残業帰宅2
前進することには興味がなかった。世間が前進を強要するから、それに従って不細工な前進を自分に強いているだけだ。だが、前進に逆らって後退することで自分のアイデンティを誇示するようなこともしたくない。社会やら権威やらに安易に唾をはきかけて反逆者を気取るくらいなら、システムの中にとどまって、システムを維持するために働いて、システムの中で静かに死んでいく方がよほど価値のある人生だと思う。
前進するにしても、後退するにしても、歩んでいる道は同じなのだ。世間が僕たちに歩めと勧めてくる道は何なのだろう?自分が今歩んでいる道はどのようにして作られて、なぜ歩むことを強要されるのかを考える方が、がむしゃらに前進、または後退するよりずっと意義のあることだと思う。自分が踏みしめている道に疑念を感じながらも、その道を歩んでいくのは苦しいことだが、続けなければならないのだろう。
知性を否定しようとする空気が世の中に蔓延している。僕も逆らうことなくその空気を存分に吸って、知性の劣化に貢献している。みんなもっと馬鹿になればよい、もっと優しくなればよいと思っている。
知性を伴わない人道主義が社会全体に巣食っている。みんなつらい思いをしたくないだけなのだ。傷つきたくない、責任を背負いたくない、それだけのことだ。責任と苦痛から逃れたくて、みんな笑みを浮かべて、できるだけ人に優しくしようとしている。いたわろうとしている。深い虚無と絶望を抱えている事実からは目をそらして、無機質な労働に明け暮れる日々は続いていくというのに。
奥底に潜んでいる情念にはもはや手が届かなくなっていた。もう日々の仕事に明け暮れるだけで精一杯だった。枯れ果てても前進するしかない。干からびた情念に水をやることは許されず、ばかばかしい計算に没頭しなければいけない。
情念は腐りきって、二度と生気を取り戻すことはないだろう。これからの人生で、無意識に押し込められた病的な感情が突如暴発して意識の世界まで上がってきて、僕の生き方を根本から狂わせるような都合のいいことは決して起こらないだろう。僕は相変わらず耐え忍ぶ道を選ぶのだろう。耐えて耐えて最後まで耐え尽くすのだろう。忍耐の石膏である。労働者の鏡である。もはや書くことすらままならない。どうにでもなればよい。感情が著しく鈍磨している。結局僕には書きたいことなど何もないのだ。
システムの中で生きていくことを義務づけられ、日に日に精気は奪われ、狂気は飼い慣らされ、情念は朽ち果てていく。
仕事なんてすぐに辞めたいと思っていた。誰も好きになれなかったし、誰も信用していなかった。働くのは大嫌いだった。一日中家で寝ていたかった。何もやりたくなかった。積極的に自分から動くなんてまっぴらだった。コミュニケーション能力なんて磨く気はさらさらなかった。ポジティブに生きていることを見せびらかす人間を心底軽蔑していた。
こんな感じのだめ人間だったけど、それでも仕事はやらなければいけなかったので、渋々続けていた。すぐに辞めるという選択肢もあったけど、気が弱くて臆病だから、そんな大胆なことを行動に移すことはできないまま嫌々でも働いているうちに、仕事に関する基本的な能力は身につけてある程度業務を覚えてしまい、まがりなりにも続けているうちに、それなりに半人前くらいの社会人になっており、気づけば多くの人のお世話になってしまっていた。
ただ、それでも働くことは大嫌いであった。仕事が嫌だという初心はまったく変わらなかった。月曜の朝起きると、必ず世界の破滅を願った。何といっても布団から出るときがたまらなく億劫であり、一日のうちで最も労力を必要とするときだ。布団から出ることさえできれば、山積の書類も、上司のイビリも、やりきれない職場の雰囲気も、気に入らない同僚も、客先の失礼な対応にも、くだらない世間話にも、顔をあわせたくない人と気まずい挨拶をしなければならないときも、長時間パソコンの画面と向かいあっても、何とか耐えることができた。
働くのが嫌だという気持ちに変わりはなかったが、仕事をこなすうちに多くの人から恩を受けてしまったのは事実であり、その恩を仇で返すようなことはしたくないという思いもあったので、すぐに辞めたくはなかった。だから今日もなんとかして職場にしがみついている。こうして僕はいつしか、いろんなものに縛られて身動きがとれなくなっていくのだろう。人の情けというのは、何ともありがたく、むごたらしく、迷惑で、かけがえのないものに最近は思える。
