・・・月面事件(ケシスタン聖典 口火の章)・・・
そなたの人権を剥奪し、そなたに人命を与えよう。
宇宙に燦然と輝けるようにして居た由緒正しき人命信徒たちは、宇宙に住める者としての自覚を問うて各所の宇宙市民を揺さぶった。揺さぶられた側は震え上がる者も居たわけである。
誰かを助けたい気分の日も、助けるのが面倒かそれほど気の進まない気分の日もある、という大前提の下で結束する信徒たちの信念や概念はしかし、確かに宇宙市民たちから最も心より求められ支持され得る考え方であったことも否定できない。
それぞれが人間として尊重されること。
宇宙での人類を繋ぎとめる正義ときたら、そのようなものでは決してなかった。ひとりひとりが尊重されるより、それぞれのムラのある正義心を合理的に掻き集めて物理的により多くの命が助かるよう各ひとりひとりに圧力をかけ気分が乗る時の徹底した慈善行為を強制してゆくこと。それこそが世界を救う。世界というより、宇宙に於ける人類を救う。
よって宇宙の民は皆、先ずメシストであるべきであろう。
然うとしたのは何も覇権を握らんとした革命後のメシスト達だけではなかった。大袈裟に謂えるところの人類にとっての宇宙創成期にて、人類全体が最初に共有した考えではなかったか。
物理的に命を確保してゆこう。実際にすべて然うした態度で人々が接し合うのは望ましくないし若干に冗談めいて居るけども、心持としてはメシストのような姿勢と振舞いが宇宙市民には求められて居る。だから多少なりとも然うしよう。然うしようというよりも、そのような風に宇宙倫理を律していこう?
これには誰も反対しなかったとは言わないが概ねの支持が集まった。誰も宇宙に於て特定のメシストであるわけでもなし。みんな心にメシスト的要素を持って居る。それどころか未だに命のために豫断を許さない宇宙生活や地球だの月だの他の天体だのの光景を前にして居る感覚から、思想上の対立をしようという発想そのものがない筈であった。
その常識を覆したのは人類の技術と宇宙進出計劃の発展であり、つまり宇宙に於ける景勝主義者の誕生である。
地球にケシズムが勃興し闘争を繰り広げて居たそれまでの時代にあっても、宇宙各所では沈黙が守られた。ここでは人命的観念に終始しなければならない。景勝だの何だのと言えば一人でも命が危険に晒される以外はない。そして実際、宇宙に居れば地球上の景勝思想などどうでも良いことに違いなかったことだろう。未だ人類の殆どが母星に息吹き、宇宙では少数の有人と多数の無人知能が基盤を築き上げることに終始して居た。
時代が進んだ後にその倫理的安定が脅かされるとするならば、何者かが地球上の母国のケシズム運動に関する支持を宇宙基地内に持ち込んでしまうか、もしくは、宇宙の自らの根拠地に自らの景勝を見出した宇宙ケシストが登場するかの何れかによってである。
驚くべきことに、はじめに産声をあげたのは後者であった。
そしてそれは、宇宙での人命思想の先鋭化によって引き起された。
驚くべきことにそしてそれは、人類がまだ火星は疎か月面にさえ都市を築き得ずに漸く長期滞在の連続とその日数を地道に増やしつつあったに過ぎない時代であった。
変に笑うな。無駄に喋るな。無駄に騒ぐな。決して、怒るな。
泣くのは良い。宇宙というのは素晴らしいから。だが変に泣くな。涙は宇宙的なものだけにせよ。
癖のない者となれ。そなたの人格どう斯うではなく、すべては宇宙市民の安全のため。宇宙は未だに我々にとって危険な場所であるが故に。
地球上にも然うしたものは存在しよう。しかしどちらかというと地球にはケシズム的思想と分類される主張であり、当の宇宙メシスト達もそのような地球の「土人たち」と一緒くたにされる動きを派手に嫌った。
こっちは身に迫った感覚から言って居る!人類ひとりひとりそれぞれは、なるべく相手のイライラしない態度振舞いを実現しなければならない。これは皆の安全のために基いてだ!頑なほどに。
宇宙メシストの思想支配の深刻化とは突然でなく、次第に宇宙各所に暗黙の了解化した習慣の積み重ねと言えよう。徐々に各自の中で過激な者たちが意識して宇宙メシストを自称し嘗てない政治的な言動表現を行おうとも宇宙では安全が何よりときて、長年にわたり思想の跋扈が棚上げにされて居た。
これを打ち砕くべく、というよりも反射的に抗うべく、また或る者たちが異なる思想を高々とする。
宇宙ケシスト。彼らを宇宙ケシストと呼ぶ。但しケシストのようで居て完全に然うと言いきれはしない。
宇宙は人命がすべてではない。宇宙には、美しいからやって来たのではないか!
宇宙の主役は人命ではない。宇宙に世話になって居るのだ!
