シン『どん底先生』第七章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)
第七章 失敗は、あとから伏線になる
――二十六歳の自分に教えてやりたいこと
人生を振り返ってみると、私は失敗ばかりしてきたような気がする。
京都大学の大学院には落ちた。
勤めていた教材会社では、上司とぶつかって辞めた。
海外へ行こうとして、何度も応募して、何度も落とされた。
アメリカから帰ってきて、塾で働こうと思ったら、名古屋の大手予備校を七校受けて、七校とも落ちた。
今考えても、よくまあ、これだけ落ちたものだと思う。
普通なら、
「俺は向いていないんや」
と考えてしまうところだろう。
私も、何度もそう思った。
けれど、人生というものは不思議だ。
そのときは「失敗」にしか見えなかったことが、何十年か後になって、
「あれがあったから、今があるんや」
と思えることがある。
私はそれを、あとになって「伏線」だと思うようになった。
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二十六歳のころ。
私は実家のあるいなべに戻っていた。
お金はない。
貯金もない。
恋人もいない。
仕事もない。
それでも、
「このままでは終われん」
という気持ちだけはあった。
名古屋の予備校を七校受けて、七校とも落ちた。
だからといって、教師を辞める気にはなれなかった。
むしろ、
「だったら、自分でやるしかない」
と思った。
そこで、アパートの一室を借りて、小さな塾を始めた。
最初に来た生徒は、三十人ほどだった。
三十人といっても、当時の私にとっては大人数だった。
「本当に、これで食べていけるんやろか」
そんな不安を抱えながら授業をした。
ところが、少しずつ生徒が増えていった。
三十人が六十人になり、六十人が百人になった。
口コミだった。
「あそこに、変な先生がおるらしい」
そんな感じだったのかもしれない。
今のようにインターネットもない。
ホームページもない。
SNSもない。
それでも、生徒が生徒を連れてきた。
気がつけば、アパートの部屋では収まらなくなった。
壁が薄かったから、近所から苦情も来た。
「もう、ここでは無理やな」
そう思った。
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私は土地を探した。
そして、約二百坪の土地に、自分の塾を建てることにした。
今考えても、かなり無茶な話だ。
銀行に相談すると、条件が出てきた。
親の土地と建物を担保にする。
親にも連帯保証人になってもらう。
返済期間は二十年。
借入総額は一億円。
月々の返済は約五十万円。
一億円。
その数字を見たとき、私はさすがに怖くなった。
「ほんまに、こんな金を借りてええんか?」
しかし、塾を続けるには、やるしかなかった。
ところが、父親が猛烈に反対した。
当然だと思う。
自分の息子が、一億円を借りようとしている。
しかも、親の土地や建物まで担保に入れる。
「やめとけ」
そう言われた。
何度もぶつかった。
家の中が険悪になった。
母との間にも大きな亀裂が入り、夫婦関係まで壊れかけた。
それでも私は、最後には契約書に印鑑を押した。
今まで押した印鑑の中で、一番重い印鑑だった。
朱肉につけた判子が、紙の上に落ちる。
その瞬間、
「もう、後には戻れん」
と思った。
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塾を建てた。
私は、ただ授業をするだけではなく、自分自身の武器を増やそうと思った。
英検一級を取った。
四年間かけた。
過去問も何度も繰り返した。
さらに、通訳案内業、国連英検A級、ビジネス英検A級など、いろいろな資格にも挑戦した。
参考書などに、
「資格試験の専門家」
のような形で名前を載せてもらうこともあった。
すると、以前私を採用しなかった予備校から、
「先生、うちでも教えてもらえませんか」
と声がかかるようになった。
人生とは、本当に分からない。
七校全部に落とされた私のところへ、今度は向こうから仕事の依頼が来る。
私は名古屋で昼間授業をして、夜はいなべで授業をした。
結婚もした。
娘が三人生まれた。
塾には生徒が集まり、教室も増えた。
講師も雇った。
そのころの私は、少し調子に乗っていたと思う。
「俺の人生、もう完璧や」
本気でそう思った。
ところが、人生はそんなに甘くなかった。
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そこから、塾の生徒数が落ち始めた。
