シン『どん底先生』第一章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

シン『どん底先生』第一章(全十二章)
 (汲み取り式からAIアプリまで)

第一章 夜明け
――父は、いつも少し後ろを歩いていた
私の亡き父は、ウザかった。

高校入試の合格発表についてきた。
大学を卒業して就職したら、二時間以上もかけて、私が勤めていた塾まで挨拶に来た。
若い頃の私は、それが嫌だった。
「もう、ええって」
何度、そう思ったことだろう。
自分はもう大人なのだ。
自分のことは自分でできる。
親にいちいちついてきてもらう必要なんかない。
そう思っていた。

けれど、父が亡くなった今になって振り返ると、あの「ウザさ」の正体が少しだけ分かるような気がする。
父は、私を心配していたのだ。
ただ、それだけだったのかもしれない。
私は、そのことに気づくまでに、ずいぶん長い時間がかかった。

________________________________________
高校二年生までは、私は理系に進むつもりだった。
ロボットを作りたかった。
子どもの頃から、機械や仕組みを考えることが好きだった。
「将来、何になりたい?」
そう聞かれれば、理系に進むことを疑っていなかった。

ところが、高校二年生になって、私の人生は思わぬ方向へ曲がり始めた。
当時の四日市高校は男子の割合が高く、男子クラスがあった。
私は、その男子クラスに入っていた。
周りには理系を目指す男子が多かった。
数学が得意な友達もいた。
問題を見れば、すぐに解き始める。
公式を覚えている。
計算も速い。

私は、その中にいると、どうしても自分と周囲を比べてしまった。
全国模試では、そこそこ取れていた。
ところが、学校の男子クラスに戻ると違った。
平均点と比べる。
友達と比べる。
そして、
「なんで俺は、こんなにできないんや」
と思う。
三角関数。
対数。
微分、積分。
勉強が進むほど、数学が遠くなっていった。

友人に、
「もうボクの頭には入りきれやん」
とぼやいたことを覚えている。

________________________________________
私は、ただ数学が苦手だったわけではない。
今になって思えば、もっと厄介な性格だった。
公式を、
「これはこういうものだから覚えなさい」
と言われると、どうしても納得できなかった。

なぜ、そうなるのか。
どうして、この式になるのか。
その成り立ちが分からないまま、
「とにかく使え」
と言われると、身体の中から拒否反応が出てくるようだった。

今思えば、数学を学ぶ上では、ずいぶん面倒な人間だったと思う。
でも、当時の私は、それを自分の性格だとは知らなかった。
ただ、
「自分は数学ができない」
と思った。

物理で十三点を取ったことがある。
答案を見た瞬間、
「こんなん、ありえやん!」
と思った。
悔しくて、答案をクシャクシャにして放り投げた。

点数だけなら、まだよかったのかもしれない。
本当に怖かったのは、
「自分は、これから何をしてもできないのではないか」
という感覚だった。

________________________________________
そして、大学受験の五日前。
今でも忘れられない。
二階の勉強部屋で、数学の勉強をしていた。
机に向かっていた。
問題を見ていた。

そのとき、突然、手足が震え始めた。
自分でも何が起きたのか分からない。
身体に力が入らない。
椅子からずり落ちた。
「おとやん……」
父を呼んだ。
「ボク、変や」

二階から声を聞いた父が駆け上がってきた。
そして、床に倒れて手足をばたばたさせている私を見た。
「お前、何してんだ」
父は、そう言った。

今なら笑ってしまう。
けれど、そのときは笑えなかった。
近くの総合病院へ運ばれた。
そこで診てもらった。
診断は、神経衰弱。
当時の言葉でいえば、ノイローゼだった。

私は、
「頭がおかしくなったんやろか」
と心配した。
医師は、
「そういう人もおるけど、身体に症状が出る人もおる」
と説明してくれた。

その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
自分だけがおかしくなったわけではない。
身体に症状が出ることもある。
そう思えた。
けれど、その日を境に、私は数学から逃げることになった。

