*星空文庫

TOKYO EARLY 3 YEARS −1983年−

ALTVENRY 作

  1. 行き詰まり
  2. 工事現場の夏
  3. 佳境

 とにかく状況に流されやすい性格で損をする事は多い。この年はまさにそんな年で、自分の方向性を見失ったようでいて、人間的に少し成長出来たような気がするのだ。

行き詰まり

 1983年、東京に出て2回目の正月も富山で迎えた。人によっては、故郷に錦を飾るために、何かしら成功を収めないと帰省などしないという方もおられるだろう。しかしながら前述のごとく1981年3月に上京して、その年6月にはすぐに帰省、そして暮れにも帰省、1982年は夏に帰らなかったものの結局暮れには帰ったというわけだ。

 私の拙い記憶では、1982年12月31日午前中、新宿駅の中央本線各駅停車に乗り込んだ。ちょうど上越新幹線が開通していたのだが、出費を抑えるために考えたのは、最短距離を各駅停車で帰ることだった。仕事をしていないかわりに時間だけはいっぱいあったのだ。

 このコース、途中で長野県の松本、信濃大町を経由して新潟県糸魚川に出て北陸本線に乗り換えるというもの……途中で何度か特急に乗り換える誘惑に駆られたが、初心貫徹すべく最後まで各駅にこだわった。結果乗り換え時間、待ち時間を含め10時間以上かかり、実家に着いた頃には紅白歌合戦が始まっていた。そしてすぐに1982年は去り1983年になった。

 どれくらい実家に滞在していたかは覚えてないが、東京に戻る際は、おそらく出来立ての上越新幹線を利用したに違いない。ちなみに上越新幹線が開通して、それまで上野から富山まで6時間くらいかかっていたところが、一挙に4時間台にまで短縮された。そのかわり、といってもたいしたことではないが、乗り換えの必要があった。当時は長岡駅で上越線から北陸本線直通の特急に乗り換えた。(これを記入している2007年現在、北陸本線直通の特急へは、越後湯沢駅でほくほく線に乗り換え、時間も4時間を切るに至っている)

 1983年は、妹が高校を卒業して、東京のある企業に就職が決まって、上京することになっていた。きっと3月だと思うが、上野に迎えに行って就職先の本社がある田町に送っていった記憶が残っている。

 その後その会社の喫茶部がある銀座に派遣され、ウェイトレスとして働くことになった妹は、そこで知り合った男性と数年後に結婚する。一時その男性と付き合い始めた頃、社員寮を出て、仕事を辞め、まったく連絡が取れない時があった。両親からも僕が訪ねていって確認して欲しいとはがきだか手紙が届き、住所を頼りに広尾の安アパートを訪ねた。確かメモを残して帰ってきたのだと思う。

 数ヶ月して、僕にとって義弟となるであろう男性と一緒に両親の元に挨拶に行ったという連絡が両親からあった。結婚式とかよく覚えておらず、実際僕が義弟に初めて会ったのはいつだったか、もうすでに忘却の彼方である。

 僕自身の方に話を戻すと2月だったか3月だったかに、カラオケの東京日光堂でアルバイトを始める。今までのように飲食業ではなく、初めて新宿以外の場所で働くことになった。小田急線の梅が丘で下車して、バスに乗る。環状7号線を渡り、淡島通りを渋谷に向かう途中の住宅街にあった。

 そこはカラオケテープの問屋である。仕事内容を掘り下げると在庫のチェックと納品の詰め込み作業だった。メーカーと小売店の橋渡しだった。末端ではあるが音楽業界に近かった。一日中、有線を聴きながらの作業はけっして悪いものではない。ただし圧倒的に演歌が幅を利かせていて、村下孝蔵の「初恋」や上田正樹の「悲しい色やね」が流れてくるとホッとしたものだ。もう少し寛容になれば、野口五郎の「19:00の街」でも許すことが出来た。

 この頃カラオケといえば、スナックや気の利いた居酒屋ぐらいにしかなく、やはり演歌が主流であった。カラオケボックスが流行り始めるのは、8トラックのテープからレーザーディスクに変わり、通信が台頭し始めてきた90年代になってからだ。

