苦しみ

 苦しんでいる状態はつらい。苦しみの中でもがくだけで先が見えないのはつらい。だが、苦しみの渦中にいることと、表現することは別の話だ。苦しんだ分だけいい表現が生み出せるわけではない。苦しんでいる自分を客観視しなければいけない。苦しみながら、日常を生きないといけない。苦しんでいる自分を投げ出す過程が必要になる。表現という行為は、分裂を伴うものなのかもしれない。

 思えばずっと受動的に生きてきた。自分の意志などやはりない。自分の軸など、どこにもない。それなりに不自由なく、そこそこがんばって生きてきたと言ってもいいのかもしれない。三十代後半くらいまではそんな感じだろう。その後、まあおかしくなっていったのだけれど、ここではその話はよそう。

 自分の人生は、それほど悪くなかったのではないか、とまあ自分に言い聞かせることはできる。不満があるなんて贅沢なのではないかと考えるのは、それなりに正しいのだろう。でも、やはり自分の人生は何もなかったのだと思う。周囲に合わせようとして必死だった。そういう受動的にしか生きられない人間が、社会に過剰適応して生きてきた。底の方から、いくらでも怒りの感情が湧いてきてしまう。どうもこの怒りみたいなものが自分を奮い立たせてきたのかもしれない。思えば、いつでも負けてたまるかと思いながら生きてきた。何に負けてはいけないのか、自分でも釈然としない。そんなにおかしな家庭環境で生きたわけでもないのに、いつも気張っていた。これは今も治らない。誰にも心を開いたことがないし、誰にも心を許したこともない。いや、自分に対してもそうなのかもしれない。自分の中に黒い感情が渦巻いているのがわかる。

 苦しみを表現するためには、苦しんでいる自分をどこかで笑い飛ばす必要があると思う。苦しみに同化したままでは表現は生まれてこないと思う。表現する術を持たなくて、苦しみの渦中にとどまり続けるしかない人は不幸だと思う。表現できずにただ苦しんでいる人と、苦しみを表現しようとしている人、どちらの方が本当に苦しいのかはわからない。表現という行為は、どこか道化を含んだものになってしまうのだろうか。それではいけないのだろうか。あからさまに道化をみせびらかすのも芸がないのかもしれない。しかし、そこまで求めるのは酷なことだとも言える。

 人に優しくしたことがないのだろう。一応これでも学生として社会人としてそれなりに生きてきたので、表面上の優しさを繕ってはきた。だが、本当に人のためを思った行為が今までにあったかと言われると、心もとない。こんなことを書いている場合ではない。就活をしないといけない。しかし気が乗らない。黒い感情がまた渦巻く。

自分の人生を長い目で見ると、やはり欲望を成就したい自己と、それを抑えようとする自己が争っているだけなのだ。自分の場合、その争いが人よりも激しかったようであり、自己の中だけで矛盾がおさまらず、その矛盾を浄化するために文学を読んだところはあるのだろう。欲望を叶えるか、それとも欲望を抑えて社会とうまくやっていくか、ずっとその間で緊張していた。自分の場合は、それだけだ。そうして、どうもそのような緊張状態は明治時代から始まったようなのだ。自分は、明治以前の本を読もうとはあまり思わなかったから。近代とともに、人は自己の可能性を追い求めていいことになった。自己の欲望を成就させることを望んでもいいことになった。目の前には新大陸が、宇宙が開けていった。世界観が広がるごとに、足場が不安定になり、心の底の暗い感情が開かれるようなところがあった。次から次に新しいことがわかり、困難は達成されていった。それでも自己の欲望とどう向かい合うかという問題は残り続けた。

 超人になる?教授崩れの引きこもりの頭のおかしいおっさんに説教されたくない。だったら失格になる?いやいや心中する勇気なんて私にはありません。そもそもそんな相手も私は見つけられません。漱石が行人で言っていたのはなんだっけ。気が狂うか、自殺するか、宗教に入るかだったか。もう宗教しか残されていないですね。しかしだね、今の時代は、どこぞの新興宗教の街頭演説を聞いていても、宇宙のビッグバンがどうのとかそういう話を始める。情けないことに科学に頼るしかないのだ。疲れた。明日はちゃんと説明会行けますように。

苦しみ

苦しみ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-08-03

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