"どうして?"と叫ぶ少女性

 概念の意味における”少女性”を宿す人間とは、ひとのこころのプリミティブな領域からわきあがる、”どうして?”の領域に佇むひとであるというのが一ついえるのではないか、そのような推測がぼくにある。
 であるから、年齢・身体的性別・性自認、関係がないとずっとずっと書いてきたのである。
 実際の少女の多くが、以下に述べるそれに近い感覚に直面するのではないだろうか?
 普段学生服を着て登校し、学生服を着たまま授業を受け、学生服を着て家に帰る少女が、初めて「制服女子高生 人権剥奪」のようなポルノのパッケージを見た時、彼女たちが先ず感じるのは恐怖だろうか? 嫌悪だろうか?
 ぼくは、これが先立つパターンが多いと想う。
 どうして?
 そんな疑問のかたちをとった、驚きの叫びである。人間への「無垢の信頼心」にちかい何かが傷ついた際の、一種の本性的な叫びである。
 ──人間がこんなものに喜ぶわけがない。
 ──ここまでひとをいためつけるコンテンツに快楽を感じる心が、人間にあるわけがない。
 ──大人に守られるべき立場のわたしたちへ、学生服という”子供の女性”の属性をわざわざ付着させ、女性をこんなことに”使用”したいだなんて人間が、人格をもつがゆえに目的として心も体も大切にされるべきであるわたしたちを、このような攻撃性と結びついた性欲を満たす手段として”使いたい”という人間が、この世で普通に道を歩いているわけがない。
 ──どうして?
 ──どうしてこんなものがあるの?
 これは、一面的には、一種の真実を含む。
 そういえないだろうか? いえてほしい。
 この叫びそれじたいに、一種の真実があるとぼくにはおもわれるのだ。
 真実──現実のはらむそれではない。そうである筈がない。そうであれば、このような悲惨な世界があるわけがない。人間は、内外の条件次第で簡単に性的な意味のみならずサディズム、復讐心をもちえる。であるから、「人間がこんなものに喜ぶわけがない」という人間観にも、真実はない。
 前述の感覚は、小学校の時に戦争教育でもったひとも少なくはないと思うけれども──ぼくはもたないひとを差別したくはない、既にして人間扱いされてこなかったとかそういう事情もあるとは思っているのだけれども、どうしても、戦争教育でけらけら笑ったり、泣いているひとを揶揄する子供たち、或いは人間への差別意識を払拭できないことをここに告白しておく──、男性の性欲や性産業の存在なんかよりもよっぽど「人間を道具のように手段として使用する、なんらかの巨大なシステムが個人をその状況・状態へ強制的にもっていく、他の選択肢を権力で奪う、人生や命の使い捨てを当人に強要する」のような暴力的なものが、日本を含んで世界にはたくさんある。
 前述の出来事に対峙した際に湧く、”どうして?”という問い。
 これは、ひとの心に本来そなわる、良心といういい方をしてもいい領域を宿すどこかの部分の、「善への意志」というものが喪われていない状態での心の一領域の、本性的な叫びではないだろうか? 要検討。
 悪を視て、”どうして?”という疑問が叫ぶ心の領域、そこに善心があるかもしれない、この推測は間違いだろうか?(間違いかもしれない、ぼくは疑いつづけていたい) 。
 ねがわくば、みずからの悪を責め、それを直そうとする良心というものも、またそうであれ。それは、ぼくにいわせれば”人-性”、そこに本来は宿っていると思う。”どうして?”がない心の状態は、既に、心のどこかがズタズタに傷ついているのではないだろうか?──しかし、それもまた精一杯苦しみのなか生き抜いたからであるというひとの宿命があるならば、それが、かなしい。
 人-性。
 在るかも判らぬもの。それは、もとより人間に同じかたちで備わる、ひとの心のほんの一領域。どちらかといえば、現代では存在を否定されがちである気がする。
 けっして、人間にとって悪いものとはいい切れない一領域。
 坂口安吾にいわせれば、”人性”。シモーヌ・ヴェイユにいわせれば、おそらくや、”魂”。ヴェイユに影響を受けたカミュにいわせれば”人間性”、そうだとおもう。ぼくは”人間性”を使いたいが、現代だと「人格」という意味に近いニュアンスがつよいし、人性という言葉はもはや全く聞かないので、あえて造語として”人-性”にしている。
 これ等は、同じような領域をいう言葉だとぼくはとらえている。
(これはまだ、本当にあるのか、科学的にわかっていない。いくつか文章を読んでみたが、まだ証明は不可能、そうであるらしい)
 この意味において、この”どうして?”には、人-性に内在する悲痛な真実性をともなうのではないか? 要検討。
 端的にいうと、この”どうして?”という感覚は、ひとの心に本来備わる道徳観念のような、ふんわりとした直感的なもの(これも科学的にあるのか分かっていないが、まだ、ないとはいい切れないようだ)に照合させれば、ある種それなりに正しいのではないか?

