『しょうがいよもやまばなし・補足』
補足。
◯わたしたち人間は、差別という強すぎる言葉ではなくとも、大なり小なり、ある領域に無関心を決めこんで、見ないふりをし、見すごし、無遠慮にふるまい、日々ようやっと生きながらえていると、わたしは思う。
そのことに自覚的か無自覚かという、認識の違いが広がっている。
ある領域とは世界にある、数々のマイノリティのことである。
わたしの意見だけれども、ひとはなるべく自覚的であればより良いと思う。
自分自身の世界観でははかれない、知らないわからないものが世界にはあり、どうにかしたくてもどうにもならず立ち竦む現実があり、それゆえに、知りたいわかり合いたいと欲求する人間性をわたしは、否定しない。
◯わたしは持病をもっているし、一見、健康ではないと分類されてしまうのかもしれない。
でも、ひととして幸せを感じたり逆に幸せを感じられず辛かったりするときもある。
健康ではないと分類されても、幸せは感じていいし、感じられないときもあっていい。
それは健康なひとも同じだと思う。
幸せなときもあるし、悲しみにくれるときもある。
これは、健康なひとも健康ではないと分類されたひとも、たったひとりの人間だからだと思う。
健康はあればより良いけれど、喪失しても、人間をやめるわけじゃない。
人生は、続く。
補足2
数々のマイノリティ(障害者、難病、少数民族、性的マイノリティ、かなり身近な例で言えば下戸、アルコールを飲めないひと等世界に存在する書ききれないほどのマイノリティたち)は、意思をもって自ら望んでそういった状態になったというよりは、運命に背負わされたようにすでにそうなのである。
彼らのあるがままを赦す価値観は現実、いまだ多数派ではなく少数派である。(だから声高に存在と権利を叫ばねば何事もなかったかのようにやがてかき消されてしまう。もちろんマジョリティに悪気はない)
わたしはマジョリティにマイノリティの方が気遣いをしている、という見方をしている。
マジョリティの無意識の無遠慮さに気遣いせねば、生きづらいのである。
マジョリティは依存先が多数あり選択肢が多種あり、配慮をわざわざ叫ばなくても世間から権利を気遣われスマートであると太鼓判を押され、そのうえで世間を無視し生きられるちからが発揮される世界観にいる。
マイノリティは依存先が限定的で、選択をする自由は狭められ、配慮や支援のお伺いをたて(なんなら許可まで気長に待つ)、それでも生きづらい世間の空気感をひしひしと感じる世界観を持つ。
マイノリティはある者は治療をし、ある者は世間に気遣いして主張を抑え、ある者はソーシャルスキルまで学び、あるがままを多数派の価値観に寄せて、肩身の狭い思いを秘めながら生活していく。
マジョリティの日常とマイノリティの日常には段差がある。
そこから見える景色には差異がある。
そして、今日明日に自分の下戸が、自分の性自認が、自分の民族や肌の色が、自分の病気が、自分の特徴が、健常や健康、多数派へと変わるわけではないのである。
世界に存在する数々のマイノリティはわかりやすい差別に耐えている人々ももちろん存在すると思われるけれども、わたしがささやかに述べたいのは、むしろマイノリティの日常的な意識的無意識的なマジョリティへの気遣いである。
マジョリティにとって、マイノリティがあるがままであっては困るのではないか。
そして、これはひるがえってマイノリティ自身にとっても問われている。
なぜありのままで、わたし(たち)はいられないのか?
そういった視点を指摘したいのである。
わたしはここに、平等性よりも公共性を視る。
補足3
障害者は無垢ではないと思う。
かといって異質な嫌悪ある存在でもないと思う。
多くの障害者はグラデーションがあり縦横無尽に、ダイナミックな存在だとわたしは思っている。
つまり、ふつうのひとだということ。
健常者に犯罪者もセクハラパワハラ加害者も、聖人も感じの良いひとも人気者も嫌われ者も友達が多いひともぼっちもいるように、障害者も様々なグラデーションとダイナミクスがある、人間から始まる存在だとわたしは感じる。
社会参加という面ではまだまだ段差があるだろうと感じられる存在だから社会の中で話し合って解決に向かわなければならないことはまだまだたくさんあると思われる。
福祉系、心理系、医療系の学生さんたちがときおり就労支援施設に見学や体験にくる時があるのだけれど、わたしたち障害者はどう見えているのだろうと思うことがある。
無垢か、異質か。
それとも健常者たちと同じように見えるか。
人間からスタートしている存在だと、頭だけではなく、腹落ちしてくれているだろうか。
プロフェッショナルではない学生たちにわたしがひっそりと願うことは、自分自身の持っている障害者のイメージが、勉強に励んだりフィールドワークをしたり、じっさいに専門職として働き続けることでやがて破壊され再構築され、その再構築された新たなイメージが日本社会の不穏な不透明感漂う空気感に風穴を空け、困り果てる、あるいは幸せを感じる目の前の障害者の手助けの一助となることである。
支援は、手続き案内やカルテや数々の書類だけでは残念ながら完結しない。
それらは大事な手段のひとつである。
この障害者は今、どこにいるのだろう?と探る手をとめない。
そういった支援の長い道のりを障害者と共に歩める人びとにたいして、わたしは、この仕事をあきらめないで欲しいと思う。
補足4『わたしの小さな考えについて。』
例えばアメリカのトランプ大統領にわたしの小さな考えを伝える奇跡が起きたとして、一瞥や鼻でせせら笑うことすら、されないと思う。
対峙することは無く、足元の水たまりにもならずに、極々些細な泥水として、彼のつま先すら濡らさない。
そんなわたしの小さな考えは現時点、この地球上ではそういう価値観なのだ。
思想と思想がぶつかりあい壊れ合い再構築され、または単なる思念となり消えゆくよう流れていく世界において、これこそが世界にとっての現実であり、なんとも言えぬ無力感の正体だとわたしは思う。
けれども、その小さな考えがこの地平のどこか、誰か一人でも糧となるならば、これこそわたしの歓びである。
つまり、世界にたいしては圧倒的無力であり、隣人にたいしてはささやかなる祈りとなれば良かろうと考える。
補足5『民主主義と、思想。』
己の生命を無きものにしようという相手方にこちらの思想を提示し、この考えも一理あるという言葉を引き出せるか。
ナチス・ドイツのヒトラーへドクターフランクルの夜と霧を読ませたとして、頷きひとつを引き出せるのか。
思想の強さをわたしはこのごろ、想う。
これは民主主義にも言える。
パイを奪い合う現実において、こちらの必死のニーズを殺しにかかっている立場にいる者に、いかにこちらの事情を慮っていただくか、こちらの主張(主張そのものの是非、主張の伝え方の種類は吟味したうえで)を届けるか、伝えるのか。
これは逆の立場にも通じる。
なにを聞き取りなにを葬るのか。
そして誰がパイの配分の、調整をするのか。
それはどこかのリーダーの一存やなにかの派閥の議員などではなく、わたしたち全員である。
これは民主主義の難しさ面倒くささと、重い責任と、その誠実さをあらわしているとわたしは思う。(ちなみに民主主義が通じない国々はめずらしくもない。主義主張を超えたところでなにかが通じるとしたならそれは奇跡に近い)
話し合っても話が通じない。
その一歩先を見すえたくて、わたしは書いている。
無理を承知で書いている。
この考え方の根底に流れる本がある。
湯浅誠さんの『ヒーローを待っていても世界は変わらない』である。
ご興味があればご一読されたい。
『しょうがいよもやまばなし・補足』