296 死と生、そして「神のレゾンデートル」 ――存在の究極的理由をめぐる一考察
死と生に関する空花思想
はじめに
人間は、生まれ、成長し、やがて死ぬ。この生と死の循環は、人間だけではなく、ほぼすべての生物に共通する。現代科学は、生物がなぜ生まれ、なぜ適応し、なぜ死ぬのかについて、多くの説明を与えてきた。特に進化論は、遺伝的変異と自然選択、世代交代の積み重ねによって、現在の多様な生命が形成されてきたことを説明する。
しかし、ここには一つの重要な問題が残されている。
「死がどのように生じ、どのような機能を持っているか」を説明することと、「死には究極的な意味があるのか」を問うことは同じではない。
死には生物学的な機能や進化上の役割を認めることができる。しかし、それによって死そのものに哲学的な意味が与えられるとは限らない。
本稿では、この「死の機能」と「死の意味」の差異を出発点として、生と死、存在、真理、そして神という概念について考察する。そして最終的に、神を「宗教的な人格神」に限定するのではなく「存在そのものの究極的な理由」すなわち「神のレゾンデートル」という概念として捉え直すことを試みる。
1.死は進化に必要なのか
現在の生命は、長い進化の歴史の結果として存在している。
生物は遺伝的変異を生じさせ、環境に適応した個体がより多くの子孫を残す。その過程が何世代にもわたって繰り返されることで、生物の形質は変化していく。
ここで重要なのが世代交代である。
もし個体が永遠に生き、完全に固定された状態で存在し続けるならば、少なくとも現在の生物に見られるような世代単位の自然選択は成立しにくい。生まれ、繁殖し、死ぬという循環は、進化という現象と深く結びついている。
したがって、死は生命の進化を可能にする条件の一つとして捉えることができる。
しかし、ここで注意すべきなのは、
「死が進化において機能を持つ」ことと、「死には意味がある」ことは同じではない
ということである。
たとえば心臓には血液を循環させるという機能がある。しかし、その機能を説明したからといって、「心臓が存在する究極的な意味」を説明したことにはならない。
同様に、死が世代交代や自然選択に関係しているとしても、それだけでは「なぜ死が存在するのか」という哲学的問いに答えたことにはならない。
科学は死の因果を説明できても、死の究極的意味を必ずしも与えるわけではないのである。
2.「機能」と「意味」の違い
ここで、「なぜ」という問いには複数の種類があることを考える必要がある。
「なぜ生物は死ぬのか」という問いに対して、進化論や生物学は因果的・機能的な説明を与えることができる。
しかし、「なぜ死という現象が存在することに意味があるのか」という問いは、それとは異なる。
前者は、
「なぜその現象が起こるのか」
という問いである。
後者は、
「その現象には何の意味があるのか」
という問いである。
両者は似ているようで、本質的には異なる。
この区別を導入すると、死について一つの可能性が浮かび上がる。
それは、
死には機能はあっても、究極的な意味は存在しないのではないか。
という可能性である。
死は生命というシステムの中で当然のように発生する。しかし、その存在そのものに、宇宙的・形而上学的な目的が与えられているとは限らない。
死は、ただ「結果として存在している」のかもしれない。
3.死の意味を否定すると、生の意味も揺らぐ
しかし、この考えを突き詰めると、さらに大きな問題が生じる。
もし死に究極的な意味がないのであれば、生には究極的な意味があるのだろうか。
人間はしばしば、「なぜ生きるのか」と問う。
しかし、その問いの前提には、「生きることには何らかの意味がある」という想定が含まれている。
では、
«なぜ私は生まれたのか»
«なぜ生命は存在するのか»
«なぜ宇宙には生命が発生したのか»
«なぜそもそも何かが存在しているのか»
と問いを遡っていけば、最終的には「生命の意味」よりもさらに根源的な問題に到達する。
それが、
「存在そのものには理由があるのか」
という問いである。
つまり、「生きる意味」という問題は、究極的には「存在する意味」という問題へと接続する。
4.真理は存在するのか
ここで、「真理」という概念が問題となる。
人間は世界について多くの真理を発見してきた。しかし、すべての問いに対して、人間が究極的な答えを獲得できるとは限らない。
たとえば、
«宇宙はどのように始まったのか。»
という問いと、
«なぜ宇宙そのものが存在するのか。»
という問いは異なる。
前者は宇宙の物理的な起源についての問いである。
後者は、「存在そのもの」の理由についての問いである。
仮に宇宙の始まりを完全に説明できたとしても、
«「では、その宇宙が存在するのはなぜなのか」»
という問いは残りうる。
さらに、その原因を別の存在に求めたとしても、
«「では、その存在はなぜ存在するのか」»
という問いが生じる。
この問いは、無限後退する可能性を持つ。
したがって、究極的な真理について、人間は三つの可能性に直面する。
第一に、究極的な真理は存在するが、人間には到達できない。
第二に、究極的な真理そのものが存在しない。
第三に、「究極的な理由を求める」という問いそのものが、人間の認識によって作られた問題であり、世界そのものには対応する答えがない。
人間は、この三つの可能性のどれが正しいのかを容易には決定できない。
5.存在の究極的理由としての「神」
ここで「神」という概念を導入することができる。
一般的な宗教において、神は世界を創造した存在、あるいは人間を超越する人格的存在として考えられる。
しかし、ここで神をより抽象的に定義してみたい。
それは、
«神とは、存在そのものが存在することの究極的な理由である。»
という定義である。
この定義において、神とは必ずしも人格を持った存在ではない。
神とは、
「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」
という問いに対して想定される、究極的な存在根拠である。
したがって、ここで重要なのは「神は存在するか」という問いだけではない。
