294 この身も音も命さえ
序文 音についての省察
音とは身近に存在するが、その実はとても不思議だ。空気の振動が耳の中の外耳・中耳・内耳を通って電気信号に変換され、脳に届くから音が聞こえている訳である。だが、脳に立ち現れてくる瞬間瞬間の音律の響きは、言わば小さな非記号的継続体験とも呼べるだろう。
刹那の音響はまた、記憶と深く結びついて私たちの生活に彩りを与えてくれる。通学で聴くJPOP、勉強中に聴くクラシック、車を運転している時に流す洋ロック。音楽がなければ生活はどこか味気ないものとなろう。
また、雨音や川のせせらぎなどの自然音、蝉や蜩などの虫の声、烏や雀などの鳴き声、エレベーターや踏切などの機械音、心音や拍手などの人間の生み出す音、ピアノやギターなどの楽器の音。この世界は賑やかな音達で満ち満ちている。
だが、もしある日突然この世界から音がなくなったらどうだろうか。もしくは生まれつき音のない世界だったとしたら、私たちはその世界で一体何を聞くのだろうか。何を奏でるのだろうか。
音の肖像画
女性の方が色彩をより鮮烈に知覚出来るという。些末な色の違いからグラデーションまで。なのに有名な画家は何故か男性が多い。私の好きなゴッホやクリムト、ボスにダ・ヴィンチ。例を挙げたらキリがない。
それは昔における女性の在り方にもよるのかもしれない。女性は子どもを産み、育てる。一方、男性は仕事をする。画家という仕事を出来たのも男性だけなのだ。それ故、高名な女性画家というのは珍しいものだ。だけど、私は本気で画家を目指している。
先天性の難聴がある私は、幸か不幸か、音を色として認識できる。これが普通ではないことに気づいたのは小学校に入った頃、図工の授業でのことだった。
帰りのホームルームの後、先生に『早乙女さん。職員室についてきて』とある日連行された。私は何か不味いことをしてしまったのではないかと不安になった。恐る恐る先生についていき職員室に向かう。その足取りは重く、職員室などまだ小一の私は来たこともなかったから緊張したのを覚えている。
職員室の扉が空いて、私は先生の後を追う。背中に汗がにじむ。すると、優しい微笑みで担任の先生が椅子を用意してくれた。積み重なった書類やたくさんの付箋の貼られたカレンダーに私が目を向けていると、先生が一枚の絵を見せてきた。私がこの前の図画工作の授業で描いた絵だった。先生はノートに文字を書く。
『この絵はどうやって描いたの?』
そのノートに返事を書く。
『見たままを描きました』
『この空にあるのは?』
『分かりません。見たままを描いてます』
『この絵柄は?』
『同じくです』
その時は知らなかったが、今になって思う。当時、私は幻覚を疑われていたのだ。それは私の患う先天性の病気と関連していたのだと思う。先生はそれが不安になったのだろう。
夏休み前に三者面談が開かれ、その結果、私は小一の夏休みの間、病院に入院することになった。神奈川の真ん中らへんにある大きな病院だった。そのこども医療センターは家から2時間もかかる場所にあって、電車とバスで乗り継ぐ。
私は子どもながら家族とはもう会えないのではないかと不安だった。死んでしまうのでないかと怖かった。だけど、病院での暮らしは案外悪くはなかった。医師も看護師も優しく、ストレスから開放された施設だった。私は好きな絵をたくさん描いた。
夏休み、私はそこで一人の友達が出来た。守谷悟くんという。彼は同い年。彼は生まれつきの心臓病で、夏休みだけの入院の私とは違く、ずっと入院しているらしい。彼の病は私のものと比べても、だいぶ重かった。
『この本面白い。良かったらどうぞ』
と付箋のついた本を悟くんは渡してくれた。この病院にある本だった。読書は好きだった。音が聞こえなくても楽しむことのできる数少ない娯楽であったから。
悟くんは病棟を許可なく出ることはない。たまにご両親が来る時だけ、車椅子で中庭に出ることができた。私は当時、病室の窓から悟くんがお母さんやお父さんと笑いながら話しているのを見て、少し複雑な気持ちを抱いた。きっとそれは恋の病から来るものだろうと今になって思う。
その夏も暑くて、年々暑さは増していた。私は夏休みが終わる1週間ほど前に退院した。その際、悟くんの電話番号を教えてもらった。
『スマホ欲しいです。悟くんと連絡したいから』
