シン『どん底先生』第二章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)
シン『どん底先生』第二章(全十二章)
(汲み取り式からAIアプリまで)
第二章 希望
――どん底から、一枚の切符が降ってきた
昭和55年、名古屋大学を卒業した。
卒業証書を手にしたとき、私は、自分の人生がこれから順調に進んでいくものだと思っていた。
大学を出た。
教育学部を出た。
だったら、次は大学院だ。
その先には研究者になる道がある。
少なくとも、そんな未来をぼんやりと想像していた。
ところが、人生は、そんなに素直ではなかった。
大学院に落ちた。
不合格通知を手にした私は、しばらく動けなかった。
そして、もっと困ったことに気がついた。
就職活動を一つもしていなかった。
大学院へ行くつもりだったから、就職先など探していなかった。
「これから、どうするんや……」
急いで新聞の求人欄をめくった。
そこで見つけたのが、愛知県刈谷市の小さな塾だった。
「塾の先生か」
教育学部を出ている。
教えることならできる。
そう思って応募した。
そして、採用された。
私はアパートを借り、刈谷で新しい生活を始めた。
名古屋大学を卒業したばかりの青年。
これから社会人として羽ばたいていく。
そんな気持ちで、新しい部屋のドアを開けた。
そして、トイレのドアを開けた。
私は固まった。
「……ボットンや」
汲み取り式だった。
当時の刈谷には、まだ下水道が整備されていない地域があった。
名古屋大学を出て、私がたどり着いた先は、汲み取り式トイレだった。
便座の前に立ったまま、私は思った。
「ああ、俺、都落ちしたんやな」
今なら笑える。
でも、あのときは笑えなかった。
大学を出れば、人生は少しずつ上向いていく。
そう思っていた。
ところが、卒業した瞬間から、現実は私の足元をすくった。
学歴があっても、人生の道筋までは用意してくれない。
そのことを、私はまだ若かったから、うまく理解できなかった。
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それでも、私は諦めなかった。
大学院に落ちたことが悔しかった。
「もう一回、受けたる」
そう思った。
今度は京都大学の大学院を目指した。
名古屋大学時代の恩師に推薦状をお願いした。
先生のところへ行った。
推薦状を書いてほしい。
そう頼んだ。
先生の表情は、あまり明るくなかった。
私は何となく、その理由が分かった。
「俺のところでは不満なのか」
そう思われたのかもしれない。
でも、私は京都大学へ行きたかった。
自分がどこまでやれるのか、試してみたかった。
そして試験を受けた。
フランス語の試験が終わった。
午後にも試験が残っていた。
本来なら、そのまま受けるべきだった。
ところが、
「もう、ええわ」
と思った。
私は帰った。
その日の夜、アパートで一人になった。
悔しかった。
情けなかった。
何のために大学まで出たのか。
何のために勉強してきたのか。
考えれば考えるほど、自分が惨めになった。
そして、泣いた。
あの頃の私は、まだ自分の人生をどう扱えばいいのか分かっていなかった。
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その後、名古屋駅前の教材会社に就職した。
「今度こそ、ちゃんと働こう」
そう思った。
ところが、ここでも長くは続かなかった。
社長と大喧嘩をした。
そして、半年で辞めた。
大学院には入れない。
会社にも馴染めない。
何をやっても続かない。
私は実家へ戻った。
26歳。
自分で稼げない。
親に食べさせてもらっている。
周囲の同級生たちは、それぞれ社会人として歩き始めている。
それなのに、自分は何をしているのだろう。
情けなかった。
悔しかった。
そして、腹が立った。
自分自身に腹が立った。
社会に腹が立った。
「このまま終わってたまるか」
そう思った。
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その頃、私は一つのことを考えるようになった。
日本にいても、自分の人生は変わらないんじゃないか。
だったら、一度、日本の外へ出てみよう。
アメリカへ行ってみよう。
今思えば、かなり無茶な発想だった。
お金があるわけではない。
英語が完璧に話せるわけでもない。
将来の保証もない。
それでも、
「行けば何かが変わるかもしれない」
と思った。
自分の金で行けないなら、人の金で行けばいい。
私は留学制度を探し始めた。
フルブライト。
民間の留学制度。
片っ端から応募した。
そして、
落ちた。
また落ちた。
不合格通知が届くたびに、部屋の中に紙が増えていった。
それでも応募した。
最後に一つだけ残った。
交換教師プログラム。
滞在費は格安。
給食も付いている。
「これなら行ける」
どん底にいた私のところへ、ようやく一枚の切符が降ってきた。
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アメリカは、私を放っておいた
ユタ州ソルトレークシティ。
空港に着くと、ホストファミリーのブレアーさんが笑顔で迎えてくれた。
奥さんも優しそうだった。
「よかった」
私は胸をなで下ろした。
これで何とかなる。
そう思った。
ところが翌朝、目を覚ますと――
家の中に誰もいなかった。
「……?」
私は待った。
誰も帰ってこない。