 実はここにも数ヶ月しかいられなかった。職場のメンバーは、一応業界に近いからか、個性的な人が多く、まあなかなかとけ込めなかったというのが正解かもしれない。なんとなく疎外感を感じていたが、とけ込もうと努力していた記憶が有る。

 課長という肩書きに似合わず私服で長髪の正社員は、見た目はまるで学生だった。ただ一言発言すると、業界の顔に変貌する様は、やはり抜け目なしといった感じだった。エンジニアスタッフの一人はハードロックのバンドをやっていたて、ヴォーカルとして誘われたことがあった。

 学生時代の延長で、人と打ち解けられない傾向はずっと続いていた。特に女性の場合、それが顕著だったと思う。女性社員の一人は、同い年くらいだったが、確実に敬遠されていて、彼女は正社員の誰からもちやほやされていた。後二人いた女性社員は二人とも年上でうまく接すれば、きっと進展はあっただろう。時々大人ぶって卑猥な用語を大声で叫ぶとこの二人には受け入れられていたような気がするが、それも表面だけで内心バカにされていたのかもしれない。男としてセックスには好奇心があったが、そこまでのプロセスを踏む勇気も自信もなかった。恥ずかしい話だが、ただ一言「付き合いたい」が言えなかった。

 そんな環境の中での唯一の思い出になるが……。アルバイトの身分ながら、一泊二日の社員旅行に同行させていただくことになった。場所は大島で、小さい機種ながら初めて飛行機に乗った。

 旅行に備えて、秋葉原までウォークマンを買いに行った。性格にはヘッドホン使用の携帯型カセットプレイヤーで、ウォークマンというのはソニーの商品名だった。実際買ったのはAIWAという会社のカセットボーイという商品だったかも知れない。あまりにもウォークマンが大ヒットしたのでそういったものの総称としてウォークマンと誰もが言っていたのだ。

 今(2007年現在)でいうアップルのiPodのようなものだろうか。また分野は違うが、デジカメという名称はサンヨーが商標登録してしまったので、他のメーカーは一々デジタルカメラと言わなければならない。同様にこれも畑違いだが、チョコクロはサンマルクが商標登録してしまったので、他社ではチョコクロワッサンと言わなくてはならない。しかし一般市民が商売でなく、個人あるいは仲間内で使用する分にはウォークマン同様の扱いで問題はないだろう。

 ソニーはウォークマンの成功に勢いづき、ビデオテープにおいてもVHSより画像の美しいベータという規格を打ち出していた。この2大勢力がしのぎを削っている図式が数年続くが、ソフトの普及面でVHSが増えてくると、ベータ陣営にいた東芝などが寝返り、ソニーだけが孤立してしまった。

 今(2007年現在)になってブルーレイでその借りを返すことになったが、80年代から90年代にかけてのソニーはかなり苦しかったのではないか。

 さて旅行の話に戻していくが、ちょうどこの頃聞いていたストラングラーズの「黒豹」をダビングしてこのウォークマンで聞くことにした。大島についてすぐレンタルサイクルというものを発見して、音楽を聴きながら自転車で島内を走り回った。

 夜は酒宴となり、カラオケの会社だけあって、装置とソフトは万全の体制で用意されていた。ただ今のように何でもあるわけでなく、ほとんどが演歌であった。その中から僕は「氷雨」を選んで歌った。人前で歌うのは2回目だった。同伴喫茶時代マネージャーに連れて行ってもらったところで「そして神戸」を歌って以来だ。

 僕はずっとギターをやってきたのでヴォーカリストとしての可能性を考えたことはなかった。この時酒の勢いもあったが、抑えることなく発生すると演歌のはずの「氷雨」はロックのようになっていた。部長や課長が驚いたようにどよめき、拍手喝采となった。この時のこともあって、後でヴォーカルとしてバンドに誘われたわけだ。

 この後の僕はまるで良いところがなく、勢いに乗って飲み過ぎ、酔っぱらってふとんに横になりながら時々モドシテいたというもので、二日目は文字どおり二日酔いでダウンしていて、そのまま、何もなく帰ってきたというわけだ。

 この会社にいる間、新しいギターを買った。三鷹楽器というところだが、場所は吉祥寺にあった。ミュージシャンはなんとなく中央線沿線というイメージで、特に吉祥寺がなんとなくロッカーという雰囲気があるとか、ないとか……。とにかく新しいギターはちゃんとしたものを買おうと思っていた。実はそれまで使ってたのが、中学3年の時に買ったレスポールもどきのちゃちな物だった。本物のギブソンレスポールなら10万以上はするが、それは2万もしなかった。

