『異国日記の一部分。』

半年間ピアチェーレをお休みしている間に心の整理のために個人的に書いた、まちの混乱時の振り返り日記です。


日記の名前は『異国日記。』
日記の宛名は小原さんへ宛てたものでした。
小原さんへの報告書のていで書かれています。

パソコンが古いためか結構書いたものが消えてました。笑
遺っていた一部を、ここでご紹介します。
休んでいる間わたしは、こんなことを考えていました。

(*´Д`)

抽象学のこと。

今日はわたしの抽象の説明をしたい。
抽象とは様々な具体例から本質を抜き出す、という作業である。
具体とは様々な事実、ケースをよく観察し情報として蓄えておいて個別に覚えておき、適宜取り出すという作業である。
具体無しの抽象はありえず、抽象無しの具体は無味乾燥である。


わたしは無意識的にせよ意識的にせよ、皆様に通じるような、合致するような抽象をしている場合は、具体例をよく観察し、情報として日頃たくわえていたものが、わたしの言語をとおして抽象化され、人々に伝わっているケースが多いのではと考えている。


つまり、一部の人々へよくひっかかるわたしの抽象は、わたしが日頃言語化しない具体例から、言語化した具体例(パロマ作業や◯◯さんについて、組織風土や集団心理について)を情報処理したものたちが、わたしの個人的な視野をとおして、抽象化され、人々へ向けて言語化されて改めて伝わるという過程をふんでいるのである。


ここまで大規模な登別市内市外の約3年ほどの混乱はいろいろな説明が可能である。
それはこの『異国日記。』だけを読んでも、今までのわたしのエッセイ、小説、詩を含む作品たちを読んでも、多角的に企業を視るということが可能である。


わたしの抽象は具体例という数多の自分の目で見た体験、知識、情報を含む。
その具体の数々は、わたしにとっては財産である。
そして具体を含んで抽出された抽象はわたしにとっては(皆様に通じることよりも)ギフト、贈り物である。


わたしの抽象がなぜ全員ではなくても一部の皆様に通じたのか、通じるのか。
それはわたしの抽象は具体例の無い想像を超えられない抽象ではなく、十年以上この町に住み、ある企業のそばで地道に働き続けた生の労働者のたったひとつの声だったからではないか。
わたしは自分自身の抽象と具体の行き来を振り返り、そう思っている。


ちなみに、今回の混乱を説明可能に落とし込む簡単な全体的構図を述べておこう。
ピラミッド型の構図である。


組織図ではよくあるピラミッド型だが、ここでは人ではなく具体例や抽象化が注目される。
まずピラミッドの下層には各々の人々が体験する具体例、ケースがずらりと並ぶ。
その具体例の上、ピラミッド中層にわたしの小さな抽象の考えが各具体例、各ケースを小さくまとめるかたちで存在する。


さらにわたしの出した抽象の上、ピラミッド上層には組織上層の各々の具体例、ケースが並ぶ。(もちろんわたしと組織上層は意思疎通はしていないが、組織上層がわたしの抽象に着目し自らの具体例やケースに照らし合わせることは今まであったのかもしれない)
続けよう。
下層をまとめたわたしの抽象に一部の上層が注目し、なんらかの要因でそれを採用してしまった場合はその一部の上層は判断をくだす。
その判断はわたしの抽象がつかえるか、つかえないかである。


抽象として想像ではなくきちんと成り立っているのかという判断を一部の組織上層は個々で判断する。
(これは個人個人で私的に、ということである)


組織上層内で成り立っていれば、組織上層はわたしの抽象と自分たちの個々の具体例やケースを結びつける。(反応する、ということでこれがわたしにとってはヒントの提供となる)


わたしはさらにその組織上層の反応という具体例を情報処理し、上層の抽象を見つける。(データから本質を抽出する、ということである)
その抽象が良い方向性であればわたしは結果を見守るだけであろう。
前例誕生など、悪い方向性であれば、わたしは上層から抽出した抽象をなんらかのかたちで周りに訴えるだろう。
もしくは抽象学としてさらに発展させるよう個人的に観察を続けるだろう。


このように今回の大規模な市内市外の混乱の全体図はピラミッド型でざっくりと説明ができる。
もちろんこのピラミッド型で説明したいのは、具体例や抽象の配置であり、組織の中で誰が一番強いのか、偉いのかを説明するものではない。


わたしはこの具体、抽象の行き来を個人的に抽象学とラベリングしてみた。
同時にこうも思う。


単なる想像ではない抽象学は人々を活気づかせもするし、そういうつもりがなくても逆に傷つけることもあるということ。
それは抽象化するという行為自体が思想のひとつであるからだとわたしは考える。


政治でも宗教でも世の中は思想と思想のぶつかりあいが多々見受けられる。
ただ、わたしは自分自身の抽象が役に立たず、新たな構築、新たな抽象が必要になりうる場合も現代においては、あると考えている。
抽象学には終わりが無いけれど、わたしの興味の対象も時代により、移り変わる。


しかし、あるひとつの物事(組織や課題など)を多角的に観察して具体例を情報処理し抽象するという行為は自転車に乗る技術とたぶん似ていて一生ものだと思われる。
だから、このまちの混乱時に獲得できたわたしにとっての抽象が財産でありギフトなのだ。


今回の話には参考文献がある。
PHPビジネス文書
細谷功の具体抽象トレーニングという本である。

以上、報告である。

『異国日記の一部分。』

『異国日記の一部分。』

休んでいる間振り返りの日記の一部です。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-08-19

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