一年で終わるような下落ではなかった。
二年。
三年。
四年。
気がつけば、十四年間、ずっと減り続けていた。
一度増えた塾の規模は、簡単には小さくできない。
建物がある。
借金がある。
講師がいる。
給料を払わなければならない。
そして、三人の娘の教育費もかかる。
毎月、金が出ていく。
入ってくる金より、出ていく金のほうが多い。
そんな状態が続いた。
銀行から借りる。
貯金を取り崩す。
株も売る。
カードローンにも手を出す。
それでも足りない。
朝起きると、
「今日は、どこから金を借りようか」
と考える。
そんな生活になった。
夜、布団に入っても、
「このままでは夜逃げせなあかんのちゃうか」
と考える。
教育者として、生徒に偉そうなことを言っている場合ではない。
自分自身が、人生の崖っぷちに立っていた。
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家庭も壊れていった。
仕事と金の問題だけではない。
塾を守ることに必死になるうちに、家族との距離も広がった。
妻との関係も冷えていった。
そして、離婚することになった。
貯金も大きく減った。
それまで積み上げてきたものが、一つずつ崩れていった。
「ああ、人生って、こんなふうになるんや」
と思った。
あれだけ頑張ってきたのに。
資格も取った。
生徒も集めた。
塾も大きくした。
それなのに、最後には金の心配をしている。
何が正解だったのか分からなくなった。
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そんなある日、長年勤めてくれていた講師から電話がかかってきた。
「先生、ガンが見つかりました。退職させてください」
私は電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
病気になった講師に対して、最初に頭に浮かんだのは、
「これで給料を払わんで済む……」
ということだった。
自分でも嫌になった。
「俺は、なんて人間なんや」
と思った。
病気になった人を心配するより先に、経営のことを考えている。
でも、そのときの私は、本当に追い詰められていた。
娘たちの学費を払わなければならない。
講師の給料を払わなければならない。
銀行にも返さなければならない。
塾を潰すわけにはいかない。
毎月、何とか金を作らなければならない。
そんな状況だった。
だからといって、自分の心の醜さが消えるわけではない。
私は、そのことを今でも覚えている。
人間は、追い詰められると、自分でも知らなかった自分が出てくる。
それもまた、人生だった。
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それでも、私は授業を続けた。
英語だけではない。
理科も教えた。
社会も教えた。
そして数学も、自分で勉強して教えるようになった。
高校数学を最初からやり直した。
数学Ⅲまで勉強した。
ホームページを作った。
YouTubeも始めた。
ブログも書いた。
通信教育も始めた。
何とかして、生徒に来てもらおうとした。
何とかして、塾を生き残らせようとした。
格好なんてつけていられなかった。
できることは、全部やった。
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そんな生活を続けて、五十代になったころ。
振り返ってみると、塾から旧帝大に三十一人が合格していた。
そのうち、京都大学医学部医学科には八人が合格していた。
ブログも書き続けた。
Amebloの読者が一千人ほどになった。
YouTubeの動画が五万回ほど再生されたこともあった。
数字だけを見ると、
「すごい先生ですね」
と言われるかもしれない。
でも、私は自信がなかった。
「本当に、この子たちは俺を信頼してくれているんやろか」
と思っていた。
実績がある。
資格もある。
長年教えてきた。
でも、それだけでいいのか。
そんな疑問が、いつもどこかにあった。
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そんなときだった。
京都大学医学部に合格した生徒から、またあの質問が来た。
「先生、英検一級を取るのと、京大英語で八割取るのと、どっちが難しいんですか?」
私は、また答えられなかった。
何年も前にも聞かれた質問だった。
でも、今度は違った。
私はもう、五十代になっていた。
そこで、私は思った。
「よっしゃ。俺が受けたるわ」
こうして私は、五十代で京都大学を受験することになった。
