詩集 浜の光と芝の花 終章

終章

 自身の内側に信念を蒔くと、途端に、孤独になった。
 しかし、信条を抱える腕が、欲に溢れる儘では、
 ひとつの、自己を賭した祝詞すら言葉にできない。
 信念の為に、私は、心の猛毒から、お別れをする。
 想念と向き合うと、どす黒く染まり、真っ赤に燃えて、
 常として、平穏である事が難しかった。
 良いのだ、心の鏡から目を背ける必要は無い。
 誠実な痛みの信徒と成る事だった。迷いは無かった。
 独りきりで闘っていた積もりだった。それが今では、
 二人きりで、敬愛を注ぎ合っていた。
 唯物、唯心、唯識の垣根を超えて学び続けた。
 私一人で叶う事など、ひとつでもあっただろうか。
 父母の血も、同胞も、友達も、恋人も、怨敵も、
 一切の差異は無い、気づいてしまったあの日から。
 不退転には及ばない日々の連続だ、それで善い。
 私達が生まれ出でた事実に、何の過ちがあるだろうか。

 ベルトを手にしてどこへ行くんだい
 真っ暗な部屋で道に迷わずに
 泣きたい時は呼べよ、迷わずに

 バス停を間違えて、道路越しに手を振り合った時も、
 羽田の二番ゲートで待ち合わせをした時も、
「また逢いましょう、美しい人よ」
 この一言に涙して互いの家に帰る時も、
 お互いに、信じられない程に寒い春を迎えた時も、
 それでもなお、サンガとして学び合った日々も、
 優しい気持ちに満たされた春に、再び結ばれた日も、
 私達は、常に私達として、幸せだったね。
 幸せ以上に、学び努めて来たね。

 誰も手に入れられない、痛み苦しみを手にしたよね、
 ぼく達は、この牢の内外を問わず、学んできた。
 寂しい時は、鉄格子の隙間から手を握り合って、
 どうしてかな、鍵なんて持っていなかったのに、
 いつの間にか扉が開かれて、戸惑いながら陽の下に。
 人の感情も辛苦も解らないけれど、嘘と利己は解った。
 でも、ぼく達には、嘘と利己が無くて、情けがあった。
 我を張り合った時には、哀しくなって、
 傷だらけの指先で、愛しい黒髪を撫でながら、
「一緒にいようよ」
「一緒にいたいね」
 卒業だねと言わんばかりに、春の陽に身を裂かれて、
 けれど、ぼくは頑張ったよ。
 粉々に砕け散った身の上をかき集めて、眠った。
 ね、あまりに似ている君も、そうだろう。
 君が思い出を、手描きで込めてくれたから、
 春の陽の再来を、ぼく達は待ち合わせの様に、
 入り日に夜明けに、街路の向こうのバス停で逢いたい。
 ここから先は寂しいから、一緒に歩こう。
 嬉しいから、互いの手を握って道を行こう。

 部屋を片付けると、腐った都が消え去った。
 あの場所にしか喜びが無いと思い込んでいた私は、
 現実から遠ざかる合法な術を用いて、心が死んだ。
 君も同じ気持ちかい、じゃあ、
 そうだね、二人きりで、逃げよっか。

 闘った日もあった、悔しさに、惨めに、道を失い、
 またあの都に足を運んだ。けれど、
 君を胸に抱いたまま、常夜灯の明かりだけが、
「静かな喜びを知ったなら、二人で分かち合いなさい」
 神様がいるらしくて、仏様もいるらしくて、
 私は、君をもう少し強く抱いた。ありがとう、と想った。
 心細さや不安という心の在り方は、都の民の術で、
 心穏やかに信頼し合いながら、努める姿は、
 この高原に、荒行の僧二人だけで呼応し合っていた。
 私達は、何を作ろう、何を残そう。
 私達は、何処を目指そう、何処へ至ろう。
 二人の背後に、教えを乞う猫達が連なるから、
「私達も、学んでいる途中だから、全ては知らないよ」
 書を手にした白猫は、皆もそうだにゃ、と応じた。
「ただ、心がどこへ向かうかだけ、それが違うにゃ」
 大切な事を教えてくれたので、彼らを旅の友とした。