 かといってギブソンやフェンダーはまだ手が届かなかった。グレコのテレキャスターだったが、実は今現在(2007年)も愛用している。確か8万円くらいだったが、現実主義者の僕には、結構冒険だった。

 少し生活がうるおってきたように見えたが、今までと同様に結局数ヶ月でこの仕事を辞めてしまっている。三度目の無職生活に戻って、僕は曲づくりに明け暮れることになった。何が僕をそうさせたのかは思い出せない。ただこの頃のことを取り上げた曲が残っている。「静寂の中に」というものであるが、きっとここにも僕の居場所はなかったのだろう。

 六月には初めての免許の更新があったが、この時はすでに仕事を辞めていたはずだ。後で残りの給料を取りに行ったが、長髪課長の冷たい視線だけが今でも記憶に焼き付いている。

工事現場の夏

 小説「ゼームス坂マンションストーリー」にて詳しく述べられることになるが、僕自身とにかく主体性がなく、何だか雰囲気にのまれて後先考えずに行動してしまったということなのだ。

 アルバイトしようと思って面接に来たのに、正社員なら空きがあると言われたのだった。何となく正社員は敬遠したかったが、小さな会社にありがちなアットホームな雰囲気につい心が動いた。同じ働くなら社員でも良いか、と思った。

 さらに面接の当日から入寮を勧められ、断りきれずにそのままお世話になった。百合ヶ丘のアパートを出るときに雨戸は閉めてきたから、まあ数日留守にしても大丈夫だとは思った。冷蔵庫に腐る物も入れてなかったと記憶していた。あとは着替え……貸してもらったんだろうねえ……まあ夏だし、作業着の下だけだから、パンツとTシャツを貸してもらっていたのだろう。

 杉並区の方南町という駅は、地下鉄丸ノ内線の駅で、僕の住む百合ヶ丘から行くと、小田急線で新宿に出て丸ノ内線の荻窪方面行きに乗り換え、中野坂上で方南町行きに乗り換える。一応終点だ。

 進行方向の突き当たり側の出口から地上に出ると環状7号線が南北に、方南通りが東西に走る大きな交差点に出る。面接場所である事務所は方南という地名で交差点の北東側にあった。

 一方寮があるのは交差点の北西側、事務所から行くと環状7号線(以下環7)を横断した反対側の堀ノ内という地名の場所にあった。ある1部の地域は泉南と昔は呼んだそうで、泉南中学校などにその名残がある。余談だが、卒業生には後藤久美子がいるそうである。

 さて、会社の寮だが、見たところ2階建ての普通の一軒家だった。1階には社長の両親が生活していて、朝食の準備や洗濯等の面倒を見てくれた。社長は3人兄弟の長男、既婚者で、近所のマンションに住んでいた。三男も結婚していてマンション住まいだった。次男が独身で同居していて、社員と同じように2階で寝泊まりしていた。

 2階には2部屋あって次男と社員1名、僕と社員2名に別れて暮らした。よくそんな所にいたものだが、毎日力仕事をして疲れて帰ってくると眠れるだけのスペースがあれば十分なのかもしれない。最初は距離があった人間関係もすぐに縮まり打ち解けていった。

 電気工事についてはもちろん素人で、とまどいも多かった。僕に課せられた最初の仕事は運転だった。故郷の富山で免許を取って以来、運転らしい運転をすることなく、昨年暮れにレンタカーでわずかながら取り戻した感覚を頼りに2トントラックにチャレンジ。なんとか走った。

 車の運転というのは基本的に同じなので、感覚の勝負だった。アクセル、クラッチ、ブレーキを駆使するのだ。ギヤチェンジだって普通のもコラム式も要は一緒だった。トラックの運転席は高いので結構乗り心地が良い。慣れてくれば、運転は快適だった。ただし車庫入れは相当苦労した。ハンドルを何回も切り直す難所でもあった。コンクリの壁に数回傷を付けてしまった。