夕方になって、ようやくブレアーさんが帰ってきた。
私は尋ねた。
「朝、誰もいませんでしたけど……」
すると、ブレアーさんは不思議そうな顔をした。
「君は好きな時に好きなことをすればいい。それが最高のおもてなしだと思ったんだがね」
私は言葉を失った。
日本なら、お客さんを一人にするのは失礼だ。
ところが、ここでは違う。
自由にしてあげることが、おもてなしだった。
アメリカは、初日から私を放っておいた。
これが私のアメリカ生活の洗礼だった。
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ローガン中学校へ行っても、同じだった。
職員控室に座っている。
誰かが仕事を指示してくれるだろう。
そう思って待っていた。
ところが、誰も来ない。
カフェテリアの食券のことを校長先生に尋ねても、
「え? 知らん」
という顔をされ、教育長へ電話をかけ始める。
私は、職員室の片隅で途方に暮れた。
そして、気がついた。
「待っとっても、誰も俺を見てくれへんのや」
日本では、黙っていても誰かが世話をしてくれることがある。
ここでは違う。
自分で動かなければ、何も始まらない。
そこで私は、作戦を変えた。
なりふり構わず、自分を売り込んだ。
「私は日本文化が教えられます!」
「空手の黒帯です!」
「ヌンチャクもできます!」
職員室には、千代紙で折った小さな鶴を並べた。
先生たちの名前を漢字で書いた。
「名前、漢字で書いたろか?」
先生たちは喜んでくれた。
そして、全校集会の日が来た。
私はステージに立った。
ヌンチャクを手にした。
「ヌンチャク、キャン、ドゥー、イット!」
ブン。
ブン。
ブン。
生徒たちが、
「オー!」
と立ち上がった。
翌週、地元紙にも大きな写真付きで載った。
いなべから来た日本人の青年は、ローガンでちょっとした有名人になった。
今考えれば、何とも無茶な自己紹介だった。
でも、私はそこで初めて知った。
自分から一歩踏み出せば、人は振り向いてくれる。
それは、大学院に落ちて以来、自信を失っていた私にとって、大きな発見だった。
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アメリカでは、ほかにもいろいろなことが起きた。
スーパーでカメラを落とした。
「もう戻ってこないだろう」
と思った。
ところが、カメラはそのまま戻ってきた。
私は驚いた。
そして思った。
「日本人だけが正直なんやないんや」
週末には校長先生がセーリングに連れて行ってくれた。
ボーイスカウトのキャンプにも参加した。
最初は、
「何か裏があるんやないか」
と疑った。
ところが、日本語を話せる宣教師から、
「彼らは、良いことをすれば死んだ後に神様に褒められると、本気で信じているんだ」
と聞いた。
私は宗教について詳しかったわけではない。
ただ、人間は、自分が信じているものによって行動するのだと思った。
そして、自分自身に問い始めた。
「俺はいったい、何を信じて生きているんやろう」
このときは、まだ答えがなかった。
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「日本人はアメリカを怒ったの?」
忘れられない授業がある。
社会科の授業だった。
一人の生徒が、私に尋ねた。
「ミスター・タカギ。広島に原爆が落とされた時、日本人はアメリカを怒ったの?」
教室の空気が変わった。
私は言葉が出なかった。
原爆。
広島。
日本。
アメリカ。
その全部が、一瞬にして自分の目の前に集まってきたような気がした。
同席していた先生が、私を助けようとした。
けれど、その少年は私の顔を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「ミスター・タカギの顔を見たら、なんとなく分かったよ」
その言葉が、胸に残った。
言葉で説明することだけが、コミュニケーションではない。
人と人が向き合えば、言葉より先に伝わるものもある。
私はアメリカで、それを教えられた。
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そして、英語についても、私の価値観は大きく変わった。
日本で英語を勉強していた私は、難しい単語を知っていることが英語力だと思っていた。
ところが、アメリカの職員室で先生たちが使っている英語は、驚くほど簡単だった。
親しくなったアランに言われた。
「お前の英語は綺麗やけど、ビッグワードを使いすぎなんや」
私は驚いた。
受験英語で必死に覚えた難しい単語。
複雑な構文。
not more than と no more than の違い。
そんなものは、日常会話ではほとんど出てこない。
アメリカで使われているのは、もっと簡単な英語だった。
帰国後、私は英検一級を受けるために過去問を買った。
知らない単語や表現が出てくる。
以前なら、
「もっと頑張って覚えなければ」
と自分を責めただろう。
でも、もう違った。
ネイティブに聞いてみる。
「これはどういう意味?」
すると、
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語やに」
と笑われた。
私は苦笑した。
日本では「覚えろ」と言われる。
本場へ行けば、
「そんな英語、誰が使うんだ」
と言われる。
私はそこで初めて、
「知っていること」と「使えること」は違う
と実感した。