むしろ、
«「神が存在するとすれば、神には存在する理由があるのか」»
という問いである。
これを本稿では、
「神のレゾンデートル」
と呼ぶ。
フランス語の raison d'être は、「存在理由」「存在する根拠」を意味する。
したがって「神のレゾンデートル」とは、
「神という究極的存在概念そのものの存在理由」
を意味する。
6.「神の存在証明」から「神の存在理由」へ
従来の哲学では、「神は存在するのか」という問題が重要なテーマとなってきた。
たとえば存在論的論証、宇宙論的論証、目的論的論証など、神の存在を論証しようとする様々な試みが存在する。
しかし、本稿が問題にしたいのは、そのさらに先である。
仮に神の存在が証明されたとしても、
«「では、その神はなぜ存在するのか」»
という問いは残る。
神が宇宙の原因であるならば、
«「なぜ神が宇宙を創造したのか」»
という問いが生じる。
そして神が存在そのものの根拠であるなら、
«「なぜその根拠が存在するのか」»
という問いが生じる。
したがって、
神の存在を証明することと、神のレゾンデートルを説明することは異なる。
ここに、本稿における「神」の概念の特徴がある。
7.死から神へ――問いの階梯
ここまでの議論を整理すると、一つの思考の階梯が見えてくる。
まず、人間は死に直面する。
↓
「なぜ死ぬのか」と問う。
↓
生物学は死の機能や進化的背景を説明する。
↓
しかし、「死には究極的な意味があるのか」という問いが残る。
↓
死に意味がないなら、「生には意味があるのか」と問う。
↓
生の意味を問うと、「なぜ生命が存在するのか」という問いに至る。
↓
生命の存在を問うと、「なぜ宇宙が存在するのか」という問いに至る。
↓
宇宙の存在を問うと、「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」という問いに至る。
↓
そして最終的に、
「存在そのものには存在理由があるのか」
という問いに到達する。
この問いの彼方に、「神」という概念が現れる。
したがって、神とは必ずしも宗教的教義からのみ導かれる概念ではない。
死について考えることが、存在について考えることへと発展し、その果てに神という問題が現れるのである。
8.神を否定する者も、この問題から逃れられるのか
ここで重要な反論が考えられる。
「存在に究極的な理由などない」と考えることも可能だからである。
たとえばニヒリズム的な立場から、
«「宇宙はただ存在している。そこに理由などない。」»
と答えることができる。
しかし、この回答もまた一つの哲学的立場である。
つまり、
「存在に究極的な意味はない」
という主張もまた、
「存在には意味があるのか」という問題に対する一つの回答なのである。
その意味で、神を信じる者も、神を否定する者も、究極的には同じ問題に直面している。
それは、
«「存在には究極的な理由があるのか」»
という問題である。
したがって、「神のレゾンデートル」という問いは、必ずしも宗教を信じる者だけの問題ではない。
むしろ、神を否定することさえも、この問いに対する一つの回答として位置づけられる。
9.人類の究極命題としての「存在理由」
以上から、本稿では一つの仮説を提示したい。
それは、
«人類の究極的な哲学的問題とは、「何のために生きるのか」ではなく、「なぜ存在そのものが存在するのか」である。»
というものである。
人間は死を知るからこそ、生を問う。
生を問うからこそ、存在を問う。
存在を問うからこそ、その存在理由を問う。
そして存在理由を究極まで追求したとき、「神」という概念に到達する。
したがって、
「神のレゾンデートルを求めること」
とは、特定の宗教を信仰することではなく、存在そのものの究極的な理由を求めることなのである。
もちろん、人類がその問いに最終的な答えを得られる保証はない。
むしろ、答えは存在しないのかもしれない。
しかし、答えが存在しない可能性を含めて問い続けること自体が、人間の哲学的営みなのではないだろうか。
結論
死は生命にとって避けられない現象である。
そして、死は進化や世代交代という生物学的システムの中で重要な役割を果たしている。しかし、その機能を説明することは、死そのものに究極的な意味を与えることとは異なる。
死には機能があるかもしれない。
しかし、
死には意味があるのか。
この問いに対して、科学は必ずしも答えを与えない。
そして死の意味を問うことは、生の意味を問うことへとつながる。生の意味を問うことは、生命の存在理由を問うことへとつながり、最終的には存在そのものの理由を問うことへと至る。
そこで「神」という概念が現れる。
神とは、単なる超越的な人格ではない。
それは、
「なぜ存在するものが存在するのか」
という問いに対して想定される、究極的な存在根拠である。
しかし、ここでさらに一歩進めなければならない。
神が存在するなら、
「なぜ神は存在するのか」
と問わなければならない。
これが「神のレゾンデートル」である。
そして、この問いに答えがないなら、世界には究極的な理由が存在しない可能性がある。
答えがあるなら、その答えは人間が現在知っている「神」という概念をさらに超える可能性がある。
したがって、究極的な真理とは、必ずしも「答え」そのものではないのかもしれない。
むしろ、
「存在には理由があるのか」という問いそのものを、どこまでも問い続けること。
そこに哲学の根源的な営みがある。
死は、生命の終わりである。
しかし同時に、死は人間に「生とは何か」を問いかける。
生は、存在の一形態である。
そして存在は、
「なぜ存在するのか」
という問いを生み出す。
その問いの果てに神がいるのか。
あるいは、何もいないのか。
あるいは、「答えなど存在しない」ということこそが究極の真理なのか。
それはまだ分からない。
だからこそ、人間は問い続ける。
そしてその問いこそが、
「神のレゾンデートル」
を求めるという、人類の究極的な哲学的営みなのではないだろうか。
296 死と生、そして「神のレゾンデートル」 ――存在の究極的理由をめぐる一考察