳然とした事実を、ほんのひと時だけでも忘れさせてくれる。
 もしこの彼女の笑顔をラッピングして持ち歩くことができるのなら、この先ずっと死の恐怖を忘れていられるかもしれない。うん、そうかぁ。未来から見たら僕たち二人は今、思い出を共有していることになるんだな。
「褒めても何も出ないわよ、うれしいけど」
 ちなみに“宮崎あおいに勝っている”というのはお世辞じゃなくて本音ですよ。
「僕は誰に似ています? どうせ二枚目じゃないでしょうけど。僕もねぇ、スマホで自撮りしたくなるよな男前だったらいいんですけどねぇ」
「そうかしら、好みによっては辛うじて男前の端っこにいると思う女もいるかもしれないわよ。取り立ててイケメンでもないけどブサメンでもない。十人並のフツメンね。大丈夫よ、顔相はそんなに悪くないから。きっと不幸にはならない。当たり障りなく無難に人生を終えることができそう。慣性の法則にしたがってスーッと波風立てず最後までスムーズにいけるんじゃないかしら」
「いえ、あの、そういう意味じゃなくて」
「そうねぇ‥‥‥似てるっていえば、あの人、オウムの広報してた頃の‥‥‥若かりし日の上祐」
「え、上祐ですかぁ? よく言われるんですよね。でも上祐はあの顔相で大波乱の人生じゃないですか、ジェットコースターだ。いまだに茨(いばら)の道を歩いていて、オウム被害者賠償金も支払い続けている。どうやら僕とは相当運命のアップダウンが違いそうでしょう。ほんとに似てるのかなぁ。鏡でたまに自分の顔を見ることがあるけど、ぜんぜん似てないと思うんですけどねぇ。なんででしょうか、雰囲気なのかなぁ」
「もちろん生き写しって意味じゃないのよ。上祐はボクちゃんの父親じゃないでしょう。なんて表現したらいいのかしら。ぱっと見の印象っていうのかな。顔の輪郭というか、それぞれのパーツは微妙に違うけど、パーツのおかれてる位置が同じって感じ」
「それって結局いいとこ取りしてるんですかねぇ、それとも悪いとこ取りしてるんでしょうか。たぶん悪いとこ取りだと思うけど」
 彼女は微笑んだまま、それには答えない。こちらをじっと見つめている。冷静に客観視するがごときの眼差しだ。すべてを見透かしているのではあるまいな。見方によってはどことなく怖い。彼女とデートできてこれだけ嬉しいのに怖いとは───なんとも矛盾した心理状態である。
 鼻白んだ赤井君は、その矛先をかわすつもりなのだろうか、“上祐からもらうものをあえて選ぶなら、パーツの位置関係よりもパーツそのものの方がいいな”などと珍妙なことを考え出している。こんな時に福笑いをしはじめるなんて、どこまで平和なニイチャンなんだろうか。
 彼女が口をひらいた。
「でも雰囲気はまるで違うわよ。あんなに頭がクルクル回転する? 性格だって正反対じゃないの。間の抜けたファニーな魅力も演出できて‥‥‥」
 ありゃ、“間の抜けたファニーな魅力”ねぇ。それ、もしかして婉曲的に僕がバカだと言ってません? 落語によく出てくる、あのぼんやりした与太郎みたいに。まあ見るからにバカそうだから仕方ないけども。
「間の抜けたファニーな魅力って、歌舞伎なんかで言ったら、つまりあのぉ~道化役の三枚目ってことですよね」
「ニュアンス、ちょっと違うな。俗にいう二枚目半って感じ。意図しておどけることで色男の冷たそうな印象を薄めようとしてる。でしょ?」
 まぁ〜~買いかぶるもんだ。アバタもエクボなのか。「僕ってどこから見ても色男じゃないでしょう」と口にしてしまいそうになったが、自己卑下と受け止められてもみっともない。せっかく持ち上げてくれるんだから言わないでおいた。褒められてうれしくない者はいない。僕もその一人だ。とくに美しい女から褒められたときは。
「そうなのかなぁ」
「いるでしょう。目立ちたくて、あえてビリになりたがる剽軽(ひょうきん)な人が」
「ヘっ?」
 そうか、別に持ち上げてくれたわけじゃなかったんだな。
「バカそうに見せるの、あれって作為的なんでしょう。相手に警戒させないためなの?」と彼女。
「わざとじゃないですよぉ。買いかぶらないで下さい。意図してボケてるわけじゃないんです。天然と言うか、まんまと言うか」
「そうかなぁ、そうは思えない」
「え?」
「だって黙ってよく相手をスキャンしてることがあるでしょう。バカを装うのは警戒心を抱かせないようにして相手の情報をより多くゲットするため」
 スキャンって‥‥‥ああ、会話中にボケ~ッと妄想しだしてしまうことがあるからな。あれってただの注意力散漫なんですけど。
「ス、スキャンですか?」
「そう。神様が天上から私たちの心のうちをスキャンしているのと同じように」
「僕ってそんな曲者じゃないですよ、もっと単純な人間です」
「あら、そうかしら。お恍(とぼ)けはよしにしましょうよ」
「あ、あの、ちょっと話題かえません?」
「別にいいわよ」
「僕と上祐、どんなふうに雰囲気が違うんですか? 外側から見て」
「本物の上祐と雰囲気が違うっていうのは、あんなに弁が立たないこともそうね。ボクちゃん、強いて言えば口下手なほうでしょう。それに高飛車な物言いもしないし、早口でもないし‥‥どちっかっていうと性格的には今の、歳とって丸くなった光の輪の上祐史浩に近いって感じ」
「上祐さん、あれだけバッシングで世間からグツグツ茹でられたら嫌でも灰汁がぬけちゃいますよね。葉物野菜とおんなじだ。過去の犯罪は犯罪として、同情を禁じ得ない部分もないではありません。神か何かが試練を与えてるかどうか知りませんけど」
「だけどボクちゃんは今の上祐からもまだまだ遠い、遥か彼方よ」
 そう付け足す彼女である。
「ユーチューブなんかでごくたまに見ることがありますけど、おっしゃるとおり上祐は激流に洗われて最近では角が取れてかなり丸くなってますね。一方僕はもともと角のない、ありふれた石ころに過ぎないでしょう。しかも激流にさらされてるわけでもない。比べること自体、無理なのかもしれませんよ。どうせ生きて最後には死ぬんなら、弱火でとろとろ煮込まれる人生の方が楽でいいです。あんなふうに世間から強火でガンガン責められる人生よか、ずっと」
「さっきから面白い喩えばっかり。語感と目のつけ所が普通の人と違う」
 これ、ご主人の影響ですよ。つきあう前はこんなんじゃなかった。
「僕、なにかを喩えるとたいてい食べモノ関係になっちゃうんですよ。食い意地が張ってるのかな(w)」
「色で言えば上祐とボクちゃんはちょうど補色関係ね。きっと混ぜると互いに性格を打ち消し合って真っ白になるわよ。でもボクちゃんは私にとってちょうどいいぐらいの性格。わたし向きよ。逆にあなた向きの私であってくれればいいんだけど‥‥‥格好よくなくても少しも構わない、おっとりした人が好きなの。毒にも薬にもならない人のほうが疲れなくていい。もう疲れるのは嫌、もの足りないぐらいの人でいい。若い頃は未熟で、私も面食いだった。男らしくて目立つ人が好きだった。でも男の顔とかスタイルなんて最初だけよ。そのうちどうでもよくなる‥‥‥」
「人の運命に顔相なんて、かかわりあるんでしょうか。どのみち当たるも八卦当たらぬも八卦なんじゃないっす? 指紋と同じで、ただの模様でしょう。未来のことは誰にも分からない。そんな将来やってくる出来事や境遇のことなんて知り様がないでしょう。なにしろ現時点ではその出来事も境遇もここに訪れていないんだから」
「そういう世界観、人生観なの?」
「うん。未来との交信なんてできっこないと考えてます」
「意外。もっと夢見る坊やだと思った。そうはいってもね、約束手形でも、銀行振込でも、クレジット決済でも、なんでもいいけど、いったん形として記録されれば未来とつながることになるんじゃないの? ほぼ100%正確に未来からその回答がくる。でないとネットバンキングにしろ、ATMにしろ、成立しないことになっちゃうでしょう。これって未来と交信していることにならないかしら」
「ん?」
 あれ? たしかに言われればそうだな。けどいくら無理筋な主張を通そうとしたって、どだい未来と交信などできっこないんだ。未来は不確実で予測不可、そんなの当たり前ではないか。鬼が出るか蛇が出るか、だろう。こんな事務処理的な、まったく次元の違う話に説得されてしまってどうする。どうして、こんな簡単に会話の主導権を握られてしまうんだろうか。
 さて、彼女の理屈のどこに穴があるんだろうか。解らんな。なぜこんな簡単なことが解らないんだ。脳細胞が角質化でもしたのか。必ず穴があるはずだ。解らないなんておかしい。小学生じゃないんだぞ。美しい女を前にすると持てない男は腑抜けになると言うが、こういうことなんだろうな。
「あら、穴があったらダメなの? 軽石は穴が多いから水にも浮けるんでしょう」
「え? いま僕、穴とかなんとか口に出してました?」
「いいえ、黙ってしばらく考えてたみたい。穴が開くほど私の顔を見つめながら」
「いえ、その~~、綺麗だからつい見惚(みと)れてしまって」
 黙っていたんなら何で考えていた内容を知っているんだ。君の心のサーバーにメールを送信した覚えはないぞ。恋文を届けるなら直筆が礼儀だろう。もちろん伝書鳩も使ってない、ポッポッポ。やれやれ、胸を突かれてしまったな。どうやって心の中を覗いたんだろう。もしや僕の気づかないもう一人の僕がいて、それとなく彼女に聞こえるように独り言をいってたんじゃなかろうな。つぶやきシローならぬ、つぶやきカサノか。ヒソヒソ話をする自分の分身を想像するのは気味が悪い。
 いやいや、想像してしまうから気味が悪くなるのだ。そんな馬鹿なことがあろうはずがないではないか。不思議なことばかりだ。訳が分からん。まるで方向感覚を失った森の中の迷子だ。方位磁石をもってこりゃよかった。こんな不思議がってばかりいないで、頭ん中を換気してもっとクリアにしないと。もっとシャンとしろ。冷静になれ。油切れで思考の流れが滞り、つなぎ目でギシギシ不協和音をたてているぞ。
「しかし自分の足跡を次から次へと消していく人物には、その理屈は通用しませんよね。だって形として残すべき記録自体が消えちゃってるんだから。未来と交信しようにもなす術がないじゃないですか」
 トンチンカンな理屈で応戦してしまった。恥ずかしい。なんでこんなしょーもないことを言い出したんだろうか。勝手にこの口が喋り出すんだから仕方ない。
「それって顔や足のない幽霊のこと? それとも決して証拠を残さない007みたいな人なのかな。もしかしてあなた自身のことだったりしてね」
「えっ、いやぁ〜あの~、その~、別にそういう意味でもないんですけど‥‥過去と同じで、未来も今この世に存在しない幽霊みたいなもんじゃないですか。僕たちは過去と未来の境界線しか歩けないんです。僕たちは過去と未来の境目、すなわち今この時にしか存在することができないでしょう。過去にしても未来にしても、現在以外の時間軸には触れることすらできないんですよ。過去も未来もホルマリン漬けにして目の前に置くことはできないじゃないですか。どうやって交信するんですか。だいたい交信って何語で交信するんでしょうか? 幽霊語ですか?」
「間違ってるわよ。魂は未来と現在を交信させたがってる。私たちってよく未来の自分を思い描くでしょう。それとは逆で、未来の自分が今の自分に会いにきたらどう感じるのかしら? その時なんて言うのかしら? 未来のボクちゃんは今この時も、現在のボクちゃんを見つめてるのよ。彼は今のボクちゃんの心が痛み、その回復が必要なとき、あえて魂と魂の波長を合わせて癒そうとするの。そしてその回復のプロセスをどこまでも辿り続ける」
「面白い話ですけど、その未来の自分って実際には存在してない、想像力の産物でしょう。じゃ百歩譲ります。その未来の自分って、場合によっては死後の僕ということもあり得ますよね。もうすでに遺影になっていて浄土から今をのぞき込んでいたりして‥‥‥だったらお坊さんもビックリで笑えるじゃないですか、ナンマイダ。“僕が未来にもう一人いる”ってどうなのかなぁ。いったいぜんたい、そいつって誰でしょうか。僕のレプリカなんでしょうか。それってまるで日曜劇場『VIVANT』の堺雅人じゃないですか。僕ってあのドラマの主人公みたいに二重人格でもないし、あんなに男前でもしょうゆ顔でもないと思うんですけどもねぇ」
「そうね、どっちかって言えば、ボクちゃんはマヨネーズ顔っていうか、砂糖顔ですもんね」
「それって、どんな顔なんですかぁ」
「想像してみて。もしあなたが未来から、いま現在のあなたを眺めているとしたら、それって交信してることにならない? これってとても本質的なことだと思うんだけれども」
 かまわず畳みかけてくる彼女。赤井君は目を泳がせる。
 実は冷静さを装ってはいるが、さっきから一撃をくらってしまった感覚なのである。何故かと言えば、そのことがずっと前から気になっているからだ。いつも誰かから観察されている気がしていた。いま現在もそうだ。もしそれが仮に彼女が言うとおり未来の僕だとしたら‥‥‥
 かなりの心的インパルス、このボディーブローは効く。強弁したのはそのせいである。平たく言えば強がり、小難しく言えば心理的防御本能だ。ほんとうは内心動揺している。弱点を突かれハートを冷やされたというか、自分自身が透きとおっていくというか、何しろそんな印象なのである。体中を網状にはしる血管が全部、水のように透明になってしまった心境だ。
 ふっ、馬鹿々々しい。どうしてそんな架空の話に足を踏み入れようとする。なんで僕が何人もいるんだ。僕は僕ただ一人だろう。なにが“血管が全部透明になっていく心境だ”だ。大きな蚊が頭のてっぺんから血を吸い上げているとでもいうのか。そんなデカい蚊なんているのかぁ? 笑い話にもならない。
 そいつが未来の僕だと言うのなら、そいつは超能力者か。そいつはどんなものだって覗き見ることができるのか。だったら魔法の望遠鏡を使って死後の世界まで覗き見ることができるんだろうな。

「あら? ボクちゃん、どうしちゃったの? なんだか生気がない。表情が虚ろよ。さっき魂の色が薄くて見にくいって言ったからかな? ただの戯(たわむ)れ話じゃないの。そんな真剣に考えることでもないでしょう。なら、山の話の続きを‥‥‥ね? じゃどこかしら、山じゃなかったら」
 今度はそっち側から詰められてこられるのか。こんな心理的せめぎ合いをしても、とてもかないそうもない。言い負かされるだけ。肉体的に女が男に勝てないように、言葉で男が女に勝てるはずがないのだ。
 さて、山じゃなかったらねぇ‥‥‥う~ん、頭が沸騰して茹で玉子になりそうだ。ちぇ、相変わらず食い物の連想ばかりだな。そうか、腹が減っているからか。なんとなく面倒くさいので、ずっと食べなかったせいだ。それで頭が働かないのかもしれない。テレビがつかないのはリモコンの電池切れのせいである📺。まさか大きな蚊が頭のてっぺんから血を吸い上げて、血管がパイプラインの役割りを果たさないせいではあるまい(w)。
「喫茶店とかレストランとか。どうです? お腹、すいてきません? 食べた後は風まかせで」

〈そうそう赤井君、大人の女にたいしては素直でなくちゃ。できるだけシンプルにね。言い合っても勝ち目はない。あっさり白旗を揚げることだ〉

「風まかせね、分かった。風まかせって、約束よ。でもダメねぇ、僕ちゃんは。滅茶苦茶になりたと言われたら滅茶苦茶にしないと男じゃないわよ。いま壁ドンして強引に口説き落とさないと。録画だめした映画と同じ。“このつぎ観よう”はたいてい“いつまでも観ない”になっちゃうものでしょう。“また今度”ではすまされない夜もあるのよ。相手もそれを待っているかもしれないでしょう」
「待ってるって、そんなの、どうか分かんないっしょ」
「女にそれを言わせる気? 私、泣き叫んでも誰も助けに来てくれない時しか泣き叫ばないの」
 