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帰国して、またゼロになった
三か月のアメリカ生活を終え、私は日本へ戻った。
正直、少し自信がついていた。
名古屋大学卒。
アメリカ帰り。
英語を教えられる。
「これなら仕事はいくらでもあるやろ」
そう思った。
名古屋にある予備校、塾、専門学校へ履歴書を送った。
一社。
二社。
三社。
七校。
私は返事を待った。
ところが――
来ない。
一校も。
七校すべてから、
返事がなかった。
全滅だった。
私は、また実家へ戻った。
26歳。
アメリカ帰りなのに、仕事がない。
大学院にも入れない。
会社にも馴染めない。
日本へ帰ってきても、必要としてくれるところがない。
私は思った。
「じゃあ、俺は何をしたらええんや」
そこで、アメリカでの経験が蘇った。
待っていても、誰も助けてくれない。
だったら、
自分から動くしかない。
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私は、英検一級を取ることにした。
自分の英語力を証明するものが、日本には必要なのだと思った。
そして、英検一級を取得した。
すると、状況が変わった。
今度は、予備校や塾、専門学校から返事が来るようになった。
コンピューター総合学園HAL。
名古屋ビジネス専門学校。
河合塾学園。
名古屋外国語専門学校。
私は、そこで非常勤講師を務めるようになった。
そして、その仕事は14年間続いた。
後になって考えると、面白いことに気づいた。
私が一緒に働いた英語講師の中には、英検一級を持っていない人もいた。
旧帝大卒でない先生もいた。
つまり、
「資格がなければ雇ってもらえない」
と思っていた私の見方そのものが、間違っていたのだ。
ただ、あのときの私は、資格が必要だと思った。
だから取った。
そして、その資格のおかげで仕事が来た。
人生というのは、正解を知ってから歩くものではない。
分からないまま歩いて、後になって「あれが道だったのか」と気づくものなのかもしれない。
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非常勤講師として働きながら、私は受験英語を少しずつ離れていった。
英作文も面接も、アメリカで使っていた英語で対応した。
難しい単語を並べるのではない。
中学生レベルの英語を使って、難しい内容を表現する。
それが、私にとっての英語になっていた。
けれど、日本の受験英語は変わらなかった。
高校入試。
大学入試。
参考書。
take it for granted that。
not until。
昔から変わらない世界。
私は、その世界とアメリカで知った「生きた英語」との間に、ずっと違和感を持つことになる。
その違和感は、後に私が英語を教えるときの大きなテーマになった。
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そして、私はもう一つの道を歩き始めていた。
塾だった。
26歳の私は、実家近くのアパートの一室で小さな塾を始めた。
立派な校舎などない。
大きな看板もない。
ただ、教える場所がある。
そして、私がいる。
最初は、それだけだった。
ところが、
「あそこにアメリカ帰りの先生がいるらしい」
という口コミが広がった。
一人。
また一人。
生徒は増えていった。
30人。
60人。
100人。
気がつけば、アパートの一室では収まらなくなっていた。
隣の部屋から苦情まで来るようになった。
壁が薄い。
生徒が多い。
授業が終われば、人が動く。
当然だった。
私は、教室を見回した。
生徒たちがいる。
机が並んでいる。
先生たちが教えている。
私は思った。
「よし。自分の城を建てよう」
アパートの一室から始まった小さな塾を、自分の建物にする。
もっと生徒を受け入れたい。
もっと大きなことがしたい。
そう思った。
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銀行へ行った。
融資の話をした。
そして、私は一枚の契約書を前にすることになる。
そこに書かれた金額を見た。
一億円。
一億円。
それまでの私にとって、一億円など現実の数字ではなかった。
テレビの中の数字だった。
大企業の数字だった。
ところが今、その金額を、自分が借りようとしている。
怖かった。
もちろん怖かった。
もし生徒が来なくなったら。
もし経営に失敗したら。
もし返済できなくなったら。
それでも私は、
「やれる」
と思った。
26歳。
若かった。
そして、若かったからこそ、怖さを振り切ることができた。
契約書を前にした。
ペンを持った。
名前を書く。
最後に、ハンコを取り出した。
朱肉につける。
そして、
ポン。
紙の上に、赤い印が残った。
一億円。
そのとき私は、
これが自分の人生を大きく変えるハンコになることを知らなかった。
塾が大きくなる。
生徒が増える。
先生も増える。
そして、私は「経営者」になっていく。
その一方で、
家族との関係も、
教育に対する自分の信念も、
少しずつ、この一億円の重さに巻き込まれていく。
私はまだ知らなかった。
成功だと思っていた道の先に、人生で最も苦しい選択が待っていることを。
シン『どん底先生』第二章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)