犬死論

  1 犬死の風景

 滅びの美学。
 かのような難解きわまるロマン的思想、ぼくはそれを語る者ではない、されど、”犬死”なる曖昧模糊とした概念、それを語ることをはや数年来目論んできたのだった。犬死。生誕を起点とし死へ弧をえがくであろう点の運動の終点を、”犬死”という惨たらしいかたちで終わらせる生き方、乃至死に方。ぼくはこれを論じるという目標にあたっては敗北すること必至であるけれども、それは、犬死のそれと全くおなじ結末に相違ないだろう。何故といい犬死とは、敗北と失墜を宿命とする、けだし無惨な死をいうからだ。
 ()て、ぼくと犬死という風景との邂逅、それはきっと、かのオスカー・ワイルドの童話、「幸福の王子」にあったことだろう。虚栄の欲、人間にとって肉の属すそれともみまがう輝かしい宝石群・金属片を、魂から肉がひきはなされるようにして剥がし落し、果ては棄てられる薄汚い像へと堕落して往く幸福の王子の風景。王子に憧れ、さながら天から降る神の愛を魂が照らし合わせた為に、おなじような光を鏡と発して死んでいったかのようにみせかけて滅びた、地へ墜落したツバメの死骸の風景。…
 ぼくはこれを、一時期は「自己犠牲」や「殉死」という高貴な言葉をつかって見ていたのだった、しかし、そんな旧日本めく貴族趣味を棄ててみれば、こんな死に方、ある種の「犬死」である。自己の欲心実現の努力の放棄だ。もしや魂のみ歓びはしたかもしれぬ、しかし、殆ど生きる喜びからの逃走だ。獲得の逆をゆく放擲のうごきだ。もしや自己を無へ帰するまであらゆるものを剥がし落す、切なくも淋しき狂気的努力だ。無我に走るエゴの一つだ。ただツバメには、王子への恋があった、「御大切」、若しや愛すらあった、そうと読めはしないだろうか。
 粗筋は割愛する。
 この作品はぼくの考えでは、王子は基督の象徴であって、ツバメは信仰者のそれなのである。基督の教えに感動し信仰心をもった人間は、天の光への憧れを介し、無償の愛に似たものを発せられる。然り無償の愛とはいいきれまい、しかし、「無償の愛ではないとはいい切れない」、そういうものを。ワイルドはこんな悲壮な観念を、この寓話で謳いあげているのではないか。手を知に突っ込み泥に汚れるがようにおのが才能に穢れにけがれた天才ワイルドの、秘められていた無垢なる悲願がこの作品にこもっているように想われる。
 ぼくはこのわが解釈をけっして信じているわけではないし、しかし、無信仰のぼく、信仰心は無償の愛めくうごきに導きはしないと嗤うものでもない。ぼくはこの主題の正体を決定しない。疑る。ぼくの基本的態度とは、それである。そして、最期のさいごに空の美しさを信じられれば、万事においてそれでいい。