 この頃の細かいエピソードは小説「ゼームス坂マンションストーリー」でご紹介するとして、事実関係だけを追っていこう。

 トラックの運転にも慣れ、工事現場での電気工事士としての仕事も段々覚えるようになっていった。僕の教育係は長男を社長とするS三兄弟の次男だった。3人の中ではもっともおっとりしていて、優しいといえば優しかった。まあ物足りないと思うときもあった。

 実際の所、いろんな人から仕事を教わった。次男だけでなく、髭の似合う三男、10歳年上のフリー職人、一つ年上の先輩、二つ年下の先輩、みんな懇切丁寧に仕事を教えてくれた。教えてもらってなかなかうまくできない僕の技量を時に笑い、時に冷たく、時に厳しく指導してくれた。みんな良い人だった。

 電気、ガス、水道はライフラインと言われるが、このライフラインを住人に提供するまでの流れを考えると結構たいへんだ。ラインを外から中へ、地下から高層階まで引っ張らなくてはならないのだ。正直あまり考えたことがなかった。

 それはずっと木造建築物の中で暮らしてきたせいであろうか。鉄筋コンクリートの中を血管のようにライフラインを張り巡らせるなんて、この仕事をして初めてなるほどと思った。

 コンクリの壁のコンセントから電気が取れるのは、電線が通るための配管がなされているからなのだ。その管は塩化ビニールで出来た物や、金属製のものがあって、それを必要なカーブを付けたりして、コンセント用や照明用にと壁や天井に配置するのだ。

 ちなみにコンクリートを流し込む前に木枠で仮の壁を作る業者がいる。彼らは仮枠大工という。当然彼らの協力なしでは、我々の仕事は頓挫してしまう。とはいえ職人気質というものがあって、必ずしも協力的でない場合もある。酷いときなどせっかくの配管を邪魔だという理由で排除してしまい、そのままコンクリが流されることなどあった。たいがい予備でなんとかなるらしいが、当初の予定よりコンセントが少ないなんてことも……今はないと思うが?

 職人達と暮らし始めて、かなり影響される部分もあった。いわゆる職人気質というものだろうか?職人気質……要は短気で喧嘩好きということかもしれない。ただし仕事にはストイックなほどまじめなのだ。そして頑固だ。女好きは多いが、絶対条件ではない。そうでない人もいる。男好きなのか、それは分からない。

 秋に入った頃、さすがに百合ヶ丘のアパートと杉並の寮の掛け持ちはもったいないと思って寮長である社長のお父さんに相談した。すると数日後にさっそく寮に近い場所にアパートを借りてくれて、引っ越して来ればいいとなった。確かに寮で暮らすにはやはり限界があったし、もともと自分でアパート暮らしをしていたわけだから、それが一番良い方法だと思った。

 夢幻荘というアパートに住み始めて、3年目に突入していた。4月に更新をしたばかりで名残惜しい気持ちもあった。引っ越し予定日の数日前、思い出の染み着いたこの部屋に別れを告げるべく、久しぶりに寮には帰らず、ここで一晩過ごす計画を建てた。

 ほぼ1ヶ月強、留守にしたのは初めてだったが、まるで1年はいなかったような愛おしさを感じた。この頃久しぶりにレコードを買ったので、この夢幻荘で昔のように大音量で聴いてやろうなどと思っていた。確か1枚はアイドル早見優の「ラッキー・リップス」で、あとモッズの「激しい雨が」だったか……。

 夢幻荘については過去に説明しているが、恐ろしく高台にあって、崖からもっともせり出している部屋が僕の住む209号室だった。とにかく見晴らしがいい。それにずっと隣がいなかったせいか、大音量で騒いでも何一つ文句が出なかった。ところが僕が留守にしている間に隣が入ったのだろう。レコードを大音量で楽しんでいると隣からドンドンと壁を叩く音……。

 きっと昔の本来の自分だったらそんなことはしないのだが、職人気質がちょうど乗り移っていた時期だ……頭に来るに決まっている。何を……っとこっちからも壁を叩く。相手のノックも大きくなる。怒り心頭に達し、僕は壁をキックすると、壁が壊れた。穴が開いた。まあ隣が見えるほどではない。ただし少し怯んだ。っとその時、玄関のドアを力強くノックする者がいる。隣の奴だと思った。僕は怯みながらもドアを開けるとそいつは竹刀をもって立っていた。何を言ったか覚えていない。いつの間にか、玄関前の通路でつかみ合ったまま、動かなくなってしまった。若干向こうに分があって僕はもう少しで鉄柵の向こう側に落とされ兼ねなかった。何 を言ったか覚えていない。彼は急に力を抜いて、確か「もう止めときましょう」とか言って微笑みかけ、僕を彼の部屋に誘って酒を振る舞ってくれた。それで「学生で、ちょうど今勉強してるとこで、そんな時に大きな音で音楽が流れてきたので……」と言い訳しながらも遠慮してほしいという主張を加えながら、ウイスキーをついでくれた。