 ええ‥‥え? どういう意味だ? ピンとこない。一瞬、彼女の声が言葉ではなく、意味を持たない文字列になった。耳コピしようにも旋律が耳に届かなければ演奏できないではないか。言葉ではなく、ただの音。そんな音が妖精のささやきとなって耳のなかで蠢いている。わざと理解に苦しむことを言って迷路に導き入れようとしているんだろうか。
 混乱して頭が揺さぶられる。僕はキツツキか。脳が酸欠状態で情報処理が追いつかないのか。山に登るというハプニング発言、あの余波が心の水面(みなも)にまだ残っているからかもしれない。それとも彼女に心の中を読まれたりしたからかな。
 いずれにせよ釈然としないのはテーブルにいろいろな思考が散乱しているからだろう。整理整頓しなきゃな。いやぁまったく、なんで今ここで暗号文解読に挑戦させられんといかんのだ。
 彼女の繰り出す言葉に思考がかき混ぜられ、脳ミソが今度は茹で玉子ならぬ、煎り卵になりそうだ。あらあら、今日は卵料理づくしかか。いま加熱調理されてる最中なんかね。脳ミソを熱処理してどうすんだ。ああ、頭が空回りする。フィギュアスケートのスピンをしてるわけじゃないんだぞ。
 もしかしてこれ、鷹狩りかな? おっと何で鷹狩りが突然でてくる。戦国武将の狩猟かよ。彼女は狩られるためにここにいるのではない。狩るためにここにいる。ふつう逆じゃない? もしそうならあの笑みはスミレ色じゃなくて血の色ではあ~~りませんかぁ! 
 こんなことを思いつくのはきっと数日前に読んだパスカルの「パンセ」の余波に違いない。パスカルは「パンセ」のある章でウサギ狩りを例に挙げ、このように説明していた。狩りは獲物を得ることでなく、獲物を追いかけることに夢中になることで、退屈や死への不安等の様々な苦しみを忘れることが目的であると。いわば不幸から目を逸らすための気晴らしだというのである。
 もしかしたら彼女は今、仕事面か家庭面か知らないが、かなり不幸で心理的に追い込まれた状態にあり、最悪の場合は死にたいと考えてるんじゃなかろうか。だから破れかぶれで今から山に登るなどという奇天烈なことを言い出すのだ。
 僕はいま、狩りで追いかけられるウサギにされてるのではないのか? それもこれも自分のやりきれない不幸から一時的でも目を背けるためだけに‥‥‥あのぉ〜、ちょっとぉ待ってくださいよ、初デートなんだからそんな深刻なんじゃなくて、もう少しマイルドな、ちょうどいい火加減にしてもらいたいんですけどねぇ。最後には切羽詰まっていっしょに心中なんてのは嫌ですよ。そんな生々しさは、何処からどう見ても手弱女(たおやめ)の君に似合わない‥‥‥よね(?)
 と、何処からどう見ても益荒男(ますらお)から程遠い赤井君はあれこれ考える。いったい彼はさっきから、なに訳の分からないことを夢想しているのだろうか。絵空事につぐ絵空事で、もうシッチャカメッチャカではないか。兼好法師だったら“心に移りゆくよしなし事”も『徒然草』になろうものだが、彼の場合はセンズリのオカズにもならない。
 一方、彼女はさすがタコ女だけあって墨を吹く。言葉の煙幕をはって相手を眩惑させるのが上手だ。赤井君は骨抜きにされている。なるほどここまで彼女から甘い言葉で煮詰められれば、彼が骨まで柔らかい魚の甘露煮になってしまうのも無理はない。
 タコ女‥‥‥最初にこの失礼な呼び方をしたのはいつだったか。そう、小倉駅ではじめて彼女を見たときだ(霞ゆく夢の続きを〈1〉─4)。彼女は彼を見つめていた。あのとき赤井君はからかわれていると思った。それで僻(ひが)み根性から彼女を心の中でタコ女と罵ったのである。なんだかとても遠い昔の出来事のように思える。
 だが、からかわれているのではなかった。現にいま彼は彼女と横に並んで歩いている。それが証拠だ。これは夢か? 奇跡か? 赤井君は奇跡のほうに賭けた。さあ、夢でないことを祈ろうではないか。人生には奇跡というものがあるのだと。

「女の人にそれを言わせるだなんて、とんでもない。かりに無理に言わしたとしても、こっちも心の準備もいるじゃないですか‥‥‥あれ? 僕って相当勘違いしてたりして」
 この奇跡を取り逃がすまいとアタフタする赤井君である。先走り過ぎだ。

〈おい、何を言い出すんだ。もとよりそれ、問いと答えが微妙にリンクしてないぞ。どういう思考の筋道でそうなっちまう。高温多湿のせいで頭の神経細胞が錆びつき始めたのか。それとも彼女にお熱をあげすぎて脳ミソがオーバーヒートしているのか〉 

 独り芝居のピエロになる赤井君。内面の葛藤がリアルに顔に浮き出ている。彼は今、抑えがたい欲望が自分の吐いた血のなかに溺れていくのを見せつけられている。

 街路灯に明かりがともった。まだ暗くなりきっていないため、川面に火影がくっきりとは映っていない。路傍の灯がぼやけたクラゲに変じて、水面を不安定に漂うのみだ。水底にゆらめく銀のスプーンを連想させる情景である。薬品に浮かぶ、半透明の眼玉がこちらに視線を向けている。異様に絵画的な情景で、シュールレアリスムの作品を鑑賞しているかのように思える。
 勝山公園に来る道すがら橋の欄干から覗いた時、たしか紫川は周囲の街並の景観をくっきり映しだしていたはずである。あの時と同じで河面に波の揺らぎはない。辺りが暗くなりつつあるせいもあろうが、あるいはこの位置、この角度からは、光学的に鏡のような全反射はもともと期待できないのかもしれない。
「結局お任せってことになっちゃうのね、ボクちゃんは」
「ええ今回に限ってはそれで。それから一つだけ‥‥」
「なに?」
「ホントにその“ボクちゃん”っての、いいかげん止めてもらえませんかね」

 かなり薄闇が辺りに溶け込んだ。硯で墨を磨るかのように、周囲の色が次第に濃黒に染まっていく。水色の空に暗色が滲みだす。夜気が五感に貼り付いてくる。口に含んだ水のような生ぬるい風が五感に触れる。
 見上げれば西の空が、ぼかし染めのように地平に向かって色を濃くしている。とくにこの時刻は空の濃淡差、明暗差が大きい。
───通勤列車も鈴生(すずな)りになるこんな時刻に、よりによって山登りとは? まさか“山上の山小屋で一夜を過ごして山の日の出を拝みましょ”ってんじゃないでしょね? そうならこっちにとってすれば願ったり叶ったりの申し出なのだが、そんなことがあるもんか。じゃ、何なんだ。ちゃんと裏を読まなきゃ。おいおい、からかっているのか。それとも僕を試しているのか? 何を試してる? 紳士度とか。アホらし。

 煉瓦張り遊歩道が尽きて車道に出た。勝山公園の敷地はここまでだ。たいした距離を歩いていないのに、ほんのり額が汗ばんでいる。枯れ木のように街が乾き、砂漠のように焦げている。
 横断歩道を渡り右手すぐに、テナントビルが建っていた。日射しが弱まり、アスファルトの照り返しはもう気にならない。「土居ビル・コープ野村大手前」と読める。ビルの名称だろう。一階と二階が店舗や事務所、それ以降の階は共同住宅らしい。すでにシャッターを下ろしているところもあるが、軽食、喫茶、衣料品店と店舗はそれなりに人が入っている。夕食時だからかもしれない。
 ビル前の歩道をいく。真正面、隣接する車道の行きつく先には遠く北九州市立図書館の緑色の丸い屋根が見える。初夏の生温かい吐息がその遠景をにじませている。
 あそこあたりも勝山公園の敷地内なんだな。いや~この公園は広い。たしか昔はもっと狭かったはずだが‥‥‥ん? それって一体いつの話? 何十年前のこと? どうして僕にその記憶が鮮明に残っているんだろう。そのとき僕は生まれていなかったはずだ。たとい仮に僅かにせよ重なる期間がありえたとしても、時を経て記憶は風化する。ほとんど忘却の彼方のはずだ。
 にもかかわらず今、その頃の情景がありありと思い浮かぶのはなぜだ? 時間の経過と連続性、そしてその記憶自体もあやしい。これはどういうことだろう。体は今ここにあるのだが、心は遠い昔にある。しかも僕が知らないはずの昔に。二つの指標が併存している。どちらが正常な座標軸か。
 不思議だ、生まれる前を知るよすがが頭のなかに残っているなんて。その時間差をどうやって追認する。生まれる前の経験はどこからきたのか。やっぱり前世からか。考えれば考えるほど分からなくなる。脳ミソが溶けて、口から水のように流れ落ちていくかのようだ。

〈記録しえない記憶が今ここにある。“記録より記憶に残る”かぁ。まるでレジェンド長嶋茂雄だな〉

 こういうことはよくある。これには必ず何か理由があるはずだ。そして僕はその理由を既に知っているはずなのだ。そこまでは分かる。だがその先に行けない。どうしてもその理由が思い出せない。知っているが思い出せない‥‥‥これは完全に矛盾する。思い出せないくせにどうしてその理由を知っていると言い切れるんだ、なんでそう決めつけるんだ───という話になってしまうからである。
 だが、答えがそこにあることだけは確かなのである。それは確信めいたものだ。とはいえ今は記憶が定かでないのである。思い出そうとあせるほどに、夢のような外形のない白くぼんやりしたものが、目の前を漂い過ぎていくのみだ。一向、心の靄が晴れてくれない。たまに思い出せそうな気になることもないではないが、あるところまで行くと決まって頭上で重い記憶の扉がバタンと閉まってしまうのである。
 まあ、それもいいだろう。人は過去から完全に自由になれない。ほとんどの人が過去のさまざまな感情を現在まで引きずる。いわば過去の奴隷。みんな同じではないか。
 ちなみに不可解なことをもう一つ。こんなのどうでもいいことなのだが、公園の過去の姿は鮮明に浮かぶのに、上空から公園を見下したときの絵がとんと描けないのである。あたかも卒業アルバムを開くと校舎や運動場等、学校敷地全体の航空写真が黒塗りされていたかのような気持ちだ。
 グーグルマップ等で一度や二度は見たことがあろうはずなのだが、不思議なことにそうなのだ。かつて学生アパートという名の魔境で悩乱(のうらん)していた僕を死霊達はいかように見下していたのであろうか(『女と』)。あのとき死霊達の持っていた地図ソフトを今ぜひ拝借したいものである。
 公園は上から見るときっと人の顔の形をしているのではないかと勝手に想像してみる。はるか上空から見下ろせば、勝山公園全体が血を舐めた吸血鬼の顔や柘榴の断面のように夕陽の茜色に染まっている。あるいはアミューズメントパークよろしくもっとカラフルで、顔じゅう多色のポスターカラーを塗りたくっている、かつてのアメリカンヒッピーのように見える。いずれにせよ、どんな装飾文様を描き出そうとも想像と実際はまったく異なるであろうことは承知しているのだが。
 そんな曖昧でとりとめのない思索に囚(とら)われているうち、車道路肩にコインパーキングが帯状に並んでいるのがはたと目に留まる。並んで歩くのがよほど嬉しかったんだろう。気づけば二人、腕を組んだままかなり遠回りしてこのコインパーキングに辿り着いた。そしてそのパーキングの一つに彼女の車が───。
 すぐに分かった。東の空はすでに濃い磨りガラスと化しているものの、判別するのにまだ光量は十分だ。その色とスタイルからしてやたら目立つので一目瞭然である。車が微妙に斜め駐車されている。こんなのが気にならない所をみると、彼女も僕と同じ大雑把なO型なのかもしれない。
 女性に「あなたO型ですか」と血液型を尋ねるのは別に失礼とも思わないが、弁の立つ彼女のこと、「大雑把な面は誰にでもあるでしょう、そんなバーナム効果は受けないわ。私はAB型よ」などと逆にねじこまれて逃げ場がなくなってしまうのも体裁が悪い。
 どうやらスカイレストランで旦那を舌鋒鋭く追いこんでいったときの、彼女のイメージが心の隅っこに引っかかっているようだ。もちろんあの時は妻を怒らした旦那が悪いのは分かりきったことなのだが(霞ゆく夢の続きを〈5〉─38)。
 赤井君は非科学的妄想を膨らませる。確かにあの時の頭脳明晰さは何だかAB型っぽいな。僕だけの印象かもしれないが、O型はもっとボケッーとしたイメージがともなう。Oはゼロとも読める。O型は中身がゼロだからだろうか。そう言えば、O型が研究者に発見された当初、C型と呼ばれていたというのを何かの雑学本で読んだことがある。A型、B型とくれば次はC型となるのが当然の成り行きだ。それをあえて名称変更したところをみると、やっぱりオツムが空っぽなんだろうか(w)。
 彼女にO型ですかと尋ねなくてよかった。とりあえずここではあえて訊かないでおこう。彼女とのこの貴重な時間、そんなことで徒(あだ)やおろそかにできない。いずれ分かることだ。どうしても知りたいことでもないし。
 そもそも、調べたことがないので僕がO型だというのも定かではでない。自分の性格等から勝手にそう決め込んでいる。もともと興味がなかったせいで両親の血液型さえ知らない。多少興味がではじめたのは箱村とつきあいだしてからのことだ。
 あれ? パーキングメーターの数字があらかた180分とある。そんなに前から来ていたのか? 
 さすが時計の針と目盛りをおっていなければ何となく落ち着かない、アナログ派の赤井君だけのことはある。こういう詰まらないことには、なぜか目配りが利く。
 これってもしかしてオブラートに包んだ意思表示なのかも。「それだけ早く来てアナタのことを待っていたのよ」ってのを印象づけるためだったりして。だからあえて屋外のコインパーキングを選んだ。駐車場なら他にも一杯あるもんな‥‥‥
 ふっ、まさか。コインパーキングでなくとも駐車時間は分かるじゃないか。へんな詮索をして妄想を膨らませるんじゃない、たまたまここが駐車しやすかっただけのことだ。うん、ちょっと考え過ぎだなぁ。自惚れるのもいい加減にしなきゃあね。

「なに考えてるの?」と彼女。
「ええ、ちょっと」
「異世界にでも飛んでた? さてはまた何かをスキャンしてたのね」
「お恥ずかしい、妄想癖があるもんで」
「それは誰だって同じよ」
「は‥‥‥はぁ」
「だってみんな、脳の情報量は外からの刺激よりも内で生まれる情報の方が圧倒的に多いでしょう。だから同じなんじゃない?」
「難しい事いうんですね」
「でも間違ってないでしょう」
「ええ、一般的に考えれば」
「その一般っていつの一般なの?」
 お、フェイントだ。彼女はたまに、こんな感じで手裏剣を放つ。さすが今日、勝山公園の芝生広場に気配を消して突然あらわれた、くノ一だけのことはある(霞ゆく夢の続きを〈8〉─53)。
「え? あ、そうかぁ、一般って時代によって違うし、人の数ほどありますよね。別に統計上の根拠があるわけでもないし、ただ僕がそう思い込んでるだけのことかぁ。よくよく考えれば一般なんてもんはないんですよね、一般的にいって」
「あら、また一般的って言ってる」
「あれ? 口癖になっちゃってるのかな?」
「ねぇ、ボクちゃんが‥‥‥あ、違った、アナタが運転してくれるとうれしいな」
 コインを入れながら彼女がそう言う。
「さっきどこでも連れてってあげると言ってませんでしたっけ?」
「やっぱり嫌。気が変わっちゃった。女の素が出てきたようね。連れてってほしい、女だから。疲れてるの、アナタに寄りかかりたい。女は待ち受け画面、本音はタップしてほしいものなのよ」
 こう優しい言葉を立て続けにかけてくれると、嬉しいを通り越して何だかこそばゆい。軽く磁気に触れたかのようだ。もっともっと幾らでも寄りかかってもらいたい。
「もちろんいいですよ。でも、ぶつけちゃわないといいけどなぁ。エアバッグが膨らむかもしれませんよ」
「それもハプニングで面白いじゃない」
 さすがハプニング女の会話返しだ。
「外車なのに右ハンドルなんですね、こりゃ運転しやすくていい」
「知らなかったの? この車の輸入モデルの主流は右ハンドルなのよ」
「外車にお目にかかること自体、稀なんで。そんなことも知らないなんてダサすぎですね。さ~て今日、生まれてはじめて外車に乗ることになりま~す。でも大船に乗ったつもりでいいですよ。気の緩みで事故らないよう気をつけますから」
「ぶつけたっていいわよ、ぶつけたらまた新しいのを買うだけだから」
「およっ、修理しないんですか?」
「しないわよ、面倒くさいから。とりあえず門司の方にむかって。なんとなく行きたい気分なの」
「そりゃまたどうして?」
「気分に理由なんかあるわけないじゃないの。あのレトロな雰囲気が好きなのかなぁ。それから海も見てみたい」
「ああ、分かります、その気持ち。門司・下関の海って小倉と違いますもんね。なんとなく歴史を感じさせる‥‥‥壇ノ浦とか巌流島とか」
「あのね、女が海を見たいと言ったときは、アナタに溺れたいという意味なのよ」
 なに、なに、なに、なに、そのセリフ。鳥肌が立ちそうだ。もちろん寒気や恐怖からではない。あまりの嬉しさに感動して、興奮してしまったからである。もちろんそこには仄かな緊張や期待も入り交じっているのであるが。
 嬉し~~~い、幸せ~ぇ。生きてきてよかったぁ。この果報者がぁ。この一瞬を押し花にして家に持ち帰りたい。
 照れ隠しのためか、「門司ってどっちか分かるわよね」とはにかみながら彼女が言う。
「バッチリですよ、大学に入ってからずっと北九州に住んでますから。電器店を首になる前は、電気製品を北九州のあっちこっちに軽トラで運んだりもしてたんですよぉ。それにナビもあるでしょう? まかしといてください」
 俄然、はりきる赤井君である。懸命に自己アピールしている。この大一番、精いっぱい背伸びして自分が頼りになる男だと見せつけたいのだ。いくら背伸びしようが身長はのびないのに単細胞の馬鹿ニイチャンだ。完全に首ったけになっている。
「そうね、わかった。じゃ、運転席に座って。レッツゴー」
 右ハンドルで運転しやすい上に、彼女と身長がそんなに変わらないせいで座席の位置を前後に調整する手間も省けた。ぴったりだ。短足もたまには役に立つ。けど、これって喜んでいいことなのか? いいことのようでもあり、悪いことのようでもあり‥‥‥とりあえず旦那のおんぼろカルタスを無理やり運転させられたときとは大違いだ。あのときはブツブツ文句を言いながら、運転席をガーッと前にスライドさせたっけ(霞ゆく夢の続きを〈5〉─39)。
 女は背の高い男を好むよう遺伝子に組み込まれていると述べている人がいた。身長が高い→脚が長くて速そう→獲物を多く捕まえて家に持ってかえる───なるほどまったく理屈が通らないこともない。だが仮にそうだとしても人の好みはまちまち。全員が全員そうとは限らないだろう。じゃ何で女は赤ちゃんを含めて小さな動物を好くのか。これって矛盾じゃね? あん? それとも、それとこれは別って話なの? おいおい、ひょっとして彼女がやたら“ボクちゃん”と呼ぶのはそのせいかよ。僕は恋愛対象ではなくて、赤ん坊なんかい。やめてくれ、そんなの反則だろう。
 併せて、女は強い男を好むよう遺伝子に組み込まれているという説もある。太古の狩猟時代には強さや攻撃性もまた、獲物を多く捕まえて家に持ってかえる資質の一つであった。さらにそれは外敵から家族を守る力としても機能する。原始時代は今と比べてはるかに危険な世界である。肉体的かつ精神的にタフな男であるほど、そういった環境下にあって長く生き延びる確率が高くなる。女が強くて攻撃的な男に惹かれるのは、そういう遺伝子をもったオスとセックスしていっそう強い子孫を残すためなのだ。ざっと言ってしまえばこういう理屈である。
 ただ理屈は理屈で、いかようにも捏(こ)ね上げることができるものだ。どのみち先史時代のことは文献資料が残っているわけではない。事実はあやふやで、当時の人たちの暮らしは確認のしようがないのである。男の強さや攻撃性だってどこに向かうか分からない。外ではなく内に向かう場合もあろう。内に向かう場合で言えば、確かにオラオラ系の男に惹かれ、殴られても足蹴にされても付いていくマゾヒスチックな女はいる。それが原始時代の性欲の名残りだと強引に解釈することもできようが、そんな単純なものかぁという気持ちもある。
 彼女に言わせれば、そういう女はより原始人に近い女という意味で“バカ女”ということになるのだろう。だがそこまで言うのもいかがなものか。なんとなく女どうしの敵意を感じる。
 一方、強さや攻撃性が内に向かうという意味で、女を殴ったり足蹴にしたりして興奮する男は現在もいる。これも原始時代の性欲の名残なのか。少なくともそういうサディスティックな傾向は、本流ではないにしろ現在に至るまでずっと引き継がれていることだけは確かだ。
 こういうことを妄想しだすと混乱してくる。考えが水平移動するばかりで奥深い場所に届いてくれないのだ。「どこか変だ」ともっと複合的にいろいろな要因が絡んでくるような気がしてくるのだが、その先が見えない。本来男と女の関係なんぞ秘め事で、どっちがどっちをどう扱おうが他人様の口出しできるものではない。もっとシンプルに考えればよさそうなものだが、つい思考をこじらせてしまう。
 何や知らんが、とりあえず今は原始時代ではない。トランプはイランを「石器時代に戻してやる」と脅したが、自分からみすみす石器時代に戻ることはないのだ。狩りをしなくなって久しい現代人にとって身長や力強さなど、もはやただの属性の一つにすぎないのだから。