小説を書きたいという気持ちは持っている。奥の方にずっと持っている。でもしまっておかなければならない。もしこの気持ちが湧き出すようなことになると、今の生活をまともに続けることができなくなる。今は小説を書きたい気持ちをいかに抑えつけているかを書くだけで精一杯だ。
小説を書きたいことは書きたいのだが、僕には構成がしっかりしていて、登場人物と場面が見事に整理されているような物語を描くことはきっと難しいのだろう。仮に僕が物語を作ったとしても、登場人物はあっちに行ったり、こっちに行ったり、壁にぶつかったりして、とりとめのないものしか書けないだろう。
その場しのぎの捏造としか思えないような物語を書きたくはない。書きたい物語が特にあるわけでもないのに、その事実から目をそらして、無理に体裁を整えた物語を強引に作り出すのは自己欺瞞のように思える。そんなことをしてある程度うまくいっても、いつかしっぺ返しをくらうだろう。軽薄な嘘を自分についた代償はきっと払わされる。
これまでに多くの人を傷つけてきた。言葉によって相手の心を破壊し、二度と立ち直れないようにしたうえで、相手への自分の影響力を絶大なものにしたいという卑しい欲望の虜になっていた。相手が僕の存在に怯えるのが愉快でたまらず、人を傷つけることで優越感だけでなく幸福や心の安寧さえも感じていた。傷つけてはいけないという自制心はあるのに、邪念がいつも僕を駆り立てるのだ。こうして傷つける能力に長けていく一方で、不用意に人から傷つけられる能力にも長けていくのは自明であり、いつしか僕のまわりには誰もいなくなってしまった。
自分の中にある破壊願望と折り合いをつけていかなくてはならない。壊したくて壊したくてたまらないという願望、緻密に作り上げられた繊細なものを一撃で破壊してしまいたいという願望が僕の中にはある。この願望が満たされたときに、きっと最上の快楽を体現できるのだろうと思うと怖くなるが、その事実を自覚しながらも、何とかやりすごしていくしかないのだろう。
自分が人よりも学問的探究にこだわるのは、どうやら高度な認識を得たいという願望があるからのようだ。より高い視点から世界を俯瞰したい、見下ろしたいという下衆な支配欲しか持ち合わせていないようだ。
いつも人から見られているという思いに囚われており、自意識過剰の状態で無駄に緊張ばかりしている。この緊張を少しでもやわらげてやりたくて、自意識の浄化に役立つ言葉を求めて初めはいろいろ本を読んでいたが、今では自分で文章を書くようにまでなってしまった。
書くことが習慣化した初めのころは、文を作っているときは人から見られるという意識から解放されて過剰な自意識を沈めることが可能だと考えていたが、今ではどうもそうではないように思えるのだ。むしろ文を生み出しているとき、書くことに集中しているときこそ、人から見られているという意識が強くはたらいているように感じられる。良い文章を生み出すには、他人からの視線を意識することが多分に必要らしい。もし、その意識が希薄で何かを書いたとしても、出来上がった文章は稚拙で抜けの多いものになっているだろう。
独りで書いているときでさえ独りにはなれない。文章を書くためには自分の中に他者を作り出す必要がある。他者から解放されたくて文を書くようになったのに、実は自分の中に他者を作っていたとは何とも本末転倒である。他者から逃れるためには、自分の中に他者を作り出して、その他者と格闘する必要があるようだ。自分が書いた文章は、自己救済、自己慰安のためだと思っていながら、実際にはかなり他者を意識したものになっている。書けば書くほどよけいに矛盾を抱え込んでしまうのだからどうしようもない。
ずっと前から、自分は何か表現したいものを内面に持っているという自負(自惚れ?)があった。しかしいざそれを書いて表現しようとしても、本来表現したかったものとはかけ離れた内容を書いているように思える。自分が表現したいものを、いきなり書いてみようとしても、心が耐えられないのだろうか。
