"概念-少女"・"概念-少年"の日常言語による意味説明

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 ぼくはなによりも先ず詩人でありたい。
 そうであるがために、自分の造語である”概念-少女”、”概念-少年”を詩的言語と物語以外で文章化することをずっと拒絶していたのだけれども、説明しておくともうすこし愛読者が増えるかもしれないという期待で、ぼくが劇しくきらいながら惹きつけられ執着してしまう、結われを俟ち希む”花”的な気持で説明してしまおうとおもっている。
 先に書くけれども、以下の文章ではまったくもって双方の言葉の観念的な真の意味を表現できていないので、ほんとうにほんとうに言葉そのままを信じないでほしい。
 それよりは、いやこれを読んだあとでもいいんですけれども、あの、もしよかったらの話ですけれども──「純文学とはなにか」がよくわからないぼくが書いた「詩人が書いた小説(こんなジャンルは一般的にはないけれども、ジャン・コクトーの小説たちを辿り着けぬ頂点のひとつとしてぼくは位置づけている)」、”概念少女-小説”、”概念-少年小説”を読んでくれたらうれしいのだ。



  2
 扨て。

  *

 概念-少女とは──。

 (胸が裂けそうな気持で、詩人としてほんとうはしたくないが日常言語化してみた、けっして本来の意味としては成り立たないがすこしだけ近い)意味。
 概念としての”少女性”を夢みて、世界と自己の醜さに瑕つきながら、実現のために頑張っているひと。年齢、身体的性別、性自認を問わない。

 見られやすい具体例(すべてそうではない)。
 少女漫画的な理想を信じる傷つきやすいひと。

 見られやすい口癖。「木之本さくらちゃんになりたい」「それを愛というな」「ひとがひとを大切にするのは当然だよ」

 たいていの結末。
 そのままでは生き抜けないので捨てて、現実的に生きる。

  *

 概念-少年とは──。

 (胸が裂けそうな気持で、詩人としてほんとうはしたくないが日常言語化してみた、けっして本来の意味としては成り立たないがすこしだけ近い)意味。
 概念としての少年性に佇み、その自分を美化したかたちで、おおくの場合、社会に背を向け閉じこもるひと。年齢、身体的性別、性自認を問わない。

 見られやすい状態の具体例(すべてそうではない)。学校社会から脱落した早死(はやじに)したいロックキッズ。

 見られやすい口癖。「自分を裏切ってまで大人になる気はない」

 たいていの結末。
 そのままでは生き抜けないので捨てるか、幼児性にとじこもる。

  *

 共通点。
 社会が与えた言語に自分の知性が閉じ込められてしまい、思考をある種社会の時代性と労働に最適化された状態への、徹底的な拒絶。



  3
 ぼくの造語である"概念-少女性"のそれと比較して、"概念-少年性"という概念を語るには、それほどに多くの言葉、そして詩的論理を必要としない。
 それがために、概念-少女小説は生涯のライフワークとして数を重ねるつもりであるが、概念-少年小説は『水光のたほれ』以降書く意欲がいまのところない。
 そもそも──天才、サリンジャーにぼくが書けない領域ふくめすべて書かれてしまったとおもっている。

 “概念-少年小説”である『水光のたほれ』の生に見られる「青年性に佇み、痛みに耐える」態度こそが"概念-少年"の態度性の唯一の自恃なのであり、また、そこには社会的成熟への拒絶性・回避性・外界へアプローチする勇気の欠如性という、大人になれない男性にごくごくみられやすい、──推測にすぎないけれども──ほとんどの男性がそうなりかねないという可能性を含むという意味において、まったく珍しくもなく、貴重性もないのではないかとぼくに推測される。

  *

 小鹿物語に比喩させる。
 小鹿を撃ち殺せずに小鹿に乗ってはちゃめちゃに走り回って、躰を瑕だらけにしながら”わが身に無き無垢”と対応することで心を鍛えあげ、他者に優しくしようとするのが概念-少女である。
 小鹿を撃ち殺せずにうずくまったまま、”わが身に在る無垢”を信じ守ることで躰も心も傷つくことから逃げているのが概念-少年である。