  *

 犬死の歴史を遡ればキリがないだろう、それは地球上初の生命に起源を辿れるに決まっていて──子孫を残したという意味ではあたらないだろうか──すくなくとも歴史に名を刻んだ先人を遥かに超える無為な命が犬死を迎え、果てをいえばきっと地球はいつや犬死し、宇宙も亦爆発・消滅の宿命を待つために、悉くが犬死することだろう。
 犬死とは、報われない無駄な死に方のことである。宇宙すらも犬死するといっては身も蓋もない、しかし、そこまで話を巨大にしてしまえば、あらゆる生命は犬死の宿命を待つようにしかぼくにはおもわれぬ。子孫を作った。社会に貢献するものを残した。歴史に残った。されど永遠なぞ、それの保証された遺される貢献なぞ、絶対的な価値なぞ、この世にはない。いつや、あらゆる価値は断ち切られる。人間は徒なる努力をし、霧消の宿命の愛を与え、受け、幻の光を抱き、消える。それを繰り返す。先人が足場をつくり、現代人がそれを踏みしめ、或いは壊し、その卑俗なうごきを繰り返す。それ故に生というかたちは卑小であるというほかははく、亦俗悪な光で壮麗に耀き立つとぼくに謳わせることができるのだけれども。
 生の孕むこんな美の幾つかの印象に、ぼくは”俗悪-美(キッチュ)”という言葉を与えている。
 さればここで、犬死の範囲をもうすこし限定する必要があるだろう。あらゆる生は犬死を迎える、何故といいどうせ人間は死んでしまい無と果て、なにか仕事を遺したとしても宇宙は爆発し果てるから、といってはこの死を語るまでもない。なんの努力をしなくとも死を待ってそれを迎えれば、それが犬死ということにしかなるまい。くわえて、すべては犬死を迎える宿命にあるというニヒリズムは所詮情緒的気分のようなものであって、「気付けばその虚空で深みは終わり(そして其処より黎明が射し浮ぶかもしれぬ)」というようなものではないだろうか。ここでは、語るにあたいせぬ。
 されば、犬死とはなにか。
 ざっくりといえば、いわく、そのひと固有の努力をしてきた生を一刹那で無駄にする、当人にとって甲斐のない、報われない死に方のことである。青々とした虚しい光に照らされるような、後方へ曳くもの何等(なんら)なく、跡には無惨な骸のほかなき死に方のことである。
 ここでは、「能動的な犬死」と「已むにやまれぬ犬死」の双方に共通するものをいっており、後述でそれ等を分け隔てる予定であるけれども、先ずは、ここでそう書いておきたい。
 死に方に、自尊心の意味での報酬、社会的な意味での生産性などあってはならない。死後の未来性など期待してはならない。それまでの生を感謝され、当人が喜んではならない。できることならその骸は、鼻をつまんで通りすぎてゆくひとびとの一瞥が辷るような無惨な姿で横臥わっているべきだ。見棄てられ路上で果てる犬の如く、無為に死ななければならぬ。最期のせつなに、あらゆる結びつきを破棄せねばならぬ。
 能動的なそれにおいて理想をいうならば──虚栄の肉を剥ぎ落し、古く西洋で謳われてきた魂にあたいする残りの光、”睡る水晶”を──ぼくはこれ、やはり無いようにおもっている──、一種のコケトリイを一面に反映する”青薔薇”へと剥き、砕け燦爛と反映を上げる破片を鮮血ともなわせ雪景色に突き刺すように、あるいはまだみぬ友へきがるに抛るように──ここに未来への期待がありえるという矛盾があるからして、それは限界まで虚栄を剥いだ悲願であらねばならぬ──死ななければならぬ。

  たとえこの身が泥のかたまりとなり果てても、
  なにひとつ穢さずにいたい。
      ──シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」より

  *

 ぼくは犬死という概念に、ぼく固有の世界に於ける、ある一つの確信をもっているのかもしれない。

 犬死とは、あらゆる生のluxuryを抛ったために沈み昇り残る、ある種もっともluxuryな死のことである。

 折角生れてきたのだ、一度きりの人生だ、幸福になるため、価値あるものを獲得し、他者への与える幸福とすりあわせながら自らの欲心を実現する為に争えば、もしやそうなれるかもしれぬ。すればひとを愛し、愛されるかもしれぬ。社会的な価値に結ばれたみずからの価値が保証された形で、ひとの役にたちえる。感謝され、他者からの評価もえられうる。献身と献身を結ぶ弧のうごきの折重なる人間社会の線描とはやはり尊いもので、ぼくは、それの与える言語に思考システムを内包させない生き方を肯定しているだけ、けっして社会構造を否定する者ではない。むしろそれに加担し、ぼくには不可能な”ひととひととの幸福を撒き合う生”を営むひとびとは、とても価値があると考えている。
 折角生きることができるのに、生に付随しえる良きものの獲得ではなく放棄と剥ぎ落すうごきに邁進し、通説的な幸福なんぞから逆行し、軽蔑さえせず──ぼくの考えではそれをするならば犬死にあたらぬ、それはデカダンだ──或る貞節を抱き、ありとある潤む期待をはらはらと払い落して往き、乾き往き、限りなく無にちかづいた途上で、果てるということ。一刹那をかずかずの永遠に連ねようとし、一永遠をかずかずの刹那に磔にしようとする、受けた恩恵を台無しにし、当人の生きたい生を生き苦しみたい苦しみを苦しむというけだし我がままな生を生き、最期に死にたい死を死にえるかもしれないという、この、真暗(まっくら)な希望に満ちたluxuryな終着点に、生を掛ける(賭ける)ということ。
嗚、貞節──それだけは、抛ってはいけない。
 これが犬死するためにゆかねばならぬ路の性質であり、淪落の音楽によって摺り堕ちて往く際に下方へ曳かれ落ちる爪痕、わが乾いた期待の投影され死で分断される生の未来性である。余りに観念的、そうとしてしか語りえぬそれであるから論じること如何にも不可能、人間には実現可能かすら、あるいは果してそんな死がありえるのかどうかすら、ぼくには判らぬ。
 生を享けたにもかかわらず人生をほとんど台無し、ただ自分の本心に従った淋しき無為な銀の迸りのうごきに、青をみすえ、病的に蒼褪めたわが血を信じ、砕けた泥の身をほうっと委ねる。青空に浮ぶ墓だけに、真暗闇の魂を置き、肉の領域を徒なる嵐に引き裂かせる。然り。とんでもなく罰当たりな生き方の悲痛なる果て、それが犬死なのではないか。要検討。