いつも書きながら、核心部分に近づいたり遠ざかったりしているうちに、何となく駄文が蓄積されていくだけで満足している。最短ルートで核心まで到達できるように書ければいいのだが、僕には文才も強い精神力もないので、今のところはだらだら書くしかなさそうだ。
何かを作り出すのはつらいことだ。苦しくて冷たい作業だ。創造とは無縁の人生を送りたい。批評家や消費者の立場にとどまって、できるだけ責任を背負わなくてすむようにしながら、文句だけ言っている方が楽だ。みんな労働などやりたくない。仕事が楽しいと言っているやつは間違いなく馬鹿である。
いつも自分を庇護してくれる人間を求めていた。自分で判断して、自分で道を切り開いて人生を歩んでいくなどという暴挙に至ることはこれからも絶対にないだろう。自分を苦痛に追い込むようなことはしたくはない。最終的な決定権は他人に委ねて、一定の不自由さを得ることで、初めて自由を満喫できる小心者であった。自分より責任を背負う覚悟のある人間に任せっきりで、ずっと生きていきたいと思っている。
仕事、仕事でろくに本を読む時間もない。ものを書く余裕はさらにない。時間は確かに光陰の矢のように過ぎていく。僕はきっと何もつかめないまま、どこにもたどりつくことができないまま、寂しく人生を終えていくのだろう。文才も語彙もないが、それでも読んで書くことでしか自分を救う方法は思い当たらない。
何かが硬直している。僕の中にある何かが、がちがちに固まって機能しなくなっているのを切に感じる。それを柔らかくしてやりたいと思っていろいろ書いているのだ。耐えがたい硬直状態から解放されたいという思いをずっと抱えたままでいる。
書くことに執着するような狂気は持ち合わせていない。毎日はことごとく平穏である。飽食を満喫しているひ弱な人間である。何の目標も持っていない。ハングリー精神などばかばかしくて暑苦しい。額に汗して働く人はご苦労様。面倒な説教や道徳などは右から左に流して、できるだけ苦労をしないで涼しい顔をしながら、利益だけはちゃっかり得られるようなポジションにいたいと思っている。それでいて人からどのように見られているか、評価されているかはとても気にしている。クールで格好よくなくてはいけないと思っている。
あらゆることは茶化しておけばよい。物事を真剣に受け止めるのは野暮な人間のすることだ。真面目に考えるのは無能の証である。重労働や泥臭い仕事はやりたくない。教養なんて必要ない。リベラルアーツなんて過去の言葉だ。たくさんの本を読むなんて馬鹿みたい。今の時代は読書に比べて楽しい娯楽がありすぎる。漫画、ゲーム、ネット、映画、音楽、こんなにもたくさんの娯楽を作ってきた大人達が悪いのだ。僕らは若者だから何の責任もない。自分たちはいつも搾取されてばかりだと連呼していればよい。
僕らの世代はか弱くて憶病なのだ。平和を愛する臆病者なのだ。勇気や根性が称えられるのはおかしい。そういった感情が人を戦争に向かわせるのではないか。これからも臆病にしたたかに生きていくつもりだ。僕らの世代は、これまで人類が築きあげてきた文明の上に偉そうにふんぞりかえって、そのありがたさには気づかず、便利な機器を使って稚拙な欲望を満たして自己完結している。これからも科学技術が発達すれば、人類は自らが歩んできた歴史からも束縛されずに自由になれるかもしれない。だから歴史などもう学ばなくていいのだ。文明化、技術科、近代化、都市化、機械化、記号化、非人間化、中性化、幼児化の流れに乗っかってのほほんとしていればよい。何も難しいことは考えなくてよい。考えようと試みたところで、考えまいとさせようとする文明化の圧力にはきっと勝てないだろう。僕たちは否応なしに変わっていく。ものすごい勢いで変わっていく。僕たちの内面で、精神世界で何が起こっているかは知る由もない。
頭が冴えている時、思考が比較的済んだ状態の時は、あまり書けなくなるようだ。少しくらい頭が混沌としている方が、文章を生み出すには都合がいいらしい。僕はいつも自分の情念に頼って書いている。僕には混沌を好む性癖があり、明晰な文章を書くのは苦手であった。そのような文章は、いつも日中職場でいやというほど書かされるので、わざわざ家に帰ってまで書きたいとは思わないのだ。独断と偏見に満ちた歪みのある文を書きたいと思っている。歪んだ文章を作り出すことでしか、内面に抱える歪みを解消する方法はないのだから。