 部屋に戻った僕は、何となく惨めな思いだった。腕力で叶わず、酒に懐柔されて相手の主張を飲み、部屋の壁には痛恨の穴が開いていた。まあ自分らしくない行動をとった事への代償だったのだ。

 数日後、仕事帰りの職人達にお願いしてトラックを使って引っ越しをした。仕事で疲れているところに持ってきての作業だけにみんないい顔はしなかった。トラックいっぱいに家財道具(たいしたものはないが)を詰め込んで、百合ヶ丘を去った。多摩川を越え、世田谷通りに入り、環七を左折して杉並区堀ノ内に……、用意してくれたアパートの部屋に運び入れた。

 手伝ってくれたみんなに礼をいって、僕は一人荷物整理をした。とにかくまずステレオの配線を済ませ、音楽を聞きながら作業することにした。一人暮らしを始めてから最初の引っ越しだったが、その後も引っ越し後まず音楽を聴けるようにするのが鉄則だった。ちなみにこの瞬間に東京都民、杉並区民となったことは後になって意識することとなった。

佳境

 小さな電気工事の下請け会社は、次の現場に手を広げていた。大井町とはまた事務所から見て真逆な東村山だった。ゼームス坂は、なんとか無事に引き上げる事が出来た。僕が入社した夏、ゼームス坂のマンションはすでに建物としては建っていて、つまり内装工事を主に残すのみの状態で、電柱から送電線を引っ張ってきて、各部屋まで電気を届けるという部分の仕事に関わっていた。先に書いたが、社長の弟が教育係だった。この次男坊ちょっとおっとりがたで僕には、ちょうど良かった。これが三男坊になると、若干暴力団風で、ちょっと近寄りがたい。まあ職人なので見た目ほどは怖くない。いや結構涙もろいし、やさしかったりする。ただ要は相性だろうと思った。

 僕の後釜で二人入ってきた。年上と年下なんだが、二人とも経験者で僕よりも仕事ができた。年下は、弱冠まだ十六歳で、高校をドロップアウトしたやつであった。まだあどけない顔だちだったが、考えていることはけっこう大人で、口に出すことも生意気なことが多かった。ちょっと気を抜くと足元をすくわれそうになった。十六歳バカにできずと思ったものだ。年上の方は、僕より10歳上で生まれついての職人というイメージであり、少しニヒルで高倉健とか石原裕次郎の世界を地で行く仁侠の人であった。いろんな電気工事会社を渡り歩いてきた人で、自分の腕一本で生計をたてていた。仕事ぶりもそのクールさを象徴してスマートでそつがない。彼からは、技術的なことを教えてもらいながら、よく飲みにも連れていってもらった。飲むと厄介だったが、その危険さが当時はスリリングで、楽しかった。

 さて、東村山のこの現場は、一階のコンクリートうちから観ることができ、マンション工事の一般的な流れを知ることが出来た。それにゼームス坂にくらべて、規模がこじんまりとしていて、入り込む業種は同じでもそれぞれの人数は少なく、互いのコミュニケーションはとりやすかったような気がする。この方が、お互いに良い仕事が出来るのではないだろうか。

 この頃はもう秋の気配が漂っていて、夏場のゼームス坂の汗と太陽の匂いとは幾分違っていた。季節の変わり目になると昔から苦しんできたことがあった。気管支ぜんそくである。毎年という訳ではない。記憶するのは高校時代がメインで、そういえば1981年、1982年は症状が出なかった。しかしこの年は見事にそれが現れてしまった。東村山の現場は、いわゆる基礎工事から携わっていたせいか、地下に潜る事が多く、汚れた空気が充満していて、環境的に良くなかったのかもしれない。もともと風邪もひきやすい体質だったので、ちょっと薄着で汗を放っておくとたちどころにくしゃみをした。そして症状は、夜中に現れるのだ。呼吸困難。そう、横になると呼吸が出来ないので、つい起き上がる。その方がいくらか楽だからであるが、もちろん睡眠など出来ない。