  2 犬死詩人とデカダン

 デカダン。
 歴史には、或いは現代にも、そんな人種がいるらしい。デカダンとは、犬死詩人にどこか似ている。秩序の与える言語への訝り、社会構造の促す方向からの精神の意味における逆行、破滅への志向という点において。デカダンという概念は、”デカダンス”が芸術の作風なぞを指すことが多いのに対し、それをする当人、ないし芸術家の”生活態度”の一つをいうとぼくは解釈している。ざっくりといえば、良識から能動的に堕ち、傍からみれば頽廃的で、破滅的なそれをいうことが多い。
 たとえばジェラール・ネルヴァルなぞは「ネルヴァルの生涯と文学」という評伝を信じるのなら、晩年は殊にデカダンらしい生き方をし、犬死といえないこともない最期を迎えたであろう。認められず、発狂すらし、ボオドレールいわく「仏蘭西でもっとも穢れた場所」をわざわざ選んで、首を吊った。貴族帽を被ってぶら下っていたが引き落ちるときに吹っ飛ぶ筈の状態であったらしい、果してかれはそれを最後まで誇り帽子じしんが踏ん張りその状況を守護したのか──ぼくはそんな説信じちゃいない──、吹きとばされたそれを誰かがのせたのか、或いはただの悪戯か、いまいち不明であるようだけれども、恰もわが高貴性を守護しきったことを衒うような態度を連想させるのがかれの死ではないだろうか。後述するが犬死にも何か自恃のようなものが残りえるので、どちらであってもぼくはかれの死を「犬死的といえなくもない死」という言い方に位置付けたい。
 犬死詩人とデカダンというのは、やはり重なる領域を有す。御想像できるとおり、もしこんな人間が増えたなら、秩序がまわらなくなる。ぼくはここに、むしろ札束を塔からばらまいたり、遊びに身を投じ火のような快楽に燃え破産したり、そういった、どうしようもないロクデナシな生き方との親和性を見るのである。従って、犬死はやはりluxuryな要素を有す。
 1章で、ざっくりと犬死の風景乃至音楽を、ぼくは語ってきた、そしてこの章において、デカダンという問題を提起した。これ以降は、書きながら追究しなければならぬ。犬死詩人とデカダンは似ているが、屹度、デカダンの相貌を明るめることで、差異を追究することで、もう少し犬死の輪郭がみえてくるであろう。
 堕落論。
 嗚。そんな作品が、あったようだ。“犬死論”というこれのタイトルは、この評論へのオマージュが込められている。坂口安吾。ぼくは摺り堕ち乍ら翔べない翼の筋力を鍛え、いつや不合理へトリップしたいという共通点に置いて、坂口とヴェイユをかつて並べた者だ。

  *

 デカダンには色々な形があるが、ぼくに馴染み深い二つだけをとりだしてみよう。
 勝手に名前をつけることを許していただきたい。”象徴派的デカダン”と、”無頼派的デカダン”である。ここを分けうる際の鍵は、不羈性・仮面性・好戦性なぞであろう。