________________________________________
模試の結果を見れば、文系なら難関国立大学を狙える。
でも、理系では厳しい。
私は、泣く泣く理系を諦めた。
そして、名古屋大学の教育学部へ進んだ。

教育学部に入った頃には、
「自分は先生になるのかなあ」
と、ぼんやり考えていた。
それが明確な夢だったわけではない。
人生の方向が変わった結果、そこにたどり着いた。

それでも、大学を卒業すれば、何か仕事をしなければならない。
そして私は、英語講師として働くようになった。
数学は、私にとってタブーになった。
できるだけ触れない。
必要になれば中学数学くらいは教える。
でも、高校数学には近づかない。
あの日、私を倒した数学。
それから二十年ほど、私は英語を勉強し続けた。

________________________________________
ところが、英語にも疑問が生まれた。
一九八二年。
私はアメリカのユタ州ローガンにいた。
ローガン中学校で社会の授業をしていた。
英語を使って授業をする。
自分なりに準備をしてきた。
日本で勉強した英語には自信があった。

ところが、授業をしていると、同席しているネイティブの教師が、しばしば私の話を途中で止めた。
そして、生徒たちに説明を始める。
「ミスター・タカギが今使った単語の意味は……」
私は不思議だった。
「なんで私の授業を中断するんやろう?」
一番仲のよかった理科教師のアランに相談した。
すると、彼は笑って言った。

「お前の英語は綺麗やけど、ビッグワードを使いすぎなんや」
私は考えた。
ビッグワード。
難しい言葉。
日本で英語を勉強していると、難しい単語をたくさん知っていることが、英語ができることの証明のように思えていた。
ところが、職員室で先生たちの会話を注意して聞いてみると、驚いた。
使っている英語が簡単なのだ。
中学校で習うような英語を普通に使っている。

私が受験勉強で苦労して覚えたような難解な単語は、ほとんど出てこない。
「not more than と no more than の違い」
そんなことを気にしている人もいない。
私は、少しずつ考え始めた。
「英語って、こういうものなんか?」

________________________________________
アメリカから帰国した私は、日本の英語業界で仕事を得るため、公的な資格を取ろうと思った。
そこで英検一級に挑戦した。
書店で過去問を手に取った。
ページを開く。
知らない単語。
知らない表現。
私は、うんざりした。

高校生の頃なら、
「もっと頑張って勉強しなければ」
と自分を責めただろう。
でも、アメリカで実際に生活して、英語を使ってきた自分には、どこか違和感があった。
ネイティブの助けを借りながら問題を解いていると、
「これは何や?」
という表現が出てくる。
意味を聞く。
すると、
「シェイクスピアの時代の英語みたいなもんや」
と笑われた。

そんな経験をしても、日本の英語教育の世界では、実際に英語を使えることだけでは十分ではなかった。
帰国してから、名古屋の予備校、塾、専門学校などに履歴書を送った。
返事が来ない。
何社送っても来ない。
そこで私は、英検一級を取得した。
すると、今度は返事が来るようになった。

結果的に、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで、十四年間、非常勤講師を務めることになった。
私は英語を教え続けた。

________________________________________
その間、私は少しずつ気づいていた。
受験英語と、実際に使われる英語は同じではない。
もちろん、受験英語が必要な場面もある。
大学に入るためには、入試問題を解かなければならない。
生徒たちも、それを求めている。
だから私は、英語を教えた。

ただ、自分の中には、ずっと小さな疑問が残っていた。
「本当にこれでええんやろか」
その疑問は、やがて私を京都大学へ向かわせることになる。
京大は、英語の試験に和訳と英作文がある。
私は京大模試を受け、Z会の「京大即応」に取り組んだ。
何度も受けた。
何年も続けた。
添削を受ける。
点数を見る。
また考える。
自分が納得できないところは、なぜそうなるのかを考える。
そして私は、英作文で何種類かの英語を試した。