 少女小説、少女漫画には、恋愛の真実はありません。”男と女”という主題の、真実はどこにもありません。小狼くんみたいなイケメンな男性はいません。或いは、木之本さくらのような素直で優しい女性はいません。あのひとたちは、現実的に考えると、人間離れして利他的すぎます。ほんとうの人間がめざせば、おそらくや歪みが生まれます。あの世界の美しさは、たいていは、幻想の世界です。
 では、いったい、どこに真実があるか?
 ああいうキャラクターの心・行動に、ああいう素敵な人間関係に、「善い、美しい」と感動する、その読者の心がいろいろなひとに共通しているという事実から推論として導き出される、「全員ではなくても、そんな憧れが、多くのひとの心に共通して存在する」というそれではないだろうか?
 作者のそれと読者のそれが重なる、従って、そこにたくさんのひとに共通する道徳観念・素敵な人間象・素敵な人間関係象、という真実があるかもしれない、そう、推測できます。

(これは、やはり、残酷なことをいっているのだ。そう想えないひとは、その心が変わってしまっているのだ、そんな他者を傷つける差別的な感覚を、ぼくのこんな考え方から切り放すことはできないだから)

  *

 ぼくの造語である”概念-少女”とは、ほんとうは、こんなにざっくりと明文化したくはないのだけれども(だって詩人なので)、いわく、「少女漫画脳の人間」であるといってもいいような気がする(もちろん、そういいたくはないけれども、六割くらいは伝わりえる)。
 少女漫画的な夢を抱いたまま、社会と関わり、社会貢献から逃げず、傷つきすぎてもいいから、その夢を守る人間。それを、”概念-少女”と、かってに名付けた。
『星の王子さま』と『幸福の王子』に、いい齢をして泣いてしまう精神状態のまま、──坂口安吾の『夜長姫と耳男』から言葉を拝借するけれども──好きなものを、呪わず、殺さず、争うひとのことである。
 自己開示をするが、ぼくはこの二つに泣く自分の一領域を、劇しく愛している。ぜったいに、捨てたくない。
 シモーヌ・ヴェイユ──貴女の思想は、ぼくの夢を呪わず殺さなくてもいいという夢を、ぼくに与えた──詩として。
 だって、あなたの言葉の断片には、儚くも硬質な真実の花弁──いまにも消え往こうとする風景があたかも永遠に磔されたそれのような──そんなものがあるように、ぼくには想われてならないのだから。
 あなたが愛したいものを愛してもいい、あなたが愛したいものを愛するために、戦いたい戦いを戦ってもいい。ぼくは、そうおもう。

  *

 一面的な話をいえば、詩とは、そのひと固有の美しい夢をいうにすぎない。そうであれ。詩とは、もっと、万人に好かれるくらいに平凡であっても、いいものだ。

  *

 人間は、少女漫画のヒロインのようにはなれないのに、そんなひとに憧れてしまうひとたちが多くいる。
 そこにも、真実があるかもしれない。
 いいえ。ないかもしれません。
 感動しない少年少女も、たくさんいます。ぜったいに、そういう感受性を排除しようとしてはいけません。ましてや、その感受性をもった人間を排除しようとはいけません。木之本さくらが、他者をいじめますか? ぜったいに、いじめません。
 少女性を守ろうとする生き方とは、みずからの”わたし”──ぼくの考え、”人-性”としての心の根のわたしと人工的で意志的に造り上げたわたしを重ねた、主体としてのわたしをいう──を少女王国として鎖す、純粋孤独王国主義とも名付けたくなるような兆しがみえてくるために、それを、もしささやかなものであっても「集団」に適用させたら、すぐさま、排他的になってしまうような推測があります。要検討。
 けれども、個人的な希望をいえば、「ひとが他者を大切にするという感情・行動・現象は、素敵だ」という心が、人-性として、あってください。あってください、そう希う。
 それ希う、ゆえにその希い、われらに在り。
 その希い、そのひとそのひとにとっての大切なものとは、いつでも、目にはみえない。
 ほら──『星の王子さま』って、素敵な物語なんですよ。

"どうして?"と叫ぶ少女性

読んでくれてありがとうございました。あなたの大切にしたいものを、あなたの大切な孤独を、守っても、いいよ。守らなくてもいいけれど、守ってもいいと、ぼくはおもう。生き抜こうね。

"どうして?"と叫ぶ少女性

エッセイ 少女性観

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-09-03

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