  *

 前者はおそらく十九世紀仏蘭西発祥の生活態度であり、近代性に否を叩きつけ、中世欧羅巴、古代希臘、ペルシャなぞの近代文明的ではない時代性の表現・作風・思想へ憧れに従い恰も逆行、まるで社会との不適合を誇りとし、逃げるように荒んだ幻想世界へ埋没し、現実を唾棄するようにそれに背を向け、芸術と放蕩とクスリに溺れた。生産性に背を向け、こんな社会に良く貢献してたまるものかとでもいいたげに趣味的に閉鎖された芸術愛好に耽り表現することを誇り、「趣味に生きる我等、貴族的ディレッタント也」といいたげな嫌味な不遜さをむしろアピール、多くは借金亦借金、体調が悪くなってくること当然の生活であるから蒼白のこけた頬や痩せ細った躰、やつれた表情・憂いげな目元が容貌としてできあがってくる。その姿に不健全なる美をみいだし(この美意識は世紀末的で、亦ゴシックカルチャーにも影響を与えているだろう)、またやつれた感受性をつよく打つやつれた地獄の美を志向する。やつれた感受性は、やつれた美を愛する視力へ当人の眸を変容させるようにぼくは想う。求めていたのはかく破滅させうる悪書や悪酒、どこまでも主観的美意識を描いた、結局はロマン派的ともいえそうな不健全な頽廃芸術、そして男を破滅させる魔性の女、蠱惑的なファム・ファタルである──この女性像に果してリアリテがあるのが、ぼくには疑問であるけれども。
 興味をもたれた方は、ユイスマンスの『さかしま』を読んで、デ・ゼッサントの生き方、考え方を注視してほしい。あれは典型的とされている、というかあれの真似事をして体調を壊した芸術家は、十九世紀末にはとくに夥しいはずだ。いまになっても美大等で時々発見されるらしいが、定かではない。
 飽くまでぼくの考えであるが、その態度をした芸術家を例とあげると、程度や種類には相違あれど、仏蘭西のシャルル・ボオドレール、ヴィリエ・リラダン、ポール・ヴェルレエヌ、二十までのアルチュール・ランボオ(?)、英吉利のオスカー・ワイルドなぞである。
 日本にはいないように想う、というか「詩とデカダンス」という唐木順三の著作にあったが、文化の土壌がちがう為に日本人がやるのはナンセンスではないかと疑われる。大手拓二はボオドレールに多大な影響を受けているが、余りにも詩檀と無関係、詩によって世間と接する機会がなく、どことなしに犬死詩人らしい雰囲気がある。マラルメは態度でいうと高踏派的な印象があり、総合知識人のイメージのヴァレリーにはそういう生活態度を感じたことがない。ラフォルグは余りに慎ましすぎる。最もデカダンらしいといえるのはやはりヴェルレエヌではないだろうか。
 強いていうならだが、かなり発露の仕方や生活はちがうけれども──本人は青白い世紀末を嫌っていた──日本でいうと、三島由紀夫がすこし共通点をもっている。憧憬へのうごきといおうか、残酷な冷然硬質へのやつれた美的感受性といおうか、作風のデカダンスの立ち込める人工的な香気というか、そういうものがどことなく似ている。実際、少年期の愛読書の一つに、齋藤磯雄翻訳のリラダンの短編をあげている。

  *

 後者で一般に有名なのは太宰治、戦後、日本の昭和に沸き起こり外れた領域で蟠った、無頼派という一種文学的ギャング集団、正道へ対立する一流の野党──アンチテーゼという意味でかなりの意味をもつけれども、主流になれないという意味で──ともいえるひとびとが為した態度性を語ることにしよう。
 世間に背を向けて現実逃避し、理想・わが抱く美を求めつづけた象徴派的デカダンに対し、無頼派という人間たちはどこまでも人懐っこい。
 いわば他者や社会と関わりたくてかかわりたくて仕方がないタイプ、それ故に、非常な好戦性を有していたようだ。さまざまな作家、特に当時権威だった作家たちに牙を剥き(志賀直哉と無頼派はたしかに相性がわるかっただろう)、時代へ喧嘩をうりつづけ、社会の上層、そしてオトナ(石川淳の坂口安吾論的エッセイよりこの言い方を拝借)を疑い、批判し、アンチテーゼを叩きつけ、人性の根の領域から、人間・社会・歴史を、根っこから疑った。すべてのひとに付属した「人性」といういまだ在るか判らぬものを心から信頼──如何にも、これはシモーヌ・ヴェイユのいう”魂”、カミュのいう”人間性”にちかいように思われる──「人間は、みな、同じものだ」と虚無の息吐くように謳った。
 象徴派的デカダンたちはそのディレッタンティズムゆえに貴族趣味なところがあり、大衆を下にみて嘲ったが、無頼派はリベラルである印象、むしろ庶民に与する立場である(太宰治に限ってはかなりのうすら笑い的な優越感を感じるけれども)。
 織田作之助の「夫婦善哉」、坂口安吾の「白痴」にある、私欲のままに行動する下層で生きる人間の、人間臭い薄汚さをもつも人性に正直な弧の絡まり合う生活環境は、たとえば三島由紀夫の「音楽」のラスト付近に出てくる町に酷似しているが、三島が冷たい筆致で町と町のひとびとを軽蔑するように書いていたのに反し、この無頼派たちは愛情をもって描いている印象があった。かれ等は、人に付属する素朴なサガを、信頼していたようにやはり想う。
 しかしクスリ、酒、放蕩、恰も子供の衝動の儘のようにワガママな行動。ひとに飢えたかれ等は女性と狂ったように遊びまくり、やはり、頽廃的な生活を送った。「これが人間だ」、そうしわがれ声で呻くように。
 太宰治は重い心の問題を抱えクスリに溺れて愛人と自殺、明らかにヒロポンの打ち方の度が過ぎている織田作之助も夭折、田中英光はその迸る暴力と抑圧された性欲の匂いの濃ゆい滅茶苦茶私小説に矛盾しない生き方をし太宰の墓の前で腕を切りまくって自殺。ヒロポンを打って三日四晩書き殴って致死量のアドルムを飲み入院で済んだ坂口は例外的に四十九まで生き抜いた、「舌がもつれる」という、芸術家の死の刹那の言葉にしては平凡な、幾分かは滑稽な、ある種かれらしい肉体質の報告を遺して倒れ殆ど即死、これは躰の頑強さがとびぬけていたからであるように想う。
 かれ等のおおくはどこか愛着の問題を抱えていたように感じられ、精神的に余りに不安定な作家が多い。鬼のような自己批判・自己省察によって血まみれの手より掻きだされた人性追求の言葉たち、さながら、「人間なんてこんなものだ」と小説や生活で世間へ投げだしたような破滅的なうごきがしばしばみられたが、ここには、或るひとたちにとっての光があった。救われないという救いがあった。生きることを生きる勇気を、かれ等の文学は与えた。
 かれ等の文学は愛に飢えるも社会に適合できない者から愛好されている印象で、ぼくは作品だけでなく、無頼派の作家たちにも無頼派の愛読者の多くにも人間として好感をもちやすい。「無頼派」はほかにもいるが、「無頼派的デカダン」としてぼくがしっくりくるのは太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光。無頼派とみなされている作家で一冊も読んでいないひともいることはここで書いておかねばなるまい。無頼派扱いはされていないが、かれ等と交流があった詩人・中原中也もそうかもしれない、朔太郎も指摘していたように、すくなくともデカダンといえることは間違いがあるまい。甘ったれたアンニュイデカダンのような少年的態度だったが、如何にも好戦的で酒浸り、ボロボロの生活であった。中也がヴェルレエヌとランボオにもっとも強い影響を受けていたことは、「象徴派的デカダン」「無頼派的デカダン」双方の一領域がやはり重なりえて、結びつきえるのではないかと考えさせる。

