詩集 修羅と名も無い僧 六章
六章
不義を働く者の傍には、鬼が湧く。
椅子の装飾を理由に、鬼達が従うだろうか。
鬼は元来、閻魔の配下にある。
閻魔はその立派な椅子には、興味が無い。
だが、閻魔は不義を裁かない、制止もしない。
不義は誰にも正してもらえない。
不義は常しえに、不義のままで在る。
雨が降るような、罵声の街を、突っ走れ。
倒れたら、人々が怒鳴り、蹴り、石を投げる。
馬鹿にされても、侮辱されても、突っ走れ。
背中に浴びる憎悪や怨嗟は、咎を知らぬ刃物だ。
悔し涙を零し、孤忠の荒原に至り、静寂が訪れる。
無声の称賛と、慈悲の手に抱かれ、やっと眠れる。
故に、正気を取り戻すために、隣人を小さく愛せよ。
眼前、背後、双方にある咎を、小さく赦せば良い。
耐えられぬ時は、深夜の防波堤に足を運べ。
いくら叫んでも海は揺るがないから、安心しろ。
賛美の歌が、聴こえる彼方。
綺麗な花が、咲いている噂。
いつしか彷徨い、果てには叫び散らす、黒い海原に。
対岸より照るのは、無数の車の、ヘッドライト。
涙に滲んで、光の橋が見えるのだ。
この潮騒に沁みて、入り浸ってしまえば、
私にも冥界の足音が聴こえそうだ、もう帰ろう。
孤独を恐れていた時期もあったが、
敢えて、独りの世界に踏み入る事も多かった。
幾度と一人、思案に暮れて、心を砕く。
明け方の窓辺に、割れた食器と、散らばる錠剤。
繰り返し肉薄することで、孤独の正体を見破る。
一輪で咲いた野花を、恐れるな。
それは天性の気高さなのだ。
青年は、好きな人ができた、と蒲公英に教えました。
蒲公英は、素敵だね、と頷きました。
蒲公英が提案しました。
「私を摘んで、その子に手渡すと良い」
青年は悩みました。
「それでは、友である君を、傷つけてしまう」
蒲公英は笑いました。
「恋にはそれぐらいの覚悟が必要さ」
全盲の青年が、財布からお金を盗まれました。
街の人々が、盗人を追いかけ、騒ぎました。
青年は、心無い行いに、涙しました。
老人が、こっそりと、彼の財布にお金を入れました。
「ああ、良かった。君は何も盗まれていないよ、ほら」
老人は今夜、空腹のまま、幸せに眠ります。
全ては道行く彼らのために
欠けては満ちゆく月光が頼り
太陽の刃が肉体を裂き
それでも落陽が真に綺麗
人に石を投げるのは、勝手です。
人を侮辱するのも、勝手です。
ここで重要なことは、古の日本の言葉には、
「自由」という語はありませんでした。
自由のことを「勝手」と呼んでいました。
では、人に石を投げて、侮辱する者の心は、
真に、自由なのでしょうか。私には疑問です。
スーツケースに、衣服を詰め込んだ。
貴方に会える、希望が湧く。
もう一度、荷物を全て取り出して、詰め込みたい。
貴方に会える、熱情を嚙みしめるため。
七月の貴方も、同じ気持ちだったのだろう。
空港で、ずっと、心を焦がして待っていてくれ。
怒りの箱を開いて、中身は怒りであると思うならば、
常しえに、赦すための覚悟は、決められない。
怒りは苦しみだが、快楽にも成り得るからだ。
怒りの箱の中身は、悲しみだと気付いた時、
意図の及ばぬ、心の遠い所で、赦す覚悟が決まる。
怒りは心に非ず。心より浮き出る、鋭い泡沫である。
ね、お母さん。
あの日の私は、酷い事をしたと想います。
貴女のために描いた似顔絵を、破り捨ててしまった。
けれど、貴女は微笑みながら、紙片を集めた。
「学校で描いてくれたんだ、うれしいなあ」
ね、お母さん。
貴女の心には、愛がある。
私の悪心をも愛する、慈悲がある。
日付を指折り数えるのは、おしまい。
今は、時計の針を、ずっと眺めている。
幸せが歩いてくる、音がする。
荷物の準備は、おしまい。
今は、貴方の事ばかりを想っている。
幸せになっちまった、私がいる。
