シン『どん底先生』第十章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

第十章 もう遅い、と思ったところから
――人生は何度でもやり直せる
「もう遅いんとちゃうか」
人生で、何度この言葉を口にしただろう。
二十六歳のときも、そう思った。
塾を始めたときには、周囲から見れば、もう十分に遅かったのかもしれない。
名古屋の予備校を七つ受けて、全部断られた。
帰ってきたのは、実家のあるいなべだった。
貯金もない。
彼女もいない。
仕事もない。
あるのは、これまで何度も失敗してきたという事実だけだった。
そんな状態で、アパートの一室を借りて塾を始めた。
最初の生徒は三十人ほどだった。
「まあ、三十人も来てくれたんやから、ええか」
そう思っていた。
ところが、口コミで少しずつ生徒が増えていった。
三十人が六十人になり、六十人が百人になった。
百人になったころには、アパートの薄い壁ではどうにもならなくなった。
近所から苦情も来た。
「もう、ここでは無理やな」
そこで、自分の塾を建てることにした。
二百坪の土地。
建物。
銀行からの融資。
総額一億円。
返済期間二十年。
月々五十万円ほどの返済だった。
もちろん、自分一人の信用だけでは借りられない。
親の土地と建物を担保に入れ、親にも連帯保証人になってもらった。
父親は反対した。
当然だったと思う。
息子が、まだ若い。
塾がこの先どうなるかも分からない。
一億円という金額は、普通に考えれば簡単に背負えるものではない。
親子で何度もぶつかった。
母と父の間にも、大きな亀裂が入った。
家族が壊れるかもしれない。
それでも私は、最後には判を押した。
あのときの判子は、今まで押したどんな判子よりも重かった。
「もう、後には戻れんぞ」
そんな気持ちだった。
でも、戻らなかった。
塾を建てた。
生徒を集めた。
授業をした。
そして、自分自身も勉強した。
英検一級を取った。
四年かかった。
過去問を何度も繰り返した。
その後、通訳ガイド、国連英検A級、ビジネス英検A級などにも挑戦した。
いつの間にか、資格の参考書に名前が載るようになった。
すると、昔、自分を採用してくれなかった予備校からも声がかかるようになった。
昼は名古屋。
夜はいなべ。
そんな生活を続けた。
結婚した。
三人の娘が生まれた。
塾の教室も増えた。
講師も雇った。
そのころの私は思っていた。
「俺の人生、もう完璧や」
ところが――。
人生というのは、そんなに甘くない。
そこから、生徒数が落ち始めた。
一年だけではない。
二年、三年……。
それが十年を超えた。
十四年間、生徒数は減り続けた。
一億円の借金は残っている。
娘たちの教育費もかかる。
講師の給料も払わなければならない。
塾を続けるためのお金が必要だった。
貯金を崩した。
株も売った。
銀行から借りた。
カードローンにも手を出した。
朝、目を覚ます。
そして最初に考える。
「今日は、どこから金を借りようか」
こんなことを考えながら生活する日が、現実に来るとは思わなかった。
「夜逃げ」という言葉が、頭をよぎったこともある。
それでも、塾を閉めなかった。
閉めたら、そこで終わる。
生徒がいる。
講師がいる。
娘たちの学費もある。
だから、また次の手を考える。
英語だけでなく、理科も社会も教えるようになった。
高校数学も、自分で勉強し直した。
数学Ⅲまでやった。
ホームページを作った。
YouTubeも始めた。
ブログも書いた。
通信講座も作った。
「もう遅い」
と思うたびに、なぜか私は新しいことを始めていた。
そんな自分を、少しおかしいと思う。
普通なら、諦めるところなのかもしれない。
でも、私の場合は違った。
諦めようとすると、また何かをやりたくなる。
ある日、長年勤めてくれていた講師から電話があった。
「先生……ガンが見つかりました」
一瞬、言葉が出なかった。
「退職させてください」
そう言われた。
その瞬間、自分の頭に浮かんだことがある。
――これで給料を払わんで済む。
今思えば、なんてひどいことを考えたんだと思う。
病気になった人を前にして、自分の経営のことを考えていた。
でも、そのころの私は、それほど追い詰められていた。
娘たちの学費を払わなければならない。
借金も返さなければならない。
講師の給料も払わなければならない。
塾を潰すわけにもいかない。
頭の中が、お金のことでいっぱいだった。
だから、そんな自分の心が嫌になった。
「俺は、何をやってるんや」
そう思った。
それでも翌日には、また教室に立った。
生徒の前では、先生でいなければならなかった。
人生には、格好の悪い時期がある。
人には見せたくない自分もある。
自分でも認めたくない自分がいる。