とお父さんに告げると『いいよ。買ってあげる』とスマホを貰うことができた。スマホがあれば、メモ機能がある。メモ帳と筆記用具を常に持ち歩かなくても意思疎通できるようになる。私は喜んだ。だけど、人生はジェットコースターのようなもの。禍福は糾える縄の如しとも言うように、そうそう全てが上手くいくことはない。
悟くんの病態が悪化した。私はSNSで悟くんと連絡を取っているが、家族以外の面会は難しいらしい。
『ねぇ、美由希。明日から1週間だけ外泊するんだ。だから、よかったら僕の家に来てよ』
『行く! でも、大丈夫なの?』
『うん。だから、来てよ』
私たちの運命が大きく動き出す。その時の私は知らなかった。てっきり病態が良くなったんだと安堵していたから……。
彼は部屋で寝たきりだった。彼の両親はどこか穏やかな顔をしていた。私と悟の二人にしてくれる。すると、悟は本を1冊くれた。いや、本じゃない。これは大きいサイズのメモ帳だった。そこには一篇の詩が書いてあった。
題『僕の初めていない朝』
『この世界では全ての人が恵まれて生まれる訳じゃない。けれど、全ての人生に意味があると思うから、僕はここに書き記す。僕の初めていない朝に涙は流れてくれるだろうか。僕の初めていない朝に雨は降ってくれるだろうか。僕の初めていない朝にそれでも光はあるだろうか。僕の初めていない朝に世界は愛で満ちるだろうか。僕には時間が無いみたいだ。だから最後にわがままを聞いて。僕がみんなに伝えたかったのは、真理探求とか生まれた意味とか、そんなんじゃない。きっと愛を語りたかったんだ。世界の真ん中で、愛を紡ぎたかったんだ。だけど、もうじき終わるから。僕の初めていない朝に世界は平和であって欲しい。僕の初めていない朝に世界は快晴であって欲しい。今はただ、そう思う』
その詩を読んだ私は彼の死期を悟った。その3日後、彼は亡くなった。私は何も出来なかった。ただ、子どもながら、抵抗できない死を、抗えない運命を前にして無力だった。
これは当時、小学一年生だった私のひと夏のできごと。大学生になった今でも忘れられない。だから、たまにその時のことを夢に見るのだ。
ここは直方体の巨大建造物の、その中腹が抉られた間隙に出来た室。主のいない部屋。そこに彼がいた。少年の日のままの彼が。
「悟なの!? 生きてる……。えっ、なんで……」
私は戸惑う。何故死んだ悟が目の前にいるのか。そもそもここはどこなのか。
私が目を両手で拭うと、悟は告げる。
「美由希、ここより先は彼岸だよ。来ちゃいけない」
悟は優しい微笑みで応える。
「でも、貴方に会いたくて。私、ずっと絵を描いてきた。貴方と会う方法を探すため、ずっと。貴方と一緒になれるなら、死んでもいいわ!」
「そんなこと言わないで。僕は君に人生を謳歌して欲しい。幸せになって欲しい。だから前を向いて」
「悟のいない世界じゃつまらないよ……」
「じゃあこの邂逅を忘れないで。記憶が生命幸福の鍵だよ。美由希が覚えてくれる限り僕は死なないさ。その代わり神様にお願いして聞こえるようにしてもらったから。だから――」
「行ってらっしゃい」
その声を聞いて眠りから目が覚める。夢の中で初めて私は音を聞いた気がした。涙が頬を伝う。涙の温もりが妙にリアルだ。目覚めると朝日が差し込んでいて、いつもの私の部屋だった。
なんで、こんな夢を見たんだろう。いや、必然か。だって今日は彼の命日だから。あれ、なんかおかしいな。変な感じがする。これって……。
音が……見えない。いや、聞こえる?
それは言葉では表現できない体験だった。だって、音が聞こえるんだもの。窓の外から変な高い声がする。きっと鳥の鳴き声だ。歩くとミシミシと床が軋む音がする。えっ、すごい。音が聞こえるってこんな感じなんだ!
私は鍵もかけ忘れて一人暮らしのアパートを出る。外は音で満ちていた。車の音、風の音、そして何より自分の足音。これは悟の贈り物なのか。だとしたら……
「ありがとう」
私は部屋に戻る。絵の課題がまだ途中だった。私にしか出来ないこと。それが絵だった。音を視覚化できる能力。だが、それがもう消えていた。音の視覚化で描いた絵は昨年、新人賞をとった。世間には期待の新人と評価された。だけど、私は平凡でもいい、音を聞いてみたかった。
それが叶ったんだ。
二人に神の祝福を。
294 この身も音も命さえ