論理的な文章なんて糞くらえだ。所詮論理じゃないか。論理が何だというのだ。世間にはびこっているロジカルシンキングなんて嘘っぱちの安物だ。だいたい論理という概念がいまいち理解できない。論理が美意識よりも上位にくるとはとても思えない。論理などどいうのは、直観が猛スピードで駆け抜けた経路を、ずっとゆっくりとよけいな説明を加えて進んでいくくだらない奴なのだ。論理は直観の下僕にすぎない。
直観を殺しながら黙々と退屈な労働に明け暮れているから、やたらに論理をふりかざす人間になってしまうのだろう。論理的に考えるというのは、怠惰な行為なのだ。直観が生み出したものを、より低次元な内容で拾ってやる行為でしかないのだから。
僕が成す行為には、いつもその行為に直結する動機が欠けていた。あらゆる行為に関して、自分がなぜその行為に準じているかを、自分に対して説明するためにいちいち考える必要があった。動機が存在しないのに、むやみに行為に走ろうとする悪い癖を僕は直せないでいる。
労働が僕の頭を締め付け思考を制限しようとする。負けるものかと思いながら、僕は何とか制限を打ち破ろうとして懸命に仕事をしている。仕事が制限の元凶であるなら、さっさと仕事を辞めればいいのに、それでも仕事に誰よりもすすんで取り組んでいる僕はどうしようもない愚か者であった。毒などとうに食らい尽くしていたのだ。あとは皿を何枚食えるかだ。
これまでずっと書くことを拒んできた。書こうとするまでがいつもたまらなく苦痛であった。書く段階に至るまでにどれほどの労苦を要するか誰もわかってくれない。書かせまいとする強固な観念が僕の中に巣食っており、いつも無益な葛藤を強いられるのだ。書くなといつも命令してくる奴がいる。現状の怠惰な自分を維持する事に専念せよと命じてくる奴がいる。立ち上がってはならない、能動的に振舞うなとしつこく僕に囁くのだ。
思いつくままに文章を連ねていくと、いつの間にか高揚を感じて、文を書く速度が増大する時がある。そして、高揚状態で書き上げたものは、今まで自分が考えてもみなかった内容に出来上がっていることがしばしばある。読み返してみて、自分はこんなことを考えていたのだろうかと訝しく思ったりもする。高揚することができれば、自分が意図してこなかった考えがいくらでも浮かんでくるらしい。
だが、この高揚感を頼りにして、どれだけ文を作り出しても、自分が本当に表現したいものを描き出すことはできないような気もしている。平穏な状態、高揚を感じていない状態で、真に表現したいものに迫っていきたい。高揚という媚薬は比喩や修辞を楽しむにはいいが、高揚状態で書かれたものには何かが欠けているように感じるのだ。などということを、僕は今いささかの高揚を感じながら書いている次第である。
書く暇もろくになく、ただ経済の巨大なシステムを支えるために、末端の歯車として働く日々。自分はそんな市場主義の機構からは距離をおいて独自の道を歩んでいると思い込んで冷めた顔をしていられるのも今のうち。逃げても逃げても市場による監視は、技術化が進むにつれてさらに徹底したものになる。さっさと仕事をやめて放り出してしまえばよいのに、僕にはそんな勇気はとてもなく、今では何もかも奪われてしまっている。精神の根幹はすでに遠い過去に置き去りで情念は食い尽くされ、自分の能力を勘違いするほどの気力はもはやない。
今はただ素直に卑小な自己を直視して黙々と労働に励んでいる。毎日を生きていかなければならないのだ。いちいち矛盾に目を向けていては、僕の心は到底もたないだろう。壊れないように毎日をどのようにやり過ごすかだけが、喫緊の課題だ。
僕はとても臆病で、人と接するときはいつも自分が傷つかないように策を弄する悪癖があったが、その策は概して稚拙であった。いつしか愚策が愚策を生み出して、愚策の泥沼の中であえぐような生き方が常態化している。そろそろ今までに生み出した愚策のツケを払わされる日が来るのだろう。
日々の労働を積み重ねているうちに、いつの間にか忌々しい荷物が増えていく。ツケを払え、ツケを払えとあちこちから声がする。いつしか幻聴にも慣れた頃には、市場社会から解放されて、廃人の烙印を押され自由を謳歌できるのかもしれない。