私にも、そんな時期があった。
いや、そんな時期のほうが長かったのかもしれない。
それでも、後から振り返ると、その失敗が次の挑戦につながっていた。
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五十代になったころ、塾には、かなり力のある生徒たちが集まっていた。
旧帝大に三十一人。
京都大学医学部医学科にも八人。
それなりの実績が出るようになっていた。
ブログを書けば読んでくれる人もいる。
アメブロの読者も千人ほどになった。
YouTubeの動画が五万回ほど再生されたこともあった。
それでも、私はどこか不安だった。
「この子たちは、本当に俺のことを信用してくれているんやろか」
そんなことを考えることがあった。
そんなある日、京都大学医学部を目指していた生徒から、こんな質問をされた。
「先生、英検一級を取るのと、京大英語で八割取るのと、どっちが難しいんですか?」
私は答えられなかった。
どちらも自分で受けたことがないからだ。
そこで、いつものように考えた。
「分からんな」
そして、次の瞬間には、こうなった。
「……よっしゃ。俺が受けたるわ」
五十代になって、京都大学を受けることにした。
普通なら、
「いやいや、もうええ歳やから」
となるところだろう。
私も一瞬は思った。
「俺、何歳やと思ってるんや」
でも、申し込んだ。
ところが、ここでも簡単にはいかなかった。
願書を出そうとしたら、高校の卒業から三十年ほど経っている。
四日市高校に問い合わせた。
「三十年前の調査書は、もうありません」
そう言われた。
「じゃあ、受験できないのか」
と思った。
そこで京都大学に問い合わせた。
「卒業証明書があれば大丈夫です」
あっさり言われた。
「なんや、できるんや」
また一つ、壁を越えた。
ところが、試験当日もいろいろあった。
共通テストの会場は三重大学だった。
入口で、
「受験生以外は立ち入り禁止です」
と言われた。
「いや、俺が受験生です」
五十代のおっさんが受験票を出す。
向こうも一瞬、戸惑ったと思う。
京都で受験したときは、ホテルから試験会場までのバスに乗った。
すると係の人が、
「お父さん……保護者の方はご遠慮ください」
と言う。
「いやいや、違います。俺が受験生です」
こんなことが、何度もあった。
試験を受けるだけなのに、いちいち笑いが起こる。
でも、私は本気だった。
一回の受験に、宿泊費や交通費などを含めると七万円ほどかかった。
それを七回。
全部合わせれば、五十万円近い。
「おっさん、何やってんねん」
自分でもそう思う。
それでも受けた。
結果は、数学七割。
英語八割。
数学について、
「文系出身なのに、どうやって七割取ったんですか?」
と聞かれることがある。
特別な方法はない。
ただ、やっただけだ。
『オリジナル』を二周。
『一対一対応の演習』を二周。
『チェック&リピート』を二周。
『京大の数学』を二周。
Z会の「京大即応」を八年分。
京大模試を十回。
センター試験を十回。
京大二次試験を七回。
ノートは百十冊。
それだけだった。
若いからできたわけではない。
数学の才能があったわけでもない。
高校時代、私は数学が大嫌いだった。
だからこそ、分からないところが分かる。
どこで手が止まるのか。
どこで「もうええわ」と投げ出したくなるのか。
それを、自分の身体で知っている。
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英語についても、私は一つ試してみた。
七年間、自分で確かめた。
昔の入試英語を解く。
資格試験的な英語を解く。
アメリカで実際に使われるような、生活の中の英語にも触れる。
私一人のデータだから、これが英語教育全体の結論になるわけではない。
ただ、自分の場合は、
入試英語がおよそ六六%。
資格英語がおよそ七六%。
生活の中の英語がおよそ七九%。
という結果になった。
数字だけを見れば、生活の中で使われる英語のほうが点が取れた。
そこで思った。
「英語って、もっと単純でええんちゃうか」
難しい単語を並べることより、
自分の言葉で、
一生懸命、
相手に伝えようとする。
それが大事なのではないか。
私は、ずっとそうやって自分で確かめてきた。
数学もそうだった。
英語もそうだった。
そして、人生もそうだった。
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「もう遅い」
そう思ったとき、私はいつも一つだけやってきた。
一回、やってみる。
二十六歳のときもそうだった。
塾を始めた。
一億円を借りた。
失敗した。
それでも続けた。
五十代になってからもそうだった。
京都大学を受けた。