 車内、射し込む西陽に微小な塵が浮遊して煌(きら)めいている。車の中を急場しのぎで掃除している、髪を束ねた彼女の姿がふっと思い浮かび、思わず笑いがこみあげてきた。
 いつ掃除したんだろう。出発する前に? それともここに駐車してから? いずれにしてもよほど仕事が忙しいんだろうな。車の清掃なんか暇な旦那にさせればいいのに。ああ、旦那には頼みたくないのかぁ。男に逢いにいくんだから当然だよね。
 あれやこれや勝手に想像をめぐらせる赤井君。のぼせあがった彼には、楽屋裏も含めて彼女の日常の全てがいとおしく、魅力的に感じられる。「恋は錯覚、愛は執着」という言葉がある。モテない男や遊び人がよく使う言葉らしい。遊び人かどうかは微妙だが、この言葉はからっきしモテない赤井君にそっくりそのまま当てはまりそうだ。

「ドライバーはちゃんと締めなきゃいけませんよね」と赤井君。
「シートベルトね。もう意識しなくても勝手に手が動くんじゃない?」
「いえ、ネジを」
「え、何を?」
「ドライバーでしょ? だがら頭のネジを。運転するときは気を引き締めておかないと。さあ、ネジネジしちゃうぞ」
 彼女はポカンとしている。こういう陳腐なおふざけは、どうやら旦那にしか通じないようだ。さっきから砕(くだ)けた夢物語を話してはいるものの、柔らかそうに見えて、基本、お堅い女管理職だ。ここでの顔はあくまで裏の顔。企業人としての表の顔は多分しっかり者に違いない。これ以上アホに思われたくないので、エヘヘと笑ってその場をごまかした。
 ハンドルを握り軽くアクセルに触れただけで、車はグーッと前に進んだ。ゆったりとした車体の動きとともに、サイドガラスに朱色に染まった雲が滑っていく。刻一刻と時間の流れを感じさせる夕暮れどき。変わりゆく風景の色使いに染まりながらBMWが疾走する。
 この外車、排気量はどれだけあるんだろうか。これだけ馬力があれば長旅でも足が疲れることはないな👣。いままで壊れかけの中古車しか乗ったことのない赤井君の感想である。エンジンの重低音が響き渡る。踏み込む程に加速され、景色が勢いよく後ろに飛んでいく。
 黒雲母の石質の空へ、赤いBMWの排気ガスが魔神の息となって吹き上がる。帰宅時の人混み。その中を夜の始まりにむかって走る自動車のエンジン音に、都会に病んで彷徨う無数の影も心を解き放され、ペラペラと紙人形になって風に吹き上がる。
 耳をつんざかんばかりの轟音とともに、やがて車は小さくなり、瞬く間に夕闇の薄暗い口奥に飲み込まれていった。BMWが消え去ったその場所に、新たな車が駐車されることはなかった。
 もうすでに辺りは闇のコンテが夕暮れの明暗をデッサンし始めている。亀の甲羅が海に沈んで見えなくなるように、まもなくその場所はそのまま黒ぐろとした夜陰の深海に沈下していくのであった。はたして最深部には何が待っているのであろうか。

(61)

「花菱、どうしてた。うたた寝のまんま、豚の丸焼きになってたか」
「太ってるから、こんがり中まで焼き上がるにはもう少し時間がいるかな? なにしろ直火焼きですから香ばしい匂いがしてきます。ついでに薪をくべてきました」
「ハハッ、バーベキューかよ」
 と一瞬笑いかけた箱村であるが、すぐ目を丸くして、
「えぇ、なんやて?! どないしょう、そりゃウォ、ウォ、ウォ、ウォ‥‥」
「どうしたんっすか? オットセイになったんですか」
「‥‥‥ウォ、ウォ、おお事ばい!」
 切れ長の目がデメ金よろしく飛びだてしまいそうな箱村の表情である。
「箱村さんと花菱社長の仲が悪すぎるんで、その摩擦熱で火がおこったんですよ、きっと」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ、待てよぉ」
「あ、木村拓哉!」
「なんでやねん。なんで木村拓哉やねん。今すぐ消防署に電話だろ! 119番通報だ! ざけんなよ!」
「ホラ、“ざけんなよ”って、やっぱキムタクじゃないっすか」
「呑気に冗談言うてる場合かよ。よくアルカイック・スマイルしてられるな。お前はモナリザか」
「火事は間違いなく社長の仕業ですね。自業自得ですよ。どうです、お祝いにひとつ、赤飯でも炊きますか」
「だから、電話って言ってるだろう!」
「人間、いつかは燃やされて骨になるもんです。それにスマホ、持ってないんで」
「なんて薄情な奴だ。俺がするから、もういい!!」
「あら~~ぁ、本気にしてらぁ。いつもの仕返しですよ。肝っ玉が小さいですね。だいたい炎を感知したら火災報知器が鳴るでしょう」
 土俵際でウッチャリをくらわす赤井君。箱村はポケーッとしている。
「なんだ、ブラックジョークか。アイツもゴッホみてぇに“炎の人”になっちまったかと思ったぜ。おっとこのセリフはウイットが利きすぎてるか。お前にはもったいねぇ」
「もったいないって、どこがですかぁ」
「しかしブラックジョークを真に受けちまうとは、俺も焼きが回ったな。まったく世話の焼けるジジイだよ。社長のくせして、奴が俺らの面倒をみるんじゃなくて俺らが奴の面倒をみてんだからな。でもよ、そうは言ってもさ、このビルの消防設備はすこぶる怪しいからよぉ。いくら反りが合わない水と油でも今、死なれたら困る。奴は宿敵だかんな。生きていく張り合いがなくなっちまわぁ」
 ───ほんとに水と油かな? 似た者どうしでしょう。軽薄でお喋りなところを含め、類似点はたくさんある。宿敵どうしといったって、しょせん長崎皿うどんと長崎チャンポンの差でんがな。同じ穴のムジナ、不揃いなのは体型だけ。ポテチなら花菱は空気デブだから袋入り、箱村はノッポだから筒入りだ。もし花菱が玉ネギなら、さだめし箱村は長ネギだろう。ネギどうしが互いに腐しあってどうするつもりでっか。ネギはネギっしょ、アホらし。
「だいじょうぶ、火事にはなってません。ご本人もさっき“燃え尽きてたまるかい!”と息巻いてたぐらいですから。当分灰にはならないっしょ。消防設備が心配なら、僕、退勤前に“火の用心”って拍子木を打ち鳴らしながら一階から屋上まで巡回するのを日課にしましょうか? どうせ暇を持て余してるし、運動不足だし」
「空室だらけの、この幽霊ビルでそんなことしたら驚くだろう。かえって迷惑じゃんか。響くしさぁ。考えることが昭和初期なんだよ。で、どうしてた、デブは。まだグーグーと午睡中なんだろう。たらふく食ってお昼寝か。ちゃんこ鍋くいすぎの相撲取りと変わらねぇな。ごっつあんですデブだ」
「いえ、部屋をのぞいてみたら寝起きでした」
「なんでぇ、起きたのか。ダバコの先から灰が落ちるみたいに、寝たままポロッと死んじまえばよかったのによ」
 さっき安否を気にして動揺してたばかりなのに、無事が分かるとこれだ。
「かっぱえびせんを水に浸したような、ふやけた顔をしてましたよ」
「あん、どういう顔なんだ、それ」
「どういう顔って、ヌカ漬けにされたような顔ですよ」
「おい、ますます分かんなくなったぞ。お前は食い物しか頭にないのか」
 アンタもでっしゃろ。
「なら、食感が気に入らないので何度も茹でなおしたような顔。ボヨヨ~ンとした感じの」
「それ、茹で玉子だろう。やっぱり食い物じゃないか」
「もしかしたら社長がよく寝るのは生きていくことが辛いからだったりして」
「ずっこけるよな事いうな。アイツがそんなに繊細か? ただダラしないだけだよ」
「社長ってボヨ~ンとした空気デブだから、まるでオバケのQ太郎ですね。Q太郎は頭の毛が三本しかない。社長の方がまだ少しは多いかあ」
「分かんねえぞ、てっぺん地毛パラパラだかんな。ところでお前、オバケのQ太郎を知ってんのか。意外だな。今の若い奴らは“Qちゃん”と言われたら、マラソンの高橋尚子が浮かぶんじゃねぇのか」
「いくら世代間ギャップがあるからって、そこまで話は混線しませんよ」
「なつかしいねぇ、あの漫画。お前が知ってるとは驚いた。で、アイツなんか言ってたか」
「僕を見るなり、“おう赤井君、まだここにおったのか、気づかなんだ。いつから座敷童子(わらし)になったんだね”だって」
「口の減らない爺さんだな、寝ぼけたこと言いやがる。寝てたから仕方ないけどな」
「僕が座敷童子なら、さしずめ箱村さんはぬらりひょんですね」
「ぬらりひょん?」
「だって、フワフワとどっかに行っちゃって掴まえ所がないでしょう」
「ぬらりひょんって、どんな妖怪だったかな? 忘れちゃったよ」
「忘れたままの方がいいですよ、きっと怒りだすから」
「ちぇっ、それにしても花菱のやつ、夜行性珍獣のくせしてオネンネから目覚めたのか。残念だ。あのままずっと夢路をたどってりゃいいのにな。子守歌でも歌ってもう一回寝かしつけてやりゃよかったのに。ハゲの濁点ぬいたら刷毛(はけ)だろう。寝てたら刷毛でもって頭の上からニスを塗ってテカテカにしてやったのによ。あれよぉ、タコ焼きに刷毛でソースを塗る感じでさ。なにせアイツはタコ坊主だからよッ!」
「僕だったら、ハゲ頭を乾布摩擦してあげます。きっと床屋さんに行くより気持ちいいですよ。磨き上げて艶を出しちゃったりしてね」
「それ、俺が言うのより過激なんじゃね?」
「ですか?」
「じゃないの?」
「乾布摩擦で血行がよくなって、凝り固まった考えも少しは柔らかくなるんちゃいます?」
「ほな、アホな。そこまで言うたら、怒って禿げ頭に角が生えだすんちゃうか、ポテチン」
 と、箱村がずっこけるフリをする。幻の関西人健在だ。
「社長がいれば、いつも明日は晴れですね☀」
「なんで?」
「だってテルテル坊主がいらないでしょう。いっそ軒下にでも吊るしときましょうか。重くて屋根が壊れちゃうかな?」
「なんでやねん、ほなアホな! ワッハッハッハァ───噂をすれば影が差すで、アイツひょこりとここに現れるんじゃねぇか? 知らねぇぞ、出てきたら。そういやぁ、吉本芸人で“ひょっこりはん”とかいうのがいたな。最近テレビで見かけないがどうしてんだろうか。そんなこと、あの豚とは関係ねぇか。関係ねぇけどアイツがひょっこり顔を出したら、いっしょに腹の出っ張りまで突きでちまうな。ワッハッハッハァ、こりゃ、おもろい。よ~~し、お前がそこまで言うなら、ついでに奴のツルッパゲをモップ掛けだ。“ピッカピカだよ、おっかさん”ってな具合によぉ」
「それを言うなら“ホッカホカだよ、おっかさん”でしょう。前川清の消炎湿布のCMの」
「あ、そうか。ありゃ“ピッカピカの一年生”か。でも何で俺も忘れかけてたCMをお前が知ってんだ、この若年寄がぁ」
「いいなぁ、箱村さん。クルーズツアーにいくんですかぁ」
「お前、なに言ってんの?」
「だってシップでしょう、エヘヘへ(照)」
「そのシップじゃないわい!」
 シ〜~~ン。
「やれ、また、ずっこけサービスしてやろうと思ったが、その小ネタは本場大阪ではまるで受けんばい。大コケくさ。社長の頭を二人して虚仮にした報いかもな。コケてコケてコケコケのコケコッコ~、鶏サンばい。ここらでアイツをネタにするのも打ち止めだ。冥途の土産に、あのお鍋アタマにパカッと蓋をかぶせちゃろう。高齢でもうすぐ死ぬんだもんな。死んで位牌になっちまったら、位牌には口が付いてないんであのクソ長いお喋りもできんことなるかんな」
 箱村の無駄話の最中にもかかわらず、一人、赤井君だけ腹をかかえて笑っている。自分の言ったシップねたギャグのあまりの下らなさが可笑しくてたまらないのだ。笑いが止まらない、なんとかしてくれ。
「なに笑っとるんや。大笑いしとるのは自分だけだぞ。かくなる上はお前の生やした草ば、根こそぎ刈り取っちゃるばい!」
「令和の米騒動がちょっと前に起きたばかりじゃないっすか。どうせ刈り取るなら、我が日本国のために稲を刈り取って下さい」
「はぁ?」
「ところで僕的には温熱シップより現ナマの一杯入った分厚い財布の方がずっとホッカホカになるんですけどねぇ」
「ん? ああ湿布の話ね、あっちこっち行くから付いて行くのが大変だ。そりゃお互い言えてるよな。しかし成金のアイツは違う。お前、いつも遠慮してるようだが成金だからいくら身銭切らしたっていいんだぞ。そのほうが少しは痩せるってもんだ。はした金を使わせたって、口から先に生まれたジジイのスカタン話を無理して聞いてやったご褒美だ。アイツを見てるとよぉ、つくづく“太ったソクラテスより痩せた豚”でいたいと思うよ。あ、これはお前のまえで言っちゃ悪いな。この痩せぎすな亡き楳図かずお大先生よッ! あらまぁ、失礼しぁした。せいぜい栄養失調で死なないよう気をつけるこったな。なにもムキムキになれとは言わんが、お前の場合はアイツと逆で、もっと食わなきゃダメだ」
「でも腹八分に医者いらず、っていうでしょう。お腹の皮下脂肪もつまめるようになりましたよ」
「いつも“でも”から入るな。なんで素直にイエスと言えないの? いつも首を振ってばかり。お前は扇風機なのか。本当に腹八分なのかね、実際は腹三分ぐらいなんだろう。性欲はたんまりあるのに、なんで食欲や物欲がないのかねぇ。他の欲望は控え目なのに性欲だけが突出してる。性欲一点がドロドロと汚れてるんだよな。一見好青年の白ワイシャツ着てるから、その染みが目立つんだよねぇ。万々が一将来、お前が政治家にでもなるようなことがあれば、マネートラップには引っかからなくとも、ハニートラップにはすぐ引っかり、国益をたっぷり損ねることだろよッ」
「僕が政治家に? 馬鹿々々しい」
「分かんねぇぞ、この世に絶対ということはないんだ。一杯いるだろう、小説家で顔を売って、その知名度で政治家に立候補した有名人が。実際に政治家になった奴も結構いる」
「それ以前に僕は小説家になれないんでしょ?」
「そりゃそうだ。こりゃまた失礼しゃぁした、御免あそばせ。ま、ともあれだ‥‥‥ともあれここが火事にならなくてよかったよ。ただしそれはよかったんだが、くれぐれも煙に巻かれないようにしなくちゃダメだぞ。馬鹿話に付き合ってやるのはいいが、どこが切り取り線か見誤らないようにしなきゃな。お前は単純だから、女にも化かされるが狸ジジイにも化かされそうだ。アイツの言うことは美容院で聞くオバチャンの噂話といっしょで、まるでアテにならない。適当にあしらっとけ。真面目に付き合うこたぁない。それがヤツの取り説だ。単純なジジイだからオベンチャラですぐ気分をよくして舞い上がる。クイックイッと糸を引きゃぁ空中に揚っていく凧みたいにな。アイツの禿げ頭だってタコだろう。♪タコ、タコ揚れ~~、ってな」
 どこに行っちゃうか分からない凧はアンタもいっしょでんがな。また自分を棚に上げている。アンタも花菱も重くて、棚に上げたら棚が壊れちゃうじゃないか。
「そう言えばアイツ、“ワシャお前の師匠だから導いてやる”的なこと言ってたよな。導くって、偉そうに。奴はカーナビなのか。レクチャーを真に受けたら、どこに連れていかれる分かんねぇぞ。まだ不慣れな赤井に即興ポエムをつくらしたりしてな、イカれてるよ。なあ、そうだろう、いかれカーナビ爺さんは言ってることとやってることがチグハグだろう。そんなのが師匠なんてあり得ねぇちゅうの」
「チグハグといえばそうかぁ。タバコはやめたと言ってたのにその端から吸い出してる、勝新太郎の記者会見みたいですよ」
「でぶジジイ、ちゃんとパンツぐらいはけよ(w)。パンツはパンツ、ズボンはズボンじゃねぇか。日本人だろう、アメリカ英語かぶれのおネエチャンみてぇにゴッチャにすな! パンツと言わずともせめてステテコぐらいははけ。アイツはいつも“今日だけ禁煙”だよ。俺にも以前、やめると言っていた」
「ガンにならなければいいんですけど」
「なるもんか。ガンは痩せるだろう。お前が来るずっと前からアイツといっしょにいるが、どんどん太ってくぞ。ガンはストレスでなるんだよ、アイツにストレスがあるように見えるか」
「とてもそうは見えませんね(w)」
「それにだな、アイツ馬鹿笑いするだろう。自分で下らんギャグ言って、そのギャグにも大笑いしてる。あれだけ笑えば免疫活性してガンにはならないよ。体じゅうナチュラルキラー細胞だらけだ。きっとガンも逃げてくぜぇ。しかし何だな、このままどんどん太っていっちゃっていいのかね。人間アドバルーンだ。そのうち空にポッカリ浮くんじゃね?」
「そしたら広告費も浮きますね。もっとも未だに社長がどういう商売してて、どういう皮算用なのかも分かんないんで、どういう宣伝文句をアドバルーンに書き入れたらいいか迷っちゃいますよね。今度、詳しく聞かせてもらわないと。聞いてもまた意味不明なんでしょうけど」
「その前にどうやったらそんなに太れるのかを教えてもらえ、お前の場合」
「社長さん、最近流行りの話す体重計にのったら、“二人でのらないで下さい”って言われちゃいそうですね」
「そうそう、まったくもってそうだ(w)。アイツは子泣き爺いだよ。抱き上げようとするとバーベルみてぇに重くなって、しがみついたら最後、絶対離れないぞ。いつもお前にべったりだろう。おあつらえ向きのトロくて従順な話相手ができたとウハウハなんだろうぜ。ずっとウザがらみしてきて、離れてくんないぞ。お気に入りだ。そのうちあのデカいケツに圧し潰されることにならんといいけどな」
「やっぱりいつもソファーにゴロゴロしてて動かないからかな。日がな一日、あれじゃ太るのも仕方ないかぁ」
「うん、違いねぇ。アイツに比べてお前、ちょこまか動くもんな。しかもアイツの行動半径はあの狭い範囲だけだろう。縦の物を横にもしない不精デブ野郎だ。そりゃ太るぜ。要は摂取カロリーと消費カロリーの差で太ったり痩せたりするわけだ。あのさ、アドバルーンの話でちょっと感じたんだが、これって小説とも似てるよな。とろい作品でも宣伝広告に力をいれりゃ、ある程度は売れる。一方どんな優れた作品でも広告費ゼロなら売れない。それといっしょじゃね? 大事なのは損益分岐点だ。トータルでプラスになるかマイナスになるか。お前には言いづらいがあの業界、結果がすべてだ。最終的に体重がどうなったのか。それと同じで、小説で儲かったのか損したのか。数字がすべてなんだよ、この社会、クソッ!」
「もう怒ってないですよ」
「誰がだ。怒るって今の俺のことか」
「花菱社長ですよ。他に誰がいるんですか」
「そうか、そうだよな。もともとこの小説、読者が混乱しないように作中人物を少なめに設定してるもんな。ただでさえ中身がゴテゴテしてるんだから、登場人物が多いと年寄りの読み手なんか誰が誰やら分かんなくなっちゃうもんな。デブ、チビ、イケメンとキャラのかぶらない配役でもあるし」
 ───なんで自分だけノッポと言わずイケメンなんだ。
「なに不思議そうな顔してる。様々な体型が一堂に会する無差別級バトルロイヤルを想像してみろ、プロレスの」と箱村。
「え、どういうことです?」
「あのさ、一枚の色紙に何百人も寄せ書きしたら、ぐちゃぐちゃになって読めないだろう、そういうことを言ってんだ」
「おっとっと、何の話をしてるんですか。ちょっとそれ、この物語の進行上のことでしょう。いま関係ないんで、余計な気がするんですけども」
「読者サービスだ」
「はあ?」
「花菱の野郎がもう怒ってなかったのは、きっと自分が怒っていたことも忘れてんだろうぜ」
「冷静に考えれば花菱社長が怒るのも当然ですよね。だって無駄口を大声でたたいていたのは僕らだもん」
「ああそうだな。調子に乗って羽目を外しすぎた。小便しながらちょっと反省したよ。俺達、アイツのこと、ぼけジジイ呼ばわりするけどよ、俺らだって歳くってくんだよな。誰だっていつかは、やむをえず大統領選から撤退するバイデン氏になる。今はお前に突っ込みを入れるのが楽しみなんだが、そのうち俺もボケ担当になってくんだなぁ。明日は我が身、人ごとじゃない。ああ、情けない。栄枯盛衰は世の習い、人生は平家物語だよな。お前はまだ若くて余裕ぶっこけるからいいよ」
 内心忸怩(じくじ)たるものがあるのか、お喋りカメレオンがゼンマイ仕掛けの舌を巻きなおしはじめたようだ。軟化の兆しが見えてきた。
 そうそう、雪解けするのは大事なことですよ。雪解け水はミネラル豊富だとか。その水でコーヒーをこしらえれば、箱村スペシャルブレンドコーヒーの失敗作も少しは美味くなるんちゃいまっか? これを機に亀裂修復に動いてくれればいいのになあ。
「箱村家のお墓ってあるんですよね」
「あるよ、小倉南区の墓地霊園にな。それがどうした」
「最近お墓参りに行ってます?」
「行ってない、面倒くさいからよッ。お盆とお彼岸だけだ」
「箱村さん、久しぶりに墓地霊園にお参りに行ってみたらいかがでしょうか。あそこにはボケもツッコミも、勝ち組も負け組もないですから。みんな平等。あの人がどう、この人がどうと世間ではいろいろ言いますけど、人間なんてそんなもんですよ。たいして変わらない。心が乱れたりしたら、自分がいつかは入るであろう先祖代々の墓参りに行くのはいいですよ。他人から今、どんな非難中傷されていようが心が留守電状態に切り替わります。自分の否定しようもない定めを目の前にしたら、誰だって気持ちは落ち着くんじゃないっすかぁ。どんな外野からの野次も気にならなくなる。なにもかも小さなことに思えてくる。これ、僕の体験でもあります」
「そうか、そうだよな。でもなんだか情けないよ。人類が太古から進化し続けて、その最終の姿が今の俺なんだぜ。ただ図体(ずうたい)がデカいだけだ。恐竜と大して変わらないよ。あそこで進化が止まってる。完全に絶滅危惧種だ。タイムスリップして、あの時代に戻らなきゃいけねぇな。これじゃ進化論じゃなくて退化論だ。ダーウィンもビックリだぜぇ。せっかく先祖がノアの方舟に乗せてもらったのに子孫がこれじゃ神様も悲しむよな」
「そうでしょうか。少なくとも箱村さんが今ここに存在していることだけでも進化の過程においては勝利者ですよ。大半の遺伝子は地下深くに化石を残したまま潰(つい)えている。自信をもちましょう。お株を奪って悪いですが、自分を信じるから自信と言うんじゃないですか。まだまだ箱村さんには未来がありますよ。酉の市じゃないですけど、これからも熊手で福を掻き集めなきゃ」
 弱音を吐き始める箱村。喋りまくったせいで花菱との感情の縺(もつ)れがほどけはじめたのか。態度が和らいできたようだ。あまりにもたくさん悪口を言ったのでもう言い飽きた、お腹が一杯いっぱいってこと? ついに満腹ホルモンのレプチンが分泌しだしたか。
 そもそも宴会で酒をかっくらったワケでもないのに、大声で喋って笑ってのドンチャン騒ぎをおっ始めたのは僕らの方ではないか。誰がどう見ても、花菱が作業している時にドラムセットを叩きまくったこっちが悪い。心の内では箱村もそのこと恥じ入っているらしい。強がっていても本音がチラ見えしている。普段はわざと悪役(ヒール)ぶっていても、これが彼の真の姿じゃないんだろうか。ほんとうは自分の無力さを吐露して救いを求めたがっている。そうそう、それが素直さってもんですよ。
「俺って花菱に文句を言える男だろうか。ダメ男だ。稼ぎだって女房の半分もないもんなぁ。この頃じゃ、家でも粗大ゴミ扱いだ。今にもカカアにゴミ捨て場に持っていかれそうな感じだぜ」
「大丈夫ですよ。超デカい箱村さんを運ぶにはリヤカーぐらいじゃ無理でしょう。それこそ大八車(だいはちぐるま)がいりますよ。そんなもん、今の日本じゃ探し出すのが大変じゃないっすか」
「それ、何の慰めにもなってないぞ」
「箱村さんにしては弱気ですね。稼がなくていいじゃないっすか。男の方が稼がなきゃいけないなんて誰が決めたんですか。ミツバチだって働いているのは雌だけでしょう。雄は交尾のためだけにグータラ生きていますよね」
「おいおい、ワシら夫婦は蜂なのか。お前、いつから俺らのビーキーパーになったんだ」
 花菱への皮肉がいつの間にか自分への泣き言に変わっている。大声で悪口を言い続けたためだろう、声もかすれている。花菱にふり上げた拳がとうとう地面にめり込んでしまった。自分が大人げなかったことを恥じ入っているようだ。雪解けか‥‥だといいけど。箱村も実のところは、諍(いさか)いの陰に隠れた花菱の真の優しさに気づき始めているのかもしれない。
 あのとき花菱は箱村のことをこう言っていた。