昔ながらの受験英語。
資格試験で使うような英語。
アメリカで実際に使っていた、比較的簡単な英語。
すると、面白いことが分かった。
私の場合、アメリカで使っていたような、比較的平易な英語で書いたときの方が、得点が高くなった。
私は思った。
「やっぱり、京大の先生は一流や」
少し笑った。

でも、その経験は、私の英語観を大きく変えた。
難しい言葉を使えばいいわけではない。
知っていることを、相手に伝わるように表現する。
それが大切なのだ。

________________________________________
そんな私のところへ、優秀な生徒たちが来るようになった。
そして、ある生徒が言った。
「私の担任は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
胸に刺さった。

私は考えた。
「この子たちなら、私の言っていることを分かってくれる」
そう思い、私は彼らの英作文を添削するようになった。
すると、少しずつ結果が出始めた。
京大。
京大医学部。
阪大医学部。
名大医学部。
東京医科歯科大学。
三重大医学部。
生徒たちが次々に合格していった。

私は嬉しかった。
教える仕事をしていて、一番嬉しいのは、自分が褒められることではない。
生徒が、自分の力で壁を越えることだ。
「ああ、この子は行けたんや」
その瞬間を見ることが、何より嬉しかった。

________________________________________
しかし、人生は、そこで終わらなかった。
私は自分で塾を始めた。
最初は小さなアパートの一室だった。
二十代半ば。
仕事もない。
貯金もない。
実家に戻り、そこで塾を始めた。

「アメリカ帰りの先生がいるらしい」
口コミは、少しずつ広がった。
生徒が来る。
また来る。
三十人。
六十人。
百人。
部屋の壁が薄く、隣から苦情が来るほどになった。

私は思った。
「自分の城を建てよう」
そして、土地を見つけた。
二百坪。
銀行から提示された条件は、厳しかった。
親の土地と建物を担保にする。
親を連帯保証人にする。
二十年ローン。
総額、一億円。
月々五十万円。

父は反対した。
当然だった。
自分の息子が、一億円もの借金を背負おうとしている。
失敗すれば、自分の土地も建物も失う。
「そんな金、返せるわけないやろ!」
そう思うのが普通だった。

それでも、二十代の私は、
「俺ならできる」
と信じていた。
そして、ハンコを押した。
人生で一番重いハンコだった。
建物が建った。
もう後戻りはできなかった。

失敗すれば、自分だけでは済まない。
父も巻き込む。
家族も巻き込む。
それでも私は、前へ進んだ。

________________________________________
私は、自分の武器を作ろうと思った。
英語資格の最高峰、英検一級は合格した。
その後も、通訳ガイド、国連英検A級、ビジネス英検A級などに挑戦した。
資格のスペシャリストとして、参考書に名前が載るようにもなった。

昔、私の履歴書を無視した大手予備校からも声がかかるようになった。
昼は名古屋。
夜はいなべ。
仕事は増えた。
塾も大きくなった。
結婚した。
三人の娘にも恵まれた。
支部を出し、講師も雇った。
その頃の私は、
「俺の人生、もう完璧や」
と思っていた。

今思えば、ずいぶん思い上がっていた。
人生は、こちらが「完成した」と思った瞬間に、次の問題を出してくる。

________________________________________
塾を始めたことで、私は再び数学と出会うことになった。
最初は英語だけを教えるつもりだった。
ところが、生徒たちから、
「明日は理科やのに、英語の授業ですか?」
と言われる。
そこで、数学も教える。
理科も教える。
社会も教える。
国語も教える。

塾というのは、こちらの都合だけでは回らない。
生徒が必要としているものに応えなければならない。
そして、優秀な生徒たちが来るようになった。
高田。
東海。
灘。
ラ・サール。
難関高校の過去問にも取り組むようになった。
数学も避けてはいられなくなった。

ある日、そんな生徒から言われた。
「高校に入っても、先生に教えてもらえませんか?」
私は考えた。
中学数学なら教えられる。
難関高校の入試問題も解ける。
だったら、
「高校数学も、できるんじゃないか?」
そんな気持ちが、ほんの少し芽生えた。
でも、怖かった。