七回受けた。
「もう歳やから」
と言われても、受けた。
そして今度は、AIだった。
生徒から、
「先生には、ちょっと聞きにくいんです」
と言われた。
英作文を見せるのが恥ずかしい。
間違っていたら怒られそう。
「こんなことも分からんのか」と思われそう。
だからAIのほうが気楽だという。
私は、それを聞いて考えた。
「だったら、もっと気楽な先生を作ったらええんちゃうか」
それが、AIアプリを作ろうと思ったきっかけだった。
怒らない。
笑わない。
何度聞いても嫌な顔をしない。
「先生、これ分からん」
「どこが分からん?」
「全部」
「ほんなら、一個ずつやろか」
そんな先生を、AIで作る。
人間の先生には、人間の先生にしかできないことがある。
顔色を見る。
声を聞く。
「今日、なんか元気ないな」と気づく。
それはAIには難しい。
でも、
「先生、こんなこと聞いたら恥ずかしい」
という生徒にとって、AIが気楽な相手になることはできる。
だったら、使えばいい。
AIに負けるのではない。
AIを使って、生徒を助ければいい。
私の人生は、ずっとそうだった。
分からなければ、自分で調べる。
できなければ、自分でやってみる。
怖ければ、一歩だけ踏み出す。
そして、失敗したら、また考える。
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考えてみれば、私はずいぶん遠回りをしてきた。
高校時代、数学ができなかった。
大学院にも落ちた。
会社を辞めた。
海外留学の話も何度も断られた。
予備校にも七つ断られた。
塾を始めて、一億円を借りた。
その塾も、生徒数が十四年間減り続けた。
離婚もした。
お金にも苦しんだ。
「夜逃げ」という言葉まで考えた。
人から馬鹿にされたこともある。
それでも、最後まで残ったものがある。
「やってみる」
という癖だった。
失敗しても、
「じゃあ次はどうする?」
と考える。
これが私の人生だった。
だから今なら、二十六歳の自分に会ったら、こう言いたい。
「お前、そんなに心配せんでもええぞ」
「失敗するぞ」
「めちゃくちゃ失敗するぞ」
「金にも困るぞ」
「家族のことで悩むぞ」
「恥ずかしい思いもするぞ」
「それでもな――」
「その全部が、あとで誰かを励ます材料になる」
若いころの私は、そんなことを言われても信じなかっただろう。
でも、今なら分かる。
人生の途中では、失敗にしか見えないことがある。
ところが、ずっと後になって振り返ると、
「あれがあったから、今の自分がある」
と思えることがある。
失敗が、そのときは伏線だと分からない。
だから、伏線なのだ。
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私は、もうすぐ七十歳になる。
普通なら、
「もう十分やろ」
と言われる年齢かもしれない。
でも、まだやっている。
AIアプリを作ろうとしている。
まだ、生徒のことを考えている。
まだ、分からないことがある。
だから、まだ勉強する。
そして、まだ挑戦する。
「もう遅い」
と思う人がいるなら、私は言いたい。
遅いかどうかは、始めてみないと分からない。
二十六歳でも遅いと思った。
五十代でも遅いと思った。
七十歳近くになっても、まだ思う。
それでも、
「一回、やってみるわ」
と言ってきた。
それでいいのだと思う。
人生は、最初から最後まで順調に進むものではない。
転ぶ。
迷う。
失敗する。
恥をかく。
お金に困る。
人間関係で悩む。
もう無理だと思う。
それでも、朝が来る。
そして、また一日が始まる。
だから私は、これからもやる。
できるかどうかは分からない。
成功するかどうかも分からない。
でも、
「やってみなければ分からない」
それだけは、今までの人生で何度も教えてもらった。
私が生徒たちに伝えたいのも、結局はそれなのだ。
「泥臭くてもええ」
「格好悪くてもええ」
「失敗してもええ」
「一回、やってみ」
踏み出した一歩の先にしか、見えない景色がある。
そして、いなべの小さな塾では、今日も明かりがついている。
その明かりを見るたびに思う。
ああ。
まだ終わってないな。
人生は、まだ続いている。
ならば――
もう少し、やってみよう。
最後の日でいい。
それまでは。

シン『どん底先生』第十章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

シン『どん底先生』第十章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-09-17

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