 ありがとう、君。今まで、痛かっただろう。
 私も、砕けた心を繋ぎ合わせる努めに、生きる事が、
 途端に嫌になって、幾度と暗い部屋で迷ったよ。
 でもね、生きる意味より、生きる意義を見出したから、
 君に呼吸を続けてほしいんだ。
 私の一切合切を与える、と語る事は容易い。
 しかし、二人して生涯を賭して、学び合う事を誓えば、
 それは、一切合切を分かち合う事に、なりはしないかい。
 君の寝息を聴く度に、この小さな優しい気持ちが、
「私は一人で生きてはいないんだ、人間だ」
 不変の事実を思い出させてくれる。
 奪い合う、嘲り合う、利己に利用し、使い捨てる、
 斯様に残忍な世界は、残忍な民に、任せよう。
 私は、仏教を心から学ぶ。君もそうだろう。
 二人の道が異なるか否か、その差異に本質は無くて、
 二人の志した道の先々、導、隔たり。それを超えたい。
 感無量の思い出に、涙できる喜びは、分岐できない。
 私は、誓願を立てようと思う。
 後でこっそり、君にも教えてあげよう。
 きっと、君も喜ぶと思うんだ。
 何故なら、私の成長と、君の成長とに壁があれば、
 この誓願は、始めから結ばれぬはずだから。

 今一度、貴方が空と海の青を越えて来るのだから、
 私は今度こそ、バス停を間違わずに迎えに行くよ。
『道路越し、互いのバス停より手を振る恋人たち』
 今日は、その時間も距離も与えずに抱きとめよう。
『必ず、生きてまた逢おうね』
 幾度と繰り返した、涙まじり、潤む眦の約束も、
 この日の正午過ぎ、空と海の青を眺めながら、
 私こそが果たそう、貴方を待つ町々に、逢おう。
 無題の歌に、二人きりの内緒で、題を付けよう。
 浮かれた日々が芋虫で、哀しい日々が蛹なら、
 今、私の頬を濡らす喜びは、学び得た心なのだ。
 空と海との境を知らず、飛ぶ蝶のつがいに成ろう。

 私達が、手を繋ぎ合って、指を絡める事も、
 抱きしめ合って、温もりを互いに独り占めする事も、
 常夜灯の下に、心も静かに口づけを交わし合い、
 夜半の月にも遮光カーテンの裏側で隠し事をして喜ぶが、
 私にとって、報いとは何かを考えていた。
 幸いとは何か、苦しみとは何か、哀しみとは何か、
 生きる力を失うほどの真っ暗闇の波打ち際に、
 それでも生きたい、脚は家へと向かっていた。
 君も、そうだろう。家族に愛されてなお、
 止まない雨中に項垂れて、ベルトを片手に、
 迷いながらにして、生き続けてきたのだろう。
 私はただ、君を愛する事しか能が無い、凡人だ。
 凡の一輪の花で良い。春の野を、秋の公園を、
 冬の茂みに、夏の日照りに、咲いていたい。

 ただ、この心が、胸の内からとろりと蕩け落ちそうな、
 溺れる様な、宙に舞う様な、抗えない幸せを、
 もうしばらく抱きしめさせてください。
 俺は、こんなに人を好きになり、愛せた事は、
 今まで無かったのです。嘘や痛みに終わらない愛を、
 他の誰でもない、彼が教えてくれたのです。

 如来の働きかけの有る無しを、どうして人の眼で決められよう。
 なればこそ、人の思いやりの有る無しを、
 自らの猜疑の心で閉ざしたところで、その程度で、
 どうしてこの心で、決められようか。
 あの山に鳥獣がいる事は疑えない。
 日記を書いたから、野の花が咲く訳ではない。
 私達の考えの及ばない所で法は廻っていて、
 如来もまた、力強く不可視に働きかけている。