 実をいうと‥‥‥‥アイツ、もう長くなさそうなんだ。思い違いであってくれればいいが。最近ますます魂の色が透明になってきている。今がアイツの最終章かもしれんな。これは本人には絶対に言うなよ。努めて今まで同様の態度で接するようにはしてんだがな、なんか気づきはじめてるようでな(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)。

 話は眉に唾をつけて聞くべきかもしれない。しかしそれはそれとして、こういう話を聞くにつけ花菱の優しさを感じる。貶(けな)してはいても箱村のことを案じているのだ。
 働き蜂がメスである一方、蝉で鳴くのはオスだけである。だからかどうかは知らないが、箱村は暇さえあれば喋りまくり、隙あらば花菱の悪口を挟み込む。花菱の本心を知っていれば、普通こうまで悪口は言わないと思うのだが。
 とにかく口数がやたら多い。時は金なり、喋らにゃ損だと言わんばかり。ナポレオン気取りではなかろうが、彼の辞書に「沈黙は金」という文字はないらしい。いい気なもんだ。
 普通これだけ二人がいがみ合えば禍根を残しそうなものだが、残しそうで残さない。いわゆる腐れ縁でこれまでやってこれたのは、たぶん表にあらわれない花菱の思いやりのせいでもありそうだ。

「僕たち暇ですね、いつもスイッチがオフだ。社長が僕たちを“暇人ども”と言うのも頷(うなず)けますよ。なんか会社に来ているというより、出入り自由のサークルに参加しているみたいなんですもん。そもそもこれで会社の体を成してるんでしょうか、受付もなければ窓口もない。仕事というよりか、ちゃらちゃら遊んでるだけなんじゃないですかねぇ。無為徒食の輩って、たぶん僕たちみたいなのをいうんでしょうね」
 箱村の落ち込みが気になり、話題を変える赤井君である。
「無為徒食ってか? 大好きな四字熟語だ、サンキュー。四字熟語のリズムを聞くとゾクッと快感が走るんだよな」
 こんなことで機嫌がよくなるなんて変わった人だ。
「ほんと変わってますね」
「無為徒食って悪い事かぁ? お前、ナマケモノだろう。ナマケモノは怠けていないと死ぬんだぞ。無為徒食でいいじゃねぇか」
「嘘(うっそ)~~ぉ」
「ホントだよ、俺は珍獣には目がないといつか言ったろう」
「へ~~ぇ、そうなんだぁ」
「ちょっと箸休めするぐらい悪かないだろう。がっつくばかりが能じゃない。時には心の染み抜きも必要だろう」
「ひぇ〜、これって“時には”なんっすか? “いつも”でしょう」
「“忙しい”という字は“心”を“亡くす”と書くよな。昔の人は考えぬいて漢字をつくってるよ。暇でいいんだ。心を亡くさずにすむ。本来の自分自身でいられるだろ? “忙しい”は“心”を“亡くす”───これ、よく例に引かれる話だけど、改めて味わうと含蓄がある。そう思わねぇか、思うだろう。暇はいいことじゃねぇか。思い起せばまだ若い頃、小説を必死に書きまくり出版社に送ってた頃なんかは、確かに俺も心を亡くしていたな」
「僕もここに来る前は心を亡くしていました。でも今はお陰様で心を握りしめています」
「以前も言ったかもしんねぇが、この仕事、結構むいてんじゃね? 夢茶の効果は個人差があるんだけどな、お前、いつもズブズブに酩酊しちゃうからさぁ。夢茶の酔い潰れっぷりも様になっている。あそこまで夢茶に弱い奴も珍しいんだよな」
「ときどき夢茶を飲むんじゃなくて夢茶に飲まれている気がします。夢茶を飲むことが、いつか命を差し出すことになるんじゃないかと」
「なりゃしないよ、大袈裟なことを言うな。急性夢茶中毒で死ぬんかいな、アホらし。お前がそういう人生のシナリオを書いてこの世に生まれてきたと思うのか。」
「またその話ですか。しかし夢茶って、あれでお茶なんっすか? あれを飲むなんて罰ゲームみたいですよ。マズすぎて後から玉露と茶菓子で口直ししたくなります」
「そう言うな。実は楽しんでるんじゃないの? 毎回、日常から非日常にトリップできてよぉ。ふつう伊達や酔狂でこんな仕事はできないぞ。あのマズさが舌に馴染んで、もう癖になってんじゃね? でもガブ飲みはよくない。いくらビンビンになるからといったって、調子に乗って飲みすぎたら夏バテになるぞ。まあ一応、お前がやり過ぎて危うくならないように俺らがガードレールになってるんだけどもな」
「アルコールみたいに気安く言わないでくださいよ」
「おう、そうだそうだ。夢茶はお茶というよっか酒だな。酔うからさ。酒って笹の露とも言うだろう。酒の異称が夢茶だって変じゃない」
「いや、いや、いや、いや、変でしょう」
「な〜~ん、あんなもん酒といっしょだ。♪ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやら梯子酒‥‥‥ってな。お前は只者じゃない。幻覚が映像のように流れるんだろう、こりゃエエぞぅ〜って感じでなぁ」
 また上(うわ)っ調子な話しぶりでシレ~ッと洒落を入れてくる箱村。
「シャレでっか?」
「初代林家三平です、どうもすいません。オデコにこうやって拳を当てたら面白くないシャレでも笑ってくださいよ、もぅ大変なんすから。ヨシ子さ~ん(古!)‥‥‥といっても若いお前は今の三平しか知らないよな」
 と、ニヤつきながら額に手を当てている。初代三平の真似らしい。
「あっ、知ってます」
「おりょ、知ってんの? ず〜っと昔、高度経済成長期の頃だぜ」
「ユーチューブで見ました。昭和の爆笑王だそうですね」
「なんだ知ってんのか。知らなきゃ、またバカにしてやろうと思ったんだけどよぉ」
「ところで三平と言えば、今の若い女の娘が求める結婚相手の条件は三高じゃなくて三平だそうですよ」
「話が飛ぶねぇ。三平? なんじゃい、それは」
「平均的な収入、平均的な見てくれ、平穏な性格。今の女の娘は高望みしないんだって」
「最近の若い女の娘はそこまで賢いのか。知らなんだ。歳くった女の方が賢いと思ってたんだけどな。だったら三低のお前も少しは希望を持てるじゃんか」
「三低も今風の解釈だと、低姿勢・低依存・低リスクなんだそうですよ。僕、三低のカテゴリーからも漏れちゃいそうで、情けなくて」
「いいじゃねぇか。弱気になるな、自信を持て。自分を信じるから自信なんだぞ。お前はドンケツ男なんかじゃねぇ。赤井カサノって名前な、五十音順ならトップに近いじゃねぇか」
「それ、少しも励ましたことにならないと思うんですけど‥‥」
「しかしなぁ、聡明な俺が知らないことをお前が知ってるとはな。さすがZ世代だ。最近のトレンドにはちっとは詳しいんだな」
 会話が途切れた。今日は二回目だ。いままで会話のラリーが途切れず往復していたのだが。話しだしたら継ぎ目のない二人にこういうことが何度もあるのは珍しい。しかしその関係はもはや会話が途切れても気にならない段階に達している。黙っていても阿吽の呼吸で通じる、とそこまでは言わないまでも。
 相性がいい人とは沈黙も心地よい、とよく言われる。気が置けない仲間どうし、そのまま景色を眺めること数分。やおら赤井君が同じような話を蒸し返す。根は生真面目なのかもしれない。サボっているのが気にかかるようだ。
「今も僕たち、勤務時間中なんですよね。働いてお金もらってるんだから、こんなダラダラしてちゃ何だか申し訳なくなっちゃう」
「俺たちゃ、やるときゃやるだろう。こう、オツムを高速回転させてよぉ。高速道路で長いとこ時速百キロでタイヤを回転させたら、サービスエリアで休憩させなきゃ車も可哀想じゃんか」
「僕たち、車じゃないでしょう。それに箱村さんのカルタス、時速百キロもでます? あれ、自動車というより汽車ポッポじゃないすか、今にも煙が車体からモクモクあがってきそうで」
「こんないい天気なんだぜ。家に帰ってから、ちょこっとシャワー浴びるだけじゃ物足りんだろう、光の湯船にたっぷり浸からなきゃ勿体ないじゃねぇか。アイツだって寝っ転がってるだけだろう。アイツは女王蟻で俺らは働き蟻なのか。誰が働くもんか、スト断行中だ。ダラダラしててどこが悪い。憂さ晴らししねぇとな」
「それ、憂さ晴らしじゃなくてウザ晴らしでしょう(w)」
「お、おもろいギャグを挟んできたじゃないか。珍しくクリーンヒットだ。あのさ、パンダのこと、考えてみな。ゴロゴロしているだけで、みんな微笑むじゃないか。みんなに幸せを分け与えてるだろう。怠けてたっていいんだよ。見習わなくちゃな、お前はパンダだ」
 再び陽気に話はじめる箱村。やっぱりあれは嵐の前の束の間の静けさだったか。やれ、パンダか~~い🐼! パンダは中国に帰ったぞ。日本にいなくなれば客寄せできず、パンダフィーバーもいよいよ終焉だな。とうとうナマケモノからパンダにされてしまった。珍獣づくしかよ。ほんでもって僕はどっちやねん。どっちかにしてもらいたいもんだ。どちらかと言ったら、人気があるからパンダのほうが幾らかマシかなぁ。でも、あんなに太ってないしなぁ。体型がまったく似てないよね。
「ついに日本からパンダいなくなっちゃいましたね」
「いなくなったって構やしないよ。熊に日本人が何人も殺されてるからな。いなくなって清々(せいせい)すらぁ」
「似てるけどパンダは熊じゃないでしょう」
「熊だよ。パンダは中国語じゃ熊猫と書くじゃねぇか」
「それ、たまたま知ってるだけでしょう」
「たまたまなもんか。俺の教養を低く見積もるな」
「じゃ、熊猫を中国語で発音してみて?」
「おい、そうくるのか。いや~つくづく嫌みな野郎だぜ。この似非(えせ)外国語学部野郎がぁ」
「外国語学部でも小説を書いていたおかげでドン尻の超劣等生です」
「言わなくたって分かってるよ。お前、あそこに何年在学してまんねん。三流大学の劣等生じゃ、地球儀をクルクル回すみたいに、語学力を武器に世界を股にかけて大活躍するなんてのは望み薄(うす)だな。だからいつも地方公務員になれと言ってるんだ。今のままじゃ未来図を描けないだろう。公務員になりゃ人生の指定席を予約したも同然だ。犯罪を起こさないかぎり平々凡々な人生が送れる。平坦なレールがずっと続くだけ、まず脱線はない」
「痛いとこ突いてきますね。泣き所をよく分かっていらっしゃる」
「パンダを引きあげられた日本は中国に痛いとこ突かれたなんて言う人がいるけど、パンダがいなくなったって誰も困りゃしねぇ。あんなの、泣き所でも何でもねぇ。指圧のツボを突かれて気持ちい〜い、ってなもんだ」
「あら? またパンダにもどってきたんですか、しつこいですね」
「パンダなんていらねぇ、いなくなってスッキリした。ナマケモノのお前がいるからいいよ。笹を大食らいする珍獣がおらんくなったら、笹巻きも一杯つくれそうだしな。パンダがいなくなったら日本経済も上向くんじゃね? “商売繁盛で笹もってこい”なんてな」
 パンダの中国語発音がどうのこうのとプチ反抗してみたが返り討ちに遭った。パンダかと思ったら依然としてナマケモノらしい。少しも昇格していない。
「でもどうしてこんなダラダラが許されるんでしょうかね。ここって曲がりなりにも会社なんですよねぇ。ちゃんと法人税はらってます?」
「知らん。俺は事務屋は向いてないからな。そういう難しいのは花菱がしてんじゃねぇの? 社長なんだからしなきゃな」
「社長さんも事務なんて細かい作業は無理なんじゃないですか?」
「そんなこと言ったって分かんないんだから仕方ないだろう。どっかに俺らの知らない、海千山千の相談役とか税理士とかがいて、そいつに頼んでんじゃねぇの。誰かがやらなきゃなんないんだからよぉ」
「あに図らんや、チャッピー君に計算してもらっていたりしてね。あ、そうかぁ、大して儲かっているようにもみえないし、僕らに給料も払ってるから会社の収支は赤なんだ。赤字なら税金はらう必要ありませんよね。ホッとした」 
「なに雑魚キャラが鬼の首でも取ったように話してんだ、偉そうに。赤字なら税金はらわんでいいことぐらいは俺でも分かるぞ」
「それにしても今日び、来訪者一人いない会社なんて珍しいですね」
「いいじゃねぇか、水入らずで」
「会社が水入らずじゃダメでしょう」
「人生の先輩にむかって上から目線でモノを言うな。夏だろう、害虫や蠅や蚊は入ってきてもらいたくないんだよ。網戸を取り付けたいぐらいだ」
「来訪者が害虫なんでしょうか」
「そうだ。うちらに近づいてくる奴なんて、成り済ましとか借金取りとか‥‥‥どうせロクなのじゃない。節分でも“鬼は外、福は内”と言うじゃねぇか」
「なんで節分が出てくるんですか。普通まともな企業だったら挨拶回りぐらいはあってもいいんじゃないっすか?」
「てやんでぇ、こっちとら毎日イメージの創出で忙しいんでぃ! 馬鹿を相手にする暇なんてねぇ。客が来たら社交辞令を言わなきゃいかんだろう、オベンチャラは好かんぞ」
「初対面だったら普通、会社員なら名刺交換ぐらいはしますよね。箱村さん、名刺もってます?」
「なんじゃい、そんなもん作ったことないわ」
「花菱社長は? 社長なら持ってるでしょう」
「アイツが名刺交換してるシーンも見たことないな。ITシステムの業者さんが来たときも向こうは渡してくれたがアイツは渡してないはずだ。そもそもアイツの名刺自体を一度も見たことがない」
「たはっ、それでも会社員なんでしょうか」
「余計なお世話だ。お前だって名刺つくってないじゃないか。もっともジャージ姿の男が急に名刺を渡してきたらお笑いだけどな。じゃ尋ねるが、お前、もし客が来たらその見映えの悪い恰好で応対すんのか。ジャージのままじゃ恥ずかしいだろう。うちはスポーツメーカーか。普段着じゃダメだろう。せめて制服とか作業着とかスーツとか、会社員らしい恰好してなきゃよぉ。名刺も身なりも同じようなもんじゃないか(w)」
 目糞鼻糞を笑う。ダボシャツの箱村がジャージ姿の赤井君をせせら笑っている。
───しかし箱村さん、ダボシャツとはいえ、よくサイズが合うのを見つけましたね。そう言えばいくぶん寸足らずだ。そのデカさならXLでも追いつかないということか。まあ、ハワイ気分で外人サイズの花柄アロハシャツを着てるよか幾らかマシでしょうけど。
「客なんか来てくれない方が助かる。勝手気ままでいいんじゃな〜い。心も普段着でいられてよぉ。店を出しているわけじゃないんだ、千客万来なんぞ必要ねぇ。リラックスしようぜ。クロールだって息継ぎしないと苦しいだろう」