 概念の意味における少年性をもちつづけるには、心に連続する深みの痛みに足を浸し耐えるだけで済むのである。人間の心にあるものなので、むしろ、気楽だ。社会参加はしてもいいが、しなくても大丈夫だ。
 されど少女漫画で謳われてきた少女性というのは、おそらくや、人間の心にはないものである。
 それは心とは不連続性をもった上方の憧れ、恰も真善美にも似た観念的なものであるからして、概念の意味における少女的な人間でありたいのならば、途方もない観念的な戦いを必要とする。しかも、外の世界でそれをしなければいけない。むしろ、はちゃめちゃに傷つきながら社会参加していなければいけない。
 もちろん、自殺してはいけないから要所要所でちゃんと休まなければいけない。

  *

 ぼくは、双方を人工的なかたちで両立させ、ぼくのいいかたでいうと”心の根”(キリスト教でいうと"魂"に近く、カミュにいわせると"人間性"、坂口安吾いわく"人性"に近い)と重ね合わせた、社会貢献と貞節の守護を共存させうる、主体としての"わたし"をつくりたい。
 わたしは”わたし”として生きる。この文脈を生きなければいけない。
 この言葉を、ただの甘ったれたわがままで幼児的な生き方を肯定する意味でつかいたくない。



  4
 端的に申し上げれば、このふたつのジャンルの小説の執筆とは、「野原を彷徨うやつれた夢想家」、すなわち病める詩人としての「少女的でありたい、少年的でありたい」という夢(詩)を守護しながら、「自殺しない」というルールを守り生き抜いた先の、「ひらかれた風景」へ向かうためのアプローチなのである。

  *

 ぼくは、社会へのラディカルな言葉をもちえない閉鎖的な文章書きだ。
 されど、”わたし”を歪めうる”ぼくの感情・行為・現象”に対しては、徹底的にラディカルでありたい。真夜中に鳴る鶏鳴の如き革命をぼくへ起こしつづけたい。
 闘争心がつよい人間は、なるべく他者を傷つけないように明確に敵を設定し、それとだけ争えば魅力になるというのがぼくの考えだ。
 ぼくの敵は、「”わたし”をゆがめうる”我”」である。外部から”わたし”を歪めうるなんらかの暴力をうけたら、”わたし”を守護するために内部でそれを化学変化させ、むしろ”わたし”を目的の方向へうながしえる瑕を負わせるのだ。
 要は、なんらかの暴力をなんらかの暴力で復讐したいという自己の欲望に抵抗するのだ。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。瑕負うにともない、磨くものだ。
 暴力の連鎖を自己にとどめ、受けた暴力によって感情を良いものへ導き、注意深く吟味して良い行動をとるようつとめ、できるだけ悪のすくない良い現象を外部へ発そうとする。それがほんとうに良いのかを決定せず、自己を批判しつづける。

 なににも跪きたくない、手折られたくないならそのまま生きていいから、自殺するな。
 でも世界と関われ、できるなら働こう、そのなかで、ひとを大切にできる人間になれ。
 生き、切れ。

 こんな自己への命令が、恰も過激思想による攻撃的な革命の如く急進的にして攻撃的に命と自尊心へ作用する病める人間にだけ、ぼくは、いつだって語りかけてきたのだ。
 ぼくは、ぼくに似たひとへの「生き抜こうね」という言葉のほか、眼も合わせぬままされたささやき声のほか、一切の”社会的主張”をもっていないつもりだ。

"概念-少女"・"概念-少年"の日常言語による意味説明

読んでくれてありがとうございました。

"概念-少女"・"概念-少年"の日常言語による意味説明

エッセイ "概念-少女小説"・"概念-少年小説"のまえがきに相当

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-10-03

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