  *

 象徴派的デカダンは、いわば仮面を美しく装飾し、重ねづけし、魂の歪みの個性を誇る、うす暗い気取り屋である。その作品は病気が謳われた美文調に装う文学ともいえ、病める眸によって視覚した地獄の美、或いは其処で鳴る病的な音楽をまるで象徴派的表現構造に磔にした。高踏派に影響を受けていることもあり、古色蒼然な表現・様式をこのんだ。

 翻って戦後無頼派的デカダンという連中、虚栄や縛られた言語を削ぎ落した裸を晒し全我で生きようとし、素朴な魂の価値を信じ愛した知的原始人、敢えて日本の伝統的な文章から離れた卑俗な言葉をつかった。生真面目に、生真面目に、”人間とは何か”という主題と格闘した。

 双方のおおくの作家に、破滅へ突き進む狂信的な異教徒的信念とエネルギーがみいだされる、その力は、肉体に付属した欲心の深みに宿るように想う。
 70年代のパンクスが主張した、”自分に正直であれ”という言葉がある。これはデカダンとは何かを解く鍵でもあるかもしれない、されどぼくはそう纏める気はない。意味のひろく包容力のある言葉は、苦手である。
 シモーヌ・ヴェイユならば、これ等のうごきをさせるものを「低劣な動機」というのではないだろうかと推測されるが、亦彼女が書いたように、そういうエネルギーは強力で、殆ど死ぬまで無尽蔵である時がある──残念ながら、デカダンの首領であるヴェルレエヌは力尽きたけれども。
 しかし、敢えて謳おう。かれ等のデカダン生活は、破滅は、けだし天晴であった。