「息継ぎが多すぎて、かえって泳ぎにくいです」
「じゃぁ、ビート板でバタ足でもしとけ。あん? おい、今は小学生の体育の授業なのかぁ?」
「てか、僕たち泳いで少しは前に進んでます?」
「だからぁ、これでいいと言ってるだろう。先輩の話は襟を正して、もっと素直に聞け」
「ジャージの襟はふにゃふにゃで正しようがありません」
「ストレス解消のために気分転換するのが悪いのか」
「気分転換って、転換ばかりで360度ぐるぐる回転してません? そもそも僕たち、ストレスなんかあります?」
「う~んもう、ああ言えばこう言うの上祐史浩かぁ」
「あんなIQの高い人間じゃありません」
「そらそら、ひがみ根性で卑下する。UFOに乗って地球にやってきた宇宙人の目にはお前も上祐も同じ下等生物、似たり寄ったりだ。上祐は高学力・高IQでも、オウム真理教がデタラメ宗教だというのを見ぬけずズブズブになっていったじゃないか。お前は馬鹿でも、アレがまがい物だってことはしょっぱなから直観的に見ぬくよな。それぐらいの知恵や分別はある。つまりお前は上祐よりIQや学力はずっと下でも、生まれ変わって人生を学んできた回数は多いってことよ。考えてもみな、何でも答えられるクイズ王だってAIにはかなわないよな。学力は学力のままではその程度だ。大切なのはそれをどう知恵や分別に変換していくかだよ。人にはいろいろな側面があるだろう。なにごとも一長一短さ。お前も上祐もおんなじだよ。ただし上祐よりかなり足が短いことを除いてはだけどな」
「足にも一長一短があるんですね」
「お、うまい! 久しぶりの長打だな、三塁までいけるぞ」
「アッシッシッシィ~」
「なんだ、そりゃ、笑い声か。調子に乗って大胆にホームスチールすな! は~い、ホームでタッチアウト」
「とほほ、デッドボールくらう方がまだマシです」
「一塁にいけるから確かにマシだな」
「はぁ?」
「ほんで俺ら、なに話してたの? 忘れちゃったぞ」
「あの、僕らが怠けすぎじゃないかって話」
「あ、そうだった、そうだった。あんねぇ、パレートの法則って知ってるよな。街なかを行進するあのパレードじゃねぇぞ」
「ああ知ってます、知ってます。いわゆるニッパチの法則ってやつですね。“全体の結果の80%を全構成員の20パーセントが生み出している”っての。僕が読んだ本にはたしか“働きアリの法則”っていう名称で記されてたけど。これ、おんなじなんですよね。“働きものの二割の蟻が全体の八割の餌を集めてくる。その働きもの二割を取り除いた後も、サボっていた二割が働き出してやっぱり八割の餌を集めてくるようになる”───確かこんな感じのお話でしたよね」
「あれ? IQの低い劣等生の割にはよく知ってるじゃないか。たはっ、期待外れだ。知らなかったら馬鹿にしてやろうと思ってたんだがよぉ。ちくしょう。要するにだ、結論を言えば空気だってことよ」
「空気って、雰囲気のことですか?」
「アホ、そっちじゃない。エアーのほうだ」
「どうしてパレートの法則が空気になっちゃうんですかぁ」
「空気ってのは酸素が二割で、あとの八割は窒素とかアルゴンとか炭素とか、そういったしょーもない気体だろう。役に立つのは二割だけで後の八割は役立たずだ」
「ああ、そういうことね。酷いこじつけですけど」
「さてここでだ、ここで今の俺たちを空気になぞらえればだな、二割の方か八割のほうか、どっち?」
「当然、役立たずの八割の方ですよね」
「そうだろう。けど八割が無ければ空気はこの世に構成されない。人類全員窒息死じゃねぇか。一見無駄だと思えるものが実は大切なんだよ。それが世の習いってもんだ」
「あれまぁ、そういうのを屁理屈と言うんじゃないっすか?」
「屁理屈じゃねぇよ。考えてもみな。俺たちの職場って、もともとやることが少ないのに、さらに効率性をもとめたり時短テクを駆使したりしたら、ますます暇を持て余しちゃうじゃないか。それともお前、高度成長期のモーレツ社員みてぇに駅のホームで一秒を争って立ち食いソバをかき込みたいのか。あんな時代はもう二度と来ねぇし、来てもらいたくもない。俺らの仕事はたっぷり精神をリフレッシュさせなきゃ務まらないよ。手抜きするからいいイメージも出てきて、長続きもするというわけさ。アーティストってのはそういうもんだ。もしかして俺とお前の仕事って何もしないことなんじゃね? こうなりゃ目いっぱい牛歩戦術だ。どっちみち最後には収益ゼロの、骨折り損のくたびれ儲けに辿り着くんだからよぉ‥‥‥うん、いくら何でもそこまで言っちゃ、さすがのデブも可哀想か」
「社長さん、よくこれで平気でいられますね。部下がこんなこと言うようじゃ」
「デブの気持ちは知んねぇけどさ。もう歳だから大義のための採算度外視スキームだと吹っ切ってるのかもな。イチかバチかの最後の賭けに出た。それに俺たちを引きこんでいる‥‥」
「乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負ってわけですか」
「おっ、俺の大好き、四字熟語を連発してくれるじゃんか。サービスしてくれるなぁ、うれしいねぇ。お返しに何も出てこないけどな」
「いえ、久々だったもんで、そろそろここらで四字熟語を二、三入れとかなくちゃと思って」
「花菱じゃないから俺にはゴマすりはいらんぞ。いくら水もしたたるいい男でもな」
「え?」
「相変わらず鈍いニイチャンだな。センサーの感度がいまいち悪いぞ。リモコンでピッといかんのか。いいか、ホウレン草のお浸(ひた)しには何だ」
「はあ?」
「すりゴマだろう。ゴマをスリスリだろう。ついでにホウレン草のお|浸しには醤油もかけ忘れんな。つまり、しょうゆ〜う落ちってことよ」
「しょーもな。そんなお寒い系ギャグ、誰もピンとこないでしょう」
「アホぬかせ。こういうのを玄人受けするユーモア、つまり噛むほどに味がしみ出すスルメギャグっていうんだ」
「スルメギャグ。誰がそんなこと言ってるんですか」
「俺だ」
「なんだ、言い出しっぺは箱村さんか。ダブルしょーもな」
「トーシローがなに負け惜しみ言ってんだ。そんなことじゃ一流のコメディアンにはなれんぞ」
「はにゃ? 別に負けた覚えも、勝負した覚えもないんですけど‥‥それにコメディアンになる気もないし😕 ????」
「アホ、人間の本質をもっとも雄弁に語っているのがコメディなんだ。これはメタファーとして言ってるんだよ」
 何やら深いことを話したつもりなのだろうが、赤井君にはボケの延長にしか聞こえない。箱村はこういう下らないボケを小刻みにジャブしてくるから、ディフェンスに困る。で、僕たちボケの前に何の話をしていたんだっけ───ああ、たしか花菱の仕事の話だったよね。
「しかし問題はお前がゴマ磨る花菱の野郎だ。中身がよく分かっとるわけじゃないが、もともとこんなビジネスモデルがうまくいくわきゃないよな。そんなこと素人でも分かる。この商売で縁起物の達磨には目は入らないってこった。長年あれやこれやと経営してきてんだから、本人もそれは薄々承知してんだろうな。つまりだな、これまで生きるためにあえて名を捨てて実を取ってきたが、ここに至って名がほしくなったんじゃねぇの? 死ぬ前に自分を立志伝中の人に仕立て上げたいんだろうさ。赤字覚悟だよ。どうせ負け戦(いくさ)と分かっちゃいるが、老い先みじかい御当人は背水の陣と踏ん切りをつけた。若い頃、自分を小説家として認めてくれなかった世間にリベンジしたいのさ。もしかして文学史の片隅にでも名を残したいんじゃないの? 厚かましい。アホちゃうか。名を残せるヤツがいったいどれぐらいいるってんだ。10万人に一人か、100万人に一人か。いずれにせよアイツもついに人生にケリをつける気になったようだな。まあ、ほとんど残っていない未来にまだ夢を描けるだけでもご立派といやぁご立派だがな。だったら、気持ち的にやっつけ仕事にしたくないじゃねぇか。脅し文句でいつも尻たたいて、休む暇なく大車輪で働かせたって駄目だってことぐらい分かってんだろう。そんなの萎縮するだけだもんね。精も根も尽き果てた状態でやらせても、余力がなけりゃロクな収穫はないんだわさ。商売は損して得取れだ。抑圧された状況じゃ、いいものは出てこない。社畜なんてのはまっぴらだろう。キリキリ舞いの忙しさにテンテコ舞いしたいのか、そんなのマイっちゃうよな。おしマイだ」
「あの、シャレはいいですから」
「あのよ~アレさ、窮屈でゆとりの無しっていうかな、とことん顎で使うちゅうかさ、なんちゅうかアレよ、ギチギチの過密スケジュールで酷使しちゃうとさ、出てくるもんも出てこなくなっちゃうだろ。気持ちも時間も自由でなきゃな。ウンコする暇もないほどあくせく働かせちゃ、便秘になっちゃうよな。残さずひり出させたいんとちゃうか。お前だって俺だって根を詰めて仕事するんじゃなくて、ある程度ゆるくいきたいよな」
 なんとも下品な喩えだ。箱村も花菱も下ネタ大好き人間である。やたらめったら糞話はよせよ。
「ウンコの話が好きなんですね」
「どこが悪い」
「悪いなんて言ってませんよ」
「言ってなくても思っているだろう。いいか、草食動物の糞は有機肥料として再利用できるんだ、糞を馬鹿にすな」
「ふ~~ん」と赤井君。
「ほら、お前だってババっちいシャレいれてくるじゃないか。シャレまみれ小僧が。くっそぉ~~」
“くっそぉ~”って、自分だって隙あらば、しれっとプ~ンと臭うシャレをいれてくるじゃないか。糞まみれ、じゃなかった、シャレまみれはどっちなんかい。やり口が汚くて臭い。
 排泄物と言えば、廊下の窓枠は雨水や鳥のフンのせいだろう、腐食が進んでかなりガタがきている。鉄錆のにおいが微かに漂っている。旧式の工法で配管も無機質にむき出しになっているところが多く、しかも塗装のペンキも所どころ剥落している。なにしろ年代物のビルディングのこと、金属やコンクリートの経年劣化は免れえない。真っ昼間はとくにその劣化が露わになる。インフラも人と同じ、老朽化は宿命(さだめ)だ。
「この階の非常口ってどこですか?」
「なんで?」
「だってこのビル、今にも崩れちゃいそうなんだもん、いざというとき逃げないと」
「たはっ、話を盛りすぎてんだよ。けど御老体であることは間違いねぇな。内部は相当痛んでいるぜ。鯖の生き腐れジジイ、花菱といっしょだ。もうすぐあの世いきかもな。お陀仏だよ。黒縁取りの写真になっちまってな」
 とはいえ、窓を開け放ち眺める空は爽快で、何処までも果てしなく広がっている。雲はほとんどない。その雲も小さくて、手を伸ばして指で視界の外に動かせそうな気がする。
「仕事さぼってこうまで羽根を伸ばしちゃうと、何だか上昇気流に乗ってあの空に飛んでいけそうな気がしてきますね」
「竹トンボなんかい。飛んでるのはお前の頭だろう」
「それにこうまで高いと風に色があるような気もしてきます」
「どんな色だ」
「なんていうかな、限りなく透明に近い色。あ、これは僕たちの魂の色でもありますよね」
「なんやねん、村上龍のデビュー作かぁ?」
 鎌をかけてみたが箱村の反応は鈍い。やっぱり花菱の言ってたことはスカタンか(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)。
「ここにいると、確かにお前の言うように風もすっきりとクリアだよな。排気ガスの嫌な臭いもしてこないしなぁ」
 ぬけるがごとき青空とは、まさにこのことだ。空が話しかけてくる。青に青を幾層にも重ね塗りした青。空はますます青く高い。広々とした蒼穹の湾曲が、自分が地球の丸さをかたどる部品の一つであることを実感させる。
「あんなぁ」と箱村。
「なんでしょうか」
「お前の『砂笛の孤独』にはオアシスは出てこなかったが、この場所は俺にとっていわば砂漠のオアシスだ。まだお前がいないときなあ、こうやって下の景色ながめながら考えるわけさ。独りだったからな、メランコリックていうかな、アンニュイっていうかな、そんな気分でよッ」
「それって、オアシスでただダレてるだけでしょう(w)」
「お前も言うねぇ」
「どういうことを考えたんですか? 僕だったら“ここから落っこちたらペッチャンコの伸しイカだな”ぐらいがせいぜいですけど」
「のしイカだったら平べったく引き伸ばされるから、ちっとは背も伸びるんじゃね?」
「お前も言うねぇ」
「口真似すんな、オウムかぁ。この場所は気晴らしって言うか、退屈しのぎって言うか‥‥‥ともかくそういうスポットなんだよね。ほんで考えたわけよ、人の世はつくづく東京スカイツリー的だなって。そうしみじみ思うんだわさ。いやここは福岡県だから福岡タワー的って言わなきゃな」
「なんですか、それ」
「福岡タワーも開業当初はお客さんがいっぱい来て、展望フロアーから360度の福岡の大パノラマを堪能した人は多かっただろうけどよ、今はかつてほどではないよな。福岡タワーから海と街並の絶景を見下ろすお客は昔ほど多くない」
「それで?」
「けどな、見下ろす人は少なくなったとはいえ、タワー自体は俺みたいにノッポで目立つから、今でも下から見上げる人は大勢いる。世の中ってのもこれと同じじゃね? 見上げる人は一杯いるけど、見下ろす人はそれほど多くない。巷にはセレブを羨む者ばかり一杯いても、当のセレブはあんまりいない。世間は優越感に満足する人より劣等感に苦しむ人のほうが圧倒的に多いってことだ。“俺ぐらい社会の最下層に這いつくばっているダメ人間もいないな”と今まで何度思ったかしれない。羨ましいと感じた人は数知れず。けど世の中はむしろ俺みたいな人の方が多数派なんだ。けっして独りぼっちじゃないんだって。そう考えたわけよ」
「それだけ?」
「そうだ」
「何だぁ、もっと深いことを言うと思った」
「“何だ”はないだろう、“何だ”は。十分深くて中身のあること、言ってるじゃんか。もっと寓意を読み取れよ。みんな負け犬なんかじゃないんだ。歌にもあんだろう、“ナンバーワンよりオンリーワン”ってな」
「とりあえずこれからは、この場所を独りぼっちの孤独なオアシスじゃなくて、不良のたまり場にしましょう」
「不良って、なんか悪さするつもりじゃないだろな。俺はしねぇぞ」
「いえ、そういう意味じゃなくって。連帯感っていうかさぁ。ねっ、不良って連帯感だけはあるでしょう。要するに絆ですよ、絆」