敵意、悪心、憎悪、憤怒、嫉妬、侮蔑……。
善意、善心、愛情、慈悲、布施、敬意……。
日々の暮らしに用いる語。日頃より心に浮かべる語。
言葉は心を形成する業だ。自身への果報だ。
食べた物が、血肉を作り、明日の命に成るように、
使っている語が、想念を作り、明日の魂に成る。
会える時を、今か今かと待ちきれず、
恋人たちは続ける、ラブコール。
明け方に、私は発ちます、貴方のもとへ。
夢に終わらなかった、夢のような幸せ。
実を結んだ、苦楽の果てに。
世界を置き去り、ふたりきり。
貴方を見送ったバス停から、私は向かう、東の地に。
貴方と同じ車窓を見つめていた。
ここは異郷の地、私は異邦人。
流れる景色の何もかもが、見知らぬものばかり。
けれど、窓に映り込む貴方だけは、懐かしい。
狂おしく、荷物を抱きしめながら、焦がれている。
早く、ふたりっきりになろう。
本州で過ごす最初の夜、生命の色の違いを知る。
沖縄で鳴いていた、夜の虫とは違う。
この地に鳴く虫達は、実に見事な、鈴の音だ。
神社やお寺の周囲に鳴り響く、清い音だ。
それは、神仏の往来のために道を清める、
従者達の神聖な歌にも、聴こえてくる。
慣れない旅先、眠れない眼差し。
部屋の照明を、ぼんやりと眺める、胸の内。
君は寄り添う、我が胸に、
甘い吐息で心ごと、夢見心地へと誘う。
夢、幻、いいや、全て、蜃気楼。
今と明日とを繋いでいる、現実の遠近感を狂わせる。
二人で永久の幸せを歩む。足跡は前方に続いている。
善人も悪人も、皆が皆、泥の世界の種子ならば、
遠い未来に悟りを開き、菩薩に成るのなら、
最早、人間にとって生きること以上の果報は無い。
地獄道や、餓鬼道や、畜生道であるだとか、
その様な未来或いは可能性など、恐れる事は無い。
私が修羅道に固執しなくなったのも、同じ理由だ。
初めて、満員電車に揺られた。
吊革につかまる心細さのあまり、
貴方の横顔ばかりを見つめていた。
不機嫌でも、手を繋いでくれる。
甘える時も、手を繋いでくれる。
君の手は素直で、分かりやすい。
虎の眼光が照らす世界。
真っ暗闇に佇む、生きたままの想念。
額縁の内側は、誰かの一生の辛苦。
形と色彩は、絶句と意義で生まれる。
遊びでは理解も到達もできない世界は、
作る事、壊す事、生きる事の繰り返し。
真白な画布に、赤くて四角い、心臓。
虎もきっと、生きるために泣いている。
生きる事は無条件の喜びであると同時に、
振り返れば、影から怨めしそうに、悲しみが睨む。
苦しい追憶を避けるため、私は目を逸らした。
けれど、悲しみが寂しげに涙する時には、
影に踏み入り、その肩を抱くのだ。
悲痛な叫びは、私の一部、私の兄弟でもあるのだから。
恐れる心を克服せよ、と自らに言い聞かせてきた。
継続により、私はある種の、無慈悲に一歩近づいた。
恐れる事と同時に、敬う心も失いかけたのだ。
私は、不動明王の真言を口癖にした。
必然性を伴う、畏れる姿勢を得るためである。
以降、町の至る所に、不動明王の炎を、見出した。
幸せと苦しみに、何の違いがあるのだ。
幸せになる度、苦しむ度、繰り返し確信してきた。
やはり、ふたつには一切の差異が無い。
幸せに満たされると、生に対して盲目となる。
苦しみに満たされると、死に対して盲目となる。
何も得ず、何も失わず、賛美と嘆きを繰り返している。
明るい街で、無関心の人々に囲まれ、暮らす。
暗い部屋で、孤忠の胸に自ら問いかけ、沈黙する。
ふたつの孤独に深く寄り添い、和睦する。
でなければ、如何にして喜びを理解できるだろうか。
自ら理解していない物を、要求してはならない。
与えられた時に「中身が違うぞ」と逆上するからだ。
微塵も怯えてはならぬ。
怯えると、人は命の意味を考えてしまう。
意味を疑われる命は、寂しさに涙してしまう。
青ざめた顔では、生命として色気が無い。
生きる事に関してだけは、蛮勇で丁度良い。
苦しくとも、生きる事に変わりはないのだ。
幸せの中にいても、孤独を忘れてしまえば、
本当の不幸になる気がして、常に戒めている。
幸せである事は、決して、孤独を脱する事ではない。
生命の孤独を、一時の夢に忘れているに過ぎない。
悲観でもなく、諦念でもない。
向き合わずして、覚悟は決まらないからだ。
生きる、生きる、生きる……。
生きる、生きる、生きる……。
是が非でも、最後まで、生きる。
容易くない道に、単調な誓願。
笑い、迷い、闘い、報い、救い……。
ひとつの道に、一本道に、あまりに多くの、言葉。
真言ひとつを覚える事が、私にはやっとだった。
硝子の壁におわします、沈黙の文字よ。
あらゆる採光が叶わない人々に、光を与えてください。
緑色に輝き、穿たれた世界は、線引きを失います。
内外の垣根無く、水を注ぐように愛してください。
二階の硝子の向こうに、祈りがあります。
地蔵菩薩も、不動明王も在ります。応じてください。
争いから、最も遠い場所にいる。
喧騒から、最も遠い場所にいる。
欲望から、最も遠い場所にいる。
憎悪から、最も遠い場所にいる。
貴方が、私の隣にいる。
私が、貴方の隣にいる。
人に理解されない物こそ、真に孤独だ。
ええ、そうです、支持する者も、称賛する者もいない。
通りすがる人々は誰も見向きもしない。
私は、そういう孤高の中に佇む、静かな物が好きだ。
人々の身勝手な感情や、光を知らぬままの賛美、
そんな汚泥に囲まれる物よりも、真に美しいからだ。
月に睨まれて親孝行。
貴方は山野に咲く、茨の花でありましょうか。
私は潮騒に心が遂に乱れた、雲水であります。
貴方は山野を潤す、清い流れでありましょうか。
私は貴方の足元に田畑を耕す、凡夫であります。
貴方は山野に佇む、散文の僧でありましょうか。
私は一切苦楽の孤忠韻、貴方の御供であります。
平和を噛みしめた事の無い者
神様の仕事を担わない者
人の痛みを知らぬ者
何もかもを赦した事が無い者
怒りと復讐を良しとする者
闘争を望む者
偽我の声に耳を奪われた者
苦楽の正体を知らぬ者
普遍的愛を否定する者
アガペを知らぬ者
真っ先に救われる者のリスト
人は、孤独です。
孤独ですが、孤独に成りきる事は、叶いません。
生まれた日には、誰かの腕の中にて賛美され、
嬉し涙、悔し涙、言葉に出来ぬ涙を繰り返して、
無慈悲を目指そうと、心を鬼にしても、
誰かの優しい一言に、魂は雪解けを悟ります。
人は決して、孤独には成りきれません。
人間は悪心を持ち得る。それは否定できない。
けれどね、人間って、善心を持ち得るんだ。
人間は敵に成り得るけれど、味方に成り得るけれど、
人間は、敵か味方かという壁を、乗り越えられるんだ。
人間は純粋になんか成れないよ、絶対に。
素敵じゃないか。悪に染まり切れない証拠だ。
十一面観音様に、初めてお会いした。
阿修羅道の衆生を救済して下さる、仏様だ。
観音様は私を厳しくしかって下さった。
私は涙が止まらなかった。嬉しかったのだ。
心が壊れるまで叫んでいた毎夜。
長谷寺の御本尊はずっと、見守っていたのだ。
赦すために己と闘った日々の全てが、報われた。
開けてみようか苦楽の箱 幸せはいつも隣り合わせ
五感を通して感じ取る 苦しみだって背中合わせ
ふたつにわけても無理な話 倍に増えるよ 苦楽の種
喜ぶ気持ち 壊れた時計 戻らぬ日々と歩んだ道
悲しむ事さえやめました 苦しい場所から遠ざかり
ふたりっきりに成れた今に 捧げる祈り綴るよ詩に
明日もあなたと思い出す いつか眺めた入り日の海
幾月幾年 重ねます 一緒に励む 生きることに
詩集 修羅と名も無い僧 六章