  *

 わがデカダン観については結構書いたつもりだが、もう少し付き合ってほしい。犬死とデカダンを整理するうえで、デカダンとは何かを再び考えなければならないのである。
 デカダンの意味とは、獲得なのである。
 逆向きの獲得のうごきに裏づけられている生き方、それがデカダンなのである。
 象徴派的デカダンは近代からの逆さま、神秘と幻想へのうごきがある。それが病的な美意識に描かれていることに、「古いタイプの俺たちは近代に在る、それが俺たちを病的にした」というような時代性(相互関係があるという意味で)が宿った。
 従って、象徴派的表現に影響を受けるのは構わない筈だが──というよりも象徴派は現代アートのはしりであるという意見もある、影響を受けないのがむずかしい──、令和に在る日本人にはその時代のその国の宿す時代性と対応した作風がかならずや必要であり、ここに、ボオドレールとランボオの主張したモダニテという言葉の意味が重要になる。たとえば世紀末とは爛れたオレンジと蒼褪めたブルーの色彩を有すが、現代だと、ぼくは象牙色にうつろい真白と蒼と銀の風景に青が射し、或いは真紅が一条刺すようなイメージュを抱いているため、その色彩を文章表現に象徴させている。
 戦後無頼派的デカダンは旧日本からの逆さまで、個の欲心追求肯定のうごきであるのではないか。
 この点で、放擲のうごきを自己に課す犬死詩人との、明らかな相違がみられるのである。
 例を「さかしま」からとるが、かれは先ず経済力と貴族の称号があり、棄てたのは世俗的生活と健康な体調くらい、夥しいアートを収集し、ひとを軽蔑し、陥れ(失敗したが)、金銭を費やして、自尊心はようよう昇り、大好きな夢と幻想に憩いをえる。消耗してゆくのは金と健康であった。
 デカダンには、デカダンのプライドがあるのである──犬死詩人には、自恃がある。後述。
 象徴派的デカダンにおいては、デカダンだから偉いのだという裏返しの虚栄、軽蔑や暴言を光栄とみなすプライドがある。この自恃は大きく、そして無数にあるのである。無数にあるというよりは、つぎつぎと獲得してゆくのである。ボオドレール先生の御尊顔をみてほしい、随分に倨傲な顔をしている。荒んだ眼元がかれらしいが、その落ち窪んだ眼がきっとこちらを睨みつけていて、口元には努力家の凄みがみられ、サディストらしい冷酷な雰囲気もあり、いわゆる偉そうである。服装は完璧、大仮面家、大美意識家、自己韜晦の専門家であるかれ、さすがのファッションセンスだ。ぼくはむしろこういうみずからを高貴と確信する倨傲さに頗るクールな印象を受けるが、これはけっして犬死詩人の顔ではない。

 無頼派は、たとえば坂口は「売れたい、いい生活がしたい、モテたい」というような野心を自然な感情としてとらえ、それに蓋をするな、うじうじそれのない生活を呪うな、それの獲得のために争えというような肉体質な言葉を語り、「人生はつくるものだ」、と上へ上で積みあげるイメージの勇壮な人生観をもっていた。ぼくはこの考えをじつは犬死という概念に包含してみたいのだが、坂口のメッセージそのままの意味だと、きっと含みえない。深い野心を達成するためにほかの欲望を叩きのめすストイックな男であったが、基本的には戦い獲得する強い人間であった。対談で「恋人は何人もいる」とさらり豪語していたのが、ぼくには新鮮ではあった。

 それでは、犬死のうごきとはなにか。
 再三いうように、剥ぎ落し、抛るそれである。核を、疵に磨くそれである。
 犬死をめざすから俺は偉いだとか、売れないから才能があるんだとか、そういう意識を剥ごうとする、いたみによって。自己省察、注視、理不尽に跳びこんでズタズタにわが身を傷つけることによって。人生は犬死詩人にとってもつくるものだが、上へ積みあげるのではなく、湖に孤独王国を月影として逆さまで沈めてゆくのである。
 理不尽というのは必ずしも人間社会でなくてもいい、森でも海でも、エミリ・ディキンソンのように部屋でもいい。欲望を叩きすえられ肉欲が消耗してある種奴隷化した、しかし真の主人と繋がりえる貞節のみを守護したために、現実を仮の主人としてしか従属していない憧れに腕を振る人間が、理不尽に後頭部をぐいと押さえつけられながらも唯一つの憧れをみすえ、昇るうごきで摺り堕ちてゆく、剥がれ、剥がれ、人間の核である魂、睡る水晶が漸く光をためいきし、歌う。犬死とは、その刹那に、その果てにある。それが永遠を照らすのではないという危険な感受性に賭ける愚か者、そいつを、犬死詩人という。
 何を獲得したか──何も獲得しやしない。
 或いは無垢と信頼へ、還ることができたのみだ(判らない)。
 犬死とデカダンスは重なる領域があるのみで、全くもって別のものである。
 以上、要検討。

  *

  甲斐なき努力の美しさ、我は、その美に惹かれた。
      ──太宰治「逆光」



  3 犬死詩人列伝

 犬死という報われぬ死によって包含された生き方をかんがえるうえでぼくが問題にせねばならないのは、中年以降殆ど実家から出なかったという伝えのあるアメリカの詩人、かのエミリ・ディキンソンであろう。
 彼女の詩は死後抽斗から発見され、家族ですら彼女が詩を書いていることを知らなかった。ぼくの日常会話でせいいっぱいの拙い英語力であってもある程度は読めるくらいの平易な言葉のなかにほうっと光る神へのひたむきな憧れ、素朴にして壮麗な、あるいは限りなく単純で少ない線に引かれた舞踏の脚の曳く後光のような比喩表現、秘められたユーモアの愛らしい個性なぞをぼくなんかは愛読していて、薄さもあって出掛けるときに携える本のなかでも彼女の岩波文庫の詩集は頻繁にもつほうであるけれども、彼女ほどに慎ましく、抑制亦抑制の生き方をした詩人もそうはいまい。たしかに死後アメリカ文学・基督教世界における大詩人となりはやエミリの詩は古典となっているのだけれども、然し、一度プロの詩人にみてもらい余り褒めてもらえず──恥ずかしくなったのか、或いはちがう理由なのかは解らないが──その後来客に編集者がいた関係で(?)数回はなにかに載ったものの、書いては抽斗に仕舞うをくりかえし出版の意思を示さなかったのにもかかわらず、傑れた詩を書き残したことは人間にはまるで稀有なことである。エミリのような詩人の作品がまだ何処かに睡っているかもしれないというのはロマンチックだが、既にして燃やされているのならば殊更に美しい。