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若い受験生の中に、一人だけ年齢の違う人間がいる。
当然、目立つ。
ある生徒は、私を見て言った。
「その歳でチャレンジする姿、僕、尊敬します!」
その言葉が、妙に嬉しかった。
合格するかどうかではない。
挑戦している姿を見てくれた。
それだけで十分だった。
私はもう、
「先生だから失敗してはいけない」
とは思わなくなっていた。
失敗してもいい。
恥をかいてもいい。
むしろ、先生が失敗する姿を見せることにも意味がある。
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受験には、いろいろな壁があった。
四日市高校に、三十年前の調査書について問い合わせた。
「ありません」
と言われた。
当然だ。
三十年前なのだから。
そこで京都大学に確認すると、卒業証明書で大丈夫だと言われた。
今度は共通テストの会場。
三重大学で、
「受験生以外は立ち入り禁止です! 出てください!」
と言われた。
「いや、受験生です」
と言う。
それでも、向こうから見れば、
「どう見ても保護者やろ」
という感じだったのだと思う。
京都のホテルから試験会場へ向かうバスでも、
「お父さん、このバスは保護者はご遠慮……」
と言われた。
「いや、私、受験生です」
何度この説明をしたことか。
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一回の受験で約七万円。
それを七回。
約五十万円。
普通なら、
「そんな金があるなら、別のことに使え」
と言われるだろう。
でも、私にとっては必要な五十万円だった。
自分で確かめるための五十万円だった。
そして、成績開示をした。
英語は八割。
数学は七割。
「ほんまに取れたんや」
と思った。
数学に関しては、特に感慨深かった。
高校時代、あれだけ嫌いだった数学。
受験で何もできなかった数学。
それを、七十歳近くになってからではない。
五十代から勉強し直して、京大二次で七割まで持っていった。
もちろん、誰でも同じ結果になるわけではない。
才能がない人でも必ず七割取れる、という話でもない。
私がやったことは、ただひたすら勉強したことだった。
『オリジナル』を二周。
『一対一対応の演習』を二周。
『チェック&リピート』を二周。
『京大の数学』を二周。
Z会の京大即応。
模試。
過去問。
そして、一一〇冊のノート。
それだけだった。
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ブログを書いていると、時々、
「先生は文系なのに、どうして京大数学で七割も取れたんですか?」
と聞かれた。
私は、
「特別な方法なんてありません」
と答えるしかなかった。
毎日やった。
繰り返した。
間違えたら、もう一度やった。
分からなければ、調べた。
それだけだ。
年齢は関係ない。
文系か理系かも関係ない。
もちろん、個人差はある。
でも、
「自分には無理」
と最初から決めてしまう必要はない。
一歩ずつやってみればいい。
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英語についても、私は七年間かけて自分で確かめた。
昔の入試英語。
資格試験の英語。
実際に生活で使う英語。
私自身の結果では、
入試英語がおよそ六六%。
資格試験型がおよそ七六%。
生活の中で使う、比較的シンプルなアメリカ英語がおよそ七九%だった。
これも、繰り返すが私一人のデータだ。
絶対的な結論ではない。
けれど、私はそこで一つのことを感じた。
英語は、
「難しい単語をどれだけ知っているか」
だけではない。
「自分の言葉で、一生懸命伝えようとする」
ことに強さがある。
伝わらなかったら、もう一度言えばいい。
別の言葉にすればいい。
笑われてもいい。
間違えてもいい。
相手とつながろうとする。
それが言葉なのだと思った。
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もちろん、私のことをよく思わない人もいた。
インターネットには、
「田舎の塾講師の戯言だ」
というようなことを書かれたこともある。
「ジジイが若者の席を奪うな」
と言われたこともあった。
傷つかなかったと言えば嘘になる。
でも、だんだん慣れてきた。
人生で何度も失敗していると、批判されることにも少し強くなる。
そんな中で、英語出版社から声がかかった。
私の京大受験の話を、
『私の京大合格作戦』