 麻酔を打てば生きられるのではなくて、
 痛みを忘れながらにして苦しむ、ただその為だけに、
 皆が共通の辞書を、大切に使いました。
 辞書は、皆が困った時の逃避先を作る、扉でした。
 二人の僧は、扉から抜け出して、辞書を棄て、
 痛みを思い出した事を幸いと知り、
 鮮明な痛覚の海原に、互いの手を握りしめて、
「意味は無い、今だけがある」
 波に流されて、陽に照らされて、雨に打たれて、
 しかし、どうしてでしょうか。
 僧達は、皆からして苦しみの在り方のままで、
 道に努める喜びが、顔に出ていました。

 人の言う「意味は無い」は、ついつい、
「無意味」と解釈され、それは虚無であったり、
 哀しみであると受け取られますが、
 二人の僧の言う、意味の無い、その形容とは、
 虚無や哀しみの示す、苦しみではありません。
 何故、人は意味にしがみつくのでしょうか。
 意味が生む差異に苦しむのでしょうか。
 差異の上下であるとか左右であるとか、
 大勢の人は、意味を手に取りつつも、蒙昧です。
 では、二人の僧が、痛みを身に覚えさせて、
 哀しみに眼を開き、苦しみを眺めた事で、
「意味は無い」と気づいた事で、
 背後に連なる過去や、前方に煙る未来に、
 絶望だとか、無気力などが生じたでしょうか。
 いいえ、二人にとって、門を叩いたあの日よりも、
 不増不滅が、一切皆苦が頼もしくなりました。

 私はこの七日間の為に生きていたのだ。
 生きている喜びを、拝受する為に。
 私は、十三年の為に愛されたのだ。
 傷だらけになり、美しくなれよ、とシーグラスの様に。
 私は五年間を赦し続ける事ができたのだ。
 敵だとか友だとか、装飾の無い、縁起を自覚する為に。
 私は、約三百日の間、ありがとうって言いたかった。
 愛せたから。愛してくれたから。
 君は、この七日間の過去にも、未来にも、
 いいや、今日という日の僧で在れ。私と同様に。

 毛布に包まれたまま、私の足元に転がって来た貴方は恋人。

 帰郷の日バスの窓より臨みたい貴方と逢えた日々の愛しさを

 私は、自らが灰色に染まる事を恐れました。
 次第に、内側も外側も、考え方も、真白になってしまいそうで、
 自ら自己に割り当てた、役割や絶対評価の価値さえも、
 そうか、私は失うのか、と恐れていました。
 これは、教えが私にもたらしたものです。
 私は、獄中で染め物職人として努めていたのでしょうか。
 手も、衣服も、ぼろぼろです。
 心も、考え方も、付加する意味の染料に汚れて、
 本当は、この朽ちた牢に鍵は掛かっていないのですが、
 不自由という喜びに甘んじて、対価を得ていました。
 私は、心を絶対的なものとは、考える事をやめました。
 それは、意味の足し算、悦楽の足し算、それでいて、
 努力の意味、その指針を曇らせる、引き算でありました。
 体と心が拝受した、一切皆苦と呼ばれていた暮らしに、
 白紙の自分と、ペン先の自分で「今」と書きました。

 唯物的価値観の中でしか、人の世の幸いを知らなかった君へ。
 唯心的執着の内側で、他者を裁き続けた君へ。
 自己を頼れ、法を頼れ。
 私達人間は、嘘をつきながら、平気な顔で暮らす為には、
 手段ばかりを増やし、自らを欺くけれど、
 実のところ、哀しくて苦しいんだ、自身の事としてだよ。

「この野郎、卑怯者」
 私は私の胸ぐらを掴んで、殴り、罵倒して、
 血まみれになったもう一人の自分の顔が、涙に濡れて、
「ごめんね、私が弱かった」
 心底から謝る私を見下ろして、肩で息をしながら、
 今一度、怒り狂っていた私が、赦す私に成り、
 卑怯者として詫びて、私を抱きしめたら。