脳裏では常に邪念が入り乱れている。澄んだ心は僕には似合わない。負の感情が精神と肉体の中を駆け巡り、思考、観念、生活、理想のすべてを汚して、暗くて歪んだ世界に僕を留めておこうと望んでいるらしい。どうも僕は負の感情に酔いしれる依存症を持っており、一種の中毒になっているようだ。
僕の内面には花が咲いている。腐った根を持ち、諦念を栄養分とし、まっすぐではなく歪んだ茎を丹念に伸ばしてきた花が存在している。花びらの色はきっと淡い灰色で、適度に人に鳥肌を立たせるくらいの斑点がある。放出する花粉はきっと僕の中から抜け出して、人々の心を汚してやつれさして、精力を減衰させる作用を持っている。この花は立派に咲いたように見えながら実のところは枯れている。芽を出した時点から枯れているが、それでも人に不快感を与えたいだけのためにしつこく育ち続けている。この花に水をやってはいけない。危険な農薬の方がいいだろう。
比較的心を許せる人だということは話していてすぐに気づいた。人懐っこいところがあったが、何か危なっかしい感じがあった。優しい笑顔はぎこちなく、見捨てられるのを恐れているかのようであった。無理に作り出した笑顔からこぼれ出す傷心は本人にも隠しきれないらしい。表向きは器用で要領のいい人であり、人当たりもよく誰からも好かれる感じだ。服装も垢抜けており、僕とは全然違うタイプの人間であったが、それでも何か相通じるものがあるように思えた。勝手な願望といえばそれまでだが、それでも人を見る目は割に優れているという自負を僕は持っていた。
彼という人物を見誤っているのかもしれない。他人の良心を信じようとすることほど心もとないことはない。でも、そうすることでしか自分は救われないようにも感じている。無意味な自己分析をくり返して、理屈ばかり並べあげても、結局は人とぶつからないと何も変わらない。誰にも心を許さずにむやみに人を傷つけてきたあの頃に縛られ続けていても、どうしようもない。自分に人を愛したり奉仕したりする資格がないことはわかっている。せいぜい人から憎まれ、疎んじられ、不信がられることでしか、これまでの自分の罪状を軽くする方法はないのかもしれない。それでも信じたいという気持ちがあるから厄介なのだ。
人を愛するなと内側から執拗に叫びかける声がする。もう精神も肉体もあらゆる領域に毒がまわっており、愛する人は自分の毒で汚してやろうという思いこそが、自分にとって最も誠実な感情のように思えるのだった 。
過去の経験が糧となり、今の自分を支えてくれるということはなかった。むしろいつも過去に苦しめられ、苛まれ、日々の生活をようやく何とかこなしている有様だった。過去の数々のつらい経験が、今生きている僕を脅かし、おどしてくる。それでいて今の自分の存在を保証しているのだと言って憚らない。
これまで積み重ねてきた過去のまずい経験の数々から、自由になり解放されたいという思いがだんだんと強くなる。強まるにつれて僕は小説を読むようになった。過去の経験を他のもので塗り変えてしまおう、虚妄で満たしてしまおう、事実より嘘を重んじようという試みに執念を燃やす小説的思考に没頭したいと今は思っている。過去を自分が望む幻想で満たしてしまいたいのだ。
自己の感情の源泉を見つけ出したくて書いてきたつもりだった。他者からの影響を受けていない自己完結した感情を探し当てたくて、書いてきたはずであった。だが、書けば書くほど、自己の内面と対峙すればするほど、他者の影響を受けずに成立するような感情はないということに気づいてしまった。
誰もが子供のころは他者の影響下にあり、少しずつ感情が育成されていくのだろう。もし他者に影響されていない感情があるとすれば、それは憎悪に満ちており、人間にはとても制御しきれないものなのかもしれない。自己の感情にオリジナルな部分を見出そうとする試みは破滅をもたらすだけだろう。どの感情も他人の影響であり、モノマネなのだ。すべての感情は自己から生じたものではなく、他人から受け取ったものだと思うと楽になったし、悲しくもなった。
人と話したり、喧嘩したり、ばかばかしい恋愛ごっこをしたり、一緒に酒を飲んではめをはずしたり、カフェで真面目に語り合ったり、職場で上下関係を抜きにして真剣に打ち合わせをしたりするよりは、一人でものを書いているときの方が、自分以外の人間である他者の存在を実感できるというのはどういうことなのだろう?