4名の月面滞在者が立ち上がる。どの者も過去に二回以上の月面長期滞在を達成し、今回もその滞在豫定期間の半分が過ぎようとして居た。
基地内のすべての人員のみならず地球の管制本部、のみならず人類すべてが自分達の声に聴き入るべきという。この要求を受けた宇宙メシスト達は、実に人命主義的であり真の宇宙メシストであったと言える。ここで一線を超えようものならそれこそ人命に反する事態を招く。4名の主張を鄭重に扱い受け入れ、地球へとその文脈を伝えんとする。
曰く、宇宙ケシストらは宇宙環境を根拠地としたケシストを名乗るなどというSF的な英雄的行為に及びたいわけではない。
曰く寧ろそれは、基地内に於ける人間のあらぬ本性本質が垣間見えたことへの怒りのような嘆きのような訴え以外の何でもない。
曰く基地にて様々な景勝的背景を持つ多国籍の多人種の年齢も性別も出自も階級も問わない人員たちが手を取り暮らし合う日々に見た、ありとあらゆる差別である。
曰く或る者が非常事態に備えた行動班代表選挙にて女性候補の過去の涙もろいとされた場面を引き合いに出しその混乱性を暗に公然と嘲笑し。
曰く或る者が誰にも優って基地内に昇進してゆく或る者の地球上での冴えない経歴に目くじらを立てて、地球でうまくいかなかったから宇宙に逃げてきたのか?と陰口を利き。
曰く或る者が自らと異なる人種の常識外れに目が細いと見做した或る者に対し、友好の証と題して両目を吊り上げる行為を働く。
悲しみを覚え、絶望に暮れ、人類の行く末を案じて已まない。より宇宙活動が緊張感に溢れて居た時代には恐らく見受けられなかった光景だろう。
人類は少しでも慣れて落ち着いて安定した空間が社会としてそこに在り続けると、より愚かな者から順に信じられないほど低俗な生命体へと落ちぶれる。
命の確保を謳うだけでは、この没落を防げない。
我々は宇宙に於ても今こそ且つ今後永遠にケシズムを誓い、ケシストを全うしなければならないのではないか?
曰く地球上にて目を背けることのできない新時代の世界的な思想対立の軋轢から幾つもの側面を見てきた。
曰くメシストが幾ら人命を唱えようともそれは単にただ唱えて居るだけで、かえってもう既に自分達は人命を尊重できて居るのではないかという算段の上に本筋から遠のいてゆく。
曰くケシストがあからさまに「差別の根絶」を訴え言うことは少ない。何せこれは主義主張の一派ではなく、景勝を心得た者であれば当然に解するであろう感覚だからであった。
曰く我々は、地球の、いや宇宙の、その一部であり続けたい。この想いとは恰も自分達が宇宙人であるかのような陳腐な昂揚感に包まれての産物なのだろうか?
曰く、いい加減わたし達は宇宙に適応しなければならない。その時に宇宙からいざなわれるように佇み振舞えるのはメシストではない。ケシストである。
曰く、人命思想へ大きく傾いた宇宙に於ける人類の行く末を案じ、その方向性の修正を要求せり。
地球では、そもそも宇宙や月面に於ては何にしても人命が第一であることに変りなかろうことを言い聞かせこの異議に反対する者もある。
また人命主義者という立場からも比較的人命的な一般市民からもケシズムへの嫌悪を示すという意味での小さからぬ抵抗が渦巻きもする。
それか強硬派から穏健派までのすべてのケシストが公議や配信媒体や教育各所にて今こそ団結すべきと奮起しながら徐々に月面のメシストへの誹謗中傷に傾倒してゆくこともあった。
それらどれもがどうであるとしても、基地の宇宙メシスト達が一旦の和解を持ちかけて暫くの協議が行われることとなったのが一旦の事実である。当然に4名側が然うした高い水準では改めて人命を優先しながらその提案を受け入れて基地幹部たちとの対面協議に明くる日から臨もうとした。臨もうとして居たという。
その4名の姿がそして、明くる日には全く消えた。
基地管理本部側からも地球側からも突然として4名の存在が確認し得なくなった。基地代表者やその他いかなる者に地球管制部が問い質そうとも丸で自分達こそ驚いて居るかのように一応は応答し返答して居るように思えた。思えたという。基地内の公的なすべての定点カメラには昨夜以降に4名の影が見失われ、各人の個室内は寝静まる前のようにして異変なし。基地全員に特に地球側が話を聞けども誰も彼もが月面での出来事ということも加味されて必要以上に恐怖を覚えて居るばかりで全く行方不明者への昨夜以降の情報がない。
然ういうようにして地球中に伝えられた。
当然ながら管制部は、昨夜以降に基地で巻き起った本当のすべてを実際には認知して居たろう。
当然ながら管制部は当時、既にその殆どが宇宙メシスト思想に忠実な者たちで構成され組織運用の中核を担って居た。
失踪事件。公式には宇宙初の失踪事件として広報され、基地に残された数多のメシスト人員たちの悲痛な訴えや地球帰還を希望する後ろ向きな声が報道される。知らない。ほんとに何も知りはしない。とにかくもうこの基地には居たくない。居られない。しかもこの事件を受けて地球では急激に月面開発全体そのものへの不信感や腫物感情が生れてしまった。それが無念で薄ら悲しく、如何なる探査活動も凍結されよう。この事態によって人類の宇宙進出が30年は遅れたといって差し支えない。
これはつまり、宇宙初の殺人事件。
起したのは一人ではなく、基地全体のメシスト達であった。
殺人事件が起きるとすればそこには流血や暴力があるものだろうと誰もが思って居たのかも知れないが、そこにはただただ闇に包まれた集団の魔の手があった。
これを宇宙ケシストの黎明であり原点と捉えたらば、全銀河のケシスタンは今なお宇宙を周遊する4名の屍の腕であり脚であり胴であり頭である。その志は心臓である。
・・・月面事件(ケシスタン聖典 口火の章)・・・