高校数学。
私が人生で一度、身体まで壊したものだ。
二十五年以上も前に、逃げたものだ。

________________________________________
私は近所の本屋へ行った。
高校数学の参考書・問題集の棚。
その中に、見覚えのある名前があった。
「オリジナル」
私は、その本を見つめた。
高校時代の記憶が、突然よみがえった。
あの二階の勉強部屋。
震える手足。
椅子からずり落ちた自分。
父の声。
病院。
あれから二十五年以上が過ぎている。
それでも、参考書を手に取る手は震えた。

「まだ、怖いんや」
自分でも少し笑った。
恐る恐るページを開いた。
そして、問題を見た。
解いてみた。
一問。
また一問。
不思議だった。
解ける。
もちろん、全部ではない。
でも、解ける。
「あれ?」
私は思った。

二十五年前の記憶が、意外なほど残っていた。
中学数学を長年教えてきたからなのか。
それとも、五十代になって少しだけ心が強くなったからなのか。
理由は分からない。
ただ、
「できる」
という感覚があった。

________________________________________
そこから私は、数学を勉強し始めた。
「オリジナル」を二周。
「一対一対応の演習」を二周。
「チェック&リピート」を二周。
「京大の数学」も二周。
そして、Z会の「京大即応」にも長年取り組んだ。
京大模試も受けた。
センター試験も受けた。
京大の二次試験も受けた。

気がつけば、何度も受験していた。
そして成績開示をすると、京大数学で七割ほど取れていた。
私は、数学講師として、少しずつ自信を持てるようになっていった。
でも、本当に変わったのは、点数ではなかった。

数学が怖くなくなった。
あの頃のトラウマが消えていた。
高校生の頃、数学の問題を見るだけで身体が拒否していた私が、
今では、
「まあ、たいていの問題は質問されても困らんやろう」
と思って授業に臨める。

質問に答える形式の授業だから、毎回が本番だ。
生徒が突然、
「先生、ここはどうしてこうなるんですか?」
と聞いてくる。
昔なら、逃げたかった。
今は違う。
一緒に考える。
式を書く。
説明する。

そして、生徒が、
「ああ、そういうことか!」
と顔を上げる。
その瞬間が嬉しい。

________________________________________
私は、数学を教えるようになって初めて分かった。
私は、数学の才能がある人間ではない。
若い頃から数学が得意だった人間でもない。
むしろ、人の何倍も苦労して数学を身につけた。
だからこそ、生徒がどこでつまずくのかが分かる。
「ここで分からなくなるんやな」
「ここは説明を飛ばしたらあかんな」
「この公式を覚えろと言われても、昔の自分なら納得できなかったな」
そういうことが分かる。

これは、数学の才能とは別の武器だった。
できなかったからこそ、分からない人の気持ちが分かる。
逃げたからこそ、戻ってくる方法を考えられる。
倒れたからこそ、無理をしてはいけないことも分かる。

そして私は、いつの間にか、
「文系」「理系」
という分類そのものにも疑問を持つようになった。
十九歳の時点で、
「あなたは文系です」
「あなたは理系です」
と決めてしまう。
でも、人間はそんなに簡単なものなのだろうか。

私は文系として大学へ進んだ。
けれど今では、数学の方が英語より面白いと思うことさえある。
学校で習わなかった数学Ⅲまで独学で勉強した。
人生は、本当に分からない。

________________________________________
振り返ってみると、私は高校生の頃、
「自分は数学ができない」
と決めつけていた。
それから三十年。
私はアメリカで生活した。
英語を教えた。
塾を作った。
一億円の借金を背負った。
家族を持った。
そして、数学を教えるようになった。
まさか自分が数学Ⅲまで勉強することになるとは、高校生の私には想像できなかった。

人生は、今見えている未来だけではない。
高校生の頃の私には、
「大学に入る」
ということしか見えていなかった。
二年後。
三年後。
せいぜい、そのくらいしか想像できなかった。
でも、その先には、アメリカがあった。
塾があった。
家族があった。
苦しい経営があった。
数学との再会があった。
そして、五十代になってからの受験が待っていた。