 エドガー・アラン・ポオという詩人がいる。推理小説をはじめて書いたことで知られるが実質文学におけるありとあるジャンルで卓越した幽玄きわまる個性的な作品を遺したかれ──前述の象徴派に多大な影響を与え、崇拝された──愛する妻を喪った悲しみ、作品が売れず経済的にくるしい状況等に耐えられなかったのか、アルコールと阿片に溺れ路上で斃れた。儘に病院へ担がれて死んだ。然り。路上に斃れるとはまさに犬死的で、けだし無残な野良犬の死に方である。ぼくはこの死に方に荘厳な風景をつよい暗示として視るのであるが、しかし、かれは若い頃に作家としてデビューをし一時期はある程度流行もした、作品を書き上げれば載せてくれる出版社もあり、批評家から酷評されていたがつまり相手にされていたということ、みずからが編集長となって雑誌に載せるという機会にも恵まれていた。しかしみずからによって抛ったのではないがあらゆるものが剥ぎ落されていきむごたらしい死へ往きついて了ったかれの生を、そこまで破滅へ突き進まざるをえなかった狂気を、ぼくは尊敬する。かれは最期に、おそらくやすべてを剥奪された。傑れた作品は、数十年歴史に睡った。これは前述の已むにやまれぬ犬死であるが、たしかに、犬死的とはいえるだろう。

 翻ってエミリは流行どころか出版すらしていない、自費であっても、である。
 エミリに「自分は世に出る才能はない」という意識のようなものがあったのかは解らない。だが、孤独な生活に矛盾するような形で、その内奥に「何かと結びつきたい」「愛されたい」というひそやかな悲願があったのは詩を読めば想像できる。それを、折る。断つ。抑制し、目をとぢる。そして、一つのそれとの結びを、さいごまで俟つ。犬死とは空と連続するという妄念を連想させる死に方であり、ご褒美を最後にとっておくタイプの人間の志向であるかもしれない。
 それをすら期待せず死を迎えうるというのは不羈の絶望に立った稀有な詩人の為せること、死に方は不明だが中世詩人且近代的なニヒリスムを連想させるフランソワ・ヴィヨンがそういう印象である。泉の傍らで喉が渇いて死んでやる──絶対的なものを信じて頼って気楽になるくらいならニヒルの懐疑の渇きのままに死んでやる、という意味だと思っている──という歌は、けだし勇壮である。
 犬死詩人とは、けっして、ニヒリストではない。あやうく、原初にとどまりやつれた容貌で野原を彷徨う、幼稚なロマンチストである。



  4 積雪に斃れる無垢を歌う

 ここに、ぼくは犬死を成立しえる上で、絶対に勘定にいれなければならぬ条件を提示する。
 犬死とは──少年的で、少女的である。
 王子に恋した燕、青年を愛したナイチンゲールを、少年的・少女的でないと誰がいえようか? それを守護していないと嘲うひとにぼくは与しない。それを磨きさえし清楚を疵に剥いて清ませ、清らかな空と射しちがえてもいいという清らかな死への憧れを、あなただけはどうか笑わないでおくれ。
 犬死とは、けだし清楚な生き方の結末だ。積雪に一条の水音がしたたる、しにぎわの鶴の幽かな叫びさながらの音楽と光に終わる一種の劇だ。染まることを拒みつづけ、むきだしの神経をいためる「少年性」に佇み、不在の「少女性」へと争い、無垢へ剥き、睡る水晶はまっさらな光を毀す、それが、まっさらに剥かれた空より射す光と結ばれる、或いは刺しちがえる。して、死ぬ。

  *

 少年とは、佇むひとである。
 その激痛を与える閉ざされた領域にうずくまって閉ざされることをえらび、躰をうごかさず、そこで肉から突き出るような怒りにふるえ、憂いにいたみ、憧れつづける。そこに、「少年性」がある。

  *

 少女とは、争うひとである。
 けっして手にできぬ「少女性」を求め疵を負ううごきに、少女の聖性が血と綾織り、肉を駆ける。いたまなければ、それは月影として浮ぶことができず、しかも、それはむろん影にすぎず、それを投影させる月は、無い。彼女の夢想の裡で、しずかに悲痛に磨かれるのみだ。

