真夏の散歩

 けたたましい世界で色々とごたごたやっていて疲れてしまった。散歩に出て、周囲の世界を見渡してみると、自分が子供だったころから、さして変わらないように思われるのだが、人の社会の方はどうしようもなく変わっていっているようである。絶え間のないおしゃべり、お互いに内面をさらしあい過剰に褒め合い、そして過剰に罵り合う。どこでも過剰表現、適切な表現、的確な言い回し、目を引く画像、突発的なやり方、いきなり懐に飛び込もうとする手法、そういうものに囚われ、締め付けられ、頭の中がむやみに忙しくなっている。目の前の人と交流しているときも、相手に対してはそれほど注意をはらうことも、自身の感受性や感覚を差し向けることも、あまりなくなった。実世界ではうわの空で人と交流して、そうしてあっちの方では思い放題ぶちまける。手あたり次第書きまくって読みまくる。目も当てられない村社会が形成され、語彙も修辞も貧困になっていく。現代人は皆アフォリズム症候群に陥っていた。人生の真理を短い言葉で一気に鋭く表現されると、心が動かされてしまう。指先でスクロールしていて突然現れたものに、目を止めるようになる。反射的、刹那的になるように、神経も心理も組み変えられているかもしれなかった。もはや目の前の相手はどうでもいいらしかった。小説のあり方が大きく変わっているらしかったが、どう変わっているのか誰もよくわかっていないようである。個人の内面はかつてないほど、にぎやかになっているようであった。満員の通勤電車内は沈黙の空間であったが、あれだけさわがしい空間は他にないのかもしれない。内的思考がかつてないほど活発に働き、自分の好きな対象に向って注意力が放たれていた。内的世界と外的世界の、かつてない不均衡が起こっているのかもしれなかった。しかし、このように考えるのは自分だけかもしれないという疑いもある。要するに、そのような状態に陥っているのは自分だけであり、自分以外の人たちは、今のような社会にも十分に適応しており、健全な精神を維持しているという考え方もあるのだ。

 誰に向けて書くのでもない。自分が落ち着くために書きたいのではないか。心を落ち着けて静かに書きたいと思った。暗い情念はあそこへ置いておこうと思った。自分が生きてきた過去をもう少し許容したかったのだ。それにしても暑い。ここまで暑くなってくると、散歩中の内省も中断されてしまう。並木道を遅い速度で歩いているのだが、双方から騒音が聞こえてくる。何もしたくないなあ。啓介は心の中でつぶやく。前にいた会社では、居場所がなくなり、結局任期満了になって追い出されてしまった。別段、気まずい終わり方でもなかった。お互いしかたがないよねという感じで、わりと平穏に退くことができたのだった。不満を抱きあいながらも、それぞれの立場を一応尊重した形でわかれることができたように感じた。二度と顔を合わせたくはないけれど。もうしんどい。

 細々としたことに思考を費やすことに疲弊している。あらゆる経験は、切り刻まれた欠片であり、それらに意味を付随しようとする気力ももはやなく、様々な物事が消化不良の状態で宙に浮いている。断片化を余儀なくされる現代社会の病理を心に刻みながら、せめて散歩中は穏やかでありたいと思いつつ、汗を流している。暑くてよかったのかもしれない。思考が中断されるので、いやでも外側の方に意識が向く。桜の木は緑の葉を存分に備えながら、微動だにしない。東南アジアの成年たちが、自転車に乗って後ろから通り過ぎていく。

 書くということは、思い出すことなのかもしれない。身体に刻まれた記憶を掘り起こして、自分の中で感覚を再現してみようとしているのかもしれない。それは疑似的な感覚にすぎない。再構成され言葉によって表現される、極めて怪しい不完全なものにすぎない。それでも、記憶に頼って当時の経験を書こうとする行為には、なんらかの価値を認めようと自分はしているようだ。同じようなことばかり書いている。そうして、同じような散歩ばかりしている。同じコースをいつも歩いて、知らない間に家へ帰って終わっている。歩いている間は、ほとんど何も覚えていないようだ。周囲の世界を見ているようで、何も見ていないようだ。まあみんなそんなものかもしれない。あまり注意せずに、ぼーっと見ているだけで、頭の中を忙しくしているうちに人生は終わってしまう。あまり理屈の方に逃げたくない。できるだけ素直に書きたいが、それができない。いつごろからか感受性を働かせることをしなくなった。自分の中で閉じるようになった。その方が社会で生きていくには賢いのかもしれない。自己の精神を守るのにもいいのかもしれない。

 春先の散歩に比べると、それほど思考が続かない。これだけ暑さに邪魔されると、考えるのもいやになる。周囲に雑草があまりない。つい最近処分したばかりなのだろう。どこも刈り込まれた状態になってしまい、草花を見る楽しみがなくなってしまった。草刈りの仕事は一度やってみたいと思ったりもするが、結構大変なのだろうな。穏やかに書きたい。今の時代は、誰もが締め付けられた状態で思考しているように思う。締結された思考がお互いに共鳴し合い、思考の自由がきかなくなっていく。社会は一見自由になっていくようだが、どの人も思考の経路は似通ったものになっている感じを受けた。文章はどんどん読みやすくなっている。心の中にあるものを拾うという思考法が軽んじられているように思えた。歩いていると、右側に雑木林が現れた。少しだけ鬱蒼としている。雑木林の向こう側には、溜め池がある。住宅街のどこにでもありそうな、汚い感じの池だ。ここからは少し見える程度のもので、木々の枝の間から垣間見えている。それにしても結構しんどいな。家で動画でも見ていた方がよかっただろうか。

 気がつけば駅前あたりまで来てしまった。ベンチがあるので、座ってみよう。もっと心を落ち着けた状態で書きたい。流れるような文章を書きたい。考えなくても読めるような文章を書きたい。読んでいる人の中にすうっと入りこめるような文章がずっと理想なのだ。哲学系の硬い文章なんて自分はあまり好きじゃない。ああいう文章と向き合うのは労力がいる。こうして今座っている状態で、木を眺めながらゆったりとした心境と地続きの文章を書いてみたい。意識的にこしらえた文章ではだめなのだが、ただ無意識に任せた怠惰な文章を書けばいいというわけでもない。もういい、考えるのはやめよう。もっと今の状況を感受しよう。自意識に囚われてはいけない。

真夏の散歩

真夏の散歩

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-08-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted