ゴシックロリヰタの約束
1
恋人たちは、さながらに暗みへ希いをなげつけるような一種呪わしい気持で、約束ばかりを契っていたのだった。
双りの未来への希いのなかで、一つ一つ糸を引くような注意力によってえらびとられた、実現しえるであろう近未来のささやかな約束だけを抽きだし、大切に大切に丁寧に丁寧に守りつづけ、されど遥くとおくに投げ放たれ星さながらに光っている約束がいつまでも果されつづけることだなんて、屹度、当事者であるかれ等にだって信じられていないようなのだった。
ささやかな約束というのは、たとえば日付こそ決めずとも「これを一緒にしようね」というようなものであったり、「今日の夜はお話しようね」というしごくふつうの恋人らしいそればかりであったのだけれども、恋人たちは、それを硬質な水晶で水を縛るような不条理なやりかたで、強固にして絶対的なものとして扱い恰もそれを誓い合っていたのだった。
*
その水晶は、たしかに青い火を炎やすようにして月影を時折だけ照らしたのだった、恋人たちはそれを、わたしたちの無辜なる翼を照らし撥ねた反映であるとみまがっていたのだった。
*
かれ等はいつもおそれていたのだった、いつや、何らかの約束が初めて破れる時がくるであろうことを。
その破裂音は、この関係性の完全な破棄を示すであろう。
秋津秋江は十九で、弓はまだ十八だった。
秋江は弓に恋し、弓は秋江を愛してはいなかった。
従って、殊勝なことに秋江は弓への優しいキスをすらわが身に禁じていたのだった。
弓は「生涯処女でいたい」という少女的な倫理を示し、その冷たい倫理は秋江をさながらに荘厳な気分にしたのだった、さながらに銀の神殿をまえにしたときのような、硬い自己憐憫を奥へ奥へとおしこむ恍惚のようなこころに伴って。
かれにはその冷然硬質な硝子製さながらの少女的倫理を、なによりもいとおしいものとして愛しえたのだった、何故といい、それは象徴派芸術を殊に愛するかれにとり、わが身が弓へいだく欲望を天上の避妊具の如く如何にも撥ねかえす、夢に浮ぶが如く硬く、暗示的な──その暗示と云うのは、水晶さながらの硬質な死を謳うイマージュである──想念であったから。
しかもその風景は、かれ固有の冷たく孤独な硝子盤的世界観と、綾織られること不可能にして、恰も重なったのである。
かれは唯ひとつの存在を愛していたようなのだった──拒まれている自己の憐れさの可憐、そういうものを。
「キスくらいならいいんだよ」
と弓は云うけれども、
「弓はそれをしたいとおもうの?」
と訊けば、
「したい、したいけれど、それをわたしに是認してもいいものか、まだ、わからないの」と、後ろめたげに告白をする。
かれは了解した、その「わからない」という心的状態をわからないままに、そのままの存在を是認したのだった、なぜって、秋江は弓が好きだったから。
と云うよりも、かれのような意気地なしにとっては、そうせざるをえなかったというが的確な云い方であるのかもしれない。であるからこそ、それが愛というものが判断させた選択であるのか、かれにはまだ決め切ることができないのだった。
ところで、作者は「ひとが他者を愛している」という状態は如何なるそれかという主題への厳密な考察を終えることが生涯自分にはないと断じているから、秋江のこの一種少年的な優柔不断を、一種殊勝であると褒めたたえることができる立場だ。
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弓にはなぜかしら、死の想念を連想させるような硬い雰囲気があったのだった。
なぜって、蒼褪めたような白い肌はあたかも珠のような素気ないマットな沈鬱さを湛えていたし、それはかれの視線をいつも辷らせ撥ねるのみの硬質な印象をしかかれには与えなかったのだから。
微睡む猫のそれのようなかたちの目は、翳りを帯びる月のような眸を、ときどきだけしか光らせない。
それが重たくウェエヴのかかったくろぐろと照る前髪に隠れているのは、かれには霞に身を隠す恥ずかしがりやの月のように愛らしく、とくべつに綺麗に映ったのだった。
さながらにありとある生に対してよそよそしい大理石のそれというのが彼女の美の印象だったのであり、それはパブロ・ピカソがその素材的なものを避けた原因とどうように、あらゆる有機的なデフォルメを拒絶しているようにかれに映ったのだった。
その真夜中の降りた憂鬱な森の一条めいた漆黒のうねり髪を、ひそやかにしゃなりとゆびではらうときの夢想的な気持ほど幸福なそれはないのだった、先ずもってかれはそれ以上に弓に触れることを双りに赦されてなどいなかったから、その古代彫刻から受け継がれる古典的な躰のうごきは、けだし陶酔の気持をかれに齎していたのだった。
即ち、愛するといううごきを身体的に比喩されたような身振をわが身がするというそれ自体に、秋津の自意識はいつだって酩酊した。
こんなにも大好きな恋人がぼくの性的な欲望の一切を是認していないのだというかれの抱く観念は、秋江の自意識のうちでかれの躰を姫君へ剥ぐようなイマージュで美しくしたのだけれども、かれはその自画像による自画像のような想念を水槽をそとから眺めるような視点で、そんな、みずからの混濁し偽装された美意識に対し憎しみのまま搔きまわし砕きたい、屹度、その舞台装置として内部を美しく装飾された檻を砕いた先の光の射し昇りこそがみずからをひらかれた愛へと導くのだ、そんなつよすぎる自己への愛による自己嫌悪的破壊衝動をもってもいたのであろう。…
*
されどこのような観方をみずからの恋愛に対し、秋津秋江がもっていたのもむりはないのである、なぜって、抑々その恋には陽が昇る以前から暗みの鋭く籠る破滅的風景が兆していたのだから──それは重たく蔽いかぶさる天空の風景と関係することによって、詩的視力に傑れた秋江にはけだし明らかであった。
*
かれ等はH精神病院の入院病棟で知り合い、そして、いまだ其処にあった。
2
シモーヌ・ヴェイユ曰く、他者を愛するということは、そのひとの実在のありのままを善であると信じることであるらしい。
もし作者の希うように「愛する」と「信じる」がほんとうにシノニムであるとするならば、往々に云われているようにひとを愛するというのはけだし無謀であり、不合理にすぎるうごきであり、しかもその信頼をとくべつな一個人のみにして了うという感情の判断は、殆どまちがっていると云い切れはしないだろうか?