(62)

 馴染みのファミレスで彼女と食事している間に、夜も昼を完全に食い尽くしていた。陽が沈んでしばらくするうちに外は相当暗くなっている。空は墨を磨れどもども磨れどもまだ足りない漆黒の闇だ。見上げれば、夜が吹き下ろす風とともに、流れる長い髪となって瞳のなかに落ちてくる。
 ただしここだけ、一輪の花が闇を寄せつけないでいる。その花とは彼女だ。周囲がスポットライトのように明るく照らしだされている。彼女は夕暮れとともに花開く白粉花(おしろいばな)だ。白粉花の別名は夕化粧だとか。赤、白、黄‥‥匂い立つばかりの花弁の園からぬけ出た彼女。極彩色のネオンの化粧がその妖美さを際立たせる。

「すっかり夜空、暗くなっちゃたわね」
「山に登らなくてよかったですね」
「ええ。まだそれ言うの? 引っ張るわね」
「スマホをわざと置き忘れたときのように、何度も驚かせないでくださいよ(霞ゆく夢の続きを〈5〉─39)。まあ、結果的に有り難い置き土産ではありましたけど」
「そうでしょう、あれがあったから今この時があるのよ。シンデレラだって、きっとガラスの靴をわざと階段に残していったんだわ。だって女ってそういう生き物だから」
「そういう生き物‥‥ですか」
「そう、追わせたがる生き物」
「ほう」
「そして騙す生き物。この車だって実はカボチャで、魔法で車に見せかけてるだけかもしれなくてよ」
「またまたぁ(w)。それにくらべれは男はずっと単純ですね。そうでない男もいるかもしれませんけど」
「あなたはどうなの?」
「さあどうでしょうか。案外、自分のことは自分で分からないもんですね」
「私には分かるもん、ビビビと」
「しかしやっぱり夜空は夜空、真っ暗ですよね。特に都会はそう。空も煤払(すすはら)いしてクリアにできればいいんですけどね(w)。夜といえば静寂と休息、都会といえば星空と夜景。けど現実の都会の空は違う。雲が浮かんでも星はなかなか浮かばない。スマップがいくら熱唱してくれたって、夜空ノムコウにはやっぱり夜空しかない」
「それ、おもしろいわ」
「うけました? 宇宙の果てには宇宙しかないのと同じですよ。人の輪廻だってそう‥‥どこまでも、どこまでも続く。いつまでも目的地に着けない」
「でも、いいわ」
「どうして?」
「今、あなたの瞳の中に星があるから」

 胸を打つ言葉である。叙情的な表現だ。なんて素敵な女(ひと)なんだろうか。すっかり魅了されてしまった。ナイト・クイーンの君は夜に透き通る花を咲かせ、甘美な芳香を辺りに漂わせる。
 顔が火照ってきた。赤井君は愉悦が満面から溢れ出ている。もうデレデレだ。彼女の言葉は熱伝導率が高い。欲情をかきたてられてしまいそうだ。しかし彼女が言うからサマになって、甚(いた)く感動するのである。もし同じセリフを彼が言ったとしたら、「キモ‥‥‥」ってなること受け合いだ。
 彼女は涼やかに笑っている。彼女の微笑みは軒下で風に鳴る風鈴のような清涼感がある。都会はイルミネーションの装飾にくるまれていた。車中、彼女の笑顔が後方に飛びゆく街の七色照明に溶ける。美しい。どれだけ美辞麗句で飾り立てても足りない。
 赤井君は至福のひとときを享受する。あれだけ懸想(けそう)した女が今、助手席に座っていてくれるんだ。そう思うだけでもドキドキと鼓動が高まる。胸がしめつけられるかのようだ。二人だけの密閉された空間。この気密性の高い空間を、真空パックして永久に保存しておきたい。それか、誰からも取られないように彼女を金庫に保管してしまいたい。まったくもう、「人のものを取ろうとしているのはお前の方だろう」という話である。
 ずいぶんお熱をあげてしまったみたいだ。先ほどから赤井君はシートにこしかけた彼女の、官能的な太ももの動きに魅了されっぱなしである。車外から流れ込む歓楽街の照明のせいもあろうが、格別キメの整った白い生足だ。その刺激に翻弄され、もち肌に思わず顔をうずめたくなる。
 助平な赤井君の視野はここぞとばかり凸面鏡のようにグーッと広がっている。とはいえそれにも限界がある。視線を釘づけにするわけにもいかないので、彼はサイドミラーで死角の安全確認をするふりをして何度もチラチラのぞき込んでいる。どうやら彼女はそのことに気づいているらしい。そして密かにそれを楽しんでいる。
 赤井君はかなり性的に興奮し始めている。鉄屑さながら、錆臭い血のなかに一滴ずつ魂の生気が大宇宙のスポイトから落とされていく‥‥そんな感覚だ。血管のなかに無数の小舟が浮かべられ、その舟の上で小人の色魔どもが欲望の呻き声をあげているかのようだ。狂気と発情のあまり、竪琴の音色にあわせて小悪魔どもが意味をなさない詩を唱える。

ステンレスの魔法の肌
子供の白骨の歯触り
足の関節の優しいカーブ
偶然という名の生命の種子がその感触の内にある
誤って踏み潰された魚の鱗を舐めるのにも似て
魂の戦慄がそこにある
なんという劇的な出会い
なんという至福の喜び
二人の振るサイコロが大宇宙を転がす

「安心して。最終目的地はちゃんとあるから」
「どこなんです?」
 彼女はそれには答えず、
「イルミネーションが綺麗ね。宝石を散りばめたみたい。銀河のなかを走ってる。ダイヤモンドだわ」と嬉しそうな声を上げた。
 その様子はまるで少女だ。見れば確かにイルミが華やかな色の糸を夜に刺繍している。

 実際、彼女はヨガのように色々なポーズをとる。ある時は「山に登る」とじゃじゃ馬になり、ある時は「魂は未来と現在を交信させたがってる」と霊能者になり、ある時は僕の心を読み取る超能力者になり、ある時は「瞳の中に星がある」と詩人になる。そして今は少女。
 その少女の言葉に「いえ、街の景色よりあなたの方が綺麗です」───と反射的に言いそうになった。だがすぐにこれが一度言ったことのあるセリフだと気づき(霞ゆく夢の続きを〈5〉─38)、言いよどんでしまう。それなら、「ダイヤモンドよりあなたの方が綺麗です」と言ってみては? 駄目だ駄目だ、そんなの同じようなもんじゃないか。ほんとはもう一度あのセリフを言いたかったのだが、舌先にのった言葉がとろりと溶け落ちた。

〈君のセリフはトロの脂身なのかね(w)。もっと素直になりたまえ。彼女を称賛したいんだろう。好きなら好きと早く言え〉
 
 ルームミラーの中、虹色に発色する都会のネオンが後方の闇に吸い込まれていく。まるで無数の流星が光芒を曳いて消えていくかのようだ。彼女とともに高速で宇宙の果てに向かっている気がしてくる。その高揚感、陶酔感にそのまま自分の体まで宙に浮かんでしまいそうだ。
 古き昭和の時代、多くの女性ファンがグループサウンズのパフォーマンスに興奮するあまり、会場で卒倒してしまったと聞く。今となってはその極端な心理反応が理解できないでもない。ややもすれば彼女の美しさと色っぽい仕草に僕も失神してしまいそうになるからだ。

〈おいおい、そりゃダメだぞ。事故を起こさないよう運転に集中しろ。慎重にも慎重を期さなきゃいかんだろう〉

「少女っぽいセリフですね。うん、ダイヤモンド銀河ねぇ、夜空を横切る天の川ですか。じゃ僕たちは織姫と彦星かぁ」★( ⌒⌒)☆
「それってあんまり嬉しくない」(⌒。☆)
「え、どうしてなんです?」
「だって七夕伝説によれば年に一度、七月七日の夜にしか逢えないのよ🎋」
「アッ、そうきましたか。いいじゃないですか、いま現に逢ってるから」
「そうね。神様が銀河に虹を架けて、橋渡ししてくれたのかもしれないわね」

 再び彼女がポエチックな表現をする。どうしてこういう心惹かれるフレーズがさりげなく出てくるんだろうか。脚本家が練りに練った、トレンディドラマのヒロインが言う台詞のようだ。美しい彼女にしっくりくる。僕も何か洒落た言葉の一つや二つ返すべきだろうか。しかし言葉は人を選ぶ。こんな台詞を僕が言ったら、やっぱり「ウザ!‥‥‥」ってことになっちゃうだろうな。

「この美しいイルミの景色もしょせん無機物で心はないんですよね。いくら幻想的だからって、なんだかんだ言っても自然光じゃなくて人工的につくられた光と色に過ぎない。だったら光の情報が目を刺激しているだけって言えないこともないですよね。もっともステンドグラスを通したような明かりに夜間これだけ彩色されれば、ロマンチストならたとえ都会に浮遊する汚い塵であろうとダイヤモンドダストに見えると言い張るかもしれませんけれども。おっと、ダイヤモンドダストはいくら何でも無理筋ですか。寒冷地でもない九州で、しかも薄暑の季節だから。ダイヤモンド銀河の代わりにダイヤモンドダストだなんてありえないって、小学生に笑われちゃう(w)」

〈赤井君、なんでこんな時に彼女を茶化して笑うんだ。甘美なムードが台無しじゃないか。ほんとに君は素直でないな。天邪鬼にも故意に不調和な空気にもっていこうとしている。このツムジ曲がりがぁ。ホントは好きで好きで、リアリストのふりなんかしたくないくせに〉

「あなたって書評家? 美しいものを見て素直に酔えないの? 小説家でしょう」
「おっしゃるとおり、素直じゃないってのは自覚しています。別に意地を張ったつもりはないんですけど。小説家といっても、そう思ってるのは本人だけで、まあ、アマにも届かない半人前ですけどね。この彩るネオンサインのように七光りで賞をとってプロになれればいいんですけど、そんなうまくはいかないのが現実です」
「七光りでプロになっても後悔するだけじゃないの? 本人が七光りに気づいていない、お気楽な場合もあるでしょうけど」
「なるほどそっか、飛んで火にいる夏の虫ってことわざもありますよね。いくらイルミが美しくても明かりに飛び込んで自滅するのは嫌ですもんね。僕だって今は文壇の華やかさに目がくらんでいるだけなのかもしれません」
「あなたがイルミネーションを心不在の無機物だっていう気持ちが分からないこともないのよ。あのね、人って心があるから尊いと思うの。怒ったり、笑ったり、泣いたり、愛したり、愛されたり、嫌ったり、嫌われたり‥‥‥けどいくら貴重な何カラットのダイヤモンドでも心がない‥‥‥無機物だから」
「僕は何カラットのダイヤモンドも買えませんよ。だからせめて今はダイヤモンド銀河を見て我慢してください」
「うわっ、あなたにそんなこと期待するわけないじゃないの」
「じゃ代わりに今度、時刻表で列車の発着時刻を調べておきます」
「あら、そのダイヤじゃないでしょう。ウフッ、でもそれ、受ける~~ゥ、面白い」
 珍しく彼女が声をたてて笑っている。はぁ、こういう馬鹿げたコテコテ系が笑いのツボなんだ。やっぱりギャグは下らないのに限るな。箱村が普段いっているとおりだ。
「そろそろサービスでボケを入れとかなきゃと思って。吉本芸人じゃないんですけど」
「関西人っぽく“なんでやねん、ほなアホな”ってツッコミを入れるべきかしら」
「とんでもない。入れなくていい、入れなくていい。美人にそんなキャラ、似合わないですから。それより僕のアホが浸水しないように土嚢でも積んどいてください」
「あのね、いまダイヤモンドには心がないと言ったでしょう。ダイヤモンドなんていらない。男の値打ちは金じゃないわ、そんなつまらないことでは決まらないの。大切なのは‥‥‥心」