 朝、ふらふらの状態で事務所に行き、取りあえず職人を乗せトラックは走らせる。現場に着くと皆の好意でトラックで眠らせてくれる。それは非常にありがたかったが、何となく居心地も悪かった。

 そんなある日の事、ある事件が起きた。
 会社内クーデターというのだろうか。S3兄弟が中心の会社にあって、その次に控えていたベテラン社員3人が別会社を立ち上げるべく、いなくなってしまったのだ。中核の3人がいなくなって、厳しい経営状態にならざるを得なかった。もともと小さい会社がさらに小さくなろうとしていた。
 僕も含めた残されたメンバーが事務所に呼ばれて、事の状況の説明を受けた。3兄弟は悲痛な面持ちであった。特に社長と三男坊は怒りをあらわにしていた。正直彼らは自暴自棄になっていたのかもしれない。
「他にも辞めたい奴がいたら辞めていいぞ!」
それは社長が言い放った。もちろん本心でないのはあきらかなのだが、僕はその言葉に飛びつく事にしたのだ。
「わかりました。辞めます」
3兄弟が、そう言った僕の方を凝視した。その瞬間三男坊が飛び上がって僕の胸ぐらをつかみそうになった。
「おめー、この野郎!」
それを寸前で制したのが、次男坊であった。
「それは彼の自由だから……」
そう言ってくれた。
社長も深くうなづきながら「わかった」と一言呟いて奥の方に消えていった。

 人生は常にいくつかの選択の前に立たされている。あの時こうしていれば今頃は、などと考えるのが凡人の常であろうが、その時はそれなりに自分で一つの道を選択してきたはずだ。仕事を始める時もそうだし、辞める時だってそうだ。だから決してこの四ヶ月が無駄であったとは思わない。むしろ何かしら自分に働きかけるものがあったような気がする。この仕事を選択しなければ、この杉並に足を踏み入れることはなかったのだから。今後一九九一年まで、この杉並は方南町で生活することになる。

 この4ヶ月間では楽しかった事の方が圧倒的に多かった。二トントラックを運転して、壁にぶつけたり、クレーン車と接触して殴られそうになったり……。夜の雨の中で照明器具を素手で持っていて感電したこと。ストレス解消に夜中にトラックで歌舞伎町にくり出したこと。その時に沖縄の暴走族上がりの先輩がトラックをスピンさせたこと。夜食の買い出しに吉野家までトラックを走らせたこと。昼は領収書だけもらっとけば食べ放題だったこと。酒好きの先輩に飲みに連れていかれたり……。

 今ではあまり思い出せなくなってきているが自分にとってはいろんな経験ができ、人間としては一皮むけた感じだった。高校ぐらいから、人に接するのが何となく苦手になり、内向的といわれてきたし、この頃までそうだったようだが、この仕事がきっかけで、人に臆することが少なくなった。

 辞めた後も会社が探してくれたアパートに住み続けていた。ちょうど中学校がよく見えるアパートで、やたらうるさかった事だけは覚えている。そして辞めた後も、その会社の後輩が遊びにきたり、飲みにいったりしていたが、自然に縁が切れていった。



 


 

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1983年−』

タイトル通り、東京に出てきて最初の3年間の3年目の話でした。また続きは書いてみようと思ってます。ただし1984年、1985年、1986年は、かなり暗く沈んでしまうので……消化するには時間がかかりそうです。1987年に現職場に入り、20数年サラリーマンを続けてきましたが、2011年、どうもピリオドを打ちそうな気配が漂っています。

『TOKYO EARLY 3 YEARS −1983年−』 ALTVENRY 作

 東京に出てきて3年目、上京の口実として入校した専門学校を1年で辞めてしまい、音楽でやっていくんだと決意しながらもこの3年目になぜか電気工事なんかを始めてしまう。まったく一貫性がないことに自身腹をたてながら、そこで意外な発見をしたり、技術的、精神的知識を身につけ、人間として少し成長したかもしれない。そんな物語です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2011-05-30
Copyrighted

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