果して、完全に善性を信じられるに値する人間というものが、いったいこの世にいるだろうか?
他者のこころは不可視であり、現在の人格は内外の条件次第で幾らでも変容するものであると作者はかんがえる。もしそうであったのだとしたら、全我を掛けて一人間のみを信頼するというのは、あきらかに轟々と燦る火へ躰を投げこむような愚かなこころのうごき、くわえて躰のうごきであるというように作者には想われてならない。
愛するに値する他者など存在しないというのは如何にも厭世的で悲観的な人間の観方であるかもしれないけれども、そうであるからこそ、ひとを愛するという不合理なこころのうごきには美と善を反映し綾織らせる可能性を孕むのかもしれないのだと、だから”愛の美”という名辞どうしの不可解な関係性は古代希臘から消えてなくなることはなかったのだと、そう呻いて了う作者の悲願めいた感覚を、感覚的にすぎる悲願を、ここで披瀝させていだたこう。
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愛が美しいというのは、自明の理ではないのか。要検討。
仮面を砕き、愛をひらかせる。
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ひとを大切にできないというのが作者と秋津に共通するコンプレックスであった。
それはいう迄もなく、愛するという状態を成立させる条件をわが身は満たさしえないというのを絶えずわが身に突きつける状態を自己に強いるという生き方を意味していたのだった。
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“白塗りのとざされた森”というのが恰もH精神病院を形容する飾りことばであり、”其処に棲む鋭くみみを尖らせた哀れげなエルフ”と云うのがかれ等であったのだというと、幾分、かれ等を差別的なかたちで美化するきらいがあるだろう。
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勇気。
秋江にはそれがなかったのだった、従って、かれの欲する優しさや知性を獲得する資格そのものをもちえなかったのだ。つまりは、かれの信じるあらゆる美と善からかれは切りはなされていたのであり、従って、自分には愛する能力がないひとであるということに殊勝にも気が付いていたのだった。
「散歩にいきましょう」と弓に誘われ、はや看護師たちにかれ等の関係を勘づかれてはいるものの、おもてだっては云えないという状況から五分程受付時間をずらして、病院内の林にある或るベンチで待ち合わせをする。
「お待たせ」
と弓が云う。
ふたりは沈黙したまま、決められた道を何周も歩行する。
「わたしたち、幸せにはなれないね、屹度」
「そうだね」
と秋江は悲痛な気持で、即ち打ちひしがれているわが身の可憐に酔いきったような気持で同意をする。
「それなら、いっしょに不幸になりましょうね」
いっしょにいないか、いっしょに不幸になる。そのほかに、なにもありはしないのだった。
かれは恋人の貌をみた、くろぐろと渦巻くような暗みの背景が、こつぜんと彼女の眸に往きつき、恰も固着する。
”運命の女“。
余りに男性にとり都合のよすぎるくらいに都合の悪い概念を想い起こし、かれはそれを嗤いながら現在の状況に陶然とする。
「うん、ふたりでもっと堕ちていこう」
「一途に、ひたむきに、美しく堕ちていこうね」
「うん、勿論」
「わたしが先に退院するから、屹度、メールしてくれるよね? 待ち合わせは、×月×日午後一時、パルコの前。覚えてる?」
「覚えてるよ」
「忘れないでね?」
「忘れるわけない。屹度、屹度行くよ」
「約束だよ」
「うん。約束だよ」
そして弓が先に退院し、その数日後に秋江も退院した。
*
×月×日、待ち合わせのパルコ前に真夜中迄弓は現れなかった。
3
秋江が幾らメールをしても、弓からの返信はなかった。
かれは星空を見て煙草を吸いながら、どうか弓が生きていますようにと淋しく悲願した。ほかの男といっしょになっていてもいいから、どうか弓がそれなりの幸福を感じながら生きていますようにと夜毎に祈る。
されど、それはそう悲願する自己のイマージュが信じることが真実の自分の醜さから自己裁判の視線を外させるのだと、かれは識っていた。
*
如何なる風景とも交り合えぬ真暗闇なゴシックロリヰタに少女-武装した一つの透明なイノセンスの暗みが、脳裏で弾けるように銀の巨大なビルから投身して往く。
かれは銀の燦爛たるビルよりも巨きな躰でその想念を包含するような体勢で覆っていたけれども、背はみじめったらしく折り曲げられ、背骨はデカダンスそのもののようにうす暗い不穏な翳を落しボコと脹れている。…
4
この短い挿話は、勇気がなければ約束を果しえないことを暗喩として示した寓話なのであり、或る、時々だけみられる少女性への作者側の印象をえがいた夢の象徴派的絵画であり、どこまでも男性的な視点によって描写された、双りの恋人たちの終わって了った関係へ捧ぐ独り善がりなrequiemである。
ゴシックロリヰタの約束
読んでくれてありがとうございました。終わった恋、引き摺ってもいいよ。生き抜こうね。