 うん、確かに理想はそうだが、現実は違うんじゃないの? そう思ったが言わずにおいた。意見が違ったって構わない、彼女が隣にいてさえくれれば。カルタじゃないんだから読み札と取り札を無理に合わせることはない。
 会話が途切れた。不思議だ。会話が途切れても少しも気後れを感じない。とかく男女というものは最初のうちどこか他人行儀な雰囲気が漂う。まだ関係の浅い男女の間に沈黙がしばらく続くと、ふつう気まずい気持ちになったりするものだ。だが彼女の場合はそれがない。肉親といっしょにいるかのようだ。これも例の、魂の色が似ているということなのだろうか。
 動かなければ見える風景は変わらない。だが人生と同じで、少し動けば世界はガラッと変わる。幸いここは自動車の中だ。情景はめまぐるしく変化していく。彼女は子供のように変わりゆく景色に見入っている。夢中になっているようなので「何か話さなきゃ」といった類の焦りはない。風景に見入る彼女の耳を何気なく一瞥すると、形が似てるからかどうか知らないが、ふとト音記号が浮かんできた。

「そう言えば芸大でピアノを弾いてたそうですね」
「旦那が言ったのね」
「ええ、話の流れの中でチョロっと。ハラミちゃん以上のピアノの弾き手は世の中に結構いるってな文脈で。内容はよく憶えてないんですが(霞ゆく夢の続きを〈3〉─22)」
「もうアイツったら何でもかんでも話すお喋り男なんだから。ピアノに関心あるの?」
 “アイツ”という言い方が少し気になったが、夫婦が配偶者をこう呼ぶのも、実際のところ、さほど不自然なことではないのかもしれない。
「いえ特には。“猫ふんじゃった”を超スローテンポで漸(ようよ)う弾けるレベルです。すごいですね、クラシック曲をピアノで弾けるんですね。憧れちゃう」
「大昔の話よ。ずっとピアノから離れてるので今は全然ダメ。芸大卒業しても演奏で使ってくれるところ、どこにもなかったの。今だったらユーチューブなんかがあるけど、あの頃はそんなのもないし。この世の中、ことわざみたいに芸は身を助けてくれないのね。就職や人脈づくりにも全く強みになってくれなかった。若かった、あのときの私は見事に神様のキャスティングにもれたのよ」
「いまでも十分若いですよ」
「あら、うれしい。そんなこと旦那はぜったい言ってくれない」
「照れてるんですよ、言うのが恥ずかしいのかな。若く見えるという事実は事実なんだから、それでいいじゃないですか」
「ああ、ハラミちゃんが羨ましい。結局、ぜんぜん畑違いの今の会社に入っちゃった。でも、かえってそれがよかったのかも。発奮して会社で上を目指してやろうと思ったから。それでも最初は未練があって家にアップライトを置いてたんだ。けど狭い公団住宅でしょう。ピアノ騒音で苦情が出ても困るし。ただでさえ狭くて物が乱雑に散らかってるのに、あの暑苦しい大男までいるのよ。で、とどのつまり売り払っちゃった。それからは仕事が忙しくてずっと弾いてないわ。光陰矢の如し、月日って残酷ね。あっという間に経っちゃった」
 哀しげな彼女の声が、絹糸となってト音記号にからまる。
「だから、ボクちゃん‥‥じゃなかった、アナタが小説家になりたいという気持ちは痛いほど分かるのよ。キャスティングにもれた私のようにはなってほしくない。若い頃の私の夢をアナタが代わって取りかえしてほしいの」
 ポツリポツリと彼女はそう呟く。蜃気楼の切り口のように、彼女の肌は白く透き通って見える。その肌は白い丘に流れる滑らかな水。

「一つ気にかかることがあるんですが」
「な〜に?」
「僕の魂の色が見えるって言ってましたよね。薄くて見づらいけれども、と」
「見えるわよ。だけど自分の魂の色は見えないの。不思議よねぇ」
「結構、衝撃だったんですよね、それ」
「衝撃ってどんなふうに?」
「水を汲もうと井戸のつるべを手繰ると、滑車の縄にからまって死体が上がってきた‥‥そんな感じの衝撃。なにか意識の天井がうちぬかれたというか、何ていうか‥‥‥」
「その表現、ちょっとオーバーじゃないかしら。そんな人、私以外にもいるんじゃないの?」
「まあ、いろいろ過去のプロセスもあるもんですから驚いちゃって」
「アナタは私の魂の色って見える?」
「見えるわけないでしょう。なんとなく美しく艶やかな色なんだろうなって想像はつきますけど、実際に目に見えるわけじゃありません。超能力者でも霊能者でもないですからね」
「さっきも言ったけど、私がアナタにこんなに惹かれるのはきっと魂の色が似ているからだと思うの。アナタを見てて初めて分かった、そうか、私の色ってその色なのねって」
 やはり彼女の肌は白く透き通って見える。
「その色って限りなく透明に近い色でしょう。村上龍の小説じゃないですけど」
「えっ! 分かるの? だったらアナタも見えるんじゃないの。見えるのは私だけだと思ってた。確かにアナタの色はそれよ、旦那と似てる」
「見えるはずないでしょう。花菱社長がそう言ってたんですよぉ(霞ゆく夢の続きを〈7〉─50)。でもおかしいな、透明って色がないってことでしょう。どうやって見るんですか」 
「見るというのは正確じゃないわね、見るというより感じるの」
「感じる‥‥ですか」
「そうなの、目じゃなくて心で」
「はぁ、心で」
「例えば水って無色透明よね」
「そうですよね」
「透明で無色の魂は水鏡と同じ。だから周囲の人たちの色を映す。だから魂の色を感じとることができるのよ。自分を除いては、だけど」
 気になる、彼女の肌は白い丘に流れる滑らかな水だ。色が薄い。
「ほう、なるほど。一応理屈は通ってますけど、その手の話はねぇ、どうも」
「そうなのね、私も透明に近いのかぁ。どうりで時々死にたくなることがあるんだわ。もうこのまま消えてしまいたくなるの」
 水鏡にできた亀裂のように心に一条のヒビが走った。網膜に映った彼女の像が闇の中で真っ二つに裂かれる。とつぜん視界がうっすらと赤くなった。
「そんなぁ、死にたくなるなんて恐ろしいこと言わないでくださいよ」
「仕事が辛いの‥‥‥でももっと辛いことがあるの。いっそ誰かに殺してほしいと思うぐらい。けどそれは言えない。辛くて、苦しくて、悲しい‥‥‥仕事なら我慢できるんだけど」
「そりゃ管理職だからハードでしょうね。嫌なら辞めちゃったら。スーパーのレジ打ちでもすりゃいいじゃないっすか。死ぬよりマシでしょう。そしたら御主人も今みたいにチャランポランじゃなくて、心を入れ替えてもっと真剣に働くようになりますよ」
 
 そう言葉で軽くいなした赤井君であるが、内心彼女が不憫でならない。というのも、言えないもう一つの理由は恐らく子供が死産したことだろうと思うからだ。見るからに悲しくて辛そうだ。そのときの彼女の姿は、壁から抜け出た亡霊のように生気を失って見えた。思わず抱きしめてあげたくなる。本音を打ち明けてくれたのは嬉しいが、それよりも彼女を助けてあげたいという気持ちの方がずっと強い。
 けれど意地悪な見方をすれば、彼女が僕に近づくのは生物学的に繁殖効率は相手が若ければ若いほど高いからということかもしれない。これ、穿ちすぎだろうか。まさかそんなこともなかろうな。何もわざわざそんな嫌らしい見方をすることはないではないか。双方が惹かれ合うのは、彼女が言うとおり魂の色が似ているからだ。メルヘンチックでも今はそう信じよう。そんなこと、これからの事態の推移をみれば自ずと分かってくることだ。

「今日は有難うございました。家まで送っていけるといいんですけど、やっぱりマズいですよね。ひとまず僕、電器店の倉庫の近くで降ります。後は自分で運転して帰って下さいね。もう一度逢いたいんですけど、逢ってくれますか。くれますよね」
「あら? 今日はこれで終わっちゃうの? 終わる気はないわよ。これからよ。さっき最終目的地があるって言ったでしょう」
「あれ? いっしょに食事するのが最終目的じゃなかったんですか?」
「なに言ってるの? 食事した後にこのセリフを言ったでしょう、ちょっと前よ。若いのに忘れちゃったの?」
「あ、そうだったですよね」
「私の心を置いてきぼりにしたまま行っちゃう気なの?」
「そ、そんなぁ」
 もちろんそんな気持ちはない。残れるものならいつまでも残りたい。
「それに“食べた後は風まかせ”ってアナタも言ってたのよ。勝山公園の外周をいっしょに歩いてたとき」
「確かに風まかせって言った気はします」
「ほら。約束だってしたのよ」
「風まかせかぁ。亀の背中にのって連れられてく浦島太郎になった気分です。いやこれ、風まかせじゃなくて海まかせですよね。てか、海風まかせかぁ。そんな細かなこと、どっちでもいいんですけど。だったら行き先は竜宮城ってなりますよね」
「そう、竜宮城よ」
「風まかせなんてセリフ、よく憶えていましたね。留守電に残されたメッセージみたいに」
「憶えてるわよ、大事なことだから」
「大事なこと?」
「もう、ばか」
「ば、ばか?」
「もう嫌んなって、家に帰りたかったらいいのよ」
「と、とんでもない! 嫌だなんて」
 とても重大な場面に今、臨んでいるような気がする。武者震いしそうに思えてくるのはなぜか。
「ちょっと次の信号、右に曲がってくれない? 暗い道、海の方に向かって」
「小倉の中心街はもう少し先ですよ」
「いいの、言う通りにして」
「海が近いということは竜宮城なのかな?」
「そうよ、竜宮城」
 言われるまま右に曲がると、道は幾分暗くなった。だが車の行き来はまったくないものの、街灯のおかげで海沿いであることは容易に分かる。
 車のヘッドライトが夜の黒い膜を樹皮のように剥がしていく。ヘッドライトの光のメスは闇のはらわらを容赦なく切り開いていく。
 照明に装飾された建物がすぐに目に入った。そこだけ夜にぽつんと浮き出ている。照明といっても特にけばけばしく彩られているというわけではない。色は控え目、寒色系にライトアップされた建物だ。
 発光ダイオードが普及してから、省エネのためだろう、都市部では最近、青色照明の商業施設やインフラがやたら目立つ。夏はそっちの方が見た目も涼しげでいい。
「あ、ちょっとこの辺りで止まってくれない?」
「ここでですか?」
「一時停止の標識があるわけじゃないけど(w)」
 通勤ラッシュの混雑や騒音もとう落ち着き、繁華街からかなり離れたこの辺りはいくぶん閑散とした空気を醸す。
 気づけばラジオコントロールされたかのように変なところに来てしまっている。ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込んだアリスの心境である。むろんウサギとは彼女のことだ。
 どことなく西洋のお城を想わせる外観である。国境越えて、遥か欧州の何処かの国の、まるで絵葉書に印刷されていそうなキャッスル。カフカの『城』は有名な小説だ。なんだかあの小説のイメージと重なる。目の前に見えているにもかかわらず、夢と現実に翻弄され、いつまで経っても中に入れない───あの小説にみる、そんな近寄りがたい独特の雰囲気がある。
 ───ここが竜宮城かぁ。確かに言うとおりお城だな。城っぽい建造物であることは間違いない。ここが竜宮城であれば、さしずめ彼女は乙姫だ。なるほど納得、さもありなん。その美貌なら頷ける。だが僕は本当に浦島太郎なのだろうか。意外と弱っちい亀の方だったりして。子供のころ小学校で悪ガキにイジメられたからね。とすれば僕の背中に乗って竜宮城に連れていくよう仕向けた張本人は、乙姫こと彼女ということになる。
 この建物を城になぞらえれば、まさしく天守閣の位置に、ビル名を表示した大きなパネルが赤色っぽく照らしだされている。第一印象、どこか異国情緒ただよう城に思えたのは、エアメール封筒専用の赤青ストライプからの連想かもしれない。
───『ホテル C』‥‥か。
 どこからどう見てもビジネスホテルでも、いわんやカプセルホテルでもない。たぶんこの派手さからしてラブホテルだろう。デートの初日にラブホとは大胆な(w)。よほどの好き者か(失礼)、よほどの恋愛巧者か。
 ハプニング女の彼女がくりだす手筋は先回りしても到底読めない。男が女をリードしなければならない時代はとうの昔に終わっている。おそらく自分が年上だから男をリードしても少しも不自然ではないと踏んだのだろう。さて次の一手は何だろうか。
「降りましょう」と彼女。別に拒む理由はない。
 車のドアを開くと、思いの外ひんやりとした外気に触れた。車外は予想外に涼しい。若干の寒さを感じるほどだ。珍妙な表現になってしまうが、豆腐に顔を突っ込んだような冷気である。海がすぐ傍ということも関係しているかもしれない。暗い夜の風が彼女の体をガウンのように包んでいる。

 待てよ。この建物は見覚えがあるぞ。そうだ、前にも一度ここに来たことがある。あのとき───だ。あもときその女はこう言った。

「あたしは無造作に捨てられた花束。あとは焼かれるだけ。まだまだ咲いていたいのに。ねえ、あたしってまだ綺麗?」(霞ゆく夢の続きを〈7〉─48)

 名称はこんなんだったかな。違っていたような気がする。たしか『リバティ』とかいう名のラブホだった。やっぱり建物の造りが似ているだけなのか。こんな特徴的な建築物はそうそう見かけるのもではない気がするのだが。思い過ごしだろうか。それにしてもそっくりだ。
 赤井君はあのときを回想する。

 彼は女を犯した、月を夜空から剥がすように。彼は女を犯した、斧で樹皮を巨木からはぎ取るように。ただでさえ都会の夜空は星が少ない。その少ない星を奪いあう二人。二人は絡み合う蛇だ。三日月の刃が漆黒の夜を切り裂いていく。
 いかにも裏返せそうなペーパームーンの薄明かりの下、安ラブホテルで彼と女は時の沼にゆっくり沈んでいく白い肉塊と化していた。竪琴の弦が切れ、か細い糸が風に靡き、女の乳房に触知的な愛の囁きを奏でる。
 女体に注がれる樹液が、真空の宇宙に炎の雫を散らす。夢の彷徨のうちに死せる魂。その魂の溺死体を宇宙に泳がせる。女は艶めかしい唇を氷の大地に這わせながら、溺死体たる男を抱擁し、敵対する野蛮な悪魔の内臓を舌のうえで転がす(霞ゆく夢の続きを〈7〉─48)。

 “彼”とは本当に僕のことなのだろうか。なぜか現実味をもって思い出せない。僕であるような気もするが、そうでないような気もする。まさかあれは夢だったんじゃなかろうな。不思議な話をする女だったことだけよく憶えているのだが、如何せん今はその顔すらはっきりしない。ありとあらゆる女の顔の類型がモンタージュのように高速で入れ替わる。だが、これだというものが見当たらない。完全に顔のない女になってしまっている。しかも女と交わった記憶はあっても、その経緯や背景が記憶からすっぽり抜け落ちている始末だ。
 どうやら改めてこれまで生きてきた記憶の整理、再編集が必要だ。あれは霞ゆく夢だったのかもしれない、決してその続きを見ることのない。

「ボクちゃん、ボーッとしてどうしちゃったの? 案山子になってるわよ。魂を抜いて、今度は大宇宙と交信してるのかしら」
 そう言いながら体を押しつけてくる。彼女はとてもいい香りがして、性的に虜にされてしまう。クラクラと目眩がしてきそうだ。媚薬を嗅いでいるかのような気がしてくる。これが彼女の惚れ薬、いわゆるフェロモンの香りか。
 それにしても、また“ボクちゃん”かよ。これ、男の攻撃性を挑発するためにわざと言ってるのかもなぁ。
「どうしたの、ボクちゃん。尻込みしちゃった?」
 もう、“ボクちゃん”ってやめて。攻撃的になるよか萎えてしまう。だが尻込みなどするもんか。ちっこくても一応、男だ(アレのことじゃないよ)。媚薬に刺激をうけたわけではないが、色事、待ってましたである。何のために風俗嬢から手ほどきを受け、あっち系の技術を磨いてきたと思うんだ。こういう時のためだろう。
“立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花”の、こんなハイスペックな女と一夜を共にできるんだぞ。箱村のことを考えれば若干の心理的ハードルはあるものの、これほどの器量よしを前にして、普通の男が“武士は食わねど高楊枝”でいられるものか。こんな一生に一度あるかないかの絶好の機会をやり過ごすことなど到底ありえない。
 とはいえ奥様泥棒を良しとするつもりはない。それどころか、実のところ今だって泥棒しようとしているのか押し売りされているのか微妙なところではないか。
 こんなことは考えたくないんだけれども、彼女にとって僕はどうせ火遊びだろう。賞味期限がすぎれば捨てられることは目に見えている。そうなれば自ずと元の鞘に収まるんだ。箱村への不義理も気づかれなければ何の問題もないのである。二人しかいないだだっ広い砂漠で道に外れた関係を結んだとしても、誰も見ていないんだから密通したことにはならない。
 赤井君は肝を据えた。劣情に鼻息荒く、いよいよ竹刀を真剣に持ち替える気持ちになる。
 ちなみにナイト・クイーンの花言葉は「危険な快楽」だとか。


(63)