自分と相手は何か共有できるものがあるという錯覚を持っていた。何かねばねばしたものが僕らの周辺に行きわたっていた。脆弱な共同体意識に支配され、なかなか孤独になることは許されなかった。科学技術が無意味に発達したおかげで、自分と他者との接合、溶融は安易になってしまっていた。
奥の方に抱えている深刻な部分、触れられただけでこれまでの人生の蓄積が瓦解してしまいそうな精神の急所には近づかないようにして書いている。精神を危機的状況に追い込んで書いているような素振りを見せているが、絶対に急所の部分には触れないように注意している。いつまでたっても急所に触れる勇気がないのであれば、書くことなど無駄ではないか。書けば書くほど違う世界に逃げ込んでいくだけで、どうでもいい比喩や修辞を求めてさまよい、書き始める前に抱いていた動機は葬り去ろうとしているだけではないか。さっさとやめてしまえばいいのに、それでも僕にはやめることはできないのだろう。
自分が一番下に位置していると考えていたかった。最下層が僕にとって最も居心地がよかった。不当な理由で脅かされ、傷つけられ、誰に対しても自分の感情を伝えることができず、ただおろおろしている状態こそが自分にふさわしいように思えた。人と関わることが苦痛であった。
けれども、社会人としてやっていくためには、他人と対等に接することを強要されるのだから、かなわない。対等に接するには、まずは自分を厳しく律する必要があるのだが、僕には到底無理な話だ。対等関係を維持していくほどの、理知も胆力も備わっていない。やはり僕には対等ではなく、不釣合いな人間関係の方が性に合っていたし、自分の方が下であればなおのことよかった。
世間は今日も暴力的で攻撃的で他人を罵る言動であふれ、弱者を吊るし上げて面白がる悪ふざけに満ちており、知性を拒否する歪んだヒューマニズムに支配されていた。みんな自分のことしか考えていなかった。それを嘆いてもどうしようもないし、むしろそれが当たり前であり、嘆く僕の方がどうかしているのだろう。
自分の内面に存在しているもやもやしたものを文章で表現しようとして、これまでいろいろと書いてきたつもりだ。だが、そのもやもやしたものの大部分は切り捨てられ、実際に外側の世界に文章として表出されるのはごく一部なのだ。書くという行為、文章を作り出すという行為は、何かを表現するというよりは、むしろ多くのものを捨て去るために成されるのかもしれない。
自分で書いた文章を後で読み返すと、自分は過去にこんなことを考えていたのかと再認識できるのだが、書いた当時に捨て去ったものなどはもはや何も覚えていない。書くことを継続すれば、自分が真に表現したい内容に近づけると安易に信じてはいけない。書き初めに捨て去ったものこそが、自分にとって重要なものだったのかもしれない。書くことが習慣化するにつれて、重要なものは早々と捨ててしまい、捨てた後は見ないようにする技術ばかりが上達するのなら初めから何も書かなければよかったのだろうか。ただ読むばかりで、何も行動できずに受動的な暗い世界にとどまっていたほうが幸福だったようにも思える。
残業帰宅2