 菩薩の光を宿した虎は、もう最期を迎えようと、
 他の血肉を貪る事も無く、木陰で静かに眠っていた。
 菩薩に成る寸前の、灯を宿した人間が静かな笑みで、
「お前も苦しいだろうから、私の体を施そう」
 虎は、悟りながらにして道半ば、諦念に甘んじた自らを恥じた。
 人間の、辛苦を理解した上での布施の心は、尊く、
 また、その心の持ち主ならば、もっと大勢を救うだろうと、
 虎は牙を立てる事も無く、再び修行の在り方を改めました。
 同時に、虎も人間も、その光は力強かったのです。

 侮辱を受けた事実が起きたのではなくて、
 馬鹿にされた自己と、馬鹿にした相手という、
 ふたつの関係性を、自身の内部でその像を、
 生じさせたのみである、これが内部の眼であった。
 内部の眼を知り、気づき、観察する事が、
 私という感受体を制御する、私だけの灯りである。

 一喜一憂をやめる者が増えると、君達は、寂しいかい。

 打てば響くだとか、打っても響かないだとか、
 それは、上座部にとってはどうでも良い事でした。
 彼らは楽器を奏でません。
 その為に、彼らが寡黙で精進する姿に励まされました。

 私は常々に「あの人達には本当の幸いを掴んでほしい」
 と願い続けてきた。これは身勝手な咎だ。
 私は常々に「人の不幸を願わない様に暮らしたい」
 と戒め続けてきた。これは自由な在り方だ。

 私が楽しい思い出や、嬉しかった事ばかりをメモする理由は、
 本当に苦しくて、寂しくて、涙が溢れて惨めな時に、
 この一身に降り注いだ幸せと、喜びと、愛情を思い出す為だ。

 苦しみがある事は前提だから、笑っていたかった。

 心の倉庫に隠していたのは、憎悪ではなくて、
 真情から相手を赦す一念。

 抱えている想いが日々の言葉を作ったから、
 まだ人を赦せなかった頃の、自らの過去を、
 振り返る度に、言葉のどれもが、醜くて。
 けれど、赦す為に努めた日々は拙くても、未熟でも、
 振り返る度に、書き連ねた言葉の全てが、
 真っすぐ、激しく、私を鼓舞してくれるのだ。

 私の受難は、私が人を理解しなかった罰。

 壊れていないふりをした、ぬいぐるみの苦しさを、
 理解していた、ぬいぐるみの友人達が、寄り添って、
「大丈夫だよ、怖がらないで」
 皆で抱きしめて、温めてあげた。
 それしかできない事を、友人達は悔しく思ったけれど、
 本人は、愛を受けた事が嬉しくて、泣いていた。

 生きている喜びを、スプーンで少しずつ、すくい取って、
 毎朝のスープに、混ぜるんだ。可笑しい事かな。
 ぼくは、毎日、生きるか否かを迷いながら、けれど、
 答えを急がず、焦らず、同時に、
「苦しくても、生きていようよ」って、小声で言うんだ。
 ぼくは惨めかな。でも、生きているよ。

 死について考えるから、神様を信じるのではなくて、
 神様を信じているから、死を思い止まる。

 夢の中に姿を現した、大きな犬は、泥に塗れていて、
 心の綺麗な青年が、井戸の水を汲んで洗い流しました。
 犬は、嬉しくて、ずっと笑顔でした。
 青年は、犬の今までの苦痛を想い、少し泣いていました。
 それから、犬と青年は、生涯の親友になりました。

 優しい気持ちでペンを執れた朝が、嬉しくて涙した。

 皆、言葉の使い方が、とても上手だと思います。
 凡人として詩を書くばかりのぼくより、巧みです。
 研ぎ続けて、鋭くなったナイフよりも、鋭利で、
 眼には見えない部分に致命傷を残し合う為に、
 皆、一所懸命に、いいえ、一生懸命に、なっています。
 ぼくは、面白みの無い詩だけを、書いていたい。

詩集 浜の光と芝の花 終章

詩集 浜の光と芝の花 終章

  • 自由詩
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-09-30

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