で三年間にわたって連載・漫画化してもらった。
「ああ、俺のやってきたことも、誰かの役に立つんやな」
と思った。
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そして、時代はさらに変わった。
AIの時代になった。
生徒たちから、こんなことを言われるようになった。
「先生に英作文を見せるの、ちょっと怖いんですよ」
理由を聞くと、
「自分の下手な文章を見られるのが恥ずかしい」
という。
なるほどと思った。
確かに先生には、直接見られる。
「こんなことも分からんのか」
と思われるかもしれない。
でもAIなら違う。
何回聞いても怒らない。
何回書き直しても嫌な顔をしない。
だから、
「AIのほうが気楽です」
と言う。
私は、その気持ちが分かった。
そして思った。
だったら、
「最高に気楽なやつ」
を作ればいい。
生徒がどんなに下手な英文を書いても、
どんなに初歩的な質問をしても、
恥ずかしくない。
怒られない。
笑われない。
何度でもやり直せる。
そんなものを作ってみよう。
そう思った。
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気がつけば、私はもう若くない。
それでも、まだ新しいことを始めようとしている。
振り返ってみる。
京都大学大学院に落ちた。
教材会社を辞めた。
海外派遣に落ちた。
予備校七校に落ちた。
塾を始めた。
一億円を借りた。
家族を失った。
離婚した。
塾の生徒が減った。
金がなくなった。
夜逃げまで考えた。
講師の病気を前に、自分の経営を優先してしまった。
人から批判された。
それでも、やめなかった。
そして、五十代になってから京大を受験した。
数学七割。
英語八割。
あの頃の自分が見たら、きっと信じないだろう。
「お前、何やっとるんや」
と笑うかもしれない。
でも私は、二十六歳の自分に言ってやりたい。
「大丈夫や」
「今は何も持ってへんけどな」
「お前が今、失敗やと思っとることも、いつか全部つながる」
「だから、もう少しだけ頑張れ」
と。
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人生には、その場では意味が分からない出来事がある。
落ちる。
失う。
笑われる。
恥をかく。
借金をする。
家族と離れる。
自信をなくす。
「もう終わりや」
と思う。
でも、あとから振り返ると、それが別の出来事につながっていることがある。
だから私は、
挫折も、失敗も、馬鹿にされたことも、全部、伏線だったのではないか
と思うようになった。
伏線というのは、その場では何の意味もないように見える。
でも、物語の最後のほうになって、
「ああ、あれはこのためだったのか」
と分かる。
人生も、それと同じなのかもしれない。
今、受験に失敗した人。
成績が上がらない人。
親子関係で悩んでいる人。
仕事がうまくいかない人。
お金のことで苦しんでいる人。
自分には何もないと思っている人。
その人の物語は、まだ終わっていない。
だから、今の一場面だけを見て、
「自分の人生は失敗だ」
と決めないでほしい。
まだ、伏線かもしれない。
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私は、今でも小さな塾の灯りを見ると、二十六歳の自分を思い出す。
何もなかった。
金もなかった。
仕事もなかった。
でも、
「自分でやるしかない」
と思って始めた。
それから、何十年も経った。
大きくなったり、小さくなったり。
増えたり、減ったり。
壊れたり、また作ったり。
いろいろあった。
それでも、いなべの小さな塾には、今も灯りがついている。
その灯りを見ると、
「まあ、ようここまで来たな」
と思う。
娘から、
「お父さん、もう再婚してもええよ」
と言われたこともあった。
私は、再婚した。
人生は、本当に分からない。
何歳になっても、次のページがある。
だから、私はこれからも挑戦する。
若い人に、
「頑張れ」
と言うだけではなく、
自分自身が、
「まだやれる」
という姿を見せたい。
泥臭くてもええ。
格好悪くてもええ。
笑われてもええ。
失敗してもええ。
一歩踏み出す。
その一歩の先にしか、見えない景色がある。
そして、その先にしか、
「やってみてよかった」
という言葉はない。
私は、それを自分の人生で確かめてきた。
だから、今日もまた、やってみる。
シン『どん底先生』第七章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)