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 つまり少年性というものは、時々はみられうる。少女性をもつ程には苦しくないからであろうかと推測され、亦、ほかの要因もあって一時期は通過することが少なくないであろう。幾らかの少女だって、この領域をとおりすぎる。学生時代のぼくの周囲にはバンドをやっていたり太宰治を愛読するような学生が多かったのだが、けっこう、そういう少年がいた。サリンジャーやフィッツジェラルドの著作に、それが淋しく切なく歌いあげられているようにおもう。夭折したロックスターなぞは、その領域から出られずに肉が先行して果てたといえるかもしれぬ。二十七で死にそう、ぼくはかれ等からいやというほどにいわれていた。
 だが、“少女“というものをみたことが、ぼくには殆どない。
 それはともすれば残酷な行為をしえて、幻想風景のなかに薔薇さながらの血潮を浴びて笑う、無垢のそれとして表象されることがある。夜空が墜落したような群青の硝子の風景で、魔法少女のコスチュームを着て鏡へ鉈を突き刺して、水音のように澄んだ声で泣き喚くようなあやうさがある。
 鬼の内省によって少女性をえがいた文学に、危険な悪書ではないものを、ぼくは、まだ知らない。ゴシックやホラーや幻想小説の形式をおおくとっている。おおく血と硝子と御伽噺の香水の薫がする。唯一のハッピーエンドは少女が大人になったもので、つまりは少女性の崩壊こそが幸せな路、たとえば倉橋由美子の「聖少女」はハッピーな終末で、非情にもぼくは落胆したくらいだ。
 少女性も少年性も病的なものだが、より危いのは少女性ではないだろうか。少女性と現実との対決は、余りにもくるしい。そこに、独特の病める美が表象する。
 病的に透明、果敢なげに尖鋭。
 炎えあがる不在、月に腕ふる無為な血と肉、それと綾織る青き聖性の幻。壮麗な硝子に創負う魂の鮮血の、豪奢な素材を夥しく放り入れ燃えあがらせた故に世にも透明な香水の薫。高潔なぞではない。低潔の美──そういうものが。

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 三島由紀夫は少年期伊東静雄を敬愛していたが、詩を携えて訪れるとけなされて帰らされて了った。それ以来伊東をきらっていたようだが、「わがひとに与ふる哀歌」と「春の雪」の結末の酷似、まっさらな積雪に斃れる少年の清楚な印象の死、かれ等おなじ憧れを抱いていたのだという感慨を、ぼくは感じとる。積雪に斃れるというのは、けだし美しい犬死だ。
 聴いてください。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。瑕負うに伴い、磨くものだ。
 語ってきた「少年」「少女」は、通常の少年と少女とは概念が異なる。ぼくは前述の少年少女を「概念-少年」「概念-少女」という名をつけている。何故といいこれ等の概念は年齢の問題ではない、精神の問題であるから。たとえば中学の教室を眺めてみて、殆どそういう人間は発見されないだろう。淋しいことに、おおくが外れ者で、外れ者でなくても、不可視の痛みを抱えている。
 少年性・少女性を守護し、無垢へ剥がし落しつづけるという生き方は、大方精神をやつれさせる、躰は病む。荒んだ眼元の奥の眸が、さながら淋しいくらいに澄んでいるよう。そんな容貌ができあがることが、多いだろう。
 かれ等、彼女等は死とスレスレの領域に片足で爪先立ちであって、ふらりと揺れて自死をえらぶことも少なくはない。魂はズタズタに疵ついているから、ふっと刹那の美へ身投しえるだろう。美という観念は、「我」をせつなで投げだすことがあるのだから。
 かれらの少年性・少女性は蝶のように綺麗で果敢なげ、大人の手から逃げつづける美のような観念だが、じつは、八本脚の異端者なる種族がなかにはいるのかもしれない。
 若しやこういったひとびとは、少年性・少女性と決別したくないかた佇み争うのではないのかもしれない──そういう風にしか生きられないひとが、いるのかもしれない。
 犬死に絶対的に必要なものは貞節である。そして、少年性と少女性の守護である。それは行動しないという行為を守護しながら、むしろ傷を負ってでも行動しつづける覚悟の貫いた先の果ての、無為にして自己本位の極みであるluxuryなそれである。



  6 絶筆

 シモーヌ・ヴェイユの死亡診断書より。
「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱。患者は精神錯乱をきたして食事を拒否、自ら生命を絶った。」

犬死論

読んでくれてありがとうございました。生き抜こうね。

犬死論

散文詩風エッセイ 犬死観

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-08-26

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