『しょうがいよもやまばなし。』
あらゆる差別を根絶やしにした世界線は、ある意味障害者たちにとっても、厳しい自由を与える世界だとわたしは思う。
そういった世界線が遠い将来やがては来るのか、それともいかような立場の人々が(健常者も障害者も含め)自他共に抑え込み、現状が維持されるのかは、今の時代、誰にもわからない。
逸脱しないで、は誰の価値観か?
これからの時代は、『モノを言う障害者たち』『モノを言えない、言わない障害者たち』の間のカテゴリ、『モノを言える障害者』が増えていく時代なのかもしれない。
『モノを言えない、言わない障害者たち』を背景に『モノを言う障害者たち』が開拓していった道を『モノを言える障害者』が進みさらにブラッシュアップしていくイメージ。
エネルギーの源、豊かな水源は『モノを言えない、言わない障害者たち』によって支えられている。
等身大の立場から社会に、まちに働きかける『モノを言える障害者』。
障害は、そのひとの重要な一部分であって全体ではない。
障害は、そのひとのアイデンティティに影響力はあったとしてもそのひとのアイデンティティそのものではない。
社会の中、まちの中で生きていく障害者たちは、健常者たちの想像以上に気遣い屋であらゆる制約という透明なひもにがんじがらめにされながら、日々呼吸をしているとわたしは観察していて、感じることがある。
障害を抱えながら社会を生き残る厳しさ。
生きたい、を根源から揺るがす健常者たちの些細なる無遠慮さ。
制度も社会もまだ、公共性が追いついていない現実。(障害者と健常者のスタート地点に段差と距離がかなりある)
空気を読めること、物事をタイパコスパ良く達成できることが良いこと、正しいこととされ、暗黙の了解がある現代だけれど、人々の生き方も多様化し、様々な価値観が存在ある世界線に様変わりしている。
仕事の環境と生活の環境は種類が違い、まちの中で生きていく障害者たちに向けられる健常者たちの視野の方が問われる時代になってきていると個人的に感じる。
『モノを言える障害者』が何を、社会にまちに伝えるのかに、ささやかなる人々の視線が集まれば社会的に理想かなとわたしは思う。
何を、どのような手段で、どんな目的でモノを言うのか。
ここには批評が受け入れられなければならない。
モノを言うとは、文句や愚痴を広く公に伝えることではなく、等身大の立場から勇気をもって、伝えるということである。
繰り返すが『モノを言える障害者』の先駆は『モノを言う障害者たち』であり、『モノを言える障害者』のバックボーンは『モノを言えない、言わない障害者たち』である。
これらは地平のように、繋がっている。
『モノを言う障害者たち』も『モノを言えない、言わない障害者たち』も『モノを言える障害者』も、世間からまちからなるべく逸脱しないよう、ふだんから気遣い、ソーシャルスキルを駆使し、生きている。
しかし、逸脱しないで、と心内でも世間的にも、まちの中でもこだまするこの言葉は、そもそもいったい誰の価値観なのだろうか?
※この文章は、障害者と健常者を分け隔てるものではなく、世間全体を覆う既存の強い価値観の再考を促すものです。
※障害における治療を否定するものではありません。
『しょうがいよもやまばなし。』
障害者というイメージ像やラベリング、健常者というイメージやラベリングが揺らぐ時代を生きている。
生老病死はゆくゆくはわからないが、現代ではいまだ人類は逃れられていない。
根源的な苦しみには公共性は無いが、冷徹に平等だ。