 物憂げな午後の日差しにくるまれる二人。箱村と赤井君、大文字と小文字のキャラクターが並んでいる。のんびりと日向(ひなた)ぼっこだ。なんだか体んなかでビタミンDがつくられているのを感じる。完全に平和ぼけモードだ。天日干しでスルメになりそうだ、こりゃイカん(w)。
 見開きページのように目の前に風景が広がる。遮るものがなく見晴らしがよい。鮮やかな青が、道路や人波や車───それら過密都市小倉のあらゆる輪郭をくっきりと際立たせている。貫く光が女の裸体を透かし彫りするかのように、目に映るありとあらゆる都会の像を背景にくっきりと刻み込んでいるのだ。
 都市の景観は組子細工さながらである。低層ビル、中層ビル、高層ビル、超高層ビルが様々な形の木片となって噛み合うことで、ひとつの壮大な文様を描き出している。眺めれば眺めるほど、そこにある無数の人々の日常が写実的タッチで迫りくるように思えてくる。
「こうやって何もしないでボーッと景色みてると平和ボケしてきそうだな、花菱を笑えねぇ。世界では飢餓や戦争で人がいっぱい死んでるっていうのによ」
「このまま平和が続いてくれるのなら、死ぬまでボケてたっていいじゃないっすか。その“平和ボケ”とやらのままで」
「うん、そりゃそうだ。けどよ、同じ日に同じ地球で恐ろしい殺戮が起きているんだよな、ここからは見えない地球の裏側なんかでよ。そういうの何か嫌じゃないか?」
「うん、そりゃそうだ」
「なんでまた俺の口真似すんだよ。輪唱してんじゃねぇよ。今度は九官鳥になったんか(w)」
「ここ、見晴らし台みたいですね」
「おう、いかした展望スペースよ」
「今日はいい天気、爽快です。日光にあたるのはリラクゼーション効果がありますよね。あ~ぁ癒しだ。『ジャックと豆の木』みたいにあの空に上って行けそうな気がしてきます」
「おっ、洒落た言い回しじゃねぇか。爽快ってどんなふうにだ。小説家っぽく言ってみな、こう、もっと詳しく、文学的表現でさ。採点してやる」
「およっ? 箱村さんも花菱社長といっしょで、僕に即興ポエムをつくらせるんですか?」
「そうだよ」
「嘘でしょう」
「嘘なもんか」
「今ここでですか?」
「あたりきしゃりきのこんこんちきよ。せっかく目の前に壮大な景観が広がっとるのに、素材そのまま丸かじりしない手はなかろう」
「リンゴじゃないんですから🍎」
「歯茎から血が出るんか。歯医者さんに見てもらえ」
 え? なんの話? 相変わらず間の抜けたナンセンスギャグ。バットが見事に空を切っている。
「ほれほれ、情景描写のレッスンだ、平和ボケにならないようにな。イメージは生ものだぞ。お早めにお召し上がり下さいませ、だ。空想やバーチャルじゃなくて、やっぱ実景じゃなくちゃぁな。実際にライブ中継してみることは文章に臨場感を出す、いい訓練になる。タレントのグルメレポだけじゃ味は分からん、実際に食わなきゃよぉ。まだ若葉マークのくせして、ズボラいうな。せっかく目の前に景色があるのに練習しない手はないだろう。パフォーマンスは生(なま)に勝るものなし。レッスン料は取らないから安心しろ。半人前にとっちゃ、こういう細切れ時間こそ仕事の技量レベルアップのチャンスなんだよ。“少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず”ってな。継続は力なり。仔猫だって毎日継続して精進すれば、やがて虎にもなれるんだ」
「そりゃ、なれないでしょう」
 いやはや、昼日中(ひるひなか)から馬鹿げたレッスンかよ。先生面すんのはよせよ。この人も花菱と同じだな。なにかと教師と生徒の関係にしたがる。
「じゃ心の準備を。ねぇねぇ、その前に夢茶を流し込んだ方がいいでしょうか」
 と、一時猶予を申し出る赤井君。
「アホこけ。オチャァ~~!ってか? お前はブルースリーなのか。なつかCMの“まずい、もう一杯”じゃないんだぞ。あれは夢茶じゃなくてキューサイの青汁じゃないか」
「不味さからいったら青汁なんて夢茶の足許にも及びませんね」
「ほら、つべこべ言わずに実行しろ。ぶっつけ本番だよ。いますぐやるんだ」
「でも夢茶で言語感覚を麻痺させないと狂った言葉は出てきませんよ」
「“狂った言葉をぶちまけろ”と言ってるの花菱だけだ。まともな言葉でいっこう問題はない」
「あの~、夢茶って旨みエキスだけ抽出して粉末状にできないもんでしょうかね。抹茶みたいに。だってこんなときでもお湯を注ぐだけで飲めるでしょう」
「なんでここで夢茶をしつこく話題にするんだ。話を別のところに誘導しようとしたって無駄だぞ。お前のよくやる手だからな。見え透いた小細工すんな」
「しかしレッスンなんて御大層に。こんなのピアノやバレエみたいなお稽古事でも何でもないでしょう」
「なにを寝言いっとるんだ。おかしいな、一般的に後輩は先輩のアドバイスを求めたがるもんだけどな」
「その一般的と言うのはいつの一般なんですか?」
「おりょ、お前、話し方がなんだか家内と似てきたな。そんなにいつも顔を合わしているわけでもないのに不思議だな」
 思いがけない箱村の言葉に慌てふためく赤井君、ビックリ箱のように頭が胴からちぎれて宙に飛びあがった気分だ。
「いえ、別にどうでもいいことなんです。いえ、いえ、いえ、いえ」
「なにがイエ、イエ、イエ、イェ~~ぃだ。レナウンワンサカ娘か。プールサイドに夏がきたのか。“いいわぁ!”ってか?(古すぎて誰も分からない)。だからいつも、あんな倉庫の片隅じゃなくて、ちっとはまともな家に住めって言ってんだろ。イェ~~ぃ! お前はまだ若い。脳の可塑性もある。鉄は熱いうちに打てだ。何事も最初が肝心だ、学校の先生がそう教えなかったか? 身きり発射で構わん、ともかくやれ。山は頂上からは登れんぞ。山の頂を目指すなら上り坂も覚悟しろ」
「別に目指してないし‥‥‥」
「言っとることが理解できんのか。どんな建物も基礎工事からだろう。屋上からはつくれんちゅうこっちゃ。さあ、心意気を示せ。千里の道も一歩からだ」
 だから千里も歩かせんな、つうの。
「あれぇ〜、比喩を比喩で説明してる。ただ比喩ばかりダラダラ並べるだけじゃ、説得してることになりませんよ」
 ノッポとチビ。バランスが取れないのは体型だけでなく互いの主義主張もだ。
「ブツクサ言わずにやれ。なにボーッと突っ立っとる。停留所でバスがくるのを待っとるのか。カチンコを鳴らすぞ、カチン。はい、アクショ〜ン!」
 やる気のなさに業を煮やした箱村は、有無を言わせない。
「そな、無茶な。なんだか鼻がむず痒い。ハッ、ハックショ〜ン!」
「は~~い駄目。くしゃみ駄洒落でごまかすな。撮り直し〜~ぃ」
「とほほ」
「なんだ、アクショ〜ンってのが気に入らないのか? だったらハイ、位置について~ぇ、よ~い、ドン!」
 今度は徒競走かよ。
「そんなに発破かけないでくださいよぉ。さいですか、もうゴリ押しには負けました。アンタが大将です。え~と、なんていうんだろう。

 萌えたつ若草に囲まれた、少年の黄色い麦わら帽子。空からビタミンDが降り注ぐ。

───ってな気分です。ちなみに麦わら帽子は風に乗ってここまで飛ばされてきたんですよぉ」
 否応なく言葉を紡ぐ赤井君。しぶしぶ承知したようだ。
「う~ん、しっくりこん。完成度が今いちだ。お前の紡ぐ歌詞は何かよう分からんな。なんやモデルハウスみたいなポエムだぞ。クオリティーはそこそこなんだけどよ、可もなく不可もなく、標準的でどこにでもある‥‥‥う~ん、そんなんじゃなくて、他と似てない個性的なのが出てこんもんかなぁ。それになんだ、最後のビタミンD なんたらってのは。耽美性も詩情もあったもんじゃない。“ハラショー!”と称賛の声をあげてやりたいところだが、そうもいかん。そんなんじゃ誰も“グッドジョブ!”とは言ってくれんぞ。筋は悪くないんだけどよぉ、なんていうかな、そんな通り一遍のじゃなくてさぁ‥‥‥幼児に絵本の読み聞かせしてるんじゃないんだ、もっとひねりを効かせられんもんかいな。お前のイメージはアンコの入ってない鯛焼きだ。頭から食っても尾っぽから食っても味がせん。それって俺が小学校で飲んでた給食の脱脂粉乳じゃね? なんとも水っぽい描写じゃねぇか、おまけに最後にビタミンDなんて変なモノまでくっついてきてよぉ。搾りたての、もっと中身の濃厚なのは出てこんのか。ビタミンDを摂取したけりゃ、そういうコクのある牛乳を飲まなきゃいかん。言葉に歯ごたえがない。お前は流動食か」
「箱村さんは博多っ子なんですよね」
「それがどうした」
「博多うどんは敢えてコシをおさえて柔らかく仕上げるじゃないですかぁ。弾力を殺すっていうかさぁ」
「何でうどんの話になるんか〜~い。食いてぇのか」
「いえ、今は特に食べたくないです」
「俺は食いてぇ。ま、それはともかくだな、出てくる言葉がそんな陳腐で細切れのパンの耳じゃ、砂糖をまぶしてバターで炒めても美味しいラスクはできんぞ」
 自分もさっきから食い物に喩えてばっかじゃないか。こっちもそれに合わせてるだけのことですよ。
「は、はぁ? 僕は食い物なんっすかぁ」
「んな、わけあるか〜~い。なんでお前を食わなきゃいかんのだ、ホモじゃないぞ。食いてぇのは博多うどんだっちゅうの! 要するにお前のは下手くそだということを指摘しているんだ。お前も会社員の端くれなんだから、少しは品質向上を目指したらどうだ」
「上手になるためには、まず下手をよく知らないと‥‥‥でしょ? それに下手だということは伸び代があるということでもありますよね」
「どういう理屈なんだ、それ。つべこべ言わずにさあ集中! グズグズするな。熱意をしめせ。気合を入れろ。最後まで試合は投げ出すな、アントニオ猪木の燃える闘魂だ!」
 闘魂って、いつもだらけきったアンタがそれ言う?
「げ、げ、げ、パワハラですよ」
「鬼太郎かぁ! 受けな〜~し、笑いな〜~し。で、それから?」と箱村。
「それからって、これでお終いですよ。精も根も尽き果てました」
「精も根もって‥‥‥ほんとに? 暑さに頭がヒートしたんか。まだそれほど暑くないだろう。おちょぼ口を押し広げて、暑中見舞いを投函しちゃろか」
「すんません、ちょっと大袈裟でした。ただ脳が酸化ストレスで活性酸素漬けになっているだけのことです」
「あれまあ、もっと大袈裟になってるぞ。ほんとにそれだけで終わりなのか。それじゃ起承転結になっとらんだろうが。新聞の四コマ漫画を読んだことはないのか。もっと搾りだせ、ここからが山場じゃないか」
「なんせ脳が棒になってますから」
「棒になるのは脳でなくて足だろう」
「あしからず、テヘッ」
「テヘッじゃない。そのオチを言いたかっただけなのか。そんな場合かぁ、いま笑いはいらん。続けろ。やれ」
「無理ですよぉ、限界。びっこの犬が無理して歩いて棒に当たりました、ワンワン」
「なに訳の分からんこと言っとるんだ。豆乳を搾ったあとにもオカラは残るだろう。オカラを出しゃいいじゃないか。ウンコを出せとは言っとらん」
「また食い物に喩えて。ほんでもって付録が下ネタですか」
「ハッ? 写生する要領で、ただ機械的に言葉を紡いでいけばいいだけじゃん。こう、浮かんでくる言葉を浮かんでくるままに何気に並べていきゃぁいいだけだ。それとも花菱みたいに無尽蔵に出てこんのか。だったら、なけなしの語彙を風車のように脳ミソの中でグルグル回してなんとか搾りだせ」
「ヒッ? まださせるつもりなんです? きっつ~ぅ、無茶いわないで下さい。これで十分でしょう。未完成感があったほうが余韻も残ると思いません?」
「思わん。フッ、井戸にツルベを下して水を汲もうにも、底がカラッカラってか? 飛距離を出すにはクラブを振りきらんかい」
 ヘッ? 僕はゴルフボールかよ。
「せっかくバッターボックスに立ったんだから、ボールに当たらなくたってバットだけでも振り回さんかい。ただしバット振れと言われたからって、あっちのバットまで振っちゃぁいかんぞ。ほな、中途半端に振り振りせずに、空になるまで出しきれ。ギブアップすんな。あそこに精子を残したら精子に申し訳なかろう」
 下品きわまる下ネタで追い打ちをかける箱村。余計な一言が多い。
「ホ~ッ、また下ネタですかぁ。感嘆詞のハヒフヘホじゃないすか。いい加減にしてください。短くちゃダメなんですか?」
「“二位じゃダメなんですか”の蓮舫議員かぁ? 短小包茎でもダメとは言ってない。愛とテクニックさえあれば女は満足する」
「またまた下ネタですか、たまには寿司ネタでも出てきませんか。下ネタしか話すことがないんですか」
「短くてもピリリとしたとこがありゃいいんだ。餃子のタレにはやっぱりラー油を一滴混ぜなきゃよぉ。そんなんじゃ平板すぎるじゃんか。辛味のアクセントも少しは入れとけ。刺激がなけりゃ面白くないだろう」
 まったくもう、あんたには食い物とエロしかないのか。
「あのよぉ、そんなマンネリ風なやつじゃなくてさ、もっと斬新なのが出てこないの? エポックメイキングなスゲーのがさぁ。さあ、もっとエッジを効かせられんのか」
「スノーボーダーじゃないもんで」
「ボケを効かせとは一言もいってないぞ。そもそもお前のそのイメージってよ、半分、森村誠一の『人間の証明』のパクリじゃなかと?」
「“じゃなかと?”ってどのあたりの方言ですか。やっぱ博多あたりですよね。福岡県人かぁ。インターナショナル・ピーポーもいいんですけど、だんだん箱村さんが何県人だかわかんなくなってきます」
「こっちとら“山笠があるから博多たい”の生粋、福岡っ子ばい。あら? そんな話じゃなかったろう、魂胆見え見えだぞ。レッスン中に話を逸らすな。運転中によそ見したらダメじゃんか」
 てか僕、いま運転してないし。
「トホホ、箱村さんが言ってるのって映画の予告編のことでしょ? “母さん僕のあの帽子、どうしたでしょうね”っての。だったら森村誠一というより角川春樹っしょ」
「そんなのどっちだっていいっしょ。俺の方言がどうこう言うわりに、お前だって変な若者言葉つかうじゃないか。あ、そっか、実際に若者だったな。いっしょにいて、爺(じじ)いなのか小僧なのか分かんなくなっちまうんだよな。角川春樹じゃねぇよ。全部ごっちゃになってんじゃね? 角川春樹は“読んでから見るか、見てから読むか”のキャッチフレーズしか今、思い浮かばんぞ。てかっ、元をたどればそれって西條八十の『帽子』の冒頭部分だろう」
 箱村は訳知り顔でそう語る。
「おっ、やたら詳しいじゃないですか。サイジョウヤソ? それって誰なんっすか?」
「知んねぇのか。結構これ、当時は話題になったんだけどな。要するに西條八十を森村誠一と角川春樹がパックって、それを今お前がパクったってわけだ。まあ、言葉の総量は限られてるから、意図する意図しないにかかわらずお互いパクパクしあわないと文芸作品は成り立たないんだろうさ。持ちつ持たれつだ。おそらく内部事情は予想以上に込み入っているに違いねぇ」
「へ~~~ッ、知らなかった」
「年寄りじみて見えても、やっぱ若いな。こんなの、俺らの世代じゃ誰でも知ってることだかんな。さてねぇ、生まれたての夏を素肌にまとう少年。背景は青い空と白い雲。いまにも稲穂が実りそうな、黄金色の麦わら帽子が宙に舞う───青と白と黄の鮮烈な対比か。くど過ぎるのも厭味だが、もうちっと克明に描写できんのか。いつもお前が担ぐリュックは言葉を詰め込みすぎて重いだろう。どうしたんだ。夢茶に狂ったときは水墨画にクレヨンを塗りたくるみたいに、これでもか、これでもかとサイケな絵を描き殴るくせしてようぉ。まあこれも素面だから仕方ねぇか。ビタミンDを除いて発想は陳腐だが、ちゃんと多色刷りの風景が浮かぶ。朗読もしやすそうだ。映像も俺の心の印画紙に焼き付けられたし、爽やかな感じも伝わり余韻もある。う~ん、50点だな」
 点数をつけるのもどうかと思う。しかも及第点にもいってない、赤点じゃないか。
「50点ですか?」
「じゃあ、51点だ(w)」
「はあ?」
「この点数でもチビだから上げ底してやってんだぜ。かなり甘口の採点だ。有り難いと思え」
「いつから僕の指導教官になったんす?(w)」
「あたぼうよ。当然、実力差からいっても指南役は俺じゃんか。お前よりワンランクもツーランクも上だ。せいぜい模範にするこった。とりあえず今回は不合格。追試を待っとけ」
「えぇ‥‥え?」
「心配すんな。追試の前にいつか強化合宿してやっからよ」
「なにそれ、体育系の部活ですかぁ。アホらし」

 最後までお読みくださり、有難うございました。

              赤井かさの(ペンネーム、挿絵も)

霞ゆく夢の続きを(10)

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