戯言
今は働いていないから、精神には何の問題も抱えていない。心はこれまでにないくらい軽い。だが、自分の特性からすると、これも長く続かない気がする。そんなこと言いながら病んだ状態がくるのを少し期待しているわけだ。いつも、計算ずくで動いているつもりになっているが、実際はまったく計算通りにはいっていない。過去ばかり振り返っているから、計算的思考ばかり働かせているのだ。過去は自分でいかようにも編集可能なのだ。過去は誰にも邪魔されない、自分だけが使える遊具なのだ。取扱いに注意は必要なのだが。
思考が続かない。最近身体の衰えをよく感じる。それに連れて、文章も出てこなくなる。流れるような感じはもう出せない。途中でいつも切れている感じがする。断続的な間延びした文章が生み出されてしまう。どこにも届かない。閉鎖された領域でただあがいているだけの軽薄な文章になってしまう。そろそろ潮時なのだろうか。頭が働かない。渦巻く思考が心身から消えてしまった。こんなに穏やかな心を持つことになるとは、若い頃からは想像もつかない。ものすごく静かだ。人生はうまくいっていないし、これから好転する様子も一向に見えないし、さらに落ちていきそうな気もするが、それでも異様に心は落ち着いている。また働き始めたら、変わるだろうか。今書いている状態から一転して、世界を呪いはじめるのだろうか。それはそれでいいのかもしれない。しかし、そんなことを言っていられるほどの余裕もいよいよなくなっていくのではないか。本を読もうとする意欲がどんどんなくなっていく。人生なんてのはこんなものなのか。私の人生は失敗だった。こんなことを言うと芥川のパクリになってしまうのかな。芥川で思い出したが、やはり窓のない部屋を描きたい気持ちが最近強い。人生の展望がきいた小説なんて、あんまり書きたくない。ごく平凡な心の温まる小説を書いてみたいのだが、自分には難しい。そのためには、やはり人に会わないといけないのだろうな。人と直に出会うことで生まれるものがある。会って話すことで生み出されるものがある。人と人の間には何かある。それが何なのかわからないから、人は小説を書きたがるのだろう。才人にしろ凡人にしろ、どうして人は小説を書きたがるのか。誰もが、人との関りやすれ違いで生まれた、ちょっとした苦痛、やわらぎ、感傷、変動、こすりあわせ、流れ等々書いてみたいと思うのだ。人と関わって別れた後では、少しずつ別人になっている。
人の感情のことはよくわからない。自然は人間に情念という神秘を与えた。どうしようもない執着につきまとわれて右往左往する様を俯瞰して描こうとする。小説を書くということはどういうことなのか。場の雰囲気を味わいながら、それに飲まれないようにする力が必要なのだ。澱んだ雰囲気も、快活な雰囲気も、精密に正確にあるいは誇張したりごまかしたりして言葉にできるように。向こうから人がやってきた様子を書くとき、そしてそれを読むとき、現世とは違う世界が開かれていく感じがして、少しだけ心がやわらぐ。小説を通して開かれている世界があるらしい。人と人の間に漂うものがあって、それをつかむことはできないので言葉にするしかないようだ。そんなものが明らかになることは、これからもありえないと思われるので、人は小説を書いたり読んだりすることをやめられない気がする。
他者という言葉があまり好きではなかった。自分とは異なる他人の異質性を際立たせるようとする露骨な表現でありながら、なんとなく学術性と知性をまとったふるまいを感じさせる言葉に、あまりいい印象を持てなかった。他者という言葉に備わったあの二十世紀的な感じ、陰惨なものを見せつけてくる感じになじめなかった。インターネットが張り巡らされた快適な社会で、皆殺伐としたものを求めているようであった。文明が進歩するほどに、人間が担わされる虚無感は肥大化するらしい。人間はむき出しの個人になってしまい、どうしても世界と直接向かい合うことを強いられる。この惨状に多くの人は気づかないふりをしてやりすごす。会話という混沌の中をのぞきこもうとする人がいなくなっていくように思われた。普通の落ち着いた小説を書けるようになりたかった。他者という言葉に蹂躙されて、他人となんとなく触れあったときの感度も忘れ去られていくのだろうか。人と触れあったときの感度が消失していくのかもしれない。
自分は心と身体にしか興味がないようだ。精神のことは知りえずに生涯を終えていくのだろう。精神を持つことが今の時代に可能なのだろうか。自分は精神のことは知らない。精神など持っていなくて、自分にあるのは小賢しい計算だけなのかもしれない。しかし、多くの人が計算をばかにしていながら、どんどん計算に飲み込まれていっている。AIとの対話は人間との対話より有意義であった、なんて芸術家の人が言っていた。科学技術に押しつぶされた人間の話なんて、まあ誰も聞きたくないだろう。静かに消えて死んでいけよ、という態度は何度も目にしてきた。精神なんてもうないのだけれど、どこかで精神を求めているのもおそらく事実なのだろう。どこにそんなものを求めればいいのか。
自分は先回りして理屈で説明しようとしすぎるのだろう。欲望と憎しみに囚われた卑小な自我しか知らない。理屈の方が先走りして、お前は卑小な自我なのだと言いつけてくる感じがあった。自分は理性が強すぎるのだろう。自慢しているわけではない。自分の理性は少しも高尚な理性ではない。いちいち自分に説明して、自分を卑小な存在にしたてあげようとしてくる理性だ。それは理性とは言わないか。欲望と憎しみしかない。あとは猜疑心、嫉妬、恨み、そんなところがある。欲望と憎しみに囚われた卑小な自我から始めるしかない。自分は小賢しい計算ならいくらでもできる。計算しか残っていないのだろうか。しかし、計算をばかにしすぎるのもよくないのかもしれないな。AIで社会が変わるとか言っているけれど、そんなに変わるとは思えない。仕事のあり方は変わるのだろうが、それほど変わらない気がする。機械は人の手によってイチから作られるものだという考え方を自分は持っている。その視点に立つとAIはそれほど脅威でもないと思える。とはいえ、この考え方が的を外した安易な考え方だというのもありうる。
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