だから、今、受験勉強をしている高校生たちに、
「二年後、三年後のことだけで、自分の人生を決めつけなくてもいい」
と伝えたい。

今できないからといって、
一生できないわけではない。
今、苦しいからといって、
人生全部が苦しいわけでもない。
そして、
今の自分に見えていない未来が、
必ずどこかにある。

________________________________________
父は、私の進学に強い関心を持っていた。
若い頃の私は、それが鬱陶しかった。
でも、父が亡くなる前、自分が大学入試に落ちたことを話してくれた。
戦争で中国へ行ったことも話していた。
父は、大学へ行くことで戦争へ行くのを避けようとしたのだろうか。
今となっては分からない。

ただ、父自身にも、若い頃の人生があった。
父にも、夢があったのかもしれない。
挫折があったのかもしれない。
だからこそ、私の進学に強い関心を示したのかもしれない。
高校入試についてきたのも。
就職した私の勤務先まで、二時間以上かけて挨拶に来たのも。
「お前、大丈夫か」
と言いたかったのかもしれない。

私は、
「大丈夫やって」
と思っていた。
父は、
「本当に大丈夫か」
と思っていたのだろう。
その繰り返しだった。

________________________________________
今になって思う。
もっと優しくしておけばよかった。
もっと話を聞いておけばよかった。
父が何を心配していたのか。
何を恐れていたのか。
もっと聞けばよかった。
でも、もう遅い。

だから今、受験生の皆さんに伝えたい。
皆さんも、今の段階では想像もできないような経験を、これからすることになる。
私たちがインターネットの普及に驚いたように、時代も変わっていく。
仕事も変わる。
社会も変わる。
自分自身も変わる。

だから、今の自分だけを見て、
「自分はこういう人間だ」
と決めつけないでほしい。
数学が苦手だから理系には向かない。
英語が苦手だから大学には行けない。
模試の成績が悪いから、志望校は無理だ。
そんなふうに、今の一枚の答案だけで、自分の未来まで決めないでほしい。

私に言えることは、ありきたりなことしかない。
それでも、
目の前にある、今やるべきことに全力を尽くしてほしい。
それは、私自身にも言えることだ。

________________________________________
そして、もう一つ。
ご両親を大切にしてほしい。
うるさいと思うこともあるだろう。
放っておいてほしいと思うこともあるだろう。
「自分のことなんだから、自分で決める」
そう言いたくなることもある。
私も、そうだった。

父はウザかった。
本当に、ウザかった。
でも、今なら分かる。
その「ウザさ」の向こう側に、
「お前、大丈夫か」
という気持ちがあった。

私は前を向いて歩いていた。
自分の人生だから、自分で歩いているつもりだった。
でも、振り返ってみると、
父はいつも、
ほんの少し後ろを歩いていた。
私が転んだら、助けられる距離。
私が迷ったら、声をかけられる距離。

でも、私が自分で歩いていると思えるように、
少しだけ離れて。
あの頃の私は、それに気づかなかった。
今なら、少し分かる。
父は、私の人生を歩いてくれたのではない。
私が自分の人生を歩けるように、
後ろから見ていてくれたのだ。

そして私は今、
あの日、数学の前で倒れた少年だった自分に、
静かに声をかけたいと思う。
大丈夫。
人生は、まだ終わっていない。
君が今見えている未来だけが、
君の人生の全部ではない。
逃げてもいい。
立ち止まってもいい。
失敗してもいい。
でも、いつかまた、
もう一度、
その扉を開ければいい。

二十五年後に開けた数学の参考書のように。
人生には、
何度でも開け直せる扉がある。
そして、その扉の向こうには、
自分でもまだ知らない、
新しい夜明けが待っている。

シン『どん底先生』第一章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

シン『どん底先生』第一章(全十二章)(汲み取り式からAIアプリまで)

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-08-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted